金 正 日

白頭の革命伝統を継承して、金日成同志が切り開いた
革命偉業をあくまで達成しよう
朝鮮労働党中央委員会の幹部への談話 
1968年10月3日 

 両江道には、金日成同志の不滅の革命業績が秘められている革命戦跡と革命史跡がたくさんあります。

 このたび地図を携行して革命戦跡と革命史跡を記してみたのですが、わが国には、白頭山をはじめ、どこにも革命戦跡と革命史跡があります。万景台、烽火里、白頭山、三池淵、青峰、普天堡、葡坪をはじめ、至る所に金日成同志の偉大な足跡が記されており、革命烈士たちの熱い息吹きが感じられます。

 今回、また、白頭山に登ってみたのですが、実に雄大で美しい眺めでした。白頭山は、見れば見るほど荘厳です。白頭山が変幻自在の妙術を使っているかのようです。白頭山は、名山の中の名山です。

 金剛山や妙香山へ行くと祖国の美しさが思われますが、白頭山に登ると革命のことが思われます。白頭山に登るといつも力が沸いてきます。昔から朝鮮人民の祖宗の山と呼ばれてきた白頭山は、金日成同志が抗日武装闘争を展開した時から革命の聖山となりました。白頭山は、朝鮮人民の不屈の気概を象徴しています。天池の青い水に映った白頭の頂は、英知に富む朝鮮人民の気概と朝鮮革命の栄光に満ちた歴史を示しているかのようでした。この世にいくらすぐれた画家がいても、白頭山の荘厳さと崇高な姿をそのまま描き出すことはできないでしょう。

 朝鮮革命の深くて強い根が張っている白頭山に登ると万感胸に迫るものがありました。

 白頭の頂から遠く中国東北地方の広野を望むと、白頭山で風餐露宿の辛苦にたえながら強盗日本帝国主義と戦った金日成同志のことが思われました。白頭山には、金日成同志の栄光に満ちた抗日革命闘争史がそのまま記されています。若少の身で朝鮮の独立を遂げるまでは再び帰るまいと固く誓って鴨緑江を渡った金日成同志は、早くも10代にして朝鮮独立のために打倒帝国主義同盟を結成し、20歳になってまもない1932年には反日人民遊撃隊を組織し、苦難に満ちた抗日武装闘争を勝利に導いて祖国解放の歴史的偉業をなし遂げました。白頭山のどの山、どの谷にも金日成同志の偉大な足跡が記されています。はるかに白頭の山並みを見やると、寒風吹きすさぶ白頭の吹雪をついて日本帝国主義侵略者を打ち破る金日成同志と抗日遊撃隊員の姿が目に浮かび、耳を澄ますと、金日成同志が上げた敵撃滅の銃声と抗日遊撃隊員の勝ちどきが聞こえてくるようでした。朝鮮革命は、白頭で切り開かれたのであり、白頭山は金日成同志の抗日武装闘争史と不可分の関係にあります。まさに、白頭山は、金日成同志の白頭山です。

 白頭の頂から延々と連なる山並みを見渡すと、馬鞍山密営で草の根を掘ったという母のことが思われ、幼い時に私のふるさとはどこかと聞くと、白頭山だと言って私の幼年時代について話してくれた母の姿がありありと浮かんできました。あの時、母は、やさしくお前のふるさとは白頭山だ、人々はお前のお父さんが白頭山で日本帝国主義を打ち破って朝鮮を解放したと言って、白頭山を朝鮮の魂が宿り、革命がその根をおろしている聖山だと呼んでいる、お前はその革命の聖山−−白頭山で生まれたのだ、早く大きくなってお父さんの高い志を受け継ぎ、白頭山の精神を守って朝鮮を全世界に輝かせる将軍にならなければならないと、終生忘れられない話をしてくれました。そのためか、密林を通り抜けて白頭山を見やりながら歩いていると、ふるさとの家の門をあけて庭に足を踏み入れたような気がしました。

 白頭山に登ると、私を育てるために真心を尽くしてくれた母のことが思われてなりません。ふるさとの家でやさしく私の名を呼びながら歩き方を教えてくれた母の声が聞こえてくるようで、庭で私の手をとって雪道を歩いていた母の姿が浮かんできます。母は、実に情愛の深い人でした。本当に、母は私を育てるために真心を尽くしてくれました。それで、私は母のことが忘れられず、この世で一番大切で意義深い所は白頭山だと思ったのです。

 私は、白頭山に登って祖国の山河を見渡すたびに厳かな気持ちになります。今回、私は白頭山に登り、いかなる荒波が押し寄せ嵐が吹き荒れても、わが党の光輝ある革命伝統を固守して輝かせ、チュチェの血統を受け継いで白頭山で始まった我々の革命偉業をあくまで達成する決心を固めました。

 朝鮮革命の道は、まだ遠く険しいのです。我々がこの道を最後まで歩んでいこうとするなら、白頭の革命伝統で武装しなければなりません。白頭の革命伝統は、世代と世代をつなぐ革命の命脈であり、我々の今日と明日を力強く推し進める力の源です。白頭の革命伝統は、歴史に類をみない苦難と試練のなかで創造されたがゆえに、このうえなく偉大で、永遠の生命力を持ち、不滅なのです。抗日革命闘士たちは、厳しい試練のなかでも白頭の精神をもって戦ったので、万難を排して祖国を解放することができました。抗日革命闘争に参加した闘士たちの髪にも白い物がまじるようになりました。これからは、金日成同志が切り開いた革命偉業を我々が受け継いでいかなければなりません。我々は、白頭の革命伝統を継承して、金日成同志が切り開いた革命偉業をあくまでなし遂げなければならず、この聖なる道に生涯をささげなければなりません。

 白頭山の管理に力を入れるべきです。日に数百人の踏査者が訪れるのですから、管理を怠れば白頭山の美しい風致は言うまでもなく、由緒ある革命史跡としての景趣も害することになります。白頭山は金剛山よりも丹念に管理しなければなりません。踏査者が、白頭山に登って紙くずなどを所かまわず捨てることのないようにし、車道の周辺もよく整備すべきです。

 現地でも話したことですが、革命戦跡と革命史跡の整備を強力に推進すべきです。金日成同志の輝かしい革命業績が秘められている革命戦跡と革命史跡は、千金にもかえることのできない我々の貴重な革命の財産です。革命戦跡と革命史跡をよく整備することは、金日成同志が築いたわが党の光輝ある革命伝統を固守し継承していくうえで非常に重要な意義を持ちます。革命戦跡と革命史跡をよく整備し、党員と勤労者に革命伝統教育を着実におこなってこそ、彼らが、金日成同志の偉大さと指導の賢明さ、高邁な徳性をより深く知って忠誠を尽くすことができるのであり、抗日革命闘士たちの忠誠心、不撓不屈の革命精神を大いに学んで活動と生活に具現できるのです。金日成同志の偉大な足跡が記されている革命戦跡と革命史跡をよく整備すれば、全国が革命伝統教育の学校となるでしょう。

 かつて、反党反革命分子は、あたかも両江道の事業に関心があるかのように、そこに足繁く通いましたが、革命戦跡と革命史跡を整備することには何ら関心を払いませんでした。私は、今回、両江道内の革命戦跡を見て回り、わが党の革命伝統を骨抜きにし抹殺しようとした反党反革命分子の罪業をより痛切に感じました。反党反革命分子の悪影響を一掃するという意味でも、革命戦跡と革命史跡の整備を強力に推進しなければなりません。

 党中央委員会第4期第15回総会で、わが党の革命伝統を骨抜きにし抹殺しようとした反党反革命分子の策動を暴露、粉砕し、わが党の革命伝統の純潔性を保障し、それを立派に継承し発展させることを重要な問題として討議したにもかかわらず、それから1年経ったこんにちに至っても両江道内の革命戦跡と革命史跡の整備を怠っています。反党反革命分子が、意識的に革命戦跡と革命史跡を整備しなかったことも憤慨に堪えないというのに、彼らが一掃されたこんにちに至っても、その整備をおろそかにしていることはとうてい許せません。

 今回、両江道一帯を見て回って、革命戦跡と革命史跡を大々的に整備しようと決心しました。これから革命戦跡と革命史跡の整備は、私が直接見ることにします。

 我々は、全国の革命戦跡と革命史跡を革命伝統教育の学校として立派に整備すべきです。革命戦跡と革命史跡に金日成同志の銅像を丁重に建て、事績碑や記念塔、群像彫刻を立派につくるとともに、事績遺物をきちんと保存し、管理すべきです。

 革命戦跡と革命史跡を整備するうえで両江道がより多くの仕事をしなければなりません。両江道は、革命戦跡と革命史跡が多い栄えある道です。両江道は、革命戦跡と革命史跡の整備にすべてを服従させるとともに、革命戦跡と革命史跡を通じて党員と勤労者に対する革命伝統教育を着実におこなうことに力を入れるべきです。
出典:『金正日選集』増補版3

 
<注釈>−打倒帝国主義同盟 1926年10月17日、金日成主席によって結成された組織(略称「トウ・ドゥ」)。

 打倒帝国主義同盟は、チュチェの革命偉業を勝利に導くための前衛組織であり、朝鮮で初めての真の革命組織であった。打倒帝国主義同盟は、朝鮮の解放と独立をなし遂げ、朝鮮に社会主義・共産主義を建設し、さらには、すべての帝国主義を打倒して世界に共産主義を建設することを綱領として掲げた。打倒帝国主義同盟の結成は、朝鮮革命の新たな出発を告げる歴史的な宣言であった。

<参考> 金正日総書記のふるさと「革命の聖山 白頭山」

 金正日総書記は、1968年7月18日に白頭山の頂に立ったとき、同行した抗日革命闘士にむかって、感慨ぶかげに語った。

 「密林を通り抜けて白頭山を見やりながら歩いていると、ふるさとの家の門をあけて庭に足を踏み入れたような気がしました」

 もちろん、白頭山には、家はないし門も庭もない果てしなく広がる大空と太古の神秘をたたえているような天池と無限の樹林があるのみである。しかし、総書記が、そこに門と庭のある家を実感的に思いうかべてこのように語るのは、白頭山が彼の生れ育ったふるさとであり、ふるさとの家であったからである。

 一つの山がふるさとの家だと言えば、誰でも不思議に思うに違いない。だが、それほど彼のふるさとは特別の意味を有しているのである。

 金正日総書記は、1942年2月16日、両江道三池淵郡小白水谷の白頭山密営(秘密根拠地)で生まれた。

 総書記は、白頭山に秘められた精神をうけて人民の念願をかなえるかのように、民族受難の歴史に終止符をうつ戦場において産声をあげたのである。

 その日は清く晴れた朝であった。密営地の丸木小屋と高くそびえる木立はすっかり雪におおわれて、あたり一面は銀世界であった。その美しい雪景色のなかで新鮮な朝に産声があがったという知らせはすぐさま密営地にひろまった。

 遊撃隊員たちは誰もがこの知らせを戦友同士でたしかめあった。彼らは言い合わせたかのように、朝日に映えて高くへんぽんと翻る赤旗のまわりに集まって総書記の誕生を祝い、祖国解放のはやからんことを期した。

 うっそうとした密林のなか、抗日の聖地で生まれたとき、総書記には家というものがなかった。戦場で生まれ戦場で育った彼にとっては、銃声と「遊撃隊行進曲」が子守歌であり、雲海に悠然とそびえ立つ白頭の霊峰の壮麗さが、聖なる祖国の雄姿となって彼の童心を育んだ。昼なお暗い密林と雪原に響きわたる進撃ラッパの音、雪をかぶった密営地の丸木小屋と赤旗、祖国解放の戦略戦術をねりながら作戦地図に矢印を書き込んででいた金日成将軍の姿と忘れがたい金正淑女史の軍帽と弾丸帯−。これらすべてのことは、総書記の脳裏に焼きつき、それらをつうじて、幼いながらも、彼は祖国を感知していったのである。

 当時の総書記にとっては、祖国は吹雪をとおしてみえる、懐しくはあるがあまりにも遠くにかすんだ存在であった。それは、遊撃隊員たちが歌う「思郷歌」の旋律にのって胸にしみとおる、ある種の情感にすぎなかった。その漠とした遠い存在であった祖国を現実のものとして確認したのは、金日成将軍の指導による抗日戦争が勝利し、祖国が解放されたときのことであった。

 祖国解放は朝鮮人民にとって歴史的な出来事であった。36年間にわたった苦難の植民地統治は崩壊し、朝鮮人民には輝かしい前途が開かれた。すべての人々が明るい太陽を仰いで声をかぎりに「金日成将軍万歳!」「朝鮮独立万歳!」を叫び、祖国の解放をもたらした金日成将軍を歓呼して迎えた。

 解放は、幼ない総書記にとって、生涯忘れることのできない衝撃と感銘を与えた。それは、うっそうとした原始林のなかから広大な平野に躍りでたような魂の解放であったし、濃い霧をついて昇った太陽が照らすようなまぶしい光明でもあった。

 ある日、金正淑が万景台に出かける支度をしていたとき、総書記が「お母さん、ぼくのふるさとはどこなの?」と聞いた。

 母は、わが子の手を固くにぎり、深い意味をこめた微笑をうかべていった。

 「おまえのふるさとは、白頭山だよ。朝鮮で一番、高い白頭山なの。白頭山には、天池があり木もたくさん生えているのよ。そして、そこは、お父さんが、日本の侵略軍をやっつけたところなんだよ」(『金正淑伝』351ページ)

 幼なかった総書記は、そのとき、この母のことばの深い意味を理解することができなかった。しかし、成長してからは、そのすべての意味を悟り、朝鮮の北端に位置する海抜2750メートルの白頭山を何回となく訪れた。

 ふるさととは、誰にとっても忘れがたい地である。それは、誰にとっても、生涯をつうじて心の奥底に秘められている美しい始源的な感情であり、常に心をおおって生活に作用を及ぼす清い情緒ともいうべきものである。

 その日も、白頭山の頂に登った総書記は、神秘な天池と雲の山にそびえたつ岩を眺めながら感慨無量の面持ちであった。

 総書記は、この著作で、次のように述べている。

 「私は、白頭山に登って祖国の山河を見渡すたびに厳かな気持ちになります。今回、私は白頭山に登り、いかなる荒波が押し寄せ嵐が吹き荒れても、わが党の光輝ある革命伝統を固守して輝かせ、チュチェの血統を受け継いで白頭山で始まった我々の革命偉業をあくまで達成する決心を固めました」


<参考図書>−『偉大な指導者 金正日』上巻 1985年2月16日 株式会社未來社
 −『金正日略伝』 1995年2月16日 雄山閣出版株式会社
 −『金正日伝』第1巻 2004年2月16日 株式会社白峰社
 −『金正淑伝』 2002年 朝鮮・平壌 外国文図書出版社
 

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