朝鮮戦争の挑発者
−2013年6月15日− 


 日本の敗亡(1945.8)後、朝鮮半島は旧日本軍の武装解除を口実に米国が一方的に引いた38度線を境界に二分されるようになった。38度線の以北地域では、人民のための諸民主改革が実施され、1948年9月には朝鮮民主主義人民共和国が創建された。反面、以南地域では、米軍政が敷かれ、李承晩(リスンマン)かいらい政府がつくり出されて社会の民主的発展が甚だしく抑止された。

 1950年6月25日、朝鮮半島で戦争が勃発した。

 それでは、この戦争の勃発経緯を資料を挙げて見ることにする。

 「米国の支配層は、全朝鮮を自国の影響下に置いて朝鮮人民を政治・経済的に従属させ、朝鮮半島を中華人民共和国とソ連を侵攻する足がかりにしようとした」(旧ソ連の図書『朝鮮戦争』第1部、旧ソ連国防省軍事出版社、1959年)

 「1950年初、ワシントン駐在韓国大使張勉(チャンミョン)は、「私は、国務省とペンタゴンが、アメリカの極東政策に関して確固たる立場をとる計画をしているとの通報を受けました。この防共計画で韓国は、重要な地位を占めるでしょう」と李承晩に報告している。そのような政策を追求したトルーマン大統領は、対外政策のタカ派である共和党の代弁者ダレスを対日講和条約に関する問題解決で国務長官を補佐する特別大使に任命した。
 ……
 1948年、国連総会に参加した米国代表団の一メンバーであるダレスは国連をして、李承晩政権を朝鮮の唯一の合法政府であると認めさせるうえで主役を果たした。ここでダレスの目的は、朝鮮で民主主義を守り、または李承晩そのものを擁立することにあったのではなく、アジアにおける米国の反共・転覆活動の拠点を東アジアに設けることにあった。それは彼が、南朝鮮は「まもなく繰り広げられる大演劇の重要な役」を担当するであろう、とくりかえし公言していることからも明らかである。
 ……
 ダレスの野望は、李承晩の大統領就任を助けることで、北朝鮮ひいては中国征服の基地をアジア大陸に設けることであった」(米国の図書『朝鮮戦争:回答のない質問』、16〜17ページ)

 日本の図書『アメリカの極東軍事戦略』には、「米国は、朝鮮で米・ソ共同委員会をボイコットし、米ソ両軍が南北朝鮮から同時に撤退するというソ連の提案を拒否(1947年10月2日)し、南朝鮮への軍事占領を継続させるということを明らかにした。ウェデマイアー中将は、南朝鮮における軍事基地化の計画進行状況を視察した後、次のように報告した。『…朝鮮の統一と独立は、アメリカの利益全般に重大な脅威となるので絶対に許してはならない。軍事占領の範囲も全朝鮮に拡大せねばならない』 ウェデマイアーレポートの結論は実践に移された。これが朝鮮戦争であった」と書かれている。

 米国の図書『朝鮮戦争:回答のない質問』には、純粋に軍事的見地に立って見るならば、李承晩が当時、北朝鮮への攻撃をあせったのにはそれなりの理由があったといえる。北朝鮮は弱小で、毛沢東はまだ中国全域の支配をかためていなかった反面、南朝鮮兵士の士気はすこぶる高かった、と叙述されている。

 「…アメリカ独占体は、戦争ヒステリーを助長し、大きな利潤を得る目的から自国経済の軍国化を強化するために朝鮮戦争をその口実としている」(旧ソ連図書『朝鮮戦争』第1部、旧ソ連国防省軍事出版社、1959年、翻訳版)

 日本の図書『朝鮮戦争』には、朝鮮戦争は米国が直面している経済危機の打開策となっている、という内容で書かれている。

 米国の図書『朝鮮戦争の歴史』(上、日本語版)には次のような内容で叙述されている。

 疑いなく朝鮮戦争の動機と原因は複雑であった。それには、武力によってのみ全朝鮮半島を支配することができると思っている危機に直面した李承晩の野心も含まれていた。…この戦争は台湾にある彼ら(米国)の手先が敗北して中国を代表するというベールまで脱がされる前に足場を強固にする時間と場所を提供した。トルーマン政府の見方は、中国でのようなゆゆしい事態が生じるのに合わせて行動を開始することであった。

 日本の図書『侵略者は誰なのか』には、1949年6月5日付け「ニューヨーク・ヘラルドトリビューン」紙に掲載されたソウル特派員の報道によれば、アメリカ軍事使節団のロバート団長は500人以上のアメリカ軍事顧問団のメンバーを率いて、北朝鮮を攻撃するため南朝鮮軍を熱心に訓練させているとし「米国の納税者は、朝鮮で我が国(米国)の投資を守る立派な番犬である軍隊をもっており、これが最小限の費用をもって最大の成果をあげる力である」という内容で指摘されている。

 また、ロバートは「…南朝鮮軍の個々師団に少なくとも13〜14人の米軍将校が配属されている」としながら「彼らが南朝鮮の将校とともに働き、ともに38度線に進駐しており軍事作戦の時や休息の時などともに行動している」といった。

 米国の指令に従って、南朝鮮では戦争挑発準備が急速に進められた。

 「1949年7月ごろ、南朝鮮政府は、米極東軍総司令官マッカーサーの指示に従って朝鮮民主主義人民共和国を侵攻する準備を完了した。ところが、当時南朝鮮軍の後方でパルチザンが積極的に戦闘行動を展開し…はては個別的な南朝鮮軍部隊が朝鮮民主主義人民共和国側に寝返ったことと関連して侵攻計画を実現することができなかった。その後にも、米国政府と李承晩一味は北朝鮮を侵攻する準備を瞬時も中止せず続けた」(旧ソ連の図書『朝鮮戦争』第1部、旧ソ連国防省軍事出版社、1959年)

 「南朝鮮軍司令部とアメリカ軍事顧問は長い間、朝鮮民主主義人民共和国を侵攻する準備を行った。この侵攻のために南朝鮮軍総兵力の70%以上が集中した。敵らはこの兵力で朝鮮民主主義人民共和国を不意侵攻すれば、朝鮮人民軍をゆうに撃破することができるだろうと推算したのである」(同上)

 「1950年5月末〜6月初、南朝鮮軍は朝鮮民主主義人民共和国を侵攻する準備をいっそう強化し始めた。師団本部と軍団本部は実際のところ、攻撃計画に基づいてその兵力を配置しかけている。6月中旬、南朝鮮の軍部隊は出発区域に集結し、戦闘準備を完備した」(同上)

 「1950年6月現在、南朝鮮軍は、陸軍、空軍、海軍、郷土軍に編成された。陸軍は総9万3000名であり、8個の歩兵師団(1、2、3、5、6、7、8、首都師団)と独立騎兵連隊、5個の独立大隊(歩兵大隊3個、通信大隊、憲兵大隊)、3個の独立砲兵大隊、7個の専門兵大隊(工兵大隊、通信兵大隊、兵器大隊2個、兵站大隊、砲兵機材供給大隊、医務大隊)からなっている。

 空軍は総人員3000名であり、飛行隊(飛行機40台、その中で追撃機25台、輸送機9台、教育訓練用の飛行機と連絡飛行機5台)と飛行場管理大隊、対空防御大隊(37mm砲6門、大口径機関銃4挺)、軍事学校(教育用飛行機21台)からなっている。

 海軍は5個の艦船戦隊(1、2、3戦隊、教育戦隊、鎮チン海ヘ海軍基地)、海兵隊連隊、9個の沿岸警備隊、2個の海軍教育機関からなっており、人員は1万5000名、艦船71隻(駆潜艇2隻、掃海艦21隻、上陸艦5隻、補助船舶43隻)であった。

 郷土軍には5個の旅団(101、102、103、105、106)があり、105旅団を除いては各旅団に3個の連隊ずつあった。(105旅団には2個の連隊があった)郷土軍の総人員は約5万名であった。…

 このように、南朝鮮軍は警備部隊にあった2万名を含んで戦争直前に総人員が18万1000名であった」(同上)

 米国の図書『朝鮮戦争は誰が引き起こしたか』には「北朝鮮にたいする攻撃準備は1950年5月に全部終わった」という内容で叙述されてある。

 「北への攻撃を熱望してやまなかった李承晩は、ダレス・李承晩協定の実現に乗り出した。かれの指示で南朝鮮軍将校は急ぎ行動を開始した。しかし、ダレスの不審な境界線視察に警戒心を高めていた北朝鮮軍は、李承晩の攻撃に対処して万端の準備をととのえていた。…李承晩の戦略は甕津(オンジン)の精鋭部隊が北側の戦略的重要都市海州(ヘジュ)を占領する一方、38度線の中部および東部戦線で朝鮮人民軍を釘付けにすることであった。そのため南朝鮮軍は、1950年6月23日夜、北朝鮮の海州地方に向け大々的な砲撃を加えた。砲撃は6時間つづいたが、海州に近い甕津の朝鮮人民軍防御陣地を破壊することができなかった。南朝鮮軍は莫大な人命の損失を出しながらも、海州市に一時突入することに成功した」(米国の図書『朝鮮戦争:回答のない質問』)

 「…6月23日午後10時に、南朝鮮軍が甕津半島東部で105mm曲射砲と重迫撃砲をもって朝鮮民主主義人民共和国の防御陣地を砲撃し、それは6時間つづいたというのである… その6時間の砲撃後しばらく砲声は止んだが、再びいくぶん度数の低い砲撃がはじまり、それは6月25日午前4時ごろまでつづいた。北側はそれを、南側が全面攻撃に先立っておこなう煙幕であろうと疑った」(同上)

 「南朝鮮軍は6月23日から朝鮮人民軍陣地に砲射撃を加えはじめた。6月25日未明、38度線の全域に渡って攻撃へ移行し、一部の地域では朝鮮民主主義人民共和国の領土を1〜2キロメートル侵犯した。朝鮮人民軍部隊は、南朝鮮の攻撃に頑強に抵抗し、侵略的な侵攻行為を撃退した。
 南朝鮮軍は、鉄チョル原(チョルウォン)方向と金川(クムチョン)、甕津郡以北1〜2キロメートルの奥行きに進出することができた」(旧ソ連の図書『朝鮮戦争』第1部、旧ソ連国防省軍事出版社、1959年、翻訳版)

 米国の朝鮮戦争介入に関して日本の図書『朝鮮戦争』第1部には次のような内容で叙述されている。

 ……
 東京では、チャーチ准将が連絡を受けてすぐにワシントンに、在日米軍2個の師団を南朝鮮戦線へ投入しなければならないという電報を打った。同日(26日)午後4時(ワシントン時間で26日3時)に通報を受けた参謀総長コリンズ大将は、陸軍長官のペイス、統合参謀本部議長ブラッドレーに連絡する一方、テレタイプでマッカーサー元帥と協議した後、トルーマン大統領の決裁を要求した。大統領はすでに起き上がって髭を剃っていた。彼は先に1個連隊の派遣を承認し、そして2個師団の投入も決裁した。テレタイプで指示を受けたマッカーサーは、すぐにアメリカ第8軍司令官のウォーカー中将に米軍の出動準備を命令した。ウォーカー中将は、小倉駐屯第24師団の一部の兵力を急派することにした。米国の本格的な介入が始まったのである。…

 米国は朝鮮戦争に多くの追随国軍も引き入れた。

 「米国は、朝鮮に自国の軍隊を派遣することのみにとどまらなかった。米国は事実を乱暴に歪曲して、威嚇、恐喝しながら国連で自国の侵略的な行動を支持するイギリス、オーストラリア、ベルギー、オランダ、ギリシャ、カナダ、コロンビア、ニュージーランド、タイ、トルコ、フィリピン、フランス、エチオピア、ルクセンブルグ、南アフリカなどの諸国の連合部隊、部隊、区分隊を朝鮮への武力干渉に参戦させることを保障する決定を採択させた」(旧ソ連の図書『朝鮮戦争』第1部、旧ソ連国防省軍事出版社、1959年)





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