『金正淑伝』
 
6 白頭山東北部で


  豆満江沿岸の新たな戦域

 朝鮮人民革命軍の主力部隊は、長山嶺から大馬鹿溝方面に向けて行軍し、安図県大溝に到着した。

 1939年5月24日、金日成将軍は、ここで朝鮮人民革命軍軍事・政治幹部会議を開き、白頭山東北部で軍事・政治活動を強化し、この一帯にいま一つの強固な革命のとりでを築く方針を示した。

 将軍は、主力部隊を連隊規模に分け、各部隊が一定の地域を受け持ち、軍事活動と政治活動を緊密に結びつけ、たたかいを展開することにより、いたるところで敵に打撃を加えることにした。そして、警護中隊と第8連隊は、和竜県玉石洞を経て輝楓洞方面へ、第7連隊は烏口江の西方へ進出し、同時に多数の政治工作班が国内へ向かった。

 工作班のメンバーには、青峰密営で厳光浩の反革命的策動に巻き込まれて重大な過ちを犯した李東傑(金俊)もいた。彼は、将軍から国内政治工作の任務を与えられた日、金正淑を訪ねた。

 正淑は、李東傑が政治工作の任務を受けたことを心から喜んだ。彼が処罰を受けて炊事隊にまわされたとき、誰よりも心を砕いたのは正淑だった。青峰密営であれほどひどい仕打ちを受けたにもかかわらず、正淑はいやな顔一つせず、炊事場や宿営地のたき火の前で、また行軍の途上で彼を力づけ、革命家の立場と姿勢、革命的信義と同志愛について説いてきた。だから、彼が新たな任務を受けたことをわがことのように喜び、ともに司令官同志の祖国解放の構想を立派に実現させていこう、困難に直面したら司令官同志のことを考えなさい、そうすれば、力が湧き、活路も開けるに違いない、ともに司令官同志の意を体して豆満江沿岸に強力な革命のとりでを築こう、と励ましたのであった。

 李東傑は、きっとそうすると誓った。その後、彼は敵の厳重な警戒の目をかいくぐり、三長、延社地区の革命組織を拡大していった。そうしたある日、敵に包囲された彼は単身で敵を誘引して革命組織と同志たちを救い、みずからは敵に逮捕された。彼は、獄中でも革命家の志操を守りぬき、1945年3月、ソウルの西大門刑務所で李悌淳、権永璧らとともに刑場の露と消えた。

 李東傑の工作斑が発った後、正淑は、第7連隊第4中隊の隊員たちと一緒に、新たな工作地である烏口江の南にある東京坪の集団部落に向かった。

 正淑は数名の隊員とともに、夜遅く、集団部落の西側城門から少し隔たったところにある村長の家を訪ねた。そこには地下組織のメンバーである村長が、革命軍の活動の邪魔にならないように集合させておいた「自衛団員」たちが泊まっていた。そんな内幕を知る由もない村長の妻は、夜中に軍服姿の人たちがあらわれたのでうろたえた。

 彼女から、いまその家にいる「自衛団員」たちは、みな貧しい農民の子弟で、日本人に強要されて木銃を手に警備に駆り出された若者たちだということを聞かされた正淑は、彼らに政治工作をおこなおうと決心した。

 正淑は、せき払いをして戸を開けた。振り向いた「自衛団員」たちは、目を丸くした。夜更けに軍服姿の女性が突然あらわれたのだから、彼らが驚くのも無理はなかった。部屋の中を見回した正淑は、みなさん驚かないでください、わたしたちは金日成将軍が率いる朝鮮人民革命軍です、みなさんに話したいことがあってお邪魔しました、と言った。

 「自衛団員」たちは、依然として茫然自失の態であった。

 「みなさん、みなさんは、わたしたちと同じく貧しい人民の子弟です。わたしたちは、みなさんが『自衛団』に入っているのは敵の強要によるものであって、みなさんの本意であるとは思っていません」

 「自衛団員」たちの顔色は、次第に明るくなった。

 正淑は、異国に来てまで言い知れぬ苦労をなめている彼らのみじめな境遇について語った後、祖国と人民に背くことをしてはならないと諭した。

 若者たちは、首をうなだれて正淑の話を聞いていた。

 やがて、一人の青年がおずおずと立ち上がり、実際自分たちはみな貧しい農民の子だ……日本人に虐げられながらも、彼らの言いなりになり、ばかな生き方をしてきた、と言った。

 すると、他の青年たちも、これ以上日本人の奴隷として生きるのはごめんだ、我々も革命軍に協力しよう、と決然と立ち上がった。

 その夜の東京坪村での政治工作班の活動は、「自衛団員」の保護のもとに進められた。工作班が引き揚げるときには多くの青年が支援物資をかついで後に従った。それ以来、彼らは東京坪村を革命化するうえで積極的な役割を果たした。このことは、他の集落の「自衛団員」にも大きな影響を及ぼし、「自衛団」は大きな混乱に陥った。

 正淑はそのあと、直洞のはずれにある三軒の農家の主人を祖国光復会下部組織の反日会に引き入れ、彼らの住家を国内工作のアジトに定めた。こうして、朝鮮人民革命軍小部隊・工作班の豆満江渡河に有利な秘密拠点が築かれた。

 将軍はこのルートを利用して1939年6月17日の夜、国内に入り、翌日、国師峰会議を指導した。

 茂山、延社地区をはじめ、北部朝鮮一帯を革命のとりでに築く活動は、この地区で工作していた李東傑の逮捕によって、重大な事態に直面した。

 将軍は正淑に、延社地区の事態を収拾し、この地区の革命組織にたいする整然たる組織・指導体系を確立する任務を与えた。

 正淑は、第4中隊の崔一賢中隊長を責任者とする援護班を伴って、その日のうちに国内の延社地区に向かった。

 翌日、延社に到着した正淑は、組織のメンバーの家に宿所を定めて政治工作を開始した。

 それまで延社支会は、組織の発覚を恐れて、信頼のおける人だけを受け入れていたため、反日青年会を結成した5年前や、祖国光復会の支会結成当時に比べて組織はほとんど拡大されておらず、その活動も消極的なものにすぎなかった。

 正淑は組織のメンバーに、延社は面機関所在地で日本の統治機関もあり、さまざまな職業を持つ人たちがいるのだから、こうした環境と条件をふまえて活動すべきである、祖国を愛し、民族を思い、日本帝国主義を憎む人であるなら、その人が精米所を経営していようが、商店や飲食店を営んでいようが、また面事務所の書記を務めていようが、みな教育して味方につけ、反日戦線に結集すべきだ、と説いた。ついで、分会を結成し、敵の弾圧から組織を守る課題とその実行方途などについて述べた。

 6月末、正淑は、延社地区のすべての祖国光復会組織を統一的に指導する祖国光復会延社地区委員会を組織した。そして、祖国光復会延社地区委員会の指導のもとに、組織の中核メンバーが横のつながりを持たずに縦のつながりだけを持ち、敵の蠢動を鋭く注視しつつ組織の露呈を防ぐ積極的な対策を立てるよう手配りした。ついで正淑は、中核メンバーによって延社地区党組織を結成した。

 正淑がこの地を発つとき、延社地区の祖国光復会組織は各種の支援物資を朝鮮人民革命軍に送ったが、そのなかにはミシンもあった。このミシンは、後日、600着の軍服をつくるうえで大きな役割を果たした。

 正淑によって延社地区に結成された革命組織は、豆満江沿岸と北部朝鮮一帯を革命のとりでに築くうえで強国な足場となった。

 正淑の精力的な活動によって、将軍が第7連隊と第8連隊、警護中隊を率いて茂山、延社地区へ進出する確実なルートが開かれた。

 同年8月、将軍が、茂山、延社地区に進出する際、正淑は第7連隊の一小部隊とともに本隊より先に豆満江を渡り、司令部の宿営予定地にたいする敵情偵察をおこない、警備の手はずを抜かりなく整えた。


  600着の軍服

 三長、延社地区での工作を終えて帰隊した金正淑は、部隊が五道揚岔の密林に到着したとき、金日成将軍から病中の張哲九を看護するよう命ぜられた。

 張哲九は、中風のため片腕が利かず、そのうえ熱病に冒されされ、しばしば意識不明に陥っていた。

 どんなに難しい任務も喜んで引き受ける正淑を見つめながら、将軍は1カ月後にはきっと帰ってくると約束し、草小屋を建て、最後の非常米まで残して、部隊に出発命令をくだした。かよわい女子隊員たちを千古の密林に残して発たなければならない将軍の心痛を和らげようと、正淑は微笑をたたえて部隊を見送った。

 しかし、部隊が去り、独り取り残されると、急に心細くなり、密林が暗さを増し恐ろしいほど静まり返ったように思われた。敵の密偵が徘徊して遊撃隊の行方を探っているとき、正淑は病魔と敵の魔手から革命同志を守らなければならなかったのである。

 正淑は、29本のキノコを戸口に吊り下げ、意識を取り戻した張哲九に、司令官同志は1カ月後に帰ってくるとおっしゃいました、だから、このキノコがすっかりなくなったときに、きっとお見えになるでしょうと言った。

 その日から、正淑は一人の同志のために軍医ともなり、給養担当官ともなった。薄暗い樹林をぬって山腹や谷間を渡り歩き、崖にも遣いのぼってマツやエゾマツのやにをかき集めてきでは、火にとかして患者の腫れた腕や手の甲に塗ってあげた。また、解熱剤になる木の実や薬草を摘んできては、夜通しそれを煎じて患者に飲ませた。強い日差しを浴びながら険しい山を登り降りすると疲労困憊したが、夜は夜で患者のそばを離れずに湿布をしたり手足を揉んでやったりした。日が差し込まず、古い落ち葉が積もっている密林の中では、山菜のようなものもほとんど育たないので、遠くまで足を運ばなければならなかった。

 正淑の手厚い看護により、患者の病気は次第に快復しはじめた。

 2週間ほど経ったある日、思いがけないことに、将軍が伝令を伴い、小麦粉や大豆油、牛肉などの副食物を携えて訪ねてきた。

 将軍は張哲九の治療状況について尋ねたあと、病気にうちかっためには意志が強くなければならない、だから、早く元気になって帰隊し、また敵と戦ってみせるという強い意志をもって治療に専念するように、と彼女を励ました。

 将軍は、正淑の方に向き返り、一人の革命家は千金にも代えがたいものである、熱病の治療は最後の半月が大切だとし、「わたしは、きみが哲九オモニを必ず快復させてくれるものと信じる」と言い残した。

 張哲九の病気が快方に向かっていたある日、雨が激しく降りはじめ、深夜、嵐が吹き荒れて革小屋の屋根が吹き飛ばされてしまった。患者は寒さに震えだした。そのままでいては、病気がぶりかえして悪化する恐れがあった。

 正淑は軍服を脱いで患者に着せ、自分の毛布までかけてあげたが、それだけではしのつく雨を防ぐことはできなかった。正淑は、患者を抱きしめて雨を防いだ。

 後日、張哲九は、その夜のことを次のように回想している。

 「稲妻が走り、あたりがぱっと明るくなったとき、金正淑同志の姿をはっきり見ることができた。雨で髪はもとより全身がびしょ濡れになり、降り注ぐ雨に顔を打たれながらも、暴雨と狂風に荒れる夜空をにらみつけながら歌を口ずさむ金正淑同志の姿、それは敵との血みどろの決戦場でしか見られない不死鳥のような闘士の姿であった。その神々しい姿をまのあたりにして、わたしは胸が熱くなった」

 ついに、29本目の最後のキノコを手にとる日が来た。その日、待ちに待った将軍が隊員たちと一緒に訪ねてきた。病気がすっかり治って清潔な軍服を身につけた張哲九と並んで、将軍にあいさつをする正淑の目から熱い涙がこぼれ落ちた。

 正淑は、任務を全うした大きな喜びに包まれて張哲九と一緒に隊伍に加わった。

 その後、正淑は、将軍から600着の冬の軍服をつくる任務を受けた。

 将軍は、敵の大々的な「討伐」作戦にそなえて、白頭山東北部の広大な地域で大部隊旋回作戦を展開する構想を立てていたが、厳冬のなかで進められるこの作戦の成否は、冬の軍服の準備に大きくかかっていた。わずか数名の裁縫隊員の手で、満足な裁縫道具もなしに1カ月の間に600着の軍服をつくるというのは、常識では不可能なことであった。ミシンも不足していた。

 しかし、正淑は任務を受けると、それを一日でも早く遂行する方途を模索しつづけた。

 服地とミシンを携えて裁縫隊の密営に到着した正淑は、作業場を整えて待っていた女子隊員たちに、わたしはここへ来る途中こんなことを考えました、司令官同志から与えられた任務を10日間早めて20日間でやり遂げることはできないだろうかということです、と言った。

 女子隊員たちは驚き、顔を見合わせるばかりであった。

 正淑は、冬の軍服の準備が冬期作戦の成否を決めることになるのです、と言ってみんなを立ち上がらせた。真っ先に賛成したのは、裁縫隊の最年長者、崔希淑であった。彼女は符岩遊撃区にいたころから、何事であれ決心しさえすれば必ずやり遂げずにはおかない正淑の気性をよく知っていた。希淑は正淑より8つも年上だったが、符岩での反「民生団」闘争や桃泉里での地下工作、将軍直属の部隊における戦いぶりなどを見て、正淑に深い尊敬の念を抱いていた。他の隊員たちも正淑の意見に賛成した。

 裁断の経験を積んでいた崔希淑は裁断を、朴正淑は仮縫いを引き受けた。正淑は、軍服製作の基本工程であるミシン掛けを受け持った。こうして、作業場では軍服づくりの全期間、正淑が回すミシンの音が止むことなく鳴りつづけた。日が暮れると、松ごっぱに火をともして仕事をつづけた。休憩はもとより睡眠もほとんどとらなかった。

 正淑は、他の隊員たちが深い眠りに落ちたあとも、そっと起き出して火を点じ、音を立てずにできる仮縫いをしたり、ボタン穴を開けたりして滞っている仕事を片付け、夜明けには朝食を整えた。

 何日も休みなく仕事をつづけるうちに、隊員たちはひどい疲労を覚えはじめた。なかでも耐えがたいのは睡魔であった。軍服に綿を入れながらうとうとしたり、縫うべきでないところに針を入れてしまうこともあった。そんなときには、眠気をさます鐘の音のように、正淑の明るい歌声が作業場に響きわたった。

 歌をうたいながら、正淑は干巴河子密営で戦死した戦友のことを思い、彼らが血潮をもって書き残した「朝鮮革命万歳」という文字を思い浮かべた。正淑の歌声を聞くと女子隊員たちの疲労や眠気は消えうせ、作業場は倒れた戦友の分までやり遂げようという覚悟で沸き立った。

 こうして20日近くになると、600着の軍服づくりは最後の段階に入った。ところが、この大事なときにミシン針のめどが切れてしまった。1本しかない針を長時間使用したので、すり減ってしまったのである。女子隊員たちは、あと数着つくればすむのだから手縫いで仕上げようと言った。しかし正淑は、どんなに丹念に縫ってもミシン掛けには及ばないと言って、糸がめどから外れないよう片手で調節しながらミシンを掛けつづけた。これは、瞬時も手と目を離さず、身を引き締めておこなわなければならない作業であった。崔希淑は、そばに座って正淑の額の汗を拭きとってやった。

 ついに600着の軍服ができあがった。女子隊員たちは、正淑を抱き締めてうれし涙を流した。

 金日成将軍は、軍服づくりを10日も繰り上げて帰隊した女子隊員たちをほめたたえた。

 正淑は、将軍からまた重要な任務を受けた。

 そのころ将軍は、大部隊旋回作戦の準備のため東牌子密営に出向いていた参謀長林水山にたいし、深い疑惑を抱いていた。

 10月初め、両江口会議で主力部隊の各連隊と小部隊に、大部隊旋回作戦の成功を期して秘密コースの重要地点に食糧を確保しておくよう指示した将軍は、林水山にも食糧工作の任務を与えて東牌子密営に派遣したのであった。ところが数日後に、林水山が東牌子に向かう途中、ある密営に立ち寄って余分の機関銃を要求したという連絡が司令部に届いたのである。

 将軍は、食糧工作に出る人が何挺もの機関銃をどこに使うつもりなのかとつぶやき、深い物思いにふけった。林水山は、それまで敗北主義的傾向をたびたび露呈しており、前年春の六道溝城市襲撃戦闘は彼の拙劣な指揮と臆病風のため失敗に終わり、双山子戦闘のときにも戦いの途中撤収を主張して、一部の隊員に悪い影響を与えていた。それに、彼は規律生活を嫌い、よく嘘をつくので、何度か批判を受けたこともあった。

 将軍は、東牌子密営に人を送って、そこでの活動状況を詳しく調べることにしたが、人選に迷った。林水山は参謀長である。この任務は鋭い、洞察力と階級的原則性、妥協を知らぬ闘争精神の持ち主でなくては果たせない。

 将軍は熟考の末、長年の闘争の過程で失敗や挫折、動揺、任務遂行における不可能というものを知らなかった正淑を派遣することにした。

 将軍から特別任務を受けた正淑は、警護隊員の李斗益を伴って東牌子密営に向かった。目的地に到達するには、濠江高原の原生林を突き抜け、400キロ以上の道を踏破しなければならなかった。高原は、早くも一面雪に覆われていた。

 二人は、強行軍をつづけて1週間後に東牌子密営に到着した。

 ところが、密営にはまともな丸太小屋一つなく、ただならぬ空気が漂っていた。林水山は将軍の命令を実行しようとせず、密営に閉じこもって墜落した生活を送っていた。彼は、地元人民のあいだに革命組織をつくる任務をなおざりにし、敵情が思わしくないという口実を設けて、地方組織との連係もとらず、食糧の備蓄はおろか、小部隊の越冬用の食糧すら確保していなかった。

 正淑は、林水山の安逸で敗北主義的な思想的傾向を見破った。絶対に黙過することのできない問題であった。正淑は、なによりもまず密営を建設し、小部隊の越冬準備を整えてこそ、沈滞した雰囲気を一新し、大部隊旋回作戦に必要な食糧工作も順調に進めることができると考えた。

 林水山はしぶしぶ密営づくりに応じたが、建設現場には一度も顔を見せなかった。長い間、飢えに苦しんできた隊員たちは、寒さが激しくなると萎縮症にかかり、一人、二人と倒れはじめた。

 こうした状況のなかでも頑強に作業を進めて密営づくりを終えた正淑は、ただちに地方組織との連係をとり、食糧を調達する対策を立てるよう、林水山に強く求めた。しかし、彼は依然として不利な情勢と複雑な敵情を盾にとって動こうともしなかった。隊員たちは彼の不当な振る舞いに憤慨しながらも、正面きって批判することはできなかった。彼らは、林水山の卑怯で安逸な振る舞いを目にしながらも、それが意識的な反革命的行為だとは考えていなかったのである。それは、林水山が部隊の参謀長であるためでもあった。

 正淑は、林水山の振る舞いに第二の厳光浩を見てとった。しかし、正淑はこみあげる怒りを抑えながら、林水山に、敵の警戒が厳しく、「討伐隊」が威勢を振るっているからと、腕をこまぬいて心配ばかりしていたのでは結局、死を招くほかない、……参謀長が司令官同志の命令についてどう考えているかはよくわからないが、とにかく隊員たちの力と知恵を信じ、それを発揮させるなら不可能なことはないと思う、と主張した。

 それでも林水山は、あるつてを通していま食糧を求めている最中だからしばらく待ってみようと言い、小部隊が積極的な活動を開始することにあくまで反対した。正淑は、彼のこうした態度がたんなる卑怯さによるものではないことを確信した。それは、将軍の命令、指示にたいする意識的な怠慢であり、革命勝利の信念を失っていることのあらわれであった。このことを一刻も早く将軍に知らせなければならなかった。

 翌朝、正淑は、林水山に、自分の任務は果たしたから司令部に帰ると告げた。

 正淑は、李斗益にここを発とうと言った。彼はためらった。正淑の健康が損なわれ、とうてい行軍に耐えられそうになかったからである。彼は、発つにしても病気が快復してからにしようと言った。しかし正淑は、いまは一人や二人の苦しみや病気を問題にしているときではない、這っていき、転んでいってでも、司令官同志にここの実態を報告しなければならないと諭した。

 その日の夜、2人は密営を後にした。

 正淑は、病魔や疲労とたたかいながら雪をかき分けて進んだ。寒さと風は、いよいよひどくなった。いつ「討伐隊」に出くわすかわからない危険な道のりであった。高熱にさいなまれていた正淑は、ついに意識を失って倒れた。年少の李斗益は、涙声で正淑の名を呼びつづけた。

 「正淑同志! 目を覚ましてください。正淑同志!」

 おぼろげに、その声を聞いた正淑は、超人的な力をふりしぼって起き上がった。

 「わたしたちは、どんなことがあっても司令部へ帰りつかなければならない。司令官同志に事態を報告するまでは、死ぬ権利もないのです」

 寒風のなか、膝までつかる雪をかき分け、苦痛をこらえながら必死に歩を進めようとする正淑の額に脂汗が流れた。

 正淑は、このように濠江県東牌子から400余キロの密林の道、積雪の道を踏破して司令部にたどり着き、将軍に東牌子密営の実態をつぶさに報告した。

 林水山は、正淑が東牌子をあとにした数カ月後、日本軍に投降し、「討伐隊」の道案内に立って司令部が位置する密営を襲撃させた。


  大部隊旋回作戦の途上で

 東牌子から司令部に帰った金正淑は、金日成将軍の指揮のもとに進められた朝鮮人民革命軍主力部隊の大部隊旋回作戦に参加した。

 1939年10月、将軍は安図県両江口で開かれた軍事・政治幹部会議で、主として密営に依拠し限られた地域で活動してきた従来の闘争方式を変え、事前に定めた秘密コースをたどって広い地域を旋回しながら、敵の意表に出て奇襲をかけ、敵軍が押し寄せてきたら迅速に他所へ移動して活動するという、大部隊旋回作戦の方針をうちだした。

 これは、朝鮮人民革命軍を放置しておいては、日中戦争でも対ソ作戦でも成果をあげることができないという「研究総括」にもとづき、日本帝国主義が関東軍司令部直属の「野副討伐司令部」を吉林に置き、20余万の大兵力をもって同年末までに朝鮮人民革命軍を「掃滅」するため、「東南部治安粛正特別工作」の名目のもとに開始した悪辣な「討伐」攻勢に対処して立てられた作戦であった。

 正淑は、大部隊旋回作戦の日々、つねに隊伍の先頭に立って隊員たちを励まし導いた。

 部隊が安図から敦化方面に移動したころには、非常用のはったい粉も切れ、何日もの間、水しか口にしていない隊員たちは、倒木を踏み越える力さえなくなり、それをよけて進まなければならなかった。

 しかし、正淑は一度も疲れた様子を見せずに、年少の隊員の手を引いたり、年配の隊員の背のうを担いだりしながら先頭に立って歩いた。

 部隊のなかに、熱病に冒されたうえ、治療中にひどいやけどを負った隊員がいた。

 正淑はその年若い隊員に、これからはわたしと一緒に歩こう、わたしを姉さんと思って、疲れたり苦しいことがあったら隠さずに打ち明けるようにと力づけ、傷が悪化してはとたえず気を配りながら、彼の装具を担いで歩いた。

 宿営の際には、少年兵たちの眠りを妨げないように気をつけながら、夜通し彼らの破れた軍服を繕った。また、一人の少年兵の靴が破れているのを目にすると、眠りこけている彼の足からそっと靴を脱がし、疲労とたたかいながらそれを縫った。隊員たちが目を覚ましたとき、正淑は繕い直した靴を膝に乗せたまま、テントの柱にもたれてまどろんでいた。

 12月中旬、部隊は苦しい行軍の末、敦化県六棵松に到着した。

 そこには、日本人が軍需用材を切り出すために急設した大伐採揚があり、600余名の労働者が酷使されていた。伐採場には70名内外の山林警察隊がたむろしていたが、彼らは兵営のまわりに丸木の柵を巡らし、さらに内部に鉄条網を三重に張ったうえ、兵営から東北側の高地の砲台まで地下通路を設けていた。

 将軍は、木材所の敵を襲撃し掃討する作戦を立てた。六棵松木材所襲撃戦闘と呼ばれているこの戦いは、和竜と安図一帯に集中している敵の「討伐隊」を、混乱に陥れる目的で進められた。

 12月17日の夜、六棵松木材所襲撃戦闘の火ぶたが切られた。人民革命軍は一挙に砲台を占拠し、山林警察隊の兵営に突入した。敵兵は地下通路に逃げ込み、兵営はもぬけの殻であった。隊員たちは、綿を持ち込んで地下通路の入り口をふさぎ、火を放った。

 ととろが、戦いが一段落したとき、呉仲洽連隊長が致命傷を負って倒れた。彼が立っていた地下通路の入り口の内側で、敵兵がひそかに銃口を向けていたのである。

 正淑は、「みなさん! 連隊長の敵を討ちましょう。敵に百倍、千倍の死を!」と叫びながら地下通路に飛び込んだ。復讐戦が繰り広げられ、敵兵は全滅した。

 同志の胸に抱かれた呉仲洽連隊長は、金日成同志の命令を最後まで遂行できずに死ぬのが残念だ、金日成同志の身を守ってくれ、と言い残して息を引き取った。

 この日の戦いでは、正淑が工作のため延社地区へ赴く際、しばしば同行した第4中隊長の崔一賢と機関銃小隊長の姜興錫も戦死した。

 部隊は、戦死した同志たちを担架に乗せ、西北合方面に向けて行軍し、夜が明けると、森の中に埋葬し追悼式をおこなった。

 追悼の辞を述べる将軍の声は、愛する戦士を失った悲しみのあまりかすれていた。

 正淑は、追悼の辞を終えた後も呆然と立ちつくしている将軍に「呉仲洽同志が持ち歩いていた祖国の土です」と涙声で話しかけ、土の入った袋を差し出した。彼の背のうに大切にしまわれていたものであった。

 将軍は弔銃の鳴り響くなか、霊前にその土をまいた。正淑と指揮官、隊員たちも背のうから祖国の土を取り出し、将軍にならってそれをまいた。

 将軍は、土が半分ほど残っている袋を正淑に渡して、こう言った。

 「呉仲洽同志の念願どおり、この土を解放された祖国の大地にまいてあげよう」

 かけがえのない同志を失った部隊は、百倍、千倍の復讐を誓いながら夾信子に向かった。

 六棵松木材所襲撃戦闘につづいておこなわれた夾信子木材所襲撃戦闘は、瞬時のうちに終わった。六棵松の山林警察隊が抵抗したあげく、全滅したということを伝え聞いていた夾信子の山林警察隊は、兵営に閉じこもったまま抵抗を試みることなく降伏したのである。

 人民革命軍の威力に勇気づけられた300余名の労働者がわれ先にと食糧の運搬を申し出、そのうち100余名は人民革命軍への入隊を志願した。こうして、新入隊員の数は、六棵松で入隊した人員を合わせて200余名にのぼった。

 革命戦友を失って大きな悲しみにとらわれていた正淑は、すべての新入隊員を戦死した同志たちのように将軍に限りなく忠実な革命戦士に鍛えあげようと誓った。

 部隊が夾信子を後にして3日後、将軍は松花江のほとりで宿営を命じ、正月を迎えて新入隊員を歓迎する演芸公演を盛大に催そうと言った。

 正淑は、隊員たちと一緒に木を切り出して舞台を組み、テントをつないで幕を作り、赤旗を垂らし、演目も大きく張り出した。そして、舞台と観覧席のまおりには、たき火をいくつも燃やした。暗い樹林を背景に設けられた舞台と赤旗は、あかあかと照らし出されて新入隊員を興奮させた。

 将軍が席につくと、笛の音が鳴り響いて幕が開き、100余名の合唱が始まった。

 正淑が合唱を指揮した。力強い『革命歌』の歌声は、新入隊員の胸を打った。

 ついで、舞踊、独唱、ハーモニカ独奏など、さまざまな演目が舞台にかけられた。遊撃隊の生活を見せる寸劇もあった。

 正淑は『反日戦歌』をうたった。新入隊員は正淑の歌を聞きながら、血の海と化した祖国の現実を思い描き、戦意をかきたてた。

 演芸公演は、新入隊員に将軍の率いる朝鮮人民革命軍に入隊した誇りを抱かせ、同志たちの犠牲によって重い沈黙が流れていた部隊の雰囲気を一新させる契機となった。

 六棵松と夾信子で敵を掃討した部隊は、撫松県の白石灘密営で40余日間、軍事・政治学習をおこなった。

 これは、部隊に多数の新入隊員を受け入れたことを考慮し、部隊の戦闘力を強化するために将軍が講じた措置であった。

 敵兵が敦化の雪の中で寒さに震えているときに、ストーブをたいた兵舎で学習をすることになったので、新入隊員は言うにおよばず、一部の古参兵までがうきうきしていた。

 しかし正淑は、今度の軍事・政治学習は、とりもなおさず大部隊旋回作戦の継続であり、行軍と戦闘の一環であると受け止めた。

 正淑は、司令部の炊事と護衛の任務を遂行しながらも、警護中隊機関銃分隊の学習班の一員となって欠かすことなく学習に参加した。学習討論の時間には、将軍の著作と教えにもとづき、朝鮮革命の戦略戦術的問題を、部隊の当面の課題や大部隊旋回作戦の目的と結びつけて理路整然と論述し、隊員たちに将軍の革命思想の真髄を深く把握させるよう努めた。

 新入隊員の学習を助けることにも深い関心を払った。新入隊員のほとんどは、読み書きが全くできないか、やっとできる程度で、簡単な政治用語や遊撃隊の軍事用語すらわからないありさまだった。なかには、読み書きを習うのを非常に難しいことと考え、しりごみする者もいた。

 古参兵たちは、そのような新入隊員に、将軍のもとで読み書きを習い、革命の真理を体得した自分たちの体験談を話して聞かせた。

 正淑は、何人かの新入隊員を受け持ち、まず朝鮮語の字母を教えた。

 最初は、「革命」「朝鮮」「解放」などの単語を覚えさせ、ついで「朝鮮民族を総動員して広範な反日統一戦線を実現しよう」「強盗日本帝国主義の統治を覆して、真の朝鮮人民政府を樹立しよう」などのスローガンや短い文章を暗唱させ、それを書き取らせた。夜学にすら通ったことのない隊員には、『祖国光復会10大綱領歌』などの革命歌を教える方法で字を覚えさせ、ある程度読み書きができるようになると、「ぼくは、なぜ金日成将軍の遊撃隊に入隊したのか」「金日成将軍に初めてお会いした日」といった題目で作文を書かせ、彼らが将軍に忠実な革命戦士になるためには、どう生き戦うべきかを深く自覚するようにした。

 新入隊員は、読み書きの学習に劣らず、軍事知識や訓練の動作を学ぶのに苦労した。それまで、斧やのこぎりしか手にしたことのない彼らに、小銃や機関銃のような兵器について、その構造から作用の原理、分解と組合わせ、故障の修理法にいたるまで習熟させるのは並大抵のことではなかった。

 正淑は、新入隊員の軍事学習や訓練にともに参加し、武器の分解・組合わせをはじめ、隊列動作、射撃、戦術訓練などすべての動作を一つひとつみずからやって見せ、彼らが軍事学習にいっそう励むようにした。

 第1期軍事・政治学習が終了すると、将軍は部隊の全般的戦闘準備状態および新入隊員の準備程度を点検するため、非常呼集命令をくだした。指揮官と古参兵はいうまでもなく、新入隊員もみな迅速正確に行動して戦闘位置についた。

 将軍は、わずか1カ月の間に新入隊員がこのようにしっかり訓練されたのは大きな成果だ、この程度ならいますぐにでも祖国へ進軍できる、と満足の意を表した。

 将軍は第1期集中軍事・政治学習を総括する際、学習で優秀な成績をおさめ、新入隊員の学習を助けるうえで模範を示した正淑に表彰として万年筆を与えた。

 第2期軍事・政治学習が始まって十数日経ったとき、部隊は白石灘密営を発たざるをえなくなった。白頭山東北部の森林や渓谷、敦化の密林を彷徨していた敵が、白石灘密営をかぎつけて押し害せてきたのである。彼らは、山の峰々に無線通信器を設置して連絡を取り合う一方、「いま残っているのはお前たちだけだ。むだな抵抗はやめて帰順せよ」というビラをまいた。ビラはいたるところにまかれ、行軍する隊伍の頭上にも落ちた。

 しかし、軍事・政治学習を通じて心身を鍛えた隊伍は、赤旗をなびかせながら大部隊旋回作戦のコースをたどって行軍をつづけた。

 1940年3月11日、朝鮮人民革命軍の主力部隊は、敵の軍事要衝である大馬鹿溝を襲撃し、またたく間に敵を壊滅させた。人民革命軍の勝報は、茂山対岸の国境地帯に集結していた敵軍を一大混乱に陥れた。また、その知らせは、敦化の奥地で遊撃隊が全員凍え死にしたという敵のデマのため不安に駆られていた人民に大きな喜びを与えた。

 部隊が大馬鹿溝から撤収するとき、正淑は、ろ獲物資の運搬を申し出た300余名の労働者と並んで歩きながら、次のような話をした。

 ───みなさんはたぶん、朝鮮人民革命軍に会う前までは「共産軍はみな山の中で凍え死にした」という日本軍警の宣伝を真に受けていたでしょう。しかしわたしたちは、このように祖国の対岸にある大馬鹿溝にあらわれて敵を撃滅したではないですか。飢えと貧困に苦しんでいるみなさんの運命を救ってくれる方は、金日成将軍以外にいません。だから人民革命軍を物心両面から支援するのが、みなさんがなつかしい父母妻子が待つ故郷に早く帰る道なのです。……

 物資の運搬を終えて大馬鹿溝に帰った労働者たちは、行く先々で金日成将軍と朝鮮人民革命軍について、また、女子隊員たちの印象について、伝説のように話して聞かせた。

 当時、日本の出版物は、「武装した女子隊員も参加、金日成部隊の全貌判明……」という見出しで、「12日早暁、咸北対岸の大馬鹿溝で金日成司令官の率いる遊撃隊について行った140名中……帰ってきた人たちの話によると、遊撃隊は150名ほどであるが、そのなかには武装した女性も7、8名混じっていたという」と報じた。偏ったニュースを流すのが習慣になっている敵の御用出版物までもが、厳然たる事実を前に大きな衝撃を受け、上のように報じた「武装した女子隊員」のなかには、正淑もいた。

 祖国の独立、人民の自由と解放をめざして、あらゆる困難にうちかっていく正淑の名声は、白頭山東北部と北部朝鮮一帯の朝中人民のあいだに知れ渡り、敵にとって驚異の対象となった。


  とりでとなり盾となって

 金日成将軍は、抗日革命闘争の全期間、危険な地下闘争や苛烈な戦闘をつねに先頭に立って指揮した。朝鮮の革命家にとって将軍の安全をはかることは、なににもまして重要なことであった。

 金正淑は、領袖決死擁護の精神をもって、数知れぬ危険のなかでわが身を盾とし、肉弾となって将軍の身辺を守った。

 1940年3月25日のことである。

 将軍は、大馬鹿溝からずっと追跡してくる敵を振り切らずには茂山地区への進出は困難だとし、この日、紅旗河の谷間で敵軍を撃つことにした。

 敵は、「常勝部隊」「討伐の王者」と自称する極悪非道な前田部隊であった。朝鮮人民革命軍との戦いで痛撃を受け、死に絶えながらも撃発装置をはずして捨てたり、腕時計を石で叩き壊したりするのを見ても、その悪質さのほどがうかがえた。

 そのような敵であったので、戦いは最初から激烈をきわめた。

 敵兵を伏兵圏内に誘い込みせん滅戦を展開していたとき、そこから抜け出した数人の敵兵が司令部の位置している東側の高地に向かって這い上がってきた。

 司令部を守っていた正淑は、彼らを発見するや銃を連発しながら敵を誘引して司令部と反対の方向にひた走った。司令部からかなり離れた地点に達すると、命中射撃を浴びせて敵兵を一人残さず撃ち倒した。

 隣の稜線から響いてくる銃声に驚いて隊員たちが駆けつけたとき、あたりはもうひっそりとしていた。隊員たちが首をかしげながら周囲を見回していると、下の方から正淑が上がってきた。正淑は彼らに向かって、「安心なさい。司令官同志はご無事です」と言った。正淑が背負っていた金だらいには、弾痕が二か所もついていた。敵兵を誘引していたときに撃ち込まれた敵弾の跡であった。みな弾痕を見て驚いたが、正淑はそんなことよりも、将軍が無事であったことに安堵の胸をなでおろしていたのである。(この金だらいはいま、朝鮮革命博物館に所蔵されている)。

 紅旗河戦闘後、正淑は第8連隊とともに茂山地区に進出し、軍事・政治活動を活発に展開して、大部隊旋回作戦のニュースで沸き立った国内人民の反日闘争気勢をさらに高揚させた。

 紅旗河で甚大な打撃をこうむった敵は、なんとしても朝鮮人民革命軍の主力部隊を掃滅しようと、いっそうやっきになった。花拉子の谷間は「討伐隊」で埋めつくされた。

 このような状況に対処して、将軍は同年4月、安図県花拉子で大部隊旋回作戦の勝利を総括し、分散活動によって各地で敵を奇襲、掃滅する方針を示した。こうして、朝鮮人民革命軍の各部隊は、4月下旬から分散活動に移った。

 正淑は分散活動の日々にも、司令部の警護を朝鮮革命の運命にかかわる第一の任務と心得、わが身を盾となして将軍の安全をはかった。

 同年6月下旬、小哈爾巴嶺に向かって行軍していた部隊が安図県大沙河の奥地まで来て川を渡ろうとしていたとき、後を追ってきた敵が高地から突如射撃を始めた。将軍の指揮する部隊であることに気づいた敵だった。彼らは、敵軍のなかでも、とりわけ悪質なことで知られている安図県の「新選隊」であった。この「新選隊」を率いてきたのは、3年前、安図県金廠での戦闘で崔賢部隊に誅殺された悪名高い李道善の兄であった。弟の仇を討とうと必死になっていた彼は、つねづね「大日本帝国」のため「粉骨砕身」するとうそぶいていた日本帝国主義に忠実このうえない手先であった。「新選隊」の大半は、人民革命軍の手にかかって死んだ悪質な反動分子の身内からなっていた。

 部隊は、危険きわまりない状況におかれた。先頭の隊員は川に足を踏み入れ、後につづく隊員もズボンをまくりあげていたときのことで、後方から敵の射撃を受けながら川を渡り、開豁地帯に走り込もうとすれば、敵の狙い撃ちにあって取り返しのつかない損失をこうむる恐れがあった。

 とっさにあたりの地形を見てとった将軍は、高地に向けて突撃するよう命じた。突撃ラッパの音が高々と鳴り響き、隊員たちはときの声をあげながら高地へ駆けあがっていった。

 人民革命軍のこの猛烈な気勢にあわてふためいた敵兵は、有利な位置を占めているにもかかわらず、守勢に回った。しかし、悪質な彼らは、気を取り戻して激しく低抗した。戦闘は激烈をきわめた。

 将軍は、山腹の岩の上に立って戦闘を指揮した。正淑は、将軍のそばを離れず、注意深くあたりを見回していた。

 ふと、妙に揺れ動くカヤの茂みに目を向けたところ、5、6名の敵兵が茂みに潜んで将軍の方に銃口を向けているではないか。危機一髪の瞬間であった。長年、厳しい抗日武装闘争を陣頭に立って指揮してきた将軍が危険にさらされたことは数限りないが、これほど危険な瞬間はなかった。

 「司令官同志!」

 とっさにこう叫んだ正淑は、すばやくわが身で将軍をかばいながら、モーゼル拳銃の引き金を引いた。息づまるような瞬間、谷間を揺るがす一発の銃声とともに一番前の敵兵が銃を落として倒れた。つづけていま一発の銃声が響いた。正淑の肩越しに放った将軍の銃声であった。正淑の拳銃は、つづけざまに火を噴いた。茂みの中の敵兵はまたたく間に全滅した。

 毅然として戦闘を指揮している将軍を仰ぐ正淑の目から涙がこぼれおちた。それは、将軍の身辺から危険が去ったという喜びの涙であり、無事な将軍を仰ぎ見、限りない幸福感と安堵の思いにつつまれた革命戦士の清らかな涙であった。

 正淑の熱い忠誠心によって、将軍の安全はしっかりと守られ、朝鮮革命は力強く勝利の一路をたどることができたのであった。





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