『金日成主席革命活動史』

第3節 豆満江沿岸遊撃根拠地の創設。
武装闘争の国内への拡大方針を提示


 金日成主席は、反日人民遊撃隊の創建後、その強化に力を入れる一方、豆満江沿岸の広大な地域に遊撃根拠地を創設する活動をおし進めた。

 遊撃根拠地の速やかな創設は、情勢の緊迫した要請であった。

 武装闘争が展開され、豆満江の広い流域が革命化されると、あわてた日帝侵略者は、1932年間島地方の朝鮮人にたいする大「討伐」を強行した。かれらは、連日、革命化された農村を襲って殺しつくし、焼きつくし、奪いつくす「三光政策」を強行し、遊撃隊と人民のつながりを断ち切ろうとした。敵の厳しい弾圧と白色テロから革命的大衆を守り、朝鮮革命の高揚をはかるためには、早急に遊撃根拠地を創設して武装闘争を強化しなければならなかった。

 当時、遊撃根拠地を創設する条件も熟していた。主席の指導によって農村革命化が急速に進み、広い地域に革命組織が根をおろして大衆的基盤が強化され、根拠地づくりの基礎がきずかれた。

 主席は1932年5月に開かれた小沙河会議で、当面の情勢と武装闘争の要請にもとづいて解放地区形態の根拠地、遊撃区の創設を緊切な課題として提起し、そのたたかいを指導した。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「遊撃根拠地は、当面する主体的・客観的情勢と、闘争がおこなわれる環境と条件、そして武力の準備程度によってさまざまな形態をとることができます。

 現在の状態では、解放地区形態の根拠地である遊撃区域を創設しなければなりません」 (『日本帝国主義に反対する武装闘争を組織し展開することについて』1931年12月16日)

 解放地区形態の根拠地である遊撃区とは、敵の支配体制から脱して遊撃隊が掌握している地域、すなわち自力で遊撃隊を強化する条件と根拠地を防衛する力量および体制がととのい、革命政権と革命組織をもつ根拠地を意味する。こうした解放地区形態の根拠地は、創建されて日が浅い革命武力を急速に強化し、革命的大衆を守り、武装闘争を主流とする反日民族解放闘争全般を発展させるうえで極めて大きな役割を果たすであろう。

 主席は、数多くの戦闘を指揮して敵の軍事攻勢を制圧し、遊撃区となる地域を確保して革命的大衆を集結させるとともに、党、共青その他の革命組織と赤衛隊、少年先鋒隊などの半軍事組織を結成し、人民の生活を安定させる一連の措置を講じた。そして、大北区、小北区、小汪清などをめぐって、人民と語り合い、遊撃隊の指揮官や革命組織の責任者には根拠地づくりで守るべき原則的な問題を示した。

 主席の不眠不休の活動によって遊撃区づくりは急速に進展した。1932年末から33年初めまでのわずか数か月間に、汪清県の小汪清、嘎呀河、腰営口、延吉県の王隅溝、海蘭溝、石入港、三道湾、葦子溝、和竜県の漁郎村、牛腹洞、琿春県の、梨樹溝、大荒溝など豆満江沿岸の広大な地域に多くの遊撃区が創設された。

 こうして、反日人民遊撃隊の軍事戦略的基地、後方基地がきずかれ、抗日武装闘争を中心とする朝鮮革命全般を発展させる強力な基盤がつくられた。

 主席は遊撃区の創設とあわせて、抗日武装闘争を国内に拡大する活動をおし進めた。武装闘争の国内への拡大は、主席の一貫した戦略的方針であり、朝鮮革命の根本的な要請であった。

 1933年3月初旬、反日人民遊撃隊の一部隊を率い豆満江畔の涼水泉子のソルゴルで国内進出の準備をととのえた主席は、豆満江を渡ってワンジェ山に到着した。

 主席は3月11日、穏城地区地下革命組織責任者・政治工作員会議を招集し、『武装闘争を国内へ拡大するために』と題する歴史的な演説をおこない、抗日武装闘争を国内に拡大する方針を示した。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「(略)我々は、敵が悪辣に策動し、いかに情勢が厳しくても、必ず抗日武装闘争を国内へ拡大しなければなりません」(『武装闘争を国内へ拡大するために』1933年3月11日)

 この方針は、全人民を抗日武装闘争に呼び起こして反日民族解放運動の新局面を開き、朝鮮人民の力で祖国解放の歴史的偉業を達成する主体的かつ革命的な方針であった。

 ここでは武装闘争を国内に拡大する課題が示された。

 金日成主席はまず、国内に半遊撃区を多く設けそれを強化すべきであると、次のように述べた。

 「武装闘争を国内へ拡大するためには、既に創設した豆満江沿岸の遊撃根拠地につらなる国内の広大な地域に半遊撃区をより多く創設し、それを強化するたたかいを力強く展開すべきです」(同上)

 これは、抗日武装闘争を国内に拡大する政治的・軍事的拠点と後方基地をきずき、反日人民遊撃隊を急速に強化するうえで大きな意義があった。国内に強力な多くの半遊撃区を設ければ、遊撃区の防衛はもちろん、半遊撃区の革命組織を通じて労働者、農民など基本大衆のなかで遊撃隊の後続部隊を育成し武装部隊を急速に強化することができ、また国内の人民に大きな革命的影響を与え革命闘争に奮起させることができるであろう。

 主席は、半遊撃区を創設するためには、豆満江沿岸一帯で遊撃隊は戦闘を強化し、国内の地下革命組織は広範な大衆を結集して革命化する活動を強め、また森林地帯の有利な自然条件を利用して各要所に秘密連絡所やさまざまの活動拠点を設けるべきであると指摘した。

 主席はつづけて、全民族を単一の政治勢力に結集すべきであると強調した。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「次に、反日闘争において全民族を一つの政治勢力として結集しなければなりません。
 武装闘争を国内へ拡大し、祖国解放の歴史的大業をなし遂げるためには、労農同盟にもとづいて反日的傾向をもつ各階層の大衆を反日民族統一戦線の旗のもとにかたく団結させるべきです」(同上)

 主席は、日本帝国主義を憎み、祖国解放を心から望む人であれば、財産や知識程度、居住地や性別にかかわりなく全民族が単一の政治勢力として結集すべきであり、そのためには各種形態の合法および非合法大衆組織を結成して広範な大衆を結集し、かれらの特質や意識程度に応じてさまざまな形式で教育しなければならないと指摘した。

 主席はまた、武装闘争を国内へ拡大するためには、武装闘争を大衆運動と密接に結びつけなければならないと強調した。大衆闘争は、日本帝国主義の植民地支配に打撃を加え、大衆を革命的に鍛えて武装闘争の拡大に有利な条件をつくるが、それだけでは植民地支配をくつがえし祖国解放の歴史的偉業を達成することは不可能である。したがって、抗日武装闘争を国内へ拡大するとともに、それを大衆闘争と組み合わせ、国内の革命家と人民は遊撃隊に敵の動きを常時通報し、遊撃隊と遊撃根拠地人民の支援に全力を傾けるべきであると指摘した。

 主席は終わりに、複雑多難な抗日武装闘争を遂行するためには革命の参謀部が必要であり、したがって、党創立の組織的・思想的準備を着実に進めることが重要であると強調した。

 主席の歴史的な演説は、極左的偏向を克服し、朝鮮革命の主体性を確立するうえでの理論的・実践的問題を全面的に解明した綱領的文書であり、抗日武装闘争を国内へ拡大するうえで朝鮮の共産主義者と人民が堅持すべき指導指針であった。

 主席はワンジェ山会議後、遊撃根拠地の強化に取り組んだ。

 まず、遊撃区で政権建設問題を正しく解決することに力が入れられた。

 主席は、既に卡倫会議と明月溝会議で主体的な人民政権建設路線を示し、遊撃区にいかなる政権を樹立すべきかを明らかにした。

 しかし、極左日和見主義者と分派・事大主義者は、遊撃区が創設された初期、一部の地域で「ソビエト」政府をつくり、私有制をいっさい廃止して「共同生産」「共同分型を実施しようとした。これは遊撃区の人民を大きな不安と混乱に陥れた。

 主席は、政権づくりにおける極左的偏向をただし、人民政権建設路線を貫徹するためにたたかった。党・共青および革命組織幹部会議がたびたび開かれて、「ソビエト」路線の極左的本質が暴露され、遊撃区に樹立すべき政権は人民革命政府であると規定された。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「朝鮮の共産主義者は、発展する我が国の革命の合法則的要求から出発して、そして、民族的・階級的矛盾と社会的・経済的条件を科学的に分析した基礎のうえで、今後うち立てるべき政権は、労働者階級が指導する労農同盟にもとづき、広範な反日勢力の統一戦線に依拠した人民革命政府でなければならないという路線をうち出しました」(『朝鮮民主主義人民共和国は、朝鮮人民の自由と独立の旗印であり、社会主義・共産主義建設の強力な武器である』1968年9月7日)

 主席は人民革命政府を樹立するための対策を示して、各県に指導メンバーを派遣し、自身も各遊撃区を回って革命組織の幹部や大衆に人民革命政府のすぐれた点をわかりやすく説明し、かれらを政権づくりに呼び起こした。

 その後、すべての遊撃区に区人民革命政府と村政府が設立され、それが不可能な地域には政権機関の機能を果たす農民委員会が組織された。こうして、極左的な「ソビエト」路線は克服され、豆満江沿岸のほとんどの遊撃区に人民革命政府がつくられた。

 これらの人民革命政府は、労働者、農民など広範な人民大衆の利益を守り、かれらの民族的・階級的解放を実現する最も革命的かつ人民的な政権であった。人民革命政府は、民族解放革命を進めていた当時の条件と遊撃区の実情に最も適した政府であったばかりでなく、国の解放後に樹立されるべき国家権力の原型でもあった。

 主席は遊撃区での民主諸改革を指導した。

 遊撃区の全人民に政治的自由と民主的権利が保障され、親日派地主、買弁資本家、民族反逆者には徹底した独裁が実施された。また、日本帝国主義者と親日派地主、民族反逆者の土地が無償没収されて農民に無償分配され、産業分野では日本帝国主義者と買弁資本家の所有財産がすべて没収され、良心的な中小民族資本家の企業が奨励された。また、8時間労働制と最低賃金制が実施されて人民生活の安定がはかられた。人民革命政府は、男女平等権を発布し、婦人に男子と同じ社会的・政治的権利と自由を保障した。さらに、日本帝国主義の植民地奴隷教育制度を廃絶して革命的で人民的な教育制度を樹立し、就学児童にたいする全般的無料義務教育とあわせて、遊撃区の人民に全般的な無料治療制を実施した。

 主席は、遊撃区の周辺に半遊撃区を設けるためにも大きな努力を払った。

 半遊撃区は、完全遊撃区とは違って表面上は日本帝国主義の植民地支配下にありながら、実際は遊撃隊と革命組織が掌握している革命化された地域である。半遊撃区は、反日人民遊撃隊を物心両面から支援し遊撃区を守る前哨基地、目に見えない要塞といえた。

 当時、極左日和見主義者と分派・事大主義者は、遊撃区の創設だけを固執して半遊撃区の創設に反対し、遊撃区を「赤色区域」、敵の支配区域を「白色区域」と色分けし、敵区の人民は「信頼できない」「日本帝国主義の手先」「両面派大衆」などといって遠ざけ、敵視した。

 主席は、かれらの策動を打破し、多くの政治工作員を遊撃区の周辺地域に派遣して革命組織をつくり、大衆を結集した。また、敵の末端支配機関を掌握して遊撃隊と革命組織の活動に有利な状況をつくった。このようにして、遊撃区の周辺には多くの半遊撃区が形成された。

 半遊撃区の創設が不可能な地域には、遊撃活動の拠点をつくるために政治工作員が派遣された。こうして、豆満江沿岸および北部朝鮮一帯の主な都市や軍事要衝、鉄道沿線地域に無数の遊撃活動拠点が短時日内につくられた。

 主席は遊撃根拠地の強化に力を傾ける一方、武装闘争を国内へ拡大するために不眠不休の活動を進めた。

 主席は1933年3月下旬セッピョル郡柳多(リュダ)島に、5月28日には鐘城郡新興(シンフン)村に出向いて革命組織責任者と政治工作員の会議を開き、ワンジェ山会議の方針の実行対策を示した。また、多くの政治工作員を国内各地に派遣して、武装闘争拡大の下工作にあたらせた。

 かれらは、北部朝鮮一帯の人民を革命化し、当地に密営と秘密連絡所を設けて半遊撃区を創設する主席の方針にもとづいて、敵の厳しい警戒をかいくぐって多様な形式と方法で人民を革命化する一方、ワンジェ山密営その他多くの密営を設け、主要都市や鉄道沿線に秘密連絡所をつくった。こうして、穏城、鐘城、会寧、セッピョル、恩徳(ウンドク)、先鋒(ソンボン)、茂山(ムサン)その他、北部朝鮮各地に半遊撃区が形成された。

 主席は、全民族を一つの政治勢力として結集するため、人民の階級意識を強め組織に結束する活動をおし進めた。

 政治工作員たちは、主席の主体的な革命路線を国内の人民に解説し、遊撃区の革命的な出版物を配布した。また、各階層の広範な大衆を反日革命後援会、反帝同盟、農民相助会、婦女会、児童団などさまざまな非合法および合法団体に組織して、国内の人民を単一の政治勢力として結集し、武装闘争を国内へ拡大するための大衆的基盤をきずいていった。

 主席は、国内の人民が遊撃隊と遊撃区人民にたいする支援を強化するよう指導した。全国各地の労働者、農民をはじめ、各階層の人民は広範な集会をもって抗日武装闘争との連帯を深めた。なかでも、穏城地区の人民は真心こもる10余の祝旗を贈って、遊撃隊と遊撃根拠地の人民を励ました。遊撃隊と遊撃区にたいする援護活動もさかんにおこなわれた。1933年咸鏡北道土幕洞(ドマクドン)鉱山と鶏林(ケリム)炭鉱の労働者は、危険をおかして数百キログラムの爆薬を遊撃隊に送り、穏城地区の人民も1934年10月多量の軍用物資と日用品を遊撃区に送った。援護物資は連日のように送られ、膨大な量に達した。

 抗日武装闘争の影響のもとに、国内でも反日闘争が激しくくりひろげられた。

 日本帝国主義が控え目に発表した資料によっても、1931年〜1935年に900余件のストライキが起きたが、これは、それに先立つ10年間のストライキ総件数を上回った。1934年10月には興南製錬所、35年3月兼二浦(キョムイポ)製鉄所、同年7月には南浦製錬所の労働者がストを決行した。これらのたたかいは、経済闘争のわくを越えて政治闘争の性格を帯び、主として日本帝国主義の植民地支配にそのほこ先が向けられた。

 農民のたたかいもめざましかった。1931〜1935年に350余件の大衆的な小作争議があったが、それらは、ほとんどが日本帝国主義支配機関と収奪機関を襲撃し、地主に懲罰を加える暴力闘争に発展した。

 青年学生のあいだでも反日的な同盟休校「事件」、読書会「事件」、ビラ「事件」などが頻繁に起きた。

 遊撃根拠地の強化と抗日武装闘争の国内への拡大をはかる主席の指導によって、朝鮮人民の反日革命闘争全般が急激に高まり、反日民族解放闘争は新たな局面を迎えた。





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