コンクリート壁の実態
南北の自由往来と全面開放へ
−1990年1月30日−


コンクリート障壁は、山と谷を越えてのびる

自由往来をめぐる南北の立場

 金日成主席は、1990年1月1日に行った「新年の辞」で、軍事境界線南側地域に築かれたコンクリートの壁を取り除き、南北間の自由往来を実現するとともに、北と南が政治、経済、文化をはじめとするすべての分野を互いに全面開放することを主張した。

 金日成主席は、以上の問題を討議するために、北と南の最高位級が参加する当局と各政党首脳の協商会議を招集すべきとの新提案を打ち出した。

 これは、解放された朝鮮民族がみずからの意思に反して南北の分断が押しつけられたまま45年もの長き歳月が流れた現状のもとで、この民族的悲劇に終止符をうち、一日も早く祖国の統一をなし遂げようとする全民族の歴史的悲願を反映したものである。

コンクリート障壁に設けられたトーチカや見張り所

 この新提案に対し、南の当局者は、去る10日の年頭記者会見で、北側が自由往来と全面開放問題を提案したことは「歓迎する」としながらも、「理解することができない前提条件」との表現でコンクリート障壁の存在をうやむやにして協商会議の開催にも応じる姿勢を示していない。

 南側が全面的な自由往来と南北間の開放を要求する北側の一貫した主張をかたくなに拒否し続けて来たことは周知の事実である。1972年に7.4南北共同声明が発表されたのを契機に南北調節委員会が設けられ運営されたことがある。当時北側は、政治、経済、軍事、文化など全面的な交流と開放を要求したのに対し、南側は南北間の交易と金剛山の観光開発など、ごく限られた「部分交流」を主張、結局決裂した。また、離散家族問題を討議している南北赤十字会談でも、北側は離散家族の全面的な自由往来の実現を提案しているのにたいし、南側は離散家族の生死の確認、書信の往来などに力点をおいた提案をくり返し自由往来を通じた人道問題の解決に応じようとしていない。

 南側が年頭記者会見で自由往来と全面開放を「歓迎する」としながらも結局それを拒否しているのは、南北間の全面的な門戸開放と民族の統一に否定的な南側の姿勢に何らの変化がないことを示している。


クローズアップされた壁の存在

建設中の壁、全斗煥「大統領」も第1師団長当時に
壁建設の指揮にあたったとされる
 北の新提案に端を発した南北間のやりとりのなかで、浮上したのがコンクリートの壁の存在。

 コンクリートの壁は、248キロにわたる軍事境界線南側非武装地帯沿いに築かれており、人為的な「国境線」化している。

 朝鮮半島を2分する壁は、ベルリンの壁が東側によって築かれたのとは異なり、南側によって築かれ、民族と国土の分断と南北対決の象徴にもなっている。

 しかし、朝鮮半島の壁は、南側がその存在を公表しないばかりか、市民の出入りが極度に制限されている軍事境界線沿いに築かれていることから、一部の専門家を除いては一般に知られていなかった。

 これをよいことに南側は壁の存在を否定してきた。

 国土統一院と国防部は、去る1月3日と6日にそれぞれスポークスマンのコメントを発表、「そのような壁は存在しない」と公式に否定した。

川にも築かれたコンクリート障壁

 しかし、南側当局者によるこのようなコメントは明らかに事実とは異なる。

 朝鮮半島の壁の存在は去る1979年1月、共同通信によって、日本ではじめて報じられた。

 「新たに長大な壁構築」「第2のベルリンの壁」「非武装地帯の南側沿い」などのタイトルをつけて報じた同年1月27日付「信濃毎日新聞」によれば、共同電は次のように指摘している。

 「休戦ラインの両側2キロずつの非武装地帯南側沿いに韓国版・万里の長城ともいわれる長大な壁が建設されている。最前線にいってみてわかったものだが、高さ約5メートル、厚さは頂上部分2〜3メートル、底辺部分だと10メートル近い巨大な土手である。北朝鮮側に向いた面は、上部がそり上がっており、石垣をはめ込みコンクリートで固めた恒久構築物だ。

 駐韓米軍筋にあたってみたところ、これは対戦車防御用の半島横断堤の建設事業、77年末から78年はじめにかけて主要戦線で着工されたもので、最終的には最前線約250キロのほぼ全線にわたって建設される計画という」

 また同共国電は、既に79年1月の時点でソウル北方の西部戦線、鉄原近くの中部戦線で一部が完工している事実を明らかにし、政治的には「…東西ドイツの分断を決定的に印象づけたあの『ベルリンの壁』に似た象徴的心理効果を与えることにならないかと懸念する外交筋もある」と指摘している.

 コンクリートの壁は、去る1980年9月に北朝鮮を訪問した自民党アジア・アフリカ問題研究会(AA研)訪朝団に随行した日本人記者団によって目撃されている。

 当時の朝日新聞(80年9月17日付)は、「南北の軍事境界線240キロに沿って韓国側が築いたコンクリート壁を日本人記者として初めて北側の監視所から見る機会を得た」としながら「コンクリート壁は、谷を隔てた向こう側約4キロ先の山腹に、白い筋となって東西に走り、肉眼でもよく見えた」と報じた。

 この壁と関連して、南側当局は、去る79年12月29日に「首都圏防御壁竣工式」を公開したことがある。

 当時、中央日報(1979年12月29日付)は、「壁はソウル北方○○地点をはじめ、○箇所の主要道路に設置」されたと報じている。ただこの「防御壁」なるものが、軍事境界線沿いを走るコンクリート壁とつながったものか、より南側の主要道路に設置されたものかどうかは定かではないが、壁が南側当局の手によって構築されたことを示すものだ。


北側軍当局者の記者会見

 軍事境界線沿いに築かれたコンクリートの壁と関連し、北側朝鮮人民軍のキム・ヤンゴン少将は、今年の1月11日にに平壌で記者会見を行いその実態を暴露した。

 北側の責任ある軍事当局者が壁の存在を具体的に公表したのははじめてのこと。

 軍事境界線の両側に2キロずつ、計4キロの非武装地帯をはさんで、駐韓米軍および南側国軍と対峙している朝鮮人民軍が、壁の存在を正確に観察できる立場にあることはいうまでもない。

 キム・ヤンゴン少将によれば、コンクリート壁の構造は底辺が10〜19メートル、頂上部分が3〜7メートル、高さは5〜8メートルで、軍事境界線の全区間にわたっている

尾根づたいに築かれたコンクリート障壁

 また、壁は平野地帯だけではなく山岳地帯にも構築されており、地形的に垂直な壁の構築が無理な地点には、水中障害物、コンクリート遮断物が設置されている。

 さらにこの壁の前には反戦車、反歩兵地雷が埋設されているばかりか、鉄条網などの各種の遮断物が設置されている

 一方、同少将は南側が壁の存在を否定しつつ、反戦車遮断物であると弁明していることと関連、1)反戦車遮断物ならば高さ2〜3メートルで充分、2)装甲車、戦車などが克服することができない傾斜度が30度以上の山岳地帯にも壁が築かれていると反論している。

 以上のように日本のマスコミによる報道、朝鮮人民軍キム・ヤンゴン少将の記者会見などを総合してみると、コンクリートの壁が軍事境界線の全線にわたって構築されているこしは紛れもない事実である。また、コンクリート障壁の撤去など北側新提案を報じた日本の一部マスコミが、壁の長さは「4〜5百メートル」と報じたのは明らかに誤報である。これは、北側がいままでに公表した写真を見ただけでもわかる。


分断固定化政策の流れのなかで

 当初、壁の存在を否定していた南側国軍は、壁の存在自体を否定するのは無理とみたのか、1月19日になって壁の一部を外国人記者団に公開せざるを得なかった。しかし、南側はあくまでも壁は対戦車遮断物で、軍事境界線沿いの一部にだけ構築されたものと主張している。この説明は具体性に欠け説得力かない。

 北側のキム・ヤンゴン少将が明らかにしたように戦車が克服することのできない山岳地帯にも壁が築かれているばかりか、その構造をみても壁が単純な対戦車遮断物として説明できるものではないことが明らかであろう。

 これは、コンクリート壁が軍事的必要性によってだけ築かれたのではなく、朝鮮の分断固定を狙う南側の政治的思わくがより強く作用した結果構築されたことを示している。このような意味で、コンクリート壁が、ドイツの分断を決定づけたベルリンの壁に似た心理効果を与えるとの報道は的を得ている。

 事実、南側当局が「国連同時加盟」を唱えた1973年の「6.23宣言」を機に、南側の“統一政策”は、それまでの「勝共統一」路線から「2つの朝鮮」路線にシフトしている。

国土の分断と民族の分裂を固定化するために構築されたコンクリート障壁

 コンクリートの壁は南側の分断固定化政策の流れのなかで構築されたもので、それは南北の対立と朝鮮半島分断の象徴として存在しているのである。

 統一を悲願とする全民族の立場からみれば、分断の象徴としてのコンクリート壁はベルリンの壁と同様無用の長物であろう。

 ベルリンの壁を開放したことを米国も南側当局も歓迎していることから見て、朝鮮を南北に引き裂く時代錯誤的な巨大なコンクリートの壁を取り壊せない何らの根拠もないのである。

 しかし、南側当局は、コンクリート壁の存在すら否定、もしくは弁明に終始するたけで、南北間の自由往来と全面開放のよびかけも無視しようとしている。

 ソウル当局は、このような不誠実な態度を直ちに改め、1990年代を祖国統一の年代にしようという全朝鮮民族の一致したい声に具体的行動をもってこたえるべきである。


〔軍事境界線〕

 1953年7月27日に調印された朝鮮軍事停戦協定によって画定された。

 西海岸の臨津江河口の北側、頂洞里の村はずれの小川から東海岸の南江下流、カンジョン村の浜辺まで全延長は248キロで、朝鮮半島の腰の部分を南北に分断している。

 この境界線から北と南へそれぞれ2キロの域内が、いわゆるDMZ(DEMIL ITARIZED ZONE 非武装地帯)で総面積970平方キロ、済州島の半分強である。


 248キロの境界線上には縦0.5メートル、横1メートルの板に「軍事境界線」と書かれた高さ1.5メートルの標識が1292個立ち並んでいる。

 軍事境界線にはDMZ内の514の集落を消滅させたばかりか、122村、27面、8郡を南北に引き裂き、3つの1級道路、24の2級道路、197の中小道路と京義線、京元線など4つの鉄道を分断している。

 もともと一つの国土である朝鮮半島の北緯38度線上に境界線が設けられたのは1945年8月のこと。

 この境界線は、朝鮮の独立と自由をとりきめたカイロ、ポツダムの国際的な約束に反して“日本軍降伏受諾”(日本軍の武装解除)を口実に米国によって引かれた。

 ラスク元米国務長官は、この線引きに直接関与した人物。同氏は、1)私ともう1人、すなわち後に駐韓米軍司令官を務めたボンスティル大佐(当時)が日本軍武装解除のための分割線の建議案を作るよう指示された2)我々は日本軍の降伏を受けつける地域に首都ソウルが含まれるべきだと考えた3)ソウル以北に38度線しか発見できなかった我々は38度線を米ソの分割線として建議、それがそのまま採択された−と述べている(「朝鮮日報」1990年1月1日付)

 表向き米ソによる日本軍武装解除のために引かれた境界線は、38度線以南に上陸した米軍が軍政を実施し、南側地域での単独政権樹立を計ったことから、朝鮮半島を2分する境界線と化した。

 朝鮮戦争後の軍事境界線は、それまで南側地域であった開城が北側地域に編入されるなど多少の出入りはあるが、米国によって線引きされた38度線にほぼ沿って画定されている。

 コンクリートの壁は、軍事境界線から2キロの南側DMZに沿って東西248キロを走っている。


「必ずや、その壁を突き崩す祖国統一」

 1989年6月30日、第13回世界青年学生祭典参加のため平壌入りした南の全大協・林秀卿代表も、同年7月26日に板門店の東側約35キロ地点にある無名高地からコンクリート障壁を見た。

 
 その際、彼女は、

 「分断の壁が240キロメートルも横たわっているが、必ずやその壁を突き崩す祖国統一のその日をめざす気持ちで参観しました。我が故郷が望める場所から。

 統一念願45年7月26日

 全国大学生代表者協議会・林秀卿」

 との文を残した。
                                                                            
出典:「コリアレポート・サービス」(1990年1月発行)
画像=「コンクリート障壁」 平壌・外国文出版社(1984年発行)




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