「江華島条約」135年論告状
朝鮮歴史学学会
−2011年2月27日−


 朝鮮中央通信によると、朝鮮歴史学学会は27日、「日本は『江華島条約』捏造で朝鮮民族の自主権を侵害し、資本主義隷属化の門を開いた侵略の元凶」と題する論告状を発表した。その全文は次のとおり。


 今から135年前の1876年、日本の侵略者は、欧米列強に先立って朝鮮封建政府を強迫し、侵略的で不平等な「朝日修好条規」(「江華島条約」)をつくり上げた。

 日本の侵略者が軍事的威嚇と恐喝、欺瞞と詐欺の方法でつくり上げた「江華島条約」は、将来、朝鮮を自分らの植民地にするための日本の統治層の謀略の産物であり、朝鮮民族の自主権と利益を乱暴に侵害し、その後朝鮮に対する欧米資本主義列強の侵略と植民地争奪戦を誘発した最初の不平等条約であった。

 朝鮮歴史学学会は、過去の日本による「江華島条約」捏造135周年を迎えて、日本の侵略者の犯罪的な「江華島条約」捏造策動の真相と、その結果を全世界に告発するためこの論告状を発表する。




 「江華島条約」は、明治維新後、好戦的な日本の反動支配層が持ち出した「武力による朝鮮征服論」、強盗さながらの「征韓外交」政策の犯罪的な産物であり、その直接的な捏造の口実に利用されたのは1875年の「雲揚」号事件であった。

 19世紀中葉、日本が明治維新で開化の道に入るなり実施した対朝鮮政策は、「征韓外交」であった。これは、朝日間の新たな「国交再開」協議を求める不純な外交文書(書契)を李朝封建政府に強要する方法で侵略的挑発を仕掛けて武力挑発を行い、朝鮮を征服して植民地にするための侵略政策であった。

 まさに、こうした強盗さながらの「征韓外交」政策に従って日本の侵略者は1875年、「雲揚」号事件を挑発した。

 「雲揚」号事件は、1875年9月、日本の軍艦「雲揚」号が航行中に飲み水をもらうという名目で何の通告もなく、さらに日本国旗も掲揚せずに朝鮮の領海である江華島の草芝鎮沖に不法侵入し、朝鮮の兵士の自衛的砲撃を受けた事件であった。

 この事件は、最初から日本が朝鮮に対する武力侵攻の口実を設けるために計画的に挑発した謀略事件であった。これについて陸軍大将の山県(山懸有朋)は、「1875年9月、雲揚艦長井上(良馨)少佐は、韓国西海岸より、清国牛荘に至るまでの海路を研究する名義のもとに、暗に韓国に対する示威運動に従うべき旨、海軍省よりの内訓に接した」とし、真の企図は「『雲揚』号事件を契機に日本はかねてからの目的を一気に達成しようとした」と明らかにした。(「公爵山県有朋伝」412〜413ページ、「木戸日記」1875年12月7日)

 しかし、「雲揚」号事件の真相が内外で明らかになり、自分らの犯罪的な正体があらわになると、日本政府は同年11月、「征韓外交」政策の変種である「平和協議外交」政策を打ち出し、李朝封建政府に隷属的な「修好通商条約」を強要するための、いわゆる方案なるものをつくり上げた。

 その方案とは第1に、「雲揚」号事件の真相を隠蔽し、すべての責任を朝鮮側になすり付け、「謝罪」と「賠償」を認めさせるというものであった。

 太政大臣の三条(実美)が朝鮮側との会談に派遣する日本全権大臣の黒田清隆に与えた「訓令」(全7項目)に具体的な内容が記されていた。(「近代日鮮関係の研究」上、日文423〜424ページ)

 三条は、この「訓令」なるもので、「雲揚」号事件の責任を朝鮮側に無条件転嫁することを原則にし、釜山とそれ以外の1カ所を開港地に定め、日本人の自由な往来と領事館の設置を保障し、日本の船舶の朝鮮領海の測量と航行の自由および礼曹判書級の待遇を受ける日本使臣の漢城(ソウル)滞在などの強盗さながらの要求を条約文に盛り込むことを指示した。

 最後に、「訓令」は、会談時に李朝政府が自分らの要求を拒絶したり、何らかの状況が生じる場合、事態の状況を本国に知らせ、その後政府の命令を待って行動するよう指示した。(「日省録」丙子の年1876年1月4日)

 これは、清国側からのあり得る干渉を打算したものであった。

 日本政府がつくり上げた方案は第2に、軍事的手段による威嚇と恐喝の方法で朝鮮側を強迫し、「屈服」させるというものであった。

 銃剣で相手を屈服させようとするのは、侍の輩の暴悪さと好戦性をそのまま身に付けた日本の侵略者の固有な気質であった。日本の反動支配層は、「平和協議外交」政策に転換した以降も、武力で朝鮮を征服しようとする強盗の野望を捨てていなかった。

 暴力の方法で朝鮮封建政府に不平等条約を強要するための日本の策動は、米国の積極的な支持と後押しのもとに、さらに悪辣に行われた。

 既に以前から、朝鮮に侵略の魔手を伸ばしてきた米国は、日本を先導役にして、自分らの朝鮮侵略の野望をたやすく達成しようとする陰険な下心のもとに「雲揚」号事件以降、日本の対朝鮮侵略策動を各方面から支援した。当時の駐日米国公使のビンハムは、日本の朝鮮侵略に「至極同意する」と言い散らし、1871年の「辛未洋擾」(アメリカ艦隊の朝鮮侵攻)時に「失敗した米国の念願である朝鮮開放を日本が継ぐこと」を唆したし、1875年12月、日本外務卿の寺島(宗則)との面談時にペリーの「日本遠征小史」を手渡して、朝鮮の「解放」を促すために砲艦外交の適用まで勧めた。(「日本外交文書」第8巻、日本語版152〜155ページ)

 しかし、日本政府は、これを徹底的に秘密にし、清国と欧米各国の公使に朝鮮に派遣する日本全権大臣の任務は、会談を通じて事件の真相を究明し、「和親」を図ることであると騒がしく宣伝したし、そのうえ、対朝鮮「和平交渉」に対する外国人の質問に対して「今回、朝鮮に派遣する全権大臣は、陸軍兵を絶対に引率しないことを保証」する(「近代日鮮関係の研究」上、437ページ)とほらを吹いた。まさしく、泥棒が「泥棒!」と叫んで自分の正体を隠すようなものである。

 結局、日本は、朝鮮を軍事的暴力の方法で隷属させるための強盗さながらの策略と米国に積極的に促されて同年末、朝鮮に日本全権代表一行を派遣することになったのである。




 あらゆる手段と方法を総動員してでも必ず朝鮮を侵略し、支配しようとする日本の反動支配層の野心はその後、朝鮮封建政府との協議の過程にさらに赤裸々にあらわになった。

 日本全権代表団を乗せた日本艦隊の江華島海峡への航行を認めることに関する外交協議を契機に、日本の侵略者の犯罪的な「江華島条約」捏造策動は、直接的な実践段階に入った。

 1875年11月末、日本外務卿の寺島は、釜山に派遣される外務省理事官の広津(弘信)に日本の全権代表を朝鮮に派遣するという内容の外交文書を朝鮮側官吏に伝達するよう指示し、朝鮮側が自分らの文書を受け取ろうが受け取るまいが関係なく、いったん通告するよう命令した。(「近代日鮮関係の研究」上、日本語版、429ページ)

 これに従って広津は12月17日、釜山に到着し、19日、釜山倭館に来た倭学訓導の玄昔運に外交文書を渡した。玄昔運が文書を送ってきた理由を問いただすと、広津は軍艦「雲揚」号が清国の牛荘へ航行中に砲撃を受け、日本の朝廷がその実情を把握するために特命全権大臣の黒田を使臣として派遣するので、朝鮮側で彼らを保護するよう願うとし、万一、使臣を受け入れなければ漢城に攻め込むと脅した。(「朝鮮交際始末」3月、「近代日鮮関係の研究」上、日本語版、430ページ)

 こうした強盗さながらの妄言は、「雲揚」号事件の責任を朝鮮にむやみになすり付け、軍事的手段を背景に李朝封建政府から最大限の譲歩を引き出そうとする術策に発したものであった。

 当時、李朝政府は、なるべく挑発に乗らないようにする打算のもとに玄昔運に、「明治維新」以降、日本政府が何度も提案してきた「国交再開」協議案を改めて受け入れるかわりに、日本の艦隊の江華島航行を中止することに関する問題をめぐって広津と取り引きさせるようにした。

 この時、広津は、江華島海峡への航行を中止させる問題は、すぐに帰って本国と合意して回答するので、外交文書を写本でも東莱府に形式的に伝達することを提起した。広津の「約束」をそのまま信じた玄昔運は、外交文書の写本を受け取ってしまった。(「近代日鮮関係の研究」上、日本語版、431ページ)

 外交文書の写本を受け取ったことで、江華島海峡へと航行し、李朝政府と公式会談を行える合法的な口実を設けたと考えた日本は1876年1月初、黒田を全権代表として30余人で構成された全権代表団と800人の兵力を乗せた6隻の日本艦船を派遣した。(「高宗実録」第13巻、13年1月4日、「外交資料集成」1343〜1346ページ)

 日本の侵略艦隊は、朝鮮の領海に対する測量と武力示威を繰り広げて2月4日、江華島草芝鎮沖に侵入した。

 通報を受けた李朝政府は翌日、判中枢府事の申櫶(※木偏に憲)と礼曹尚書の尹滋承に江華府に赴いて日本側と談判するよう指示した。

 2月5日、李朝政府代表と日本政府代表との予備談判で接見大官に任命された申は、担当訳官を日本の艦隊が現在停泊している草芝鎮に派遣したので、日本側の代表が遠く江華府にまで来る必要はないと言い切った。にもかかわらず、恥知らずな日本の侵略者は、一方的に会談の場所を江華府の官庁の建物とし、全権代表と随行員、儀杖兵の宿所を提供することを強要した。これに対して申は、国法により、地方の官庁を外交談判の場に利用できないし、公式代表および随行員以外に不必要な人員は上陸できないと彼らの要求を一蹴した。すると、日本側は、自分らの兵力数を4000人と誇張し、宿所問題が困難なら400人でも上陸させるべきであると言い張り、間もなく2000人の兵力が追加されると脅した。(「近代日鮮関係の研究」上、日本語版、450ページ)

 これは、朝鮮代表を見くだし、脅し、ごまかしでうまくことを運ぼうとする下手な浅知恵にすぎず、朝鮮側代表の怒りをかった。

 こうして、談判の場は激しい論争の場になったが、国力が弱かった李朝政府の弱腰により、日本の侵略者の強盗の要求をついに退けられず、日本の艦隊の江華島侵入と人員上陸を黙認してしまった。

 2月10日、草芝鎮沖から機動を始めた日本の侵略艦隊が甲串津に着き、「礼砲」の名目で大砲を四方に撃ち、火薬臭をやたらに漂わせるなか、黒田は随行員と軍隊を引き連れて江華島に上陸した。翌日、江華府の西大門内の練武堂で開かれた会談の前夜にも日本の侵略者は、「紀元節」(「建国節」)を記念するとして艦砲を撃ち、会談の場を恐怖の雰囲気に包んだ。

 日本の侵略者の強盗さながらで侵略的な本性は、会談の全過程でも如実にあらわれた。
 初日の会談で日本側代表は、「明治維新」以降に自分らが持ち出した「国交再開」協議を拒絶した「責任」と「雲揚」号事件に対する「責任」をすべて朝鮮側になすり付け、いわゆる「謝罪文」まで求めた。一種の圧力を加えて条約文の討議でたやすく譲歩を引き出そうとする術策に発したものである。

 接見大官の申は、理詰めで論難したが、強盗さながらに侵略武力を背景に会談の場にあらわれた倭賊にどんな理知や道理が通じるはずもなかった。

 倭賊が、「雲揚」号事件に対する「責任」問題を持ち出してあくまで威嚇している時、李朝政府は大臣会議を開いて会談の前途を憂慮しただけで、強力な対応策を打ち出し、強硬に立ち向かって対抗する考えはできなかった。

 日本の侵略者のずる賢い策動は、これだけではなかった。

 朝鮮側代表が強硬な姿勢に出てこれない弱点を利用して日本の侵略者は、不平等条約締結のための討議時に、外交代表部や開港地設置問題などの主要議題に関する朝鮮側の正当な要求を無視したり、文言の若干の修正や口頭合意の巧妙な方法で乗り切った。朝鮮側が示した「禁則6カ条」を条約の原文に規定するよう求めると、日本側がそれを口頭合意にすぎないとみなして、ついに条約の原文に記載せず、否定したのはその代表的な実例である。

 条約文の討議がいったん終わった2月20日、日本側代表は不当にも朝鮮国王の署名がある条約批准書をまたしても求めた。

 当時、朝鮮封建政府は条約締結時に、条約批准書に「朝鮮国王御璽」を押すようになっていただけで、国王が直接署名する例はなかった。にもかかわらず、日本側が前例もない国王の批准書の署名を求めたのは李朝封建政府の自主権を無視した乱暴な侵害行為であった。

 接見大官の申は、朝鮮国王の批准書署名の不当性を明らかにし、日本側が自分らの要求を撤回するよう強く求めた。にもかかわらず、日本側全権の黒田は、条約批准書に押す「朝鮮国王御璽」は「親書」を意味するものではないと言い張り、批准書に国王が署名することに固執した。副全権の井上(馨)は、「署名一つの問題で条約が締結されないなら仕方ない」「あなたたちには朝日交易を破棄し、国民を苦しみに陥れるのに比べるとどちらが重要か」と傲慢に言い散らし、威嚇した。(「朝鮮交際始末」3巻、「近代日鮮関係の研究」上、日本語版、498ページ)

 2月21日には、条約批准の形式を最後まで受け入れない場合、自分らは会談を中止し、帰国する、その場合、両国との間の平和を維持するのは困難になるとの通告文まで送ってきた。接見大官の申は、これは単に朝鮮側を驚かせるための下手な芝居であると見て、剛腹に日本側の通告文を無視してしまった。これにいっそう焦った黒田は22日、手先を送って朝鮮側の代表に本国に戻るが5日間の期限を与えるのでよく討議して答えをくれという「最後通告」を送り、一部のメンバーだけ残して江華府から撤収した。(「朝鮮交際始末」3巻、「近代日鮮関係の研究」上、501ページ)

 しかし、申は特に驚かなかった。それは、日本側が単に批准の形式と関連して引き続き固執する場合は条約の締結自体が危うくなるであろうし、黒田自身も苦境に陥るであろうということを見抜いていたからである。一方、事態がどんどん自分らに不利に変わるや江華府から撤退した黒田は、自分らの体面を立てるとともにその打開策を探すため朝鮮側の代表と裏交渉をせざるを得なくなった。しかし、朝鮮側の代表から、とうてい譲歩を得られなくなるや日本側の代表は2月22日、自分らの不純な提案をやむを得ず撤回して、朝鮮側が示した折衷案である朝鮮国王が直接署名しないかわりに国王の名が記された「朝鮮国主上之宝」を新たにつくって批准書に記すことに同意した。(「近代日鮮関係の研究」上、日本語版、502ページ)

 李朝政府は、「雲揚」号事件に対する遺憾の意を表明した「議政府照会文」を日本側に渡すことを約束した。こうして1876年2月26日、黒田一味は江華府で再び朝鮮側の代表と会って条約文について最終的に合意し、翌日の2月27日(陰暦2月3日)には、12の条項の「朝日修好条規」2部に両国の代表がおのおの名を記し、判を押して批准した。(「高宗実録」第13巻、13年2月3日、「近代日鮮関係の研究」上、日本語版、503ページ)

 以上のように、「江華島条約」は、終始日本の侵略者の横暴な軍事的威嚇・恐喝とずる賢い権謀術数によって強圧的に締結された不平等条約である。




 「江華島条約」は、日本側には朝鮮侵略のあらゆる有利な条件と特権を与え、朝鮮封建政府には隷属的な義務だけを強要した、徹頭徹尾、侵略的で隷属的な条約であったし、朝鮮社会の自主的発展を侵害して朝鮮に対する欧米資本主義列強の大々的な侵略の道を開いた犯罪的な条約であった。

 「江華島条約」はまず、日本の侵略者が将来、朝鮮侵略で自分らに有利な特権的地位と権利をやたらと規定したことにより、朝鮮の自主的発展を阻み、朝鮮に対する自分らの植民地支配の実現に有利な道を開いた犯罪的な条約であった。

 この条約で日本の侵略者は「朝鮮国は、自主国として日本国と平等な権利を保有する」(1条)と規定したことで、「自主」「平和」の聞こえのいい言葉で自分らの侵略的正体を巧妙に偽装し、当時朝鮮で自身の勢力の地盤があった清国と他の列強を押し出して独占的な支配を実現できる有利な地位を得た。

 条約ではまた、朝鮮の釜山を開港地に設定して、その後さらに2港を開港地に選定することを規定し、開港地で何の制限もなく自由な無関税貿易を行えると規定(4条、5条、9条、11条)したことで日本の資本の自由な浸透の道を開いた。

 そればかりでなく、条約を通じて日本の軍艦と商船などすべての日本の船の朝鮮領海での自由航行権と海域の測量および地図作成権(7条)を強奪し、開港地に日本の商人を「保護」する官吏(領事)を置いて日本人に治外法権的地位を保障して日本人の犯罪者に対する裁判権を日本の官吏にだけ与えるということを条約文に明記(8条、10条)したことで、自分らの無制限の侵略的・略奪的行為を働くことができる保証を整えた。

 条約の内容が示しているように、「江華島条約」は自由貿易権、沿海自由航行権および測量権、治外法権、領事駐屯権、補充条約締結権など日本の侵略者に一方的な特権だけを与える反面、朝鮮人民には隷属的な義務だけを負わせた不平等な条約であった。したがって、日本人自身も「条約は、朝鮮での日本政府および国民の権益を規定しただけで、日本での朝鮮政府および人民の権益は規定しなかった。日本国内の朝鮮人の生命・財産のようなものはもっぱら日本人の法律や命令によって支配されなければならない運命にあった。」(「朝鮮開国外交史研究」日本語版、236ページ)と認めた。

 「江華島条約」を通じて日本の侵略者は、李朝封建政府から膨大な植民地的利権を強奪したことで、朝鮮に対する独占的支配の野望実現の地盤を築くことができたし、結果、朝鮮は日本の植民地に次第に転落していくこととなった。

 「江華島条約」の犯罪性はまた、機会を虎視眈々とうかがってきた欧米列強の大々的な朝鮮侵略を誘発させ、朝鮮を資本主義列強の争奪戦場につくったことにある。

 「江華島条約」の締結直後、外来侵略者のなかで朝鮮侵略の先頭に立った国は米国であった。

 米国の支配層の間で日本が「江華島条約」を締結したことを非常に喜ぶ声が沸き上がった。彼らは一様に、「今こそ江華島条約によって朝米通商条約を締結できるようになった」(「朝鮮開国外交史研究」日本語版、282ページ)と歓声を上げた。

 その後、このような打算は、米上院海軍分科委員会のアーロン・サージェント委員長が米議会に提出した決議案に反映されて上院の外交分科委員会を通過し、1878年12月、「朝鮮開国案」に基づいてシューフェルト海軍提督によって実践に移された。

 シューフェルトは日本政府の案内を受け、李朝政府と朝米条約協議を実現するため策動の限りを尽くした。しかし、李朝政府の強硬な反米姿勢によって失敗を免れなくなるや、清国を利用して朝米条約協議を実現し、1882年に侵略的で不平等な「朝米条約」を締結した。

 「朝米条約」は、清国の介入のもとに欧州列強の朝鮮侵略の名分と侵略的な条約内容の枠組みを規定し、朝鮮侵略の端緒を開いた。

 日本によって「江華島条約」が強要された後、英国、ドイツ、フランス、帝政ロシアなど欧州列強がどっと押し寄せ、それぞれ不平等条約を李朝政府に強要した。

 「朝米条約」が締結されたということを知った英国は、清国との協力のもとに1882年4月、「平和」と「友誼」の名目でウィリス海軍提督が率いる軍艦ビジルランドを仁川に派遣した。

 李朝政府との会談では、双方の間で一連の意見が交換されたが、結局、李朝政府の屈従的外交によって強圧的に締結されて1883年10月、不平等な「朝英修好条約」(11条項)が批准された。条約締結によって李朝国家の自主権は、英国の侵略者によっても侵害されるようになった。

 「朝英修好条約」の締結に続いてドイツが朝鮮との条約締結のために上海でシューフェルトと会い、条約内容を論じて清国のあっせんで「朝米条約」と同じ条約を締結するという条件で李朝政府と会談を行い、1883年10月、「朝独修好通商条約」が締結された。条約は先行した協約と同じく侵略的な内容で一貫した。

 1882年に「朝米条約」が締結されて朝英、朝独間で条約交渉が始まると、同年4月にフランス領事のディロンが清国の協力を受けて李朝政府と条約交渉を始めたが、フランス側がカトリックの布教を主張したことで、その要請は実現されなかった。1884年の甲申政変の失敗後、投降主義的な閔氏一族がフランス側の要求を拒否できず1885年5月には「朝仏条約」が締結、調印された。条約内容はやはり欧米列強と結んだ条約と同じであったが、相違点は条約に「教化」という2文字を挿入したことでフランスをはじめ、欧米列強のカトリックの布教の自由を合法化できる口実となった。

 帝政ロシアは1884年、清仏戦争を契機に天津駐在ロシア領事のウェーベルを全権代表として漢城に派遣して李朝政府と朝ロ条約の協議をさせ、1882年5月には13条の隷属的な「朝ロ条約」が強圧的に締結された。条約は、ロシア側の一方的な権利だけを規定した不平等な条約であった。これによってその後、我が国の自主権は甚だしく侵害されるようになり、ロシアの朝鮮に対する政治・経済的利権の略奪の道が開かれることとなった。

 我が国は、外来侵略者の争奪戦場に変わり、民族の危機がさらに深まった。

 「江華島条約」のでっち上げは、狡猾で悪辣な日本の侵略者が、我が民族の自主権を無残に蹂躙した消すことのできない侵略行跡であり、我が国を欧米資本主義侵略勢力の争奪の場に引き込んだ万古の大罪である。

 こんにち、日本の反動層は、過去に朝鮮人民に与えた莫大な罪悪について誠実に反省して謝罪するかわりに、反共和国敵視政策と対朝鮮再侵略策動に執拗にしがみついて実に無分別に行動している。

 しかし、これは過去の教訓を忘れた愚かな行為である。

 軍事力が弱ければ民族の尊厳も国の自主権も守れないということを歴史の真理として胸に刻み付けた我が人民は、先軍の旗印のもとに100年来の敵である日本の過去の犯罪行為を総決算するであろうし、かつて朝鮮人民に与えたすべての血の代価を必ず受け取るであろう。
2011.2.27 朝鮮中央通信−朝鮮通信=東京




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