偉人金日成主席
2.チュチェの太陽
1)チュチェの陽光を照らした不世出の偉人

不滅のチュチェ思想の創始


 金正日総書記は、次のように述べている。
 「金日成同志は、抑圧されさげすまれてきた人民大衆が自己の運命の主人として登場した新しい時代の要請を深く洞察して、偉大なチュチェ思想を創始することにより、自主性をめざす人民大衆の闘争を新たな高い段階に発展させ、人類史発展の新しい時代、チュチェ時代を開拓しました」
 思想・理論における時代性の保障は、当該時代の本質に対する科学的解明にもとづいてなされる。
 チュチェ思想が創始された20世紀20年代──30年代の初め、世界的範囲で見れば、時代の変化発展のなかで抑圧されさげすまれてきた人民大衆が自己の運命の主人、時代と歴史の主人として登場していた。
 当時、世界の多くの国の人民大衆は、資本の抑圧と搾取、植民地支配をただ甘受したばかりでなく、それを終わらせるための闘争に奮い立った。
 特に当時、これまで中世の暗黒のなかで蒙昧になり、資本主義文明の元肥とばかりなってきた被抑圧民族の反帝反植民地主義闘争がさらに活発にくり広げられた。
 金日成主席が革命活動の道に身を投じた1920年代の後半期から1930年代の初めにいたる間、朝鮮の各地では前例のない人民大衆の組織化された暴力的闘争が激しく起こっていた。
 不滅のチュチェ思想は、主席が革命闘争の初期に自主が人民大衆の志向と要求であり、時代の要請であるという科学的洞察にもとづいて創始した独創的な思想である。
 1989年6月、ユーゴスラビアの新聞「オスロボジェーニェ」責任主筆を接見した主席は、彼にチュチェ思想は朝鮮革命の実践的要求から、そして朝鮮人民の闘争経験にもとづいて我々が提示した思想であるが、それがこんにち、世界人民の間で広範な支持と共感を呼び起こしているのはあらゆる支配と従属に反対し、自主性を志向する現代の趨勢と自己の運命を自力で開拓しようとする現代の人民の念願に合致するからだと思うと述べた。
 このように主席は、10代の幼年の時代に、現代がかつて抑圧されさげすまれてきた人民が世界の主人として登場して自己の運命を自主的に、創造的に開拓していく自主性の時代であるという結論を下したのである。
 こんにち、世人がチュチェ思想について、人民を中心に据えて展開され体系化された人民大衆中心の思想、完成された自主の革命思想であると激賞する理由は、それがほかならぬ人民大衆が生き、彼らの志向が反映された時代の流れのなかで創始された思想であるところにある。
 思想と理論には、その起点が必ずあり、進歩的思想は科学的真理をその起点にしている。
 主席は書斎でいかなる従来の学説を起点にしてではなく、祖国と人民を救い、新しい時代を開拓するための血のにじむ闘争のなかで革命の新たな真理を発見し、それにもとづいて不滅のチュチェ思想を創始した。
 主席は朝鮮の具体的現実から出発して、革命的実践闘争の経験と教訓にもとづいて新たな真理を探究し、思想と理論を打ち出した。
 主席は、自分が座右の銘にした「以民為天」の思想と父である金亨稷先生から譲り受けた「志遠」の思想と無産革命の理念を貴い思想的・精神的源泉にして独自の新たな真理を探究した。
 主席は、先進思想、新しい思潮に対する研究も革命実践と結びつけて深化させた。
 主席は、朝鮮の現実とマルクス・レーニン主義に対する研究を通じて従来の学説が朝鮮革命の具体的な実践的諸問題に正しい解答を与えられないことを切に感じた。
 主席は、朝鮮の民族解放運動の実践的経験と教訓にもとづいて重要な二つの真理を発見した。
 主席が発見した貴い真理の一つは、革命の主人は人民大衆であり、人民大衆のなかに入って彼らを教育し、組織動員してこそ革命が勝利することができるということである。
 当時、朝鮮では民族解放運動の2大陣営をなしていた民族主義者と初期共産主義者が人民大衆という大きな革命勢力から離脱して空理空論とヘゲモニー争いに明け暮れていた。彼らは人民大衆のなかに入って彼らを教育し組織化し、革命闘争に立ち上がらせることは考えず、大衆から遊離してヘゲモニー争いと空理空論に明け暮れ、大衆を団結させるのではなく派閥争いによって分裂させていた。
 主席は1926年10月、真の初の革命組織である打倒帝国主義同盟(略称「トゥ・ドゥ」)を結成し、朝鮮革命の新しい出発を断行し、英知に富み、勇敢な朝鮮人民が団結して戦うならば強盗日本帝国主義を打ち破り、朝鮮の独立を成就できるということを宣言した。そして、革命組織を拡大し、その周囲に広範な青少年と勤労大衆を結束させるための闘争を力強くくり広げた。
 主席のエネルギッシュな指導のもとに、 1926年12月にはセナル少年同盟が結成され、1927年8月には「トゥ・ドゥ」を前身とする反帝青年同盟とともに朝鮮共産主義青年同盟が結成され、その翌年には農民同盟と反日労働組合まで組織された。1926年12月には反日婦女会も組織された。
 主席は、広範な人民大衆を革命の主人とみなし、彼らを教育し結束させる活動を組織指導した。
 特に、自分が学生たちを組織動員して同盟休校を起こし、吉会線鉄道敷設反対闘争と日本商品排斥闘争を勝利へと導いた。
 こうした実践闘争の過程を通じて主席は、人民大衆こそは、革命闘争の直接の担当者であり、その人民を意識化、組織化して強力な革命勢力として結束するならば必ずいかなる強大な帝国主義侵略者をも打ち破って、国の独立と繁栄をなし遂げることができるということを確証した。
 主席が見出した今一つの貴い真理は、革命は他人の承認や指示によってではなく、自分の信念にもとづいておこない、自分が責任をもって進め、革命におけるすべての問題を自主的、創造的に解決していくべきだということであった。
 革命は輸入することも、輸出することもできず、誰に代わっておこなうこともできない。
 しかし、当時の民族主義運動勢力の一部の上層部の者と独立運動家たちの間では、外部勢力による国の独立問題を解決しようとする事大主義的傾向が濃厚にあらわれていた。彼らは「教育と産業の振興による国力育成運動」を「独立の目的達成の早道」だとし、その「力の準備」を、アメリカやフランスなど資本主義列強の「援助」に依存して進めるべきだと力説していた。
 初期共産主義運動でも事大主義、教条主義がより濃厚にあらわれた。共産主義運動を自称する人々は実際の独立対案はなく、ただ古典だけ脇に挟んで歩きながらソ連やコミンテルンを見上げるだけであった。ただ時期が熟してソ連やコミンテルンが前に出ると万事が解決されるだろうという、いわば漁夫の利を得ようというのが大方の初期共産主義者の立場であった。
 主席は自国の革命を自分が責任をもって立派におこないさえすれば、おのずと他人が認めるようになり、無視できなくなるだろうと確信し、革命組織を結成して独自に日本帝国主義に反対する各種の闘争も組織指導し、最初の党組織も、最初の武装組織である朝鮮革命軍も結成したのである。
 これらのすべての大業は、主席が独自の決心によって実践したことであった。
 このように、主席が見出したチュチェ思想の二つの起点は、名実ともに独創的な真理、自国人民、自国革命中心の主体的な真理である。
 早くから朝鮮革命の新たな進路を模索しつづけてきた主席は、この時期に入りながら、新たな指導思想と指導理論なしには朝鮮革命を一歩も前進させることができないことをさらに肌で感じるようになった。
 チュチェ思想は、朝鮮革命と世界革命、人類の運命がその創始を切に求めていた歴史的時期に生まれた偉大な思想であった。
 主席は、1930年6月30日から7月2日の間におこなわれた?倫会議で「朝鮮革命の進路」という歴史的な報告をおこなった。
 主席は報告で、革命闘争の主人は人民大衆であり、人民大衆を組織動員してこそ、革命闘争で勝利することができると示した。
 主席は報告でまた、朝鮮革命の主人は朝鮮人民であり、朝鮮革命はあくまで朝鮮人民自身の力で、自国の実情に即して遂行すべきであるという確固たる立場と態度をもつのが最も重要であると明らかにした。
 「朝鮮革命の進路」は、革命運動史上初めて、チュチェの革命原理と原則にもとづいて科学的な革命戦略と戦術が集大成した、革命闘争の大綱であった。
 主席は歴史的な報告において、朝鮮の現実を科学的に反映して朝鮮革命の性格と基本任務、革命の動力と対象を明示し、朝鮮革命を成果的に遂行するための独創的な武装闘争路線と反日民族統一戦線路線、党創立方針を提示した。これらの路線は、いずれも主席が見出したチュチェ思想の革命原理と原則から出発し、それで一貫されたチュチェの路線と戦略戦術であった。
 主席は朝鮮革命の性格を、朝鮮革命の主人は朝鮮人民であるという立場にもとづき、当時の朝鮮の階級関係と朝鮮革命の課題を反映して、いかなる古典にもなくどの国でも提示したことがない、反帝反封建民主主義革命と規定した。
 歴史的著作「朝鮮革命の進路」の発表がチュチェ思想創始の宣布となるのは、この著作がチュチェの革命原理と革命闘争で堅持すべき根本原則を込めており、朝鮮革命の性格に関する問題からはじまって革命の基本任務とそれに伴う戦略戦術的諸問題を全面的に解明しているチュチェの思想と路線の不滅の大綱だからである。
 偉大なチュチェ思想は、当時まで革命理論と闘争方法の百科全書として公認されていたマルクス・レーニン主義の学説も解明できなかった朝鮮革命の進路を誕生させたことにより、名実ともに時代の暗やみを追い払った光であった。
 不滅のチュチェ思想が創始されたことにより、人類とともに永遠であろうチュチェ時代が開かれ、その激しい流れが始まるようになった。

チュチェ思想によって解明した運命開拓の道

 金日成主席がチュチェ思想を創始することによって運命開拓をめざす人民大衆の闘争史に積み上げた特出した功績は、人間の本性と世界における人間の地位と役割を解明して、人間自身が自己の運命を自分の手に掌握していく新しい歴史を開いたことにある。
 主席は、人類の哲学史上初めて世界における人間の地位と役割の問題を哲学の根本問題として提起し、人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定するという哲学的原理を明らかにすることにより、人間の運命の主人はほかならぬ人間自身であるという歴史的な真理を示した。
 人間があらゆるものの主人であるというのは、人間が世界と自己の運命の主人であることを意味し、人間がすべてを決定するというのは、人間が世界を改造し自己の運命を開くうえで決定的な役割を果たすという意味である。チュチェ思想によって世界の支配者、改造者としての人間の地位と役割が新たに解明されて、人間は自己の運命を自分自身が掌握した、運命の主人、運命の開拓者となった。
 主席は、世界における人間の地位と役割を示しながら、その根本的秘訣を人間の本性と結びつけて解明した。
 すなわち、人間が世界と自己の運命の主人となり、主人としての役割を果たせるのは、ほかでもなく人間が自主性と創造性、意識性をもつ社会的存在であるからだということである。
 主席は、人民と苦楽をともにする課程で早くから人間に対する並外れた見解と観点をもつようになった。
 主席が人間に対する見解を打ち立てていたとき、最も強烈に感じたのが、人間の自由と権利に関する問題であった。不遇な植民地朝鮮の息子として誕生した主席は、国なき民は喪家の犬にも劣るという真理を確認し、人間にとって死すとも失ってはならないのがまさに自由であり、自主的権利であるという哲理を骨身に染みて感じた。
 主席は、日本帝国主義の植民地統治に抗して全国各地で立ち上がる労働者階級と農民たちの決死の闘争ぶりからも人間の自由、国と民族の自由を求める人民の共通した志向を感じ取った。さらに抗日の日々、「自由歌」を歌いながら命をかけて国の自由と独立のために戦う革命家たちの闘争意志からも自由に生きようとするのは人間がおし立てる最も初歩的な、かつ死活の要求であり、それを実現するうえで人間の最大の精神力と意志が噴出されるということを、より切実に感じた。
 主席は、真の人間的自由に対する要求と志向で表現される自主性は何ものにも縛られずに世界の主人、自己の運命の主人として生き発展しようとする人間の根本属性であるとみなした。この自主性によって、人間は自分の外の世界を運命開拓の要求に即して能動的に改造し変革しながら、世界で唯一の自主的存在としての尊厳と価値を輝かせるのである。
 主席は、自主性とともに創造性と意識性も人間の根本的属性であると新たに解明した。
 主席は、人間は創造性をもつ社会的存在だということについて明哲に示した
 主席は早くから初歩的な生存の権利まで奪われた植民地民族として、想像を絶する劣悪な生存条件のなかでも創造と労働を中断することなく、生活をし続ける剛毅な人々の姿から、人間本来の無限の創造的能力を見た。主席は、徒手空拳で強大な日本帝国主義と戦った抗日武装闘争期から試練と難関が折り重なる朝鮮革命の全期間、人民大衆とともに奇跡的な勝利をなし遂げる過程に、人間こそはこの世で不可能なことのない、世界で唯一無二の威力ある創造的存在であるという確固たる観点を持つようになった。
 主席は、人間は意識性をもつ存在、意識的な社会的存在であることについても明哲に示した。
 革命活動の初期から思想・意識を基本とする人間の精神力に絶対的な意義を付与し、それに依拠して百戦百勝の歴史を創造してきた主席は、意識性こそは、人間のすべての認識と実践活動の根底に置かれる根本的属性であり、まさにそれが人間の限りない威力の源泉であることを確信していた。抗日武装闘争の時期に革命の司令部を守り、祖国解放の聖戦に身命を賭して戦った人民革命軍隊員の無比の犠牲性もほかならぬ革命家としての高い意識性にもとづいている。
 主席は、意識性を世界と自分自身を把握し改造するための人間のすべての認識活動と実践活動を規制する属性とみなし、それを自主性、創造性とともに人間の根本的属性であると明示した。
 主席は、人間の本性は決していかなる先天的で生物学的な属性であるのではなく、不断な社会的教育と社会的実践活動の過程を通じて、社会的、歴史的に形成され強化される社会的な本性であり、これによって人間は世界で唯一に社会的存在となることを明示した。
 人間とは何か、この論議は決して昨日や今日に始まったのではなく、人類の発生とともに絶えずおこなわれてきた人類史的課題であった。
 人間の社会的本性が解明されたことにより、人間が世界と自己の運命の主人となる科学的根拠が完全に解明されるようになった。長い間、神や支配階級の意志によって左右されていた人間の運命はとうとう人間自身に戻るようになった。
 まさに、人間が世界と自己の運命の主人であるという鉄の真理を真髄にし、主席はチュチェの哲学的世界観を確立し、チュチェ思想の全般内容に貫かせた。
 主席が歴史上初めて人間の本質と地位を完璧に解明したことにより、人間の尊厳と価値は最上の境地に至り、人間はこの世で最も貴い存在となった。
 主席は、人間中心の哲学的原理にもとづいて人間中心の新たな世界観を確立することにより、運命開拓のための人間の認識と改造活動の有力な方法論をもたらした。
 人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定するという哲学的原理にもとづいているチュチェの世界観は、自主時代の最も正しい世界観である。
 自主時代に入って人民大衆は、世界の真の主人として登場し、彼らの闘争によって世界はより人民大衆に奉仕する世界に変わっている。世界の主人としての人民大衆の地位と役割が非常に強化されたこんにちの現実は、人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定するというチュチェの哲学的世界観の正当性と生命力をさらに実証している。
 主席は、人類思想史において初めてチュチェの社会・歴史観を定立した希世の偉人である。
 主席は、歴史の主体は人民大衆であることを明白に示した。主席は、人民大衆を抜きにしてはいかなる社会的運動もあり得ず、社会的運動はただ人民大衆の能動的な作用と役割によってのみ発生、発展すると闡明した。
 歴史の主体である人民大衆は、勤労する人々を基本にして自主的要求と創造的活動の共通性によって結合された社会的集団である。言いかえれば、人間の真の社会的本性を体現した人々の集団が人民大衆である。人間はその社会的本性によって自己の運命の主人となり、こうした本性からして人民大衆は社会・歴史を開拓し主導していく歴史の主体となるのである。
 人民大衆が歴史の主体であるというのは、歴史の主人が人民大衆であることを意味するが、それは決しておのずと人民大衆が主人の地位を占め、主人としての役割を果たしたという意味ではない。
 歴史と現実は、思想的に目覚めず、正しい指導のもとに結束しなかった人民は、いくら膨大な人口数と英知に富んだ民族であるとしても、決して人類社会を主導する歴史の自主的な主体となりえないということをはっきりと見せている。
 人類史に存在した大小のすべての国と民族の盛衰、すべての歴史的運動の成敗は、人民大衆の運命を開拓するための闘争で決定的なのは、何よりも領袖と党の正しい指導であることを血の教訓として刻み付けた。
 主席は、特に10代の革命活動の時期から人民を指導して勝利の歴史を創造してくる過程に、人民大衆が歴史の主体としての地位を占め、役割を果たすためには必ず指導と大衆が結合されなければならないという、歴史的結論に到達した。
 主席は歴史の主体が人民大衆であるという社会・歴史原理から社会的・歴史的運動の本質は人民大衆の自主性をめざす闘争だということであり、その性格は人民大衆の創造的活動だということを科学的に解明した。これとともに、社会的・歴史的運動で決定的な役割を果たすのは人民大衆の自主的な思想・意識であり、人類歴史の発展方向は人民大衆の地位が高まり、役割がさらに増大していくところにあることを明示した。
 主席が人民大衆を中心にして歴史発展の基本方向、人民大衆の運命開拓の正しい道を明示することにより、人類はいかに複雑な情勢のなかでも歴史の進軍路に沿って力強く前進していくようになった。
 人民大衆の自主的志向と念願を反映して不滅のチュチェ思想を創始した主席は、革命と建設で主体性を確立することを人民大衆が運命開拓のための闘争で堅持すべき闘争原則としておし立てた。
 主体性の確立に関する思想は、人民大衆が自己の運命開拓で主人たる態度をもつべきだという思想として、革命と建設で堅持すべき根本的立場、基本的方法を示した。
 主体性確立の本質的内容の一つは、自国の革命は自分が責任をもち、自力であくまでおこなっていく自主的立場を堅持することである。
 自主的立場は、人民大衆が革命と建設において主人としての権利を擁護し、主人としての責任を全うするために堅持すべき立場である。自主的立場の具体的内容は、一つは常に自国人民の利益、自国革命の利益から出発して、すべての路線と政策を自分が決定する完全な独自性であり、もう一つは革命と建設のすべての問題を自分が責任をもって自力で解決していく徹底した自力更生である。
 これは、自分の信念と定見を持たずに他人の指図によって行動し、自分の力を信じずに他人の力に依存して革命をおこなおうとする、外部勢力に対する依存思想、事大主義と根本的に対峙する。
 主体性確立の本質的内容の今一つは、人民大衆の力を信じ、彼らを動員させて革命と建設で提起されるすべての問題を自国人民の利益と自国の実情に即して解決していく創造的立場を堅持することである。
 創造的立場は、自然と社会の改造者、自己の運命の開拓者として人民大衆が当然堅持すべき立場である。創造的立場の内容の一つは、常に人民大衆の力を信じ、すべての問題を人民大衆の力と知恵を引き出して解決していく原則であり、もう一つはすべての問題を自国の実情に即して解決していく原則、言いかえれば、すべての問題を絶えず変化発展する時代的条件と各国の具体的条件に即して解決していくことである。
 創造的立場は、自国人民の力と知恵を信じることなく、自分の信念を持たずに既成理論と経験を機械的に模倣しようとする教条主義、マンネリズムと根本的に対峙する。
 主席が示した自主的立場と創造的立場の堅持に関する思想は、実践的には自国人民の力を信じ、自己の方式で革命をおこなうことに帰着する。自己の力を信じ、自己の方式で革命をおこなう立場、これがほかならぬ運命開拓の武器としての自主であり、創造である。
 主席は機会があるたびに、人民大衆は革命と建設で提起されるすべての問題を自己の要求と利益に即して処理する堂々たる権利をもっており、革命と建設を自分が責任をもっておし進めるべき神聖な義務をもっていると強調していた。一生、朝鮮革命の現実に立脚し、人民大衆に依拠して革命をおこなってきた主席のこの揺るぎない革命信条が、自主的立場と創造的立場の堅持に関する思想にそのまま脈打っている。
 主席はチュチェ思想の旗のもとに、人民大衆が自己の運命を自主的に、創造的に開拓していくうえで堅持すべき原則的問題についても明白な解明を与えた。
 主席は、思想における主体、政治における自主、経済における自立、国防における自衛の原則を自主的立場と創造的立場を具現するための根本的原則として示した。まさに、この根本的原則によって自主的立場と創造的立場は、実際に人民大衆の運命を開拓するための闘争の武器として確固と転換されるようになった。
 自主的立場と創造的立場に関する主席の思想は一国、一民族の範囲や歴史のある期間にのみ価値をもつ思想ではない。自主と創造の理念こそは、人民大衆の運命開拓においていかなる制約も受けない偉大な思想である。
 自主的立場と創造的立場の徹底した堅持に対するチュチェ思想の要求は、単に朝鮮革命の政治的および歴史的環境と条件の特殊性によって提起されることではない。この要求は、社会的人間の本性から提起される必然的なものである。
 人民大衆の運命開拓のための闘争は、国と民族を単位にしておこなわれる。歴史的に見ても国と民族を離れた全人類的な革命など実際にあったことがない。国と民族が処している具体的環境と条件、達成すべき闘争の目標もそれぞれ異なり、大衆の準備程度と具体的な思想・感情も異なっているため、運命を開拓するための人民大衆の闘争はあくまで独自性を帯びておこなわれざるをえない。
 実践のなかで検証された思想は真理である。
 主席が回顧録で感慨深く書いているように、朝鮮人民がこんにちまで困難で複雑な革命の道を踏み分けながらまっすぐに勝利の道を歩んできたのは、ほかならぬ自主的立場と創造的立場を堅持したことに根本的な秘訣があった。
 総書記は、朝鮮民主主義人民共和国創建60周年を迎える2008年の正月の初旬、革命と建設で主体的立場を確固と堅持して自主で尊厳高く、自立かつ強固であり、自衛で富強な祖国を建設した主席の輝かしい一生を感慨深く回顧した。
 主席は早くから革命闘争の初期から自分の力を信じ、自分の方式で革命をおこなうべきとの自主と創造の原則を示し、それを鉄則として朝鮮人民を導くことにより、こんにちの勝利と栄光をもたらした。
                                                
2)自主の新しい歴史を開いた偉大な領袖
現代政治の生命線──自主政治の起源を開く

 金日成主席の自主的革命指導史は、現代政治の生命線となる自主政治の真の起源を開き、20世紀を自主政治の時代に転換させた聖なる道程として輝いている。
 朝鮮人民の要求と意思を集大成し体系化すれば、朝鮮労働党の思想となり、路線や政策になるということ、これは主席が一生涯守ってきた政治信条であった。
 解放された朝鮮がどの道を進むかを正しく規定することは、新しい社会建設に入った初期、朝鮮人民の前に提起された焦眉の歴史的課題であった。
 当時、新しい社会建設の経験は、先に革命が勝利したソ連のものしかなかったし、他の多くの国が実際的にそれに従っていた。
 しかし、主席は、新しい朝鮮を建設する出発線で、他国のものをうのみにしたのではなく、朝鮮人民の根本利益、国と民族の自主権を擁護し実現するための独自の路線を選択した。
 金日成主席は、国が解放された直後である1945年8月20日、軍事・政治幹部の前で「解放された祖国での党、国家および武力建設について」という歴史的な演説をおこなった。
 主席はこの演説で、自主独立国家の現実的保証である建党、建国、建軍の偉業を朝鮮人民の要求に即して、朝鮮人民自身の力で遅滞なく実現すべきだという当面の課題を明白に示した。
 主席が朝鮮人民の根本的利益を擁護して新しい祖国建設路線を提示したことがいかに正当であったかは、その後の歴史によって検証された。もし、その時期、朝鮮人民が他国の歩んだ社会建設の道を選んだならば、こんにちのように人民大衆中心の社会主義を打ち立てることができなかったであろう。
 現実的に自国人民の自主的志向と要求に即した独自の路線をもたず、ソ連式民主主義をそのまま移植していた東欧諸国は、新しい社会建設の初めから紆余曲折を経なければならなかった。1945年6月、政府を樹立したポーランドは2年近く混乱を経てかろうじて政局を収拾し、1945年5月、政府を樹立したチェコスロバキアは3年間も曲折を経なければならなかった。事情は、東ドイツとルーマニア、ブルガリア、アルバニアでも同様であった。
 重工業を優先的に発展させながら軽工業と農業を同時に発展させるという社会主義経済建設の基本路線も、戦後の廃墟のうえで主席によって生まれた独創的な路線であった。
 事実、重工業といえばすべての面で膨大な投資を要する部門として、ある程度工業の土台がある国でも、その優先をたやすく決心できない工業経済分野の最も大きな部門である。そのため、当時までは軽工業のように投資が少ないうえに、資金の回転が速い部門を先に発展させて蓄積を強化したうえで重工業を発展させたり、他のすべての部門を犠牲にして重工業を建設したりするのが慣例となっていた。事実、戦後の廃墟の灰じんに帰した朝鮮において重工業を優先的に発展させながら、軽工業と農業を同時に発展させるということは、普通の常識ではとうてい不可能なことであった。
 しかし、主席はすべてがゼロ状態に置かれている戦後の状況でも、朝鮮人民の根本的利益、国と民族の自主的利益を何よりも重視した。主席はいくら困難な条件であっても、困苦欠乏に耐えて重工業を優先的に発展させないと、みずからの強固な自立経済と自衛的な国防力の土台を築くことができず、そうなれば歴史的に大国の利害関係の焦点となってきた朝鮮がいつかは、必ずその犠牲物になるということを見通していた。
 それで、主席は歴史上いまだかつてなかった重工業の優先的発展と軽工業と農業の同時的発展であるという独創的な経済建設路線を示した。
 主席が示した進歩的民主主義路線は、解放後、反帝反封建民主主義革命を遂行すべき朝鮮の現実的条件で自主独立国家の建設とその活動の基本的方向と方式を規定した独創的な路線であった。
 近代以後、世界政治史を振り返って見ると、国家の建設と活動の一般的な方式としては、資本主義制度の発生とともにブルジョア民主主義が公認されていた。ロシアで社会主義1 0月革命が勝利してソビエト政権が樹立した後、特に、第2次世界大戦以降、民主主義はアメリカ式「自由民主主義」によって代表される欧米資本主義国家の「自由民主主義」とソ連式の社会主義的民主主義に分かれるようになった。世界的に見ると、第2次世界大戦後、実際に資本主義諸国では例外なくアメリカ式「自由民主主義」の道へと進み、民主主義発展の道に入った東欧諸国ではソ連式の社会主義的民主主義の道を選んだ。
 主席は、他人方式の民主主義が祖国と革命の発展に及ぼす重大な害毒を察し、祖国に凱旋した数日後である1945年10月の初旬、朝鮮式民主主義、進歩的民主主義について明らかにした。自主、連合、自由、富強、革命、平和で特徴付けられる進歩的民主主義は、人民民主主義革命を遂行すべき解放後の朝鮮人民の志向にはもちろん、朝鮮の具体的実情に全的に合致する、実に独創的な朝鮮式の政治路線であった。
 朝鮮における農業協同化の政策を見てもそれは従来の理論と経験にこだわらず、創造的に作成され提示された独特な自己方式の政策であった。
 当時までは、農業協同化のような大きな社会的変革が社会主義的工業化を実現せず、現代的農機具のない条件では実現できないものとされていた。これをそのまま受け入れた教条主義者は、農業協同化の「時期尚早」論を持ち出してきた。
 しかし主席は、技術的条件が協同経理の優越性を発揮させるうえで重要な条件であることは確かであるが、それが協同化を実現するうえで必ず先行させるべき必須の条件となるのではないし、朝鮮の現実が協同化を要求し、革命力量が準備されていれば進めるべきであって、それを他国の経験に照らして停止させたり、後退させたりする必要はないと見た。
 主席は、農業生産の集団的経営を保障する現代的農機具がない条件でも、農民たちの生活が古い生産関係の改造を切に要求し、またそれを担当すべき革命力量が準備されている場合には、農業協同化をゆうに実現できるという確信のもとに、遅滞なく独創的な農業協同化政策を示した。
 自力更生は、主席が創造し一貫して具現してきた貴い伝統であり、自己方式の革命方式である。
 主席は生前、総書記に朝鮮革命が勝利する時まで絶対に「延吉爆弾」を忘れてはならないという、懇ろな頼みを残した。
 一時、間島の人たちは、当てもないままソ連の援助で遊撃根拠地に手榴弾工場を建てようとした。ところが、ソ連側からはこの要請に何の回答もよこさなかった。ソ連の冷淡な沈黙は、革命勝利の先頭を切ったソ連が、まだ政権を握れなかった革命家を助けることを当然の国際主義的義務であると考えていたすべての人に精神的混乱を与えた。
 主席は、愚かにも他国の援助を要請した間島の人たちの事件を革命隊伍に自力更生の革命精神を確立する決定的な契機にした。主席は、すべての遊撃隊員と革命大衆に自力更生のみが生きる道である、革命をおし進めるうえで決定的なのはみずからの力を最大限に発揮することであり、他国の援助は付随的なものであるという確固とした立場に立たせるように教育し、敵の手から武器を奪い取る一方、自体で兵器廠をつくって武装を解決するようにした。主席は、直接、遊撃根拠地の実情に即した火薬製造方法で爆弾を造れる方途を探し出し、兵器廠の関係者の革命的積極性と堅忍不抜性、創意工夫を呼び起こした。
 「延吉爆弾」という爆弾のその名は、延吉一帯で抗日遊撃隊員の爆弾の攻撃に肝を抜かれた日本帝国主義が恐怖の対象としてつけた呼び名である。
 「延吉爆弾」はいうまでもなく、ハンマーとやすり、ふいごなどの道具しかなかった白頭の原始林のなかで最初に造られたという意味で意義が大きかった。しかし、それに比べられない大きな意義は、遊撃隊員と人民が自分の大きな力と英知を実際に悟り、自己の運命を自力で開拓できるという信念を実践のなかで切に感じさせた精神的領域での一大転換の契機であったところにある。「延吉爆弾」が朝鮮革命の歴史に自力更生の輝かしい象徴として記録された理由がここにある。
 抗日武装闘争の時期、主席がソ連の有名な党および国家活動家であったジダーノフに会って談話したことがあった。
 その時、ジダーノフは主席に解放後、ソ連が朝鮮にどういう支援を与えられるかと質問した。この質問に主席は、我々はできるだけ自力で国を建設しようとする、困難はあってもそうするのが将来のためにいいと思う、わが国には歴代的に事大主義が亡国の根源として存在してきた、新しい祖国を建設する時には、事大主義による疲弊が絶対にないようしようというのが我々の決心であると確固たる語調で述べた。ソ連の人たちはその時、すでに主席の確固たる信念と意志に驚きと賛嘆を禁じえなかった。
 朝鮮人民は、今日も主席の1956年12月の歴史的な降仙への道を熱く追憶している。
 朝鮮革命の一歩一歩が試練と苦難に満ちた厳しい行路であったが、この時のように厳しい難局に直面した時はかつてなかった。
 修正主義、支配主義者の圧力は極に達し、彼らの後援を受けていた反党反革命分派分子らは意気軒昂として露骨に党に挑戦してきた。
 それに膨大な5か年計画を遂行するための資材と資金は不足し、人民生活も困難であった。朝鮮労働党と朝鮮革命は、この厳しい試練を乗り越えて党第3回大会が打ち出した第1回5か年計画の膨大な課題を遂行するか、それとも永遠に放棄するかという分かれ道に立たされるようになった。
 このような時、主席は降仙の労働者たちを訪ね、国の困難な状況を話しながら、自力を信じて内部の余力を最大限に動員し利用して厳しい難局を打開することを呼びかけた。
 主席の自力更生の意志と信念を心で受け止めた降仙の労働者階級は、チョンリマ運動の先駆者となり、6万トン能力の分塊圧延機で12万トンの鋼材を生産した。朝鮮人民は前年に比べて工業生産の22%成長を予見した1957年の膨大な人民経済計画を2倍に超過遂行し、5か年計画が「幻想」だの、「空想」だのという詭弁を粉砕し、それを工業総生産額的に2年半もくり上げて遂行し、14年という短期間で社会主義工業化を完成する歴史の奇跡を創造した。
 フランスの著名な記者は、朝鮮人民の自力精神と不屈の闘争に感動し、この世に奇跡という現象があるとすれば、それは不死鳥のように廃墟のうえで立ち上がった朝鮮民主主義人民共和国、社会主義朝鮮の復興と建設だろうとし、驚嘆を禁じえなかった。
 去る20世紀、自主の旗を高く掲げて革命と建設を前進させてきた朝鮮労働党と朝鮮人民の革命闘争は、修正主義者、支配主義者の執拗な内政干渉を粉砕する深刻な政治闘争を伴った。
 1955年、主席の社会主義革命に関するテーゼの発表は、修正主義者の支配と干渉を粉砕する深刻な闘争のなかでおこなわれた。
 主席は戦後、農村部門の活動を現地で指導しながら、農民たちとの談話を通じてこの時期、社会主義革命のスローガンを掲げられる主観的・客観的条件が成熟していることを確かめ、社会主義建設の綱領を完成した。
 ところが、1955年の初旬、ソ連党の高位級人物は、テーゼを見ると、朝鮮の党が都市の手工業者を社会主義的に改造して利用するというが、これは資本主義を扶植させることではないかと荒唐無稽なことをいった。
 修正主義者らは、テーゼで言及された農業協同化を実現するとの朝鮮労働党の政策も反対した。彼らは社会主義工業化を完成した後、農業協同化の実現が可能だという既成理論を持ち出し、工業化された東欧諸国もまだ協同化をしていないのに、これだけを見ても朝鮮の党の政策が主観主義的なものではないかと文句をつけた。そして、彼らはヨーロッパの社会主義諸国ではテーゼがなくても社会主義革命をおこなっているのに、朝鮮でテーゼがなぜ必要なのかと言い出した。
 当時、主席は、我々がテーゼを発表したことがなぜ悪いのか、他国で発表しなかったとしても、我々は絶対に退かず我々の方式でおこなうと厳かに宣言した。
 社会主義建設の綱領をおいて修正主義者と一大論争をおこなった主席は1週間の後である1955年4月に、朝鮮革命の性格と課題に関する歴史的な「4月テーゼ」で呼ばれる不滅の著作「すべての力を祖国の統一独立と共和国北半部における社会主義建設のために」を発表した。この著作で主席は、全国的範囲で朝鮮革命の基本任務を示し、北半部で社会主義革命を本格的に進めるための課題を明白に闡明した。
 歴史的な社会主義建設の綱領を発表した主席は、すぐ農村経理の社会主義的改造、都市の手工業と資本主義的商工業の社会主義的改造のための闘争を賢明に組織指導して、他国で10余年かかっても実現しなかった歴史的偉業をただ4〜5年間で完遂する輝かしい現実を創造した。
 もし、その時、朝鮮が修正主義者の圧力に屈して自己方式の社会主義建設の綱領をかかげなかったり、その実現のための闘争を少しでも緩めたりしたならば、こんにちのように朝鮮にチュチェの社会主義を建設することができなかったことはもちろん、現世紀の大政治風波のなかで存在することもできなかったであろう。これは、歴史が見せた明白な現実である。
 主席は革命指導の全期間、対外関係で徹底した自主的立場に立って独自性を堅持することにより、朝鮮労働党と朝鮮革命の国際的地位と尊厳を最上の境地でとどろかせた自主の政治家であった。
 主席は、すべての党、すべての国と民族は平等かつ自主的であり、大国の党、小国の党はあっても「兄党」「弟党」なるものはあり得ないという原則的立場を確固と堅持し、いかなる国の特権的行為に対しても断固反対した。
 主席の献身的な労苦と不眠不休の闘争により、朝鮮労働党は「完全な自主権を行使する偉大な党」「人類の自主偉業の運命を堂々と担っている党」として、朝鮮民主主義人民共和国はその名も輝く自主の強国として、尊厳と威力を世界に誇るようになった。

自主的な国家建設の新しい歴史の開拓

 金日成主席は、チュチェ思想を朝鮮革命の実践に立派に具現して、自主的な新しい社会建設の道を開拓し、この地に威力ある社会主義強国を建設した創造と建設の英才である。
 数百年間の長い歳月にわたり、事大主義と外部勢力依存思想が深く根を下ろしていた朝鮮で、民族の自主精神を確立する問題は、どの国にも比べられないほど困難で鋭い政治闘争であった。歴史的に朝鮮革命の自主的発展を重大に犯してきた事大主義と教条主義は、戦後の時期に入って革命隊伍にまぎれ込んだ反党反革命分派分子らによってそれ以上我慢のならないものとなった。
 金日成主席は1955年12月、「思想活動において教条主義と形式主義を一掃し、主体性を確立するために」という歴史的な演説をおこなった。
 主席はこの歴史的な12月の演説で、我々はいかなる他国の革命でもない朝鮮革命をおこなっている、この朝鮮革命こそはわが党の思想活動の主体である、それゆえ、すべての思想活動を必ず朝鮮革命の利益に服従させるべきであると述べている。
 主席は、民族自主精神を確立するための一大思想戦を展開しながら、朝鮮人民に自国のものをよく知らせるための思想教育活動に火の手をあげた。
 主席は、1955年12月の演説をはじめとした幾多の古典的著作でチュチェ思想が朝鮮人民の民族自主精神を確立するうえでもつ意義とその実現方途を教え、すべての思想教育をチュチェ思想教育で一貫させることについて述べた。特に、主席は1956年2月、党中央委員会常務委員会で党思想活動の形式と内容を全面的に改善して、党員と勤労者を朝鮮労働党のチュチェ思想でしっかり武装させるための対策を講じた。
 主席は、チュチェ思想教育とともに朝鮮人民の闘争の歴史、創造の歴史に対する教育を強化することにも深い注意を払った。
 主席は、民族自主精神を確立するための一大思想戦を展開しながら、社会主義革命を遂行するための巨大な実践闘争を民族自主精神の確立のための一つの威力ある思想戦に転換させた。
 チョンリマ運動は、他人が何と言おうが、他人がどの道を歩んだかにこだわらず、ひたすら自分の力でより速く前進して富強な祖国を立ち上げようという、朝鮮人民の透徹した自主精神の発現であった。
 主席は、チョンリマ運動を強力な方途にして革命と建設を導いていく意志をもち、朝鮮労働党第4回大会の演壇で、この運動を社会主義建設におけるわが党の総路線と規定した。これは革命と建設のすべての部門、すべての単位がチョンリマを駆けらせることにより、民族自主精神で武装した大部隊を育成するための歴史的運動であった。
 戦後、ある人たちは、朝鮮の労働者階級がレニングラードのキーロフ工場の労働者たちのような人間になるためには少なくとも1世紀、100年はかかるだろうと力説した。しかし、チョンリマ運動の炎のなかで大衆の先頭に立たせることができないほど複雑な生活経歴をもった降仙製鋼所の陳応源作業班長が、数年の間に最初のチョンリマ旗手、国の英雄になった。たった14年間で完成された社会主義工業化と継続革命の炎のなかに全国各地でチョンリマ旗手、英雄たちが生まれた。
 民族自主精神が発揮される社会的実践運動、これは人民大衆の自主意識を革命闘争の精神的推進力とみなした主席であってこそ発見し実践できる民族自主精神確立の威力ある方途であった。
 20世紀は、各国と各民族の運命開拓において自衛の銃剣がもつ意義と役割が明白に実証された歴史的道のりであった。
 金日成主席は解放後、 1945年8月20日、軍事政治幹部らの前でおこなった演説「解放された祖国での党、国家および武力建設について」で革命的武力建設の道を明示し、その事業を優先的に推進した。
 主席が解放後、労働者階級を訪ねて歩んだ現地指導の足跡は、軍需工業を創設するための「平川への道」にも深く刻まれている。主席が新しい祖国建設の初期に自衛的防衛力を築き上げる活動にどれほど大きな心血と労苦を注いだかは、朝鮮の労働者階級が初めて造った武器を見れば疲れがとれるだろうとして1948年12月の日曜日の休息も引き伸ばし、機関短銃の試射をおこなった歴史的事実がよく物語っている。
 朝鮮の経済建設史には、第1回7か年計画が3年間も延期されたと記録されている。
 1960年代、「カリブ海危機」を契機にかもし出された世界政治情勢を洞察した主席は、祖国と人民の前に迫ってくる危険に対処するための重大な決断を下した。1962年12月に開かれた朝鮮労働党中央委員会第4期第5回総会で主席は、経済建設と国防建設を並進させるという朝鮮労働党の戦略的方針を示し、1966年10月、党代表者会でこの方針を正式に闡明したうえで国防建設に総力を集中するようにした。
 主席は、みずからの武装隊伍を立ち上げ しっかりかためる活動を自衛的な国防力を築き上げるための中心として捉え、まず革命的武力の中核である軍事幹部を自力で育成する活動から進めた。主席が示した全軍幹部化は、将校から兵士にいたるまですべての軍人が一等級以上の高い職務を担当し遂行できるように彼らの水準を高め、自力で軍事幹部問題を解決するための独創的な軍強化の戦略であった。
 大徳山の天然岩には、代を継いで永遠に保存すべき「一当百」という3つの文字が深く刻まれている。その「一当百」は、主席が1960年代の初め、ここを訪れて人民軍の戦闘力を強化するために提示した戦闘的スローガンである。
 いつか総書記は、自分は先軍政治をしながら多くの部隊を視察し、部隊の沿革と配置状態を見ているが、どこにも主席の足跡が秘められていないところがなかったと熱く述べた。実際、主席の革命的生涯は、人民軍を「一当百」の革命的軍隊に強化発展にささげた、軍強化の日々であった。
 主席は、自衛的国防工業を建設するために大きな労苦と心血を注いだ。主席の先見の明によって、朝鮮の国防工業は、すでに1970年代に現代的な国防科学技術にもとづいてその土台を打ちかためるようになった。
 主席は、自衛的国防力を築き上げるうえで全人民的、全国家的防衛体系の確立に格別の力を入れ、朝鮮を難攻不落の要塞に変えた。
 主席の自衛の思想と構想によって、1959年に労農赤衛軍が、1970年には赤の青年近衛隊が組織され、民間武力の合理的な組織構成と指揮体系が確立し、訓練の内容と方法が示された。このように全民武装化の実現によって、人類最初の全人民的自衛の歴史が始まるようになった。
 主席は、全国を要塞化する活動も強力におし進めた。主席は全国のすべての要塞を敵のいかなる打撃にも耐えるよう強固に、利用的価値が高く、最大の実効性をもつように作る原則を堅持するようにした。
 2008年、破局的な金融危機が世界を席巻した。数百年の発展歴史を誇っていた巨大銀行と独占体が次第に倒産し、そのしわ寄せで絶対多数の国と企業体が騒ぎ立てている時、ある国の通信は、この恐ろしい動乱のなかでも泰然としている国は北朝鮮だけであろうという記事を伝えたことがある。
 これには、朝鮮の自立的民族経済に対する無視できない世界の評価と認定がある。
 主席が構想し建設した自立的民族経済は一言で言って、自分の足で歩んでいく自立経済、自国人民のために奉仕する民族経済であった。
 ソ連の影響下にあった当時の東欧社会主義諸国は、支配主義者の「コメコン」政策を受け入れた結果、不可避に彼らの経済部門構造にしばられた奇形的な経済構造をもつようになった。これらの国の産業は、「コメコン」の分業体系に従って建設されたことにより、自国で再生産しうる物質的、技術的土台のない、構造上の深刻な弱点をもっていた。結局、これらの国は、経済発展と人民の生活に必要な経済部門構造を十分にそろえなかったばかりか、生産循環体系が国内の範囲で実現できるように確立されなかった。そういうことにより、経済構造上一面性と奇形性を免れることができなかったのである。
 いつか、黄海製鉄所(当時)を訪れた主席は、そこの労働者階級が朝鮮の燃料に依拠した鉄の生産で収めた革新的成果を高く評価しながら、鋼鉄工業の主体化に寄与した研究士たちに英雄称号を授与するよう最上の栄誉を担わせた。主席は、生前にチュチェ思想を信奉する人たちはチュチェ鉄を生産しなければならないとし、みずからの原料、燃料による鉄の生産システムの完成のために、実に大きな心血を注いだ。
 それゆえ、2009年12月、降仙の労働者階級が生産したチュチェ鋼鉄を見てくださった総書記は、チュチェ鉄の生産のためにあらゆる労苦と心血を注いだ主席がこの誇らしい創造物を見たらどんなに喜ぶだろうかと熱く述べながら、チュチェ鉄による製鋼法を完成したのは3回核実験の成功よりもっと偉大な勝利であると激情を禁じえなかった。
 今までの経済建設の実践は、強力な重工業にもとづいた朝鮮式の経済構造こそは、国の経済的自立性を完璧に実現し、国の物質的土台を全面的に強化する、最も理想的な経済構造であることを示した。
 1965年4月、インドネシア大統領は主席の参加のもとに行われたインドネシア臨時人民協商会議第3回会議で演説しながら、アメリカの経済もだめだ、社会主義国家の場合も、一部は経済発展で農業問題を未解決でいるか、あるいは工業問題を未解決でいる、ただ気に入るように経済を発展させた国は朝鮮である、朝鮮は工業と農業がともに発展しており、完全な自立的民族経済を建設して誰にも従属されていないと激賞し、自国も自力更生して自立的民族経済を建設する方向へと政策転換をする意志を確固と表明した。アメリカの特使とフランス、イギリス、西ドイツの代表が傍聴席に座っている会議で彼が朝鮮の経済建設に見習うべきだと発言したのは決して簡単な政治的問題ではなかったし、それ自体が強力な重工業にもとづいて国のすべての経済部門構造を総合的に完備した朝鮮式の経済構造と自立的民族経済建設に対する認定であり、公認であった。
 生の最後の時期に元アメリカ大統領であったカーターを接見した主席は、彼にアメリカはわが国の「核問題」を国連に持ち込んでわが国に制裁を加えるといっているが、我々は制裁を恐れはしない、我々はこれまで制裁を受けつづけてきたのであって、制裁を受けなかったことは一度もない、アメリカの制裁も受け日本の制裁も受け、他の国の制裁も受けた、いままで制裁を加えられながら無事だったのに、いまさらまた制裁を受けるからといって生きていけないはずはないと話した。一生をささげて強力な自立経済を建設した主席であるからこそ言える度胸の居座った話であった。
 自主の旗のもとに新しい社会建設の輝かしい歴史を開拓してきた主席の革命指導で重要な地位を占めるのは、歴史上はじめて民族人材育成事業を中核にして、革命と建設を成功裏に指導してきたことである。
 主席が独創的に実施した全民教育制は、新しい世代はもちろん、社会のすべての構成員を教育対象にし、教育を中断することなく持続的に与え、社会全構成員の文化知識水準を大学卒業程度に到達させることをその主な内容としている。
 育ち行くすべての新しい世代を対象にする国家的児童保育教育制度と全般的12年制義務教育制度、働きながら学ぶ教育制度、これは文字どおり、社会の全構成員を網羅する一つの巨大な全民学習制度をなしている。実に徹底した無料で保障している全民教育制度こそは、朝鮮が世界的な人材の国として浮上させた巨大な土台である。
 新世紀の初期、ある国では、情報産業時代、知識経済時代に対処して人的資源を開発するためには何をすべきであるかという問題を提起し、次のような結論を下した。学習型社会の全面的な建設、人民への学習機会の全面的拡大、人民の学習能力の全面的向上…。
 このように、21世紀に入ったこんにちになって世界が理想としておし立て、それも現代的な文明を志向する国々でもいまだ実現できなかった全民教育、全民学習の理想が朝鮮では去る20世紀、主席の代にすでに完全に現実化されていた。全民が学習する学びの国、教育の国の建設、これこそ人材養成の土壌、基盤の問題を最も成功裏に解決した主席の大きな功績である。
主席は人材育成の基盤を築くうえで全民教育制とともに整然とした高等教育体系、すぐれた人材育成体系を有機的に結びつける方式で人々を革命と建設で自分の役割を全うする立派な人材に育成するようにした。
 1985年2月26日、平壌の普通江のほとりに現代的に建設された秀才養成基地である平壌第1高等中学校(当時)を訪れた主席は、この立派な学校が建設されたことについて始終大きな満足を表し、こういう学校を地方にも建設して国の立派な人材をより多く質的に養成すべきだと懇ろに述べた。
 その後も、主席が国の科学文化の発展に大きく寄与するすぐれた人材をよく育てることについて強調したことは数え切れないほど多い。
 主席は民族人材養成基地を作ることも独特に推進したが、総合大学を先に創設し、それを母体にして民族幹部養成基地を拡大していくようにしたのは、その代表的な実例となる。
 国の具体的な民族幹部の実態と将来の科学発展の要求をぬきんでた英知で察し、総合的な民族幹部養成基地としての使命を遂行する金日成総合大学を建ててくれた主席は、国の母体大学、総合的な民族幹部養成基地としての使命と任務にふさわしく総合大学に今後、いくつかの短大に分離できるよう技術関係の学部を総合的に、将来を見通して設けるようにした。そして、短大が設けられる基礎が十分に築かれた時は、工学部、農学部、医学部を短大に分離させるようにし、これらの大学に教員と学者、大学の関係者と社会科目の教員も送って短大を助けるようにした。それで、解放後3年目である1948年にすでに11の大学、1949年には15の大学と55の技術専門学校で数万名の学生が各部門の有能な民族幹部として育成されるようになった。
 主席は養成基地の創設だけでなく、教育活動も徹底的に朝鮮式でおこなうようにした。ここで特徴的なのは主体性が確立した人材、革命化、労働者階級化された人材の育成であった。
 いかなる抽象的な「全人類のための知識」ではなく、わが国、わが民族、わが人民のために必要な革命的世界観と科学知識を所有した人材を育成しなければならないというのは、主席が人材育成活動で堅持した根本的原則であった。まさに、この思想が民族人材育成活動の主体化という定義づけに集大成されている。
 実に、歴史上はじめて朝鮮で民族人材の問題を完璧に解決したことこそは、祖国と民族の万年の未来のために主席が積み上げた貴い業績のなかの業績である。

3)人民的指導の巨匠

一生の座右の銘──「以民為天」

 偉人を知るには、彼の座右の銘を知るべきだという言葉がある。偉人の座右の銘は、彼のすべての闘争と生活に貫かれている信条と人格を物語っている。
 主席の座右の銘は「以民為天」である。
 主席の「以民為天」の座右の銘には二言三言の言葉や文章では言い尽くせない、深奥な哲学があり、長い歴史が集大成されている。
 金日成主席は、次のように述べている。
 「『以民為天』──人民を天のごとくみなすというのが、私の持論であり座右の銘でもあった。人民大衆を革命と建設の主人として信頼し、その力に依拠するというチュチェの原理こそ、私が最も崇敬する政治的信仰であり、まさにそれが私をして、一生を人民のために尽くさせた生活の本質であった」
 この世のすべての名人たちは、おし立てた座右の銘から非凡であった。彼らのなかには、たゆまない闘争を座右の銘として労働者階級と人類の解放偉業に貢献した偉人もおり、愛国を座右の銘として自分の祖国のために献身した愛国名人もいた。しかし、人類が記録した偉人史には、人民を天のごとくみなした偉人、名士はいない。
 「以民為天」の座右の銘は、古今東西のどの偉人も打ち出せなかった最高、最上の座右の銘であり、主席がかくも人民のために、人民に依拠して一生を立派に輝かせるようにした根源であった。
 人民は天である。主席の座右の銘はここから出発している。
 主席の座右の銘のなかにある人民は、長期にわたる歳月、百姓と呼ばれながら政治の領域外で頭をもたげずに生きてきた平凡で素朴な人々であった。貧困を強要される万景台の人たちと町に出て血まみれになりながらも独立万歳を叫んでいた3.1人民蜂起の参加者、忘れえぬ恩人であった蚊河の主婦と天橋嶺で会った老人、解放後の日々から一生、畑の端と機械設備の前で会った多くの人、どこでも見られる人たちであった。まさに、彼らが世界で最も偉大な主席の人民であり、天であった。
 主席の座右の銘である「以民為天」には、この世で最も貴重な存在である人民に対する崇高な愛と献身の精神が集大成されていた。
 いつか、主席が外国のある文筆家のために午餐会を催したことがあった。
 その時、文筆家は、主席に英知に富んだ朝鮮人民の繁栄のために主席のご健勝を祈願すると丁重に申し上げた。
 すると、主席は、人民のために長寿を願うのは実にありがたいことだと熱く述べた。
 後日、彼はこの事実について感動的に伝えながら、人民という二文字さえ話題にのぼれば、今にでも活気付く金日成主席に対する記事は当然人民的な頌歌になるべきであると、自分の気持ちを切に吐露した。
 自分の一生を人民のためのものと思い、人民を天のごとく奉じた主席であったがゆえに、事業を一つ構想し実行するにしてもすべてが人民のためのもので一貫していた。主席が困難な闘争によってうち建てた国家も人民のための「人民共和国」であり、政権も人民が主人となった「人民政権」であり、軍隊も人民を守るための「人民軍隊」であった。人民のために特別に多くの仕事をし、立派な功労を立てたインテリやスポーツ選手、芸術人の生もすべて「人民」という言葉とともに輝くようにした。
 人民が創造した最も立派な創造物も名実ともに人民とその国を象徴して命名された。朝鮮の労働者階級が自力で加工した国の初の迫撃砲には、朝鮮民主主義人民共和国の国章の標識が刻まれ、解放後の困難な環境のなかで生まれた最初の軍艦も「労働者」号に命名された。朝鮮で一番大きい宮殿が「人民文化宮殿」であり、一番大きな図書館も「人民大学習堂」である。
 人民は天であるという主席の座右の銘は、主席をして党と革命のために祖国と人民があるのではなく、祖国と人民のために党もあり、革命もあるという哲学を一生の政治信条にさせた思想的源泉であった。まさに、こういうことにより、革命はそれ自体が人民に対する愛を花と咲かせる闘争であるという新たな革命観が定立し、朝鮮労働党と共和国政府は生まれる時から人民に対する奉仕を自己の活動の最高原則にする最も人民的な党と国家となることができた。
 主席の回顧録「世紀とともに」が出版された時からもはや20余年の歳月が流れた。しかし、今日も朝鮮人民と進歩的人類が主席の回顧録を熱心に愛読しているのは、主席が自分たち、人民を、一生をささげて天のごとく奉じ、80余星霜の偉大な生涯を総括する回顧録も人民に対する絶対的な崇拝と信頼の聖典として書いたからである。
 「人民のなかに入ろう!」、これは「以民為天」の座右の銘を実践に具現するための主席の一生涯の革命方式を通称している不滅の格言であり、主席の全生涯を貫く今一つの貴い政治的信条である。
 図書「人民とともに」は、一生を人民のなかにおられながら人民と意志と情を分かち合い、人民に依拠して革命を導いてきた主席の崇高な愛民の思想と人民的指導風格について朝鮮人民が書いた回想実記である。
 一生涯、人民を訪れた主席の不滅の足跡が記されたこの人民指導の叢書は、今日も万人を感動させている。図書「人民とともに」は、1962年に初の巻が出版されてから今日まで数千万部余りも発行され、朝鮮人民ばかりでなく、世界の広範な人民の間で広く愛読されている。主席と朝鮮人民が一家族として生きてきた栄光に輝き、幸福な日々に対する追憶が収められた回想実記は、中国、日本、アメリカ、イギリス、ドイツなど、各国にほぼ数十万部も普及された。世界の有名な新聞と雑誌もその書籍の回想実記を多く連載した。
 「人民のなかに入ろう!」、主席のこの座右の銘には、一生涯、人民を師として革命をおこなうべきであるという主席の闘争と生活のゆるぎない信条が反映されている。
 1994年4月、アメリカのCNNテレビ放送会社記者団を接見した主席は、自分の一生を顧みながら、人民のなかには哲学もあれば経済学もあり、文学もある、それで私はいつも人民のなかに入り、人民から学んでいると述べた。
 人民のなかに哲学もあり、経済学もあり、文学もあるという主席の話しは、人民大衆が体現している限りない知性の世界を明白に集約化した意義深い名言である。
 主席の革命活動は、人民のなかに入り、彼らから学ぶことで始まった。人民のなかにいながら人民から学んだがゆえに、主席はチュチェ思想のような不滅の思想を創始することができ、哲学と経済学、文学と心理学の大家にもなれたのである。
 今も万景台の分かれ道に立つと、解放とともに夢にも忘れられなかった故郷を間近にして、鋼鉄の労働者たちを訪ねた主席の姿が思い浮かび、製鋼所に行けば、倒壊した壁のうえに座り、廃墟を一日も早く復旧しようと切に呼びかけていた主席の声が聞こえてくる。農村に行けば主席が農民たちと農業の問題を議論し、こだわりなく座っていた質素なむしろが、漁村に行けば漁夫たちとともに触ってみた網が、炭鉱に行けば坑内の切羽まで入って炭鉱労働者たちを石炭の増産へと呼び起こした足跡が目に浮かんでくる。
 主席はこのように一生、人民を呼び起こし、人民の巨大な力に頼って試練と難関が折り重なった朝鮮革命の前途を切り開き、百戦百勝の歴史を創造したのである。

革命の主体一新しい人民の誕生

 金日成主席の一生の革命活動史、それは革命の主体を強化する活動をすべての活動に確固と優先させてきた独特で崇高な闘争の歴史であった。
 主席は、誕生60周年を慶祝する朝鮮民主主義人民共和国政府の宴会に参加し、過ぎ去った60の生涯を感慨深く振り返りながら、事大主義と派閥争いによる朝鮮の亡国史を総括し、全人民を思想的、意志的に、組織的にかたく結束させて、革命闘争の困難で複雑な道を勝利的に切り開いたことについて誇り高く述べた。主席は、誕生70周年と80周年を慶祝する意義深い席でも、帝国主義に反対する闘争や社会主義を建設する闘争でも終始一貫、主体を強化し、その役割を高めることに第一義的な力を入れてきたことについて感慨深く回顧した。
 抗日革命の全道程は、人民大衆を歴史の主体とみなし、彼らを意識化、組織化して抗日戦に立たせた主席の愛と信頼の日々であり、人民大衆自身が自分の闘争でもって歴史の堂々たる主体であることを誇示してきた日々であった。
 主席は解放直後、2か月足らずの間に党を創建し、5か月余りの間には北朝鮮労働組合総連盟と北朝鮮農民組合連盟などを結成して、整然とした組織体系を確立した大衆団体に各階層の民主勢力をかたく結束させた。特に、主席が適時に党を大衆的党として発展させ、各民主主義団体と宗教団体まで網羅する統一戦線組織を設けたことは全民族の団結を実現するうえで画期的意義を有する出来事であった。
 主席は、祖国解放戦争の時期にも主体を強化する活動に最優先的な力を入れた。主席は戦争が起こって数日後である1950年12月、党中央委員会第3回総会で、北南朝鮮の職業同盟、農民同盟、青年同盟、女性同盟をそれぞれ統合して統一的中央指導機関を設けるべきという重要な措置を講じた。それで戦争が起こって、1年も経っていない1951年の初めまで、北南朝鮮の勤労者団体が統合されて一つの政治的勢力をなし、戦争の勝利のための闘争に力強く組織動員されるようになった。
 主席は戦後の廃墟のなかでも党と政権、人民の力の強化に朝鮮革命が進むべき唯一の道があるとみなし、反党反革命分派分子に断固反対し、党の統一団結を強化する活動に第一義的な力を入れた。これとともに、戦争によって複雑になった住民たちの社会的・政治的構成にふさわしく各階層の大衆との活動を強化し、階級路線と大衆路線を正しく結びつけて、社会主義革命の主体を一段と強化するようにした。
 主席は革命的大高揚を起こすうえでも、人々をチュチェ思想、集団主義思想で武装させ、党と領袖のまわりに一つに結束させることをキーポイントにして、これに第一義的な力を入れ、社会主義建設の全期間、人民大衆の統一団結の問題を革命の最優先的な課題とし、強力におし進めた。この日々にチョンリマ作業班運動の炎が全国に激しく燃え上がり、すべての人が集団主義思想と精神でその全容を一新し、全社会がかたく団結し、党の唯一思想体系を確立する闘争で転換的局面が開かれ、全党と全社会の統一団結が新たな高い段階に入るようになった。
 歴史はある時期に発揮された人民の力が決して革命と建設の全過程でそのまま持続的に発揮されるのではなく、人民大衆を革命の主体として育てる活動をいささかなりとも疎かにすれば、数十数百年をもってしても補えない破滅的な結果をまねくということを見せている。
 しかし、真の団結に対する希望は、5千年の朝鮮民族史を通じても、100余年の国際革命運動史を通じても実現できなかった。
 人民大衆の統一団結をなし遂げる歴史的偉業は、人民大衆を革命と建設の主体として確固と信じ、革命指導の全期間、革命の主体を強化する活動を最大の重大事として優先させてきた主席によって始めて実現した。
 主席は歴史上初めて、革命運動の天下の大本は一心団結であり、一心団結の基礎は革命的同志愛であるという団結の原理を打ち出し、革命的同志愛によって渾然一体の歴史的偉業を実現した。
 同志はすなわち第2の私であり、同志を獲得すれば天下を得られるというのが主席の同志観であった。早くから、父親の同志獲得に関する貴い思想を遺産として譲り受けた主席は、先に同志を獲得し、その後に武器を獲得し、同志を糾合して党組織を結成し、同志を発動させて革命闘争を展開した。朝鮮における最初の党組織であった「建設同志社」の名称には、生死運命をともにする同志を探し出し結束して朝鮮革命を前進させ完成しようとする主席の革命的同志観が反映されていた。
 革命の同志への主席の愛は、主席を仰ぎ慕うすべての人を自身の運命と一つに結び付け、史上初めて革命隊伍を一心団結した運命共同体に作り上げた精神的源泉であった。
 革命同志に対する主席の偉大な愛と主席に対する革命戦士の決死擁護の崇高な精神力、これは歴史がいまだかつて知らない同志愛と信義の絶頂であり、いかなる試練と難関も切り抜けるようにした無比の原動力であった。
 ゆえに、主席は抗日遊撃隊の不敗性の根源について感慨深く回顧しながら朝鮮人民革命軍が強かったのはなぜかと問われるたびに、私は、信義によって結束した集団だったからだと答えてきた、我々の団結が道徳と信義にもとづかず、ただ思想・意志の共通性によるものだけであったなら、我々はこれほど強くはなかったであろう、ひとえに、忠誠と信義によって結合した思想・意志の結束があったからこそ、我々は強敵を打ち倒すことができたのであると熱く述べた。革命的同志愛にもとづいてかたく結束するとき、15年ではなく、20年、100年も敵と戦えるし、いくら困難で複雑な条件の下でも勝利することができるというのが、主席の不変の信念であり、意志であった。
 全人民を自分の同志としてみなし、限りない愛を施す主席の限りない愛と信頼は、その幅において、自主性を志向する各階層のすべての人を包括する幅広いものであり、その熱度において名実ともに太陽にだけたとえられる熱烈なものであり、その持続性において代に継いで続けられる永遠な愛と信頼であった。
 インテリを象徴する筆が朝鮮労働党のマークのなかに堂々と描かれたとき、労働者階級の諸政党は驚きを禁じえなかった。インテリ、労働者、農民が一つに結束して労働者階級の党の一構成員になったということは驚異的な出来事であった。
 1930年代の初め、ある国の哲学者は、インテリはそれぞれの階級の代表者が彼らを派遣した階級の利益に沿ってすべての可能なグループを形成する思想的議会に似ているとし、全体としてのインテリの階級的特性を云々するなんらの根拠もないと主張した。こうした見解は社会の他の構成員とは異なり、自分の専門知識と技術をもってそれぞれの階級に服務する社会の中間層としてのインテリの社会的立場を重視したことであった。
 社会の中間層、これは労働者階級の革命運動を開拓したマルクスとエンゲルスからはじめて、社会主義革命と社会主義建設を指導したレーニンとスターリンに至るまで、一様に規定したインテリの社会的地位であった。従来の革命の領袖たちが社会的変革のための闘争でインテリの問題解決の重要性を認識し、それに大きな意義を付与しながらも、単に彼らを闘争に引き入れたり、利用したりし、せいぜい「配慮する政策」の対象にしかみなさなかったのは、ほかならぬインテリに対するかたまった認識があったからであった。
 主席は朝鮮のインテリの境遇と彼らの動向に対する科学的な分析にもとづいて、彼らを党と革命、祖国と人民と運命をともにできる同志、革命の主体の一構成員と規定した。世界にはインテリがいない党はないが、その党のマークにインテリを象徴する筆を形象化した党は朝鮮労働党しかない。この事実一つだけでも、主席がそなえている出色の同志愛と信頼についてよく知ることができる。
 主席のこのような熱い同志愛と信頼の世界には、先に逝った革命同志たちの姿を一人一人探し出して永生の丘に立たせた高潔な革命的信義もあり、一生涯あれほど切に探していた遺児たちに会ったとき、彼らよりも先に熱い涙を流していた肉親のような愛も秘められている。その世界には、病床に臥しているある戦友を思って子供たちの迎春公演に臨席して帰る道に家庭訪問をしてくれた偉大な同志愛の逸話もあり、長い間、犠牲になったある農場の管理委員長のことに胸を痛め、彼の故郷を通り過ぎるたびにはわざわざ遠回りをして現地指導の道を続けた涙ぐましい愛の道も刻まれている。実に、どの革命よりも複雑多難な道を踏み分けながら千差万別の朝鮮人民を愛の懐に抱いた主席こそは、万物に生命を与えて大自然の調和をなす太陽にも比べられない偉大な愛の化身であった。
 主席が全朝鮮人民を自分の同志にし、この地に崇高な同志愛の世界を建設していくその歴史的な日々は、朝鮮人民が領袖のまわりに渾然一体として結束していく歴史的な日々であった。
 主席が逝去して数日経ったある日、大雨が降り出す万寿台の丘で服を脱いで花輪に被せ、涙を流しながら立っている青年大学生たちを見ていた総書記は静かに熱い涙を流した。
 その後のある日、総書記は雨の日に万寿台の丘で見かけた大学生たちの姿を感慨深く追憶しながら、今回の哀悼期間に我々の領袖、党、軍隊と人民の一心団結の威力がどんなに強固なものであるかが力強く示威されたが、こういう強固な一心団結をなし遂げたのは主席の偉大な業績であると熱く述べた。
 主席は、生前に世界各国の元首と各階層の指導者、著名な人士と平凡な人民から多くの贈り物を受けている。国際親善展覧館として呼ばれる妙香山の壮大な家には20世紀の最高の至誠品がみな展示されている。
 そのように、自分の財産の全部を人民に譲り渡した主席が、自分の手元に残したのは、ただ一枚の写真だけであった。
 この世で最も崇高で美しい世界、この世でただ一つしかない不変の世界、革命同志の愛の世界を物語る一枚の写真は、植民地亡国の民の子として革命の道に身を投じ、あれほど大きな業績を積み上げた主席の唯一の元手がほかならぬ革命の同志であったことの涙ぐましい確証である。
 革命的同志愛と渾然一体、それさえあればこの世のすべてがある。まさにこれが、主席が残した一枚の写真の歴史的意味である。これこそは、主席が祖国と人民に残した遺産のなかの最大の遺産であり、遺訓のなかの最大の遺訓である。

人民の力を革命の強力な推進力に転換

 金日成主席の卓越した大衆動員力で基本は、人民大衆の精神力の発揮である。
 いつか、朝鮮を訪問した西欧のある記者は、人民を重んじ、人民が革命と建設で限りない力を発揮するように導く主席閣下の指導芸術は、人間の精神活動に根本を置いた新たな指導芸術であるといった。
 主席の大衆動員力の本質的特徴に対するこの評価は、これまで大衆を奮起させるうえで普遍的方法によって適用されてきた外部の作用による方法の制約とそれに比べた人間の内的力、精神力発揮の絶対的優越性に対する正しい認識にもとづいている。
 国際革命運動史を考察すれば、人民大衆の精神力を重視し、それを発揮させるための労働者階級の領袖たちと党の努力を見出すことができる。
 社会主義10月革命を遂行していた時期に、ロシアの革命家と人民はレーニンが示した「すべての政権をソビエトへ!」という革命的スローガンで限りない精神的力と勇気を得て闘争に奮い立った。中国共産党は、困難のなかでおこなった2万5千里の大長征で「北上抗日」の旗のもとに広範な中国人民の民族的義憤を爆発させ、紅軍の兵士を決死戦に呼び起こして勝利をもたらした。独ソ戦争の時期に、ヒトラーの最後の牙城であったベルリンの国会議事堂に赤旗を立てたソ連軍の師団長は回想録で、政治的方法で軍人の精神力を呼び起こしたのが最後の勝利をもたらすうえで決定的意義を有したと書いた。
 長期にわたる人類史が記録しているこうした精神的高揚の数多の逸話のなかで特出なのは、人民大衆の自主的な思想の力、真の精神力を発揮させて消えゆく一国を建て起こして、一つの時代を震撼させた主席に対するものである。
 朝鮮革命の歴史を振り返れば、一つの特異な現象を見出すことができる。それは、革命と建設の最も困難な試練の時期には、朝鮮人民の革命的熱意と創造的力が激しく噴出されたことである。
 朝鮮革命で不屈の革命精神、白頭の革命精神が誕生したのも、日本帝国主義の前代未聞の暴圧が極に達していた抗日武装闘争の時期であり、祖国解放戦争勝利の転換的局面が開かれたのも、戦争の運命が旦夕に迫っていた時であった。革命と建設のすべての分野でチョンリマの精神が高く発揮されたのも朝鮮の革命で最も厳しかった1950年代であり、新たな革命的大高揚の熱意のもとに、国防建設を並進させながら社会主義工業化のための闘争を力強く前進させたのも、敵の新しい戦争挑発策動によって一触即発の緊張状態がかもしだされた1960年代であった。
 主席の革命指導で特徴的なのは、最も積極的で進攻的な思想攻勢、政治思想攻勢であった。
 主席は、朝鮮革命を武装闘争の新たな高い段階へと導いていた時期、積極的な武装闘争路線にもとづいて革命的で戦闘的なスローガンを提示し、人民に抗日武装闘争の明白な目標と勝利への信念を与え、解放後は大衆的思想改造運動である建国思想総動員運動を展開するようにして建国の草分けの道を切り開いた。主席は、厳しい戦争の時期と復旧建設の時期など、革命と建設の重要な時期ごとに、全党員と勤労者に現下の政治情勢と重要問題を熟知させ、連続的に戦闘的なスローガンを提示して全国が沸き立つようにし、全人民を思想的に覚醒させて奇跡の創造へと力強く奮い起こした。
 朝鮮人民の精神力の根源は、主席が創始した不滅のチュチェ思想である。朝鮮人民が身につけた精神力のすべての内容は、チュチェ思想を起点、源泉にしている。
 主席は、早くから不滅のチュチェ思想を創始し、革命と建設の各時期、各段階にチュチェ思想の教育に決定的意義を付与し、それにもとづいて人民大衆の精神力を高く発揮させてきた。これは、朝鮮人民が自己の限りない力を運命開拓の最も正しい行路で遺憾なく発揮できるようにした根本要因となった。
 20世紀の歴史のなかで前進してきた朝鮮革命の特徴は、経済と軍事、科学と文化など、すべての分野でその発展速度が非常に速いことであった。朝鮮革命の最終的勝利を早めるその奇跡的な速度は、主席が指導した大衆あげての運動、全人民的運動によるものであった。
 抗日革命大戦は大衆あげての武器獲得闘争から始まり、新しい祖国建設は建国思想総動員運動で始まって増産競争運動と文盲退治運動、愛国米献納運動と軍器基金献納運動につながって激しく前進した。祖国解放戦争の時期に生まれた「私の高地」運動と報復語録運動、「民青号」武器獲得運動と前線援護米献納運動は多くの英雄を輩出し、勝利の日まで続いた。社会主義の基礎建設と全面的建設の時期にはチョンリマ運動とチョンリマ作業班運動、工作機械の子生み運動と突撃隊運動が世人を驚嘆させる奇跡と革新を生んだ。社会主義建設のより高い目標を占領するための闘争の時期に入っては、3大革命赤旗獲得運動の火の手が上がった。朝鮮革命の奇跡的な歴史は、このように全民あげての大衆運動によって前進し勝利してきた誇らしい道程であった。
 大衆運動は、広範な大衆の集団的力に依拠して、革命と建設を推進していく、最もすぐれて革命的な活動方法である。大衆の団結と協力を最大に図り、集団的革新の炎のなかで大衆の限りない力と知恵を最大に発揮させる朝鮮の大衆運動は、チュチェ思想の旗のもとに歴史を創造し発展させる人民大衆の威力ある社会主義運動である。
 従来の労働者階級の革命運動史にも、労働者階級の党が大衆運動で収めた成果が少なからず記録されている。
 ソ連における大衆運動は、主に社会主義競争運動であった。共産主義的土曜労働とスタハノフ運動がその実例である。1919年モスクワ──カザン鉄道機関区の15名の共産党員がレーニンのアピールにこたえて、無報酬労働で展開した共産主義的土曜労働によって大衆的競争運動の起源が開かれた。スタハノブ運動は、1935年ドネツ炭田のある労働者が従来の基準量を10倍以上も超過遂行したのを契機にしておこなわれた社会主義競争運動であった。
 しかし、これらの運動の発端と拡大過程、結果を見ると、みな一時期の生産力発展や当時の危機を打開するための、一時的な性格を帯びるものであった。共産主義的土曜労働だけを見ても、ソ連ではそれが1940年代以降には重要な記念日や意義深い日を契機にしかおこなわれなかった。事実上、それらの大衆運動が志向する戦略的目標はなかった。
 主席が解放後、初の大衆運動から始めて革命と建設の全期間、組織展開し指導してきたすべての大衆運動はあくまでも思想、技術、文化の3大革命の遂行を志向していたところにその重要な特徴がある。
 解放直後、組織展開された建国思想総動員運動、増産競争運動、文盲退治運動は、本質上3大革命のスタートを宣言した大衆的運動であった。建国思想総動員運動が人民大衆のなかに新たな民主朝鮮の主人としての精神と風格、道徳と戦闘力を培養するための思想改造運動であったならば、増産競争運動は民族経済の富強発展をめざす技術的・経済的課題を提示し、その遂行へとすべての勤労者を呼び起こす運動であり、文盲退治運動は文化革命のスタートを告げる大衆運動であった。
 チョンリマ運動は、人々を教育改造して継続的に前進し革新を起こす社会主義建設の積極分子に育成する大衆教育運動であり、大衆的英雄主義を発揮して経済、文化の建設で革新を起こす、技術改造、文化改造の運動であった。
 主席は社会主義建設のより高い目標を達成するための闘争段階では、大衆運動を3大革命赤旗獲得運動と命名し、この運動を3大革命の課題を完遂するための全社会的な革命的大衆運動に発展させた。
 主席が人民のなかにおられ、その力を発揮させてきた現地指導は、主席が史上初めて開拓し実践してきた最も威力あり人民的な大衆指導方法である。
 現地指導は、主席の「以民為天」の思想が現実に具現された指導方法として、人民大衆の力を遺憾なく発揮させ、革命と建設で世紀的な勝利をもたらす根本要因の一つであった。
 総書記が述べているように、主席の一生は、絶え間なく人民を訪ねて歩いた現地指導の一生であった。今日も朝鮮人民が熱く話している「人民行きの列車」、この言葉にはいつも人民を訪ねて歩み続けた主席の一生に対する限りない称揚がそのまま込められている。現地指導は、名実ともに主席が創造した主席の固有の大衆指導方法であり、チュチェの大衆指導方法のモデルである。
 主席は、現地指導を通じて最も科学的で現実的な路線と政策を構想して作成し、それを提示して人民大衆を革命闘争と建設事業へと力強く奮い立たせた。
 今日も朝鮮人民の心のなかには、溶鉄が降りそそぐ溶解場と削岩機の音が響く切羽、芽が生え穀物が熟する野原と雨が降りしきる最前線で人民と膝を交えてざっくばらんに話し合う主席の尊顔が深く刻まれている。常に人民のなかにおり、人民の素朴な考えや耳打ちも党と国家の路線と政策に反映する方が主席であった。
 解放後、主席を随行して各農村と製鋼所、電気工場、穀物加工工場に出かけていた幹部らは、主席がその時に聞いていた農民たちの願い、その時に調べた工場の実態が土地改革の法令や産業国有化の法令など、諸般の民主改革の法令にそのまま反映されたことについて感激して話していた。
 こんにち、朝鮮の随所には、主席の大いなる指導事跡を伝える現地指導事績碑が丁重に建立されている。それらの事績碑に主席が当該単位を訪ねて受け持った革命課題の重要性と遂行方途など、代を継いで肝に銘じ、堅持していくべき諸問題を具体的に助言し指導したことが、深く刻まれている。
 現地指導を通した主席の政治活動は、いずれも具体的な革命課題の遂行と密着した現実的なものであった。
 いつか、総書記は主席の偉人像について回顧し、主席は10代の幼年の時代にすでに人間を知り、人間の心を動かす土で博士になったと述べている。万人の心を一気に引き付ける強い親和力、万人の理性を一時に啓発させる強い説得力、千万人の心を一瞬に捉える強い扇動力、これは誰にも比肩できない主席の政治家的能力であり魅力であった。この偉人的な能力が人民とともにいながら彼らの革命課題の遂行と一つに結合されて発揮されたため、革命と建設で人民大衆の力と熱意を遺憾なく発揮させる大きな推進力になれたのである。
 主席は一生、人民が働くところなら、どこでも訪ね、彼らと生死をともにした。苛烈な祖国解放戦争の時期、わが兵士たちが戦っているところに私とてどうして行けないのかとし、最前線の塹壕にまで出て戦士たちを一人一人熱く抱いてくれた主席は戦争が終わって3か月も経っていないある日には、険しい山奥に位置している一発電所を訪ねて、危ないから入ってはいけないと切願する幹部らを引きとめ、天井と壁に高圧線が複雑に伸ばされ、地下水まで流れ込んで感電する恐れのあるトンネルの中にためらわずに入った。製鋼所に行っては、2000℃の高熱で熱い炉の前に立って火の手が燃えさかるなかで労働者たちの労苦をねぎらい、鉱山と炭鉱を訪ねては数千尺の地下の切羽で働く労働者たちに会おうと鉱車と炭車に乗って深い地下の中にまで入った。
 主席の現地指導は、間違いなく歴史が知らない偉大な政治・芸術であった。しかし、主席の現地指導はまずは、最も偉大な人間、人民の慈父としての体質化された生活方式であった。
 主席が祖国に凱旋した時から偉大な生涯の最後の時期まで50余年間、人民のなかで過ごした時間は、その半分に及ぶ24余年間の長い歳月、8650余日をなしている。この間、主席が歩んだ足跡を全部合わせればそのままこの国の地図になる。
 振り返ってみると、今までの歴史には現地指導という言葉自体がなかった。一生を人民とともに生きた指導者はなおいなかった。
 いつか、キューバ元首相のフィデル・カストロが前触れもなくハバナの朝鮮大使館を訪ねたことがあった。地方へ指導活動に出かける道で主席の現地指導のドキュメンタリーが見たくて立ち寄ったとのことであった。同日、カストロ首相は明け方3時が過ぎるまで数編のドキュメンタリーを見た後、感動を禁じえずに、金日成主席の指導方法はすべての社会主義国家指導者が見習うべき偉大な模範である、ブルジョア政客なるものは大衆の前で演説を1、2回やればそれで終わりだが、社会主義国家の指導者はそのようにいつも人民のなかに入って政事を議論すべきである、それが骨を折ることであり、忙しいのは事実である、しかし、私は必ずそうすべきであると思うといった。
 主席は一生、人民とともにいながら、人民的な指導方法の手本を創造しただけでなく、それを社会管理全般に立派に具現して、社会主義社会の本性的要求に即したチュチェの社会管理体系と方法を創造した。
 主席は歴史的な1959年12月の総会の後、大衆指導の新たな活動方法を創造する構想をもってほぼ15日間にわたってチョンサンリ(青山里)と江西郡党委員会の活動を現地指導する過程でチョンサンリ精神、チョンサンリ方法を創造した。
 チョンサンリ精神、チョンサンリ方法には、党、国家、経済機関の指導における基本方向と原則が体系化されている。その内容は、社会のすべての構成員を教育改造して党のまわりに結束させ、国の経済管理と人民の生活について完全に責任をもち、すべての活動を人民大衆自身の活動に確固と転換させる原則で党的、国家的指導を実現することである。
 主席は、チョンサンリ精神、チョンサンリ方法を具現して独創的な経済管理体系、社会管理体系を確立することにも大きな心血を注いだ。
 1961年11月、党中央委員会第4期第2回総会の拡大会議で、新しい環境の要求に即して経済に対する指導管理体系を根本的に改善するという綱領的課題を示した主席は、同年の12月、テアン(大安)電気工場を訪れ、その手本を創造した。
 支配人がすべての権限を掌握し行使する支配人唯一管理制とは異なり、すべてが党委員会の集団的指導のもとにおこなわれ、その過程がすなわち勤労大衆自身の広範な意思と要求を実現する過程であるというところに、テアンの事業体系の本質的特徴がある。テアンの事業体系は、それが広範な人民大衆をして、国家と社会の主人としての責任と役割を果たせるための社会主義国家活動の根本原理を具現していることにより、経済に対する指導管理体系としてだけでなく、社会主義社会全般を管理運営していく社会管理体系として普遍的意義を有する。
 それゆえ、総書記はテアンの事業体系を創始した主席の不滅の功績について、それは、社会主義政権の樹立と生産手段に対する社会主義的所有関係の確立に劣らぬ、社会改造分野での大革命だと言えると熱く述べたのである。



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