『金日成主席革命活動史』

第3節 国防力を鉄壁に打ち固め、アメリカ帝国主義の
核騒動を粉砕するためのたたかい
 

 1990年代初めに至り、世界の社会主義体制の崩壊によって東西間の冷戦は朝米対決に凝縮され、アメリカをはじめ帝国主義連合勢力の孤立・圧殺策動は朝鮮に集中されるようになった。

 金日成主席は新たな厳しい情勢を深く洞察し、銃剣によって切り開かれ前進してきた社会主義の偉業を銃剣をもって固守し輝かせるため、いつにもまして国防力の強化に大きな力を注いだ。

 1991年12月24日に開かれた朝鮮労働党中央委員会第6期第19回総会では、金正日同志を朝鮮人民軍最高司令官に任命する決定を採択し、1993年4月9日におこなわれた最高人民会議第9期第5回会議では、金正日同志を朝鮮民主主義人民共和国国防委員会委員長に推戴した。

 主席は、金正日最高司令官の指導のもとにチュチェ革命偉業遂行の主力部隊である人民軍の威力を全面的に強化するよう導いた。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「金正日同志は、革命武力の最高司令官としての不屈の意志と胆力、優れた知略と用兵術を身につけており、まさにここに、我が革命武力の不断の発展と百戦百勝の保証があります」(『社会主義偉業の継承、完成のために』1992年3月13日、1993年1月20日、3月3日)

 主席は1991年12月25日、朝鮮人民軍中隊政治指導員大会でおこなった演説『人民軍中隊政治指導員の任務について』で、全人民軍将兵が金正日最高司令官の命令を私の命令とみなし、その命令に絶対的に服従し、最高司令官の指導に忠実に従うようにと強調した。

 そして、1992年から1993年の間に、朝鮮人民軍指揮官、政治活動家大会をはじめ、部門別の大会を10余回も開催し、金正日最高司令官に忠実に従うよう強調した。

 また1994年4月25日には、人民軍の指揮官にみずからの尊名入りの「白頭山」拳銃を授与し、全軍が金正日同志を高く戴き、その指導に忠実に従うよう綱領的指針を与えた。主席はこの日、深い感慨にひたった。我が国の労働者がつくった自動短銃を初めて金策、崔庸健(チェヨンゴン)同志たちに授与したのは1949年であり、それから45年が過ぎた今日、私がみなさんに拳銃を授与するのは2度目となるが、そこには、みなさんがこれまで私に従って立派にたたかってきたように、今後は金正日最高司令官に忠実に従い、白頭山で始まった我々の革命偉業を必ず成就してほしいという私の期待が込められている、と述べた。そして、全軍が金正日最高司令官のまわりに一致団結し、人民軍内に最高司令官の命令を無条件に実行する革命的軍紀を確立すべきであると強調した。

 主席は、金正日最高司令官への忠実性を高めることを基本に、軍隊内での政治・思想教育を強化するよう導いた。

 主席は1992年3月13日と1993年1月20日、3月3日に抗日革命闘士、革命家の遺児への談話『社会主義偉業の継承、完成のために』で、金正日同志の思想と指導、品格、業績の偉大さについて語りながら、歌にもあるように金正日同志がいなければ、みなさんも社会主義祖国もない、金正日同志を中心にして一心団結するときにのみ、帝国主義者のいかなる反社会主義攻勢も断固粉砕し、社会主義を固守し輝かすことができるのだと述べた。

 そして、1992年の金正日同志の生誕50周年を迎えて頌詩をつくり、金正日同志の誕生日を民族最大の祝日に制定するという中央人民委員会の政令を裁可する一方、人民軍軍人に最高司令官の偉大さを深く認識させ、最高司令官への忠誠心を胸に深く刻みつけさせるための教育活動がさまざまな形式と方法で着実におこなわれるようにした。また、白頭山革命戦跡踏査行軍、革命の聖地−白頭山密宮での軍人たちの決意集会など革命伝統教育も力強くおこなうように指示した。

 主席は、軍隊内で将兵一致、党・青一致の美風がさらに高く発揮されるようにした。

 主席は、人民軍の指揮官が特権をふるったり横柄にふるまったりする傾向をなくし、兵士を真の革命同志として見るようにさせ、兵士の中に入って寝食をともにしながら彼らの生活を細やかに気づかうことで、兵士たちが指揮官を尊敬するようにした。そして、人民軍が党員と青年同盟員からなっている特性に即して、党・青一致の気風を打ち立て、党員が軍務生活で模範となり、青年同盟員を日常的に助け、青年同盟員が党員の模範を見習うようにさせた。

 主席は、人民軍を軍事技術的にいっそう強化するための活動を指導した。

 主席は、金正日同志が示した訓練方針と訓練原則に従って戦闘訓練をおこなうようにした。まず、指揮官・参謀部の訓練を強化して、すべての指揮官と参謀部の作戦・戦闘操作と指揮能力を高める一方、軍人たちが戦闘訓練を実戦さながらにおこない、実戦で活用できるものを学び習熟するようにさせた。

 1991年4月26日と1994年4月25日には、朝鮮人民軍軍部隊の訓練を現地で指導しながら、訓練の成果を高く評価し、軍人を鼓舞激励した。

 主席は、人民軍の近代化をチュチェの軍事思想と戦法に即してあくまで朝鮮の実情に合わせておこなうよう導いた。

 主席は、近代戦における砲兵の位置と役割の重要性を深く洞察し、1992年10月29日に開かれた朝鮮人民軍第2回砲兵大会で、砲兵と通信を近代化し、さらに発展させるための綱領的な課題を示した。同時に、人民軍全般の武力装備の機動力と打撃力を高めるための対策を講じた。

 主席は、人民軍の基層組織であり基本戦闘単位である中隊を強化することに深い関心を払った。

 主席は、1991年に朝鮮人民軍中隊長大会、中隊政治指導員大会、下士官長大会を、1992年には中隊社労青初級団体委員長大会を開くようにし、中隊の戦闘力を強化するうえで指針となる綱領的な教えを与えた。そして、指揮官の再教育と各種形態の講習を通じて中隊指揮官の水準と能力を一段と高め、上級単位の指揮官が日常的に中隊に出向いて戦闘力を強化する活動を積極的に支援するようにした。

 主席は国防力を鉄壁に打ちかためるため、全人民武装化と全国土の要塞化を高い水準で完成するよう導いた。

 1992年12月中旬に開かれた中央人民委員会・政務員合同会議で、全人民武装化、全国土の要塞化は全人民を動員して実行すべき課題であるとして、全人民を武装させ全国土を要塞化すれば、敵の侵攻があっても恐れることはないと強調した。そして多くの機会に、労農赤衛隊と赤の青年近衛隊の隊伍の強化とそれに対する指揮・管理の改善、民間武力の装備の改善と訓練の強化、防御工事の推進と軍事戦略上重要な地域の整備などの課題を示し、それを実現するための対策を講じた。

 主席は特に国防工業の発展に大きな意義を付与し、1993年12月の朝鮮労働党中央委員会第6期第21回総会をはじめ一連の会議で、国防工業を発展させて全国をハリネズミのように要塞化すれば、誰もあえて手出しすることはできないと指摘し、党の国防工業重視の方針を無条件に貫徹するようにした。

 主席は国防力を強化するため、軍民一致の伝統的美風を強く発揮するよう導いた。

 主席は、人民軍軍人が人民を限りなくいたわり愛し、人民の利益を尊重し、人民の生命・財産を保護し、社会主義建設に積極的に参加するようにした。

 人民軍軍人は、「祖国防衛も社会主義建設も我々が受け持とう!」というスローガンのもとに、金日成主席と金正日最高司令官の構想と意図を実現するため、社会主義建設の現場で祖国の歴史に末永く輝く不滅の偉勲を立てた。

 主席は、新しい世代と人民を主体的な戦争観点と祖国防衛の精神で武装させ、全人民が人民軍を肉親のようにいたわり愛し、積極的に支援するようにした。

 主席は、アメリカ帝国主義の狂気じみた核騒動を粉砕し、社会主義祖国を守るたたかいを導いた。

 アメリカ帝国主義が、朝鮮民主主義人民共和国を圧殺するためありもしない「核疑惑」なるものを持ち出し、「特別査察」やら「制裁」やら騒ぎ立てたことで、朝鮮半島情勢は極度の緊張状態に陥った。アメリカ帝国主義は1993年1月、中止していた「チーム・スピリット」合同軍事演習の再開を公表し、20余万の侵略兵力と膨大な核攻撃手段を動員し、さらには核兵器使用時の指揮システムまで発動して軍事的脅迫を加えてきた。このように、朝鮮にいつ戦争が起こるかわからない一触即発の危機がもたらされ、国の最高利益は甚だしく脅かされることになった。

 主席は、当面の情勢に対処して社会主義祖国の安全と自主権を守るため、1993年3月、全国に準戦時状態を宣布し、核拡散防止条約からの脱退を宣言する断固たる措置を取った。

 主席は、我々は米国と国際原子力機関の不当な仕打ちと圧力に対処して、民族の尊厳と国の自主権を守るための自衛的措置として全国に準戦時状態を宣布し、核拡散防止条約からの脱退を宣した、と述べた。

 アメリカ帝国主義は、急遽「チーム・スピリット93」合同軍事演習を中止し、「特別査察」騒ぎも放棄せざるを得なかった。

 しかし、彼らは狡猾にも朝鮮半島の核問題の「国際化」を謀り、「核問題」を国連に持ち込んで朝鮮に「集団的制裁」を加えようと企んだ。

 主席は、1993年4月の朝鮮民主主義人民共和国外交部声明を通じて、敵の核騒動を暴露、糾弾し、朝鮮における核問題を実際に解決できる最善の方法は、朝米会談を通じて平和的に解決することであり、朝鮮に対するいかなる「制裁」も「宣戦布告」とみなして強硬な自衛的措置を取るという断固たる立場を明らかにした。結果、アメリカ帝国主義は、会談に応じざるを得なかった。

 1993年6月にニューヨークで開かれた第1段階朝米会談では、朝鮮の主張と意図が十分に反映された朝米共同声明が史上初めて世界に発表され、次いで7月にジュネーブで開かれた第2段階朝米会談では、ニューヨーク共同声明で合意した原則を再確認し、共和国を圧殺しようとするアメリカ帝国主義と反動派の企図を挫折させた。

 ところが、アメリカ帝国主義は共同声明の合意事項に反して、国際原子力機関の査察を受け入れ、北南対話を再開しなくては次回の朝米会談は開催できないという不当な前提条件を出し、またもや国連を通じて朝鮮に「圧力」と「制裁」を加えようと策動した。

 主席は、アメリカ帝国主義の圧力騒ぎに超強硬な態度で断固として立ち向かうようにした。

 主席は、1994年1月の外交部スポークスマンの声明を通じて、米国が朝米会談をしないと言うなら我々もしようとはしないし、米国が他の方法を選ぶならば我々もそれに対応する方法を選択するであろうという断固たる立場を表明した。そして、同年6月の外交部スポークスマンの声明を通じて、国際原子力機関から即時脱退するという断固たる措置に出た。

 アメリカ帝国主義は、カーター元大統領を朝鮮に送り、朝米間の関係問題、核問題をめぐる膠着状態を打開しようとした。

 主席は1994年6月、平壌を訪れたカーター一行を接見し、真摯に話し合った。

 主席は初日、カーターに、米国は我が国の「核問題」を国連に持ち込んで我が国に制裁を加えると言っているが、我々は制裁を恐れはしない、これまで制裁を加えられながらも安泰であったのに、また制裁を受けるからといって生きていけないことはない、と述べた。翌日、カーターが、米国が北朝鮮に加えようとしていた制裁措置を取り消すことにしたと言うと、主席は制裁措置を取り消すことはありがたいが、我々は米国が取り消しても取り消さなくても構わない、あなたたちが我が国をいくらいじめても、我々は十分自活していける、と述べた。

 このように、主席は揺るぐことのない胆力をもって、核問題に関する朝米会談と北南最高位級会談の開催に有利な条件をもたらしたのである。

 米国は、国連安保理での朝鮮に対する「制裁」論議を正式に撤回し、1994年8月にジュネーブで開かれた第3段階朝米会談に出てきた。そして、1994年10月に開かれた朝米会談では、朝米基本合意文が採択され、クリントン大統領は、金正日国防委員長に、朝米基本合意文履行に関する保証メッセージを寄せた。

 金日成主席と金正日同志の鉄の信念と意志、比類ない胆力と知略、そして無敵必勝の軍力によって、極限に達していたアメリカ帝国主義の核騒動と孤立・圧殺策動は挫折し、朝鮮は反帝軍事戦線の強力な堡塁として浮上するようになった。





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