朝鮮ではたらいた米国の戦争犯罪
 −2013年7月5日−


 1 米国は、朝鮮戦争の挑発者、侵略者
 
 米帝が朝鮮戦争を挑発してから60年が過ぎた。

 戦争は、朝鮮人民に測り知れない不幸と苦痛、莫大な人的および物的被害をもたらした。

 米帝は、今日も戦争の挑発者、侵略者としての正体を隠し、その責任を朝鮮民主主義人民共和国になすりつけようと悪辣に策動している。しかし、歴史の真実は決して隠蔽することも、歪曲することもできないのである。

 朝鮮戦争は、第2次世界大戦後米帝が追求した世界制覇戦略の必然的な所産であった。

 第2次世界大戦で暴利をむさぼって急激に肥大し、世界帝国主義の頭として登場した米帝は、社会主義の影響力の増大と民族解放闘争の強化を阻み、世界制覇の野望を遂げるため、国際的に緊張を激化させ、新たな世界大戦挑発策動に狂奔した。

 米帝はそうした軍事行動計画の主要方向として、アジアの極東地域、特に朝鮮半島を選んだ。それは、朝鮮半島の軍事戦略的地位の重要性と、さらには朝鮮民主主義人民共和国が社会主義の強力な堡塁になりうるという危惧から出発したものであった。

 朝鮮戦争はまた、米帝が当面の国内危機を脱し、米国社会の軍事ファッショ化を実現するために挑発した侵略戦争であった。

 当時、トルーマン行政府は、長い間米国の政治舞台を独り占めしてきた民主党の政策に反発した共和党のタカ派の全面対決による政治的危機と、1948年末から始まった経済恐慌の破局的な拡大による深刻な経済危機に直面するようになった。

 米帝が、こうした政治的・経済的危機から脱するための打開策としたのが、ほかならぬ朝鮮戦争であった。

 米帝はまた、朝鮮戦争を通じてできるだけ多くの国を米国に服従させ、世界制覇戦略を実現するための兵力と軍事基地、戦略資源を確保することも追求した。

 朝鮮戦争は、米国が窮地に陥った李承晩(リスンマン)かいらいを救い、崩れつつある南朝鮮に対する植民地支配を収拾するために挑発した戦争であった。

 米帝の植民地隷属化政策と対朝鮮戦争政策を率先して実行してきた李承晩かいらい一味は、経済的破局、人民の反「政府」闘争と平和統一気運の高揚、執権層内部の分裂によって深刻な危機に直面し、それは1950年5月30日に行われた南朝鮮かいらい国会選挙での大惨敗を契機に絶頂に達した。

 米帝は、南朝鮮での植民地支配体制が破滅の危機に直面すると、そこから活路を開き、窮地に陥った李承晩を救い出すため、急いで朝鮮戦争を引き起こしたのである。

 米帝は世界制覇戦略の実現のための焦点を朝鮮戦争挑発に合わせ、侵略計画の作成に大きな力を入れた。

 米大統領トルーマンは、米極東軍司令官マッカーサーに、朝鮮戦争を含む極東侵略計画の作成を指示した。これに従って、米極東軍司令部には新たな戦争挑発のための作戦計画や諜報工作を研究する「G−2」「G−3」と呼ばれる集団が編制され、これに元日本軍の将官と高級将校で組織された「歴史班」と「KATO」機関が編入され、数年間にわたって戦争計画が作成されたのである。

 こうして作成された計画は「A、B、C計画」と呼ばれた。

 「A、B、C計画」の研究期間、世界制覇のための米帝の軍事戦略に従って、その第1段階である「A」計画を実現するための具体的な行動計画が数回も検討された。

 一方、米国は「局限戦争」重視戦略に移行し、朝鮮戦争を想定したより具体化された「北伐」軍事行動計画も作成した。朝鮮地図(1:100万)に記された「北伐」軍事行動計画図は、1950年6月、朝鮮人民軍によってソウルが解放された時、南朝鮮かいらい軍の陸軍本部で押収され世に公開された。

 米帝は「北伐」計画とともに、1949年6月、当時南朝鮮に滞在していた高位将校や外交官の家族をはじめ、米国人を有事の際にあらかじめ無事撤収させるための計画も作成した。

 米国は、こうして作成された「北伐」計画を、1949年7〜8月に実践に移すつもりだったが、武力挑発計画が朝鮮人民警備隊の自衛的反撃によって挫折すると、1949年末から1950年初にかけて前もって作成した戦争挑発計画を修正、補充し、「AL−3」という新たな朝鮮戦争挑発計画を完成させた。

 米帝は、国連を通じて北侵を「南侵」に歪曲宣伝すると同時に、国連の名を盗用して朝鮮戦争に米軍とともに追随国の軍隊を投入するための準備も前もって整えておいた。修正、完成された朝鮮戦争挑発計画は、1950年1月、米統合参謀本部会議を経て国家安全保障会議で討議、承認された。

 米帝は朝鮮戦争を準備するにあたって、南朝鮮でかいらい軍をつくり上げ拡大し、近代的に武装させることに重要な関心を払った。

 1945年11月13日、「軍政法令」第28号で「国防司令部」をつくりあげた米帝は、12月5日の軍事英語学校の設立から軍種、兵種、専門兵の各軍事学校を組織し、かいらい軍の将校や士官の育成のための教育と部隊訓練を積極的に推し進めた。

 米帝は、1946年1月に「国防警備隊」を創設し、1948年には、かいらい軍を陸・海・空軍を完備した正規軍に強化した。

 こうして、朝鮮戦争挑発直前まで南朝鮮かいらい軍の現役は、陸軍9万3000名、海軍1万5000名、空軍3000名に確保された。

 米帝の差し金のもとに南朝鮮かいらいは、北侵戦争に動員する予備兵力も組織した。

 結果、米帝と南朝鮮かいらいが目標としていた共和国北半部の人民軍武力に対する「10対1」の優位を確保することができた。

 米帝は、侵略武力の配置と戦闘行動を保障するための軍事基地および物資の準備も積極的に推し進めた。

 米帝は南朝鮮かいらい軍の総兵力の70%以上を38度線一帯に集中させ、作戦物資も38度線付近に集結した。そして、共和国北半部を侵略するための戦争準備の一環として、南朝鮮かいらいを唆して38度線以北地域への武力挑発を絶え間なく強行した。

 敵の武力挑発は、1945年9月から1946年末まで106回行われ、1947年に270余回、1948年にはその規模が拡大して390余回に達した。

 1949年に至り、敵は「北侵」計画を実践に移す企図のもとに「甕津(オンジン)地区戦闘司令部」のような指揮機構を別途に設け、38度線全域にわたって大隊、連隊、師団の規模で2617回も挑発事件を起こした。

 1950年には戦争挑発を前にして、38度線一帯での武力侵攻をさらに強化した。

 このほかにも、1947年から1950年6月までの期間に海上と空中で330余回も侵入事件を起こした。

 敵の武力挑発行為は、1947年から戦争挑発直前まで5150余回に上り、これには6万6400名のかいらい軍を含む8万3800余名の武装人員が動員された。

 敵はこれを通じて2つの目的を達成しようとした。

 1つは、38度線で武力挑発を強行して大「成功」すればそれを拡大して全面的な北侵戦争を引き起こすことであり、いま1つは、それが「成功」できない場合にも戦術的に有利な地域を占領することにより、以後の武力侵攻に有利な条件をつくることであった。

 一方、米帝は、38度線での武力挑発過程を通じてかいらい軍の実践能力を判断し、必要な対策を講じることにより、戦争準備に万全を期すことを画策した。

 米帝は朝鮮戦争を挑発するにあたって、戦争で不意打ちを保つとともに、戦争挑発の責任を我が共和国に転嫁するための有利な条件をつくる目的で、欺瞞策を弄し偽装攻勢をかけた。

 1950年に入り、米国は朝鮮半島には関心がないかのようにイメージをつくるため、狡猾にも「米極東防衛線」といったデマ宣伝攻勢をかけた。しかし、「米極東防衛線」が朝鮮侵略戦争のための一つの欺瞞策に過ぎないということは、それが発表された後、米帝が朝鮮戦争勃発の場合に取るべき「特別行動」に関する「NSC−68」戦略計画を立てたことを通じてもよくわかる。

 この計画は、1950年1月、トルーマンの指示によって国務省と統合参謀本部の連合会議で作成、合意され、4月2日、米国家安全保障会議で承認された。

 また米帝は、戦争前夜に週末休暇、旅行、晩餐会などの名目で高位人物の動きをつくりあげて、朝鮮戦争挑発者の正体を隠そうとした。

 米帝のシナリオどおり、李承晩かいらい一味も御用宣伝手段を通じて1950年6月初から実施してきた非常戒厳令を6月24日の0時を期して解除し、外出、外泊、休暇を「許可」するということと、かいらい軍の3分の2が「外出」したというデマを流した。

 また、かいらい陸軍本部の構内に新設した将校クラブの落成式を戦争挑発前日の6月24日の夕べに行い、これに第一線地区の指揮官とかいらい陸軍本部の高位人物が「参加」したかのように報道した。

 朝鮮戦争の準備を最終的に終えた米帝には、戦争の導火線に火をつけることのみが残った。

 トルーマンは、共和国北半部に対する戦争準備の状況を最終的に検討し、攻撃開始の命令を下達するため、国務省顧問ダレスを特使として南朝鮮に派遣した。

 6月17日、南朝鮮に到着したダレスは、翌日、南朝鮮駐在の米国大使、米軍事顧問団団長、南朝鮮かいらい国防部長官などを連れて38度線の最前線の陣地にまで出て各部隊の戦闘準備の状況を確かめ、「北伐」計画を検討した。

 38度線を視察した後ソウルに戻ったダレスは、李承晩と秘密会談をし、北朝鮮に対する攻撃開始を「指示」した。

 南朝鮮でかいらい軍の各部隊に戦争命令が下達されているとき、東京とワシントンでは戦争挑発のための最後の謀議が行われた。

 6月18日から東京で開かれた国防長官と統合参謀本部議長、極東軍司令官(後にダレスも参加)の秘密会議では、極東で新しいかつ積極的な政策が必要であるということが確認され、朝鮮における戦争挑発の日時と米極東軍と南朝鮮かいらい軍の準備状況に対する検閲結果が直ちにトルーマンに報告された。トルーマンの承認を得た戦争方案は、そのまま戦争挑発につながった。

 米国から戦争開始の命令を受けた南朝鮮のかいらい軍部は、6月21日、命令第29号で管下の部隊に6月25日に攻撃を開始することを命令した。

 6月25日の未明4時、米軍事顧問団の直接の指揮のもと、南朝鮮かいらい軍は38度線の全域にかけて共和国北半部に対する全面的な武力侵攻を開始し、これによって朝鮮戦争が起こった。

 すべての事実は、米帝こそは朝鮮戦争の直接の挑発者、侵略者であり、破廉恥な平和の撹乱者であり、朝鮮民族の百年の宿敵であることをいま一度はっきり示している。

 米帝が朝鮮民族に犯した罪悪の歴史を謝罪し補償するかわりに、我が共和国に言いがかりをつけてまたもや戦争挑発策動を追求するならば、朝鮮の軍隊と人民は米帝の罪悪を絶対に許さず百倍、千倍に決算するであろうし、それによってまねかれる政治的・軍事的対決戦において挑発者が得るものは破滅と死のみである。 


 2 朝鮮戦争での米国の犯罪的蛮行

 朝朝鮮戦争の時期、米帝は天人ともに激怒する殺りくと破壊、略奪行為を働いた。米帝が朝鮮人民に被らせた惨禍は、世界戦争史にいまだかつてなかった最も野蛮かつ反人倫的な特大の戦争犯罪である。

 米帝の犯罪のうち最も重大なのは、戦時の民間人保護に関する国際法に反する民間人大虐殺の蛮行である。

 戦争3年間、共和国北半部では、123万1540余名の一般住民が米軍によって殺害された。

 米帝侵略軍の一時的占領の時期、信川(シンチョン)郡で人口の4分の1に当たる無辜の住民が虐殺されたことをはじめ、戦争の全期間、黄海(ファンヘ)道では40万1940余名、平安(ピョンアン)南道では16万2180余名、平安北道では11万6220余名、咸鏡(ハムギョン)南道では11万5300余名、咸鏡北道では8万2020余名、江原(カンウォン)道では12万9390余名、慈江(チャガン)道では6万4240余名の住民が虐殺された。

 米帝は、平壌だけでも15万7840余名の住民を手当たりしだいに虐殺した。

 米帝の犯罪はまた、国際法によって厳しく禁じられている細菌戦を全面的に繰り広げ、大量殺りく手段である化学兵器を大々的に使用したことである。

 米帝は、共和国北半部の一時的占領地域から敗走しながら陰険な方法で伝染病菌を蔓延させ、1952年1月末から3月末までの2か月間だけでも北半部の400余か所の地域に700回以上も細菌弾を投下し、ペスト、コレラなどの悪性・急性伝染病菌をはびこらせた。

 また、1951年2月から1953年7月までの間に江原道、黄海道、平安南道など24の市、郡や前線地区に大量の化学兵器を使用した。

 さらには、食品に毒物をつけて飛行機で撒いたり、水源地を汚染させる目的でスパイに毒物を与えて侵入させる方法まで使った。

 米帝が敗亡した日本軍の専門家まで雇用して働いた細菌戦、化学戦により、共和国北半部では5万余名の住民が殺害された。

 米帝は、戦争捕虜の待遇に関する国際協約も眼中になく、戦争捕虜を非人間的に虐待し、あげくの果てはむやみやたらに殺し、人体実験用にする犯罪行為もはばからなかった。

 米帝は、共和国北半部の一時的占領時期と敗走時に、威嚇と恐喝、懐柔と欺瞞によって数多くの人を拉致し強制的に連行することにより、民間人の強制移送を禁じた戦争法規に反する犯罪行為を働いた。

 米帝は、捕虜交換の人質や軍事施設物の工事に使うために、女性たちを彼らの性奴隷にするために占領地域から数多くの住民を拉致し強制連行し、敗走する時にはさまざまな流言蜚語を飛ばし、甚だしくは「原子爆弾を投下」すると威嚇して数多くの人を南朝鮮に無理やりに連れて行った。こうして、数百万の家族がいままで北と南に別れて暮らしている。

 米帝が共和国北半部で働いた破壊と強奪行為は、その被害内容と程度において世界大戦をはるかに凌駕する未曾有の災難をもたらした。

 米帝は、平和な都市や村落、住宅、建物はいかなる手段によっても攻撃または砲撃できないとした国際法の規範に背き、朝鮮戦争の初日から共和国に無差別の爆撃と砲撃を加え、都市と農村を廃墟にした。

 米帝が朝鮮戦争3年間に投下した爆弾は56万4436トン、ナパーム弾は3万2356トン、ロケット弾は58万7189発、煙幕弾は5万5797発である。

 米帝の蛮行により、3年間に5万941棟の工場、企業の建物と2万8632棟の各級学校の建物、病院、診療所をはじめ、4534棟の保健医療施設の建物、579棟の科学、研究機関の建物、8163棟の出版・文化機関の建物、207万7226棟の住宅が破壊され、宗教儀式に利用されていた7491棟の建物が跡形もなく消えるなど、計241万6407棟の建物が甚だしい被害を受けた。

 これとともに、4879キロメートルの鉄路と4009キロメートルの道路、1109キロメートルの橋梁、1489台の機関車、4803台の自動車、6281隻の漁船や船舶が破壊され、1715か所の貯水池とその施設物が爆破または損傷を受けて莫大な人的・物的および環境被害がもたらされた。

 農村では、56万3755ヘクタールの耕地が荒廃化し、15万5500ヘクタールの田畑面積が減少し、36万9101頭の牛と76万4604頭の豚など数百万頭の家畜が屠殺または強奪された。また、4075万5640件に達する国宝級の民族古典をはじめ、古書や図書、文書と資料が焼失または遺失されたことをはじめ、民族文化遺産が破壊、略奪された。

 これは、米帝の朝鮮侵略戦争こそは世界戦争史上最も野蛮な大規模の破壊戦争であることを示している。

 戦争の時期、朝鮮に来た国際民主婦人連盟調査団のメンバーは、このむごたらしい被害を目の当たりにし、米帝の破壊蛮行に憤激した。

 朝鮮戦争が終わってからほぼ60年になろうとしているが、朝鮮人民は米帝の蛮行を一時も忘れていない。

 米国は、朝鮮戦争で働いた犯罪的蛮行の責任を絶対に免れることはできず、必ず国際法による制裁と追及を受けるということを肝に銘じるべきである。





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