日本は朝鮮侵略戦争に直接参加した
朝鮮国際問題研究所が備忘録を発表
−1994年6月24日−
 

【朝鮮通信=東京】24日の朝鮮中央通信によると、朝鮮民主主義人民共和国国際問題研究所は、よみがえった日本軍国主義者により朝鮮半島とアジアめ平和、安全に重大な危険が生じているとしで23日、日本が先の朝鮮戦争に直接参加した具体的な資料を公開する備忘録を発表した。

 「日本は朝鮮侵略戦争に直接参加した」と題する備忘録は序文で、「現在、日本当局者はありもしない『核疑惑』を口実に共和国の社会主義制度を圧殺する米国の策動に露骨に合流している。日本政府は、朝鮮半島で戦争が起きた場合に対処する『有事立法』の実務的準備を完成し、即時『危機管理体制』に入れるとして『国際共助体制』を騒いでいると述べ、「これは、日本当局の共和国敵視政策がどれほど危険な段階に達しているかを示すもの」と指摘した。

 ついで、「日本は、歴史的に共和国に対する敵視政策を実施してきた。日本軍国主義者は、1950年代にも米国が挑発した朝鮮侵略戦争に直接参加し、朝鮮人民に対する軍事的な敵対行動をとった」と述べ、これまで「日本が朝鮮侵略戦争に参加した事実を秘密にしてきたためいままで知られなかった」史実について明らかにする今回の備忘録発表の主旨を明らかにした。

 備忘録の内容は、1.日本は米国とともに朝鮮侵略戦争を準備、2.日本は朝鮮戦争時期、米軍の兵站基地、補給基地、修理基地、攻撃基地、3.日本は朝鮮戦争の直接的な参加者、4.日本は細菌戦にも直接参加、の4章から構成されている。


 1章部分では、次のような指摘がされている。

 米国は「警察」という名で日本軍隊を再組織、再武装させた。1948年3月、新警察制度を実施し、警察を12万5千人に増やして米軍式兵器と装備で武装させた。

 米極東軍司令官マッカーサーは1950年7月8日、日本の吉田首相に送った書簡で「7万5千人の警察予備隊」を新設し、海上保安庁の現兵力以外に8千人さらに増やすこと」を指示した。この指示によって日本政府は政令第260号を制定し、旧日本軍人で警察予備隊を組織した。

 警察予備隊の創設計画、組織、配置にいたるまで直接指揮した駐日米軍顧問団の初代参謀長であったフランク・コワルスキは「警察予備隊は、米日共同作戦を展開することを見越し創設させた。しかし、それが国際協約と日本憲法に反したため警察予備隊という名をつけた」と語った。(日本図書『日本歴史』22巻−現代1 1977年版)

 警察予備隊の使命のついてマッカーサーは、この兵力は警察軍というよりは朝鮮で利用できる予備軍であると述べた。(英国誌「チャイナ・マンスリー・レビュー」1951年4月号)

 警察予備隊には、主に旧日本軍戦犯者が網羅された。1948年12月、極東軍事裁判所が20万2082人の戦犯者を公職から追放し処罰することに決定した。しかし、香港のテレグラフ社記者によると、米占領軍当局は1949年7月、朝鮮での軍事行動に参加させるため20万1577人の戦犯者を処罰名簿から削除した。(旧ソ連図書『ソ連のアジア政策』1981年版)

 米国は戦犯者として監獄に拘留され、その後にママッカーサーによって期限前に釈放された旧日本軍将兵を武力建設に取り入れた。(旧ソ連図書『朝鮮に対する米国の侵略』1951年版)


 2章部分では次のような指摘がされている。

 日本は戦争が起きてからの3カ月間、米軍と南朝鮮軍が使用したすべての弾薬は、日本で再建された軍需工場で生産されたものである。(米国図書『南は洛東江まで、北は鴨緑江まで』1961年版)

 日本独占資本家たちは、米軍の特注を受け生産供給した。朝鮮戦争時に特注を履行するため235社の日本の大手企業が稼働した。(日本雑誌『経済評論』1968年10号)

 朝鮮戦争での特注は、19650年5月から年末まで約3億ドルに達した。(日本図書『日本帝国主義と軍需産業』1979年版)

 朝鮮戦争時、米国の特注は軍事的性格を帯びていた。日本企業所は、米軍のために砲弾、弾薬、火薬、ロケット弾、照明弾、ナパーム弾、迫撃砲、無反動砲、誘導弾器具、航空機および戦車の付属品、被服などを生産し、自動車、戦車、船舶、航空機、狙撃兵器、砲を修理、一部の企業では、石炭、自動車付属品、貨物自動車、食糧、金属構造物を米国に納入した。(旧ソ連図書『日本と米国、同僚と競争者』1970年版)

 朝鮮戦争で日本独占体の特注収入は、1950年上半期に1億ドルを超え51年には5億7千万ドル、52年に8億3千万ドル、53年には8億1千万ドルを記録した。(南朝鮮雑誌『マル』1990年6月号)

 もし、朝鮮戦争がなければ日本の高度成長はありえななかった。(日本図書『朝鮮問題に対する基本的視覚』1976年版)

 米軍司令部の戦略構想における日本の役割と意義は、米国が朝鮮で侵略戦争を挑発した後にいっそう高まった。日本には米軍の重要な後方基地が創設された。日本にある工場で航空機、戦車はじめ、戦闘器材が修理された。(旧ソ連図書『第2次世界大戦後の日本の対外政策』1965年版)

 日本は、朝鮮人民に反対する米国の侵略戦争における軍事基地としで利用された。米国の海軍基地に変わった日本の港湾から軍隊と武器が朝鮮戦線に投入された。米国は朝鮮侵略戦争期間、612カ所の軍事基地と軍事施設物を日本に設置し利用した。(旧ソ連図書『朝鮮は再生する』1956年版)

 米国の作戦行動は、陸海空軍の大部分が日本の基地を拠点にして展開された。(日本図書『戦後の日本史』1961年版)


 3章部分では、次のような指摘がされている。

 米国は、朝鮮侵略戦争に日本軍隊を参加させることを事前に計画していた。1950年1月1日、マッカーサーは日本人に送る「年頭書簡」で「憲法に固定された諸条項を侵略に対する日本防御の権利を完全否定したものとは絶対に解釈できない」と述べた。(旧ソ連図書『第2次世界大戦後の日本の対外政策』1965年版)

 1950年7月4日、日本政府は閣僚会議で「行政措置」の範囲内で米軍に協力する方針を次のように確定した。

 「米軍の軍事的発動に協力することは当然である。将来、日本が国連に加盟するためにも有利である。したがって、憲法と法律の範囲内で必要な行政措置、すなわち、船舶、陸上輸送力の強化、電話通信の架設、海上保険の臨時的措置および、ここに必要な金融措置を講じる」(日本図書『朝鮮問題に対する基本視角』1976年版)

 日本は、朝鮮戦線に自国の侵略武力を直接投入した。

 1950年1月、ブラッドレー将軍率いる米合同参謀本部連合グループが日本を訪問し、日本占領米軍高位将校との謀議で朝中人民に反対する侵略計画を作成した。この侵略計画を遂行するうえで日本を広範に利用する問題が討議された。(旧ソ連図書『日本にいる米国帝国主義』1951年版)

 1950年9月、3万人の日本人が米国の技術および運輸部隊に配属され、仁川上陸作戦に参加し、1万人の日本警察予備隊が侵略者の側に立って軍事行動に参加した。1950年9月、横浜には朝鮮戦線で死んだ4千500人の日本人などの柩が到着した。(旧ソ連図書『日本にいる米国帝国主義』1951年版)

 日本の公式文書である『占領軍調達史』に掲載された軍需物資の輸送業務遂行中に死亡した数は次のとおり。

 特殊港湾関係者101人、特殊員254人、その他、朝鮮戦線で特殊輸送業務を遂行した者26人。

 戦争時期とそれ以降、死亡者に対する資料が極秘になっでいたが1978年に公開され、彼らに勲章を与え家族をいたわっている。(南朝鮮雑誌『マル』1990年6月号)


 4章部分では次のように指摘している。

 日本占領の米軍は、敗北した日本から細菌兵器に関する資料を受けた。日本関東軍の軍医であった石井中将は、極悪な犯罪者であった。石井を責任者とする第731部隊は、細菌兵器を研究し、3万1千人の中国人と朝鮮人、ロシア人を使って人体実験し殺害した蛮行が1949年12月にハバロフスクでおこなわれた日本関東軍司令官の山田大将らに対する戦犯者裁判で明らかになった。(日本図書『現代日本の歴史』下巻 1953年版)

 米国が、朝鮮でおこなった細菌戦の基地は日本であった。埼玉県大宮市にある米軍医学研究所は、元来、日本陸軍の細菌研究所のものであった。米軍は、ここで、細菌兵器を研究し、製造した。(日本図書『現代朝鮮の歴史』1953年版)

 朝鮮で米軍が使用した細菌爆弾は、石井式磁器爆弾であった。この爆弾は、1940年代に中国の都市や農村の平和的住民に投下された。

 国際科学研究委員会は1952年10月8日、朝鮮人民と中国人人民は細菌兵器の攻撃対象となり、細菌兵器を使用したさまざまな方式は第2次世界大戦時期に日本軍が使用した手法と似ていると結論づけた。(日本図書『恐怖の細菌戦』1991年版)


 備忘録は総括的に、「日本が国際法や自国の平和憲法に違反して米国の挑発した朝鮮侵略戦争に参加し、朝鮮人民に数え切れない不幸と苦痛を与えた」と指摘し、「しかし、日本軍国主義者は過去の歴史から当然の教訓を求めないで、『火中の栗を拾ってもうけた』朝鮮侵略戦争時を夢見ながら再び火中に飛び込もうとしている」と非難した。


 おわりに、「日本反動が『第2の朝鮮戦争 で再び『黄金のにわか雨』を期待するのは大きな誤算である」と警告した。


<参考>「警察予備隊令」 全文はこちら。

 警察予備隊令の廃止は、朝鮮戦争で米国が敗北した(1953年7月27日、板門店で調印)年の10月15日である。
 また、警察予備隊令は、附則で「昭和25年度に限り、内閣は、一般会計予算における国債費の金額のうち200億円を、警察予備隊に必要な経費に移用する」と決めている。


「謀略朝鮮戦争」に書かれている日本の戦争協力

 「謀略朝鮮戦争」は、月刊誌『文藝春秋』で、1935年1月号から12月号にかけて連載された。作家は、松本清張(まつもと せいちょう、1909年12月21日〜1992年8月4日)である。単行本『日本の黒い霧』(1973年4月5日 株式会社文藝春秋)に収められている。

 清張は、『日本の黒い霧』の「あとがきに代えて」で、次のように記述している。

 「小説で書くと、そこには多少のフィクションを入れなければならない。しかし、それでは、読者は、実際のデータとフィクションの区別がつかなくなってしまう。(中略)それよりも、調べた材料をそのままナマに並べ、この資料の上に立って私の考え方を述べたほうが小説などの形式よりもはるかに読者に直接的な印象を与えると思った」(『日本の黒い霧』420ページ)

 ここでは、「謀略朝鮮戦争」に書かれている引用文を紹介する。


 朝鮮戦争は、さまざまな影響を日本のうえにもたらすことになった。戦争勃発以後、日本はアメリカの軍事行動のために用いられ、B29は本土や沖縄のアメリカ空軍基地から朝鮮戦線へ出撃した。また、戦線に動員された米軍は、装備や補給などを日本で大量的におこなった。北朝鮮軍や中国軍がその背後のソ連を安全地帯としたように、米軍にとっては日本は安全な「聖域」であった。

 「朝鮮戦争は、世界政治における緊張を一段と激成し、国際的軍備拡張は大きく進展して、それは『特需』と相まってわが国の輸出貿易を著しく増大させることになったのである。そしてまた、アメリカはこの戦争を契機としてアジア諸地域の反共政権に対する援助を一段と強化するとともに、これらの地域をアメリカの反共防衛計画に緊密に結びつけようと試みるようになった。しかも、これまで日本の経済的自立を急速に達成しようとしてきたアメリカは、いまや、軍事生産を中心としたわが国工業生産力を、アジアにおけるこの防衛計画のために役立てようと企てるにいたり、それは『日米経済協力』という名のもとに推進されることとなった。
 これらの結果、朝鮮戦争前、ドッジ・プランによるデフレーション政策に苦しんできたわが国経済界は、いまや、その窮境から救い出されることになったのである」(矢内原忠雄編・岡義武稿『戦後日本小史』)


 朝鮮戦争当時、日本人が米軍に従って戦線に参加した、といううわさは、当時、街にも流れていた。しかし、それをはっきり次のように指摘する者もある。

 「日本の寄与は、単に工業と領土だけにとまらない。日本人の朝鮮戦線参加については、人民軍側によって繰返し指摘されている1952年11月19日の朝日新聞は、アメリカ軍と一緒に朝鮮戦線に参加し、京城付近の戦闘で戦死した、東京都港区赤坂北町2ノ5、ペンキ業、平塚元治さん長男・霞治君(ネオ・平塚)のことを報じ、外務省の話によると、このような例はほかにもある、と述べている。これらの事実を打ち消すべく、同年9月29日、米コロンビア放送(CBS)の東京支局長ジョージ・ハーマンは、同放送を通じ、8000名からなる幽霊部隊が朝鮮戦線で戦っている、彼らは日本からやって来た在日朝鮮人の志願部隊だ、と述べ、彼らこそ共産側のいう『朝鮮における日本人部隊』の正体だ、と弁明した。
 ところが、翌30日、明らかにされた在日韓国代表部筋の言明によると、民団系の在日朝鮮人が志願して朝鮮に出動したのは事実だが、その数は625名にすぎない。すると、ハーマン紀者のいう8000名からこの625名を差引いた残りはどこの兵隊か、ということになる。かくして、ハーマン記者は事実に反して、少くとも7375名の日本人が朝鮮戦争に参加している事実を証明してしまった」(劉浩一『現代朝鮮の歴史』)

 この詳細な数字の当否はともかくとして、朝鮮戦線で日本人が米軍に直接協力したことは否めない。仁川上陸に当って、1千機に上る飛行機の援護のもとに、艦船300隻を持って兵力5万の国連軍が輸送されたが、このなかには相当数の日本人輸送員が使用されていたことは事実である。彼らは、あるいは水先案内人となり、あるいは掃海作業員となり、あるいは操作要員となって協力した。

 仁川上陸作戦に必要な助力は、日本旧軍人に求められたと言っていい。朝鮮の地形や、海域の水深は、日本軍ほど潤沢な資料を持っているものはないのた。そのような資料は、他のものと一緒に占領後、アメリカ機関の中に集められていた。

 GHQの別館郵船ビルの中には歴史課・地理課というセクションがあって、そこには多数の旧日本軍人上級将校が参与していた。

 「アメリカ人の一団を助けるために、ウィロビーはおよそ200名に達する日本人を雇い入れて、それを荒木教授(注、東大経済学部教授)の名目的監腎下に置いた。これらの連中のうち、少くとも15名は陸海軍の上級将校で、そのうち、ある者は実際の作戦計画に参与していた人物であり、その多くは極めて枢要な地位にあった連中だった。例えば、有末梢三中将は参謀本部情報部長で、アメリカ軍におけるウィロビー自身の地位に相当する地位を占めていた。河辺虎四郎中将は参謀本部次長で、降伏の手続き打合せのためのマニラ会談の首席代表だった。服部卓四郎大佐は、長い間参謀本部作戦課長を勤め、東条の秘書官だった。海軍側の代表連の頭株は、中村勝平少将と大前敏一大佐で、大前は自分のことを謙遜して、日本海軍第一の頭の悪い男だ、と称していた。海軍組もそろって卓越した人材ぞろいだった。これらの郵船会社班は、その誰一人として歴史家でもなく文筆家でもないのに、日本側の記録をかき集めて、公式の日本側の戦史を編もうというわけだった。彼らの仕事は秘密ということになっていた。郵船会社班の仕事は極秘のうらに進められていたので、一部観測者たちは、日本人がこうして働いているのは、日本参謀本部員がアメリカ占領軍と協力しているのを誤魔化すためだと考え、日本人の仕事を名目上監督していた一人のアメリカの民間人までがそう思い込んでいた。荒木班と、それに協力している参謀本部員の主な仕事とが戦史の編纂にないという疑いは、彼らに与えられていた特別待遇によってますます強められた」(ウィルズ『東京旋風』)


 「地図」について1960年4月14日第34回国会(日米安全保障条約等特別委員会)での飛鳥田一雄議員の質疑がある。飛鳥田氏は、自衛隊が作成する地図(航空図)は兵器であることを前提として政府を追求している。

 議事録はこちら。






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