金 日 成

当面の社会主義経済建設の方向について
 朝鮮労働党中央委員会第6期第21回総会での結語
−1993年12月8日− 


 今回の党中央委員会総会では、第3次7か年計画の遂行状況を総括し、当面の社会主義経済建設の方向について討議しました。

 我が党の指導のもとに朝鮮人民は、かつてなく複雑な情勢と困難な環境のもとで第3次7か年計画を遂行するたたかいをくりひろげ、社会主義建設で大きな勝利を達成しました。我が党と人民が、帝国主義者と反動派の悪辣な反社会主義・反共和国策動を粉砕し、社会主義偉業を立派に固守したばかりでなく、いかなる状況にあっても自活できる社会主義の自立的民族経済の土台を強固に築きあげたことは誇るべき勝利といえます。

 第3次7か年計画期間に達成された勝利とすべての成果は、我が党の社会主義建設路線が極めて正当であったことを実証しています。

 我が党は、社会主義建設において思想的・政治的要塞を占領する闘争と物質的要塞を占領する闘争をともに力強く推進する路線を一貫して堅持しています。

 社会主義を建設するには、必ず2つの要塞、すなわち思想的・政治的要塞と物質的要塞を占領しなければなりません。2つの要塞のうち特に重要なのは、思想的・政治的要塞を占領することです。思想的・政治的要塞を占領しなくては、社会主義・共産主義社会を実現することができず、思想的・政治的要塞を占領する闘争を優先的に進めてこそ、物質的要塞も成功裏に占領することができます。

 ソ連と東欧諸国がアメリカ帝国主義の「平和的移行」戦略によって崩壊したのは、物質的要塞のみを占領しようとし、思想的・政治的要塞を占領する闘争をおろそかにしたところに主たる原因があります。

 ソ連は、第2次世界大戦でファシズム・ドイツを撃滅した強大国でした。ソ連がそのような強大国になったのは、スターリンの正しい指導があり、ソ連の党と人民が指導者のまわりに団結していたからです。

 スターリンは第2次世界大戦のとき、ドイツ軍がモスクワ付近にまで攻め込んだときにも、モスクワを離れず軍隊と人民を指導し、モスクワで10月社会主義革命勝利記念閲兵式まで挙行しました。スターリンは、戦争の困難な局面を収拾して反撃に転じ、敵にせん減的な打撃を加え、ソ連の歴史的勝利をもたらしました。この事実一つを見ても、スターリンは偉大な指導者であったといえます。

 スターリンの死後、フルシチョフは陰謀をめぐらして権力を掌握し、修正主義的政策を実施しました。かれは、「個人崇拝」に反対するという口実のもとにスターリンを中傷し、党を系統的に弱体化させ、党員と勤労者にたいする思想教育を投げだしてかれらの革命性を麻痺させました。フルシチョフ時代以後にもやはり、党の思想活動はおろそかにされました。そのため、人々のあいだには革命をつづけようとする意欲がなくなり、金と別荘、乗用車しか眼中にないブルジョア思想、修正主義思想がひろがり、社会に腐敗堕落した生活風潮がはびこるようになりました。人々を革命的に教育しなかったので、経済建設もスムーズにいくはずがありませんでした。ソ連では、党が思想的に変質し、党と国家の活動に主観主義、官僚主義が甚だしくあらわれたため、党は人民大衆から遊離して社会にたいする政治的指導を実現することができなくなり、結局は帝国主義者の反社会主義攻勢から社会主義を守り通すことができなくなりました。ソ連共産党が、党を強化し、党員と人民を思想的に武装させていたならば、党内に革命の裏切り者があらわれたとしても、ソ連があのように一朝にして崩壊するようなことはなかったはずです。

 私はこの7月、祖国解放戦争勝利40周年祝賀行事に参加するため訪朝したロシア連邦参戦老兵代表団に会いました。代表団の団長は解放後我が国に駐在した人で、ソ連英雄です。かれは、かつて私と親交が厚かったし、金正淑とも近しい間柄でした。そのとき、かれに懐中時計を記念品として贈り、写真も一緒に撮りました。このたび、かれはその写真を持ってきました。かれと久方ぶりに話し合いながら、これからあなたをどう呼んだらいいか、同志と呼ぶべきか、それとも閣下と呼ぶべきかと尋ねました。すると、かれは同志と呼んでもらいたいと言いました。同志と呼ぶには、あなたに党員証がなければならないではないかと言うと、自分はいまも党員証を保管していると言うのでした。それでかれに、1800万人もの共産党員がいながら、どうしてソ連を崩壊させたのかと問うと、ソ連共産党が思想教育をおこなわなかった結果だと答えました。

 東欧諸国が崩壊したのは、ソ連にたいする事大主義が甚だしかったからです。かつて、東欧諸国の人々は、ソ連が「A」といえば「A」と言い、「B」といえば「B」と唱和しました。以前の民主ドイツの人々にはソ連にたいする事大主義があまりにも甚だしかったので、モスクワが雨だといえばベルリンには雨が降らなくても傘をさして歩くというエピソードまで生まれました。東欧諸国の党はまた、官僚主義をふるい、党員と人民大衆にたいする思想教育をおこないませんでした。そのため、ソ連で社会主義が崩壊すると、これらの国でもあいついで社会主義が崩壊しました。

 ソ連と東欧諸国で社会主義が崩壊したあと、帝国主義者は我が国の社会主義を抹殺しようといっそう執拗に策動しています。しかし、帝国主義者の策動は実現されるはずがありません。

 我が党は社会主義建設において、思想的・政治的要塞と物質的要塞をともに占領するため、思想、技術、文化の3大革命を強力に展開してきました。レーニンは、ソビエト政権に電化をプラスすれば共産主義になるという定義を示しましたが、我々はそれをさらに発展させて、人民政権に3大革命をプラスすれば共産主義になるという定義を示しました。人民政権を強化し、その機能と役割をたえず高めながら、思想、技術、文化の3大革命を力強くおし進めるのは、我が党の堅持している社会主義建設の総路線です。

 我が党は、常に思想革命に大きな力をそそぎ、党員と勤労者の組織生活を強化することに深い関心を払ってきました。我が国では、すべての人が一定の政治組織に加わって組織生活をしています。少年は少年団組織で、青年は社労青組織で、労働者は職業同盟組織で、農民は農業勤労者同盟組織で、女性は女性同盟組織で、そして、党員は党組織で政治的組織生活をしています。我が党の思想革命方針に従い、社会の全構成員を革命化、労働者階級化し、共産主義化、チュチェ思想化する闘争が力強くくりひろげられた結果、全社会に「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という共産主義的生活気風がみなぎるようになりました。こんにち我が国では、全人民がチュチェ思想で武装し、我が党を限りなく信頼しており、領袖、党、大衆が一心団結しています。そのため万事がうまくいっています。

 先ごろ、我が党の発起によって全国共産主義的美風先駆者大会が開催されましたが、我が国を訪問したキューバの女性法律家は、大会のニュースを聞いて、参会者のあいだで発現された共産主義的美風は朝鮮でのみ見られることだと感嘆していました。

 我が党は社会主義建設において、自主、自立、自衛の革命的路線を終始一貫堅持してきました。

 我々はこれまで、セフ(コメコン)に加入せず自立的民族経済を発展させ、自主性を堅持してきました。以前フルシチョフは、他の社会主義国は全部セフに入っているのだから朝鮮も加入するようにと言いました。それで私は、東欧の社会主義諸国は経済発展の水準が高いが我が国はそうでない、あなたがたが大学生なら私たちは幼稚園児のようなものだ、だからセフに入ってあなたがたと競争することはできない、我々はセフに加入せず自力で社会主義を建設する、と言いました。フルシチョフはまた、バイカル湖付近に建設された水力発電所から電気を引いて使うようにと言いました。かれの言うとおり、その発電所から電気を引いてくるとすれば、ソ連のほうでいつ送電を中止するかわからないので、我々が損害をこうむることになります。それで私は、バイカル湖から我が国までは距離が遠すぎるので電気を引くのは困難だと、その提議を断りました。その後我々は、水力発電所をより多く建設しました。

 我々がセフに加入せず自立的民族経済を建設したのは、正当なことでした。もし我々がセフに加入し、自立的民族経済を建設しなかったならば、政治において自主性を堅持することができず、そうなれば東欧諸国のように崩壊してしまったでしょう。

 こんにち、我々が帝国主義者の侵略と戦争策動に断固として対抗できるのは、これまで、我が党の自衛路線に従って国防工業をたえず発展させてきたからです。我々が1960年代初に経済建設と国防建設の並進路線をうちだすと、ソ連はそれに言いがかりをつけて我が国への兵器の提供をしぶり、提供する場合にも古いものばかりでした。それで我々は、困難にたえて国防工業を発展させ、現代兵器を大量に生産して全軍の現代化を実現しました。

 政治における自主、経済における自立、国防における自衛の路線を堅持してきたので、帝国主義者のあらゆる孤立・封鎖策動と侵略策動をことごとく粉砕し、社会主義を固守し発展させることができました。

 帝国主義者の反共和国策動は依然としてつづいていますが、我々は微動だにしていません。いままでアメリカは、北からの「南侵の脅威」を防ぎ、南朝鮮を「保護」するためにアメリカ軍が駐留しているのだと言ってきました。しかし、北南高位級会談が開かれて「北南間の和解と不可侵および協力・交流にかんする合意書」が採択されると、アメリカは南朝鮮に居座る口実がなくなりました。南朝鮮の青年学生と人民は、アメリカ軍は南朝鮮から撤退せよという声を高めています。いまアメリカが核査察の問題を執拗にもちだしているのは、アメリカ軍が南朝鮮に駐屯しつづける口実をつくるためです。我々はすでに、核兵器をつくる意思も能力もないことを再三明らかにしました。アメリカは他国を侵略し支配するために核兵器を多く生産していますが、我々には民族の統一を実現する意思しかないので、核兵器をつくる必要がありません。アメリカはいま核査察の問題をもちだしていますが、我々が核査察を受ければ、その次は、「人権」だの、なんだのと、また新しい問題をもちだして我々に圧力をかけてくるでしょう。我が国にたいする帝国主義者の圧力は、我々が社会主義の旗をかかげて進むかぎりつづくでしょう。

 我々の革命的立場は、確固としており変わるものではありません。我々の立場は、アメリカが会談談を望めば会談に応じ、戦争をしかければ戦争でこたえるというものです。我々のこの立場は、先ごろ発表された人民武力部副部長の談話を通じても明らかに表明されています。戦争が起これば我が国の都市と村が多少破壊されるでしょうが、そうなれば敵も無事ですごすことはできないでしょう。戦争を恐れているのは我々ではなくて敵です。敵はあえて我々に挑戦できないでしょう。

 社会主義建設のための朝鮮人民のたたかいは新たな段階に入っており、我々は変化した国際的環境のもとで社会主義を建設しています。

 近年にいたり、我が国の対外貿易で圧倒的比重を占めていた社会主義市場が消失しました。旧ソ連と東欧諸国は資本主義が復活した後、アメリカの言いなりになり、我が国との貿易取り引きをほとんど中断しています。そのため、我が国の経済建設に切実に必要な物資をこれらの国から輸入できなくなり、我が国の製品をこれらの国に輸出することもできなくなりました。こうして、我々は経済建設で少なからぬ支障を受けています。石油にしても旧ソ連からの輸入がほとんど中断されて、勝利(スンリ)化学連合企業所を正常に稼働させることができないありさまです。以前は、社会主義市場でのマグネシア・クリンカーを我が国がほとんど独占して大量輸出しましたが、いまはその販路もふさがりました。東欧の一部の国は、社会主義時代には耐火物の原料であるマグネシア・クリンカーを我が国から大量に買い入れましたが、いまは溶鉱炉を正常に稼働させていないうえに、アメリカの圧力で、我が国のマグネシア・クリンカーを買おうとしません。

 社会主義市場がなくなった状況下で我々が経済建設を成功裏に進めるには、対外貿易の方向を転換しなければなりません。そうしてこそ、我が国の製品を輸出し、経済建設に切実に必要な物資を輸入することができます。

 しかし、資本主義諸国との貿易をいますぐ大々的におこなうのはむずかしそうです。我が国と貿易をする資本主義諸国にはアメリカから圧力がかかります。それで資本主義諸国は、アメリカの顔色をうかがいながら、我が国との貿易に積極的に乗り出さないのです。

 しかし新興諸国、第三世界諸国はアメリカの顔色をうかがいません。新興諸国、第三世界諸国は、重工業製品より軽工業製品を多く要求しています。我々が軽工業を発展させて良質の軽工業製品を大量に生産すれば、これらの国との貿易を十分発展させることができます。

 第三世界諸国との貿易を積極化すれば、我々に切実に必要な石油やコークス用炭、生ゴム、パーム油、塩などを買い入れることができます。パーム油では石けんをつくり、生ゴムではタイヤや靴を大量に生産し、塩では苛性ソーダの問題を解決することができます。そして、大豆を輸入すれば人民生活向上での多くの問題を解決することができます。

 対外貿易の方向を思いきって東南アジア諸国、中近東諸国、アフリカ諸国などの新興諸国、第三世界諸国に向けるべきです。特に、地理的に近い東南アジア市場に進出することが重要です。

 我々は、変化した環境と革命発展の要請に即して経済構造を改編し、今後数年間、経済建設において農業第一主義、軽工業第一主義、貿易第一主義を実現する方向に進まなければなりません。

 これまで我々は、重工業を優先的に発展させながら、同時に軽工業と農業を発展させる経済建設の基本路線を貫徹することによって、重工業の強固な土台を築くことができました。我が国の重工業の威力はたいへんなものです。我が国の電力と鋼鉄、窒素肥料、セメントの生産能力を他の国のそれと比較してみると、人口一人当たりの生産高において極めて高い水準にあることがわかります。

 人民大衆中心の我が国の社会主義は、アメリカ式の資本主義とは比べようもなくすぐれています。我が国には、アメリカのように物乞いをする浮浪者もいなければホームレスもおらず、麻薬常習者、強盗、失業者もいません。我が国を訪問する外国人は、人民が国の主人となって幸せに暮らしている朝鮮の社会主義がいちばんだと賛辞を惜しみません。

 これまでに築いた重工業の強固な土台にもとづいて農業第一主義、軽工業第一主義、貿易第一主義に進む戦略的方針を貫徹すれば、人民の食・衣・住の問題をいっそう円滑に解決することができます。そうなれば、朝鮮人民はいっそう豊かな生活が営めるようになり、帝国主義者がいくら我が国の社会主義を圧殺しようと策動しても、崩壊しません。

 なによりもまず、農業第一主義の方針を貫いて、農業生産を画期的に増大させなければなりません。

 我が国の耕地面積は限られていますが、農業を着実に営めば食糧問題を十分自力で解決することができます。

 社会主義農村テーゼに示された水利化、電化、機械化、化学化の4大技術革命の課題を遂行するならば、現在の耕地面積をもっても1000万トンの穀物生産は十分可能です。農村技術革命の4大課題を遂行するのは、さほどむずかしいことではありません。我が国では、農業の水利化、電化が完成されて久しく、機械化、化学化も高い水準で実現されつつあります。我々は、農業の水利化をより高い水準で完成するため、今年また、西海(ソヘ)閘門の水を甕津(オンジン)半島にまで引く水路工事をおこないました。いまは、黄海南道のすべての田畑に用水を十分に供給できるようになりました。用水の問題が解決されたので、肥料さえ供給すれば、ヘクタール当たりの穀物収量を著しく高めることができます。今年の黄海南道内の協同農場の営農状況を見ると、ヘクタール当たり窒素肥料600キロでは6トン、800キロでは8トン、1トンでは10トンの穀物が生産されました。窒素肥料の施肥量と穀物生産量の比は1対10ですから、肥料をほどこした分だけ穀物が生産されるわけです。来年度の営農に必要な肥料を国内生産でまかなう一方、外国からも多少輸入すべきです。

 現在、我が国の穀物作付け面積は約130万ヘクタールですが、ヘクタール当たりの収量を8トンとしても、1000万トン以上になり、うまくすればそれ以上になります。

 次に、軽工業第一主義の方針を貫徹して、一般消費物資の生産を大幅に増やすべきです。

 軽工業部門の工場を整備、補強して現代化し、軽工業原料の供給対策を綿密に立てて、すべての軽工業部門工場をフル稼働させるべきです。軽工業部門では、生産を高い水準で正常化するとともに、製品の質を高めるため積極的に努力しなければなりません。

 次に、貿易第一主義の方針を貫徹して、対外貿易に新たな転換をもたらすべきです。

 対外貿易では、信用を守ることが大切です。人民経済各部門では、輸出品生産基地を強固に築いて生産の増大をはかり、品質を向上させるべきです。

 貿易の方法を改善し、加工貿易を広範におこなうべきです。

 被服加工貿易をおこなうだけでも多くの外貨を獲得することができます。アジアのある国では、被服加工貿易で年に180億ドルを獲得しているとのことです。外国で加工貿易を活発におこなって多くの外貨を獲得しているのに、我々にそれができない理由はありません。我々が被服加工貿易を活発におこなって180億ドルほどの外貨を獲得すれば大したものです。

 活動家が経済外交を上手にすれば、耕地の多い国と農業分野での合弁や合作もできるでしょう。ある国では、耕地を約10万ヘクタールぐらい提供するから、潅漑を導入し耕作をして収穫物は持ち帰ってもいい、そのかわりに衣服を約20万着つくってくれるなり、その分の布地を提供してくれるなりしてほしいと言ったそうです。外国と交渉して耕地を手に入れ、大豆を栽培し、収穫量を半々に分け合っても利益になるはずです。

 石炭工業、電力工業、金属工業、鉄道運輸の発展にもひきつづき深い関心を払うべきです。

 石炭工業、電力工業、金属工業、鉄道運輸を発展させなくては、農業と軽工業を発展させることも、国の全般的経済建設を促進することもできません。

 国の電力不足を解消するには、火力発電所に力を入れなければなりません。今年の降雨量が少なかったので、来年は水力発電所で能力どおりの電力を生産するのは無理でしょう。したがって、火力発電所に石炭を十分に供給してフル稼働させなければなりません。石炭工業部門に力を集中して、火力発電所のフル稼働に必要な石炭を円滑に生産できるようにしなければなりません。いま炭鉱に溝形鋼が十分に供給されないそうですが、黄海製鉄連合企業所に生産させる措置を講ずるべきです。

 電力問題を決定的に解決するためには、発電能力をさらに造成しなければなりません。原子力発電所を建設すれば電力不足は簡単に解消できるでしょうが、そのためには少なくとも6年ないし10年はかかります。それまで電力問題を解決せずに待つわけにはいきません。我々は金剛山発電所をはじめ、現在進行中の発電所建設を速やかに完工し、国の電力不足を解消すべきです。

 鉄道の重量化を実現すべきです。そうしてこそ、輸送のネックを解消することができます。鉄道の重量化に必要な重レールと100トン積み貨車、8軸電気機関車を多く生産すべきです。

 国防工業の発展にもひきつづき力をそそぐべきです。

 大きくもない我が国が、自力で国防工業を発展させているので負担が重くならざるをえません。現在の軍需工場をすべて軽工業部門の工場に切り換え、国防建設に振り向ける資金と資材を人民生活の向上に振り向けるならば、朝鮮人民はいまよりはるかに豊かな暮らしをすることができるでしょう。しかし、我々が豊かな生活を望んで国防工業をおろそかにするならば、帝国主義者の餌食にされかねません。我々は、多少不便な思いをし、はでやかな服は着られなくても、ひきつづき国防工業を発展させなければなりません。国防工業を発展させて全国をハリネズミのように要塞化すれば、なんぴともあえて我々を侵すことができないでしょう。政務院と関係部門は、国防工業の発展のために党が示した方針を貫徹すべきです。

 党の革命的経済戦略を実現するためには、すべての活動家が自力更生の革命精神を発揮しなければなりません。

 革命家は、自分の力を信じ、自分の力にもとづいて革命を進めることを考えなければなりません。私はこれまで革命の過程で難局に直面するたびに、常に自力更生、刻苦奮闘の革命精神を発揮してそれを克服してきました。

 抗日革命闘争の時期、私は難局を数多く乗り越えました。そのなかでも最も苦しかったのは、1936年2月、南湖頭会議を終えて白頭山地区へ進出するときでした。当時私は、北満州遠征に参加した東満州の遊撃隊員を北満州の部隊に残し、迷魂陣で琿春青年義勇軍の1個小隊まで魏拯民に譲ったため、20名足らずの警護隊員を率いて白頭山地区に進出しました。撫松地区に行けば、そこの第2連隊を母体にして新しい師団を編成できると考えてそうしたのです。ところが、撫松地区の状況はひどいものでした。頼みとしていた第2連隊は蛟河方面へ遠征し、そこには100人余りの「民生団」容疑者がいるだけでした。かれらには、まともを銃もなく、銃弾もありませんでした。

 私は、「民生団」容疑者を大胆に信頼し、かれらで新しい部隊を編成することを決心しました。私がそう決心したのは、かれらがみな「民生団」でないと確信できたし、またコミンテルンも「民生団」問題にかんする我々の立場を支持していたからでした。私は、「民生団」容疑者を全員集め、かれらの面前で「民生団」の調書を焼却しました。そのときのことは、社会安全部長も覚えているはずです。私は「民生団」の調書に火をつけてから、かれらに、私はきみたちを信じて「民生団」の嫌疑を白紙にする、きみたちが「民生団」なら、日本人に投降せずに我々に従いながら苦労する必要がないではないか、いまからここには「民生団」が一人もいないことを宣言する、「民生団」の濡れ衣を着せられた者はもとから「民生団」でなかったのだから何も悩むことはない、もしきみたちのなかに「民生団」に入った者がいるなら、この瞬間から再出発すればいいのだ、と話しました。するとかれらは、信じてもらえたことがあまりにもうれしくて、互いに抱き合い声を上げて泣きました。私はかれらに、これから敵と戦わねばならないのだが、銃と銃弾がなくてはどうしようもない、きみたちが10〜15名ずつグループを組んで敵地に行って日本軍の銃と銃弾を奪い取ってこい、しかし撫松県では戦闘をしてはいけない、と言いました。我々は当時、撫松県の満州国軍とは戦わないことを約束していました。かれらはみんな敵地に行って日本軍を襲い、銃も新しいものに取り替え、銃弾も数百発ずつ持ち帰ってきました。こうして我々は、撫松で「民生団」容疑者を母体として新しい師団を編成することができました。

 以前の車廠子遊撃区の人民と馬鞍山の児童団員に会ってみると、飢えと寒さに苦しむかれらの姿も私の心を悩ませました。それで、ぼろをまとった児童団員に服をつくって着せました。そのとき私には、母がくれた20元の金がありました。私はその金を子供たちのために使うことを決心し、金山虎(キムサンホ)に撫松市内へ行って布地を買ってくるようにと指示しました。金山虎は五家子で地主の下男をしていた人でした。地主の家で下男をしていたとき、押し切りで左手の親指を切り落として苦労していたのを私が連れてきて治療しました。かれは私のそばを離れず遊撃隊に入りましたが、そのころは連隊政治委員を務めていました。私は金山虎も北満州に残して発とうとしたのですが、崔春国(チェチュングク)がかれに、若い隊員ばかり率いて出発した金日成将軍には護衛する人がいない、きみだけでもついて行ってくれ、と言ったので我々のところに来ていました。金山虎が20元で買ってきた布地では子供たち全員の服をつくることができませんでした。それで、金山虎を再び撫松市内に送り、張蔚華に会ってこさせました。張蔚華は、五家子で教員を務めたことがあるので金山虎とは知り合いでした。金山虎から私の手紙を受け取った張蔚華は、多量の布地を買って送ってくれました。我々はその布地で、子供たちと「民生団」の嫌疑がかかっていた隊員たちに服をつくって着せました。「天が崩れ落ちてもはいでる穴はある」というのは、おそらくこういう場合をいう言葉なのでしょう。

 私は新しい師団を編成したあと、白頭山地区へ進出する道々で祖国光復会10大綱領を作成し、1936年5月、東崗会議で祖国光復会を創立しました。

 私は解放後も、困難に直面するたびに、抗日武装闘争期の白頭山地区へ進出するときの日々を思い起こし、強靭な意志をもち自力更生の革命精神で克服したものです。

 戦後我が国の情勢は複雑をきわめ、我々の状況は非常に困難でした。我々には資金も不足し、労働力と設備、資材も足りませんでした。そのうえ、アメリカ帝国主義者と李承晩かいらい一味は、再び「北進」を高唱していました。党内に潜んでいた反党分派分子も、国に難関がつくりだされたすきに乗じて大国を後ろだてにして党に挑戦してきました。当時、大国の党は反党分派分子の処理問題に公然と干渉し、我々に圧力をかけてきました。しかし、我が党はそれに屈せず、自主性の原則に立って断固たる立場をとりました。

 当時我々には、朝鮮人民しか頼るものがありませんでした。私は、人民を信じ、その力に依拠して難局を打開することを決心し、1956年12月総会直後、降仙(カンソン)製鋼所へ行きました。そこの責任幹部に鋼材を9万トン生産できないだろうかと尋ねると、分塊圧延機の生産能力が6万トンなので困難だと答えるのでした。その日、支配人の家で昼食をとり、少し休もうと横になりましたが、なかなか眠れませんでした。なんとしても鋼材を増産しなければならないのに、製鋼所の責任幹部は不可能だと言うので、労働者に直接呼びかけるしかありませんでした。それで労働者を一か所に集めました。当時は労働者の集会場一つまともなものがなかったので、倉庫にしようと建てた建物にドラム缶を持ち込んで火をたき、労働者を集めて演説しました。私は労働者に国の状況と党中央委員会総会の決定を説明したのち、いま建設もさらにおこない、国防力も強化するには鋼材が要求される、みなさんが党を信頼するならば、潜在力を引き出して計画より1万トンの鋼材を増産してほしい、と呼びかけました。私の演説を聞いた労働者たちは総立ちになって万歳を叫び、党の要求であるなら鋼材を9万トン生産すると決意しました。降仙の労働者は、党の呼びかけにこたえてこぞって立ち上がり、自分の力と技術で分塊圧延機を改造し、9万トンどころか12万トンの鋼材を生産する奇跡を生みました。我々は、降仙製鋼所の労働者が生産した鋼材で国防工業も、機械工業も発展させることができました。

 以前、楽元の10人の党員も、自力更生の革命精神を高く発揮して、いつも党から与えられた課題を立派に遂行しました。岐陽(キヤン)の二段揚水場を見た人は知っているはずですが、そこに設置されている大型揚水機は、戦時中、小さな溶銑炉を設置して手榴弾を作っていた楽元の10人の党員が製作したものです。当時までは大型揚水機といえば外国から取り寄せて金星(クムソン)揚水場に設置したものしかありませんでした。私は大型揚水機を国内で製作することを決心し、金星揚水場の大型揚水機を見てつくるよう、楽元の労働者たちに課題を与えました。かれらは、すべてが不足する困難な状況のもとでも、自力更生の革命精神を発揮して、ついに大型揚水機をつくりだしました。

 幹部が降仙の労働者や楽元の10人の党員のように自力更生の革命精神、チョンリマ (千里馬)の精神をもって働くならば、不可能なことはないはずです。ところが、幹部のなかには、あのときのあのような革命精神で働く人が多くありません。いまは立派な製鋼工場をもっていながら鋼材生産を増やせず、多くの炭鉱をもっていなから石炭問題を解決していません。コークスが不足すれば他の燃料を利用してでも鉄を多く生産して鋼材生産を増やすべきですが、そうしていません。幹部に自力更生の精神と革命性が欠けています。

 石油探査の問題にしてもそういえます。幹部が、自力更生、刻苦奮闘の革命精神を発揮して自力で石油の探査を積極的に進めたならば、ずっと前に石油を産出できたはずです。ところが幹部がそうしなかったため、石油の探査を始めて長くなりますが、いまだに産出できずにいます。

 関係部門では、我が国に石油がたくさん埋蔵されていることを知っていながら、探査を自力で進めることは考えず、外国の援助を当てにしていますが、それは間違っています。我が国の社会主義を圧殺しようとするアメリカは言うまでもなく、他の国も我が国を援助してくれるはずはありません。たとえ、援助しようとする国があっても、アメリカ帝国主義者が妨害するのでできないでしょう。幹部は、石油探査を外国に依存しようとせず、自力で進めることを考えるべきです。

 我々が自力で石油を探査すれば、いくらでも石油を産出することができます。外国でも自力で石油を探査し産出しているのに、我が国だからといってそれができない理由はありません。幹部は自信をもって、自力で石油を探査するため大いに努力すべきです。

 石油を探査するには、物理探査船を建造しなければなりません。先ごろ、石油工業部門の責任幹部協議会を開いて石油探査事業を調べたところ、物理探査船は建造しているが、弱電設備がそろわなくて完成されていないと言っていました。弱電設備の購入に必要な外貨がなければ私にでも報告すべきでしたが、そうしませんでした。必要な外貨を提供するよう指示しましたから、弱電設備を取り寄せて早く物理探査船を完成させるべきです。

 いま一度強調しますが、農業と軽工業、対外貿易を積極的に発展させること、これが当面の社会主義経済建設の方向であり、その実現方途は自力更生であります。

 私は、すべての党員と勤労者が今回の総会の決定に従い、自力更生、刻苦奮闘の革命精神を発揮し、チョンリマに「90年代の速度」をプラスした勢いで力強くたたかうことによって、社会主義経済建設に革命的転換をもたらすものと確信します。

出典:『金日成著作集』44巻


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