金 正 日

社会主義経済建設の基本路線の
正当性を正しく認識することについて
金日成総合大学学生への談話 
−1962年1月17日− 

 金日成同志が提示した、戦後のわが党の経済建設の基本路線の正当性を正しく認識することは、きわめて重要な意義をもっています。

 学科討論で一部の人は、戦後の社会主義経済建設の基本路線をマルクスやレーニンの再生産の図式に合わせて説明しようとしましたが、それではわが党の経済建設の基本路線の正当性を正しく理解することはできません。

 重工業を優先的に発展させながら同時に軽工業と農業を発展させるというわが党の社会主義経済建設の基本路線は、金日成同志が史上初めて打ち出した独創的な経済建設路線です。

 わが党の経済建設の基本路線の独創性と正当性を深く学習するために、マルクス・レーニン主義の古典や外国の経験と比べて考察することは悪いことではありません。比較法は、問題の本質を深く把握するためのよい方法の一つです。しかし、どのような立場にたって比べるかが問題です。マルクス・レーニン主義の古典や外国の経験を盲目的に崇め、それを物差しにしてわが党の政策の正当性を解釈しようとするのは間違っています。マルクス・レーニン主義の古典や外国の党の経験がいくら貴重であるとしても、あくまでも自国の人民の利益と具体的な現実にもとづいて検討しなければなりません。

 わが党は、すべての路線と政策を策定するにあたって、朝鮮革命の利益と朝鮮人民の要求を最も重要視しています。

 金日成同志は、経済建設の基本路線を打ち出すにあたって、何よりも朝鮮革命の主人である朝鮮人民の要求とわが国の具体的な現実を重視しました。

 3年にわたる苛烈な戦争で勝利をおさめた朝鮮人民は、破壊された経済を一日も早く復興、建設し、零落した人民生活を短期間に安定させ、向上させることを切実に求めました。この差し迫った問題を解決する最も正しい方途は、重工業を優先的に発展させながら同時に軽工業と農業を発展させることでした。

 重工業を優先的に発展させなければ、破壊された人民経済を復旧して自立的民族経済の土台を築くことができず、人民生活向上のための経済的基盤をかためることもできませんでした。だからといって、重工業の建設に片寄り、軽工業と農業の発展を遅らすわけにはいきませんでした。重工業の建設に片寄ったのでは、戦争によって零落した人民生活を速やかに安定させ、向上させることができませんでした。重工業を優先的に発展させながら同時に軽工業と農業を発展させてこそ、人民生活の向上に必要な消費財の生産を速やかに増やすことができたのです。

 もちろん、戦争によってあらゆるものが破壊された状況のもとで、重工業を優先的に発展させながら同時に軽工業と農業を発展させるのは難しいことです。

 金日成同志は、経済建設の基本路線を策定する際、戦争によって鍛えられ、わが党のまわりにかたく結束した人民の底知れない力を信じました。金日成同志の賢明な指導と、党のまわりにかたく結束して党の路線をあくまで貫徹しようとする人民の確固とした決意がある限り、我々になしえないことはありえません。わが国には、豊富な天然資源があり、戦争中に破壊されたものの、重工業の一定の基礎もありました。こうした条件と可能性は、重工業を優先的に発展させながら同時に軽工業と農業を発展させるための元手となりました。

 金日成同志は、こうした条件と可能性を全面的に勘案し、重工業の優先的発展を保障しながら同時に軽工業と農業を発展させることを戦後の経済建設の基本路線としました。金日成同志が示したわが党の経済建設の基本路線は、まだ誰も示したことがなく、また、どの国でも試みたことのない全く新しく独創的な路線です。

 資本主義国の経済建設の歴史を見ると、軽工業を先に建設し、資金を蓄えてから重工業を建設しました。ソ連では革命後、一定の期間、軽工業の発展を遅らせ、重工業を強引に発展させました。重工業を優先的に発展させながら同時に軽工業と農業を発展させるのは、朝鮮人民が初めて切り開いていく社会主義経済建設の新しい道です。

 我々は、金日成同志が示した経済建設の基本路線は、朝鮮人民の切実な要求とわが国の具体的な実情に合い、立ち後れていたわが国を自立的な社会主義強国にした主体的な経済建設路線だと、胸を張って言うことができます。

 ひところ、党内に潜入していた反党・反革命分派分子は、わが党の指導的権威を失墜させる陰険な目的で社会主義経済建設の基本路線に公然と反対しました。彼らは、わが党の経済建設の基本路線のようなものは、マルクス・レーニン主義の古典にもなく、外国の経験にもないのだから、我々がそのような路線を打ち出してはならないと暴言を吐きました。外国の人たちがしなかったから、我々もしてはならないというのは話になりません。

 社会主義経済建設の基本路線は、わが国の具体的な実情に合っているだけでなく、社会主義経済建設の合法則的要求にもかなっています。重工業を優先的に発展させながら同時に軽工業と農業を発展させるのは、社会主義経済建設の最も正当な路線だと言えます。

 わが党が示した社会主義経済建設の基本路線は、経済的基礎の構築と人民生活向上の相互関係の問題を最も正しく解決できるようにします。経済的基礎の構築と人民生活向上の相互関係の問題は、社会主義経済建設で正しく解決しなければならない重要な問題です。どの国であれ、社会主義経済を建設するためには、経済的基礎の構築と人民生活向上の相互関係の問題を正しく解決しなければなりません。個々の国が自力で人民生活の問題を解決するには、経済的基礎を強固に築く必要があります。みずからの経済的基礎がなければ生産を高めることができず、生産を増やすことができなければ人民生活を向上させることもできません。一方、社会主義社会で強固な経済的基礎を築いて生産を発展させるのは、それ自体が目的ではなく、人民生活を向上させるためです。蓄積のための蓄積、生産のための生産は、何の意味もありません。

 個々の国は、社会主義経済を建設するにあたって、経済的基礎の構築と人民生活向上の問題を正しく結びつけて円滑に解決しなければなりません。この問題を解決するうえで堅持すべき基本的要求は、国の経済的基礎を強固に築き、それにもとづいて当面する人民生活の問題も同時に解決していくことです。この要求は、重工業を中心に据え、優先的に発展させながら同時に軽工業と農業を発展させてこそ解決することができるのです。重工業だけを一面的に発展させたのでは当面する人民生活の問題を解決することができず、軽工業と農業の発展にだけ力を注いだのでは国の経済的基礎を強固に築くことができず、拡大再生産を保障することもできません。経済的基礎の構築と人民生活向上の相互関係の問題を最も合理的に解決しうる道は、重工業を優先的に発展させながら同時に軽工業と農業を発展させることです。

 わが党の経済建設の基本路線は、戦後のわが国の具体的な現実を反映して打ち出されたものですが、社会主義経済建設の全期間にわたって堅持すべき正当な路線です。

 わが党の経済建設の基本路線の正当性と生命力は、戦後、わが国における経済建設によって実証されました。

 我々は、今後も主体的立場を堅持し、わが党の路線と政策の独創性と正当性を幅広く、深く研究しなければなりません。

出典:『金正日選集』増補版1


<参考> 金日成主席は、次の祝賀文を朝鮮人民軍に送っている。

 「米帝国主義者とその手先李承晩一味は、祖国解放戦争(朝鮮戦争)で恥ずべき敗北を被ったにもかかわらず、朝鮮問題の平和的解決と朝鮮での緊張緩和に極力反対し、新たな侵略を企んでいます」(「1954年の新年に際して、朝鮮人民軍全将兵に送る祝賀文」−1954.1.1)

 金日成主席は、朝鮮戦争が終わると直ちに、全党と全人民を戦後の復興建設に奮い立たせた。

 停戦後(1953年7月27日停戦協定調印)、共和国の情勢は依然として緊張状態にあり、復興建設のための朝鮮労働党と人民の前途には多くの難関と障害が横たわっていた。

 米帝国主義は、戦争で喫した惨敗から教訓をくみ取ろうともせず、共和国に対する侵略野望を捨てず、新たな戦争準備に狂奔し、停戦協定を踏みにじり、李承晩かいらい一味を唆して、「北進」騒ぎを絶えず引き起こした。こうした情勢のもとで、党と人民は動員態勢を堅持し、銃重視、軍事先行の原則で国防力を強化しながら戦後の復興建設を進めなければならなかった。

 戦争の被害は甚大であった。米帝国主義は、3年にわたる戦争の間、共和国領内に1平方キロ当り平均18個の爆弾を投下し、都市と農村、工場、企業、教育・文化施設まで廃墟にした。人民の生活も極めて困難であった。

 米帝国主義は、朝鮮は100年かかつても再起できないとうそぶき、朝鮮に同情を寄せる友人たちも、朝鮮人民はこの困難に打ち勝つことができるだろうかと憂慮した。

 戦後の復興建設をどこから始めてどうすべきか、糸口がつかめないほど状況は困難を極めていた。

 主席は、すでに戦時から構想してきた戦後復興建設の基本方向を確定するのに腐心した。

 主席は、1953年7月28日、歴史的なラジオ演説で『すべてを民主基地の強化をめざす戦後人民経済復興建設のために!』という戦闘的スローガンを示し、戦争の勝利を祝う平壌市民大会が終わるとその足で工場、企業を訪ね、現実を具体的に調べた。

 主席はこの日、江南窯業(レンガ)工場を現地指導し、29日には平壌紡織工場と黄海製鉄所を訪ね、労働者、技術者と復興建設の方途について話し合い、ついで南浦精練所とガラス工場を現地指導した。8月3日、降仙製鋼所を訪ねた主席は、無残に破壊された製鋼所構内のポプラの木の下に腰をおろして労働者たちと語り合った。主席は、党中央委員会第6回総会を準備している最中だったが、降仙の労働者たちと相談するために訪ねたと言って戦後の人民経済復興の方向について語り、製鋼所を我々の力、我々の設備、我々の資材、我々の技術で短期間に立派に復旧し、英雄的な朝鮮労働者階級の気概をいま一度世界に示そうと強調した。

 主席は1953年8月5日から9日まで、朝鮮労働党中央委員会第6回総会を開催した。

 そして、『すべてを戦後の人民経済復興発展のために』と題する歴史的な報告をおこなった。

 主席は、停戦協定の締結に伴って党に提起された革命任務を示し、全党と全人民が戦争で勝利した気勢を少しも緩めることなく、戦後の復興建設にすべての力を動員するよう呼びかけた。

 主席は、戦後の人民経済復興発展の基本路線と方向を示した。

 金日成主席は、戦後の経済建設の基本路線について次のように述べている。

 「我々は、戦後の経済建設において、重工業を優先的に復興、発展させながら、同時に軽工業と農業を発展させる方向へと進まなければなりません。そうすることによって、わが国の経済的土台を強化し、人民生活を速やかに改善することができるのであります」

 主席は、戦後の人民経済復興建設を三つの基本的段階に分けて進めるべきであるとし、第1段階では半年ないし一年の間に破壊された経済を全般的に復興するのに必要な準備を整える、第2段階では3カ年計画を遂行して人民経済の各部門を戦前の水準に回復させる、第3段階では5カ年計画を遂行して社会主義的工業化の基礎を築くべきであると述べた。

 主席は、党を組織的、思想的に強化し、人民大衆を党のまわりに結集させることに第一義的な力を注いだ。

 党中央委員会第5回総会文書の再討議を全党的に力強く繰り広げ、反党反革命分子朴憲永スパイ一味の思想的毒素を一掃し、党員の党性を強化し、戦後の復興建設における前衛的役割をさらに高めるようにした。また、1953年12月中旬、朝鮮労働党中央委員会第7回総会を開いて、戦後の新たな環境に即して統一戦線活動を改善するための対策を立て、各階層の大衆を党のまわりにかたく結集させ、高い愛国的熱意をもって復興建設にこぞって参加するようにした。

 主席は、戦時経済体制を戦後の新たな環境に合わせて改めるようにした。

 主席は、すべての工場、企業が復興建設に必要な製品を優先的に生産し、戦争で破壊された農業を速やかに復興するようにした。そして、党、政権機関、社会団体、経済機関の優秀な活動家を派遣して、破壊された工場、企業を計画的に復旧し、労働者、事務員の住宅を建設して、彼らの生活を一日も早く安定させるようにした。

 主席は、人民軍の高度の戦闘力に依拠して、戦後の人民経済復興建設全般を推し進めるために、人民軍部隊を復興建設に動員して英雄的気概を余すところなく発揮するようにした。

 多忙のなかにあっても金日成主席は1953年9月1日、朝鮮民主主義人民共和国代表団の団長としてソ連を訪問した。

 ソ連では、1953年3月5日、スターリン元帥死去、マレンコフ首相就任。8月8日には水爆保有を発表した。

 日本では3月14日、吉田茂・首相の「バカヤロー」発言で国会解散、総選挙の実施。4月には、石川県内灘軍事基地反対闘争が展開された。


 『金日成主席革命活動史』

 『すべてを戦後の人民経済復興発展のために』



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