『金日成主席革命活動史』

第2節 朝鮮人民革命軍の小部隊軍事・政治活動


 金日成主席は、歴史的な小哈爾巴嶺会議後、朝鮮人民革命軍の小部隊軍事・政治活動を指導した。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「(略)朝鮮と満州の広大な地域で小部隊による軍事活動を巧みに展開しなければなりません」(『祖国解放の日を成功裏に迎えるために』1940年8月10日)

 主席は、小部隊による軍事・政治活動をくりひろげるための準備をととのえていった。

 まず、小部隊と政治工作グループの編成に深い注意が払われた。それらは、どのような状況のもとでも軍事・政治活動を独自におこなえるよう、政治幹部と軍事幹部、古参の隊員と新入隊員を適切に組み合わせて編成され、その人員と武装装備は活動地域の特性と任務に応じて定められた。また、小部隊と工作グループにたいする統一的な指揮体系と連絡網体系が立てられ、小部隊と工作グループには党細胞と党分組がおかれ、その役割を高めるようにした。

 小部隊と工作グループの任務も具体的に示された。すなわち、いたるところで日本軍の兵営、警察署、警備哨所、軍用列車、軍用倉庫、鉄橋など敵の支配機関や軍事施設を間断なく襲撃破壊し兵員を消耗させ、日本帝国主義との決戦にそなえて重要な敵の兵力と軍事要塞、軍事施設などの偵察に力を入れること、そしてまた、大衆のなかで組織・政治活動を展開し、破壊された革命組織を再建、新設して広範な大衆をそのまわりに結集し、全人民的抗戦の準備に万全を期することなどが強調された。

 主席はまた、小部隊と工作員を各地に送って、小部隊活動に必要な新しい形態の遊撃根拠地、臨時秘密根拠地の設営にあたらせた。それらの根拠地は、基地または活動拠点の形をとった。基地は一定の地域に派遣される小部隊と工作グループの活動を統一的に指導する指揮部の所在地であり、活動拠点は個々の小部隊、工作グループ、政治工作員がその活動地帯内に臨時に設ける拠点または秘密連絡場所であった。

 さらに主席は、小部隊活動にはさまざまな困難がともなうことを予想して、食糧、被服などを準備し、要所要所にたくわえておくようにした。

 こうした準備にもとづいて、主席は国内と白頭山東北部一帯に多くの小部隊を派遣し、その指導に全力を傾けた。

 日本帝国主義は、1940年秋の初めから朝鮮人民革命軍の「掃滅」をはかって「秋期および冬期討伐」作戦を展開した。

 主席は、敵の「討伐」攻勢を撃破し、小部隊活動を活発にくりひろげるため、同年9月、小部隊活動の統一的指揮に有利な豆満江沿岸地域に進出した。

 主席は一小部隊を率いて豆満江沿岸に移る途中、黄花甸子付近の湿地帯での戦闘と発財屯付近での戦闘をおこなって、小部隊軍事活動の模範を示した。その後、荒溝嶺に基地を定めて小部隊と工作グループの活動を指揮した。それらは、各地で襲撃戦、破壊戦、伏兵戦などをくりひろげて敵にあいつぐ打撃を加え、後方を攪乱した。東満州をはじめ、満州の広大な地域と国内各地におけるこのような活発な軍事・政治活動によって、敵の「秋期および冬期討伐」攻勢は破綻した。

 日本帝国主義はついに「野副討伐司令部」を解散し、その機能を関東軍司令部に移した。そして、1941年の春から新たな「討伐」作戦を強行した。かれらは膨大な兵力を動員して地区別担当制を強め、軍事攻勢とならんで政治攻勢を強化した。

 主席はこうした新「討伐」攻勢に対処して、各地の小部隊に遊動作戦を積極的に展開させる一方、敵の反動宣伝を粉砕し、人民に勝利の信念をいだかせる大衆政治工作をくりひろげる措置を講じた。そして、みずから敵軍の密集する安図、和竜、延吉、汪清などの広い地域で不断に軍事・政治活動を進めるかたわら、各地の小部隊と工作グループの活動を指導した。また、かれらがどのような状況のもとでも勝利の信念を曲げず、人民にしっかり依拠してたたかうよう導き、その多忙な日々にも常にかれらに思いをはせて、食糧、被服、薬品などを送って温かく励ました。司令部と一時連絡が途絶えた一小部隊のことを気づかって、かれらが帰れば与えるようにと、鹿の干し肉を粉にして50の袋に分け、それに隊員一人ひとりの名を書いて保存し、連絡場所には冬服を埋めておくなどの配慮を示したのもこのころのことであった。

 主席のすぐれた戦略・戦術と用兵術、肉親にまさる愛と配慮に励まされながら、小部隊と工作グループは、安図、撫松、和竜、敦化、延吉、汪清、寧安、東寧、琿春などの広い地域で遊動作戦をくりひろげて敵に強力な軍事的・政治的打撃を加え、関東軍の「討伐」攻勢を撃破した。

 そのころ、内外の情勢は複雑な動きを示していた。1941年4月、「日ソ中立条約」が締結されると、日本帝国主義は朝鮮人民の革命的気勢を麻痺させようと、思想攻勢をいちだんと強化した。当時、人々は日ソ戦争は必至であり、そうなれば日本帝国主義の敗減も確定的であると考えていた。そんな期待を裏切って「日ソ中立条約」が締結されたのであるから、政治的に未熟な人たちはそれが不安の種となった。

 主席はこのような事態と関連して、1941年5月、「自力で朝鮮革命を完遂しよう!」という革命的なスローガンを示して各部隊の思想教育活動を強化する一方、6月30日には汪清県夾皮溝で朝鮮人民革命軍小部隊の責任者と隊員の会議を開き、人民革命軍の新たな活動方針を示した。

 主席は、朝鮮人民革命軍の指揮官と隊員はどのような情勢のもとでも、自力で祖国を解放し、朝鮮の革命を完成する不退転の意志をもって軍事・政治活動を積極的に進めるべきであると強調し、その具体的な課題を示した。そこでは、なによりもすべての指揮官と隊員が政治理論水準と軍事知識および指揮能力を高めて、有能な政治・軍事幹部としてみずからを鍛え、また人民のあいだで組織・政治活動を強化して、すべての反日勢力を結集するとともに、攪乱作戦と偵察活動を活発に展開すべきであると強調した。

 夾皮溝会議の方針は、どのような環境のなかでも自主的な立場を守り、自国人民の力で祖国の解放を主動的に迎える綱領的な指針であった。

 会議後、小部隊と工作グループは、人民のなかで組織・政治活動を積極的にくりひろげた。

 主席はそれらの活動の成果をはかって、一部の小部隊と工作グループを再編成して国内と満州の各地に派遣し、1941年7月中旬には、みずから明月溝付近の南焼屯で革命組織を再建し政治工作を進めた。そして、7月末に小部隊の責任者会議を開き、再び大衆組織・政治活動を積極化するための具体的な対策を示した。

 主席の指示に従って、小部隊と工作グループ、政治工作員たちは、国内をはじめ、東満州、南満州など満州の各地、そして日本にも派遣されて、政治工作をくりひろげた。かれらは朝鮮革命にたいする主席の路線と戦略・戦術、卓越した用兵術と高邁な徳性について広く宣伝し、また、日本帝国主義の植民地支配がいかに暴虐なものであるか、急変する内外の情勢にてらして日本帝国主義の敗減は避けられないということなどを教え、全人民が主席の指導に従って反日闘争に決起するよう訴えた。小部隊と工作グループはまた、国内と満州の広い地域で破壊された革命組織を急速に立て直し、地方の特性に合った多くの新しい革命組織をつくって、広範な反日大衆を組織に結集していった。特に豆満江沿岸地帯に派遣された小部隊は、決戦時の出撃陣地となるこの地帯に目に見えない要塞を構築するという主席の方針に従って、大衆組織・政治活動を活発に展開し、強力な祖国解放作戦の砦をきずいた。

 主席は、小部隊と工作グループが大衆組織・政治活動とならんで軍事活動に力を入れるよう指導した。こうして、敵背後攪乱戦がいたるところで展開された。1941年8月の初めには、主席みずから小部隊を率いて汪清−羅子溝間の道路工事場襲撃戦闘をおこなった。各小部隊は、先鋒(ソンボン)、恩徳(ウンドク)など国内の各地方や汪清、延吉、琿春など満州の広い地域で敵の輸送路、通信線、軍用物資の補給基地、兵営、警察署、機関などの襲撃戦闘を果敢にくりひろげた。また、鉄道の破壊、軍用列車の転覆、軍用道路工事場の襲撃などもさかんにおこなった。こうして、敵の兵員、戦闘技術機材、軍需輸送などに大きな損害を与え後方を攪乱した。

 祖国解放の時期が近づくにつれて、軍事偵察にも力が入れられた。小部隊と工作グループは、主席の指示に従って陸海空軍および特殊兵種の構成と武装状況、部隊の配置と物資の補給状態など敵の動静を具体的に偵察し、また、海軍基地、飛行場、軍用倉庫など軍事戦略的意義の大きい地帯にたいする集中的な偵察もおこなった。偵察活動は、広い地域にわたったが、特に、先鋒、羅津(ラジン)、清津、羅南(ラナム)、興南、元山、平壌など要塞地帯や要衝地の軍事施設と兵力配置および、その移動状況の偵察に力が入れられた。           


<参考>当時、独立守備隊司令官の一人に、野副昌徳少将がいる。




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