アメリカの朝鮮戦争勃発の歴史歪曲策動

1 朝鮮戦争開始以前、その責任を
共和国に転嫁するためのアメリカの謀略


 アメリカは、朝鮮戦争の目的を成功裏に達成しながらも、その侵略行為を正当化するための謀略に大きな意義を付与し、それを朝鮮戦争開始以前から計画的に準備した。

 そうした謀略によって「合理」的な戦争開始の手口が選択され、「南侵」に対する世論化と類例のない欺瞞・偽装工作、戦争開始と同時に国連に提出する決議案が巧妙に準備された。


1 一挙両得をねらった「2段階戦争論」の選択

 第2次大戦後、狡猾な新植民地主義政策を追求してきたアメリカは、海外侵略においても「2段階戦争論」、「代理戦争論」を提唱し、その最初の実験として朝鮮戦争を引き起こした。

 「2段階戦争論」、「代理戦争論」は本質上、追随諸国に戦争をしかけさせ、自分自身は「援助者」、「支援者」に扮して戦争に介入することで、戦争犯罪人、侵略者の正体を隠し、その結果を独り占めしようとする、一挙両得の戦争手法である。

 朝鮮戦争においてアメリカは「2段階戦争論」にもとづき、かいらい李承晩(リスンマン)一味を指嗾して戦争を起こさせ、自分自身は国連の名を盗用して参戦することで、戦争犯罪人の正体を隠し、侵略目的を容易に達成しようと狡猾に策動した。

 アメリカのこうした陰険な意図は、トルーマンの特使として戦争開始直前に南朝鮮にやってきた、ダレスの言動によって暴露された。

 1950年6月17日、南朝鮮軍がたむろする38度線の陣地まで視察したダレスは、ソウルの「半島ホテル」にあるアメリカ大使館で、「北進」狂信者の李承晩、申性模(シンソンモ)などと密談し、「北伐」計画を確定した後、「北朝鮮に対する攻撃を開始」する指令を与え、「もし2週間だけもちこたえるならば、その間にアメリカは、北韓が南韓を攻撃したと提訴し、国連をしてその名で陸・海・空軍を動員」(日本の図書『勝利なき戦争』29ページ)するだろう、とうそぶいた。

 アメリカの出版物が「アメリカの戦略は、かれらのかいらいが敗走させられて、そこでアメリカに侵略の口実をあたえてくれるという冷静な計算で、たたかいをはじめたらしい」(アメリカの図書『朝鮮戦争の歴史』上 日本語版109ページ)と評し、マッカーサー司令部の参謀本部から駐イラン米軍事顧問団に異動したエイダ大佐が1950年12月、イラン軍参謀との談合の席上で「アメリカの計画は、李承晩軍の直接の参加と米陸・海軍の援助によって、朝鮮の38度線以北の地域を占領することであった。……」(インドの新聞『クロス・ロード』1950年12月22日付)と言ったのは、アメリカの「2段階戦争論」の内幕をすっぱぬいたものである。

 アメリカは、このような戦争開始手口の要求にかなうよう、1949年に立てた「北伐」軍事戦略計画も修正、補足した。既成の軍事戦略計画では、朝鮮の東西両海岸からの上陸と並行して地上攻撃をおこなうことになっていたが、これでは「2段階戦争論」の追求する目的を達成することは不可能だった。

 それで1950年に入って、「朝鮮の東部及び西部海岸に軍隊を上陸させようとしたアメリカの計画は、6月25日の軍事作戦開始以前に撤回され、38度線突破計画に集中」(インドの新聞『クロス・ロード』1950年12月22日付)するよう修正されたのである。

 一方、アメリカは、かいらい李承晩一味を内乱開始の先頭に立たせるため、彼らに戦争熱気を吹き込み、戦争へとあおり立てた。

 諸般の事実は、アメリカの「2段階戦争論」が、戦争勃発の責任を共和国に転嫁するために選択された、陰険きわまる戦争開始手口であることを実証している。


2 戦争開始以前に繰り広げた「南征」、「南伐」のデマ宣伝

 アメリカは北侵を目的に、戦争前から朝鮮人民軍の「南征」、「南伐」といったデマをしきりに飛ばした。

 これは、戦争前から「南征」、「南伐」説を内外に流布すれば、戦争を引き起こした後にもそれを口実に共和国にその責任を転嫁することができると考えたからである。

 このような企図から戦争前にアメリカは、機会あるごとにかいらい李承晩一味に「韓国が先に攻撃を受けたということを、世界が認識するようにする必要性」(アメリカの図書『朝鮮戦争 回答のない質問』44〜45ページ)を力説して、「南征」、「南伐」のデマを盛んに飛ばした。

 アメリカとかいらい李承晩一味は、1948年2月に朝鮮人民軍が正規武力になったときにも「南征」を云々し、日本帝国主義の敗亡後、南朝鮮を占領した米軍の「撤退延期」策動を繰り広げたときにも「南伐」だの「人民軍の南下」だのといったデマを大々的に流した。戦争直前に北から「今すぐ攻撃されるような現実的な兆候はない」(南朝鮮の図書『駐韓米軍30年』137ページ)、「6月17日には米国務長官ダレスが『訪韓』、38度線を視察したが、何の異常も発見できずに帰った」(同上)などと、北からの「南侵」の兆候は全くないという実地資料が提出されていたが、アメリカとかいらい李承晩一味は戦争開始の日が近づくにつれ、「南伐」に関するデマ宣伝にいっそう熱を上げた。

 こうすることによってアメリカは、戦争前に南朝鮮社会に「南伐」の流言をはびこらせようとした。


3 戦争の序曲 ── 38度線衝突事件

 アメリカは、38度の境界線を引いて以来、38度線衝突事件を頻繁に起こした。かいらい李承晩一味は、戦争を開始するまで、南朝鮮駐屯米軍事顧問団の指揮下に、延べ8万4千名余りの兵力を動員して5150余回にわたり、38度線一帯で武装挑発を繰り返した。このことについて1949年10月、南朝鮮陸軍司令部の会議室で開かれた師団長会議の席上、米軍事顧問団団長ロバートは、「確かに38度線以北地域に対する攻撃の多くは、私の命令によって遂行され、また、これからもさらに多くの攻撃がなされるはずだ。しかしながら、多くの場合、部隊は自分勝手に攻撃し、何の成果もなく莫大な量の弾薬を消耗したうえに、致命的な損害を被った。……今後、38度線以北地域に対する国防軍の進攻は、米軍事使節団の命令によってのみ遂行されねばならない」(日本の図書『アメリカ敗れたり』14ページ)と述べている。

 そのため、多くの外信は、戦争前にアメリカとかいらい李承晩一味が起こした38度線衝突事件を「小さな戦争」と評したのである。

 アメリカとかいらい李承晩一味は、38度線衝突事件を、「内戦のための格好の実験台」、「敵とじかに接触して、実戦能力を高める演習」とみなし、「北伐」計画の実現に有利な高地、地域を占領して、攻撃出発位置を改善する契機に利用した。

 アメリカとかいらい李承晩一味が38度線衝突事件を起こした主な目的は、それが「北の赤化統一政策」によって起きたかのように歪曲して大々的に宣伝することによって、戦争の準備を全面的に進め、戦争を起こしてからは、その責任を共和国に転嫁する口実を前もって作っておくことにあった。

 こうした目的から、アメリカとかいらい李承晩一味は、南朝鮮軍を「北朝鮮軍」に変装させて38度線で銃声を上げさせ、それを「北朝鮮軍の奇襲」といつわる芝居を演じることもはばからなかったのである。

 事実上、彼らが起こした38度線衝突事件は、朝鮮戦争の「前奏曲」であり、事後、朝鮮戦争勃発の責任を共和国に転嫁する術策の一つであった。


4 戦争前夜の欺瞞・偽装工作の内幕

 アメリカは朝鮮戦争を起こす際にも、不意をねらうとともに、戦争勃発の責任を共和国に転嫁するのに有利な条件を取りつける目的で、欺瞞策を弄した。

 朝鮮戦争前夜の欺瞞・偽装工作に大きな意義を付与したアメリカは、1950年度に入ってからまず、自分たちはあたかも朝鮮半島には関心がないように見せかけるため、狡猾にも「アメリカの極東防衛線」に関するデマをまきちらした。

 それは、米上院外交委員会委員長のコナリーが1950年1月初め、朝鮮半島はアメリカの「防衛最前線」ではないとの談話を発表し、それから数日後の同月12日、米国務長官アチソンが「政策声明」を発表した直後から積極化された。

 米国務長官アチソンは、ワシントンにあるナショナル・プレスクラブの昼食会に招かれておこなった演説で、「アメリカの極東防衛線は、アリューシャン列島から日本本州を経て琉球諸島を結ぶものである。我々は琉球に重要な防御施設を擁しており、それをひきつづき維持するであろう。防衛線は琉球からさらにフィリピンに伸びている。……上記の防衛線の外に位置する国の安全、また軍事的攻撃については保障する者がない」(南朝鮮の図書『韓国外交秘録』 ソウル新聞社1964年 210〜211ページ)と述べている。

 この声明の発表後、アメリカはマスメディアを通じて、南朝鮮が 「アメリカの保護の外にある」ことを大々的に宣伝した。

 だが、「アメリカの極東防衛線」が朝鮮侵略戦争のための欺瞞術策にすぎなかったことは、その後の彼らの動きそのものが如実に物語っている。

 アメリカは、「アメリカの極東防衛線」についての政策声明を発表した直後、朝鮮戦争が勃発した場合にとるべき「特別行動」に関する「NSC−68」戦略計画を立てた。この計画は、1950年1月、米大統領トルーマンの指示にもとづき、米国務省と米統合参謀本部の連合会議で作成され、同月2日、米国家安全保障会議で承認された朝鮮戦争に関するものであった(『ニューヨーク・タイムズ』1964年4月13日付)。

 アメリカは1950年1月26日には、かいらい李承晩一味との間に「韓米相互防衛・援助協定」と「駐韓米軍事顧問団設置に関する協定」を締結し、2月には、李承晩を東京に呼んでマッカーサーと北侵について合意させ、より多くの軍事援助を約束した。

 1950年4月3日に米国務省が公開した、李承晩の特使張勉(チャンミョン)と米極東担当国務次官補デイーン・ラスクの対話で、ラスクが「アメリカは過去と同様、現在においても韓国に相当な物質的援助と政治的支持を与えている事実に照らして、アメリカが大韓民国をその敵に手放したという推論は根拠のないものと思う」(南朝鮮の図書『韓国外交秘録』1964年 212ページ)と吐露したことは、「アメリカの極東防衛線」の宣伝が朝鮮戦争を起こす行為を隠ぺいするための煙幕であったことを実証している。

 朝鮮戦争を控えて、アメリカとかいらい李承晩一味は「奇怪な沈黙」の術策を弄した。

 彼らは、1950年に入って「5、6月危機」説を流し、大々的な「北伐」騒動を起こした。そのため、国内外で朝鮮戦争勃発を憂慮する声が高まった。彼らは、こうした状況下で戦争を起こせば、不利を招くと考え、「沈黙」の術策を弄したのである。

 この術策は、「北伐」騒動を起こさずに不意に北侵すれば、その責任を北に転嫁し、アメリカが介入する口実をつくることができるので、騒ぎ立てずに時を待つのが賢明だ、というアメリカの指令によりかいらい李承晩一味が考案したものである。

 1950年5月10日、アメリカの教唆のもとに申性模をはじめ、南朝鮮のかいらいたちは、「……南侵の危険が迫っている」(『ニューヨーク・タイムズ』1950年5月11日付)とし、記者会見やラジオを通じて「北伐」を唱えていたが、5月11日から40日余りの間、出版・報道管制を実施した。

 この事実を反映して、アメリカの図書『朝鮮戦争の歴史』上(日本語版101ページ)は「『朝の静かな国』といわれるこの国の地上と地下でおこなわれている諸事件のなかに、情勢の特別な変化を反映する一つの事件があった。北からの侵略の予想についての国防相の5月10日の警告のあとで、新聞ならび政治家によるそのような談話の完全な停止がおこなわれたのである」と書いており、アメリカの図書『秘史朝鮮戦争』(日本語版56ページ)は「1950年5月11日以後は、しめしあわせたように、韓国政府もこのような危険と自己の装備の周知の不足について、沈黙を守った」と評している。

 「沈黙」の術策は、アメリカとかいらい李承晩一味の思惑とは逆に内外の疑惑を招いた。

 当時、南朝鮮の好戦的な「北進」騒ぎに耳なれていた西側の記者たちは、それを「ソウルの沈黙」、5、6月の南朝鮮を「静かな国」と描写し、突然の「沈黙」に疑惑を抱いた。

 日本の図書『朝鮮戦争』(洞富雄 22ページ)が「『もっとも危険なとき』であると断じた時期に『韓国政府』が40日間にもわたって沈黙してしまっていたのは、どう解釈したらよいのであろうか。これはなんとも不思議な話である」と評したのは、アメリカとかいらい李承晩一味の「沈黙」の術策が陰険な目的を追求していたことを暴露している。

 アメリカとかいらい李承晩一味は、戦争前夜に週末休暇、旅行、夕食会などの名目で高官たちを出払わせて、朝鮮戦争犯罪人の正体を覆い隠そうとした。

 朝鮮戦争を直接主導した米大統領トルーマンは、1950年6月24日に週末休暇をとつてミズーリ州の故郷を訪れ、米国務長官アチソンも同じく週末休暇にメリーランド付近の自分の農場を訪ねた。また、ダレスは6月24日に週末旅行に、米陸軍長官フランク・フェイスと米極東担当国務次官補ラスクはジョージタウンのある家の夕食会に招かれ、南朝鮮駐屯米軍事顧問団団長ロバートは本国に召還され、参謀長ライトは旅行に出た。

 だが、その裏でアメリカは、朝鮮戦争の開始を予見して指揮に万全を期すため、極東軍司令官マッカーサーと参謀長アモンドをはじめ、同司令部の参謀たちに、それぞれの位置を占めて待機するよう、特別命令をくだしていた。

 さらに、「東京4者会談」に参加した国防長官ジョンソンと統合参謀本部議長ブラッドリーを6月24日までにワシントンに到着させ、休日(6月25日)であるにもかかわらず30人の国務省職員を出勤させた。

 これは、アメリカが事前に戦争の作戦・指揮系統を確立したことを意味しており、高官たちを出払わせた目的が何であったかを物語っている。

 戦争前夜のこうしたアメリカの二面策動は、社会各界に大きな疑惑を抱かせた。アメリカの図書『朝鮮戦争───回答のない質問』(14ページ)が「戦争の前夜に、米国の立場を代弁すべき大統領と国務長官が二人とも外出していたのである。国務省に集まった中堅級官吏は、政策の作成者ではなく、長官クラスの命令を実行する人たちにすぎなかった。のちに米国は、これを驚くべき意外な出来事であったとしている。しかし、かれらの初期の行動には、たしかに陰謀のにおいがするのである」としているのは、戦争前夜のアメリカの偽りの動きを見透かしてその内幕を明かしている。

 アメリカの筋書きどおりに、かいらい李承晩一味も開戦前夜に、非常戒厳令の解除、外出・外泊の許可、夕食会の催しなど、戦争犯罪人としての正体を隠すための欺瞞・偽装工作をおこなった。かいらい李承晩一味は、1950年6月初めから布いてきた非常戒厳令を開戦前日の6月24日零時を期して解除するとともに、外出、外泊、休暇を許可する芝居を打った。

 また、陸軍本部構内に新設された将校クラブの落成式を開戦前日の6月24日夕方に催し、第一線地区の指揮官や陸軍本部の要人がこれに参加したというデマを流した。このようなかいらい李承晩一味の動きについて、日本の図書『朝鮮戦争』(洞富雄 29ページ)では、「韓国側が一時的にせよ戒厳令を解除する余裕を持ったのは、先制攻撃を準備するためであった」と明かしている。

 それに、南朝鮮の雑誌『思想界』(1965年6月号)までも、当時38度線に配備されていた南朝鮮軍第8歩兵師団長の李成嘉(リソンガ)が、「在京部隊内ではそうだったか知りませんが、第一線の師団長だった私は当時非常事態下にありました。外出も禁じられ、6月25日の早暁からそのまま戦闘に入りました」と証言したことや、当時ある南朝鮮軍将校が、「6月24日はせっかくの土曜日であったにもかかわらず前方将校の外出は禁じられ、戦闘命令に備えて待機せよとの伝達があった。24日の晩、陸軍部隊は25日の明け方を期して38度線を突破し、北朝鮮に対する軍事行動を開始せよとの秘密命令を受けた」と語ったことを公開している事実は、アメリカとかいらい李承晩一味が、計画どおりに北侵攻撃を推進し、その実現に煙幕を張るために、戦争前夜に狡猾な欺瞞・偽装工作をおこなったことを実証している。

 欺瞞・偽装工作の幕裏で、万端の準備を整えたアメリカとかいらい李承晩一味は、1950年6月25日の早暁、突如北侵を強行したのである。


5 戦争開始に先立って起草した国連決議案

 第2次大戦後、世界制覇の野望の実現に国連の名を盗用するのを一つの手段とみなしたアメリカは、「国連臨時朝鮮委員団」を南朝鮮に送り込んで、植民地従属化政策をいっそう執拗に追求した。

 アメリカは朝鮮戦争を画策する際、国連の名を盗用して戦争に介入し、追随諸国の軍隊をも参戦させる奸計を企む一方、「北朝鮮が先に侵入したという逆宣伝とともに、北朝鮮に対する攻撃を開始」(日本の図書『アメリカ敗れたり』 16ページ)し、国連に上程して戦争勃発の責任を共和国に転嫁しようとした。

 こうした企図にもとづき、米国務省政治安全保障審議室では、「北朝鮮の攻撃」を提訴するための謀略文書である国連決議案をあらかじめ起草した。

 この事実は、朝鮮戦争が起こつてからほぼ一年後の1951年6月5日、米上院歳出委員会の国務省予算に関する実務的な聴聞のときに暴露された。

 聴聞会でファーガソン議員の質問に国連担当の国務次官補ジョン・D・ヒッカーソンは、「決議案の骨子だけは作っておきました。……それは過去の侵略の例を参考にしたものでした。こういう場合にまずやることは、相手方に対し、侵略をやめてもとの位置にもどれということです。たしかに我々はその大綱をきめてはおきましたが、ごく大ざっぱな輪郭だけだったのです」(アメリカの図書『秘史朝鮮戦争』 日本語版68〜69ページ)と答弁した。「証言の冒頭で国務次官補は、攻撃が事前の『警告なしに』やってきたと無条件に主張した。終わりになって、彼は警告をうけ、準備を討議し、国連に提出するための『決議案の骨子』を起草しておいたことを告白した」(同上68ページ)。アメリカが国連に提出する「決議案の骨子」をあらかじめ起草しておいたことが暴露されると、「普通なら先見の明があった証拠として国務省が自慢してしかるべきこのような準備を明らかにしたがらないところをみると、どうやらほかにもまだ、かくされた事実があったのではないかと疑いたくなる」(同上68〜69ページ)と言論界の疑惑を惹起させた。

 そのうえ、アメリカが北侵を断行してすぐ、あらかじめ作成されていた筋書きに従い、「国連決議案」の草案に捏造した虚構を付け加えて国連に正式に提出することで、謀略の内幕をみずからさらけだしてしまった。


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