アメリカの朝鮮戦争勃発の歴史歪曲策動

4 停戦後の朝鮮戦争勃発に対するでたらめな「再照明」


 アメリカは戦後にも朝鮮戦争勃発の責任を共和国に転嫁するため、戦争の時期に用いていた手口を繰り返し用いる一方、「情報自由法」にもとづく「秘密解除」を通じての「再照明」と、東欧「共産圏」の開放政策を巧妙に利用した「交戦双方間の共同評価」を持ち出し、朝鮮戦争勃発の歴史歪曲策動を執拗につづけた。


1 「情報自由法」にもとづく「秘密解除」

 米国務省の「情報自由法」にもとづく「秘密解除」とは、対外極秘情報資料として保管していた文書は25年が過ぎると自動的に「秘密解除」になるということである。

 これにもとづき、米国務省は1945年8.15直後の資料と朝鮮戦争期の資料を、1970年代末に「時効」になったとして公開した。

 アメリカと南朝鮮はこの「秘密解除」によって朝鮮戦争勃発にかかわる極秘資料が公開されれば、その「真相」を「再照明」することができ、「南侵」を資料的にあばきだすことができるとうそぶいた。

 アメリカは、「秘密解除」にした文書のなかには「米国務省外交文書」、「CIA報告書」、「米軍がろ獲した文書」、「G−2報告書」などがあり、その内容は朝鮮戦争の時期にソウル、大田(テジョン)、陜川(ハプチョン)、倭館(ウェグァン)、固城(コソン)、安東(アンドン)、平壌(ピョンヤン)、咸興(ハムフン)、元山(ウォンサン)など7百余力所でろ獲した「北朝鮮文書」にもとづいたものだとした。

 この「ろ獲文書」は、東京にある米極東軍司令部本部所属の翻訳解説部8236部隊に集結され、そこで秘密文書として類別され、1951年11月にバージニア州アレクサンドリアの米連邦文書庫「蔵軍付属室」の文書課に送付されたという。

 1951年に「蔵軍付属室」の文書課が廃止されると、「ろ獲文書」は米連邦政府総務処管下の国立文書室一般文書課に移され、1977年にそれを再検討し「極秘」とされるものは「安保」、「国家戦略的次元」という理由で伏せられ、歪曲宣伝に有利な文書だけが「秘密解除」になった。

 現在、これらの文書はワシントンの国立記録保管所に保管され、特定の研究者に限って部分的な閲覧が許されているという。文書の総量は161万ページに及ぶとのことである。

 これには国家の公式文書、報告書、内部講演資料、要人の履歴書、作戦計画が示されている軍用地図、写真、新聞、雑誌のコピーなどが含まれているという。

 アメリカは、これらの文書が「秘密解除」になったので朝鮮戦争史の研究において「空白」となっていた「暗がり」、「不透明な個所」が埋め合わされると言って、『中央日報』、『東亜日報』をはじめ、南朝鮮の主要新聞に朝鮮戦争「再照明」の欄を設けて共和国をひっかける一方、「集中研究」の名目でワシントン大学やコロンビア大学など、アメリカの各大学まで動員して朝鮮戦争勃発の真相を歪曲しようと画策した。コロンビア大学で「秘密解除」になった「ろ獲文書」にもとづく初の研究報告が『解放された朝鮮の政治』という題名で出版されたが、その図書でもやはり「南侵」説を立証することはできなかった。それから長い歳月を経ているが、いまなおアメリカは「南侵」宣伝に利用できるこれといった資料を一つとして提示できずにいる。

 事実上、「北の有罪」を立証できる「文書」があったなら、アメリカが「情報自由法」にはかかわりなく、既に数十年前にそれを公開していたはずであることは言をまたない。

 結局、アメリカは「秘密解除」を朝鮮戦争犯罪人としての正体を隠すことに利用しようとしたが、そのでたらめさをいっそう明白にさらけだす結果をまねいただけである。


2 「交戦双方問の共同評価」の内幕

 1980年代の後半に入って、旧ソ連をはじめ東欧社会主義諸国で改革、開放が実施されると、それを機にアメリカは、帝国主義の手先に転落した修正主義者、改良主義者や民族を裏切った一部の在ソ朝鮮人を買収、利用し、「交戦双方間の共同評価」なるものを持ち出して朝鮮戦争勃発の真相を歪めようとした。

 アメリカは、朝鮮戦争が法的に終結していない状態では交戦双方が互いに自分に有利に評価するため、1980年代の前半までは朝鮮戦争勃発の問題を解明することができなかったが、その後、旧ソ連が保管していた朝鮮戦争関係の資料が公開されたので、「交戦双方間の共同評価」によって朝鮮戦争を起こしたのが、だれであるかを正確に解明できるようになったと宣伝した。

 アメリカは「開放に乗り出したソ連も事実どおり口を開き、朝鮮戦争の資料が公開されたので、北侵説の虚構があからさまになった」と内外に宣伝した。また、「朝鮮戦争についてこれまでは西側の一方的な資料と主張によって説得力に欠けていたが、共産圏の開放政策により、遠からず交戦双方間の共同評価によって大きく修正、補完されることが期待される」(南朝鮮の新聞『東亜日報』1990年6月24日付)とし、朝鮮戦争勃発の真相を隠すために手段と方法を選ばなかった。

 南朝鮮は旧ソ連の学者を買収、招請して朝鮮戦争に関する学術発表会、研究討論会などを開き、朝鮮戦争にかかわる「新たな資料」を提示させる一方、でっちあげた朝鮮戦争関係の「新たな資料」を彼らに渡してそれを「公開」させた。

 代表的な例として、旧ソ連国防省直属の軍事歴史研究所所長であったボルコゴノフを買収し、共和国をひっかける「新たな資料」を「公開」させた。南朝鮮は、御用教授を使って1987年に開かれた「フィンランド軍事学会討論会」に参加したボルコゴノフと接触させ、買収した。アメリカと南朝鮮に教唆されたボルコゴノフは『朝鮮戦争白書』を書いて「南侵」を証明しようとした。

 彼によれば、スターリンは共産主義の「拡張」と「膨張」のためにヨーロッパでは「西進」政策を追求する一方、アジアでは中国革命を支援するとともに、朝鮮半島において共産主義の「南下」を追求したが、その結果、朝鮮で戦争が起きたというのである。彼は正確な根拠となる資料は提示できず、「1950年2月に朝鮮民主主義人民共和国の政府代表団がソ連を公式親善訪問し、長期滞留してスターリンと数回にわたり会談した記録映画のフイルムが保存されているが……そのとき、朝鮮戦争の問題が討議された」との推測を述べている。

 アメリカと南朝鮮の筋書きにしたがったボルコゴノフの主張は、説得力のないものであったため、発表されるや否や学界はもちろん、社会各界の非難と嘲笑、揶揄を浴びた。

 第2次大戦における対日戦争当時、朝鮮半島の南端まで容易に進出できる機会さえ利用しなかったソ連が、朝鮮で「共産圏」を拡張しようとしたというのはこじつけも甚だしい。1950年前後の時期、旧ソ連はアメリカと戦うことを望まず、できるだけアメリカの戦争策動に巻き込まれないようにして国内問題の解決に力を注ぎ、朝鮮戦争の時期には北朝鮮への支援もためらったということは周知の事実である。アメリカと南朝鮮は、「交戦双方間の共同評価」に、朝鮮戦争当時、共和国の一定の職責にあって戦後、ソ連に亡命した朝鮮人も利用した。

 代表的な例として、ソ連に亡命した李相朝(リサンジョ)を買収してソウルに連れ込み、あたかも朝鮮戦争勃発歴史の証言者のように押し立て、虚言を並べさせた。記者会見に臨んだ李相朝が中国人民義勇軍の参戦問題について長々と並べたてると、南朝鮮は御用記者を利用して朝鮮戦争勃発に関する具体的な事実を話すよう求めた。

 しかし李相朝が、当時自分は人民軍の副総参謀長を務めてはいたが、作戦系統には従事していなかったので、よくわからないと言ったため、南朝鮮は元も取れなくなってしまったばかりでなく、かえって南朝鮮社会の言論界から、聞き取りも満足にできず、精神状態もはっきりしないうすのろまで反共宣伝に利用していると非難される結果になった。

 アメリカと南朝鮮は、朝鮮戦争当時共和国政府の内務省副相を務めた姜相虎(カンサンホ)も見つけ出し南朝鮮に連れていって謀略的な策動をめぐらしたが、それも徒労に終らざるをえなかった。金浦(キンポ)空港に降り立った姜相虎は機関要員に言いふくめられたとおり「6.25は、南侵であったという歴史的事実を証言するためにやってきた」と大口を叩いたが、その後の記者会見で証拠らしき資料を何一つ出すことができなかった。

 南朝鮮は姜相虎をソウルに連れ込むときに、朝鮮戦争に関与したという18名の在ソ朝鮮人も一緒に連れていき、朝鮮戦争に関する資料を「公開」させたが、その謀略も成功しなかった。1990年6月19日付の『ソウル新聞』が、「元北韓公務員、学者、将軍など要職にあった在ソ同胞らをソウルに誘い込んで歓迎し、優待しながら6.25当時の秘話を公開、証言するよう求めたが、価値のある資料は得られなかった」と書いているが、これはアメリカの「交戦双方間の共同評価」による朝鮮戦争勃発の真相歪曲策動が失敗したことを示す事例の一つである。


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