偉人金日成主席
5.人類解放の救い星

1)人類解放の前途を示した世紀の偉人

世界に光り輝くチュチェの光

 金日成主席は、時代と歴史、人民の大河のなかでチュチェの貴い真理を発見し、それを起点にするチュチェの思想、理論、方法を全面的に深化発展させて、世界の進歩的人士と数億万の人民に自由と解放の最も貴い思想的・精神的武器を与えた世紀の偉人であった。
 主席が創始し深化発展させた不滅のチュチェ思想が、人類の自由と解放のための闘争の前途を指し示す光、闘争の旗印となったのは、その絶対的な普遍的真理性にある。
 自由と解放のために奮い立った進歩的人類は、普遍的真理性をもつ思想を時代の偉大な革命的旗印として公認し受け入れる。
 1977年9月14日から17日まで平壌で開かれたチュチェ思想に関する国際セミナーで日本のある人士は、100余年前、50余年前をマルクス・レーニン主義の時代であるといったならば、現代は金日成主義の時代であるといえる。すでにマルクスやレーニンは生存期間に制限された範囲で役割を果たし、マルクス主義やレーニン主義はそれを創始したマルクスやレーニンが逝去した後に世界的な基本思潮として波及された。しかし、金日成主義は、その創始者である金日成主席が精力的に活動している現代にすでに世界的な基本思潮となり、世界人民の心を捉えていると激賞した。
 彼が激賞したように、チュチェ思想は、ある一時代、ある一国や一民族の運命のみと結びついておらず、朝鮮人民だけでなく、世界の進歩的人類の解放闘争の前途を明示している。
 金日成主席は、次のように述べている。
 「わが党のチュチェ思想は、世界の主人として生きようとする人民大衆の志向と要求を全面的に具現した自主思想であり、人類の完全な解放と世界の発展のための最も強力な武器を与える科学的な革命思想であります」
 不滅のチュチェ思想は、自主を根本的中核にして展開され、自主で一貫された徹底した自主の思想である。
 主席は、革命の道を踏み出した当初から、自主が帝国主義者をはじめとしたすべての圧制者、搾取者に踏みにじられていた朝鮮人民と全世界の被抑圧勤労大衆の共通の要求であり、根本的志向であることを科学的に洞察した。
 主席は、血を流しながらも絶叫する朝鮮人民の独立万歳の叫びとモンゴル革命に歩調を合わせて中国、インドなど、アジア諸国で激浪のごとき沸き立つ革命の強い潮流に接しながら、自由と解放のかん声を叫ぶ被抑圧勤労大衆の共通の根本的志向と要求がまさに自主であることを確信するようになった。主席は、何ものにも拘束されず自己の運命の主人として生き、発展していこうとする人間のこうした性質を自主性として規定した。
 今まで人類思想史には、多くの思想家、哲学家によって数多の思想と理論が提起されたが、人間の自主的本性、自主的に生きようとする人民大衆の志向と要求を正しく具現した自主の思想はチュチェ思想だけである。
 チュチェ思想は、その哲学的原理と社会歴史原理はいうまでもなく、人生観的原理と内容がすべて自主で一貫されている。自主を、人間の生命、人民大衆の根本生命としておし立て、自主を実現するうえで運命開拓の旗印がほかならぬチュチェ思想である。
 いつか、チュチェ思想に魅了された外国のある人士は、金日成主席はチュチェ思想というテコで地球を、宇宙をもち上げたと確信に満ちて話した。
 不滅のチュチェ思想は、人類の解放偉業遂行の理論的・実践的問題に完璧な解答を与える百科全書的な思想である。
 主席は、抑圧されさげすまれてきた人民大衆の自主的志向と要求を反映して不滅のチュチェ思想を創始し、それを各段階の革命闘争と政治、経済、軍事、文化のすべての分野に具現していく実践闘争のなかで絶えず深化発展させた。
 主席は終始一貫、チュチェ思想を唯一の武器とし、朝鮮革命の初期から二度にわたる革命戦争と二段階の社会革命、社会主義建設のための朝鮮労働党と人民の闘争を賢明に指導して人類解放偉業の輝かしい手本を創造した。
 主席が、チュチェの原理と原則を具現して示し貫徹してきた反帝反封建民主主義革命理論と新しい社会建設理論、社会主義革命と社会主義建設理論は、すべてが自由と解放を志向するすべての国と民族が見習うべき闘争の教科書である。
 主席が絶えず深化発展させたチュチェ思想には、人類の解放のために世界人民が共同で遂行すべき闘争戦略も科学的に示されている。
 主席は、人類解放闘争の戦略的目標とその達成のための闘争戦略を明示し、世界の社会主義運動と非同盟運動を全面的に強化し、世界の平和と安全を守り、自主的な新しい世界を建設するうえで提起されるすべての理論的、実践的問題も正しく明示した。
 こんにち、世界の進歩的人士と革命的人民が、主席の創始し深化発展させた不滅のチュチェ思想の真理性と革命性、普遍性に魅了されて絶えず信奉し、見習うことは、自主時代のおしとどめることのできない潮流となっている。
 チュチェ思想の研究者は、世界の5大陸のどこにもあり、それぞれの名称のチュチェ思想研究組織を設け、不滅のチュチェ思想を普及する活動を力強く展開している。1969年4月15日、マリで初めてチュチェ思想研究組織が結成されてからわずか20余年間に世界の100余か国にチュチェ思想研究組織が結成され、チュチェ思想研究普及活動が力強くおこなわれ、研究者の隊列も多く増えた。
 1978年4月9日には、チュチェ思想研究普及活動を国際的規模でさらに拡大発展させるという現代の志向を反映して、チュチェ思想国際研究所が創立し、それを前後にして地域的なチュチェ思想研究所が各地域で結成されてチュチェ思想普及活動がさらに活発におこなわれている。
 これとともに地域および国際チュチェ思想研究セミナーが大規模で盛大におこなわれており、世界各国で多くの全国セミナー、連合セミナー、グループセミナー、各種集会がおこなわれている。
 彼らは、チュチェ思想研究とともに世界的範囲における普及活動も力強くおこなっている。金日成主席と金正日総書記、金正恩総書記の不朽の古典的著作を60余の民族語で翻訳、出版して普及しており、「チュチェ思想研究」「金日成主義研究」「チュチェの時代」をはじめ、各種の雑誌とニュースレターを世界130余の国々に配布している。
 これらのすべての事実は、主席が創始し深化発展させたチュチェ思想こそは、自主時代の人類解放闘争の道を最も正しく示す思想的旗印であることを力強く確証している。
 チュチェ思想の創始が宣言され、全世界に波及していた20世紀に次いで21世紀に入ってもわずか数年間に多くのチュチェ思想研究組織が新しく結成された。
 世紀を次いで人類の前途を指し示すチュチェ思想が永遠な人類解放の旗印であることが、さらに明らかになっている。


自主時代における人類解放闘争の最終目標

 主席は現代に対する正しい評価を下したうえで、人類の自由と解放のための闘争の最終目標を示すことにより、人類解放闘争を新たな境地で目的指向性を持って繰り広げることのできる確固たる保証をもたらした。
 現代に入って時代の評価問題は、人類の生存と人類社会の運命に関わる重大な課題として提起されていた。
 新時代に入りながら自主性のために世界各所で起こった社会主義諸国の人民の革命闘争とともに植民地諸国の人民の民族解放闘争、新しく独立した国々の新しい社会建設のための闘争は、帝国主義、植民地主義者を不安と恐怖におののかせた。
 帝国主義者と植民地主義者は、危機に処した自分らの運命を救うために社会主義諸国と自主的な独立国家に反対する露骨な侵略行為を働き、アジア、アフリカ、ラテンアメリカ人民の民族解放運動を野蛮に弾圧し、世界のいたるところで平和と安全を悪辣に撹乱した。そして、他国と他民族の「独立」と「自由」を認めるふりをしながらも、反動化された軍部上層および種族上層部の代表のような右翼階層を買収して、これらの国々に対する新植民地従属化政策を実施した。
 これによって新しく独立した少なからぬ国々が、帝国主義者の侵略策動と狡猾な従属化策動に巻き込まれて右往左往しているかとすれば、期待をもって依存しようとしており、一部の社会主義諸国までも帝国主義者に恐れをなし、幻想をもつ傾向があらわれている。
 ここに現代修正主義者によって現代に対するあらゆる誤った反動的見解が流布されていて、少なからぬ国々で新しい社会建設の進路を見出せず、右往左往していた。
 こうした現実は、自主性を志向する社会主義諸国と新しく独立した国の革命家たちと人民をしてこんにちの時代に対する正しい認識をもち、いつにもまして反帝反米立場を堅持し、すでに獲得した民族的独立を強化し、国の繁栄をなし遂げるための闘争を力強く繰り広げることを切に要求していた。
 主席は、自主時代の人民大衆の解放闘争の切迫した要求を科学的に洞察したうえで、現代を過去の時代と区別して自主性の時代として新たに定式化した。
 現代が自主性の時代であるという主席の定式化には、こんにちの時代が抑圧されさげすまれていた人民大衆が自己の運命の主人として登場して、自己の運命を自主的に、創造的に開拓していく歴史の新しい時代であるという意味が込められている。
 現代に対する主席のこうした評価は、かつて生産道具の発展水準や社会経済制度の類型、社会発展で果たす特異な分野の役割と意義によって区分した見解と区別される最も通俗的で独創的な科学的評価である。
 現代に対する最も正しくて独創的な評価を下した主席は、帝国主義、支配主義に反対し、自主性を志向する国の国家元首と進歩的人士、人民に現代の本質と推移を正しく知らせて、彼らが自主性を目指す闘争の道に確信をもって進むよう大きな心血を注いだ。
 主席は、世界の進歩的人民が時代の推移と全般的潮流を知ってこそ、それに合わせて自国と自民族の解放闘争を目指す正しい道を求めることができ、人類解放闘争の偉業の共同戦線で歩調をともにしていけるとみなし、接見する外国の友人と人民に現代の本質と推移についてわかりやすく通俗的に説明し、彼らを覚醒させた。
 他人に拘束されて生きるのではなく、自主的に生きようとする世界人民の志向と要求を反映して現代を自主時代に定式化し、自主時代の推移を正しく目覚めさせる主席の教示は、現代に対するいかなる見解や規定とも対比できない通俗性と科学性によって、日増しに大きな感化力を表し、世界の数億万人民の共感を呼び起こした。
 主席は、現代の本質に対する科学的解明にもとづいて人類の自由と解放のための闘争の最終目標を明示することにより、人類の解放闘争を現代の潮流と一致させて力強く展開していける確固たる展望を開いた。
 自由と解放の旗印は、人類が久しい前から掲げた闘争のスローガンであった。
 しかし、どこまでどのように闘争すれば真の自由と解放をなし遂げることができるのかについては、主張も異なり、見解もそれぞれであった。
 すぐれた英知と非凡な洞察力をもって20世紀の時代的潮流の自主的本性を最初に見抜いた主席は、人民大衆の本性的志向と要求の実現の見地から人類解放偉業遂行の最終目標を新たに示した。
 主席が新たに解明した人類解放偉業遂行の最終目標は、人民大衆の自主性を完全に実現することである。
 これには、自由と解放のための進歩的人類のすべての闘争が徹底して自主性を実現することに服従しなければならないし、自主性を完全に実現する時まで解放闘争を絶えず展開しなければならないという貴重な思想が込められている。
 主席は、自主性を完全に実現するうえで提起される重要な戦略的課題についても明白に示した。
 主席は朝鮮革命をおこなった当初から終始一貫、帝国主義が人民大衆の自主性を抑圧する民族的従属と階級的支配の根源であり、植民地国の人民に対する民族的従属と支配は帝国主義の本性であり、生存方式であるとみなした。
 主席は、まさに帝国主義の反動性に対する科学的眼識をもっていたので、帝国主義を完全に一掃することこそ、人民大衆の自主性を実現していく根本条件をもたらすための闘争となり、人類解放闘争の最終目標を実現するために第一義的に解決すべき課題となると確言したのであった。
 主席は、世界的範囲における社会主義の全面的な勝利を人民大衆の自主性を完全に実現するための重要な課題として提起した。
 主席はクウェート「アル・カバス」新聞社総局長が提起した質問に対する回答をはじめ、各教示と談話、演説で人民大衆があらゆるものの主人となり、すべてが人民大衆のために奉仕する社会主義社会は、人民大衆の自主的で創造的な生活と永遠な未来を保障するすぐれた社会であることについて具体的に述べた。
 主席が人類解放闘争の最終目標を新たに解明することにより、人類の解放偉業は全世界的範囲で帝国主義、植民地主義を完全に一掃し、すべての国とすべての民族が民族的あるいは階級的な従属から脱して、社会主義を完成する歴史的な闘争道程を経て完遂されるというのが新たに解明された。
 ラテンアメリカのある政治家は、金日成主席は不滅のチュチェ思想を創始し、人類の自主偉業の道を明示した偉大な思想理論家であるとし、自主への道、まさにこれが現世紀の基本潮流であり、新世紀の人類の進路であると激賞した。
 主席は、人類解放を目指す闘争の発展とその勝利の合法則性についても科学的に示した。
 主席は、人類の解放闘争の発展とその勝利は、各国で革命が成功裏に遂行される過程を通じて、そして、各国の革命が互いに支持し補充する過程を通じてなされることを新たに闡明した。
 主席が新たに示したこの理論には、人類解放を目指す闘争の発展とその勝利が、世界的範囲で同時になされるものではなく、個別的な民族国家で革命が勝利する過程を経てなされることと、各国における革命の勝利は該当の国の革命の主体の決定的役割によってもたらされるという真理が込められている。
 主席が、人類解放を目指す闘争の発展とその勝利の合法則性に対する理論を新たに科学的に示すことにより、自主性を志向する世界のすべての国と民族、被抑圧人民が、自由と解放のための闘争を最も正しい戦略戦術にもとづいて展開できる威力ある武器がもたらされるようになり、人類の自由と解放のための闘争史に存在してきた偏狭な民族利己主義と民族排外主義に決定的打撃を加え、世界の進歩的人民が確固不動の主体的立場と国際主義的立場にしっかり立って人類の解放偉業を力強く推進できるようになった。


現時、人類共同の闘争課題

 金日成主席は、自主化された新しい世界を建設することを現時、世界人民が共同で堅持していくべき課題として示した。
 主席は、誕生80周年に際して共和国政府が催した宴会でおこなった演説で、帝国主義者と反動派の主観的意思に反して、自由で平和な新世界の建設が可能な社会的・歴史的条件がいっそう整えられ、自主性を目指す世界人民の闘争で新たな転換が起こっている時代的環境を科学的に分析しながら、こんにち、世界の進歩的人民の前に提起される共同の課題は、自主化された新しい世界を建設することであると明示した。
 主席が示した自主化された世界を建設するという共同の闘争戦略は、自主性を目指す世界人民の闘争がいまだかつてなかった大きな幅と深さをもって前進していく、自主時代の推移全般に対する科学的な分析にもとづいたものであった。
 日増しに世界のより多くの国々が自主の道に進んでおり、自主性を志向する激しい潮流が、帝国主義、植民地主義の支配と干渉の逆流を押しのけながら世界のすべての大陸を席巻していた。社会主義力量が日に日に強化される一方、アジア、アフリカ、ラテンアメリカの植民地諸国で民族解放闘争の炎が激しく燃え始め、1950年代の中葉から1980年代の末まで100余の諸国が民族的独立をなし遂げ、新しい社会建設の道に入った。
 主席は、こうした時代の要求に対する科学的な分析にもとづいて、自主化された世界を建設することを現時代の世界人民が遂行すべき共同の闘争課題として示したのであった。
 主席が示した自主化された世界を建設するという共同闘争戦略は、現時、帝国主義者をはじめとしたすべての反動勢力によってかもし出されていた複雑で緊張した国際情勢に対する正確な分析にもとづいたものであった。
 主席は、全世界の自主化を目指す闘争が本質においてどのような闘争であるかについても解明した。
 主席が新たに解明した自主化された世界を建設するための闘争は、本質において帝国主義、植民地主義をはじめとしたあらゆる支配主義を完全に一掃し、すべての国と民族の自主権が完全に実現される世界を建設するための闘争である。
 自主化された世界を建設するための闘争は、帝国主義、植民地主義を最終的に一掃するための闘争である。
 主席は1982年10月26日、朝鮮を訪問しているパキスタン大統領を随行した記者たちが提起した質問に答えながら、こんにち、国際情勢は極めて複雑で緊迫している、国際緊張状態を緩和し、世界の平和を守るためには、全世界の自主化を実現しなければならない、そのためには世界のすべての国、すべての民族が、外部勢力のあらゆる支配と従属から脱し、民族的独立を達成しなければならないと教えた。
 すべての国、すべての民族が、外部勢力のあらゆる支配と従属から脱して民族的独立をなし遂げ、自主性を確固と堅持していく時、全世界の自主化が実現されるであろうし、そうなる時、帝国主義者が孤立されて役に立たず、世界の平和が保障されるだろうという科学的判断にもとづいた意義深い助言であった。
 自主化された世界を建設するための闘争は、あらゆる支配主義を完全に一掃するための闘争であると同時に、国と民族の自主権が完全に実現される民主化された国際社会を建設するための闘争である。
 もちろん、世界には、大きな国もあり小さな国もあり発展した国もあり発展途上の国もある。しかし、すべての国は、平等で自主的である。それゆえ、国の大きさや発展程度にはかかわらず、すべての国の間には、支配と従属の関係ではなく、平等かつ公正の国際関係がなされるべきである。
 主席は1991年6月1日、日本共同通信社社長が提起した質問に回答を与えながら、自主性は社会的人間の生命であり、国家と民族の生命である。対内的には人民大衆が国家と社会の主人としての地位を占め、主人としての役割を果たすようにすることにあり、対外的には国と民族の自主権を確固と保障し、自主、平和、親善の理念にもとづいて世界各国との友好・協力関係を発展させるべきであると述べた。

 主席は、すべての国と民族が自主性を確固と堅持し、対外関係でも自主権を堂々として行使していくことを自主化された世界を建設するための重要な原則的方途として提示した。
 主席は、国と民族が対内的にすべての路線と政策を自国の実情に即して独自に策定し、自力で貫徹するだけでなく、対外的にも完全な自主権を行使しなければならないことについて具体的に示した。
 主席によって自主化された世界を建設するという戦略が示されることにより、進歩的人類は支配と従属の古い世界を爆破し、自主と繁栄の明るい新世界に向かって力強く闘争していける必勝不敗の戦闘的旗印がもたらされるようになった。
 今日も世界の進歩的人士と数億万の人民は、自主化された世界を建設する戦略を「全世界の人民が恒久的に堅持していくべき闘争綱領」「世界の人民を自主偉業の勝利へと力強く奮い起こす偉大な鼓舞的旗印」であるとし、それに全的な支持と共感を表しており、全世界の自主化に関する戦略を示した主席に限りない感謝と称揚の挨拶を送っている。


進歩的人民に自覚させた団結の戦闘的旗印

 主席は、人類解放偉業の最終的勝利をおさめるうえで反帝自主勢力の強化がもつ重要性を誰よりも深く感じ、自主性を擁護する世界の人民の団結を強化することを現代、自主時代の人類解放闘争の戦略的スローガンとして示した。
 主席は、最高人民会議第9期第1回会議でおこなった演説で、自主化された世界を建設するための闘争は世界人民の共同の偉業であり、この闘争で主体は自主性を擁護する世界の人民であるので、世界人民間の親善と団結を強化してこそ、帝国主義者の妨害策動を粉砕し、自主化された新しい世界を成果的に建設することができ、各国の自主的発展も保障することができると強調した。続けて主席は、自主性を擁護する世界の進歩的人民が帝国主義者の分裂離間策動に団結の戦略で立ち向かわなければならないとし、自主性を擁護する世界の人民の団結を人類解放偉業の実現の戦略的スローガンとして示した。
 主席が新たに示した自主性を擁護する世界の人民の団結を強化するという戦略的スローガンは、自主化された世界建設の主体がほかならぬ自主性を擁護する世界の人民であるという確固たる見解にもとづいている科学的なスローガンである。
 主席が新たに示した「自主性を擁護する世界の人民は団結しよう!」というスローガンは、人類の解放闘争が新たな幅と様相を呈して繰り広げられている自主時代の要求を最も正しく反映して、自主化された世界を成功裏に建設する威力ある旗印である。
 主席は、全世界的範囲で労働者階級だけではなく各階層の人たちが、人間の自主性、国と民族の自主性を擁護する闘争に広範に奮い立っており、単に抑圧と搾取から脱するだけでなく、新しい社会を打ち立て社会主義を建設するための広範な闘争へと自主性を目指す闘争が絶えず拡大されている時代の要求を正しく具現して「自主性を擁護する世界の人民は団結しよう!」という新たな戦略的スローガンを示した。
 主席が新たに示した「自主性を擁護する世界の人民は団結しよう!」という革命的スローガンは、国際革命勢力を全面的に強化する闘争の武器である。
 自主的な世界は、それを志向する世界人民の国際革命勢力によって建設され完成される。国際革命勢力は、自主化された新しい世界建設の主人であり直接の担当者であり推進力である。それだけに、自主化された世界の建設を目指す闘争勢力を強化することはその勝敗を左右する要の問題となる。
 主席は、自主化された世界を建設する国際革命勢力を強化するためのキーポイントをまさに団結で探した。団結のみが、各国での革命勢力を一つに結束させるだけでなく、自主性を志向する全世界の人民を一つに結束させることができるとみなしたのであった。
 主席が自主化された世界を建設するための闘争勢力を準備し強化するために打ち出した団結は、すなわち、この闘争の主力である社会主義勢力の団結であり、非同盟諸国をはじめとしたすべての発展途上諸国の団結であり、社会主義勢力と発展途上諸国の団結である。自主化された世界建設を志向するすべての勢力、すべての国が、一つに固く団結するとき、国際革命勢力は全面的に強化され、世界の自主化偉業がさらに力強く前進完成されるというのは、主席が構想し新しく打ち出した団結の戦略である。
 自主性を団結の旗印としておし立て、自主性の原則に徹底してもとづいてこそ、政見と信教、制度と民族を異にする広範な自主勢力を団結させることができ、自主化された世界建設の強力な勢力を整えることができる。自主性にもとづいた団結は強固であり、それは全世界の自主化を実現するための闘争で不敗の力の源泉、勝利の決定的要因となる。
 主席が新たに示した「自主性を擁護する世界の人民は団結しよう!」という闘争スローガンは、誰にも受け入れられる普遍性と真理性によって、世界の数億万人民を一つのきずな(絆)で結びつける強力な武器となっており、世界の反帝自主勢力の団結と威力を全面的に強化し、自主化された世界を建設するための進歩的人民の闘争を絶えず激励している。
 日本のある社会活動家は、自分の著書で偉大な金日成主席が我々の時代、自主性の時代が切実に要求していた世界革命の戦略的スローガンを示したのは、実に現代の偉大な歴史的出来事である。このスローガンこそは、世界の革命的人民が人類解放の偉業を完遂するまでの全歴史的期間にわたって掲げるべき世界革命の戦略的スローガンである……世界の革命的人民は金日成主席が打ち出した戦略的スローガンを限りない感激と歓呼のなかで心から受け入れたということは、団結のスローガン、闘争の戦略に接した進歩的人類の一致した気持ちを代弁したものであるといえると述べた。
 こんにち、世界の多くの進歩的人士と数億万の人民は、自主性のための闘争の道に一つのきずなとして結び付ける強力な武器をもたらして団結の新しい歴史を開いた主席を「反帝自主勢力の団結のために一生をささげた偉大な指導者」として限りない尊敬と賛辞を惜しまなかった。


2)人類解放闘争を自主の道に引導した政治元老

民族解放運動の新たな高揚期を切り開き

 20世紀の初旬に入りながら政治的独立の道を開拓することは、朝鮮をはじめとした世界の多くの植民地および半植民地諸国で一刻の猶予も許されない運命的な課題として提起されていた。
 しかし、当時、民族解放運動を標榜した多くの人たちが、植民地民族問題解決の正しい指針をもって戦えなかったことにより、世界の多くの国と民族の民族的独立をなし遂げるための闘争は失敗と紆余曲折を経ていた。
 エンゲルスは、ヨーロッパ住民が移住した植民地については独立を予見したが、土着住民が住む植民地は宗主国の労働者階級が革命で勝利した後、その管理のもとにあり、一定の時間が経過した後に独立できると予言した。レーニンは、すべての民族は平等かつ自主的で国家的分立の自由と政治的自決権をもつべきだと提起したが、植民地諸国が従属国から分立して民族国家となるための闘争は宗主国の労働者階級の革命闘争にかかっているといった。
 しかし、時代は前進し、革命も発展した。かつて、抑圧されさげすまれていた植民地および半植民地で広範な人民大衆が歴史と自己の運命の主人として登場して、自主的に創造的に自己の運命を開拓していく新たな時代に入った。
 時代と革命の要求を敏感にとらえ、従来の理論の制限性を科学的に洞察したうえで、民族自体の力で国の独立と民族の自主権を実現していく前人未到の道を歴史上初めて開拓した方は偉大な主席であった。
 主席は抗日革命戦争の全期間、常に自主的立場にしっかり立って、すべての革命路線と方針を示し、自体の革命力量に依拠して民族解放のための闘争を力強く繰り広げたので朝鮮民族はとうとう、数十余年間も続いた日本帝国主義の植民地統治を終わらせ、祖国解放の歴史的偉業を成就することができた。
 世界の多くの植民地および半植民地諸国の独立運動者と人民は、東方の朝鮮で燃え上がった解放闘争の激しい炎を目撃し、それを独立と自由のための闘争の手本にした。
 1968年1月、キューバの首都ハバナでは70余か国から来た進歩的文化人たちの参加のもとに世界文化大会が開かれた。
 大会では、自力で民族解放革命の勝利をおさめる新時代を開拓し、とうとう帝国主義植民地体系に最初の突破口を開いた主席を敬慕して「金日成主席の直接的な指導のもとに組織展開された朝鮮人民の抗日武装闘争」であるという書類を採択した。書類では、主席が組織指導した朝鮮における抗日武装闘争の経験が現時、植民地民族解放闘争の普遍的経験であり理論であることを確証した。この書類は、自主の旗のもとに民族自体の力で国の独立と民族の解放をなし遂げた主席の卓越した功績に対する世人の一致した公認と称揚の表しであった。
 自力独立の偉大な手本を創造した主席は、朝鮮を訪ねてくる独立運動指導者たちと抗争闘士、そして、反帝民族解放闘争を大いに支持声援している国家元首と進歩的人士らに自力で政治的独立をなし遂げた貴い経験と勝利の秘訣を教え、大きな信念と勇気を与えた。
 ゆえに、主席がなし遂げた抗日武装闘争の経験を見習うために朝鮮に多くの政治活動家と抗争闘士が訪ねてきた。
 そのなかには、国の自由と民主主義のために力強く戦っているドミニカ人民運動代表団もあった。彼らは1967年5月、自主的な独立思想の第一の体現者であり、輝かしい実践家である主席を接見し、すでにおさめた成果を強化しながら国の発展をなし遂げるための助言を受けるために朝鮮に来たのであった。
 主席は、彼らに自分は革命の道を踏み出した当初からわが国の革命を自主的に遂行し、この過程に事大主義、教条主義とあらゆる日和見主義に反対し、自国の革命路線を自分の頭で思考して立て、提起されるすべての問題を自力で解決してこそ、革命と建設で成果をおさめることができるということを確信したと述べた。
 自国と自民族の運命を開拓するための革命を誰が代わってやることもできず、ひたすら自分自身が主人となって自力で遂行しなければならないということは、主席が深刻な体験のなかで体得した真理であった。主席が彼らにおこなったこの教示には、国の独立は誰もプレゼントしないし、どこからものごいし、おのずと実現されないという深奥な意味が込められている。
 アジア、アフリカ、ラテンアメリカの多くの国の革命家と被抑圧人民は、主席が開拓した植民地民族解放闘争の新たな道に沿って民族解放闘争により力強く奮い立った。
 ジンバブエの抗争闘士が、朝鮮の抗日遊撃隊員は正規軍の支援もなく、国家的後方もなく、人民の支持以外には誰の援助も受けられない困難な条件で、草の根をかみながら満州広野の吹雪のなかで15年間も爪先まで武装した日本帝国主義と戦って勝利した。ところが、吹雪はなく、1年中暑くて行く先々にバナナをはじめ、さまざまな果物と食べるものが多いわがアフリカでどうして戦えないのか、我々も立ち上がって帝国主義に反対して戦うべきであり、また戦えば勝利できるというのは、主席が崇高な手本を創造し、貴重な経験で指導した植民地民族解放闘争が新たな高揚期に確固と入り、自力独立のための闘争がおしとどめることのできない潮流となったことに対する明白な実証であった。
 早くから革命の道を踏み出した当初から植民地民族解放闘争の歴史的教訓と革命闘争の根本道理を深く洞察した主席は、踏みにじられた同胞を救い、国と民族の自主権を取り戻す道はただ銃で革命をおこなう道だけであるという動かしがたい真理を体得した。ゆえに、主席は反帝武装闘争を民族の自主権を取り戻すための第一の革命路線として打ち出した。
 組織的で積極的な武装闘争によって民族的自主権の確立の手本を示し、植民地および半植民地諸国の人民が銃剣に依拠する民族解放闘争の新たな突破口を開いた。まさにここに、主席が組織指導した抗日革命戦争勝利の世界史的意義がある。


新しい社会の建設闘争に画期的局面をもたらし

 帝国主義植民地支配からの解放は、自主性を目指す人民大衆の解放闘争で最も大きな歴史的転換となる。しかし、それによって人類が世紀を継いで願ってきた自由と解放の歴史的課題がすべて遂行されるのではない。
 主席が新しい社会を建設するための他国と他民族の闘争を指導するうえで第一義的な力を入れた問題は、彼らが政治的自主性を徹底して実現させることであった。
 金日成主席は、次のように述べている。
 「政治的自主性は、自主独立国家の第一の表徴であります。いかなる民族であっても、政治的自決の権利をまともに行使してこそ、国の完全な独立を保障することができます」
 主席が朝鮮を訪問したジンバブエ国会代表団との談話で述べているように、政治的自主性のない国は、たとえ大統領がおり、国会があるとしても真の独立国家とはいえず、そういう国は再び外国に従属されるものである。政治的見解ももてず、他人の言葉を唯々諾々と従う執権者はいくら絶対的な権限をもっているとしても、かいらいにすぎず、自国、自国人民の利益のために奉仕しない国会は実際において他人の拍子に踊るクラブに過ぎない。
 それで主席は、国と民族の政治的自主性を保障することを終始一貫、自主独立国家の第一の表徴、第一の生命としておし立てたことであった。
 アメリカのある女流記者は、解放を迎えた朝鮮を訪ねた。早くからアメリカを離れて長い間、海外で生活しながら文筆活動によって帝国主義とファシズムに反対し、平和と民主主義のための世界人民の闘争を支持してきた進歩的な記者である彼女が朝鮮に来たのは1947年8月であった。
 彼女は、主席の賢明な指導のもとに解放後、全国が新しい社会建設で沸き立っていた朝鮮の各地を参観した。
 現実を目撃すればするほど、そして、時間が流れれば流れるほど、驚きと感嘆を禁じえなかった彼女は、元山でおこなわれた記者会見で自分が朝鮮に来て感じた感想を率直に打ち明けた。彼女は自分が北朝鮮に来て何よりも驚いたのを、政権を運営し、経済を建設し、人民生活を営むこれらのすべての活動を主席の自主的な政治を高く奉じ、朝鮮の人たちが責任をもって自力で解決していくことであるとし、現地を参観する過程に受けた大きな感動についても具体的に話した。
 この記者会見に対する消息は、新聞、通信、放送を通じて内外に広く報道された。
 朝鮮に対する参観を終えた彼女は、自分が帰ると正義の筆を掲げた記者として、自主の旗のもとに前進する北朝鮮の現実を紹介する記事を自国と他国の新聞に掲載し、書籍もぜひ書くと本音を言った。
 翌年の1948年の初旬にヨーロッパのある出版物には彼女が帰国しながら書いた朝鮮訪問印象記が掲載された。朝鮮の現実をありのまま紹介した印象記であった。彼女の訪問印象記には、朝鮮に滞在する日々に行く先々で自主的な人民の政権のもとに自主政治が実施されて、自主的な新しい社会を打ち立てる朝鮮の荘厳な現実に対する強烈な印象が少しも飾り気もなく叙述されていた。彼女の印象記は主席が解放後、実施した自主政治が真の新しい社会建設の道に進もうとする世人に政治的自主性の実現の実践的模範になったという歴史的事実に対する是認でもある。
 資本主義国を代表するアメリカのある記者が、新しい社会建設を早める朝鮮に直接来て見て書いた記事は、発表されるや否や、各国の通信と新聞、放送を通じて広く報道された。それは、解放された朝鮮、新しい社会建設で沸き立つ朝鮮に世界人民の耳目が集中されるようになった重要な契機となった。
 これを契機に世界の多くの進歩的人士と人民は、長い間、日本帝国主義の植民地となっていた朝鮮が、民族的独立後、どのように変わったかについてより良く知るようになり、自主的な政権のもとで新しい民主朝鮮建設の輝かしい成果をおさめている朝鮮人民を熱烈に祝賀した。
 主席は1991年4月29日、国際議会同盟第85回総会の開幕会議でおこなった歴史的な演説「自由、平和の新しい世界のために」でも公正な新国際秩序を樹立する活動を人類が志向する新しい世界を建設するための重要な要求として提起し、その実現の原則的方途について全面的に示した。
 主席は演説で、政治、経済、文化のすべての分野で不平等な旧国際秩序をうちこわし、公正な新国際秩序を確立しなければならない、世界には大国と小国はあっても、地位の高い国と低い国はありえず、発達した民族と未発達の民族はあっても、支配する民族と支配される民族の区別はあってはならない、すべての国と民族は国際社会の同等の構成員として、自主的で平等な権利をもっている、国際関係ではいかなる特権や専横も許容してはならず、相互尊重と内政不干渉、平等と互恵の原則にもとづいて諸国間の友好と協力を積極的に発展させなければならないと指摘した。
 主席の演説が発表されるとすぐ世界は、それを「新しい国際秩序の内容を全面的に示した百科全書的な演説」「公正の国際秩序確立の輝かしい旗印」であると称揚し、人類の解放偉業に大きく貢献している主席に対する限りない敬慕と感謝の情を禁じ得なかった。
 それゆえ、朝鮮を訪ねて自主の深遠な真理を体得し、自主の偉大な武器で新しい社会建設を力強くおし進めるという固い決意をもって帰国する外国の多くの友人と人民は、主席が示した自主の道に進む時、必ず勝利と繁栄のみをなし遂げることができるという信念と意志で胸を燃やし、「金日成主席は、自主性の象徴、自主性の守護者」であると、異口同音にいった。
 主席は、新しい社会建設に入った国々が自力で自立的民族経済を建設していく巨大な創造の歴史を初めて開拓し実践してきた偉大な先駆者であった。
 1983年10月、主席は、ある国の政治活動家を接見した時、朝鮮の自立的民族経済建設経験をわかりやすく聞かせ、経済的自立へと導いた。
 主席は戦後、わが国の都市と農村は、アメリカ帝国主義によって廃墟となり、我々に残ったものは何もなかった。当時、我々には一枚のレンガ、1グラムのセメント、1片の鉄材もなかったし、それに戦争の時期に多くの青壮年がアメリカ帝国主義者と戦うために人民軍に出ていたので、労力も非常に足りなかったとし、当時の困難な国の状況を具体的に述べた。
 そして、我々は戦後、国の状況が非常に困難であったが、領土があり、人民があり、人民政権があり、人民を指導する党がある以上、国のすべてのものがいくらひどく破壊されたとしても、再び新しい生活を創造できるという確固たる信念をもって、戦後の復興建設のための闘争に全人民を奮い立たせたと話した。
 主席は、自立的民族経済建設路線を打ち出し、あくまで貫徹したことと、他国の援助よりも自力を信じて自分の手で復興建設をおこなったことについて教えた。
 他国の援助によってではなく、自力で国の経済を建設した生々しくて意味ある主席のこの助言は彼の心の琴線にふれた。
 新たに独立した国、発展途上諸国の人民を経済的自立の道に導きながら主席が最も重視した問題は、これらの国々間の協力と交流を拡大し発展させることであった。
 主席は1974年9月19日、ダオメー政府機関紙「ダオ・エクスプレス」社長との談話で、発展途上諸国の協力を実現することがなぜ必要であり、実際的可能性がどこにあるのかについて具体的に教えた。
 主席は、発展途上諸国は帝国主義が「援助」の美名のもとに、経済的な侵略を断行できないようにするためにも、また、すでに獲得した民族的独立を強固にし、国の繁栄をなし遂げるためにも、必ず経済、技術面での協力と団結をなし遂げなければならないと述べた。主席は、続けて発展途上諸国は協力を強化することができるすぐれた経験や技術ももっている、現在、発展途上諸国には100余の国があるが、これらの国がすぐれた経験と技術を一つずつ出し合っても、100余りの立派な経験と技術を得ることができる、発展途上諸国はこれだけを交換しても、大きな問題を解決することができると教えた。
 主席の教示は、各国の自然富源と技術的潜在力を具体的に分析したことにもとづいた実に賢明な助言であった。
 人民が主人となった新しい社会、新しい生活創造で自衛的国防力の建設が占める位置と重要性を誰よりも明るく見抜いた主席は、自衛的国防力建設の輝かしい模範を創造し、新しい社会建設に奮い立った発展途上諸国人民を導いた。
 主席は1971年9月、コロンビア国会代表団が訪朝した時にも、自衛的な国防力建設の重要性について、わが国の実例を上げながら具体的に述べた。
 主席は1962年に起こったカリブ海危機は、我々に国の自主権を守るためには自立的民族経済を建設するだけでなく、自衛的国防力をさらに強化しなければならないという深刻な教訓を与えた。わが党は、経済建設と国防建設を並進させるという路線を打ち出し、それを実現するために闘争していると述べた。
 主席は1980年4月、ザンビア大統領と1981年9月、イラン国会代表団との談話でも、わが国が困難な条件でも自立的民族経済を建設し、国防における自衛を実現したので政治的自主性と民族的独立を固守しているとし、民族的独立を強化するうえで人民大衆を固く団結させることも重要であるが、自衛的国防力を建設するのが非常に重要であると懇ろに述べた。
 主席が新しい社会を建設している国々に自衛的国防力を建設することがもつ重要性について実例を挙げながら具体的におこなった助言は、朝鮮ですべてのものが不足し困難な時にすべてを克服しながら自衛的国防力を建設したことがどんなに正当であったかについての確信として一貫されており、それで自衛的国防力建設の道に導く貴重な経験となるのであった。


社会主義運動を自主の軌道に乗せ

 主席にとって、社会主義はすなわち自主であった。自主性を志向する人民大衆の選択はすなわち社会主義であり、自主によって建設しなければならないのがまさに人民が主人となった社会主義であるということは、主席の心中に常に刻まれている政治的信条であった。
 主席は1973年8月25日、日本の大阪府知事一行を接見した時にも自主的に、独自的に社会主義を建設してきた朝鮮の経験についてわかりやすく教えた。
 主席は知事一行に、朝鮮ではどのようになって新しくて独創的な路線を打ち出し、自力で社会主義を早く建設することができたのかという彼の質問に具体的な回答を与えた。
 主席は、新しくて独創的な路線を打ち出し、社会主義を建設したのは、他国の実情とわが国の実情が異なるからだ。ヨーロッパの社会主義諸国の場合を見ると、それらの国々はかつて正常な資本主義の発展段階を経た条件で社会主義革命を遂行した。しかし、わが国は、正常な資本主義の発展段階を経なかった。それで、わが国では、解放直後、社会主義革命ではなく、反帝反封建民主主義革命を遂行したと述べた。そして、1955年4月のテーゼで、社会主義革命を本格的に早めるという方針を打ち出した時にも、ヨーロッパの一部の国の人たちは、工業の土台がない条件でどのように協同化を実現することができるかといって我々をあざ笑ったが、協同化が農民たちの生活上の要求として提起されており、それを遂行できる主体的力量が準備されている条件で、他国の人々があざ笑っても構わず、協同化を力強くおし進めたし、他のすべての活動はいうまでもなく、インテリの問題をはじめとした民族幹部養成問題に至るまで、すべてをわが国の実情に即して自主的に解決したと述べた。
 主席は彼に、各国の革命の主人はその国の人民自身であるので、すべての路線と政策を自国の実情に即して独自的に打ち立てて自分のやるべきことは自力でやらなければならない。もちろん、他国の経験を受け入れる場合にも、自国に必要であり、自己の実情に合致すれば受け入れ、そうでなければ受け入れてはならないと述べた。そして、わが国が革命と建設で自主的な原則を確固と堅持してきたので、アメリカ帝国主義によって分裂され、大国の間に挟まれており、周辺の情勢が複雑であっても少しも微動だにせず、自己の主張をあくまで固守することにより、社会主義建設で大きな成果をおさめていることについて具体的に説明した。
 自主の信念が脈打つ主席の教示は、早くから自主で革命の錨を上げ、ひたすら自主で国と民族の独立と新しい社会建設、社会主義偉業を勝利へと指導してきた主席から聞くことのできる貴重な教示であった。
 20世紀が終わりの1990年代に入りながら、人類の解放偉業は大きな難関に直面するようになった。ソ連をはじめとした東欧諸国で社会主義が崩壊する悲劇的な事態が起こったのである。
 世界の社会主義運動でかもし出された悲劇的な事態によって、社会主義偉業、人類の解放偉業に及ぼす結果を全面的に分析、洞察した主席は、社会主義偉業と人類の運命に対する責任感を強く自覚し、挫折した社会主義運動を再建し、より力強く前進させるために心血を注ぎ労苦を尽くした。
 主席は、社会主義勝利の必然性に対する科学的な解明を与え、自由と解放を渇望する世界の進歩的人類に大きな希望と信念を与えただけでなく、社会主義再建の画期的契機をもたらすために心血を注いだ。
 主席の誕生80周年を迎え、世界の各大陸、各地域で多くの外国の友人と人士は主席がおられる平壌に集まった。主席に対する限りない敬慕の念と祝賀の挨拶を送りたい切なる願いを抱いた進歩的人類のおしとどめることのできない流れであった。それは、複雑多端な厳しい時期に自分の運命、人類の運命を託する人類解放の救い星である主席に馳せる世人の心情であった。
 主席は、世界の多くの共産党、労働党および進歩的な政党代表団が訪朝する際に、社会主義を志向する人民と革命的党が掲げるべき共同の行動綱領を打ち出すことを決心し、幹部らに社会主義を擁護し前進させるための共同の闘争調領を採択し発表するうえで捷起される貴重な助言をおこなった。
 それだけでなく、主席は、外国の代表団と人士、友人を対面し、社会主義を再建するための闘争で提起される課題と方途に対する自分の見解と立場を提起した。そして、変化する情勢と環境に即して、正しい共同戦略を立てるために緊密に協力するという問題をはじめ、国際問題に対する多くの意見も交換した。
 主席のこの貴重な教示に接した多くの国の共産党、労働党と進歩的な政党の代表は、社会主義建設で朝鮮労働党と朝鮮人民がおさめた成果を目撃し、社会主義を擁護し前進させる決意を表明しながら、それに関した共同宣言を採択するという朝鮮労働党の発起を積極的に支持し、双務的あるいは多務的会談を保障し、社会主義偉業を擁護固守し、社会主義運動を新たに再建するための方途を十分に討議した。
 それで1992年4月20日、平壌では世界70の党の48名の党首をはじめとした代表が署名した歴史的な平壌宣言「社会主義偉業を擁護し前進させよう」が採択、発表されるようになった。
 世界の革命的党と進歩的人民は、平壌宣言を「社会主義再建運動と国際共産主義運動の再生を告げる偉大な共産党宣言」「社会主義再建の戦闘的旗印」「社会主義を守ろうとする固い意志を闡明した書類」「帝国主義者の反社会主義策動に対処する強力な武器」であると高く評価しながら積極的に支持した。
 平壌宣言が採択された同年である1992年末、すでに世界の80余の政党が宣言に署名し、2003年6月までその数は260余に増えた。これは、世界の数億万の人民大衆が平壌宣言を社会主義再建運動の指針として受け入れているという明白な表しであった。
 こんにち、進歩的人類は自主性の旗のもとに、社会主義制度を強化発展させるために戦う朝鮮労働党と朝鮮人民の闘争に全的な連帯を送っており、平壌宣言の旗のもとに社会主義再建運動を力強く繰り広げている。
 平壌宣言の発表以来、アイルランド共産党、ベルギー労働党、スウェーデン・マルクス・レーニン主義共産党(革命家)、バングラデシュ労働党、ネパール共産党(統一中央)、民主コンゴ労働党をはじめ、各政党では平壌宣言にもとづいて党の綱領と党規約、党内の基本書類全般を新たに作成し、政治決議を採択し、平壌宣言を党大会の公式書類として添付するなど、社会主義のための闘争の憲章として打ち出した。
 平壌宣言の精神に従って、世界の各地で革命的党が再建され、社会主義再生のための闘争も広範に広げられた。宣言の発表以後、わずか1、2年の間に社会主義が挫折した東欧のほとんどの国で共産党、労働党が再建されて活動を開始し、ロシア連邦共産党、ベラルーシ共産主義者党、ウクライナ共産党(マルクス主義者)、ルーマニア新社会党、ポーランド共産主義者同盟「プロレタリアート」をはじめ、新しい出発を宣布した党は、自国で社会主義体制の崩壊の原因を深刻に分析し、その教訓にもとづいて社会主義の再生を基本任務としておし立て、それを実現するために積極的に闘争した。各国の共産党、労働党と進歩的政党も平壌宣言にもとづいて社会主義を志向する国内のすべての左翼力量との団結をなし遂げ、連帯を強化するための闘争を力強く繰り広げた。
 現実は、社会主義偉業の勝利のために一生の労苦を惜しみなく尽くした主席の崇高な意図が日増しに全世界の進歩的人類の一致した信念として、より確固と転換されており、主席が示した平壌宣言の旗のもとに全世界が社会主義へと進むことはおしとどめることのできない時代的趨勢となっていることを如実に示している。

 (注)朝鮮中央通信は2022年5月6日、「ネパール共産党(統一された社会主義)、パレスチナ人民闘争戦線、エジプト社会主義労働党が署名した」との記事を配信した。なお、同通信は、2022年4月21日付け記事で「こんにち、平壌宣言に署名した政党の数は310余に増えている」との記事を配信している。


非同盟運動を反帝・自主の道へと導き

 新たな発展段階に入った20世紀の人類解放闘争は、その年代記に非同盟運動の誕生という今一つの感動的な出来事を刻み込んだ。
 1961年9月、旧ユーゴスラビアの首都ベオグラードで開かれた第1回非同盟諸国首脳会議を契機にして、非同盟運動が第一歩を踏み出したのである。長い間、歴史の外に押しやられていた発展途上諸国が、一つの組織化された政治的力量で国際社会に登場したことは人民大衆の自由と解放のための闘争で起こった重要な出来事であった。
 新しく独立した国々をはじめ、広範な力量を網羅する非同盟運動の誕生は、圧制者、略奪者を戦慄させる数億万の進歩的人類の組織的団結の一大誇示となった。
 主席は、非同盟運動の初期から、それを反帝自主的な性格をもった世界の進歩的人民の革命的な運動として方向を転換させることに大きな心血を注いだ。
 非同盟運動の初期から、それを反帝自主的運動として転換させることに深い関心を払った主席は、反帝自主の炎が激しく燃え上がる時代の要求に即して、この運動を反帝自主の旗をより高く掲げていく革命的で進歩的な運動として発展させることに大きな力を入れた。
 主席は1974年5月、朝鮮が非同盟運動に正式に加入するという立場を明らかに闡明し、それを実現するための具体的な対策まで講じた。
 それで朝鮮は1975年8月、ペルーの首都リマで開かれた非同盟諸国外務相会議で満場一致で非同盟運動の公式加盟国となった。朝鮮の非同盟運動の加入は、非同盟運動の制約性を克服し、自主時代の威力ある反帯革命力量としての役割を果たすうえで大きな意義をもった。
 主席は、革命発展の各時期に非同盟運動を強化発展させるうえで提起される貴重な指針をもたらすことに格別の関心を払った。
 主席は1975年12月16日、歴史的論説「非同盟運動は現代の強大な反帝革命勢力である」を発表した。
 主席は、著作で反帝・自主の崇高な理念を具現している非同盟運動は、帝国主義、植民地主義の侵略と略奪に反対する威力ある運動であり、非同盟諸国は帝国主義反動勢力と対峙している強力な勢力であると定式化し、非同盟諸国が、帝国主義、植民地主義に反対する闘争をさらに強化するうえで提起される原則的問題について示した。
 主席は、帝国主義者がかつて非同盟諸国、発展途上諸国を過酷に抑圧し搾取しただけでなく、これらの国々が民族的独立をなし遂げた後にも侵略と干渉を続けており、新植民地主義の方法で略奪し搾取しようと悪辣に策動している事実を暴露し、非同盟諸国が帝国主義に反対する闘争を抜きにしては、民族的独立を固守することも、繁栄する新しい社会を建設することもできないことを明白に論証した。
 主席は、続けて非同盟運動の崇高な理念と目的を実現するためには、非同盟諸国が自主性を堅持し、これらの国々との団結と協力を強化発展させることが重要であると指摘し、それを実現するための闘争方向と方途を全面的に示した。
 主席が発表した歴史的著作は、非同盟運動の本質と性格を全世界に明示し、この運動を徹頭徹尾、反帝自主的な運動として強化発展させるうえで貴重な指針となった。
 主席は、非同盟諸国が自己の理念に即して国際舞台で反帝自主の原則を確固と固守していくようにエネルギッシュに指導した。
 この会議に先立って主席は1976年5月、ユーゴスラビア・タンユグ通信社の対外編集主筆を接見した席で、第5回非同盟諸国首脳者会議の方向と関連した諸問題について述べながら、今回の会議では、発展途上諸国を侵略し略奪しようとする帝国主義者の策動を粉砕し、自由と解放、民族的独立を強化するための人民の闘争をより効果的に支援するという問題を基本にして討議すべきであるという朝鮮労働党と共和国政府の立場を明確に示した。
 主席は、1990年代に入って冷戦が終息し、非同盟運動が新たな挑戦に直面した時にも、厳しい国際情勢に対処し、この運動の発展方向と関連した原則的諸問題を明示した。
 主席は1992年1月、インドネシア「メディア・インドネシア」新聞社責任主筆の質問に対する回答で、厳しい国際情勢に対処して非同盟運動の発展方向と関連した原則的諸問題を明確に示した。
 主席は著作で、自由で平和な新しい世界を建設しようとする世界各国人民の志向には変わりがなく、自主、平和を志向するのは逆もどりさせることのできない歴史の基本的潮流であると述べた。続けて主席は、自主性を生命とする非同盟運動は、その根本理念と原則を変わることなく固守しなければならない。この運動が変化する情勢に効果的に対処するためには、活動方法をたえず改善しなければならないが、その根本理念と原則から脱してはならないとし、非同盟運動を強化発展させるうえで提起される諸問題について全面的に示した。
 主席が示した非同盟運動を強化発展させるうえで提起される問題は、非同盟運動の統一団結を実現し、帝国主義、支配主義、植民地主義、人種主義に反対して共同の戦略で国連をはじめ、国際舞台で歩調を合わせることであり、非同盟諸国が、政治、経済、文化のすべての分野にわたって互いに緊密に協力することである。
 主席が新たに示した非同盟運動に関する思想と理論は、この運動がその根本理念と原則、政治的性格を変わることなく固守するうえで綱領的な指針となった。
 非同盟運動には、すでに久しい前から100余の加盟国がおり、世界の多くの政治指導者と著名な人士がこの運動に関与している。しかし、非同盟運動を終始一貫、反帝自主の崇高な道一筋に変わることなく指導した方は、ただ主席だけであった。
 非同盟運動の発起者の一人である旧ユーゴスラビア大統領であったチトーは、すでに1977年8月、訪朝した時、主席にこれからは非同盟運動を尊敬する金日成主席が指導しなければならないと、丁重に申し上げたことがある。
 インドネシアのバリでは2011年5月25日から27日まで、非同盟運動創立50周年に際して、非同盟諸国外務相会議がおこなわれた。会議では、加盟国が団結して国際問題の解決の主導的力量としての役割を強める問題と発展途上諸国の利益を守り、強化するうえで集団的行動を強化するという問題などを討議し、創立50周年に際し、バリ記念宣言と最終書類が採択された。宣言には、この運動が今後より平和で安全かつ、多極的な世界を建設し、加盟国に対するいかなる一方主義的行為も断固粉砕するための原則と方途が示されている。
 この宣言は、非同盟運動の卓越した指導者であった主席が一生の労苦を尽くして導いた非同盟運動の反帝自主的理念がそのまま生きているということに対する力強い示威であった。


3)世界の平和と安全の偉大な守護者

 金日成主席は、平和で安定した世界で生きようとする進歩的人類の平和擁護偉業を力強く導いてきた世界の平和と安全の第一の守護者であった。
 スイス、チュチェ思想研究グループが主席の誕生100周年慶祝チュチェ思想世界大会の召集決定を支持し、不滅のチュチェ思想によって抑圧の古い世界が崩壊し、自由で平和な新しい世界が創造される自主の時代、チュチェの時代が到来したという声明を発表したのは、世界の強固な平和と安全を守るために積み上げた主席の世紀的業績に対する限りない称揚であった。
 反帝・平和勢力の団結は、平和と安全をなし遂げ、守り抜くための切実な要求として提起された。
 主席は、世界の反帝・平和愛好勢力の団結のために、人類解放偉業の旗手である社会主義諸国の統一と団結を実現するために最も大きな労苦と心血を注いだ。
 金日成主席は、次のように述べている。
 「真の社会主義諸国の人民と第三世界諸国の人民、世界のすべての平和愛好人民が固く団結して反帝闘争を力強く繰り広げるならば帝国主義者の新たな戦争挑発策動を成功裏に粉砕し、世界の平和と安全を守ることができます」
 社会主義諸国の団結問題がもつ重大な意義を誰よりも深く洞察した主席は、この問題を党と国家の一貫した対外政策的問題として提起し、その実現のためにエネルギッシュに活動した。
 主席が構想し、それを実現するために努力した社会主義勢力の団結は、単なる経済的・技術的進歩や文化交流のためのものではなかった。それは、徹頭徹尾、反帝・自主のための団結、世界の平和と安全を守り、人類の自主的発展と繁栄の実際的な担保をもたらすためのものであった。
 主席は、独立をなし遂げ、新しい社会建設の道に入った国々を各個分散させるための帝国主義者と反動派の分裂、離間、争奪策動が日増しに悪辣になっている条件で、新しく独立した国々の広範な統一戦線を実現することは、より切実な問題としてみなした。
 主席が朝鮮民主主義人民共和国創建30周年を記念する中央慶祝報告大会でおこなった報告で、新しく独立した国々が支配主義者の分裂、離間、争奪策動に団結の戦略で立ち向かわなければならないと力強く宣言したのは、まさにこうした実態に対する科学的判断にもとづいたものである。
 20世紀の中葉に入って、国際舞台では世界の平和と安全を破壊する新たな様相の炎が燃え上がった。独立をなし遂げた国々間に紛争と衝突、戦争が頻繁に起こったのである。戦えば戦うほど、貧困になり、貧困になればなるほど、もっと戦う新しく独立した国々の実態は、国際社会の大きな憂慮をかもし出し、世界の平和と安全を破壊する主な要因の一つとなっていた。
 ユーゴスラビア新聞「オスロボジェーニェ」責任主筆が、主席にこれに関連した質問をしたことがあった。現世界は、一部の地域において、はては武力衝突によってのみ「解決」されている数多くの未解決問題を前代から引き継がされたが、主席はこのような紛争問題の除去または平和的解決のため、何をなすべきであるとお考えなのかという質問であった。
 彼の質問に主席は、こんにち国際舞台で生じている新興諸国間の紛争問題は、植民地主義制度の産物であると強調しながら、帝国主義者によってさまざまな紛争が頻発しており、甚だしくは武力衝突や紛争にまで拡大していると明白に答えた。
 主席は、植民地主義者、帝国主義者の悪辣な植民地支配策動によって引き起こされているこうした紛争と衝突は、反帝・自主をめざす共同闘争を展開するのに支障を受け、人民は災難に見舞われていると述べた。
 主席は、発展途上諸国間の意見相違や紛争の問題がいくら深刻なものであっても、武力行使の方法ではなく、反帝・平和を共同の理念として第一とし、相互の理解と団結の原則で平和的に解決しなければならないと常に述べていた。
 主席は1974年9月、アルゼンチン記者代表団が訪朝した時にも、彼らに発展途上諸国間に団結と協力をいつにもまして強化するという貴重な助言をおこなった。
 主席は、彼らに第三世界は、歴史の舞台に新たに登場した現代の強大な反帝革命勢力であるとし、強力な反帝革命勢力として歴史舞台に登場したこれらの国々の戦闘的団結と協力を強化することは、現時、極めて重要な意義をもつと強調した。
 主席は、帝国主義者はあたかも自己の援助なしには第三世界が生きてゆけないかのように宣伝しているが、実際にはその逆である。帝国主義者は、第三世界の資源に頼らずには生きてゆけない立場におかれていると明哲に指摘した。そして第三世界の人民が固く団結し、帝国主義者に圧力を加えるならば、彼らを身動きできないようにすることができるし、堂々たる主人としての役割を果たすことができると、信念に満ちて述べた。
 主席は1970年代の初頭、アラブ諸国が石油輸出禁止措置をとり、西側諸国を深刻な経済危機に追い込んだ事実、当時開かれた原料および開発問題にかんする国連特別総会は、これまで第三世界人民の利益を犠牲にしてきた原料および開発にかんする国際秩序を、第三世界人民の利益にかなうように改めるたたかいで大きな成果をおさめた事実、そしてベネズエラで開かれた第3回国連海洋法会議で、第三世界諸国が200カイリ領海権のためのたたかいで同一歩調をとり、帝国主義者の野望に大きな打撃を与えた事実など、実例を挙げて教えながら、これはすべて第三世界人民が固く団結してたたかった結果であると述べた。
 こうした事実は、新たに独立した国々が互いに団結してたたかうならば、いかなる強大国の圧力も粉砕することができることを明示するものであった。
 主席は、非同盟諸国の統一団結を強化するためにも大きな力を入れて反帝・平和のための強力な力量をもたらした。
 主席は1979年7月、朝鮮労働党中央委員会政治委員会、朝鮮民主主義人民共和国中央人民委員会連合会議を招集し、第6回非同盟諸国首脳者会議で解決すべき根本問題に対する綱領的教示を与えた。
 主席はこの教示で、非同盟諸国は、自主性を堅持し、統一団結を強化することにすべてを服従させ、すべての軍事同盟の解体、非核地帯、平和地帯の創設問題を提起し、その実現のためにたたかい、古い国際経済秩序を打ち壊し、新しくて公正な国際経済秩序を打ち立てるべきであると闡明した。
 主席は1983年3月、インドの首都ニューデリーで開かれた第7回非同盟諸国首脳者会議、1986年9月、ジンバブエの首都ハラレで開かれた第8回非同盟諸国首脳者会議をはじめとした各会議も、非同盟諸国の統一と団結を実現するための重要な契機にならせるためにエネルギッシュに活動した。
 主席は、各国の平和愛好勢力が独自の政治勢力として固く団結するだけでなく、世界の平和と安全を守るための闘争で、反帝・平和の共通した理念のもとに一つに結束してたたかうように指導した。
 世界の平和と安全は、決してある政治的勢力の独自の活動と努力で解決される問題ではない。全世界で平和と安全の確固たる担保をつくり、世界のすべての大陸を平和の大陸につくるためには、地球上のすべての進歩的政治勢力、政治的勢力がともに奮い立って反帝、反戦、平和守護の旗を高く掲げていかなければならない。
 主席は、社会主義諸国と新しく独立した国々、非同盟諸国が互いに自己の理念と原則に即して団結を実現するだけでなく、これらの勢力が反帝・平和守護の同じ塹壕に立った戦友、兄弟として対し、互いに固く団結するということについて常に強調し、その実現のために努力したのであった。
 主席はすべての社会主義諸国間の団結に第一の力を入れながら、新しく独立した国々と非同盟諸国との団結を強化することを朝鮮労働党と共和国政府の重要な対外政策として打ち出し、一生涯、その実現のために最大限の精力を傾けながら、世界のすべての反帝・平和擁護勢力を反帝親善、平和守護の旗のもとに固く団結させることのできる確固たる土台を築いた。
 こうした成果は、世界の強固な平和と安全のためにすべてをささげた主席の不眠不休の思索と精力的な対外活動の輝かしい結実であった。


4)真の国際主義者の偉大な亀鑑

正義の闘争に対する原則的な支持声援

 革命をおこなう人々が互いに私心のない支持と声援を送ることは、崇高な国際主義的義務、当然の階級的信義となる。正義と進歩のための闘争で互いに積極的に支持声援せず、自分の利益をはかることは、間違いのない民族利己主義であり、国際主義と階級的信義に対する背信行為である。正義を貴びたたかうだけでなく、正義のための世界人民の闘争を大いに支持声援してくれるところに真の革命家、偉人の真価がある。
 金日成主席は、次のように述べている。
 「わが党と共和国政府は、今年も反帝・自主の旗を高くかかげ、社会主義諸国の人民、非同盟諸国の人民をはじめ、世界の進歩的人民との友好・協力関係を発展させ、民族の独立と新社会の建設をめざす諸国人民の闘争を断固支持声援するとともに、世界の平和と安全を守るため積極的に努力するでしょう」
 反帝・自主、平和と進歩をめざす諸国人民の闘争を積極的に支持声援しなければならないというのは、主席が生涯の全期間に確固と堅持してきた一貫した姿勢と立場であった。
 国と民族の自主的尊厳と権利を守ってたたかう世界人民の正義の闘争に送った主席の支持声援は、いかなる環境と条件にも関わらず、最も革命的で積極的な支持声援であった。
 キューバ革命は、主席が限りなく崇高な国際主義的信義をもって断固支持声援してくれた正義の闘争の一つであった。
 アメリカ帝国主義によってかもし出されたカリブ海危機は、キューバ人民に対する主席の支持声援がどんなに堅実なものであったかを示した歴史的な契機であった。
 当時、アメリカ大統領であったケネディは、国家安全保障会議を開き、キューバに対する侵略を謀議し、続いてキューバに対する全面的「武力封鎖」を宣布した。
 情勢は、社会主義諸国をはじめ、進歩的な国々が血をもって獲得した革命の獲得物を守ろうと単独にアメリカ帝国主義との決死戦に立ち上がったキューバを大いに支持声援することを切に要求した。しかし、アメリカ帝国主義の威嚇と恐喝に恐れをなして、誰も一肌脱いでキューバを支持声援する勇断をおろしていなかった。さらには、昨日まで兄弟だの、同志だのといっていた国の人たちも、いっそうであったかのように身を入れない状況であった。
 さらに、この厳しい時期にアメリカ帝国主義の威嚇と恐喝に恐れをなした旧ソ連のフルシチョフは、アメリカの要求どおりにキューバに配備しているミサイルと飛行機を急遽、撤収させ、アメリカ帝国主義がミサイル撤収結果の確認を求めると、世界の面前で自国でもないキューバの領土、領海、領空からの監視を「許容」する卑屈な醜態まで演じた。
 「社会主義の砦」だと自称していた国がこのように「大国」の体面も、階級的原則と信義も捨てて卑屈に出ると、アメリカはより意気軒昂として狂奔した。
 ちょうどこの時期、キューバ革命を守り、キューバ人民の反米闘争を積極的に支持声援することを神聖な国際主義的義務とし、アメリカ帝国主義の侵略から社会主義の獲得物を守るためのキューバ人民の英雄的な闘争に強力な支持と連帯を一番先に送った方は偉大な主席であった。
 主席の革命的措置によって発表された朝鮮民主主義人民共和国政府声明は「キューバ革命とキューバ人民に反対してアメリカ帝国主義者が長い間、働いた侵略的策動は最も露骨的で破廉恥な段階に入っており、世界の平和は厳しい脅威に直面した」と指摘し、キューバ人民に対する全面的な武力封鎖措置を宣布したアメリカ帝国主義の侵略行為は「公海上における野蛮な海賊行為であり、世界戦争を直接挑発しようとする犯罪行為であり、全世界の平和愛好人民に対する横暴な挑戦行為」であると、厳しく糾弾した。
 朝鮮民主主義人民共和国政府声明が発表されるにつれてアメリカに反対して立ち上がったキューバ人民の闘争を支持声援する平壌市大衆集会をはじめ、各階層の大衆の集会が全国的な範囲で広く繰り広げられた。
 主席は、アメリカ帝国主義の傲慢無礼な策動によって、カリブ海危機が絶頂に達したときにも、アメリカ帝国主義のキューバに対する侵略策動に対処して、キューバ人民と同じ塹壕でともにたたかうという決断力を持つ措置を講じることにより、キューバ人民に力と勇気を与えた。
 主席が朝鮮大使館の職員と留学生、そして家族までも銃を手にし、決死戦に参加してキューバ人民と生死をともにすることに対する電報指示を送ったことを通告されたキューバ人民は感動して「最も困難なとき、生死運命をともにしようとする国は朝鮮しかない」と激情を吐露した。
 国と民族の自主的尊厳と権利を守ってたたかう世界人民の正義の闘争に送った主席の支持声援は、堅実で絶対的であるだけでなく、いささかの私心や対価も知らない最も真実かつ熱い同志的支持声援であった。
 一般的に国籍を異にするそれぞれの国と民族間の関係では、どの国や民族も理解より打算を、信頼より対価を、真心より偽りを、支援を与えることより援助を受けることをより重視し優先させるものである。
 しかし、主席の限りなく崇高な国際主義的信義の世界は、いかなる小さな打算や対価も知らない熱い同志的信義にもとづいた最も真実かつ清潔なものであった。
 たたかうベトナム人民に送った主席の変わらぬ支持声援は、進歩的人民の正義の偉業に対する主席の国際主義的信義がどんなに高潔かつ、熱くて真実なものであるかをよく示す。
 トンキン湾事件が起こると主席は即時に共和国政府声明を発表するようにした。
 1964年8月に発表された朝鮮民主主義人民共和国政府声明は、アメリカ帝国主義者が東南アジアで戦争を拡大するために久しい前から悪巧みをし、実践へと移していることを具体的に指摘し、これはベトナム人民の自主権を蹂躙する厳しい挑発行為であり、全社会主義陣営と世界の平和愛好人民に対する重大な挑戦行為であり、東南アジアと世界の平和を破壊する危険な火遊びであると烙印した。そして、共和国政府はアメリカ帝国主義者の侵略行為を糾弾し、すでに発表されたベトナム政府声明を全幅に支持するとし、朝鮮人民はアメリカ帝国主義の侵略に反対し、民族的独立を守り、国の平和的統一を実現するために英雄的にたたかっている兄弟的ベトナム人民に熱烈な支持と戦闘的連帯を表すると指摘した。
 共和国政府声明を発表してアメリカ帝国主義の強盗的な挑発行為を暴露糾弾するようにした主席は、たたかうベトナム人民に対する国際的支持声援を強化する対外活動をより力強く繰り広げた。
 主席は1964年11月、党および政府代表団を引率し、厳しい政治・軍事情勢のなかにあるベトナムを訪問した。
 たたかうベトナムを訪れた主席は、国家主席ホーチミンと会談をおこないながら、たたかうベトナム人民を大きく励まし、彼らが要求する問題を全部解決した。
 当時をいえば、トンキン湾事件以後、ベトナムの全地域で戦争が起こっていた時期であった。戦争の危険をかえりみず、戦争の最中の国まで訪れてたたかう彼らを鼓舞し支持する主席の高潔な風格は、実に熱い同志的信義にもとづいた最も真実な国際主義精神の発現であった。
 主席はその後、バンドン会議10周年記念行事に参加するためにインドネシアを訪問したときにも、そこに来たベトナムの指導幹部を数回にわたって接見し、国際的範囲で彼らを支持し声援するための対策的問題を討論し、全力を尽くして援助するという、朝鮮労働党と共和国の立場を重ねて表明した。
 主席は、ベトナムでのアメリカ帝国主義の「階段式戦争拡大」策動が新たな厳しい段階に入っていた時にも、ベトナム人民の英雄的反米救国闘争をより積極的に支持声援した。
 主席の正義の闘争に対する原則的な支持声援の配慮は、反帝闘争の道でたたかったカンボジア、ラオス、アルジェリア、アンゴラ、ジンバブエ、ナミビア、モザンビーク、ニカラグアをはじめとしたアジア、アフリカ、ラテンアメリカなど、世界のどこにも及んでいる。
 主席が与える支持と声援は、常に万人の心の琴線にふれ、どこでも偉大な勝利をもたらす強力な推進力となったが、主席は一度もそれを別に思わなかった。
 1977年7月16日、朝鮮を訪問しているパレスチナ民族解放運動代表団が主席の接見を受ける光栄に浴した。
 彼らは、中東をはじめ、全世界の正義の闘争に惜しみない支持声援を送っている主席に進歩的人類の心を込めて謹んで感謝の挨拶を送った。
 すると、主席は、我々が準戦時状態のような厳しい情勢のなかにいながらも、他国人民の闘争を支持声援してくれるのは誰の賛辞を受けるためではなく、反帝反米の共同闘争で担った国際主義的義務を果たすためであると述べた。そして、自分がたたかう国の人民の闘争に深い関心をもって心から支持声援を送っているのは当然、やるべきことをやるのであると述べた。
 主席は、まさにこういう国際主義者であった。最も堅実で高潔であり、変わらぬ支持声援によって正義の偉業のための進歩的人類の旗印になり、解放の聖戦に大きな鼓舞的力を与えてもそれを当然、やるべきこととみなす主席は、正義の闘争の第一の擁護者、最高鼓舞者であり、国際主義的信義と同志的友愛心を最も崇高な境地で体現した真の国際主義者である。


戦う革命戦線に対する積極的な軍事的支援

 戦う革命戦線を血でもって援助した主席の国際主義的支援は、自由と解放のために他国と他民族が繰り広げる正義の聖戦に直接銃をもって参加し、彼らと同じ塹壕に立って生死をともにした最も積極的で熱烈な支援であった。
 主席は、一度も正義のために戦うべき対象が強敵であるか否か、戦勝の可能性があるか否かという問題を考慮してみたことがなかった。主席が他国と他民族が繰り広げる戦いに参戦することを決心したことにはただ一つの条件のみがあった。まさに、それは、自主性を志向する国、自由と解放のために奮い立った人民の正義の戦争であるならば地球上のどこでいつ、誰がやる戦争であれ、同じ塹壕で生死をともにしなければならないというのが、主席が一生堅持した一貫した原則であった。
 主席は抗日革命の全期間、中国人民との反帝共同戦線で彼らと肩を並べて彼らの革命闘争を積極的に援助し、「ソ連を武力で擁護しよう!」というスローガンを打ち出し、社会主義ソ連を武力でしっかり擁護した。
 主席は、革命の道を踏み出した当初から、この共同の戦線で中国の戦う兄弟と反日統一戦線を形成し、共同闘争を繰り広げながら中国革命を誠心誠意援助した。
 2回の北満州遠征は、中国人抗日武装部隊を誠心誠意に支援しようとする主席の崇高な国際主義的信義心から出発しておこなわれたことである。
 主席は、2回にわたって直接北満州遠征隊を率いて厳しい老爺嶺を乗り越えながら砲煙弾雨のなかで朝中革命家の間の戦闘的友誼をさらに厚くした。
 中国のことわざに“人と親しくなるためには彼の心を見ろ”という言葉がある。
 中国革命家と人民は、抗日革命戦争が起こっていたその日々に、すでに主席の崇高な国際的信義で一貫された同志的友誼と国際的信義心を熱く体験している。
 第1次北満州遠征時、主席は周保中をはじめ、北満州の中国革命家たちに会って抗日闘争を発展させるための方途について明示しただけでなく、熱い同志的信義から中国人武装部隊の戦闘力を強化するために遠征隊の半分以上の隊員を彼らに配属させた。特に、彼らとの共同作戦によって1934年11月、寧安県南湖頭付近の鏡泊湖戦闘をはじめとしたさまざまな戦闘を繰り広げ、この過程に彼らに遊撃戦法と大衆政治活動方法なども教えた。
 主席は、1935年6月から翌年の2月までの間におこなわれた第2次北満州遠征期間にも寧安県山東屯戦闘、鏡泊湖戦闘など多くの軍事作戦を勝利へと組織指導して朝中両国の革命家が指導する武装部隊間の戦闘的団結と連帯をさらに強化した。
 冒険的な「熱河遠征」によって、東北革命が大きな難局に直面し、特に、抗日連軍1軍が全滅の危機に処した時である1938年10月におこなわれた臨江県外岔溝での包囲脱出戦闘は、主席の崇高な国際主義的信義をそのまま見せることであった。
 主席の賢明な指導のもとに朝中人民の反日連合戦線が立派に実現し、連合作戦が各所で力強く繰り広げられるようになり、日本帝国主義侵略者は行く先々で撃滅され、朝中人民の戦闘的友誼と国際主義的連帯はいっそう強化された。
 主席は、抗日武装闘争の時期に勝利した社会主義ソ連を武力で擁護する輝かしい国際主義的模範を創造し、日本帝国主義の対ソ侵略計画を破綻させることにも大きく寄与した。
 主席は、日本帝国主義が膨大な武力をソ満国境一帯に集中配置し、ソ連に対する武装挑発を絶えずおこなっていることと関連して1932年の秋から1933年の秋まで琿春と東寧県城をはじめとした敵の軍事的要衝地に対する襲撃戦闘と1934年の春から1935年の末にいたる間、列車に対する待ち伏せ襲撃戦闘などを相次いで手配し、日本帝国主義のソ満国境侵攻策動に大きな打撃を与えた。
 事実上、主席がおこなったソ満国境一帯における戦闘は、作戦上では朝鮮革命に大きな利益になるのではなかった。それは、全的にソ連を武力で援助するために、主席が意図的に主動的に組織した戦闘であった。
 主席は反ソ侵攻の機会のみをうかがっていた日本帝国主義が1938年7月下旬、ソ連の沿海州の南端にある朝、ソ、満州の国境の三角地帯である張鼓峰付近に対する武力侵攻を挑発した時にも強力な敵の背後打撃によって敵の作戦的企図を撃破、粉砕した。
 主席は日本帝国主義が1939年5月、モンゴルのカルキンゴルで再びソ連に対する武装挑発事件を起こした時、これは決して偶発的な国境衝突事件ではないことを見抜いた。
 主席は、この事件は日本帝国主義が長い間、準備してきた大々的な対ソ侵攻作戦の一環であり、その序幕であることを一瞬にして見破った。主席は遅滞なく敵の背後撹乱作戦として、日本帝国主義の対ソ侵攻作戦を破綻させるための賢明な措置を講じた。
 主席の命令を受けた朝鮮人民革命軍部隊は、日本帝国主義のカルキンゴル地域への兵力移動と軍需物資の輸送を破綻させるために、敵の軍事補給路である「境羅線」(長春と羅津間)と「ハルビンと敦化問」一帯で戦闘活動を積極化した。特に、朝鮮人民革命軍部隊は1939年8月下旬、安図県大沙河、大?缸戦闘と9月の下旬の腰岔戦闘、富爾河襲撃戦闘、百草溝襲撃戦闘など、さまざまな戦闘を繰り広げて日本帝国主義侵略軍の大部隊を掃滅し、多くの戦闘技術機材をろ獲した。これらの戦闘で敵の銃眼を体で塞いで部隊の突撃路を開いた金振と自分の青春も生命も惜しみなくささげた許成淑など、多くの国際主義的戦士が輩出された。
 ソ連人民が困難であったその時期、主席が発揮した真の国際主義的模範は、ソ連党と国家指導者を大きく感動させた。
 主席が1949年、政府代表団を引率してソ連を公式親善訪問した時、スターリンは主席のために盛大な宴会を催し、信頼と親善の情があふれる祝杯の辞で、20星霜にわたる長い間、日本帝国主義に反対する戦いで旗手としての役割を遂行した抗日遊撃隊を組織指導した金日成主席は、東方で帝国主義の侵略からソ連を血でもって擁護してくれた真のプロレタリア国際主義者であると高く評価した。
 スターリンの真心のこもった祝杯の辞は、血をもって真の国際主義の模範を示した主席に対する熱烈な尊敬の念と称揚の表しであった。
 1945年8月、日本帝国主義の敗亡とともに中国でも抗日戦争が終わるようになった。人々は新しい生活に対する歓喜にあふれていたが、中国人民の喜びは長続きしなかった。蒋介石一味によって内戦に巻き込まれるようになったのである。
 事実、解放後、朝鮮の状況は非常に困難であった。朝鮮人民の前には日本帝国主義がすべてを破壊して逃げ出したので、廃墟のうえに新しい朝鮮を建設すべき膨大な課題が提起されていた。こうした状況で、朝鮮が他国の革命を援助するというのは、想像を絶することであった。
 しかし、中国人民の革命闘争を私心なく援助することを崇高な国際主義的信義、革命を先に遂行した国として当然履行すべき義務とみなした主席は、すべてのものが不足し、困難ななかでも危機に処した中国人民の革命闘争を血でもって援助した。
 主席は、中国東北地方に多くの政治軍事幹部と部隊を派遣して東北地方を政治、経済、軍事的にしっかり築くようにした。
 主席はそれだけでなく、東北解放作戦と関連した戦略戦術的方案も示した。
 東北革命の運命を心配していた主席は、中国革命家の要請を喜んで受け入れ、1945年11月末、鴨緑江をわたって丹東にいった。
 丹東に到着した主席は、軍区司令部の作戦協議会で各指揮メンバーの報告を受けながら、敵軍の配置状況と起動状態などを具体的に調べ、現下の一時的難局を打開するための戦略戦術的対策を講じた。
 主席は同日、軍区司令部の指揮メンバーに当面して敵との無謀な正面衝突を避けて都市を明け渡し、敵の力量を最大限に分散、弱化させ、その代わりに農村に根拠地を強固に設けるべきであるとし、軍隊と人民の間で政治活動を活発に繰り広げて、彼らが勝利の信念をもって階級的敵に反対して断固戦い、白頭山を中心にしてつくられた解放地区を固守しながら大部隊起動戦と遊撃戦を広く展開して、絶え間ない消耗戦で敵の力量を最大限に弱化させるべきであるという、具体的な作戦戦術的方案を示した。
 歴史には多くの戦争が記録されているが、そのなかには他国の革命を支援した話も少なくない。しかし、このように一国の領袖が他国の戦場にまで出て夜通し具体的な作戦的方向を明示し、勝利の信念を与えた事実は、どこにもない。これは、ひとえに崇高な国際主義的信義をもった主席だけが踏み切ることのできる国際主義的壮挙であった。
 主席の意図を正確に把握し、東北解放作戦に参加した約25万名の朝鮮人部隊の戦闘員は、東北民主連軍の主力として、蒋介石一味と自己犠牲的に戦った。特に、長春、吉林、沙坪、金珠,瀋陽解放戦闘で朝鮮人部隊の戦闘員は、自分の貴い青春を惜しみなくささげて戦うことにより、中国東北地方を解放するうえで決定的転換の契機をもたらした。
 朝鮮人部隊の戦闘員たちは、主席の意をたいし、中国人民の第3次国内革命戦争の全期間、東北の牡丹江と延辺地方から万里の長城を越え、長江を渡河して海南島にいたる数万里の道程で国際主義戦士としての栄えある使命と任務を果たし、中国革命の勝利に大きく寄与した。
 ゆえに、中国の周恩来総理は、早くから中国人民の抗日戦争期間と数回にわたる国内革命戦争の間に朝鮮人民のすぐれた息子と娘は、自分の命を惜しみなく中国人民を支援したと熱く述べた。
 実に、中国革命を援助することを自分の崇高な国際主義的信義、義務としてみなし、中国人民が波乱に富んだ曲折を経ている時期に、すべてのものが不足し困難ななかでも彼らを私心なく血をもって援助した主席の不滅の業績は、こんにちも中国人民の革命闘争史とともに永遠に輝いている。
 真の国際主義的信義をもった主席は、アラブ人民の正義の闘争も血をもって援助した。
 主席は、戦うアラブ人民と同じ塹壕に立っていた。戦うアラブ人民に与えた主席の積極的な軍事的支援は、世界の進歩的人民をアラブ人民に対する国際主義的支援へと奮起する鼓舞的旗印となり、アラブ人民にとって反米、反イスラエル戦争で以前になかった成果をおさめるようにした大きな力であった。
 1973年10月6日に起こった第4次中東戦争時、主席は一番先に朝鮮民主主義人民共和国政府および外務省声明を発表させ、エジプトとシリアの要請に従って飛行隊を送る画期的な措置を講じた。これは、反帝・自主をめざす血戦に出たアラブ人民の正義の偉業に対する主席の堅実で揺るぎない反帝的立場の明白な表しであった。
 主席の戦闘命令を受けてエジプトとシリアに派遣された勇敢な朝鮮のパイロットは、最初の戦闘で敵の最新型飛行機を一撃のもとに撃墜し、各戦闘で高い戦闘的・道徳的品性を発揮して敵を戦りつさせ、英雄的朝鮮人民軍の気概を余すことなく示した。
 当時、イスラエル侵略者は、アラブ諸国のパイロットを取るに足りないもののように思いながら、空中で傲慢に振舞った。しかし、アラブの空に朝鮮戦争とベトナム戦争を通じて世界にその威力が広く知られた朝鮮のパイロットが現れると、形勢は完全に変わった。米国製の最新式飛行機をもったイスラエルのパイロットは、技術的に立ち遅れた飛行機をもってでも自分たちを抜き差しならぬ窮地に追い込んだ朝鮮のパイロットを見るだけでも戦りつした。
 主席の崇高な国際主義的信義と誠心誠意の支援があって、3回にわたる戦争で毎回敗北していたエジプトとシリアは、第4次中東戦争でイスラエル膨張主義者を打ち破って土地を取り戻した。これは、アラブ世界で起こった大きな歴史的出来事であった。
 帝国主義者の植民地的統治を終わらせ、民族的独立をなし遂げるために戦っている国の人民であるなら、いつどこで戦っても主席の私心のない援助を受けた。モザンビーク、ジンバブエ、アンゴラ、ナミビア、南アフリカなど、民族解放と人種主義に反対してたたかうアフリカ諸国人民をはじめ、地球上の各所で自由と解放のために戦う人民の闘争戦線に主席の国際主義的信義によってもたらされた大量の兵器と弾薬、軍服、医薬品など、軍事的援助が限りなく送られた。
 世界には、たたかう国にさまざまな援助をした政治家や革命家、軍事家がたまにいた。しかし、主席のように自分の心血を惜しみなく注いで援助した真の国際主義的信義の体現者はいまだかつてなかった。


進歩と繁栄のための闘争に寄せた私心のない支援

 主席が新しい社会建設の道に入った国々を進歩と繁栄の道に指導するうえで第一義的な関心を払ったのは、すでに獲得した革命の獲得物を頼もしく守っていける自衛的国防力を建設するように援助することであった。
 主席にとって新しく独立した国々の国防力の建設は決して他人事ではなかった。それはかつて、朝鮮のように植民地の境遇から解放をなし遂げた国々の再生と繁栄に関する問題であるだけでなく、全世界的範囲における人類の解放偉業、自主偉業の最終的勝利のための正義の革命偉業であった。
 こういう姿勢と立場を確固と堅持した方なので、主席は国防力建設問題で苦労している国と民族の気持ちを誰よりもよく察し、それを自分の苦衷として受け入れた。どうしてでも彼らを助けて自衛の国防力を建設し、人類解放の歴史的偉業に奮い立たせようとする主席の崇高な国際主義的信義によって、独立の旗がなびく世界のいたるところに暖かい軍事的支援が行き届き、それに支えられてとうとう多くの国々が自衛的な国防力を建設するようになった。
 その国々のなかには、イギリス帝国主義者との15年間の困難な武装闘争の末に国の独立をなし遂げ、1980年4月、共和国創建を宣布したジンバブエもあった。
 主席は、ジンバブエ政権の強固さを保障できる軍事力を保有させるために可能な限り援助し、一つを援助しても常にその国の人民の立場に立って万事をはかって誠心誠意援助した。
 主席の私心のない崇高な国際主義的支援があって、ジンバブエ人民は自体の軍事的力を養って新しい社会建設を妨害し、破壊転覆陰謀を企てていた帝国主義者と国内反動派の策動を粉砕し、革命の獲得物を守護しただけでなく、「ジンバブエ式社会主義建設」のスローガンのもとに、新しい社会建設を力強くおし進めることができた。
 新社会建設の道に入った国々の苦衷を実際の体験を通じて誰よりも深く察した主席は、彼らが自立的民族経済と発展した民族文化を建設するうえで提起される切実な問題をいささかの私心もなく物心両面から援助した。
 主席は、常に幹部らに何かを少し援助するからといって、偉そうな顔をしてはならない、一番間抜けなことは援助をしながら「私が援助する」と偉そうな顔をすることである。こういうことを我々が一番間抜けなことだと考えているが、なぜ他人にそんなに振舞うか、傲慢に振舞わず、謙遜な態度をとるべきであり、何かを少し支持し支援することについて、少しも威張ってはならないと教えた。
 衣食に事欠いても革命をする人同士で互いに国籍をつきとめず、食べろ、使えという時がもっと良いというのが、ほかならぬ主席の国際主義的信義の世界である。こういう方なので、主席は1967年6月15日、龍城機械工場(当時)党委員会拡大会議を指導しながら、社会主義国の労働者階級が1日に1時間ずつでも増産して搾取され抑圧される人民と分裂した国々を軍事的に、経済的に積極的に援助しなければならないと呼びかけ、龍城の労働者階級がこの闘争の先頭に立つことを頼んだのであった。
 主席が新しい社会建設の道に入った新しく独立した国々に送った支援と援助は、私心のない崇高な国際主義的信義にもとづいたものであったので、発展途上諸国の国家元首と人民は常に主席に対する熱烈な尊敬と敬慕の感情を禁じえなかった。
 事実、朝鮮の経済的潜在力や人的および物的資源に比べるとき、他国と他民族に与えた国際主義的援助は力にあまる膨大なものであった。しかし、主席はそれを常に当然なこと、是非やるべきこととしてみなしたので、一度も顔に出さず、幹部らと人民もそのように教育したのであった。
 新しい社会建設の道に入った国々における経済的・技術的支援とそれが早い時日内に実質的に効力を表すようにするために尽くした主席の労苦と心血を話すには限りがない。
 常に、国際主義的支援の崇高な模範を示している主席の暖かい配慮に支えられて朝鮮は1984年1月に、22か国に30余の工場を建設し、20余か国に藩灘建設を援助し、50余の発展途上諸国に5000余名の技術者、専門家を派遣して新しい社会建設を各分野で援助した。
 このように、絶え間なく続く新しい社会建設の道に入った国々に対する支援は、自立的民族経済と民族文化を建設するために戦う人民に新たな希望を与えた。新しい社会を建設するうえで提起されるすべてのものをさ細な私心もなく物心両面から援助して、彼らを世紀的後進性と貧窮から救い出した主席に対する尊敬と感謝の声は、アジア、アフリカ、ラテンアメリカなど、世界各地で響き渡った。
 2008年1月、パキスタン・朝鮮親善協会が全世界の朝鮮人民との親善および連帯団体に送るアピールが全世界に広がった。
 金日成主席の誕生100周年に際して、準備委員会を詰成し、セミナー、座談会、展示会、図書出版など多様な活動で2012年の太陽節を意義深く慶祝しようというアピールであった。
 2010年10月には、国際準備委員会も結成された。
 2011年4月13日、意義深い太陽節に際して平壌では、主席の誕生100周年慶祝国際準備委員会の責任幹部協議会が開かれた。国際準備委員会の共同委員長と書記が参加した会議では2012年太陽節を意義深く慶祝するための国別、地域別の国際準備委員会の組織と活動状況が通報され、2012年を金日成主席の尊名とともに歴史に末永く刻まれる年として輝かせるうえで提起される諸問題に対する意見が交換され、責任幹部協議会の決定書が採択された。
 主席に対する限りない感謝と旧懐が合わせ、世界的範囲で一つの大河をなしているこうした現実は、主席が進歩的人類の心の中に残した余韻がどんなに大きくて深いものであるかを再度示唆する。

                                                



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