米国は朝鮮戦争を挑発した侵略者
朝鮮歴史学学会備忘録 
−2013年6月24日− 


 朝鮮中央通信によると、朝鮮歴史学学会は24日、祖国解放戦争勝利60周年を迎え、「米国は朝鮮戦争を挑発した侵略者である」と題する備忘録を発表し、次のように指摘した。

 朝鮮戦争は、米国によって生まれた民族分裂と同族対決の悲劇の産物であった。

 第2次世界大戦後、米国は犯罪的な朝鮮侵略政策、世界制覇政策に従って朝鮮の半分の領土を占領し、一つの民族を二分したし、同族対決をあおって我が同胞にあらゆる不幸と苦痛を強いた。

 百数十年前から米国は、アジア大陸の関門である朝鮮を侵略して自分らの支配下に置くことを国家政策にかかげた。米国の支配層は、1845年2月に「朝鮮開放案」を議会に上程させ、我が国に対する侵略を実現するために手段と方法を尽くした。

 1866年の侵略船シャーマンの侵入を契機に朝鮮侵略へと乗り出した米国は、万景台の人民と平壌城の軍民の戦いによって惨敗を喫した後も、1868年のシェナンドアとチャイナの侵入、1871年の大規模な武力侵攻事件を次々と起こして我が民族を征服しようと狂奔した。

 米帝は、1905年の「桂・タフト協定」の締結後、日帝の朝鮮占領と植民地統治をあおり、将来、朝鮮を自分らの植民地にするための策動を系統的に行った。

 朝鮮人民革命軍部隊の祖国解放作戦開始とソ連軍の対日作戦参加を契機に日本の敗北が予想外に早まると、ともすれば朝鮮半島全体を失いかねないと打算した米帝は1945年8月10〜15日、日本軍の降伏を受け取るための「分担線」の美名のもとに38度線境界線を慌てて考案した。

 米帝は、38度線境界線を考案した後、太平洋地域連合軍のマッカーサー総司令官の「一般命令第1号」を通じて朝鮮の38度線以南地域に対する軍事的占領を連合国に一方的に通知した。

 1945年9月8日から10月末までの期間に「解放軍」の帽子をかぶった米軍が銃一発撃たずに南朝鮮を占領した。

 1945年9月7日、米帝はマッカーサー司令部布告第1号を通じて南朝鮮全域で軍政を実施することを公布したのに続き、9月11日には米「軍政庁」を設置した。

 軍政統治に反対、排撃するすべての朝鮮人民の闘争機運が高まると、米帝は朝鮮問題を不当に国連に持ち込んで南朝鮮での単独「選挙」に関する「決定」をでっち上げ、暴圧と詐欺の詐欺で親米的な反共対決「政権」をつくり上げた。

 米帝が国際条約を踏みにじり、朝鮮侵略野望、世界制覇野望に従って南朝鮮を占領し、我が民族に分断の苦痛を強いた罪悪の歴史は、北南対決と同族争いの元凶の正体をはっきりと示している。

 南朝鮮にかいらい政権がつくり上げられた後、米帝は共和国北半部を侵略するための戦争の準備を本格的に進めた。

 朝鮮戦争挑発の準備を主導した張本人としての米帝の陰険な正体は、侵略戦争遂行の突撃隊の役割を果たすことになるかいらい軍を編成し、急速に増強させたところにも明白にあらわになった。

 米帝は、当時としては、世界最大規模である500人の軍事顧問団を南朝鮮に駐屯させてかいらい軍の指揮体系、部隊編成などを米軍形式にし、軍事訓練もそれに合わせて行うようにした。

 侵略戦争の準備を主導した米帝の正体は、戦争計画作成および完成を通じてもさらによくわかる。

 戦争計画(ABC計画)を3段階に分け、第1段階は朝鮮侵略戦争から開始(A)し、第2段階は戦争の炎を中国に拡大(B)し、最終段階にはシベリアへ侵攻(C)し、作戦開始を1949年と予想した。

 米帝は、北侵戦争計画の実効性を検証するために「北伐」に狂奔するかいらい軍を武力挑発へ駆り出した。

 米帝とかいらい一味の狂気じみた北侵武力挑発行為によって、38度線一帯では戦争を連想させる激戦が6.25前夜まで引き続き行われた。

 米帝は、北侵戦争挑発の責任を回避するための狡猾で卑劣な陰謀も推し進めた。

 1949年10月、米帝は第4回国連総会で「朝鮮での軍事紛争」を「監視」「報告」するとの美名のもとに朝鮮戦争挑発の真相を覆い隠し、黒白を転倒する使命を担った第3次「国連朝鮮委員団」をでっち上げた。

 一方、朝鮮戦争挑発後、国連安全保障理事会と総会に提起する「基礎文書」と「決議案」もあらかじめ作成された。

 これらの事実は、米帝が大々的な兵力増強と「北伐」作戦計画の完成、各種の武力挑発策動などを通じて朝鮮戦争挑発の準備を計画的に推し進めた張本人であることを全世界に告発している。

 1949年末から1950年初に入って対内外的に深刻な危機に瀕したトルーマン政府は、タカ派の人物であるダレスを国務省の対外政策顧問に据えて強硬的な極東政策に方向転換した。

 その骨子がまさに、朝鮮侵略戦争の挑発であった。

 1950年6月、ソウルに飛来したダレスは、38度線一帯のかいらい軍陣地に対する現地視察を行い、作戦地図と模型まで見て戦争計画を最終検討した。

 ダレスのソウル訪問と時を同じくして米国防長官、米統合参謀本部議長が東京のマッカーサー司令部に入った。東京会談の名分は、対日講和条約の問題であるとしたが、それは単なる欺瞞にすぎなかった。

 結局、彼らの東京訪問は、ダレスのソウル訪問と同様、もはや既成事実となった朝鮮戦争に米極東軍部隊を投入する問題を決定し、戦闘準備態勢を現地で検討するためのものであった。

 1950年6月25日午前4時、米帝はかいらい軍部隊を駆り出してついに侵略的で犯罪的な朝鮮戦争を挑発した。

 朝鮮戦争放火の主役を担ったマッカーサーもやはり、「この戦争は私の計画であった」と打ち明け、侵略戦争を挑発した犯罪行為をみずから認めた。

 諸般の事実は、朝鮮半島で同族の対決と争いの禍根をつくって侵略戦争の火ぶたを切った張本人、戦争放火犯はほかならぬ米国であることを立証している。

 米国は、先の1950年代の朝鮮戦争で膨大な兵力と最新型の武力装備を総動員しながらも、朝鮮人民にひざまずいて降伏の判を押した恥辱の歴史を忘れてはならない。【朝鮮通信=東京】





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