乙未事変は、日本の国家テロ犯罪
朝鮮民主主義人民共和国歴史学学会論告状
−2010年10月6日−


 朝鮮中央通信によると、朝鮮歴史学学会は6日、「乙未事変は、朝鮮の自主権と民族の尊厳を侵害した日本の国家テロ犯罪」と題する全文次のような論告状を発表した。


閔妃
 日本政府が送り込んだ王室の嘱託写真師・村上天真撮影の閔妃といわれる写真
  出典:「閔妃暗殺」 新潮社 1988年5月20日

 今から115年前の1895年10月8日、日本の反動政府は正規武力を主とした大殺人集団を結成して朝鮮の王宮を襲撃して国王の妃、閔妃を無残に虐殺する一大惨劇を起こした。世界の人々は、この事件が乙未年(1895年)に起こったとして、乙未事変と呼んでいる。

 李朝26代王、高宗の妃であった閔妃は当時、王宮内の不和を利用し、国王を代弁して国政を取り仕切り、国の実権者、国家権力の代表者として振る舞っていた。

 日帝が侵略の群れを駆り出し、王宮を襲って閔妃を惨殺した極悪非道な蛮行は、実に国家の自主権と民族の尊厳をゆゆしく蹂躙した永遠に許すことのできない特大型の国家テロ行為であった。

 にもかかわらず、日本政府はこんにちまで、その真相を隠蔽し、責任を必死に回避している。

 朝鮮歴史学学会は、かつて日本の侵略者が閔妃虐殺をどのように計画し、野蛮に行ったのかを満天下に告発するためにこの論告状を発表する。


 1.乙未事変は、朝鮮に対する日本の侵略政策の産物

 乙未事変は、根深い日本の対朝鮮侵略政策の産物であった。

 明治維新を前後した時期から「征韓論」を唱え、朝鮮を植民地化する悪巧みを企てた日本の侵略者は1894年、甲午農民戦争が起こるや、これを絶好の機会とみなして我が国に対する大規模の武力侵攻を行った。

 日本の侵略者はこの時、朝鮮封建政府を武力で屈服させ、清国の勢力を追い出すことによって朝鮮を自分らの植民地にする悪巧みのもとに2個連隊規模の兵力を駆り出して朝鮮王宮を占領する一方、宣戦布告もなしに清国の艦隊を不意に攻撃して清日戦争を挑発した。

 この戦争を通じて日本は、朝鮮から清国の勢力を駆逐し、独占的支配権を掌握して植民地化に有利な地盤を築こうと画策した。

 しかし、その後、朝鮮と東北アジアの地域情勢は日本に不利になっていった。

 清日戦争後、朝鮮人民の反日闘争は強化されただけでなく、帝政ロシアが東北アジアに対する進出を強化し、朝鮮にその勢力を伸ばし始めたし、時を同じくして閔妃をはじめ、親ロ派勢力も台頭した。

 こうした情勢のもとで日本は朝鮮を支配するためには何よりも、我が国に浸透し始めたロシアの勢力を抑えなければならず、そのためには親ロ派勢力を政界から駆逐しなければならないと考えた。

 清日戦争で勝利した日本は、朝鮮から清国の勢力を駆逐できるようになったが、帝政ロシア、フランス、ドイツの3国干渉によって対朝鮮支配権が急速に崩壊する新たな危機に直面するようになった。

 既に、日本の侵略者は、清日戦争での自分らの勝利が明白になった1894年9月以降、我が国の革新官僚の甲午改革推進を妨害し、農民軍を野蛮に鎮圧した後、親日内閣をつくっただけではなく、それを操って内部、法部、席支部と宮内部など朝鮮政府の各部署に日本人の顧問を置いて不純な「内政改革」を強要した。

 「内政改革」で核心問題の一つは、いわゆる「宮中の非政治化」の看板のもとに国王の専制権制限を制度化することにより、国王と閔妃が政治に関与できないようにすることであった。こうしたことから、国王と閔妃は権力から追い出される境遇にあったので、反日感情は極度に高まった。

 しかし、日本の「内政改革」策動は失敗を免れなかった。

 王后の閔妃は帝政ロシアを引き入れて日本を排斥する政策を実施したし、李朝封建統治層内部では反日・親ロ的な傾向が大きく台頭し始めた。

 閔妃は、3国干渉以降強まった帝政ロシアの影響力に依拠して親日勢力を政界から除去し、王権を回復するための活動を展開した。

 1895年4月ごろ、貞洞派と呼ばれる親ロ的な政治グループをつくった閔妃は、外国人が出入りする貞洞倶楽部に側近を送って、外国公使、特に帝政ロシアとの親交を厚くすることに力を入れるようにした。

 閔妃のこうした親ロ的な立場は、日本の侵略者の「内政改革」を破綻に追いやったし、何らかの変動なくしては日本の対朝鮮植民地支配政策をさらに推進しがたくなった。

 ゆえに、朝鮮駐在日本公使の井上(馨)は日本政府に送った報告書で、「内政改革」がはかどらないなど「目下の破綻がなくなるとしても、またしても再現されるのは間違いないので、本使臣はどうしてよいか分からない…よって、干渉の程度、すなわち朝鮮政略の大綱を決定しておく必要がある」(「日本外交文書」第28巻)と記した。

 窮地に陥った日本の侵略者は、情勢を逆転させるための活路を親ロ政策を追求している閔妃の除去に求めた。

 その帰結が閔妃暗殺陰謀であったし、その方途は日本排斥の先頭に立つ閔妃と、政界で閔妃に追い込まれている親日派の朴泳孝との間の対立関係を利用して仕組んだ朝鮮駐在日本公使の井上などによる謀略事件であった。(「秘書類纂 朝鮮交渉資料」中巻)

 しかし、閔妃暗殺謀略は、事前に発覚して失敗した。

 事件のすべての容疑が朴泳孝に向けられるや、国王は7月初、彼に対する逮捕令を出した。

 閔妃暗殺未遂事件は、日本政府に大きな衝撃を与えた。自分らの対朝鮮侵略政策が全面的に破綻しかねない緊迫した事態を逆転させるためにも、今回は政府が直接出て親ロ派勢力のトップである実権者の閔妃を除去する悪巧みを仕組んだ。

 閔妃虐殺事件はまさに、朝鮮をどうあっても独占的な植民地として占領しようとするこうした悪巧みから行われた惨劇であった。


 2.乙未事変は、日本政府の直接的な操りのもとに行われた反人倫的テロ犯罪

 乙未事変は、破産の運命に直面した自分らの対朝鮮侵略政策をどうあっても実現する目的のもとに日本政府が仕組んだ反人倫的なテロ行為であった。

 当時の史料と閔妃虐殺の主犯である三浦(梧楼)のすべての言動がそれを立証している。

 閔妃をそのまま生かしておけば、対朝鮮支配権をもちろん、既に築いた地盤さえも崩れて、もはや挽回できない最悪の状態に至りかねないことが明白になるや、日本政府は閔妃を暗殺するための実践行動に入った。

 1895年6月、親日勢力の地盤保存対策を討議した日本政府は閣議後、閔妃暗殺作戦の適任者として陸軍中将の三浦を押し立て、彼を朝鮮駐在日本公使に任命した。(「秘書類纂 朝鮮交渉資料」中巻)

 三浦は公使に任命された直後、政府に日本の単独朝鮮支配、朝鮮に対する列強との共同歩調、日ロ間の朝鮮分割占領案を提起するとともに「…この三案のいずれを採択するかにより、恩恵的か、脅迫的か、黙認的かの政策が必要となり、こちらの態度もすべてこれによって決まると思われる」(「閔妃暗殺」)と述べた。

 しばらくしてから政府と三浦との間には閔妃暗殺計画が論議され、その謀略を受け入れることのできる条件とその実行に必要なすべての手段を動員できる絶対的な権限を彼に与えるとの合意が遂げられた。

 当時、日本政府が三浦に与えた権限は、第1に、朝鮮駐屯の日本軍守備隊と領事警察、および訓練隊を含む総武力約700人を王宮襲撃に動員することができるという事前承認とその利用権であり、第2に、日本政府が朝鮮に来ている日本人の民間暴徒に配る6000円の機密資金提出とその使用権であった。(「閔妃暗殺」)

 日本政府はまた、三浦に閔妃暗殺計画を作成するようにする一方、前公使の井上を再び朝鮮に送って、閔妃暗殺未遂事件によって急激に高まった王室の反日感情を解消するための措置を講じさせた。それが井上の宮中政略と呼ばれる王室懐柔策であった。

 井上は妻とともに国王と閔妃を訪問して巨額の「贈り物」をし、李朝政府に300万円の借款を新たに提供するということを知らせ、それを餌にして歓心を買おうと躍起になった。(「日本外交文書」第28巻)

 なおかつ、王后をはじめ、閔氏勢力が、再び政治に関与できるようにするとの17カ条の意見を日本政府に提起までした。(「世外井上公伝」4)

 昨日までは閔妃を暗殺しようとし、その陰謀が失敗するや、今度は王室にへつらって歓心を買おうと醜態を演じる井上の行動こそ、凶悪で狡猾な日本人の醜い姿そのものであった。

 緻密な事前準備のもとに日本政府の指令を受けて1895年9月1日、漢城(ソウル)に乗り込んだ三浦は、しばらくの間その正体を深く隠した。

 ずる賢い術策で閔妃の警戒心をゆるめた彼は、同年10月初から、既に日本で作成した閔妃暗殺計画をさらに完成させ、具体的な遂行措置を作成するなど、暗殺の大事に本格的に取りかかった。

 計画は一言で言って、日本の軍事警察武力と日本の民間人暴徒を主力にした殺人集団を結成し、王宮を襲撃して閔妃を殺害することであった。

 そのうえに、今後自分らが殺人犯罪の責任を逃れるために大院君を王宮に参内させ、彼と、閔妃の権力争奪戦に加わった朝鮮人訓練隊が政変を起こして閔妃を殺害したかのように事態を捏造することにより、今後すべての悪結果を大院君になすりつけようと画策した。(「近代朝鮮史」下巻)

 閔妃暗殺計画を作成した三浦は10月3日、日本公使館の秘密会議室で最終的にそれを確定した後、具体的な実行分担案を練った。

 それによると、閔妃殺害の総指揮は公使の三浦が担当し、軍隊指揮は武官の楠瀬(幸彦)が、大院君を宮中に参内させるのは宮内部顧問の岡本(柳之助)が責任を持ち、日本の民間人暴徒に対する指揮は「漢城新報」社長の安達(謙蔵)が受け持つことに決定した。

 日本の侵略者はこれとともに、10月7日、朝鮮封建政府が訓練隊の解散命令をくだし、8日から武装解除に入るという情報をあらかじめ探知し、それに合わせて閔妃虐殺日を10月8日に定めた。

 10月7日夜、公使の三浦は楠瀬に命じて日本軍守備隊18大隊所属の兵力450人を出動させて漢城一帯を物々しい警戒態勢下に置き、岡本に警察とともに50余人の暴徒を率いて大院君を脅迫と欺瞞で王宮に参内させるようにした。

 一方、訓練隊第1大隊長の禹範善も兵力200余人を出動させた。

 翌日の10月8日の明け方、光化門付近に集結した数百人の日本の殺人悪党は、訓練隊を先頭に立てて王宮を守っていた侍衛隊と銃撃戦を繰り広げるようにし、城壁を飛び越えて光化門を開け放った。

 王宮になだれ込むように侵入した殺人集団は、連隊長の洪啓薫を殺害し、国王と閔妃が居住する乾清宮に押し入って、そこにいる国王と皇太子を隅に軟禁し、閔妃を捜し出すため血に飢えた狼のように動き回った。

 殺人悪党は、既に写真を通じて閔妃の姿を目に焼き付けていたが、多くの宮女が悲鳴を上げ、四方に避難する混雑の中で彼女を容易に捜せなかったので、宮女を手当たり次第に刀で切り殺した。

 瞬く間に、王宮は一大殺りく場、修羅場と化した。

 そうしたなかで、野獣らは日本人の小村(室)が閔妃の養女として潜入させた女の口を通じて、日本軍警の刀に切られて倒れたある女性が閔妃であることを最終的に確認した。(「大韓季年史」上)

 日本の悪党が行った閔妃殺害は、古今東西に類例のない残忍な蛮行であった。

 ゆえに、閔妃殺害を目撃したある外国人は「日本人らがその部屋の一隅に自分の頭髪をしっかりかかえながらうずくまっている一人の小柄な婦人を見つけ、王妃ではないかと尋ねた。その婦人は、それを否認し、いきなり彼らを押しのけ、叫びながら廊下へと走り出た。当時、そこにいあわせた彼女の子息は、彼の名を呼ぶ彼女の声を3度聞いたが、しかし、その次の呼び声の出る前に、日本人たちは彼女をつかまえて切り倒したのであった。そして、まだ絶命していないであろう王妃をふとんでくるみ、近くの鹿山の松林に運び石油を振りかけて火を付けた。…しばらくたつと、そこには骨のかけらしか残っていなかった」と告発した。(F・A・マッケンジー「朝鮮の悲劇」)

 また、李朝政府の顧問であった石塚(英蔵)は日本の法制局長にあてた報告書で、閔妃虐殺犯の一人である寺崎(泰吉、本名・高橋源次)をはじめ、日本人らが「惨殺した王妃を引きずり出して衣服をはぎとった後、油を振りかけて火を放った」と述べた。

 果ては彼らは、遺骨を池の中に放り込んだ。

 後日、ロシアの検事は、「閔妃の遺骸のうち地中に少し埋まった頭部の前の部分の骨と片方の手首が発見されたが、これは、閔妃が切られて負傷はしたが、生きていた彼女をそのまま焼き殺したということ、火に巻かれて息絶えつつも頭と片方の手は地中に押し込み、火から逃れようともがいたのではないかという推測を立証している」と証言した。(「朝鮮問題に関するロシア資料」)

 閔妃はこのように悲惨に殺害された。

 他国の王宮に勝手に侵入して一国の王后をこのように残忍に殺害したのは、実に国家の主権に対する重大な侵害であり、民族の尊厳に対する耐えがたい蹂躙であった。

 日本の殺人悪党が働いたこの特大型の反人倫的犯罪は、全面的に日本政府の操りのもとに行われた罪悪であった。

 三浦が閔妃暗殺の結果について、総理の伊藤博文に報告しつつ「我が勢力を維持し当初の目的(閔妃殺害−訳者)を達成する」ためであったので「その方法が多少拙劣でみだれを隠せなかったとの非難はまぬがれないとしても、その目的は立派に達成されたので、得た利は最後まで失わないようにしていただきたい」(「日本外交文書」第28巻)と主張したのは理由のないことではない。

 閔妃暗殺の主犯である公使の三浦が広島の獄に一時監禁されたが、無罪釈放となって東京に到着した時、日本の王が側近を送って閔妃殺害のいわゆる「功」をたたえ、慰労までした事実(「観樹将軍回顧録」1925年)もやはり、乙未事変が日本の王と政府によって行われた国家テロ行為であったことを立証している。

 実に、乙未事変は、日帝こそ我が人民と同じ空のもとで暮らせない強盗の群れであることを満天下にことごとく告発している。


 3.乙未事変の責任を回避しようとする卑劣な策動

 乙未事変は、事件でっち上げの動機と目的、展開過程から見て、絶対に許すことのできない犯罪行為であったにもかかわらず、日本の当局者はどうあっても事件を曖昧にしてその責任を回避しようとあらゆる策動をこらした。

 閔妃殺害の先頭に立った公使の三浦は事件直後の10月10日、高宗を脅迫して、宮中であった「乱動」は訓練隊解散に不満を抱いた兵士らが起こしたものであるという内部告示を出すようにし、閔妃が行方不明になったと宣布するようにした。

 しかし、誰も閔妃の行方不明説を信じなかったし、むしろ彼女が暗殺されたといううわさが瞬く間に全国に広がった。

 時間を引き延ばせば、朝鮮人民の反日感情が爆発しかねないことを予感した三浦は、それをあらかじめ阻む目的のもと、閔妃を廃位させて庶人にするという国王の「廃后詔勅」を作成して高宗に署名するよう強迫した。

 この時、高宗は指を突き出し「この手を切断してあなた方が要求するままに署名できるのならしてみよ。そうする前に我が手でそのようなことはできない」(「駐朝ロシア公使のウェーベルがロシア外相に送った報告書」第219号の付録3)と抗弁した。

 しかし、三浦は10月10日、勝手に閔妃を庶人に格下げするという捏造された「廃后詔勅」を官報に発表した。

 閔妃の「廃后詔勅」に憤激した人民は、全国的に閔妃の復帰と日本の殺人悪党の犯罪糾明を政府に促したし、反日上訴文を連日王宮に送った。全国的な規模で反日機運が高まるなか、各地で反日義兵隊が決起した。

 ロシアをはじめ、列強も朝鮮を独占しようとする日本に反対して閔妃殺害についての真相解明を促した。

 事件が起こった朝、ロシア公使のウェーベルをはじめ、外国の公使らは王宮に入って事件に関するすべての情報を入手し、三浦と会って彼に日本人が事変に加担した理由を詰問した。

 答弁を避けるや、漢城駐在の外交官らは、三浦を呼び出して事変時に現場で惨状を直接目撃した外国人の証言を聞いて追及した。

 しかし、三浦は、日本人が事件に加担した事実があるとすれば、それは多分軍卒の一部とほかの輩が混雑したすきに侵入したものであるとしらをきった。

 外交団はその後も連日会議を開き、事件の真相が親日派が言う内容のようではないということ、首謀者を厳しく処罰しなければならないということ、そして、「廃后詔勅」が国王の意思ではないので公使の三浦の言葉を認めることはできないという自分らの見解を李朝政府の外部大臣に知らせた。(「日本外交文書」第28巻)

 朝鮮人民と外交団の抗議と糾弾にあった三浦と日本政府は慌ててそれに対処する計画を謀議した末、閔妃殺害に加担した軍人、暴徒を日本に召還し、朝鮮人の閔妃殺害犯を捏造して処刑することにより、事件を闇に隠蔽しようと企んだ。

 日本政府は事態収拾のために10月10日、外務省政務局長の小村(寿太郎)を団長とした、いわゆる「法律顧問調査団」を漢城に派遣し、李朝政府内の親日分子を強迫して軍部協辨の李周会、親衛隊副尉の尹錫禹、日本公使館の労務者朴銑を閔妃殺害犯として逮捕、尋問し、彼らを絞首刑に処すようにした。

 李周会事件と呼ばれるこの事件は、日本の罪悪を巧妙に隠蔽するための狡猾な策動であった。

 一方、日本は公使の三浦以下犯人48人と軍人8人を広島の獄と第5師団の軍法会議にわたして裁判芝居も仕組んで閔妃暗殺事件を終結させようと策動した。

 しかし、李周会事件のようなものを捏造することによって我が人民の反日機運を鎮めることも、事件の真相を明らかにせよという国内外世論と抗議を鎮めることもできなかった。

 日本政府は窮余の策として、三浦を公使の職から解任し、新しい駐朝公使を任命する芝居を打つ一方、李朝政府内の親日勢力の全面的崩壊を防ぐために朝鮮から日本軍を撤退させ、朝鮮の独立を尊重するとの宣言書を発表することにより、乙未事変を契機に自分らに注がれる内外の抗議を鎮めようとあがいた。しかし、歴史の真実は何によっても消し去ることができない。

 我が人民は、日本が働いた反人倫的犯罪行為を永遠に忘れないし、永遠に許すことのできない倭賊(日本)の蛮行を決算するであろう。

 日本の当局者が乙未事変をはじめとする犯罪行為を隠し、再び朝鮮に対する侵略のやいばを研いで再侵略の野望を実現しようとすれば、我々は無慈悲な懲罰で同胞の骨髄に徹した恨みを幾千倍にして晴らすであろう。

2010.10.10 朝鮮中央通信(全文)−朝鮮通信=東京



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