偉人金日成主席
4.不世出の総帥
1)チュチェの軍事思想の創始者

独創的に創始したチュチェの軍事思想

 金日成主席のチュチェの軍事思想は、新たな歴史的時代である自主時代に朝鮮革命の実践のなかで創始された全く新しい軍事思想である。
 金正日総書記は、次のように述べている。
 「金日成同志は、わが革命武力の創建者であり、帝国主義強敵との二度の革命戦争を輝かしい勝利に導いた百戦百勝の鋼鉄の総帥であり、主体的な軍事思想と戦略戦術、戦法を創造した軍事の英才です」
 主席は、軍建設と軍事活動の実践的要求から出発して思想理論活動を繰り広げ、自主時代が提起する理論的・実践的問題に解答を与える過程を通じて、チュチェの軍事思想を創始し、発展豊富化してきた。
 主席は10代後半の時期から、数十星霜の困難な革命闘争の過程に現代戦争史の奇跡として呼ばれる大きな軍事的勝利をおさめ、その豊富な実践的経験にもとづいて科学的かつ革命的なチュチェの軍事思想と理論を創始し、深化発展させた。
 主席の天才的な軍事思想理論家としての名声は、20世紀の30年代から世界に広く知られており、百戦百勝の鋼鉄の総帥としてのその絶対的権威は、世人ばかりでない敵対勢力も公式に認めた。
 1990年代の中葉、アメリカの軍部、国務省、政界、学界は、ある契機の会合で、主席を「現代政治史の出色の偉人」「特出した軍事大家」として評した。
 主席は、帝国主義強敵と立ち向かって革命戦争を繰り広げながらも、帝国主義者とはいかなる場合にも絶対に妥協してはならないし、ひたすら軍事的力で対抗しなければならないということを鉄の真理として銘記し、チュチェの軍事思想にそのまま反映した。
 主席は、非凡な英知で銃剣をもって襲いかかる敵とは銃剣でもって立ち向かわなければならないという、革命の真理を再度確証し、抗日武装闘争路線を示し、銃剣で強大な日本帝国主義を打ち破り、祖国解放の歴史的偉業をなし遂げた。
 主席が解放直後、あれほど困難で複雑な情勢のなかで国の防衛力を強化するうえで第一義的な力を入れたのも、経済建設と国防建設を並進させるという革命的方針を示し、強力な自衛的国防力を打ち固め、革命の貴い遺産として譲り渡したのも帝国主義強敵とは必ず力によって立ち向かわなければならないし、銃剣のみが帝国主義の侵略と挑戦を粉砕し、国と民族の尊厳と自主権を固守することができるという真理を確信したからである。
 主席が武装した全人民の団結した力によって侵略者を打ち破らなければならないという、深奥な真理を解明したのも帝国主義強敵との対決戦であった。
 主席は抗日大戦を宣布しながら、遊撃戦は本質において人民戦争という独創的な軍事思想を打ち出し、それを抗日武装闘争の全行程に立派に具現した。
 主席は、戦後の厳しい情勢のなかでも人民軍を強化する活動とともに全人民を国防の主人としておし立て、彼らの高い自発性にもとづいて全民武装化、全国要塞化を徹底して実現する活動に大きな力を入れ、敵の侵略と挑戦から国の自主権と社会主義の獲得物を誇らしく守り抜いた。
 帝国主義侵略軍隊の数的、技術的優性を革命軍隊の政治的、思想的に、戦略的、戦術的な優性によって打ち破らなければならないという深奥な真理も、主席が帝国主義強敵と繰り広げる革命戦争の実践のなかで求め、定立したことである。
 主席は、朝鮮人民革命軍の精神力と戦略戦術の優越性にもとづいて、日本帝国主義侵略軍との戦いで常に主導権を掌握し、敵の大規模な「討伐」攻勢を断固粉砕した。
 革命軍隊の精神力と戦略戦術を勝利の重要な要因としておし立てた主席は、祖国解放戦争期にも奇妙な戦略戦術と戦法を巧みに活用するとともに人民軍軍人の間で政治活動、対人活動を決定的に強化するようにした。
 主席は帝国主義強敵との革命戦争時のみならず、社会主義祖国守護のための帝国主義との軍事的対決を勝利へと導きながらチュチェの軍事思想を絶えず発展豊富化した。
 主席は帝国主義との対決のなかで、帝国主義の軍事的侵略脅威が続いている条件で、いつでも戦争に対処できる準備を着実におこない、敵のさ細な侵略戦争挑発策動にもせん滅的な打撃を加えるという革命的な思想もチュチェの軍事思想と理論の重要な内容の一つとして定立した。
 主席は高句麗が1000年のもの間、東方で強大国として名を馳せた要因は、まさに軍事を重視する尚武の気風を確立したことにあると教え、軍事を重視し、全人民が軍事を習うことについて機会があるたびに強調した。
 主席が示した戦争に対処する準備を着実におこなうという軍事思想を指針にしたがゆえに、朝鮮の人民軍将兵と人民は政治的・思想的準備に第一義的な力を入れながら、全民武装化と全国要塞化を実現し、戦時生産と輸送準備を十分に整えたし、常に緊張し動員された態勢を堅持することにより、いかなる侵略者もあえて手出しができないようにした。
 主席は主体的な観点と立場で世界の戦争史を新たに分析、総括し、それにもとづいて独創的なチュチェの軍事思想を創始した英才である。
 これまでの戦争史を通じて出た軍事思想理論を見ると、それは例外なく武器を基本にして展開された軍事思想理論であった。
 かつて、絶対多数の軍事思想家や軍司令官は、武装力の構成と戦争で重要な役割を果たす人間と武器のなかで武装装備を絶対化する「武器万能論」「武器中心論」に執着されていた。
 主席は、すべての従来の軍事思想理論の制約性を科学的に解明したうえで、歴史上はじめて戦争をはじめとした、すべての軍事問題を、人間、軍人大衆を基本にして見る独創的なチュチェの軍事思想を打ち出した。
 主席は、これとともに自主的立場と創造的方法論にもとづいて従来の軍事理論を新たに分析総括し、それにもとづいてチュチェの軍事学説を創始した。
 主席は、いかなる軍事思想的・理論的問題を考察しながら教条主義を断固排撃し、常に自主的に、独創的に思索し探求する軍事思想理論家の鑑であった。
 主席が打ち出した植民地民族解放闘争における遊撃戦に関する思想理論だけを見ても、これには自主的立場と創造的立場を徹底して具現していく主席の並外れた思索と探求の世界がそのまま込められている。
 去る世紀の前半期だけでも、人々は遊撃戦を正規戦の補助的な闘争形態にのみ見てきた。
 しかし、主席は、植民地諸国における武装闘争の基本形式の問題について思索と探求を重ねながら既存の慣例にこだわりなく、正規戦ではなく、遊撃戦を植民地民族解放闘争の基本形式として規定した。
 主席が正規武力建設と関連して打ち出した現代的な軍種・兵種建設に関する理論は、チュチェの軍事思想で重要な地位を占める。ここにも人民軍の武装装備を朝鮮の地形条件と軍人の体質と機能的な特性に即して朝鮮式に発展させるという主席の主体的な観点と創造的な思索が歴々と込められている。
 主席は各国における戦争経験を研究・分析しながら、革命軍隊に党組織を結成し、その役割を高める問題がもつ意義を示した。
 主席は、軍事と政治を完全無欠に結びつけ、軍事行政活動に対する党の政治的指導が確固と保障されるように革命的軍指揮体系を確立する道を示すことにより、朝鮮人民軍をどの国の軍隊ももてなかった強力な党組織、政治組織をもった政治的軍隊として強化発展させた。
 主席は、朝鮮と世界各国における戦争経験と教訓を総括し、それにもとづいてチュチェの戦争理論も新たに集大成した。
 抗日遊撃隊は、歴史に類を見ない最も厳しくて困難な条件で政治的・思想的、戦略的・戦術的優勢によって数的、技術的に優勢な100万の日本帝国主義の関東軍と対抗して戦い、祖国の解放をなし遂げた。
 主席は、こうした経験と教訓から戦争勝利の決定的要因の一つが政治的・思想的、戦略的・戦術的優勢をいかに保障するかにかかっていることを示し、それを戦争勝利の恒久的要因の一つとして明白に定立した。
 主席は、狡猾で貪欲的な帝国主義者の侵略戦争を通じてその本質と手法を究明し、チュチェの戦争論をさらに豊富にした。
 主席はかつて、朝鮮とその周辺で展開されたさまざまな戦争と事件を分析したうえで、小さくて弱い国には手当たり次第に襲いかかり、大国にはおずおずと探りを入れてから襲いかかるのが資本主義、帝国主義侵略者の本性であり、常套的な侵略手法であるということ、したがって、帝国主義者の策動に常に警戒心を高め、戦争に主動的に対処し、侵略者と断固闘わなければならないと示した。
 主席は、主体的軍事戦法もさらに発展豊富化した。
 人類の戦争史は、すなわち、軍事戦法の発展歴史である。人間の創造的知恵の産物である軍事戦法は、主に戦争を通じて発展し、作戦と戦闘の勝敗も主に戦法の科学性と巧みさのいかんによって左右されてきた。
 主席はチュチェ40 (1951)年1月のある日、人民軍の指揮メンバーに、もちろん、我々は他国の経験に学ばなければならないが、それをそのまま適用するのではなく、わが国の具体的実情に即して適用することについて比喩的に説明した。
 主席は食事の時、ある国の人たちはフォークとナイフでたべ、またある国の人たちは長い箸で食べる、我々はご飯を食べ、汁をすするのでナイフやフォークで食べると、口を傷つき易く、食べにくい、だから我々はさじと箸で食べるのが一番いいと述べながら、戦争をやるのも同じである、だから戦闘も必ず我々の方式でおこなわなければならないと強調した。
 主席はその後、朝鮮の実情に即した積極的な陣地防御戦を展開するという新たな軍事的・戦略的方針を示し、全軍的に「私の高地」運動を力強く展開するようにした。
 このように、主席が打ち出した軍建設と軍事活動に関する独創的なすべての思想と理論は、世界各国における戦争経験と教訓を全面的に分析、総括し、それにもとづいて独創的に示されたことにより、自主時代の最高峰の軍事思想として輝いている。


現代の軍事問題に対する完璧な解答

 金日成主席は、主体的な軍事原理と原則、軍事理論、主体的戦法に構成されたチュチェの軍事思想を打ち出すことにより、時代が提起するすべての軍事的、理論的、実践的問題に完璧な解答を与えた。
 主席が示したチュチェの軍事思想の出発的原理は、一言で言って、軍建設と軍事活動で人間、軍人大衆が基本であるということである。言いかえれば、軍建設と軍事活動の主人は、人間、軍人大衆であり、軍事問題の解決において決定的役割を果たすのも、人間、軍人大衆であるということである。
 チュチェの軍事思想の原理から武装力の最も重要な要素も、人間、軍人大衆であるという新たな見解と観点が確立するようになった。
 主席は、武器やいかなる物質的・技術的手段よりも人間、人民大衆の尽きない力を先に見通して日本帝国主義との戦いを開始し、日本の強大な軍事力を打ち破り、祖国解放の歴史的偉業をなし遂げた。その時、朝鮮人民革命軍は、日本帝国主義の軍事力に比べられなかったが、国を独立するという固い信念をもって一人のように立ち上がった2千万民衆の力によって日本帝国主義との抗日戦争で勝利をおさめ、祖国を解放することができた。
 主席が、解放後、新しい祖国建設でなすべきことは多かったが、平壌学院から先に建て、革命武力の中核を育成したことも、そして、人民軍で思想、技術、文化の3大革命を力強く繰り広げるという方針を示しながら、思想革命の遂行に中心を置いたのも、武装力の建設において人間、軍人大衆を基本としてみなす新たな見解と観点から出発したことであった。
 主席が1960年代に示した人民軍を「一当百」の戦闘隊伍として育成するという思想も、やはり人間、軍人大衆を武装力の最も基本的な要素とみなす見解と観点にもとづいていた。
 主席が示したチュチェの軍事思想の原則は、人間の本性を科学的に反映した自衛の原則である。
 国防における自衛の原則に関する思想は、いかなる古典や軍事大国と自称する国でも打ち出せなかった新たな国防力建設の原則である。
 主席は、自分を擁護し防衛しようとする人間の自主的本性を哲学的に解明し、それから出発して自衛の原則に関する軍事思想を打ち出すことにより、科学的で革命的な国防建設の指導的指針をもたらした。
 自主独立国家となるためには、思想における主体、政治における自主、経済における自立の原則を堅持するだけでなく、自衛の原則に立って自体で自分を守り抜ける強力な国防力をもたなければならない。
 主席は、国防における自衛が自力更生の革命的原則にもとづいて自力で国防を建設していく軍事思想であることを示した。
 国と民族の自主権を擁護し防衛するための国防建設は、決して、他人に依存する性格のことではない。もちろん、外部から効果的な援助を受けることもできる。しかし、外部からの援助がいくら大きく重要であるとしても、各国の主体的な力にかわることができない。中立国家の場合にも自力、自衛的国防力があってこそ、国の自主権を守ることができることを過去の実例がよく示している。
 一般的に軍事思想の原理と原則が、人々に軍事問題に対する見解と観点、立場と態度を明示するならば、軍事理論はそれにもとづいて武力建設と戦争遂行、用兵術の活用など、軍建設と軍事活動と関連した路線と戦略戦術的問題を示す。
 主席は、戦争に関する従来のすべての理論を分析、総括し、主体的観点と立場で現代の戦争の実際的本質と根源、性格、その主な勢力について全面的に解明を与えた。
 主席は、戦争は本質においていかなる階級や国家が特別な暴力手段によって実行する政策の延長であるといい、その性格を判別する基準について、戦争には正義の戦争と不正義の戦争、先進階級の戦争と反動階級の戦争、階級的、民族的抑圧から解放をもたらすための戦争と、この抑圧を強化するための戦争があると示した。
 主席は、侵略と略奪は帝国主義の本性であり、侵略戦争はその本性から生じる帝国主義の生存方式であることを示した。
 帝国主義の戦争商人も認めているように、帝国主義は戦争の恒常的な根源であり、帝国主義は戦争を離れて一時も生きられない。帝国主義は、その本性において侵略的で、独占資本が国内で膨張すれば、海外侵略の道に進むのは動かしがたい法則である。
 主席は、人民大衆の自主性を実現するための革命戦争の本質と特性、根源についても新たに示した。
 革命戦争は、本質において勤労人民大衆の自主性を実現するための組織的な武装闘争である。革命戦争の特性は、それが最も困難で熾烈な全人民的戦争であるところにある。革命戦争の根源は、他国と他民族の自主性を蹂躙し、他人を支配しようとする帝国主義者と搾取階級の反動的な思想と政策にあり、その直接の要因は人民大衆の高い自主意識と政治的準備にある。
 主席は戦争勝利の要因についても示した。
 従来の理論では、戦争勝利の要因を恒久的要因と一時的要因に区分し、後方の強固さのような恒久的要因を決定的要因とみなした。
 しかし、国家的後方をもてなかった植民地条件で朝鮮人民が繰り広げた抗日革命戦争をはじめとした世界各国における革命戦争の実践は決して、戦争勝利の要因が後方の強固さのような恒久的要因によるだけではないことを示している。
 主席は、チュチェ思想の原理から現代の革命戦争は、主体的な要因によってのみ決定的に勝利することができるという真理を新たに示した。
 主席は、チュチェ思想の要求に即して物質的・経済的要因にかたよる戦争理論とは裏腹に、人間、人民大衆の自主的要求と利益から戦争に反対する新たな観点と立場を示した。
 主席が示した革命的な戦争観点は、戦争を恐れず、敵とは必ず一度は戦わなければならず、革命戦争、正義の戦争を積極的に支持すべきであるという観点である。
 この観点には、人民大衆が帝国主義者の侵略戦争には革命戦争で立ち向かうべきであり、敵を徹底的に撃滅、掃討し、自己の自主性を実現すべきであるという徹底した反帝・自主的立場、階級的立場が具現されている。
 主席は、人間の役割を基本にした軍事理論を示しながら、主体的立場で強力な自衛的国防力を建設するという理論を示した軍事理論家である。
 他のすべての活動と同様に、各国と各民族の国防力の建設で何よりも重要なのは、国防建設に対する立場と態度を正しくもつことである。
 国防力は、あくまでも自力で建設すべきであって、他人が建設した国防力の命脈は人の手に握られるようになり、そうした国防力は自国と自国人民の真の自衛力となれない。
 主席は、1945年8月20日に発表した古典的著作「解放された祖国での党、国家おとび武力建設について」を始めとした多くの著作のなかで、自力で現代的な正規武力を建設するという問題と先行した革命段階でもたらされた自己の武力建設の中核と伝統にもとづいて、みずからの革命武装力を建設するという思想を示した。
 主席は人民大衆の力が大きくて限りないということを誰よりも深く体得していたがゆえに、自衛的武装力を建設する大きな活動も朝鮮人民の力に依拠しておこない、実践闘争のなかでみずからの力で自衛力を建設する理論の正当性と生命力を示した。
 それが、いかにぬきんでた先見の明であり、子孫万代のための正当な選択であり、重大な決断であったかは、祖国解放戦争時はもとより、戦後からこんにちにいたる朝鮮革命の全歴史が明白に実証してくれた。
 主席の革命武力建設理論で特徴的なのは、 一言で言って、思想を基本に捉えて党と領袖に忠実な革命武力を建設するという理論である。
 朝鮮の革命武力が、ひたすら朝鮮労働党に忠実で、党の指導のもとに革命の一途を前進し、党が獲得した革命の結実を守り、党中央委員会を先頭に立って決死擁護する名実ともに党の革命武装力とならなければならないというのは、主席の意思であり、鉄の意志であり、一貫した革命武力建設原則である。
 主席は、軍建設の運命も思想から求め、武装力の威力の源泉も軍人たちの思想から求めた。思想を基本に捉えていくのは、主席の軍事理論で初めて示され立派に具現されてきた軍建設の原則である。
 主席が創始したチュチェの軍指揮理論の特徴は、党と領袖の唯一的指導の実現を根本内容とする軍指揮理論であり、政治活動、対人活動を基本にする軍指揮理論、将兵が一つとなって部隊の指揮管理で提起されるすべての問題を解決していく軍指揮理論であるところにある。
 主席は、革命軍隊に対する指揮、軍指揮の問題を革命的領袖観の原理にもとづいて歴史上初めて考察し、徹頭徹尾、革命武力に対する指導の唯一性を確固と保障できるように軍指揮原則と軍指揮体系、軍指揮方法に関する理論的問題を完全無欠に解決した。主席は、人民軍に対する党と領袖の唯一的指導は、軍隊内に党と領袖の命令指示を無条件にあくまで貫徹する革命的気風と活動体系を確立する時にのみ保障されることができると明らかにした。
 主席は、政治活動を優先させることを部隊指揮管理における最初の工程として、基本として、そして、一つの鉄則として規定した。主席は、部隊の指揮管理で軍事・政治幹部が政治活動、対人活動に対する正しい見解と観点をもって説伏と教育の方法で軍人大衆の革命的熱意と創造的積極性を高く発揮させ、政治活動を大衆自身の活動に転換させて一人が十人、十人が百人、百人が千人を教育し、導いていくことについて示した。
 一般的に軍隊は、上官と部下に区別されており、軍事指揮、軍事的指導を実現するうえで上官と部下間の関係を上下関係、服従関係に見た。
 中国の歴史で軍事家として知られていた孫武が呉国の女官たちに軍事訓練を与えたが、命令に不服して動かないと、指揮官に任命された二人の女官を首切りして一瞬にして女官たちを規律正しい「兵士」につくったという話がある。
 主席は、革命軍隊のなかで部隊指揮管理が命令と服従の関係だけでなく、革命的同志愛にもとづく将兵一致、軍・政配合によって実現されるという独創的なチュチェの軍指揮理論を示した。
 主席は1963年2月の初旬、ある人民軍部隊を訪れた機会に、革命軍隊では将校や戦士も革命のために生死苦楽をともにする同志である、目上の人は下の人を愛して援助し、下の人は目上の人を尊敬し擁護しながら上下の固い団結を保障すべきであると述べた。
 部隊の指揮管理で軍・政配合を正しくおこなうというチュチェの軍指揮理論は、主席が歴史上初めて示した独創的な理論である。主席は軍・政配合が、人民軍に対する党と領袖の唯一的指導を確固と保障し、全軍を党のまわりにしっかり結束し、党の軍事路線と方針を貫徹するうえでもつ意義と重要性を深く洞察し、軍・政配合を実現するうえで偏向があらわれないように深い関心を払った。
 主席は、いかなる侵略軍隊も打ち破ることのできるチュチェの軍事戦法を創造した。
 主席が創造した主体的戦法には、その組織執行方式によって正規戦法と遊撃戦法があるかとすれば、その目的と規模、持続時間に従って戦略的または作戦、戦術的意義をもつ戦法があり、目的と環境、様相に従って攻撃戦法と防御戦法を始めとした戦法があるかとすれば力量と機材の動員程度に伴う戦法があり、地形と昼夜条件に伴う山岳戦法と夜間戦法があるなど、実に多種多様な戦法がある。
 主体的戦法が、かつてはいうまでもなく、こんにちの他のすべての軍事戦法と区別される本質的特徴は、チュチェ思想から出発して人間の役割を基本にして創造されたし、現代革命戦争の実践的要求を正しく反映している独創的であり、完成された戦法であるところにある。
 主席は、数十星霜、朝鮮革命武力を指導して帝国主義者との対決戦を繰り広げる日々、革命軍隊の本質的優越性、革命軍隊の高い精神力にもとづいて百戦百勝の主体的戦法を創造し、全一的に体系化した。
 主席は、抗日武装闘争期、誘引伏兵戦法と夜間襲撃戦、一行千里の戦術など、多様な遊撃戦法と戦術を創造した。主席は、祖国解放戦争の時期にも飛行機狩り組運動をはじめとした独創的な戦法を多く創造した。
 このように、主席は、科学的で革命的な主体的戦法を創造して、人類の軍事戦法の発展に不滅の業績を積み上げた天才的な軍事戦略家であり、百戦百勝の総帥であった。


2)銃剣でチュチェ革命を開拓した不世出の英雄

 金正日総書記は、次のように述べている。
 「実に、金日成同志は、卓越した思想・理論と正しい指導によって現代史を輝かした偉大な哲学家、偉大な政治家、偉大な軍事戦略家、偉大な指導芸術家でした」
 革命軍隊が、民族の独立意志と信念の最高代表者であり、民族解放戦線の主力軍であり、革命の組織者、統率者であるということ。これが、抗日武装闘争の時期、主席が新しく考察した革命軍隊の地位と役割であった。
 主席は、こういう観点と立場で革命武力建設の先行であるという歴史的課題を朝鮮革命の前に提起した。
 正義の銃剣を強化し、その銃声を高く響き渡らせるとき、民族の愛国心と魂も高まるという真理は、主席が革命軍隊を創建した数日後、現実のなかで証明された。
 主席が朝鮮人民革命軍を統率し、普天堡へと進撃したという消息が伝わると、世界が騒ぎ、全民族が興奮した。
 主席は、革命武力建設先行の新たな道を示したうえで、チュチェ式に革命武力を創建し革命指導を始めた。
 元来、国権がなく、国家的後方も、正規軍の支援もなしに、植民地国で自体の革命軍隊を創建するということは容易なことではない。それも他国の領土で革命軍隊を創建せざるを得なかった朝鮮革命家がもっていた苦衷はなおさら大きかった。
 主席は抗日革命の初期に革命軍隊を創建しながら、その必須的要素である人間と武器の問題をみずからの実情に即してチュチェ式に解決した。
 主席は創建される遊撃隊の中核を革命的実践のなかで育てる一方、各革命組織を通じても育成した。遊撃隊の創建が迫った時期には、短期講習(短期訓練)を組織して核心を集中的に育て、彼らに軍事訓練を与える場合にも自己の実情に即して戦いに実際に必要なことを教えるようにした。
 主席は父の遺産である2丁の拳銃を元手にして敵の武器を奪って武装するための闘争の先頭に立ったが、遊撃隊のグループと赤衛隊で編成された襲撃組を引率し、安図県にある悪質地主の防衛団を不意打ちにして10余丁の武器と多くの銃弾をろ獲(鹵獲)した。
 武装を獲得するための闘争がどんなに困難であったかについて主席は回顧録に、もし、武器獲得闘争で朝鮮人民が発揮した無比の犠牲精神と大胆さ、臨機応変の機知、すぐれた創意についてのエピソードを収集して、文学作品を書き上げるなら、おそらく、それは荘厳な一つの叙事詩となるであろうと書いている。
 主席は、敵の武器を奪うと同時に、自力更生の革命精神を高く発揮して自力で武器をつくるための闘争も繰り広げるようにした。主席の指導のもとに、自力更生の革命精神を発揮して延吉爆弾を開発した和竜県の鷹岩窟兵器廠は後日、朝鮮人民革命軍の頼もしい兵器製造所、修理所となって抗日大戦に大きく寄与した。
 1932年4月25日、主席は安図の樹林の中で反日人民遊撃隊の創建式をおこない、朝鮮人民の革命的武装力の創建を全世界に宣布した。
 反日人民遊撃隊が創建された時から軍隊を先に創建し、それに依拠して朝鮮革命全体を指導していく主席の革命指導の新しい歴史が始まるようになった。
 主席は、抗日革命の全過程に朝鮮人民革命軍を強力な政治的軍隊に育成することに大きな心血を注ぎ、人民革命軍が革命の中枢的中核力量、政治的導き手としての使命を立派に遂行するようにした。
 主席はいつか、自分の一生の貴重な体験と朝鮮革命実践にもとづいた軍隊生活過程は、一つの総合大学の課程であるといえると意義深く述べたことがある。
 朝鮮人民革命軍の遊撃闘争が革命軍の隊員を思想意志的に鍛えるうえでどんなに大きな意義をもったかは、1938年の末から翌年の春まで革命軍が断行した苦難の行軍の過程を一つ見ても十分に理解することができる。
 主席は回顧録のなかで、苦難の行軍の内容を一言で要約すれば厳酷な自然とのたたかい、ひどい食糧難と疲労とのたたかい、恐ろしい病魔とのたたかい、奸悪な敵とのたたかいが一つにからみあったものであった、これにいま一つの深刻なたたかいが伴った。それは、苦難にうちかつための自分自身とのたたかいであった。初歩的には生き残るためのたたかい、ひいては敵にうちかつためのたたかいが、この苦難の行軍の基本内容であったと書いている。
 いかなる逆境にあっても、信念を捨てずに自分の指導者のまわりに一つの思想意志に、道徳的信義のうえでさらに結束して敵を打ち破った革命家の典型を創造したこと、これがまさに苦難の行軍がおさめた重要な成果であり、抗日革命がおさめた最も大きな業績のなかの一つである。
 抗日の日々、主席の肉親的愛と慈愛深い配慮のもとで、朝鮮人民革命軍の将兵の間でどんなに立派な革命の核心、政治活動家が多く輩出されたかということは、彼らによって全国の人民が覚醒されて全民抗戦に一人のように奮い立つようになった歴史的事実と解放後、彼らの核心的役割によって新しい祖国建設の困難かつ、骨のおれるすべての歴史的課題が立派に実現された現実が明白に実証してくれた。
 主席が生前に常に回顧しているように、金策同志をはじめとした抗日革命闘士はかつて、いかなる正規教育を受けたことはないが、一様に党建設と国家建設、軍隊建設で提起される問題はいうまでもなく、いかなる経済課題を与えても巧みに遂行するそうそうたる政治活動家、実践家であった。
 主席が、朝鮮人民革命軍党委員会による党的指導であるという新たな革命指導方式を創造することにより、朝鮮革命家は党創建の偉業が完遂されない朝鮮の条件でも朝鮮革命の政治的参謀部をもつようになり、失敗と紆余曲折で満ちた過去と決別し、勝利と栄光に輝く真の革命の道を歩むことができた。特に、抗日革命隊伍全般に対する党的指導を実現できる正しい方法論が講じられ、一つの指導中心、主席を中心にした革命隊伍の統一団結の新時代を迎えることができた。
 朝鮮人民革命軍は、朝鮮革命の唯一の指導思想であるチュチェ思想を指導的指針とする革命軍隊であり、その実現を目指して身命を賭してたたかう革命的武装力であった。朝鮮人民革命軍の隊員は、人民の中に入ってチュチェ思想とその具現である主体的な革命路線と方針を広く解説、宣伝した。それだけでなく、人民革命軍で発行する「鐘の音」と「鉄血」「3.1月刊」のような出版報道物は、革命軍の思想と路線、方針を人民に広く知らせた。それで、朝鮮人民革命軍と反日革命大衆は一つの思想的絆を結ぶようになり、軍隊と人民の思想の一致という、大きな民族史的画幅が開かれた。
 主席が銃剣をもって日本帝国主義を打ち破り、国の解放をなし遂げて新しい祖国建設の広い道を開いたのは、抗日革命を通じておさめた最も大きな業績となる。
 主席は抗日革命の日々、朝鮮人民革命軍を主導的力量にして党建設準備活動を積極的に推進することにより、解放後、建党偉業を完遂できる強力な土台を築いた。
 党創建のための朝鮮革命家の政治的参謀部は、朝鮮人民革命軍党委員会であった。朝鮮人民革命軍党委員会には、朝鮮革命の唯一の指導中心である主席がおられ、ここで抗日革命の戦略と戦術、党建設の路線と方針が採択された。
 革命偉業に限りなく忠実であり、いかなる分派主義にも染まらない純潔な党の核心が多く育って、党創建の柱となり、先鋒闘士、旗手となり、党の隊伍が一つの指導中心にもとづいて思想的、意志的に、組織的に固く結束され、基層党組織から地域的党指導機関、朝鮮人民革命軍党委員会に至るまで、整然とした党組織指導体系が確立されたのは、抗日武装闘争の時期、党創立の準備活動でおさめられた大きな成果であった。
 主席は、反日人民遊撃隊に依拠して豆満江沿岸の広い地域で日本帝国主義の植民地統治体系を一掃し、解放地区形態の遊撃区域を創設し、続いて極左的なソビエト路線の否定的影響を一掃し、人民大衆の絶対的な支持と参加のもとに人民革命政府を樹立した。
 人民革命政府は、農民に土地を無償で分与し、遊撃区内の全域で8時間労働制を実施した。人民革命政府は、遊撃区の各集落に児童団学校を立てて無料教育を実施し、梨樹溝と十里坪に設置した遊撃区病院ですべての住民に無料治療が受けられるようにした。人民革命政府は、封建的および帝国主義的抑圧のなかであらゆるさげすみと蔑視を受けている女性たちに男性と同等の権利を保障することを自己の神聖な義務とした。人民革命政府から分与された土地に杭を打ちこみ、鐘を打ち鳴らし踊りに興ずる農民の姿や無料教育、無料治療制、そして男女平等の実現によって広がった人民の自由で幸福な現実は、朝鮮の共産主義者によって間島という不毛の地に創出された世紀のパノラマであり、別天地であった。
 反日人民遊撃隊に依拠して人民的で革命的な新しい型の政権を建設した主席の不滅の業績と経験は、解放後、新しい祖国建設の強固な土台、元手となった。
 主席は、朝鮮人民革命軍を第1戦に立たせて革命的で人民的な文化を創造する原則と方式に従って、朝鮮人民革命軍で革命的で人民的な文芸作品を多く創作、公演するようにした。
 主席は、常に生活文化を革命家の思想問題、革命軍隊の戦闘力と直結させ、朝鮮人民革命軍で革命的で戦闘的な生活文化を創造することに当然の関心を払うようにした。
 主席の細心な関心のなかで、朝鮮人民革命軍の隊員は、困難な条件でも兵室はもとより、相手をきりりとさせるように衛生文化施設を整備し、生活も文化情操的に豊かにした。その真骨頂は、白頭山麓に位置している青峰宿営地に行って見ればすぐ理解できる。
 こんにち、踏査をする人たちが青峰宿営地に入りながら受ける強い衝動は、あれほど困難な抗日戦の日々、一夜を宿営した場所であったが、遜色なしにきちんと整備した几帳面な腕前である。兵舎と焚き火の後、小さい泉までも整然としてつくって利用した朝鮮人民革命軍の文化的な生活ぶりを見ては、感嘆を禁じえないでいる。
 朝鮮人民革命軍の隊員は、いかなる困難な環境のなかでも常に秩序が確立し、活気にあふれ、戦闘で常に勇猛をふるうことができた。抗日連軍の指揮官の一人であった楊靖宇が、常に朝鮮人民革命軍の節度ある生気はつらつとした文化的な生活ぶりを見ては、いつもうらやましがったのは決して偶然なものではなかった。
 主席の賢明な指導のもとに抗日革命の主人公たちは、抗日の日々におさめた革命的文化創造の経験にもとづいて、解放後、建国思想総動員運動と文盲退治運動を力強く繰り広げて、植民地的であり、封建的なあらゆる古い思想文化を覆し、革命的で人民的な文化の新しい花園を立派につくることに率先垂範した。


3)革命戦争史の奇跡を創造した天下の名将

 去る20世紀の初期に朝鮮人民に対抗した侵略者は、戦争と略奪に血眼になって狂奔した帝国主義強敵であった。
 しかし、鋼鉄の総帥である主席は、いかなる侵略者にも断固立ち向かい、絶対に容赦や慈悲を知らなかった。
 主席の前では当代の強敵であると豪語していた帝国主義も軍事的敗北を認め、膝を屈した。主席は、唯一に一世代に強大な両帝国主義侵略軍隊を打ち破り、現代戦争史の奇跡を創造した軍事の巨匠であった。
 主席は、遊撃戦でも名将であり、現代の正規戦でも名将であり、祖国守護戦でも名将であった。帝国主義侵略の頭目も頭を下げて心から褒めたたえる非凡な軍事戦略家、鋼鉄の総帥がほかならぬ主席であった。
 朝鮮で1930年代に遊撃戦を繰り広げる前までも遊撃戦を植民地民族解放戦争の基本形式に定式化した理論もなかったし、そうした遊撃闘争で名を馳せた軍事家や英雄もなかった。
 主席は、抗日革命戦争の各戦略的段階に提起される闘争課題と敵の行動性格に従って、さまざまな形態の遊撃作戦を独創的に創造し、立派に具現した。
 金正日総書記は、次のように述べている。
 「抗日革命戦争と祖国解放戦争、戦後の復興建設をはじめ、朝鮮革命の前途には幾多の厳しい試練が立ちはだかっていましたが、金日成同志は、天が崩れ落ちてもはいでる隙間はあるという鉄の意志をもって難関に立ち向かい、非凡な指導力を発揮して革命と建設を限りない高揚へと導きました」
 主席は抗日武装闘争の初期に遊撃区防御作戦を創造して具現したが、それは当時までの遊撃戦の歴史になかった独創的な作戦芸術であった。
 抗日武装闘争の初期、日本帝国主義は豆満江沿岸の遊撃区を「東洋平和のガン」であるとし、どうしてでもそれを掃滅しようと血眼になって狂奔した。かもし出された軍事情勢は、遊撃区を敵の「討伐」から固く守ることを要求した。
 主席は、1934年3月から1935年3月までの間に敵の「囲攻作戦」を破綻させるための遊撃区防衛作戦を組織し指揮した。
 この時期、主席は、朝鮮人民革命軍部隊とともに反日自衛隊、そして遊撃区人民が遊撃区一帯における積極的な防御行動を繰り広げるとともに敵の軍事的拠点に対する背後打撃を加えるようにし、第1次北満州遠征を組織指導した。それで、日本帝国主義の「囲攻作戦」は最終的に破綻し、朝鮮人民革命軍をはじめとした革命力量を保存育成し、武装闘争を拡大発展させるための抗日武装闘争の初の段階の戦略的課題が成果的に遂行されるようになった。
 主席は1936年2月、歴史的な南湖頭会議で朝鮮人民革命軍部隊が大規模的で機動的な遊撃活動を組織展開する新たな作戦芸術を示した。
 主席はこの時期、白頭山地区への進出作戦と白頭山西南部一帯における遊撃作戦、2回にわたる国内進攻作戦、敵の背後撹乱作戦、そして苦難の行軍、大部隊旋回作戦など、多くの遊撃作戦を成功裏に組織指導した。そのなかで代表的な大部隊機動作戦は、普天堡戦闘を中心にした国内進攻作戦であった。
 鉄壁であると豪語していた敵の国境警備陣をすばやく突破し、朝鮮人民革命軍の主力部隊が国内に進出して日本侵略者の軍事要衝地を不意に打撃したのは、瞬く間に朝鮮国内と日本の統治層の内部はもとより、全世界を揺るがした。
 主席は1940年8月、敦化県小哈爾巴嶺でおこなわれた朝鮮人民革命軍の軍政幹部会議で新たな戦略的段階を規定しながら、朝鮮人民革命軍の力量を保存し蓄積するという戦略的課題とそれを実現するための小部隊作戦方針を示した。
 主席は、政治幹部と軍事幹部、古参の隊員と新入隊員を適切に配合する原則にもとづいて小部隊は10余名から数十名、グループは数名程度に編成し、該当の任務と活動区域を示し、武装も軽快にするようにした。小部隊、グループに対する統一的な指揮体系と連絡体系が確立し、小部隊、グループ内に党細胞と党分組が組織された。
 主席の作戦的・戦術的方針に従って、朝鮮人民革命軍部隊は小部隊戦を基本にしながら、場合によってはいくつかの小部隊が連合して大きな戦闘も繰り広げるなど、千変万化の遊撃戦術で敵に大きな打撃を与えた。満州中と朝鮮の北部国境地帯は、小部隊、グループの活動で沸き立った。
 主席が小部隊作戦を猛烈に繰り広げるようにしたのは、朝鮮人民革命軍を不断の「消耗戦」によって掃滅しようとした敵の企図を破綻させ、革命軍の力量を保存、蓄積しながら祖国解放の大事変を迎える活動を着実に準備するうえで実に大きな意義をもった。
 主席が抗日武装闘争を立派に飾り付けながら示した独創的な作戦芸術は、祖国解放作戦、全国解放のための最後の攻撃作戦である。
 いままで各国で展開された遊撃戦争を見ると、全国を解放する最後の血戦をおこなわずに停戦協定を通じて植民地主義者から独立を認められる方法で国の解放を達成することが一般的であった。
 主席は、これとは異なり日本帝国主義が明白に敗北を目前にひかえてもすぐ降伏しようとせず、「本土決戦」まで準備する条件で侵略者を軍事的に容赦なく徹底的に撃滅掃討する作戦的方案を示した。これは、日本帝国主義との最後の決戦段階で朝鮮人民革命軍の積極的な総攻撃作戦に全民抗争を配合して日本帝国主義侵略者を撃滅し、祖国を解放する独創的な作戦方式として、国の全地域を短期間に解放する軍事的奇跡を創造するようにした軍事的・芸術的要因であった。
 このように、主席は、独創的な遊撃作戦芸術を創造し、輝かしく具現して植民地民族解放戦争の手本を創造する不滅の業績を積み上げた非凡な遊撃戦略家であった。
 1970年代、ある日本人は、自分が直接見て聞いた歴史的事実を叙述した「神出鬼没の抗日遊撃隊」という書籍を公開して抗日の伝説的英雄である主席の不滅の業績と主席が創造した遊撃戦術の偉大さを高く称揚した。
 主席は、主体的な革命武力によってのみ強盗日本帝国主義を打ち破り、国を独立させることができるという自主的立場から自体の独自的な革命武力を建設し、それに依拠して抗日武装闘争を勝利へと組織指導した。
 自己の運命を開拓していこうとする人民が頼りとするものは、ひたすら自分自身の力だけである。自分を信じ、自主的に自己の運命を開拓していく人民は、いくら厳しい苦難と試練を経るとしても、勝利と栄光の高峰を極めることができるということ、しかし他人の言葉に耳を傾け、他人の力に頼る人民は一時的には平安であるかも知れないが、結局戦争で敗北と奴隷の運命を免れないということ、これは20世紀の総括でもある。
 主席は、コミンテルンやソ連のような外部の支援よりも朝鮮人民自体の力をより重んじた。そして、人民大衆の積極的な参加のもとに、主体的な革命武力を創建し、それにもとづいて抗日武装闘争を組織展開する自主的立場を一貫して堅持した。主席はコミンテルンや他国の革命家と手をとってともに戦う場合にも、常に朝鮮革命を思考と実践の中心に据え、すべてを自主的立場に対し、自体の常備的な革命武力、朝鮮人民革命軍に依拠して、抗日武装闘争を勝利へと導いた。
 主席は、自体の革命武力に依拠して武装闘争を展開する全行程で常に独自性を堅持した。
 主席は1930年代の前半期には抗日武装闘争を急速に拡大させるための切実な要求から敵の植民地統治があまり及んでいない中国の東北地方、豆満江沿岸の天険の要塞に解放地区形態の遊撃区と半遊撃区を建設することに力を集中した。主席の指導のもとに1932年5月の末、安図県小沙河の遊撃区域が創設されるようになり、これを契機に遊撃区創設活動は早い速度で進捗した。
 主席は1930年代の後半期には白頭山密営を中心に国内深く秘密根拠地を創設して、武装闘争の火の手を全国的版図へ激しく燃え上がらせる確固たる保証をもたらした。
 白頭山一帯は、軍事地形学的見地から見る時、一人が守る関門を千人が開けられない天然要塞であるといえる。遊撃戦を拡大するうえで、白頭山よりもっとうってつけの基地はなかった。
 朝鮮民族の感情が引かれる白頭山地区に朝鮮革命を指導していける戦略的地帯を確保すれば、民族のすべての力量を反日抗戦の聖戦へと力強く奮起させることができ、全民抗争の勝利をさらに確固となし遂げることができた。
 世界の戦争史には、中国の井崗山や延安根拠地、キューバのマエストラ山の遊撃根拠地など、革命戦争の拠点になった根拠地が少なからず記録されているが、白頭山根拠地のように隠蔽された密営と革命組織に結ばれた秘密根拠地形態の根拠地は見出せない。
 主席は日本帝国主義との抗日大戦を宣布しながら日本帝国主義との対決は、全朝鮮人民との銃の対決となることを明白に宣言し、全民抗争の旗印を高く掲げた。
 日本帝国主義は1933年の冬、遊撃区を掃討するための大規模な冬季「討伐」攻勢を開始した。
 力量上や軍事装備のうえでもあまりにも甚だしい困難な戦いであったが、早くから人民の力に依拠すれば、いかなる敵も恐れるものがないということを鉄の真理として肝に銘じた主席は、遅滞なく遊撃隊と全民を遊撃区の防衛戦へと力強く奮い起こした。
 遊撃隊と人民は、主席の指揮下に一丸となって遊撃区の防衛戦に一致して奮い立った。遊撃隊と人民は、互いに励ましながら戦い、陣地に石塚を積み、「討伐隊」が接近すると石を転がして大量に殺傷した。遊撃隊が敵をうちのめすたびに遊撃区の人民と児童団員は太鼓と鐘をたたき、ラッパを吹きながら気勢をあげ、高地に銃弾が切れると爆弾を運搬し、銃が壊れると、その都度修理して武器を保障した。銃を撃ってみた経験のある老人は、遊撃隊と半軍事組織のメンバーとともに直接戦闘に参加した。敵の大兵力の連続的な攻撃のなかでも遊撃区の寸土は血をもって死守され、難攻不落の要塞として毅然とそびえ立っていた。
 主席は1945年8月9日、朝鮮人民革命軍部隊に日本帝国主義を撃滅し、祖国を解放するための最後の攻撃作戦を開始する命令を下達した。
 主席は、朝鮮人民革命軍の最後の攻撃作戦にこたえ、すでに国内に派遣されて活動していた朝鮮人民革命軍小部隊、グループと政治工作員が人民武装隊と武装蜂起組織、広範な人民を全民抗争へと組織動員するように命令した。
 朝鮮人民革命軍の小部隊、グループと政治工作員の指導のもとに、人民武装隊は全国各地で日本帝国主義侵略軍と憲兵、警察機関を襲撃、掃討しながら敵の後方を撹乱する闘争を果敢に繰り広げ、進撃する人民革命軍部隊を積極的に支援した。
 主席の指導のもとに、朝鮮人民革命軍と朝鮮人民は、日本帝国主義の植民地統治機構を最終的に覆し、祖国解放の歴史的偉業をなし遂げた。
 世界には、外来侵略者を追い出すために遊撃戦をおこなった国も多く、正規武力による現代戦をおこなった国も少なくない。しかし、朝鮮のように至極困難な条件のなかで自力によって武力抗争を展開したケースはほとんどない。
 主席は、チュチェ思想の旗印のもとに自力で主体的な革命武力を創建し、朝鮮人民革命軍の武装闘争と全民抗争によって強盗日本帝国主義との最後の決戦で勝利をおさめ、国を解放した。これは、世界が公認する歴史的事実である。


4)強力な自衛的国防力を建設した偉人

必勝不敗の革命武力の建設

 金正日総書記は、次のように述べている。
 「金日成同志は、主体的な軍建設思想を示し、それを立派に実現して、人民軍を党の偉業、社会主義偉業を守る必勝不敗の革命的武装隊伍に発展させた、我々の革命的武力の創建者であり、百戦百勝の鋼鉄の総帥です」
 主席は、人民軍が一つの思想と一つの中心をもって革命的信義と信念、革命的同志愛にもとづいて統一団結した軍隊、いかなる風波と試練のなかでも党の偉業、社会主義偉業に忠実な革命軍隊に発展されるようあらゆる心血を注いだ。
 1973年10月11日、朝鮮人民軍中隊長、中隊政治指導員大会が開かれた時であった。
 大会を指導していた主席は、人民軍の思想的団結と関連して、人間にはさまざまな血液型がある、人間に輸血するときにはA型の血液をもった患者にはA型の血液を輸血するのであって、B型の血液を輸血すると、体から熱が出て死なれる、これと同様に、チュチェの血統をもった我々の党内にはチュチェ型の血液のみ溢れるべきであって、事大主義型の血液や修正主義型の血液が入ってはならない、人民軍軍人は、わが党の革命思想、チュチェ思想でしっかり武装し、全軍がチュチェ思想にもとづいた統一団結をなし遂げるべきであると述べた。
 革命軍隊の統一団結は、本質において 一つの思想にもとづいた統一団結であり、領袖の革命思想にもとづいた団結だけが最も強固で生命力のある統一団結となれるという深奥な真理が込められた教示であった。
 主席は、革命的同志愛と信義で結束した軍隊のみが試練と難関に満ちた革命の道を最後まで歩むことができ、敵と戦って百戦百勝することができるという真理を信条とし、チュチェの軍建設史のページを兵士たちへの愛の逸話で記した。
 主席は、1951年の秋のある日、真夜中に前線にある軍団長を電話で呼び、もう天気がかなり寒いようだが、戦士たちに熱いご飯と汁を食べさせ、豆のもやしも食べさせるべきであると指示して愛情のこもった措置も講じ、人類の戦争史にその名もなかった火線休養所も設けるようにした。
 指揮官や戦士を問わず、みんな戦いだけを考えていた時、主席が前線の兵士たちのために施した同志的愛と恩情は、そのまま人民軍の将兵に力と勇気になり、最高司令官と人民軍を一つにつなげる血脈となった。
 主席は、チュチェ革命偉業の継承で新たな転換期がもたらされていた1970年代の中葉、全軍をチュチェ思想化するという建軍綱領を示した。
 全軍チュチェ思想化を軍建設の総体的課題として示した主席は、「全軍をチュチェ思想化しよう!」というスローガンを高くかかげ、人民軍を政治思想的に、軍事技術的にいっそう強化する活動を力強く繰り広げるという課題と方途を全面的に示した。
 主席が示した全軍チュチェ思想化の建軍綱領は、半世紀前にチュチェ思想の旗のもと、白頭の密林で開拓されたチュチェの建軍偉業を最終的に完成するための戦略的目標とその実現方途を科学的に示した、新しく独創的な革命武力の建設綱領であった。
 全軍のチュチェ思想化を立派に実現するための主席の指導は、人民軍内のチュチェ思想で一貫した政治思想教育活動を決定的に強化して、すべての軍人をチュチェ型の革命家に育成する活動から始まった。
 主席は1977年11月、朝鮮人民軍第7回扇動員大会でおこなった演説をはじめ、多くの機会を通じて、人民軍でチュチェ思想の原理教育と党に対する忠実性教育、社会主義愛国主義教育、革命伝統教育と階級教育など、チュチェ思想教育にもとづいて政治活動をさらに強化することについて教え、1973年10月、朝鮮人民軍中隊長、中隊政治指導員大会と1991年12月、朝鮮人民軍中隊政治指導員大会など、各契機に人民軍の基本戦闘単位である中隊を党の唯一思想で一色化した集団につくることにより、全軍チュチェ思想化を促すことについて強調した。
 全軍を朝鮮労働党の革命思想、チュチェ思想で一色化するための闘争を力強くおこなうように指導した主席の指導において特に重要な地位を占めるのは、すべての軍事事業と軍事活動にチュチェ思想を具現することを鉄則とするようにしたことである。
 かつて、ワルシャワ条約の参加国であった東欧の社会主義諸国は、国の防衛でソ連に依拠していたので、自国にソ連の軍事基地を設け、武装装備もソ連のもので配備した。これらの国々では、軍建設と軍事活動がソ連の指揮棒に従っておこなわれていた。結果、軍事分野で非思想化が実施されると、それがそのまま模倣され、しまいには大国の軍隊が社会主義の銃剣を手放すや、相次いで革命の銃をおろし、党と社会主義も台無しにしてしまった。
 主席は、支配主義と結合した現代修正主義、現代社会民主主義の思想潮流がはんらんする複雑ななかでも、すべての人民軍将兵が他国のものに頼ろうとせず、すべての軍事事業と軍事活動を徹頭徹尾、自己の方式で主体的立場でおこなうようにした。主席は、歴史的教訓に照らして人民軍のなかに党組織と政治機関の活動体系と政治思想教育活動の基本方向と内容、方法も自己の方式でおこなうようにし、部隊の組織編成と指揮管理、戦闘訓練も自己の方式でおこなうようにした。
 主席は、いかなる強敵も一気に打ちのめすことのできる無敵の軍事力をもった不敗の革命武力を建設した鋼鉄の総帥であった。
 久しい前から全軍幹部化、全軍現代化の方針を人民軍強化の指導的指針におし立てた主席は、全民武装化、全国要塞化とともにそれを朝鮮労働党の4大軍事路線として定立し、徹底的に貫徹して、人民軍を幹部化され現代化された「一当百」の革命武力に発展させた。
 主席は1953年7月27日、朝鮮人民軍最高司令官命令第470号「祖国解放戦争の偉大な勝利を祝賀する」のなかで、人民軍の戦闘動員準備をしっかり整える一方、人民軍強化のキーポイントを全軍幹部化と全軍現代化に置き、力強くおし進めた。
 人民軍を「一当百」の革命武力に発展させるうえで全軍幹部化を戦略的方針におし立てた主席は、全軍幹部化の先行を軍人に対する政治思想教育に求め、それを決定的に強化するようにした。
 主席は1963年10月、金日成軍事大学(当時)の第7期卒業式と1964年4月、軍事部門責任幹部らとおこなった談話などの機会に、軍人を政治的・思想的にしっかり武装させることを、人民軍を革命軍隊に強化するうえで提起される第一義的な課題として示し、軍人たちに対する政治思想教育で提起される諸問題について具体的に教え、1966年10月、不朽の古典的著作「現情勢とわが党の任務」でも人民軍の政治的・思想的優越性について示しながら、軍人たちを党と革命に限りなく忠実な革命戦士に育成することについて重ねて強調した。
 主席は、全軍を幹部化していく過程がそのまま人民軍を「一当百」に準備させていく過程になるようにし、これらのすべてが戦闘訓練のなかで実現するように指導した。
 1963年2月のある日、主席は最前線の兵士たちを視察して、人民軍で掲げるべきスローガンは「一当百」である、戦闘訓練を正しくおこなうのが軍人たちを「一当百」に準備させ、人民軍を強化するための重要な方途となることについて教えた。
 主席は人民軍の幹部化と現代化を実現するために、従来の4大綱領をさらに深化発展させ、独創的な5大訓練方針を示した。
 主席が1975年2月、党中央委員会第5期第10回総会で示した、人民軍軍人が不屈の革命精神、巧みな戦術、剛毅な体力、百発百中の射撃術をもち、人民軍のなかに厳格な軍事規律を確立することを規制した5大訓練方針は、人民軍の訓練目標と基本内容を示した指針であった。この5大訓練方針は、現代戦の要求と軍人たちの戦闘能力を高める各要因を全面的に具現している科学的で革命的な訓練方針であった。
 主席は、全軍幹部化とともに全軍現代化を「一当百」の革命武力建設の根本問題の一つとしてみなし、この活動に拍車をかけて建軍史に永遠に輝く業績をなし遂げた。
 現代戦の要求に即して革命軍隊を現代的兵器と戦闘技術機材で武装させることが全軍現代化である。
 主席は1961年12月の朝鮮労働党人民軍委員会第2期第2回総会の拡大会議とその後の各機会に、人民軍の現代化はあくまでも去る祖国解放戦争の経験と教訓、わが国の軍事行動地帯の特性、主体的戦法、国の経済発展水準に即しておこなわなければならないと教えた。それによって曲射火力の比重を高め、武器と技術装備をより軽量化し、現代的武器、常用武器を強化し、国防工業の発展に伴って次第に威力ある現代的装備をつくりだし、すべての武装装備を機械化、オートメ化する方向に発展させるという原則が提示された。
 主席は、人民軍の武装装備の現代化を実現するうえで現代的軍事科学技術を発展させることを先決条件とみなし、これに大きな力を入れるようにした。
 各軍種、兵種の武装装備がより現代化されることにより、強力な軍事力を誇り、いかなる強敵が襲いかかっても一撃のもとに掃滅できる「一当百」の強兵に強化発展した朝鮮人民軍の面貌は、現実を通じて証明された。
 こんにち、朝鮮人民軍は、強い精神力とともに武装装備の面でも戦術武器だけでなく、戦略武器までも保有している最強の武装力となっている。
 主席は、人民軍を自発的な軍事規律をそなえた鋼鉄の精鋭隊伍として強化発展させた。
 主席は、1953年10月16日に朝鮮人民軍第831軍部隊の軍人の前で「部隊の戦闘力を強化するための課題」について演説しながら、我々は抗日武装闘争当時から革命軍隊の規律は自発的なものでなければならないこと、抗日遊撃隊の輝かしい革命伝統を継承した人民軍の規律は当然自発的なものであるべきだ、ということを強調した。
 主席は革命軍隊の規律を自発的な軍規と見る観点と立場から、常に政治活動方法、解説と説伏の方法によって軍人大衆の自発性を積極的に奮い起こして、人民軍の中に鋼鉄のような軍事規律を確立するようにした。
 朝鮮人民軍の名称には「人民」という呼び名が厳かに付けられている。
 朝鮮人民軍、この名称には、人民のなかから生まれた軍隊、人民の息子、娘として構成された軍隊、人民の利益のために戦う軍隊、軍民一致を実現していく軍隊、一言でいって、徹底した人民的性格を帯びている軍隊の特徴と面貌が集約されている。
 主席は、人民軍を人民の自由と幸福のために戦う真の人民の革命武力として建設することを不敗の革命強軍建設の重要な目標の一つとしておし立て、立派に実現した。
 革命軍隊が、人民を離れては戦いで勝つことも、存在することもできないというのが主席の持論であった。
 主席は、チュチェ思想の旗のもと、朝鮮の革命武力をその誕生の初期から人民の息子、娘で組織され、人民の自由と幸福、利益のためにたたかう真の人民の革命的武装力として建設した。
 1932年4月25日に創建された反日人民遊撃隊は、人民を革命の主人としておし立てるチュチェ思想の原理をそのまま具現して、人民のなかで生まれ、人民のためにたたかう真の人民の軍隊であった。
 主席は解放後、朝鮮人民軍を創建する時にも抗日の伝統を立派に継承して朝鮮の革命武力が反動を除いたすべての階級階層を網羅した、それこそ全人民の息子や娘で構成された人民の軍隊として組織するようにした。
 主席は、朝鮮の革命武力が人民の武装力としての高尚な風貌を備えるように指導した。
 主席は1947年1月15日、保安幹部訓練所第2所将校会議でおこなった演説で、みなさんは人民の軍隊なのだから、人民には限りなく忠実で、敵とは獅子のように勇敢にたたかわなければならない、すべての軍人が実際の行動をもって我々の軍隊が真の人民の軍隊であることを示し、人民が人民軍を肉親のように愛し援護するようにしなければならないと教えた。
 主席は、愛民性を革命軍隊の建設と活動の鉄則とし、一貫して堅持するように賢明に指導した。それで、人民軍は軍民一致の美風を高く発揮していく革命的武装力に強化発展するようになった。
 主席は、将兵一致を保障することを人民の革命的武装力としての人民軍の重要な風貌とみなし、その実現に大きな関心を払って、すべての将兵が一つの思想と熱い同志的愛にもとづいた一致団結をなし遂げるようにした。
 主席は、指揮官、政治活動家に会うたびに、抗日武装闘争の時期に常に隊員のなかに入って生活しながら隊員ととも歩哨に立った経験も聞かせながら指揮官、政治活動家が中隊に降りていって戦士の生活をして見てこそ、戦士たちの生活上の問題を適時に解決することができ、戦士たちには指揮官も特殊な人ではなく、平凡な労働者、農民の息子と娘であることをはっきり認識させることができると教えた。
 主席の深い関心のなかに人民軍ですべての将兵が一つの思想と熱い同志的愛によって一致団結をなし遂げたのは、人民軍の面貌を新たな境地でさらに完成させた輝かしい成果となった。

全国を難攻不落の要塞に

 こんにち、世界には朝鮮のように正規武力の強化とともに全人民的、全国家的防衛体系を確立した実例は少ない。
 現在、朝鮮の全人民的、全国家的防衛体系に世界が驚嘆しているのは偶然ではない。
 世人が、国家防衛体系樹立の手本として激賞する全人民的、全国家的防衛体系を立派に確立した方は偉大な主席である。
 全民を武装させる問題は、久しい前から試みられてきた。古代にギリシャのスパルタで奴隷を除き、当時の住民の多数を占めていた市民階級の男子たちに実施した「皆兵制」は、住民武装の初期形態であったと見ることができる。
 こんにち、一定の年齢にある男性と女性の兵器着用の義務を規定し、正規的な常備軍を置かず、有事の際に全民武装化の方法によって国家防衛体系の確立問題を解決しようとする国々もある。
 そのように見ると、朝鮮でのように正規的革命武力とともに全国的範囲で全一的に組織化された民間軍事組織と軍事訓練体系によるすぐれた全人民的防衛体系を確立し、いつでも侵略者とたたかえる万端の戦闘動員態勢を整えている国はない。
 主席が1962年12月、党中央委員会第4期第5回総会で示した「片手には銃を、片手には鎌とハンマーを! 」という戦闘的スローガンは、朝鮮における全民武装化を明白に象徴している。
 主席は、全民武装化を実現するうえで合理的な民間武力形態を誰もが自分の持ち場で働きながら、いつでも敵とたたかえるように準備した非常備的武装隊伍に規定し、1959年1月14日、全国的範囲で全一的体系をもつ労農赤衛隊(こんにちの労農赤衛軍)を創建した。
 労農赤衛隊は、国の主人となった社会主義的勤労者たちの自発的な民間軍事組織として武装で党と領袖を擁護防衛し、敵の侵害から革命の獲得物を固守する非常備的な党の革命的武装力である。労農赤衛隊の基本使命は、社会主義建設を立派に進めながら一朝有事の際には正規武力である人民軍と協同し、自立的に敵の侵攻から社会主義祖国の後方を頼もしく守るところにある。
 主席は、労農赤衛隊を政治的・思想的に、軍事技術的に強化発展させることに大きな力を入れ、民間武力としての戦闘力を全面的に強化するようにした。
 主席は、1962年12月、党中央軍事委員会拡大会議で、労農赤衛隊の幹部隊伍を立派に整え、武器の保管管理と掌握統制活動を強化し、すべての幹部と党員を軍事訓練に欠かさず参加させることについて教え、1964年1月には、各道、市、郡の労農赤衛隊の指導幹部の連席会議で労農赤衛隊を強化するための新たな革命的な措置を講じた。
 1973年12月のある日にも主席は、酷寒にもかかわらず、戦闘訓練に参加した載寧、青丹、新院郡内の労農赤衛隊員を接見し、彼らの動員準備状態と訓練状況を具体的に調べ、いかなる敵も撃滅できるように準備した彼らを激励した。
 主席は1970年9月12日、青少年学生たちの自発的な武装組織である赤の青年近衛隊も組織し、それを強力な民間武力として強化発展させるようにした。
 赤の青年近衛隊は、党と領袖を武力で擁護防衛し、社会主義の獲得物を敵の侵害から守ることを自己の使命としている朝鮮労働党の指導を受ける学生青年たちの自発的な軍事組織として、学習を本務とし、祖国防衛の任務も遂行する革命的民間武力である。赤の青年近衛隊は、侵略者が戦争を挑発する場合に、労農赤衛軍とともに後方を鉄壁のように守るうえで重要な役割を果たすようになる。
 主席は、民間武装力であると同時に正規武力の後続力量である赤の青年近衛隊を強力な武装力に発展させるために赤の青年近衛隊の軍事訓練、野営訓練を強化するようにし、訓練の内容と形式、方法にいたるまで細心に関心し、指導した。
 主席のエネルギッシュな指導と暖かい配慮のなかで、赤の青年近衛隊が労農赤衛軍とともに政治的・軍事的に準備した頼もしい党の革命的武装力として育つようになったのは、朝鮮の革命武力の誇りとなる。
 これまで人類の戦争史は、難攻不落の要塞とはあり得ないし、日増しに発展する威力ある攻撃手段の前ではいかなる要塞も崩壊することを示した。
 主席は要塞化に対する既存の見解と経験に終止符を打ち、敵のいかなる打撃にも微動だにせず、自己の陣地を最後まで守り、必要な場合、それに依拠して主動的な攻撃行動を繰り広げることのできる鉄壁の要塞を全国に打ち立てる軍事要塞の建設の新たな道を開いた。
 主席が全国要塞化の実現の原則として打ち出したのは、敵のいかなる火力打撃にも耐えることができるように全国の前後方を難攻不落の要塞、金城鉄壁につくることである。
 祖国のどこにも一人の敵も入る場所がないようにするというのは、主席が示した全国要塞化の重要な要求である。
 ある一つの地域や地点だけではなく、前線と海岸はいうまでもなく、国のいたるところにもれなく各種の強固な防御施設をつくって、ハリネズミのような防備策を講じれば、それがすなわち全国を要塞化したものとなる。
 主席は1963年7月と1964年1月におこなった教示をはじめ、各機会に陣地を固め、対空地下構造物を大々的に建設することについて教えた。
 独創的な全国の要塞化方針を示した主席は、敵を該当の境界線で完全に撃滅掃討できるように防御工事を質的におこなうことに深い関心を払った。
 主席が傾注した献身の労苦があって、千里の防衛戦のすべての哨所、全国の軍事陣地と防御築造物が整備されるようになった。
 全国が要塞化され、それが全民武装化と有機的に結び付けられた事実は、まだどの国にもその例がなかった。すべてのところが要塞化された朝鮮の現実は世人の驚嘆を呼び起こしている。
 ある国の高位軍事代表団のメンバーは、朝鮮を訪問して「これまで多くの国々を見回ったが、この国のように全民が武装され、全国が要塞化されている国ははじめて見る。朝鮮は、間違いなく軍事大国である」といった。

威力ある国防工業の建設

 建党、建国とともに建軍を新しい祖国建設の3大課題の一つとして打ち出した主席は、祖国に凱旋した初期になすべきことが多かったが、国防工業の創設に第一の関心を払い、その歴史の初めての道を先頭に立って切り抜けた。
 1945年10月2日、主席は解放前、日本帝国主義が砲弾加工と兵器修理をしていた平壌兵器製造所があった場所を訪れた。解放された当時には訪ねるべき工場や新設すべき工場が多かったが、自体の兵器工業、国防工業の建設のためにここから先に訪ねたのであった。
 朝鮮の軍需工業建設の新しい歴史は解放直後、主席が大きな足跡を記した意義深いこの平川への道から始まった。
 同日、ひどく破壊された兵器製造所を見て回った主席は、この工場の破壊ぶりを見ただけでも、日本帝国主義侵略者がいかにあくどいものであったかがよくわかるとし、幹部らに我々はこれから、すべてのものが破壊された廃墟のうえに民主主義の新しい朝鮮を建設しなければならない、我々が富強な自主独立国家を建設するためには、党も創立し、人民政権も樹立し、国と民族を防衛する強力な正規武力も建設しなければならないと述べた。
 長きにわたる抗日革命闘争の日々、直接育てた抗日革命闘士たちを兵器工業部門に派遣した主席は、1946年12月、砲兵技術訓練所を設置し兵器工業部門の技術幹部を体系的に養成するようにした。そして、かつて兵器部門で働いた労働者、技術者を全国各地で探し出して工場に送るようにした。
 解放後のある日、兵器技術者を呼んだ主席は、今、正規武力を建設するための準備活動として、平壌学院と中央保安幹部学校を建てて幹部も養成しており、部隊も組織しているが、我々は自分の軍隊を武装させるうえで必要な武器をどんなことがあっても自体で生産し保障しなければならないと力強く述べた。
 主席の高い意志を体し、兵器工場の労働者階級と技術者たちは、兵器工業の歴史がなく、技術が足りない朝鮮では機関短銃をつくれないとし、他国で資材と部品を輸入するための輸入申請書まで持ち歩いていた事大主義者と技術神秘主義者の策動を断固粉砕し、抗日遊撃隊員が発揮した自力更生、刻苦奮闘の革命精神を発揮して最初の機関短銃の試作品をつくりだした。
 1948年12月12日、朝鮮の兵器工業の初の製品である機関短銃に対する試射をおこなった主席は、3発の銃弾が10点円の中に命中された的を見て、我々の労働者階級が最初につくった機関短銃が非常にすばらしい、命中率も高く集中性も良いと満足を表した。その日に主席が大きく響かせた銃声は、朝鮮で主体的な兵器工業の創設を告げるこだまであり、銃剣を重視する朝鮮人民のたくましい気概を世界に知らせる雷となった。
 朝鮮の兵器工業の歴史を振り返る人たちは、当時、主席が残した一枚の写真を通じて特別な感懐を感じるようになる。
 主席は、兵器工場の労働者階級が1949年10月に自分に送った数挺の機関短銃を受けてたいそう満足し、その機関短銃を金策、崔庸健、姜健、金一など、抗日革命闘士たちに授与し、彼らとともに意義深い記念写真を撮り、主体的兵器工業の歴史を世界に知らせたのであった。
 1949年10月の初のある日、ある幹部を呼んだ主席は、11月に中国の首都北京で世界職業同盟大会が開かれるようになるが、ここに毛沢東主席も参加するだろうとし、わが国の職業同盟代表団が中国共産党中央委員会の主席に自分の名義の機関短銃2丁を贈ればいいと述べた。
 それで11月の初旬、中国でおこなわれた世界職業同盟大会に参加した朝鮮代表団は、主席が送る機関短銃2丁を中国の指導幹部に丁重に伝達した。
 主席が送った機関短銃を前にした毛沢東をはじめとした中国の指導幹部は驚嘆を禁じえなかった。
 中国に比べて人口も、領土も余りにも取るに足りないし、銃が弱くて日本帝国主義の完全な植民地として40余年間も踏みにじられていた朝鮮でまだ自分たちがつくれなかった自動兵器を他国の援助を受けることなく、自分の手でつくり出したのであった。
 彼らは、主席の指導がこうした結実を生んだことを深く感じ、朝鮮の労働者階級が兵器工業部門でおさめた驚異的な成果を心から喜んだ。彼らは、中国革命が試練を経ている最も厳しい時期に、朝鮮人民が自分たちを血でもって、物心両面で大いに援助するようにした金日成主席が、今回は機関短銃まで送りながら新たな力と勇気を与えたと激情を禁じえなかった。
 主席が1992年6月、ある機会にわが国の軍需工業が歩んできた歴史を感慨深く追憶しながら、機関短銃は祖国解放戦争の時期に大きな役割を果たした、機関短銃がなかったならば戦争は不可能なことであったと述べたことがある。
 朝鮮の労働者階級がつくった機関短銃は、祖国解放戦争で大きな功を奏した。
 主席は解放後、空手で銃をつくった朝鮮の労働者階級の愛国熱意と気迫をさらに発揮させて、戦火の炎のなかでは君子里に兵器工場を設けて、さまざまな武器と弾薬を生産させた。
 1952年3月の初旬、君子里兵器工場に対する主席の現地指導は、朝鮮の兵器工業の発展の新しい里程標をもたらした歴史的な一歩となった。
 この日、主席はわが国で兵器工業を拡大、発展させるのは、現在、かもし出された軍事・政治情勢と関連して非常に切実な問題として提起されているとし、地球上に帝国主義が残存している限り、兵器工場の建設を絶対におろそかにすることができないと強調した。そして、今後の工場の発展方向と新たな兵器工場建設の方途を示し、工場の建設を早めるための具体的な措置を講じた。
 兵器工場の労働者階級に対する主席の現地指導と鼓舞は、彼らを限りなく励ました。敵機の猛烈な空爆のなかでも国の兵器生産基地が拡大強化され、新たな部門別兵器工場が建設されるにつれて、各種の砲弾と手榴弾、地雷と通信機材など、さまざまな武器と戦闘技術機材の生産が急激に増大されるようになった。
 解放後、ゼロの状態で自力によって兵器工業を創設して将来、国防工業の土台を築いた主席の賢明な指導こそは、軍事強国の万代の礎石を築いた根本要因であった。
 世人は1990年代の朝鮮人民が、民族の慈父を失い、歴史に類を見ない苦難の行軍、強行軍をせざるを得なかった時、それを克服した秘訣が何かについて好奇心をもっていた。
 その時、敵対勢力の執拗な反社会主義、反共和国孤立圧殺と数年間続く自然災害がもたらした困難かつ苦難にみちた歴史の渦のなかでも朝鮮は微動だにせず、社会主義の本来の姿を固守しながら逆境から順境へと、経済的圧迫状態から強国建設の道を開いていく劇的な転換をもたらした。
 朝鮮労働党と朝鮮人民が、誰もが容易に達成できない奇跡を創造することができたのは、朝鮮人民と人民軍将兵の強い精神力とともに国防工業本位の強力な自立的な経済土台、自己式の特殊な経済構造があったからだということを歴史の逆風が一回吹きまくった後になってこそ、世人は知ることができた。これについては、世界の世論も特別に強調した。
 主席は、民族国防工業を自立的に、現代的に発展させることを国と民族の生死存亡にかかわる重大な問題として提起した。
 よその家の金塊よりみずからの家の金塊のほうがまさるということわざがある。このことわざを確証しているように1962年に起こったキューバのカリブ海の危機は、大国に祖国防衛の運命を託しては失敗を免れないことを再度教えた。
 経済建設と国防建設の並進、これこそは、主席が長い間、模索しながら探した社会主義建設と守護のための大綱であった。
 経済建設と国防建設をともに堅持し、並進させていくことは、前例のない膨大な事業であり、領土や人口の数でも余り大きくない朝鮮の場合にはさらに困難な事業であったが、主席は自国と民族はあくまでも自力で守らなければならないという、不変の信念と意志、無比の胆力をもち、ためらいなく並進路線貫徹の道を選んだ。
 経済と国防を並進させるという路線は、それだけでも既成の経験と前例を超越することであった。世人の驚嘆は、この戦略的路線が実現された現実を見る過程にさらに大きくなった。朝鮮は1960年代に、政治において自主的で、経済において自立的な社会主義国としてのみならず、軍事的面でも自衛的な強国としてそびえ立った。
 世界の帝国主義連合勢力とも単独で堂々と立ち向かえる自衛の強力な国防力をもった軍事強国を建設したのは、不世出の偉人、不世出の総帥である主席のみが、なし遂げられる業績のなかの業績である。
                                                



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