『金日成主席革命活動史』

第8節 建国思想総動員運動の展開。
増産競争運動と文盲退治運動の推進


 金日成主席は新しい社会の建設において、思想、技術、文化の三大革命を遂行する方針を提起し、そのたたかいをおし進めた。

 思想・技術・文化革命は、勤労人民大衆の自主性を実現するたたかいである。勤労人民大衆が自主性を完全に実現するためには、階級的支配と従属からだけでなく、あらゆる古い思想と技術、文化の束縛からも解放されなければならない。したがって、思想・技術・文化革命は、権力を握った労働者階級の党が新しい社会建設の初期から着手すべき戦略的課題である。

 特に、帝国主義の植民地または半植民地であった国が、独立後、新しい社会を建設する場合、思想、技術、文化のすべての面で立ち後れているので、三大革命は特に重要な問題となる。

 主席は、朝鮮で植民地半封建的社会経済関係の変革が基本的な革命任務となっていた民主主義革命の時期に、思想、技術、文化の分野に残っている日本帝国主義植民地の残りかすを一掃するため、建国思想総動員運動と増産競争運動、文盲退治運動を提唱し、それらを同時におし進めた。

 主席は、建国思想総動員運動の指導に大きな力を傾けた。

 主席は、すでに解放直後から建国事業を促すため、人民大衆の思想教育に努めてきた。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「我々は、人民大衆のなかで日本帝国主義思想の残りかすを一掃するたたかいを強力に進め、民主主義的教育を強化して、全人民が高度の民族的誇りと自負をもち、熱烈な建国思想と健全な民主主義思想を身につけるようにすべきです」(『我が国におけるマルクス・レーニン主義党の建設と党の当面の任務について』1945年10月10日)

 主席は、人民大衆のあいだに残っている日本帝国主義思想の残りかすを一掃し、民族自主意識と建国思想を身につけさせることを思想教育の中心問題として提起し、党の政治思想活動をこれに集中させた。

 新しい朝鮮建設に向けての思想教育活動が進められるなかで、人民の思想意識には大きな変化が起こり、大衆の建国熱意は非常に高まった。これは、民主的社会経済改革の成功をもたらす要因となり、革命を前進させる確実な保障となった。

 主席は、民主諸改革の遂行後革命を深化させる課題が日程にのぼると、人民大衆の思想意識を改造するたたかいをいっそう組織化していった。そして1946年11月、北朝鮮臨時人民委員会第3回拡大委員会で建国思想総動員運動の方針を提起した。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「(略)全国的に広範な人民大衆のあいだで建国思想総動員運動を力強くおし進め、古い思想意識を改めるたたかいをくりひろげるべきです」(『民主選挙の総括と人民委員会の当面の課題』1946年11月25日)

 主席は、建国思想総動員運動は、日本帝国主義が残した不健全で退廃的な習性や生活態度をなくし、新しい民主朝鮮の活動家にふさわしい精神と風格、道徳と戦闘力を全面的につちかい、生気にあふれ躍動する民族的気風を創造する一大思想改造運動であると規定した。そして、この運動は、思想闘争と思想教育を組み合わせて進めるべきであるとし、思想闘争の対象と思想教育の基本的内容を明らかにした。

 この運動における思想闘争の主な対象は、人々の意識に残っている帝国主義的・封建主義的思想である奴隷的屈従思想、事大主義思想、民族虚無主義思想と不健全で退廃的で享楽主義的な悪習であり、思想教育の基本的内容は、人民大衆に自力で困難を克服し、主人らしい立場で民主建設を進めていく自力更生の革命精神と、個人の利益よりも社会全体の利益を重んじ、国家財産を愛護する愛国主義思想を身につけさせ、すべての人が互いに助け導き合う集団主義にもとづいた人民的道徳をつちかうことであった。

 主席は、この運動を全党的・全大衆的運動として展開し、新しい祖国建設に立ちあがった人民大衆のたたかいと密接に結びつけるべきであるとし、その遂行方法を明示した。

 建国思想総動員運動の方針は、人民大衆の思想意識を改造し、大衆の創造的知恵とつきない力を最大限に引き出して民主主義自主独立国家の建設で大高揚をもたらした綱領的指針となった。

 主席は建国思想総動員運動をおし進めるために、1946年11月の党中央委員会第3回会議と同年12月の党中央委員会常務委員会でその具体的な対策を立て、広範な大衆が目的意識的に、自覚的にこの運動に参加するようはかった。また、党組織と大衆団体が活発に組織政治活動を展開して全人民を運動に呼び起こし、それを大衆自身の運動に転換させていった。

 全党と全人民は、各部門、各単位で建国思想総動員運動を積極的にくりひろげた。その過程で個人主義、利己主義、享楽主義、腐敗・堕落行為、官僚主義、無責任な態度などに打撃が加えられ、敵対分子、異分子、怠慢分子などが摘発された。また、人民の民族自主意識と建国意識、政治的自覚、愛国的熱意、民族的誇り、革命的自負が高まり、幹部の活動方法と活動作風が改善された。

 人々の思想意識に起きたこうした変化は、広範な大衆を主席のまわりに結集し、党と人民政権を強化し、革命を前進させる大きな要因であった。

 主席はまた、大自然改造事業と増産競争運動を強くおし進めた。

 主席は、勤労大衆の愛国的で革命的な熱意を最大限に引き出し、祖国建設途上の難関を切り抜けていくため、大自然改造に人民大衆を呼び起こし、その最初の事業として普通江の改修工事を提唱した。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「普通江の改修工事は、平壌市民が愛国的な労働をもって新しい民主朝鮮の建設に貢献する最初の事業であり、解放された朝鮮人民がおこなう初めての大自然改造事業であります。我々は普通江の改修工事をなし遂げ、この工事が富強な民主主義自主独立国家建設をめざす自然改造事業の最初ののろしとなるようにすべきであります」(『普通江改修工事着工式でおこなった激励のあいさつ』1946年5月21日)

 主席は解放後、普通江の改修工事を合図として大自然改造をくりひろげようという雄大な構想のもとに、1946年の年頭に改修工事を提唱し、その後、たび重なる現地踏査と設計の検討をへて工事促進の具体的な方針を指示した。そして、5月21日には着工式に参席し、くわ入れのシャベルを取った。

 それ以来、連日数千数万の平壌市民と青年学生が工事に参加した。

 主席の高い志を誰よりも深く察した金正淑夫人は、市内の婦人を改修工事へと呼び起こす一方、みずからも率先工事に参加して建設者たちを励ました。

 日本帝国主義者が10年近くの年月をかけても完成できなかったこの工事は、主席の指導のもとにわずか55日間で完成された。

 普通江改修工事は、朝鮮における大自然改造事業の序曲であり、チュチェ思想にもとづく自然変革の荘厳な第一歩であった。

 主席は、1946年2月に招集された党中央組織委員会第4回拡大執行委員会で工場、鉱山、農村で労働英雄運動を展開する課題を示した。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「工場、鉱山、農村で労働英雄運動を広範に組織し、労働者、農民を新しい朝鮮建設の革命的な競争に極力参加させるべきであります。こうして、労働英雄運動が国家経済の復興発展にとって大きな推進力となるようにしなければなりません」(『党内情勢と当面の任務について』1946年2月15日)

 この労働英雄運動は、朝鮮における増産競争運動の先駆けとなった。

 主席は運動を展開するため、党組織と大衆団体に組織政治活動を綿密に組織させるとともに、1946年4月には興南肥料工場を訪ねて、興味の労働者がこぞって労働英雄運動に参加するよう励ました。それ以来、運動は日を追って拡大され、経済の復興と発展に大きな役割を果たした。運動が拡大されると、主席はそれを建国増産競争運動、増産突撃運動へと発展させた。

 当時、定州(チョンジュ)機関区の労働者は、自力更生の革命精神を発揮して生産途上の障害を切り抜けていった。かれらには大修理施設がなかったが、数十台の機関車を自力で修理し、また輸入にたよっていた高カロリー炭が切れると、採炭突撃隊を組んで国産炭を採掘し鉄道の運行を保障した。

 主席は、かれらの愛国的な行為をたたえて祝賀文を送るとともに、党中央委員会常務委員会を開いて、この運動を全国に一般化する措置を講じた。こうして、この運動は大衆的な増産突撃運動として全国に拡大していった。

 労働者たちの増産競争運動は、国の生産を大きくのばし、1946年末までに黄海製鉄所をはじめ822の工場、企業所が復旧し操業に入った。これは、国家経済を復興発展させる強固な基礎となった。

 主席はまた、農民を増産運動に呼び起こした。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「土地改革の勝利をかため、農業を発展させるために、春耕、種まきおよび農産物増産運動に全力を尽くすべきであります」(『我が国の民主的発展と完全自主独立のために』1946年5月19日)

 主席は、農産物増産運動を農民の重要な増産競争運動として位置づけ、農民の広範な参加を呼びかけるとともに、運動を拡大する革命的な措置をとった。

 全国の農民は、主席の呼びかけにこたえて、農業生産班と農業増産突撃隊を組織し、突撃運動と増産運動を活発に展開した。こうして、解放後第1年目に大豊年を迎え、農業生産と農民生活を向上させる強固な土台がきずかれた。

 解放後第1年目の営農で大きな成果をあげた農民は、新しい祖国建設のために愛国米拠出運動を展開した。主席は、農民金済元(キムジェウォン)の提唱による愛国米拠出運動を高く評価し、運動を活発に進めるよう全国の農民を励ました。愛国米拠出運動は、主席の大恩に報いようとの農民の忠誠の愛国運動であり、熱烈な建国思想の発現であった。

 主席はまた、文盲退治運動を強くおし進めた。

 文盲退治運動は、日本帝国主義支配の後遺症を一掃して勤労者の全般的文化・技術水準の向上と民主的な文化の建設をめざす文化改造の中心課題として提起され、1945年11月、その方針が示された。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「広範な大衆をめざめさせるためには、大衆のなかで文盲退治を力強く展開すべきであります」(『建国事業におけるインテリの課題』1945年11月17日)

 主席は「人民文化の向上は文盲退治から!」というスローガンを示し、この運動を党と国家の指導のもとに全社会的、全人民的な運動としておし進めた。こうして、中央と地方に文盲退治指導委員会が組織され、同時に全国各地にハングル(朝鮮文字)学校と成人学校が設けられて民主青年同盟その他の大衆団体や各級学校の教員、学生がこれに動員された。

 民主朝鮮の建設が進展するにともなって、文盲退治運動をより組織化し、全国的に文盲を根絶する措置がとられた。

 1947年8月、江原道平康(ピョンガン)郡から訪ねてきたある農村婦人と会った主席は、彼女が文盲であることを知り、読み書きができてこそ真の生きがいがあるとさとし、3か月以内に文字を習って、その旨を手紙に書いて寄こすようにと話して帰した。3か月後、彼女の自筆の手紙を受けとった主席はたいへん喜んで、称賛と激励の返書を送った。返書が届いた日、平康郡では農民集会を開いて、文盲の完全退治運動を全国に呼びかけた。

 こうして1949年3月には、朝鮮はアジアで全人民が文盲を完全になくした最初の国となった。

 主席の指導によって短期間に完遂された文盲退治運動は、勤労者の一般知識水準と技術・文化水準の不断の向上と民主的民族文化建設の保障となった。

 建国思想総動員運動と増産競争運動、文盲退治運動は、勤労者の自主性を束縛していた日本帝国主義時代の古い思想と技術、文化の後進性を一掃するたたかいを促進し、民主朝鮮の建設に大きく貢献した。




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