『金日成主席革命活動史』

第6節 朝鮮民主主義人民共和国の創建。
国の政治的・経済的・軍事的威力を強化


 金日成主席は、祖国統一のたたかいをおし進めるとともに、全朝鮮的な統一的中央政府である朝鮮民主主義人民共和国の創建に力を注いだ。

 朝鮮民主主義人民共和国の創建は、朝鮮革命の合法則的な要請であった。共和国を創建してこそ、全朝鮮人民が国家と社会の真の主人となって、その志向と要求を全面的に実現することができ、革命と建設を強力に進めることもできるのであった。

 また、共和国政府を合法的な中央政府として創建してはじめて、アメリカ帝国主義者によってつくられた南朝鮮かいらい政権の反動的本質を徹底して暴露し、共和国の旗のもとに全朝鮮人民を結集し、国際革命勢力との連帯を強めて祖国の自主的統一のたたかいを積極的に進めることができるのであった。

 解放後、党の政治路線を実行する過程で人民政権が樹立され、その政治的基盤と国の経済土台がかためられた結果、統一的中央政府の樹立に有利な環境と基礎がつくられた。

 朝鮮革命の成熟した要請と当面した情勢を正しくとらえた主席は、1948年後半期に入って、統一的な中央政府である朝鮮民主主義人民共和国の創建に大きな力を傾けた。

 主席は、同年2月からはじまった共和国憲法草案の全人民的討議を総括し、ついで7月北朝鮮人民会議第5回会議で『朝鮮民主主義人民共和国憲法の施行について』と題する報告をおこなって、共和国憲法の性格と優位性を全面的に解明したのち、統一的な民主主義独立国家建設の課題を明らかにした。これにもとづいて、会議では全朝鮮的な立法機関である最高人民会議代議員選挙の実施にかんする決議が採択された。

 主席は会議後、全朝鮮人民を南北総選挙のたたかいに呼び起こした。

 8月には南北朝鮮労働党連合中央委員会を組織し、北と南の革命勢力にたいする統一的な指導を強め選挙の勝利へと奮い立たせた。

 主席は、平安南道の江東郡と大同郡、そして平壌市の各選挙区を回って具体的な指導をおこなう一方、アメリカ帝国主義のファッショ的弾圧下における南朝鮮での選挙を成功させる諸対策を講じた。

 そして、民主的選挙が合法的に実施される北朝鮮とは異なり、南朝鮮では地下で有権者の署名を集める方法によって人民代表を選出し、かれらが北半部地域に集まって最高人民会議代議員を選挙するようにした。

 こうして1948年8月、南北朝鮮総選挙は成功裏に実施され、翌9月平壌で、朝鮮民主主義人民共和国最高人民会議第1回会議が開かれた。

 最高人民会議では、朝鮮民主主義人民共和国憲法の採択につづいて中央政府を構成し、全朝鮮人民の一致した念願をくんで金日成主席を共和国内閣首相に選出した。

 主席は9月9日、朝鮮民主主義人民共和国の創建を内外に宣布し、『朝鮮民主主義人民共和国政府の政綱』を発表した。政綱では、共和国政府が祖国の統一と自主独立国家建設のために対内外政策で自主性を堅持し、自立的民族経済と民族文化を建設し、自衛的な国防力を強化する課題が示された。この政綱は、共和国政府の行動綱領、全人民が革命と建設で堅持すべき指導指針となった。

 主席によって新たに創建された朝鮮民主主義人民共和国は、全朝鮮人民の総意にもとづく唯一の合法的国家であり、朝鮮の労働者階級と勤労人民大衆の利益を代表し、かれらの自主性を擁護する人民の政権であって、その創建は、朝鮮人民の革命闘争にとって画期的な意義がある歴史的な出来事であった。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「朝鮮民主主義人民共和国政府の樹立は、自主独立国家の建設をめざす朝鮮民族の闘争史に輝かしい新しい章を飾りました。朝鮮人民は、これより自己の政府をもつ堂々たる民族として常に政府の擁護を受け、朝鮮民主主義人民共和国の公民としての威信と権利、そして栄誉を享有することになるでしょう。(略)

 朝鮮民主主義人民共和国の創建と中央政府の樹立は、祖国の統一と自由、独立をめざす南北朝鮮人民の団結したたたかいの結実であり、朝鮮人民がおさめた偉大な歴史的勝利であります」(『共和国政府のまわりにかたく団結し、民主朝鮮の建設めざしてともに前進しよう』1948年9月12日)

 朝鮮民主主義人民共和国の創建は、自主的人民の新たな出現、チュチェ朝鮮の誕生を意味した。

 共和国の創建によって、朝鮮人民は自己の運命を手中におさめて新しい生活をきずく自主独立国家の有力な人民となり、チュチェの旗を高くかかげ世界の大小国家に伍して、堂々と国際舞台に登場することになった。主席が切り開いたチュチェの革命偉業を実現するための強力な武器を手にした朝鮮人民は、全国的に反革命勢力にたいする革命勢力の優位を確保し、社会主義・共産主義建設と祖国統一のたたかいを強くおし進めていけるようになった。共和国の創建はまた、世界の社会主義勢力を強化し、民族的独立と新社会建設を志す世界の革命的人民を励まし、国際革命勢力と朝鮮人民の連帯を深めた。

 主席は共和国創建後、その政治的・経済的・軍事的威力の全面的強化に取り組んだ。

 まず北半部の革命基地を政治的に強化するため、朝鮮革命の政治的参謀部である党の強化に深い関心を払った。

 主席は1949年2月、党中央委員会第5回会議を開き、第2回党大会以後9か月間の下級党組織の活動を総括した。そして、その結語『党組織の活動を改善することについて』で党の組織活動、思想教育活動、経済建設にたいする党の指導を強化する課題を示した。

 会議後、主席の指導によって党勢拡大と細胞の強化活動とならんで、思想教育活動が形式主義を克服して積極的に進められた。同時に、地域・生産単位別に党の組織体系が再整備され、国家・経済・文化機関や大衆団体が党の指導と統制のもとに活動する制度が確立していった。

 主席はまた、平安南道順川(スンチョン)郡舎人(サイン)面三和(サホワ)里と徳山(トクサン)里の党細胞など多くの下級党組織を訪ねて、党活動を改善するための綿密な指導をおこなった。

 こうして、党の組織活動と思想教育活動は著しく改善され、党は組織的、思想的に強化され、戦闘的機能と指導的役割を高めた。

 主席は、人民政権機関の強化にも力を入れた。1949年3月、地方主権機関の選挙を通じて各級政権機関の組織体系を全般的に整備するとともに、堅実で有能な活動家で政権機関を強化し、その活動水準と実務能力を高める多くの措置を講じた。その結果、各級人民政権機関は短時日で強化され、その機能と役割が強まった。

 主席は共和国の経済力の強化に力を入れ、1949年からは2か年人民経済計画を立てその遂行へと全党、全人民を導いた。

 主席は、最高人民会議第2回会議でおこなった演説『2か年人民経済計画の遂行は、祖国統一の物質的保障』その他の著作で、2か年計画の中心課題と遂行方途を明らかにした。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「2か年人民経済計画の中心課題は、日本帝国主義支配の後遺症である経済の植民地的跛行性をなくし、工業と農業の技術的改造をおこない、生産の高いテンポを保ち、自立的民族経済の土台をきずくことであります」(『党組織の活動を改善することについて』1949年2月13日)

 2か年計画では、まだ復旧されていない工場の復旧を完了し、設備の利用度を最大限に高めて解放前の工業水準を突破し、植民地的跛行性を克服することを予定していた。主席は、2か年計画の完遂をめざして経済建設にたいする党の指導の強化をはかり、すべての党組織が党の経済政策と経済課題の重要性を全勤労者に認識させてその創意を十分に発揮するようにし、また2か年計画の遂行を敵の破壊・謀略策動を粉砕するたたかいと結びつけて指導するようにした。

 また、現実の変化に即して行政経済活動を改善することに深い注意を払い、1949年11月の産業部門経済および職業同盟活動者大会、翌年初めに開かれた農林・水産部門幹部連席会議、交通省管下従業員および交通労働者職業同盟活動者連席会議で幹部の活動作風と指導方法を改善し、活動水準を高める方途を示した。

 特に、産業部門幹部の活動作風と活動方法の改善に努力が払われた結果、労働力の自然流入を待ったり、労働力を定着させずに流動させる傾向が是正され、新しい環境に応じて労働力を組織的に確保し、勤労者の労働条件と生活条件を改善して労働力の流動を防げるようになった。そして、企業管理に主人らしい態度でのぞみ、生産にたいする責任感を強め、国家財産を愛護する気風が確立していった。

 主席は多忙ななかにも、平壌紡織工場、鉄山(チョルサン)鉱山、黄海製鉄所など全国各地の工場、企業所や平安南道の大同郡、江西郡、江原道文川郡の各農村を現地指導して計画完遂の方途を示し、行き詰まっている問題があればその解決策を講じた。

 主席の細心の指導に励まされた全国の勤労者は、計画のくりあげ完遂に取り組み、その結果、2か年計画の工業生産目標は、1950年上半期までにあらかた達成されて解放前の水準をはるかに上回り、植民地的跛行性が著しく克服され、工業総生産額中、国営部門の比率が90%以上に達した。農業部門でも解放前の最高水準を突破する穀物収量をあげ、農業の物質的・技術的基盤が強化された。また、個人経営の社会主義的改造の準備も都市と農村で急速にはかどった。文化建設分野でも、15校の大学と各種の幹部養成機関が新設され、1950年上半期には全般的初等義務教育制の準備がいちおう完成するなど、大きな成果がおさめられた。

 主席は、さらに国防力の強化に力を傾けた。

 共和国の成立後アメリカ帝国主義侵略者は、北半部にたいする戦争準備を本格化し、かいらい軍を増強し軍備を拡張するかたわら、38度線全域で連日、軍事挑発行為を強行した。

 こうした情勢に備えて、主席は人民軍を強化する措置を講じた。

 まず、すべての軍人が一等級以上の職務を担当しうるよう軍事・政治訓練が強化され、各軍種・兵種の部隊と歩兵連合部隊が編成され、人民軍の威力は強化された。そして、1949年7月には、文化担当副中隊長制が実施され、各部隊文化部の役割が高まった。

 主席は各部隊を訪ねて、具体的な指導をおこない戦闘力の強化をはかった。こうして、人民軍は戦闘力を急速に高め、不敗の革命武力に成長した。

 主席は、国防工業を発展させ、全人民的な国防態勢をととのえることにも力を注いだ。経済状態が困難な状況のもとでも、兵器や軍事技術機材を自力で生産する条件づくりに努める一方、工場、企業所、農村に人民自衛隊などの民間軍事組織をつくり、1949年7月には祖国防衛後援会を結成して全人民を国防事業に参加させた。

 主席は、北半部革命基地の強化とならんで、南半部の革命勢力を収拾・整備する活動にも大きな関心を払った。

 南朝鮮革命は朝鮮革命の重要な構成部分であり、それを急速に発展させてこそ、祖国の統一と革命の全国的勝利を早めることができるのであった。しかし、南朝鮮の革命運動は一時的に衰退期に入った。

 当時、アメリカ帝国主義者は南朝鮮かいらい一味を操り、『国家保安法』をはじめ、さまざまなファッショ的悪法をつくって民主的諸政党、大衆団体の活動を禁じ、人民の救国闘争を厳しく弾圧した。

 一方、革命勢力を内部から切り崩そうと画策した朴憲永一味は、党勢拡大を名目に5倍加10倍加運動を展開し、党を内部から系統的に破壊した。かれらは1949年6月、アメリカ帝国主義とその手先が「保導連盟」をつくって南朝鮮党組織の全面的破壊に乗りだしたときも、なんらの対策も講じなかった。かれらが組織した無謀な大衆闘争と冒険的な暴動によって革命組織が露呈し、無数の愛国者が殺害されたが、特に麗水(リョス)をはじめ、各地の軍人暴動のさいは、かいらい軍内の革命勢力まで壊滅に瀕した。こうして、南朝鮮の党組織と革命勢力は、全面的な破壊状態に陥った。

 主席は、南朝鮮の革命勢力を収拾し整備するために、1949年6月、南北朝鮮労働党中央委員会連合総会を開き、北と南の労働党を単一の朝鮮労働党に合同する措置を講じた。これは、南朝鮮で党が全面的に破壊されその合法活動の可能性が抹殺された状況のもとで、南朝鮮の党活動を収拾し、両党にたいする主席の唯一的指導を強める主導的な措置であった。

 主席はまた、北と南のすべての愛国的民主勢力をより広く結集する目的で、同月、72の民主的政党、大衆団体が参加する祖国統一民主主義戦線を結成した。これには、祖国の自主的統一を願う南朝鮮の多くの中間および一部右翼系の政党、大衆団体まで加わり、南朝鮮の各階層人民を一つの強力な勢力に結集することが可能になった。こうして、アメリカ帝国主義者とかいらい一味は、人民からますます孤立し、破滅の危機に瀕していた南朝鮮の革命勢力はしだいに立ち直っていった。労働者をはじめ広範な階層の人民が、アメリカ帝国主義とかいらい一味に反対して再び大衆的抗争に決起した。

 人民大衆のもりあがる闘争にかいらい軍内の矛盾が激化し、多くの兵士や下級将校が義挙して北半部に入り、あるいは、かいらい軍から脱走した。

 主席の指導によって共和国の威力は比類なく高まり、南朝鮮人民の革命闘争は新たなもりあがりを見せ、朝鮮革命は力強く前進するようになった。





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