日帝の朝鮮民族抹殺罪状録
−2010年11月16日−


 朝鮮中央通信社は16日、「朝鮮に対する日本の軍事的占領と統治は、永遠に許せない特大型の国家組織的犯罪である」と題する日帝の朝鮮民族抹殺罪状録を発表した。その全文は次のとおり。


 朝鮮人民の不倶戴天の敵である日帝が、我が国を軍事的に占領し、植民地支配をしいたときから105年の歳月が流れた。

 朝鮮占領期間、日帝は帝国主義植民地支配史上かつてない最も野蛮で反人倫的な蛮行を働き、我が人民にありとあらゆる不幸と苦痛を強いた。

 朝鮮人100余万人を虐殺し、1938年以後だけも840万余人を拉致、連行した。

 朝鮮の言葉と文字、さらには朝鮮人の名字までなくすために卑劣に策動し、5千年の長い歴史を誇る民族の貴重な文化財を手当たり次第に破壊し、略奪した。

 朝鮮中央通信社は、日帝が朝鮮に対する軍事的占領時代に働いた蛮行を朝鮮民族抹殺を狙った前代未聞の特大型犯罪と認め、これを暴露、断罪する罪状録を発表する。


朝鮮民族抹殺を狙った大虐殺蛮行

 日帝が、我が国に対する軍事的占領時代に犯した最も大きな罪は、朝鮮人を残忍非道に虐殺したことである。

 日帝は、極悪な武断統治、「文化統治」、ファッショ的テロ統治を実施して数多くの朝鮮人を殺す永遠に許せない反人倫的犯罪を働いた。

 「朝鮮人は日本の法律に服従するか、死か、そのいずれかを選ばねばならぬ」「朝鮮人は、北海道のアイヌ族のように滅族させるに足る」というのが、朝鮮人に対する日帝の植民地殺人支配の基本方式であった。

 日帝は、これに基づいて民族自主精神、反日意識をもつ朝鮮の愛国者と人々を大々的に弾圧、虐殺した。

 日帝は、国の独立のために立ち上がった朝鮮人民の反日義兵闘争を圧殺するために、膨大な侵略武力を投入し、「討伐」作戦を行った。

 日帝が少なめに発表した資料によっても、1906年夏から1911年まで約2800回にわたって義兵「討伐」を行い、その過程に15万人以上の朝鮮の愛国者を虐殺した。

 「討伐」地域を焦土化し、一般の住民を無差別に虐殺する野獣じみた蛮行をためらわなかった。

 義兵の根拠地と目された村落に対する焦土化作戦と義兵参加者の親族・家族を残らず殺すための滅種滅族政策によって、数え知れないほどの多くの罪のない朝鮮人が命を失った。

 1919年の3.1人民蜂起の際には、全国的に10余万人を惨殺した。

 蜂起鎮圧のために「朝鮮総督」と朝鮮占領軍司令官は、竜山と羅南の2個師団武力と憲兵、警察を総動員し、それでも足りず、本土から6個大隊兵力と憲兵400人をさらに動員した。

 デモ参加者に銃・砲射撃を加えて市民を殺害した。そして、各地で「朝鮮人狩り」に狂奔した。

 日帝は1920年に、朝鮮占領軍、咸鏡南・北道警察、満鉄守備隊などを動員して間島(中国吉林省延吉一帯の旧称)にいた朝鮮人に対する大虐殺を行った。

 間島大「討伐」として世に知れたこの惨劇事件で日帝は、最も過酷であくどい方法で3万余人の朝鮮人を殺し、間島全体を血の海に染めた。

 このような殺人蛮行を働きながらも日帝は、これを「討伐」作戦の「勝利」と言いはやし、羅南19師団を「表彰」する醜態を演じた。

 1926年の6.10万歳運動と元山埠頭労働者ゼネスト、光州学生事件など、我が人民の反日闘争を無慈悲に弾圧し、労働者、農民、学生を手当たり次第に逮捕、投獄した。

 日帝は1930年代に入って、「朝鮮人100人を殺せばその中に少なくても共産主義者が1人はいるだろう。したがって、朝鮮人は手当たり次第に殺せ」との暴言と「殺しつくし、焼きつくし、奪いつくす」という「三光政策」を唱えて、朝鮮人「討伐」に血眼になって狂奔した。

 1931年秋と1932年春に東満州「討伐」を行い、朝鮮人殺りく蛮行を働いて数万人の命を奪った。

 日帝はまた、各種の弾圧機構を設け、悪法をつくって公表して朝鮮人民の初歩的な人権と自由の最後の痕跡まで踏みにじり、罪のない人々に難癖を付けて逮捕、投獄し、拷問、虐殺する蛮行を働いた。

 1911年から帝国主義侵略史でその類例を見ない極悪非道な悪法である「犯罪即決令」を施行し、警察署長や憲兵分遣隊長に一定の法律的手続や裁判もなく朝鮮人を意のままに処刑できる権限を与えた。

 1912年3月には「朝鮮監獄令」を発布し、最も野蛮な監獄制度を朝鮮に定めた。

 1925年に「治安維持法」、1928年に「新治安維持法」、1936年に「思想犯保護観察令」を発布した日帝は、1940年代に入ってからも「思想犯予防拘禁法」「国家保安法」「朝鮮臨時保安法」など数々のファッショ殺人悪法をつくり出した。

 日帝は、朝鮮民族大虐殺政策を実行するために植民地支配の直接的担当者であり、現地執行者である「朝鮮総督」を日本でも最も悪名高いファシストを選んで派遣した。

 日帝の侵略軍と憲兵、警察など弾圧機構、そしてすべての悪法が例外なく朝鮮人を手当たり次第に逮捕、投獄、拷問、虐殺するのに動員されたのは言うまでもない。

 日帝は「治安維持法」を振り回して、朝鮮人愛国者を手当たり次第に拘束する一大検挙旋風を起こした。1922年の検挙件数が13万8539件であったが、1925年にはそれが19万1203件に、1926年には26万1558件に急増した。

 日帝が少なめに発表した資料によっても、1924年から1929年までの検挙件数は87万5522件、検挙された朝鮮人は数百万人に及んだ。

 1934年には「思想犯」の容疑で6万655人、1938年には16万5300人の朝鮮人を検挙、投獄した。

 日帝が朝鮮民族の自主精神と反日意識を骨抜きにし、抹殺するために働いた蛮行は、その野蛮さと悪辣さにおいて人間の想像を絶する反人倫的犯罪であり、極悪な民族排外主義に基づいた人間殺りく戦、民族抹殺行為である。

 朝鮮民族に対する日帝の大虐殺蛮行は、1938年以降さらに露骨化した。

 日帝はこの時期に、おおよそ840万人の朝鮮人を拉致、連行し、そのなかで約41万7000人を戦争の弾除けに、約778万4800人を死の苦役場に、20万人の女性を日本軍慰安婦にし、数多くの朝鮮人の命を奪った。

 日帝は、「地下大本営」と秘密軍事基地の建設に動員された数万人の朝鮮人を「秘密保持」を口実に集団虐殺したり、細菌兵器の生体実験の対象にする極悪な殺人犯罪を働いた。

 日帝によって拉致、連行された徴兵者と徴用者のうちの70余万人、日本軍慰安婦のうちの14万3000余人が生命を失った。

 朝鮮占領軍憲兵司令部が発行した図書「暴徒討伐誌」、公安調査庁の秘密資料「在日朝鮮人の概況」、「朝鮮総督府」警務局が発行した図書「朝鮮警察概要」などによると、日帝は朝鮮に対する軍事的占領時に、合計100余万人の朝鮮人を虐殺した。これは当時、我が国の人口20人当たり1人が日帝によって虐殺されたことを物語っている。

 日帝が行った前代未聞の大弾圧、大虐殺は、アジアと世界制覇のために一民族、一国を犠牲にすることを画策した日本当局の朝鮮民族抹殺政策と侵略野望に起因したものである。

 「朝鮮総督」であった斎藤(実)は、「朝鮮統治方針」で朝鮮の独立と自治を認めないと公然と宣布し、海外の朝鮮人を扱う問題について「一方では彼らを取締り、その巣窟を掃討する必要があり、他方では…皇国臣民化する必要がある」と高言した。

 1942年に「朝鮮総督」に就任した小磯(国昭)は、「施政方針には変わりがない」「信頼できない集団に対しては…官吏や民間人を問わず、断固弾圧する」と公言し、ファッショ的暴圧を強化する方向へと進んだ。

 これらの妄言は、朝鮮人のなかであらわれた反日感情や愛国的運動がどんな形態で発現されようが、無慈悲に弾圧するという強権政治、暴圧政治を宣布したものであって、事実上、朝鮮民族全滅論であった。

 実に、日帝の働いた朝鮮人大虐殺蛮行は、その規模と残忍性において古今東西の侵略史と戦争史で類例のない最もあくどく、野蛮な人権蹂躙行為である。


朝鮮民族の魂を蹂躙、抹殺

 日帝の朝鮮民族抹殺罪で重大なのは、我が民族を「大和民族化」するために最も狡猾で執拗な方法によって民族同化政策を強行、実施したことである。

 日帝は、朝鮮支配の究極的目的を「一にも同化、二にも同化」であると規定し、朝鮮の歴史と文化・伝統を抹殺して民族性を骨抜きにすることを、その実現方途として打ち出した。

 日帝の軍警は、「まず朝鮮人が自分のもの、歴史伝統について知らないようにして民族の魂と民族文化を喪失するようにし…自分の先祖を軽視して蔑視」するようにした後、「日本の書籍と日本の人物、日本の文化を紹介すれば同化の効果が至大であろう」と唱え、御用学者も「…朝鮮歴史をてん滅(殄滅)して、その痕跡を全く消し去るのがよい」という強盗さながらの論理を持ち出した。

 日帝は、朝鮮占領初期から朝鮮人民を徹底的に奴隷化し、民族性を抹殺することを国家施策とし、支配機構を総動員した。

 「古跡および遺物保存規則」と「朝鮮の宝物、古跡、名勝、天然記念物保存令」などの看板を掲げ、各種の悪法と略奪機構をつくり上げた。

 憲兵、警察などを動員して我が国の各地にある文化遺跡を手当たり次第に破壊、焼却し、貴重な文化遺物を盗んでいく強盗行為をためらわずに働いた。その結果、第24代高麗王である元宗の小陵と碑をはじめ、高麗時代の古墳が全部、盗掘、略奪され、果ては朝鮮王宮にまで日帝の魔手が伸びた。

 日本で発刊された「古跡調査報告」が、朝鮮の始祖陵である檀君陵、そして、高麗太祖陵など高麗の歴代王陵が1910年代に至って、日帝によってたった1基も残らずすべて盗掘されたと叙述したのは、決して理由のないことではない。

 日帝は、占領後10年間に大同江流域と竜淵一帯で、実に1400余基に達する古墳を盗掘して遺物を収奪した。

 略奪した文化遺物は、東京国立博物館に陳列された4万余点をはじめ数十万点に及ぶ。

 初代「統監」であった伊藤博文ら歴代「統監」と「総督」、権力を後ろ盾にする団体とごろつきが略奪に奔走した。寺内(正毅)は、朝鮮の古書を実に2万3000余冊も略奪、詐取し、朝鮮王宮の建物まで崩して山口県に「朝鮮館」を設置した。

 今まで、歴史遺跡・遺物に対する外来侵略者の破壊・略奪行為に関する少なからぬ悲話が伝えられているが、朝鮮文化遺跡・遺物を破壊、略奪した日帝の蛮行のような白昼強盗さながらの犯罪行為はかつてなかった。

 日帝は、自国よりも3000年以上も進んだ朝鮮民族の悠久な歴史をなくすために檀君朝鮮をはじめ、古朝鮮の歴史を削除した「朝鮮史」をつくり上げた。

 朝鮮歴史関連の書籍を「不穏図書」であるとして20万部以上焼き払ってヒトラーの焚書の騒動を超越した希代の蛮行を働いた。

 我が国のすべての史庫を手中におさめて世界的な文化財宝である五台山本「李朝実録」1800余巻と奎章閣に所蔵されていた数多くの貴重な図書を日本に運び出し、江華島史庫を白昼におので壊して古書を大量に盗んだ。

 占領期間に実に5回にわたって、我々の民族古典に対する捜索作戦を行い、数百人の「学者」を各地に送り込んで大量の古書を略奪した。

 日帝は、「李朝実録」など、我々の民族古典と歴史を記録した貴重な国宝を外国に売り払ってしまい、日本で地震などの自然災害と戦争の惨禍にさらされなければならないようにした。

 日帝はまた、朝鮮人から民族性と魂を抜くために思想・文化分野での悪辣なファッショ化策動の一環である「皇国臣民化」政策を露骨に実施した。

 「皇国臣民化」策動は、1937年の中日戦争挑発を機に、さらに大々的に行われ、1941年の太平洋戦争挑発以降には絶頂に達した。

 日帝が、朝鮮民族を「皇国臣民化」に際して重要に狙ったのは、朝鮮人の間に「日本と朝鮮は一つ」であるという「内鮮一体」と「日本民族と朝鮮民族は一つの先祖をなす」という「同祖同根」思想を強制的に注入して、我が人民の民族の精神を抹殺することであった。

 日帝は、「内鮮一体」を掲げて、日本と朝鮮が地理的に近く、昔から「一つの国」「一つの領土」をなし、「日本人と朝鮮人は、一つの領土で暮らしてた一つの民族」であると唱えた。

 日帝は、「内鮮一体」とともに「同祖同根」論を同時に強要した。

 「同祖同根」論を合理化するために歴史的事実まで捏造し、自分らの御用史家を動員してそれを「論証」する資料を「理論」的に合理化し、正当化しようと策動した。

 日帝は、5千年の歴史を有する朝鮮民族を数十年間にわたって「日本化」するために「皇国臣民の武士道精神」を強制注入しようと執拗に策動した。

 国民学校の入学生に真っ先に日章旗に関する歌を教え、乃木(希典)のような狂信的な軍国主義首魁を「忠君忠孝」の手本にし、彼に関する物語を教材に載せた。

 「皇国臣民の誓詞」や「皇国臣民体操」「正午黙禱」もやはり、朝鮮人を日本人に同化させるために押し付けた。

 特に、日帝は朝鮮民族をこの世から永遠になくすため朝鮮語の使用を禁止し、日本語の使用を強要した。

 「内鮮一体は、国語常用から」のスローガンを掲げて官庁、会社、学校、工場ではもちろん、家庭と教会、風呂場でも日本語を使わせた。

 日本語を「国語」と策定し、日本語を話さなければ罰金を科したり、肉体的制裁を加えた。

 果ては、日本語を話さない人には、汽車の切符も売らなかった。

 朝鮮の作家に日本語で作品を執筆することを強要し、日本語による「国民文学」雑誌まで発刊した。

 日帝は、1940年からは「創氏改名」の美名のもとに朝鮮人の姓と名を強制的に奪う、永遠に許しがたい罪を犯した。

 民族の魂と精神が反映され、悠久な歴史が宿る朝鮮の地名を日本式に変える行為もためらわずに働いた。

 日帝の民族同化政策によって、朝鮮民族は1940年代前半期に至り、民族として存在するかどうか、蹂躙された民族性を復活させるかどうかという運命の岐路に立たされるようになった。

 「創氏改名」をしなければ生きられず、「神社参拝」をしなければ生きられず、朝鮮語のかわりに日本語を使わなければ生きられないのが、我が民族に強いられた運命であった。

 これらすべては、日帝の朝鮮に対する軍事的占領が朝鮮人の民族性と魂をことごとく踏みにじり、徹底的に「日本化」、植民地奴隷化して朝鮮民族自体を抹殺するために働いた永遠に許しがたい前代未聞の犯罪であることをはっきり示している。


朝鮮民族の生の基盤を破壊、略奪

 日帝の朝鮮民族抹殺罪で許せないのは、我が人民を窒息させるために無慈悲な物的資源略奪行為を働いたことである。

 当時、我が国は人口の80%以上が農民で、彼らの基本の生産手段と生存手段は土地であった。

 日帝は、我が国に対する植民地支配初期から土地強奪に執着し、「韓日合併」後、より露骨化した。

 「土地所有権の調査確認」の名目で「土地調査令」を宣布し、「手続違反」「証拠不明」などの口実を設けて100余万ヘクタールに及ぶ莫大な土地を不法に強奪した。

 一方、「産米増殖計画」「供出」などの看板で3900万トンの米を略奪した。

 これについて、図書「日本人の海外活動に関する歴史的調査」は、次のように指摘している。

 「2600万人の朝鮮人に最も悪い感情を抱かせたのは、米の供出と人の供出である。…1937年に支那事変を起こした時、官民は皆、米は問題ないと言っていた。なぜなら…この日本内地の4島と朝鮮、台湾を合わせれば最も少ない時は800万石、多い時は1500万石を持ってきた。これを朝鮮銀行券、台湾銀行券という紙で買った。特に、金は必要なかった。」

 日本の収奪者が支払い保証のない管理貨幣である「朝鮮銀行券」で米を買ったということは、彼ら自身が言ったように朝鮮の米をただで奪ったことを示している。

 米収奪の強盗さながらの性格は、米「供出」制度を実施していた時期にさらに集中的にあらわれた。当時、日本の収奪者は、朝鮮の農民から生産費の9%にもならない安値で米を奪い取った。その管理貨幣さえも「戦時貯金」「愛国公債」の名目で取り込んだ。

 朝鮮の農民が自分の家族のように大事にしていた牛を194万3000余頭も連れて行って食肉処理してしまった。

 日帝の農村略奪行為によって、朝鮮の農村は慢性的な飢餓地帯になったし、春の端境期は「定例行事」のように訪れた。こうして、我が国で「ポリコゲ」(端境期)という言葉が生まれ、朝鮮の人々は飢えと病魔にさいなまれたあげく、懐かしい故郷を捨てて生きる術を求めて異国への流浪の道に立たなければならなかった。

 日帝は、1918年5月1日に「林野調査令」をつくり上げて公布し、我が国の林野面積1600万ヘクタールのうち1300万ヘクタールを「国有林」の名目で奪い、残りは日本人地主と親日手先の所有に回した。

 1902年から1945年7月までの期間に、7億6940万2347立方メートルに及ぶ莫大な量の木材を略奪した。

 「朝鮮総督府」直属の4営林廠と26の伐採事業所、100余の伐採作業場を通じて鴨緑江と豆満江沿岸にうっそうとしていた200余万ヘクタールの大原始林を破壊し、13道庁の傘下に組織された営林署と三井物産、住友財閥など日本の大財閥と企業体を押し立てて朝鮮の津々浦々から山林資源を略奪した。

 「朝鮮鉱業令」「漁業令」をはじめ、植民地略奪法をつくり上げ、公布して我が国の豊富な地下資源と水産資源を最もあくどい方法で奪い取った。

 日帝が我が国で強奪した物的資源は、額面で見れば天文学的数字である。

 金、銀、銅、亜鉛、鉄鉱石など略奪した58種に及ぶ各種の鉱物の金額は、1945年8月の我が国での各種の鉱物相場で20億円にのぼる。

 1910年から1942年の間に奪い取った水産物1432万トン(養殖は除外)の金額も、当時の額面で11億260余万円であった。

 財政および金融を通じた収奪額も莫大である。

 そのなかの一部の指標別額面だけでも、税金153億1152万5000円、軍事費(1937−45年)16億1090万9896円、事業公債(1911−44年)139億610万円、戦時強制貯金(1938−44年)54億9616万8000円、国債、貯蓄債券、報国債券、特別報国債券2億6023万円、朝鮮内の金融機関の有価証券を通じた総額72億3362万1000円である。

 これだけを見ても、日帝が働いた各種の資源の略奪規模がどれほど膨大なものであったのかを推して十分に余りある。


※     ※     ※

 朝鮮人民が日本の植民地支配によって受けた精神的・人的・物的被害は、その形態と内容、規模において実に、人類史に空前絶後の最大最悪のものである。

 にもかかわらず、日本は過去を清算するかわりに、終始一貫、再び我が国を奪い取る野望を追求している。

 日本の対朝鮮政策は、過去も、現在も、朝鮮民族を自分らに従順な奴隷に、我が国を日本領土の一部にしようとするものである。

 20世紀中葉、日本は、米帝が我が共和国に対する武力侵攻を開始すると、直ちに工業の全般的な生産システムを戦時体制に改編し、米国に軍需品を全的に生産して供給した。それだけでなく、軍事基地と軍事施設を設置するように全領土を米国にゆだねた。

 朝鮮戦争に侵略武力を送り込んで罪のない朝鮮人民を殺害し、三千里の国土を廃墟にすることに直接加担した。

 1950年7月27日に英国のロイター通信は、「7月に既に日本軍の朝鮮戦争参加者の数は2万5000余人に達した」と報じた。

 日本の朝鮮侵略戦争加担は徹頭徹尾、自分らの対朝鮮政策である朝鮮民族抹殺を狙った極悪な犯罪行為である。

 日本は敗北以降の65年間、我が国を目の上のこぶとみなして政治的・軍事的威嚇と恐喝、経済的制裁を絶え間なく加えたばかりでなく、日帝の植民地支配の結果によって日本に住む朝鮮人とその次代に対して過酷な民族的差別と弾圧を続けてきた。

 日本のこのような行為は、明白に旧日本帝国が強行した朝鮮民族抹殺策動の延長である。

 諸般の事実は、日本こそ朝鮮民族に千年、万年にかけてもぬぐえない犯罪を働いた百年来の敵であることをはっきりと示している。

 現在、我が軍隊と人民は、日本の罪悪を総決算するという意志に満ちている。

 日本は、我が軍隊と人民を正しく認識して分別のある行動をとるべきであり、過去の犯罪行為について朝鮮民族に誠実に謝罪、賠償すべきであろう。
2010.11.16 朝鮮中央通信社「罪状録」(全文)−朝鮮通信=東京




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