金 日 成

思想活動において教条主義と形式主義を一掃し、
主体性を確立するために
党の宣伝扇動活動家に行った演説
-1955年12月28日-


 私はきょう、みなさんに、我が党の思想活動における欠陥と今後それをなくすための意見を幾つか述べたいと思います。

 きのうの会議でみなさんも理解できたように、文学戦線には大きな思想的誤りがありました。そのことから推して、我々の宣伝活動も、やはり正しく行われなかったということは明らかです。

 遺憾ながら、我々の宣伝活動は、多くの点で教条主義と形式主義に陥っています。

 問題をすべて深く掘りさげず、主体性を欠いていることが思想活動における最も主な欠陥であります。主体性を欠いていると言えば語弊があるかも知れませんが、実際、主体性が確立されていません。これは重大な問題であります。我々は、必ずこの欠陥を徹底的に改めなければなりません。この問題を解決しない限り、思想活動で立派な成果を期待することはできません。

 なぜ、思想活動が教条主義や形式主義に陥り、宣伝扇動家が問題を深く掘りさげずにうわべだけを飾り創造的に仕事をせず、外国のものを写してきては丸暗記ばかりしているのかを深く考えてみる必要があります。

 我が党の思想活動における主体とはなんでしょうか。我々は何をしているのでしょうか。我々は、どこかよその国の革命を行っているのではなく、まさに朝鮮革命を行っているのです。この朝鮮革命こそ、我が党の思想活動の主体なのです。したがって、すべての思想活動は、必ず朝鮮革命の利益に服従させなければなりません。我々がソ連共産党の歴史を研究するのも、中国革命の歴史を研究するのも、マルクス・レーニン主義の一般的原理を研究するのも、すべて我が国の革命を正しくなし遂げるためであります。

 我が党の思想活動に主体性が欠けているからといって、もちろん我々が革命をしなかったとか、通りがかりの人が我が国の革命事業を行ったとかいうわけではありません。しかし、思想活動で主体性が確立していないため、教条主義や形式主義の誤りをおかし、我々の革命事業に多くの弊害をまねくことになるのです。

 朝鮮革命を行うためには、朝鮮の歴史を知り、朝鮮の地理を知り、朝鮮人民の風俗を知らなければなりません。そうしてこそ、人民をその気質に合うように教育し、かれらが自分の郷土と祖国を熱烈に愛するようにすることができるのです。

 我が国の歴史、朝鮮人民の闘争の歴史を研究し、それを勤労者に広く宣伝することが何よりも重要です。

 我々は、この問題をきょうはじめてもちだしたわけではありません。我々は、解放直後の1945年の秋、既に、我が民族の闘争の歴史を研究し、そのすぐれた伝統を受け継ぐべきであることを強調しました。朝鮮人民の闘争の歴史とその伝統によって人民を教育すれば、人民の民族的自負を高め、広範な大衆を革命闘争へと励ますことができます。

 ところが、我々の多くの活動家は、我が国の歴史を知らないため、そのすぐれた伝統を明らかにし、それを受け継ぎ発展させようとしていません。これを改めないことには、結局、朝鮮の歴史を否定することになってしまうでしょう。

 このたび朴昌玉らがおかした誤りも、かれらが朝鮮文学運動の歴史を否定したところにあります。かれらには、「カップ」すなわち「朝鮮プロレタリア芸術同盟」に参加したすぐれた作家の闘争も、我が国の先進的な学者や作家のすぐれた作品も眼中にないのです。我々はすぐれた文化遺産を深く研究し、広く宣伝するようにと言いましたが、かれらはそれをしませんでした。

 解放後10年をへた今日では、我が国の文学遺産についての資料を収集し、それを十分利用できるすべての条件がそろっているにもかかわらず、宣伝部門の活動家はこれに対して何の関心も払っていません。

 党中央委員会第5回総会は、朝鮮人民の闘争の歴史と貴重な文化遺産について積極的に宣伝することを決定しましたが、宣伝部門の活動家はこれを実行しなかったばかりか、朝鮮人民の反日闘争に関する記事を新聞に載せることまでも禁止しました。

 例えば光州学生事件は、数万の朝鮮青年学生が日本帝国主義に反対して立ち上がった大衆闘争であり、広範な朝鮮青年に反日思想を鼓吹するうえで大きな役割を果たしました。宣伝活動分野では、当然この運動について広く宣伝し、先輩たちの勇敢な闘争精神で青年学生を教育しなければならなかったはずです。宣伝活動家はこれをしませんでしたが、かえって李承晩の方でこの運動を自分らの宣伝に利用しています。こうして共産主義者は、あたかも民族的伝統を無視しているかたちになりました。これは何と危険なことでしょう。こういうことでは南朝鮮の青年を獲得することはできません。

 だれも指示したわけでもないのに、いままでこうした仕事はなげやりにして手をつけませんでした。新聞に書かないばかりでなく、記念報告集会すら行っていません。光州学生事件などは当然、民主青年同盟がもちだすべきです。光州学生事件は、我が国の青年学生の反帝闘争の立派な模範となります。

 6.10万歳事件についても、同じことが言えます。これもやはり、朝鮮人民が日本帝国主義に反対して立ち上がった大衆闘争であります。もちろん、この闘争には分派分子が入り込んで大きな妨害をしました。解放後にも朴憲永、李承燁らのスパイ一味が我々の隊列に入り込んで策動しましたが、あのころはもちろん、分派分子にとって破壊工作をはたらくのはもっとたやすいことでした。だからと言って、この闘争そのものが悪いと言えるでしょうか。そうではありません。組織の上層部に一部の悪い連中がまじっていたので、闘争が失敗に終わったとは言え、この闘争の革命的性格は否定できないし、我々はその失敗から教訓を酌みとらなければなりません。

 甚だしいことには、3.1運動についても紹介していません。こんなことでは、民族的良心をもつ進歩的な人々を正しい方向へ導くことはできません。共産党の指導がなかったことは、3.1運動を失敗に終わらせた主な原因であります。しかし3.1運動が、日本帝国主義に反対する全民族的抗争であったという事実をだれが否定できるでしょうか。我々は当然、3.1運動の歴史的意義を人民に知らせ、その教訓で人民を教育しなければなりません。

 過去の我が国の多くの革命闘争は、その運動の上層部に悪い連中が入り込んで失敗したけれども、そのときの人民の闘争を否定することはできません。人民大衆は、常に勇敢にたたかいました。朴昌玉は独断でこれを否定したのかも知れません。しかし、真のマルクス・レーニン主義者であるなら、だれもあえて人民の闘争業績を否定することはできないでしょう。

 私は、朴昌玉やかれに追従する人たちに、なぜ「カップ」に反対なのかと聞いてみました。するとかれらは、そのなかに一部の裏切者がいたからだと答えました。だとすれば、我が国のすぐれたプロレタリア作家が主な中核となって活躍した「カップ」が無意味な存在だったと言うのでしょうか。我々は「カップ」の闘争業績を高く評価すべきです。

 人民の闘争の歴史を否定して、何を元手に革命をしようというのでしょうか。これらをすべて捨てさるならば、朝鮮人民は何一つしなかったことになります。過去の我が国の農民運動にも誇るべきものがたくさんあります。ところが近ごろ我が国の新聞には、これに関するものが全く見うけられません。

 学校でも朝鮮史の講義をおろそかにする傾向があります。戦争中の中央党学校の課程案には、世界史は年に160時間も割り当てながら、朝鮮史には極めてわずかな時間しか割り当てていませんでした。党学校でさえこのような有様なのですから、活動家が自国の歴史を知らないのは無理もないことです。

 我々の宣伝扇動活動で、外国のものだけを良いものとし、自国のものをないがしろにする現象はいくらでも見うけられます。

 いつだったか、私は一度、人民軍休養所にいったことがありますが、そこにはシベリア草原の風景画がかかっていました。その風景はおそらくロシア人には気に入ると思います。しかし朝鮮人には、我が国の美しい錦繍の山河の方がもっと気に入ります。我が国には金剛山や妙香山のような美しい山があり、清い流れや波うつ青い海があり、五穀豊かな田野があります。人民軍が自己の郷土と祖国を愛するようにするためには、こうした我が国の風景を描いた絵を多く見せなければなりません。

 ことしの夏のある日、地方のある民主宣伝室にいって見ると、そこにはソ連の5か年計画の図表はありましたが、我が国の3か年計画の図表は一枚もありませんでした。また外国の大きな工場の写真はあっても、我々が復旧建設している工場の写真は一枚も見あたりませんでした。我が国の歴史の研究はおろか、経済建設についての図表や写真をかかげることさえしていません。

 人民学校にいって見ると、かけてある写真はマヤコフスキー、プーシキンなど、いずれも外国人のものばかりで、朝鮮人のものは1枚もありませんでした。こんなふうに児童を教育して、どうして民族的自負が生まれるでしょうか。

 こっけいな実例を1つあげると、パンフレットを発行するとき、目次のつけ方までも外国の真似をして、本の終わりにつけています。社会主義建設のよい経験はもちろん学ばなければなりませんが、パンフレットの目次まで外国式に本の終わりにつける必要がどこにあるでしょうか。これは朝鮮人の好みに合いません。本の目次は当然、前につけるべきではないでしょうか。

 教科書を編修する場合も、我が国の文学作品に資料を求めるのではなく外国のものをとってきます。これはみな主体性が欠けているためです。

 宣伝活動で主体性を欠いたため、党活動に多くの弊害をまねいています。

 革命家を尊敬しない人が多いのもこのためです。今、中央党学校では、以前、革命闘争を行った人が100人余り勉強していますが、かれらはいままで埋もれていました。

 我々はまた、内務省に多くの革命家を派遣しましたが、そこでは、そのうちの多くの人を能力がないといって追い出してしまいました。私は中央党学校で、かつて革命運動に参加したある人に会ったことがありますが、かれは郡内務署長の椅子に8年間も座らされていました。これは革命家に対する極めてよくない態度です。

 今、活動家は、先輩を先輩とも思わない、礼儀作法をわきまえない人間になってしまいました。共産主義者は、元々だれよりも道徳を守り、革命の先輩を尊敬することをわきまえている人であるのに、そういう悪いくせをつけてしまったのです。

 人民軍では革命伝統を継承するために強くたたかった結果、革命運動にたずさわった人がほとんど連隊長あるいは師団長になっています。

 もしも、かつての革命幹部を中核として人民軍を組織しなかったならば、さきの戦争でどうなっていたでしょうか。あのような困難な状況のもとで、我々は敵を打ち破って偉大な勝利をおさめることはできなかったでしょう。

 ある外国人は、後退の時に敵の包囲に陥った我が部隊の大部分が戻ってこれないだろう、と言いました。しかし、我々はかれらが、どんなにしてでも全員帰ってくるものと確信していました。実際死んだ人のほかはみな帰ってきました。これを見た外国人は非常に感嘆しながら、このような軍隊は世界でもまれだと言いました。どうしてこういうことが可能だったのでしょうか。それは人民軍の幹部が、かつてパルチザン闘争をした人や、各地で革命運動に参加した人で構成されていたからです。人民軍の強いわけは、まさにここにあります。

 我が党が創立されてから既に10年もたったのですから、当然、自己の党史をもって党員を教育しなければなりません。活動家を我が国の革命の歴史によって教育しないならば、かれらは自国のすぐれた革命伝統を発展させることができないであろうし、闘争の方向もつかめず、革命事業で熱意と創意性を発揮することもできないでしょう。

 自国のものを誠実に研究し、それに精通するようにしなければなりません。そうでないと、実践過程でたえずぶつかる新しい問題を、我々の実情に即して創造的に解決することはできないでしょう。

 我々の政権形態も、我が国の特殊な条件に即してつくらなければならないことは言うまでもありません。我が国の人民政権の形態が他の社会主義諸国の政権形態と全く同じものかというと、そうではありません。マルクス・レーニン主義の原理から出発した点は同じであっても、その形態はそれぞれ異なっています。政綱も、もちろん我が国の現実に合致した政綱であります。我々の20か条政綱は、祖国光復会の綱領を発展させたものです。だれもが知っているように、祖国光復会は我が国が解放される以前にあったものです。

 活動家は、こういうことをはっきり知っていないため往々にして誤りをおかすのです。

 我が国の農業協同化運動が、早い速度で進められていることまで不思議に思う人がいます。ここには何一つ不思議なことはありません。かつて朝鮮農民の経済的土台は極めて貧弱なものであり、日本帝国主義の支配のもとで農民運動が発展したので農民の革命性は極めて強く、それに加えて解放後の民主建設と厳しい戦争を通じてかれらが政治的に鍛えられたため、今日、我が国の農業協同化運動が急速に進められているのは当然のことであります。

 朴永彬はソ連から帰ってきて、ソ連では国際緊張を緩和する方向なのだから、我々もアメリカ帝国主義に反対するスローガンを取り下げるべきだと言いました。このような主張は革命的創意性とは緑もゆかりもなく、人民の革命的警戒心を麻痺させるものであります。アメリカ帝国主義者は、我が国土を焼き払い、罪のない人民を大量に殺りくし、今もひきつづき我が国の南半部を占領している、永久に許すことのできない敵ではありませんか。

 アメリカ帝国主義者に反対する朝鮮人民の闘争が、国際緊張をやわらげるためのソ連人民の努力と矛盾すると考えるのは、このうえもなく愚かなことです。朝鮮人民が朝鮮に対するアメリカ帝国主義者の侵略政策を糾弾し、それとたたかうのは国際緊張をやわらげ、平和を守るための世界人民のたたかい、と矛盾しないばかりか、かえってそれに寄与するものです。またソ連人民をはじめ、世界の平和を愛する人民の緊張緩和をめざすたたかいは、朝鮮人民の反帝闘争にますます有利な条件をつくるものであります。

 朴昌玉は我が国の歴史と現実を研究しなかったために、ブルジョア反動作家である李泰俊と思想的に結びつくようになりました。もちろん、かれもブルジョア思想の残りかすをもっていたわけですが、我が国の現実は研究せずに、自分はなんでもよく知っているとうぬぼれていたために誤りをおかしたのです。思想活動に及ぼしたかれの罪は極めて重大であります。

 解放後この連中は、李光洙は才能があるからかつぎだすべきだと言いましたが、私はそれが不当であると指摘しました。李光洙は、出獄した革命家を侮辱する内容の作品『革命家の妻』という小説を書きました。李光洙はまた、朝鮮人は日本帝国主義者と「同祖同根」だと騒ぎたてた男です。それで私は、このような男をかつぎだすのはもってのほかだ、絶対にいけないとしりぞけました。

 党宣伝部で活動していた一部の人が、すべての活動で機械的にソ連の真似をしようとしたのも、かれらが我が国の現実を研究しようとせず、我々のよいところや、我々の革命伝統で人々を教育しようとするマルクス・レーニン主義的精神に欠けていたことに起因しています。多くの人がマルクス・レーニン主義を消化して自分のものとするのではなく、それをうのみにしています。こんなことで、革命的な創造力が生まれるはずがないのは当然のことです。

 宣伝活動分野では、まだ我が国の歴史と民族文化を系統的に研究する仕事を満足に組織していません。解放後10年も過ぎたのに、この仕事は積極的に進められておらず、してもしなくてもよいといった調子です。以前には幹部がいませんでしたが、今は学者もいるし、資料や資金もあり、できる土台が十分ととのっています。みなさんがよく研究し、組織しさえすれば十分にできることです。全力をつくして民族遺産を掘りおこし、それを受け継ぎ発展させなければなりません。我々は国際的に先進的なものは極力取り入れるべきですが、我が国のよいところを発展させながら、先進的文化を受け入れなければなりません。そうしなければ、人民は自己の力に対する確信をなくし、外国の真似ばかりしようとするいくじのない人間になってしまうでしょう。

 主体性を確立しなければならないと言えば、あるいは単純に考えて外国から学ぶ必要がないといった、誤った考え方をする人がいるかも知れませんが、決してそうではありません。社会主義諸国の立派な経験は学ばなければなりません。

 大切なことは、学ぶ目的がどこにあるかをわきまえることです。学ぶ目的はソ連やそのほかの社会主義諸国の先進的な経験を、朝鮮革命のために立派に利用することにあります。

 戦時中、軍隊内での政治活動の方法の問題をめぐつて、許カイ、金載旭、朴一禹らがつまらないいさかいをしたことがあります。ソ連から帰った人はソ連式に、中国から帰った人は中国式にやろうと言いはりました。こうして、ソ連式がよいとか、中国式がよいとか言って争いました。これは全く無益なことです。

 ごはんを食べるのに、右手で食べようが左手で食べようが、あるいはさじで食べようがはしで食べようが、かまうことはありません。どういうように食べようと、口に入れるのは同じではありませんか。戦争中に「式」を問題にする必要がどこにあるでしょうか。我が人民軍を強化し戦争に勝利するために政治活動を行うのですから、なに式であろうとその目的を達成すればよいわけです。にもかかわらず、許カイと朴一禹はこんなことで互いに相手を非難しあいました。これは党の規律を弱めることにしかなりません。そのころ、党中央は、ソ連のよい点も学び、中国のよい点も学び、すべて学んで我が国の実情に合う政治活動の方法を創造すべきだと言いました。

 活動における革命的真理、マルクス・レーニン主義の真理を体得することが重要であり、その真理を我が国の実情に合うように適用することが重要なのであります。必ずソ連式にしなければならないという原則はありえません。ある人はソ連式がよいとか、中国式がよいとか言いますが、いまや我々の式をつくるときがきたのではないでしょうか。

 ソ連の形式や方法を機械的に真似るべきではなく、その闘争経験とマルクス・レーニン主義の真理を学ぶことが大切です。それゆえソ連の経験に学ぶべきではありますが、形式に重きをおくべきではなく、その経験の真髄を学びとることに重点をおくべきであります。

 ソ連の経験を学ぶ際に、形式だけを真似る傾向が少なくありません。『プラウタ』で「我が祖国の一日」という見出しをつけると、我が『労働新聞』も「我が祖国の一日」という見出しをつけます。こんなことまで真似る必要がどこにあるのでしょうか。服装にしてもそうです。朝鮮の女性には非常に立派な朝鮮服があるのに、なぜこれをさしおいて似合わない服装をして歩かなければならないのでしょうか。そうする必要はありません。私は女性同盟の活動家たちに、女性はできるだけ朝鮮服を着るようにしようと言いました。

 マルクス・レーニン主義の真理を学ばず外国の形式だけを追いまわすのは、百害あって一利もないことです。

 革命闘争でも建設事業でも、マルクス・レーニン主義の原則を徹底的に守りながら、それを我が国の具体的な条件、我々の民族的特性に合うように創造的に適用しなければなりません。

 我が国の歴史も人民の伝統も無視し、我が国の現実や人民の自覚の程度も考えずに、外国の経験を機械的に適用するならば、教条主義の誤りをおかし、革命事業に大きな損失を与えるでしょう。これはマルクス・レーニン主義に忠実なことでもなければ、国際主義に忠実なことでもなく、かえってそれに背くものであります。

 マルクス・レーニン主義はドグマではなく、行動の指針であり、創造的な学説であります。したがって、マルクス・レーニン主義は、それぞれの国の具体的な実情に即し創造的に適用することによって、その不敗の威力を発揮することかできるのです。兄弟党の経験についてもやはりそうです。我々が兄弟党の経験を研究してその本質を把握し、それを我が国の現実に正しく適用してこそ、その経験の価値があるのであり、そうではなく、それをそっくりそのまま真似て仕事を失敗させるならば、我々の事業に害を与えるばかりでなく、兄弟党の貴重な経験までも傷つける結果をまねくでありましょう。

 主体性を確立する問題と関連して、国際主義と愛国主義について述べる必要があると思います。

 国際主義と愛国主義は、互いに切り離すことのできない問題です。朝鮮の共産主義者が祖国を愛するのは、労働者階級の国際主義に背かないばかりでなく完全に一致するということを知るべきです。朝鮮を愛することは、すなわちソ連と社会主義陣営を愛することであり、またソ連と社会主義陣営を愛することは、とりもなおさず朝鮮を愛することを意味します。これは完全に統一されています。なぜなら、労働者階級の大業には国境がなく、我々の革命事業は世界の労働者階級の国際革命事業の一部分であるからです。すべての国の労働者階級の唯一の最高の目的は、共産主義社会を建設することであります。もし違いがあるとすれば、ある国は先に進み、ある国は後から進むということだけです。

 愛国主義ばかり唱えて国際主義的団結をおろそかにするならば、それは誤りです。我々は朝鮮革命の勝利のために、国際労働者階級の大業のためにソ連人民との団結を強めなければならず、すべての社会主義国の人民との団結を強めなければなりません。これは我々の崇高な国際主義的義務であります。ソ連人民も自国の共産主義建設と世界革命の勝利のために、社会主義陣営諸国とはもちろん全世界の労働者階級との団結を強めることに全力を尽くしています。

 このように、愛国主義と国際主義とは切り離すことができないものであります。祖国を愛さない人は国際主義に忠実でありえず、国際主義に忠実でない人は祖国と人民に忠実ではありえません。真の愛国主義者はすなわち国際主義者であり、また真の国際主義者はすなわち愛国主義者であります。

 もし、我々が思想活動において、我が国のよいところを何一つかえりみず、外国のものばかりもってきて暗唱するならば、必ず我が国の革命に損失をもたらすであろうし、そうなれば国際革命事業に対する我々の国際主義的な義務も、正しく遂行することができなくなるでしょう。

 私は第2回党大会の報告のなかで、ソ連軍が我が国に進駐した最初の日に、「朝鮮人民よ(略)幸福は諸君の手中にある。(略)朝鮮人民自身が、自分の幸福を創造しなければならない」と言ったソ連軍司令官の宣言を引用したことがあります。ソ連軍司令官のこの言葉は全く正しいものであり、もしそうしなければ、我々は広範な大衆を失うおそれがあります。

 宣伝活動家の形式主義は、宣伝活動で物事を誇張する点にもあらわれています。例えば「総決起した」とか、「総動員された」とかいったような誇張された表現が、かなり前から演説や論説などで流行しています。

 我々はこのことについて、何回となく朴昌玉に忠告したことがあります。朴昌玉は自分のつくりだしたこの「総」のくせからぬけきれなかったため、誤りをおかしたのです。かれは、しまいには「大」の字にさらに「最」の字をつけて「最大」と言ったり、「偉大」という形容詞をやたらに使ったりしました。これは、かれが漢文を知らないせいなのか、あるいは思想観点が正しくないせいなのか、理解に苦しむところです。

 内容のある宣伝活動を行わずに、このようにおおげさなことを言ったりすると、人々は勝利に酔って安逸にながれるでしょう。下部の活動家がいつわりの報告をするのも、こういう悪いくせがもとになっています。

 形容詞一つ使うのは簡単なことのようですが、使い方を間違えると、ことを誤る災いのもとにもなりかねません。これからは徹底的に改めなければなりません。

 次に私は、当面の思想活動のうえで提起されるその他の幾つかの問題について述べたいと思います。

 4月総会の文献の学習を助けるために、党中央委員会から、我が国の革命の性格と任務についての要綱を配布したのがあります。ですから、これについては詳しくふれないことにします。

 ただ、私は、我が国の革命の前途について、今一度強調しようと思います。我が国の革命には、2つの道があります。我が国が平和的に統一されるのがその1つの道であり、大きな戦争によって帝国主義勢力が急激に弱まっていく条件のもとで国の統一が実現するのが、もう1つの道であります。

 我々はもちろん、第1の道を実現するために全力をつくしてたたかっています。

 我が国を平和的に統一するための我々の闘争は、北半部での建設を立派に進め南半部に対する政治活動を効果的に行うという、この2つの問題に帰着します。北半部の社会主義建設を促進して民主基地を強化し、南半部に対する政治活動を活発に行い、南半部の人民を解放闘争に立ち上がらせるならば、我が国の平和的統一は実現できます。

 南半部に対する政治活動というのは、南半部の人民に対する北半部の影響力を強めて、南半部の広範な人民大衆が我々を支持するようにすることです。そうするためには、北半部での社会主義建設を立派に行わなければなりません。北半部で経済建設を立派に行って人民の生活水準を高め、経済土台を強化し、全人民を我が党のまわりに団結させなければなりません。このようにすれば、李承晩がいくらあがいても、北半部の社会主義建設によってたえず励まされている南半部人民の闘争の気勢をくじくことはできないでしょう。

 最近、南半部から来たある人が、「北半部には人口が300万しかなく、平壌は焼け野原で、何一つないと李承晩は宣伝していたが、実際に来て見ると大同江の橋は元通りに復旧されており、平壌は以前よりもはるかに立派な都市に建設されている。李承晩はでたらめをぬかしたものだ」──こう言っていました。我々が建設を立派に行えば、まさにこのようになるのです。

 南北朝鮮の各政党、大衆団体の連席会議が開かれた1948年ごろは、まだ、我々が北半部でとりたてて言うほどのことはなし遂げていませんでした。それでも、南朝鮮から、李承晩と金性洙を除いては、右翼の人士までみな我々のところにやってきました。この連席会議は極めて大きな意義をもっています。そのとき、北半部に入ってきてそのまま踏みとどまった人がたくさんいます。

 金九は「北朝鮮に来て見て気に入った。上海でも、南朝鮮でも、多くの共産主義者に会ったことがあるが(かれが会ったとすれば、それは言うまでもなく火曜派か、M・L派であろう)、北朝鮮の共産主義者は違う。私はこれまで、共産主義者というのは偏狭でつまらぬ人間だとばかり思っていたが、こんど来て見て、あなたがたは度量が大きく寛大で、いくらでも合作できることがわかった。私は是が非でもあなたがたと合作するつもりだ。もう年をとってしまった私には政権欲はない。私がもし南朝鮮に戻らなかったら、李承晩はきっと、私が抑留されたと言いふらすだろうし、また、私自身の望みからいっても、あちらに戻ってよい宣伝をしなければならないから、どうしても戻らないわけにはいかない。私がアメリカと合作するなどとは考えなさるな。後日私がまたこちらへ来たら、田舎で静かに余生を送りたいから、りんご園の一つでも与えてほしい」と言いました。金奎植も同じような意味のことを言いました。その後、金九はアメリカとたたかいました。

 周知のように、金九は民族主義者でした。元々かれは、帝国主義にも反対し、共産主義にも反対でしたが、一度共産主義者と談判してみようということでやって来たのでした。共産主義を絶対に許せない敵とみなしていた金九でさえ、祖国建設のための我々の闘争を見て、自分の考え方を改めるようになったほどですから、まして、南朝鮮の労働者や農民、民族的良心をもつ人々が北半部に来て見たらどうなるかは、十分推しはかることができます。

 我々は、解放前ソ連に行って見たこともないのに、ソ連では労働者階級が政権を握って社会主義を建設しているという話を開いただけで、ソ連に限りなくあこがれたものです。だというのに、南半部の人民が、どうして同じ民族である我が北半部の人民の社会主義建設にあこがれずにいられるでしょうか。

 だからこそ、北半部での建設を立派に行うことが何よりも重要であります。

 このように、北半部の社会主義建設を立派に進め、南半部に対する政治活動を立派に行うことによって、南半部の人民がアメリカ帝国主義と李承晩の統治制度に反対して立ち上がるとき、我が国の平和的統一は実現できるのです。

 これが、我が国の平和的統一を可能にする内的要因であります。

 国の平和的統一に有利な外的要因もまた、考慮しなければなりません。もし、我々が5~10年のあいだ平和を維持することに成功すれば、ソ連はいうまでもなく、6億以上の人口をもつ中国の威力は比ベようもないほど強大になり、社会主義陣営全体の力はいっそう強化されるでしょう。

 社会主義陣営の威力が増大するにつれて、植民地・従属国人民の民族解放運動は強まり、多くの国々が民族の独立をかちとりました。インド、インドネシア、ビルマなどアジアの独立国と、アラブ諸国の人民は、帝国主義の侵略に反対し、平和のためにたたかっています。

 これらすべてのことは、帝国主義、特にアメリカ帝国主義に対する非常に大きな打撃となっています。平和と民主主義と社会主義の勢力が強化されれば、アメリカ帝国主義者はついには朝鮮から出ていかざるをえないでしょう。

 言うまでもなく、国の平和的統一をめざす闘争は、長い年月のかかる困難な闘争です。しかし、我々の力が強くなり、国際的に平和と民主主義と社会主義の勢力が強くなれば、我々は祖国の平和的統一を実現することができます。これが、朝鮮における革命発展と祖国統一の1つの道であります。

 祖国統一の問題は、平和的方法でなく、戦争によって解決されることもありえます。帝国主義者がもしも世界的規模で大きな戦争を引き起こせば、我々はやむをえず戦わなければなりませんが、その場合には、我々の力だけでも、朝鮮でアメリカ帝国主義者と戦って、十分に勝利することができます。我々が単独でアメリカ帝国主義を相手に戦うのは少々難しいことでしょうが、かれらが世界的な規模でその力を分散せざるをえない場合、我々は比較的たやすく、かれらを打ち負かすことができるでしょう。こういう場合、我々は朝鮮からアメリカ帝国主義勢力を追い出して、国の統一を達成することになるでしょう。これが朝鮮革命の発展と国の統一のもう1つの道であります。

 しかし我々は、このような道を望まず、第1の道、すなわち平和的な方法による統一を望み、その実現のためにたたかっています。

 祖国統一の方途がどうあろうと、我が党を強化し、党員の党性を鍛えることが何よりも重要であります。

 もしも、南北間に話し合いがはじまり、さらに進んで南北間の障壁が崩れて、我々が南朝鮮の人々と互いに入りまじって活動するようになるとすれば、我が党が強くなくて何ができるでしょうか。我が党が強ければ、こういう有利な情勢を十分に利用することができます。

 今、我が党員の比率を見ると、人口1000万に対して党員100万ですから、人口の10%に当たります。これは、もちろん少ない比率ではありません。しかし、全朝鮮の人口3000万から見ると、100万というのは決して多いものではありません。

 南朝鮮では、極めて困難な環境のなかで地下運動が行われているので、党勢拡大は非常に制限されざるをえません。

 統一されれば、南朝鮮でも党員数がふえるでしょうが、そのときになって、少ない数の党員で活動しようとすれば困難を伴うでしょう。我々がいまから北半部で多くの党員を育成しておき、統一のあかつきに、南北でひとしく活動するようにするのが、悪いとでも言うのでしょうか。悪いはずがありません。ところが許カイは、党中央委員会第4回総会のころ、党員が60万を越えてもいないのに、党の門を閉ざすべきだと主張しました。そのとき党は、許カイの意見に対して批判を加え、ひきつづき党勢拡大の方向へ進みました。

 問題は今、100万の党員を立派に教育することにあります。我が党員のなかには、ときには一般大衆よりもおとる党員がいないとは言えません。だからと言って、このような人たちを党から追い出すべきではありません。党内にとどめておいて教育すべきであって、もし追い出してしまうならば、我が党の力が弱まるおそれがあります。我が党が唯一の政党でない以上、なおさらそうです。

 大衆的な党を建設するなかでたえず細胞の中核を育成するのは、我々の一貫した組織路線であります。中核とは、共産主義の真理を学びとり、ゆるぎない態度で革命の道を進むことのできる党員のことであります。100万の党員を一度に全部共産主義の意識で武装させることは困難であります。必ず、まず中核を育成し、しだいにすべての党員の意識水準を引き上げる方向へ進まなければなりません。

 我々の方針は、中核を通じて党員を教育しようというのです。そこで党は、第4回総会の後、細胞の中核を育てあげる問題を、特に強調してきました。細胞の中核が、きょうは5人、あすは10人というふうにふえていき、すべての党員が中核になればなおよいし、そういかないとすれば50%だけでもかまいません。

 我が党が大衆的政党に発展するうえで、共産党と新民党との合同は大きな意義がありました。我々が正しい組織路線をうちだし、広範な勤労大衆を獲得するため精力的にたたかった結果、我が党はいまでは100万の党員をもつ大衆的政党に発展しました。このような成果は、決して簡単に得られたものではなく、幾多の困難な闘争を通じて得られたものです。

 我々は、祖国の平和的統一を実現するための先決条件として、南朝鮮における言論、出版、集会、結社など民主的権利と自由を要求してたたかっています。我々は、南朝鮮の各政党が北半部に来て自由な政治活動をするかわりに、我々も南半部にいって自由に活動できる条件をたたかいとろうというのです。

 このように、南北に政治闘争の自由な情勢がつくりだされれば、勝敗はだれがより多くの大衆を獲得するかによって決まるでしょう。それゆえ、我が党を強め、党員の党性を強めることが何よりも重要であります。

 党員の党性を強めるためには、すべての党員に党中央委員会第4回および第5回総会の文献をひきつづき深く研究させなければなりません。

 活動家は経済的キャンペーンにばかり没頭せず、党の組織・宣伝活動により多くの力を注ぐべきであります。党細胞をしっかりきずき、細胞の中核を通じて党員を教育するようにしなければなりません。特に指導的地位にある党員、すなわち相、副相、局長たちの党性を鍛えることが必要です。全党的に党性を鍛えるための強力な教育対策を立てなければなりません。

 我が党の構成は極めて複雑です。かつて火曜派、M・L派に属していた人、また解放後には勤労人民党に属していた人、その他いろいろな色あいの人が我が党に入ってきました。多くの人が過去に分派分子の影響を受けました。そういう人は中央級の責任幹部のなかにもおり、党中央委員会の委員のなかにもいます。

 これらの人がすべて悪い人かというと、そうではありません。教育すればみな役に立つ人たちです。しかし、これらの人々に対する教育は短時日のキャンペーンとして行ってはなりません。長い時日をかけて忍耐づよく教育し批判しなければなりません。

 一人一人の党員を我が党の思想でしっかりと武装させ、党員と勤労者の意識に残っているいっさいのブルジョア思想の残りかすを一掃するため、力強くたたかわなければなりません。党員の党性の鍛練は、かれらの欠陥と思想的な病根が完全に取り除かれるときまで、徹底して行わなければなりません。

 朴昌玉と奇石福に対する批判もあまりにおそすぎました。党中央委員会第5回総会の当時にでも批判していたならば、これほどまでにはならなかったでしょう。ですから、特に指導的な活動家のうち、許カイや朴一禹の影響を受けた人の思想を改造し、かれらに党的思想体系を確立させることが重要です。党の組織指導部と宣伝扇動部は、こうした活動を行わなければなりません。

 党員に対する教育で重要なのは、党員、特に幹部をしっかりした大衆観点に立たせる問題であります。大衆観点がしっかりしていないため、あいかわらず官僚主義があらわれています。これが我が党活動での大きな欠陥です。

 祖国を統一し、社会主義と共産主義を建設しようとする我々の気高い目的を達成するためには、大衆を獲得しなければなりません。我々は官僚主義が革命にいかに大きな損失を与えるかを、はっきりと知るべきです。

 大衆の声に耳を傾け、大衆の利益を守るということは、ちまたの正しくない世論に基づいて活動することとは根本的に異なります。これは革命的な大衆観点とは緑もゆかりもありません。我々のいう大衆とは、我々がよりどころにしている基本大衆すなわち労働者、農民と、我々を支持し、我々についてくる同盟者のことであります。我々は当然、かれらの声に耳を傾け、かれらの利益を守らなければなりません。党活動家であれ行政機関の活動家であれ、大衆団体の活動家であれだれであろうと、すべてがあくまで革命の利益と大衆の利益を守る見地に立って活動しなければなりません。

 抗日パルチザンは、どうして長いあいだもちこたえることができたのでしょうか。日本帝国主義者は、強大な兵力をもちながら、どうして我々を掃滅することができなかったのでしょうか。それはパルチザンが正しい大衆観点に立ち、大衆に支持されていたからです。パルチザンが負傷して農村へいけば、農民たちは自分の息子のように看護してくれたし、自分たちの口にさえ入らない米を工面してきては、ごはんを炊いてくれました。日本帝国主義者がつくった集団部落の城壁のなかに住む農民までが、食糧を城壁の外に運び出してくれました。

 我々が常に大衆の利益を守り、大衆のために生命をささげてたたかったからこそ、かれらもこのように我々を支持し守ってくれたのです。すべての党員は、必ず大衆に対するパルチザンの態度から学ばなければなりません。

 日本帝国主義支配の時代には、強制徴兵、強制徴用、強制供出など、すべてが強制でした。我々はこういうことに強く反対します。

 大衆から浮きあがった党は、あたかも水を離れた魚のようなものです。大衆をもたない党が、何をよりどころにして革命を行うというのでしょうか。そのような党は、革命で勝利をおさめることができないばかりでなく、ついにはその存在さえも危くするでしょう。

 党が綱領をかかげるのも、政権をたたかいとるのも、すべて大衆の利益を守るためです。であるのに大衆の利益をおかすならば、それは党と革命の目的に背くことでなくてなんでしょうか。

 我々の法令や決定がよいものであることは、論議の余地がありません。しかし、もしも活動家がこれを実行するなかで大衆の利益をおかせば、すべては水の泡となってしまいます。みなさんはこのことを深く肝に銘じて、党員のなかから官僚主義をなくし、かれらが正しい大衆観点に立つよう、いっそう教育活動を強めなければなりません。全党員の50%程度だけでも、正しい大衆観点に立つようになれば、それは我が党に大きな転換をもたらすでしょう。

 今、多くの党員は、まだ正しい大衆観点を確立していません。特に、幹部の場合、これはいっそう甚だしいものがあります。党員が正しい大衆観点を身につけるかつけないかということも、やはりかれらの党性のいかんにかかっています。したがって、この点からも党性を鍛えることが決定的に重要であります。

 次は、党員のあいだに革命の前途に対する確信と楽天主義をつちかうことが重要です。どのような環境のもとでも、我々の大業の最後の勝利を確信し、革命の前途を楽観する精神がなければ、革命闘争のなかで避けがたい困難に直面したとき、それにうちかつことはできません。

 党員を常に、楽観的に革命の前途を見通す不屈の闘士に育てあげるためには、マルクス・レーニン主義の教育を強めなければなりません。社会発展の法則と社会主義・共産主義の勝利の必然性をはっきりと認識しないことには、勝利の信念が生まれるはずがなく、いかなる難関にも屈しない気高い精神と闘志が生まれるはずがありません。

 社会発展の法則を認識できず、複雑な情勢のもとで事態発展の推移をはっきりと認識できないところから、革命の隊列のなかで起こった動揺と脱落の実例を一つあげてみましょう。

 日本帝国主義の敗北を目前にひかえて、パルチザン部隊のなかで、信念を失って逃げだす者があらわれました。これは当時、我々の宣伝活動のうえにあらわれていた一部の形式主義的な欠陥ともかかわりがあります。当時、ソ連についての宣伝は、特に重要な意義をもっていましたが、パルチザンでは、「ソ連と帝国主義諸国とのあいだには根本的な矛盾があるから、やがてこの両者のあいだには必ず大きな衝突が起こるだろう。そのときには、日本帝国主義が敗北し、我が国は独立することができる」と宣伝しました。これは間違いでした。社会主義国と帝国主義諸国との矛盾について宣伝したのは正しいのですが、情勢発展の正しい真理について宣伝することができませんでした。そのため、1941年、ソ連と日本とが中立条約を締結し、ソ連とヒトラー・ドイツとのあいだに不可侵条約が結ばれたとき、パルチザンの隊列のなかでは、前途に対する希望を失って動揺する分子があらわれました。こうした動揺分子は、パルチザン生活を10年もつづけたのに、これからまた10年つづくか、20年つづくか、全く先が真っ暗だと言って、隊列を離れて逃げだしました。そこで、隊員たちに革命情勢と革命の真理を詳しく教えたところ、それからは逃げる者が一人もあらわれませんでした。

 遅かれ早かれ、国の統一を迎えるであろうことは疑う余地がありません。国の統一は、既に述べたように、平和的なものとなることもありうるし、非平和的なものとなることもありうるでしょう。それがどんな形のものであれ、我々には、常にその日を迎える用意ができていなければなりません。

 この日を迎えるためには、党員の党性を鍛え、かれらが正しい大衆観点に立つように教育し、かれらに勝利の信念と革命の前途に対する楽天主義の精神を植えつけなければなりません。

 次に重要なのは、いっさいの反党的傾向との闘争を正しく行うことであります。もし我々が、かつて間島で「民生団」と戦った経験をもっていなかったならば、解放後朝鮮で、しかも戦時下という環境のもとで、反革命分子との闘争を正しく指導することはできなかったでしょう。

 日本帝国主義者は、「民生団」という反革命的スパイ団体を組織して、間島の革命地区に送り込みました。こうしてかれらは、朝鮮人と中国人とのあいだに水をさし、また朝鮮人同士を争わせる策略をもちいました。ひところは、敵の策略に陥って、革命陣営内で互いに殺し合いを演じたため、多くの人がいわれもなく犠牲になりました。

 我々が朴憲永一味の事件を取り扱ったとき、この経験が大いに役立ちました。我々は、スパイとスパイでない者とを厳格に区別する原則を強くうちだしました。我々は、政治委員会で何度もこのことを強調しました。まかり間違えばアメリカの策略に陥って、多くの人を破滅させるおそれがありました。

 もちろん闘争は厳格に行うべきです。そうでないとスパイを取りにがすおそれがあります。しかし、闘争はあくまでも思想闘争の方法で展開しなければなりません。

 朴憲永の影響を受けたからといって、すべて朴憲永派になるとは限らないし、スパイになるとも限りません。しかし、これらの人々の頭には朴憲永から受けた思想的影響がまだ残っています。これとたたかわなければなりません。

 朴憲永一味との闘争および反スパイ闘争の経験を、党員のあいだに徹底的に浸透させ、かれらがスパイと断固とたたかい、スパイを正確に見分けられるようにしなければなりません。もし、そうしないで、すべての人を疑うようでは、ついには自分の影にさえおびえるようになるでしょう。

 敵は常に、我々の隊列を内部から切り崩すために人々を互いに疑わせ、離間させようと策動しています。みなさんは、反革命分子の企むこのような謀略と中傷を鋭く見ぬき、それとたたかえるようにならなければなりません。党員がスパイも見分け、動揺分子、家族主義者、地方主義者、分派分子などをより分けることができるよう、かれらを教育しなければなりません。

 党幹部とすべての党員のレベルが高くなければ、こうした闘争を正しく行うことはできません。党員のマルクス・レーニン主義的素養が高くないと、このような難しい任務を正しく遂行することはできません。党員が反革命との闘争を手ぎわよく展開しうるようにするため、かれらに対するマルクス・レーニン主義の教育を強めるとともに、かれらに反革命との闘争経験を広く教えることが必要であります。

 次に、広範な大衆に対する宣伝活動と扇動活動を強めなければなりません。人民大衆を社会主義思想で教育することが、宣伝扇動活動の主な内容とならなければなりません。ここで、労働者、農民、特に労働者に、かれらが政権の主人であることをはっきり認識させることが何よりも重要です。こうした自覚が強まれば、労働者は自分の職場や機械設備を愛護し、仕事も熱心に行い、規律もよく守り、反革命分子ともよくたたかい、万事を主人らしく行うでしょう。

 農民の場合も同じです。農民は、労働者階級が自分たちの同盟者であるばかりでなく、指導者であるということ、また自分たちも政権の主人であるということを自覚すれば、自分の耕す土地もまめに手入れし、生産用具も大事に扱い、現物税も進んで納めるようになるでしょう。

 だれでもみな、自分が主人であることを自覚すれば熱意を発揮するものです。かつて我々が革命活動を行ったとき、お金をもらってするのだったら、だれがああいうことをしたでしょうか。革命を行うことによって自己の前途が切り開かれ、祖国を救うこともできるということを自覚していたからこそ、我々は夜もろくに眠らず、ひもじさも忘れて戦ったのです。労働者も、自分の労働が自己の幸福と社会の繁栄のためのものであることをはっきり自覚すれば、すべての力と熱意を傾けて働くに違いありません。

 すべての勤労者に、こうした自覚をもたせるためには、長期にわたるねばりづよい教育活動が必要であります。我々は、忍耐づよく大衆を教育しなければならず、かれらを我が党のまわりにいっそうかたく団結させなければなりません。

 最後に、新聞について幾つか意見を述べたいと思います。まだ我々の新聞は、その任務を十分に遂行しているとは言えません。

 我が党の機関紙『労働新聞』の中心課題は、党の方針と政策、党員の闘争任務を日常的に解説して党員を教育することであり、『民主朝鮮』紙の中心課題は、人民政権の法令、規定および国の政策を大衆に解説し、浸透させて、かれらを国家政策の実行へと奮い立たせることであります。職業総同盟や民青、その他の組織の機関紙も、その性格と任務に即して編集しなければなりません。

 各新聞が、中央通信社から出される資料によって報道するせいか、またある新聞は紙面が少ないためか、新聞に特色のないのが大きな欠陥です。

 ここにも形式主義と教条主義がかなりあらわれています。これについて十分検討してみるべきだと思います。

 以上で私は、我が党の思想活動における幾つかの問題について述べました。みなさんがこれを念頭においてこれまでの欠陥を取り除き、我が党の思想活動をさらに高い水準に引き上げるよう努力することを期待します。

出典:金日成著作集 9巻

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