刊行にあたって | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
不屈の革命闘士であり、抗日の婦人英雄である金正淑女史は、1917年12月24日、朝鮮の北部にある咸鏡北道会寧郡会寧邑の愛国的で革命的な貧しい農家に誕生した。 日帝侵略者の弾圧に父母と弟を失った女史は、1930年代に入って少女の身で革命の道を踏み出した。やがて、共産主義青年同盟員に成長した女史は、児童団活動と共青活動をエネルギッシュにすすめて未来の花である青少年を革命の後続部隊に育て、遊撃区をかため、武装闘争の大衆的基盤を築く活動で、すぐれた功績をあげた。 1935年春の金日成主席との対面は、女史の闘争と生活における一大転機となった。 金日成主席の指導のもとに革命家に成長した女史は、同年9月、朝鮮人民革命軍に入隊した。以後、主席の身近で革命の司令部を死守し、主席を政治的、思想的に擁護するうえで立派な模範を示した。 勇敢な戦闘員、百発百中の名射撃手であった女史はまた、老練な政治工作員として、国境地帯の厳しい警戒網をついて国内に出向き、人民を抗日の戦いに奮起させた。 朝鮮の解放後も女史は、主席の祖国建設路線にそって朝鮮労働党の強化と富強な自主独立国家の建設に専念した。 実に女史は、いかなる試練にもめげぬ不退転の革命家であり、熱い革命的同志愛と人民愛、おおらかな風格と謙虚で素朴な品性を身につけた高潔な共産主義者であった。女史はまた、抗日革命戦争のなかで金正日総書記を育て、朝鮮革命偉業の継承に心魂をかたむけた偉大を革命家であった。 女史は1949年9月、32歳で貴い生涯をとじた。例え、短い生涯ではあっても、その一生は、朝鮮革命の勝利と祖国の繁栄のためにすべてをささげ、不滅の業績をつんだ革命戦士の気高い一生であった。 編集部は、金正淑女史の生誕70周年を記念して回想記『永遠の女性革命家』を各国語で翻訳出版した。
不屈の共産主義革命闘士であり、抗日の婦人英雄である金正淑女史との初対面は、児童団時代のことだった。 当時、女史は、偉大な金日成主席の白頭山根拠地創設方針にそって長白地区の地下工作に専念し、私がいた十七道溝の王家溝崗徳にもたびたび来て、村の革命組織を指導していた。その過程で私たちの目は、祖国解放へと開かれ、革命の真理を体得するようになった。そして、私が入っていた児童団や反日青年同盟などの青少年組織をはじめ、各革命組織が、新たな活力を得て活発に動いた。 金正淑女史はその後、朝鮮人民革命軍に入隊した私をいっそう暖かく見守って、主席の革命戦士に育ててくれ、青年活動にきめ細かな指導を与えた。 結果、抗日遊撃隊の青年組織は、熱血たぎる若い隊員たちを主席の革命路線と方針の貫徹に奮起させ、彼らが百万の日帝関東軍を撃滅する戦いで、たぐいない英雄主義を発揮するよう導いた。 金正淑女史は、祖国の解放後も、革命の明日の担い手たちに変わらぬ愛情を注ぎ、愛国青年たちを民主主義の旗のもとにかたく結集して、富強な自主独立国家の建設に向かわせるため献身した。 思えば、苦難の抗日武装闘争時期から解放後にいたるまで、青少年活動に傾けた女史の努力は実に絶大なものである。 チュチェ型の共産主義革命家の典型である金正淑女史は、朝鮮人民と青少年学徒の心の中にいつまでも生きており、前進する革命隊列で永生しつつ、我々をチュチェ偉業へと奮いたたせている。 私は、朝鮮青年運動史をいろどる女史の輝かしい業績と高潔な品性を、直接体験した出来事を通じてありのままに伝えるのが、女史に導かれて成長した戦士の本分と考え、本書の執筆を思いたったのである。 本書が、女史に学ぶ青少年学徒の教育に役立つならば、これに越した喜びはない。
<参考>-著者の略歴 金益鉉(1911年10月26日~2009年1月15日)。咸鏡北道城津郡に生まれる。朝鮮労働党中央軍事委員会委員、人民軍次帥。 1945年10月、朝鲜共産主義青年同盟委員長。朝鲜労働党金日成高級党学校で学習。 1990年5月、第6回労働党総会第18回で中央委員会の委員に再選された。1991年11月、将軍に昇進。 1992年4月、朝鮮民主主義人民共和国の英雄称号を授与。 1972年12月、1998年9月、2003年9月、最高人民会議代議員に選出されている。 <出典>-『永遠の女性革命家』1・2巻 朝鮮・平壌 外国文出版社 1987年 -標題の背景写真は、画報『不滅の革命伝統』 朝鮮民主義人民共和国・平壌 外国文出版社 1975年 写真は、熾烈な戦闘の最中にも身の危険を顧みず、偉大な指導者・金日成将軍の司令部を身をもって守る金正淑女史。 『金正淑伝』は、第6体系「白頭山東北部で」「とりでとなり盾となって」で、戦闘の詳報を記述している。 |
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