『金正淑伝』
 
注 釈


 チュチェ6(1917)年 朝鮮では、チュチェ思想を創始し、朝鮮の革命と建設を勝利に導いた金日成主席の革命的生涯と業績をたたえるため、主席の誕生した1912年を元年とするチュチェ年号を制定した。チュチェ年号は、主席の3周忌にあたる1997年7月8日に制定された。

 林春秋(1912〜1988) 抗日革命闘士。早くから革命闘争に参加し、反日学生事件に関与してソウル西大門刑務所に収監される。出獄後、朝鮮人民革命軍に入隊し、軍党委員会委員、東満党工作委員会書記などの要職で活動。解放後、道党委員会委員長、朝鮮民主主義人民共和国最高人民会議常任委員会書記長、副主席を歴任した。

 革命互済会 金日成主席が、抗日革命闘争の時期に組織した反日大衆団体。抗日革命家に好意を寄せて中立を守る人たちや共鳴者、老人などが加わったこの会は、抗日武装闘争の大衆的基盤の強化に大いに寄与した。

 春慌闘争 1932年の春、金日成主席の指導のもとに中国の間島地方の農民が、日本帝国主義と反動的地主に抗して展開した大規模な組織的闘争。これにより、抗日遊撃隊の創建と遊撃根拠地の創設、武装闘争の大衆的基盤の構築に有利な条件がもたらされた。

 「自衛団」 日本帝国主義が1932年から中国東北地方の各村落に「自力で地方の治安」を維持するという口実のもと「自衛団」に青壮年を強制徴集してつくりあげた武装組織。これは、抗日遊撃隊の「討伐」と革命勢力の抹殺をもくろむ日本帝国主義侵略軍と警察隊の補助隊とされた。

 『団結紐』 金日成主席が、革命活動の初期に創作した革命歌舞。この作品は、全民族が一丸となってたたかえば、国の独立は達成できるということを、色とりどりの帯で形象化している。

 「満州国」軍 日本帝国主義が1932年3月1日の「満州国」樹立後につくりあげた軍隊。1945年、日本帝国主義の敗亡と「満州国」の崩壊によって消滅した。

 半遊撃区 抗日武装闘争の時期に創設された遊撃根拠地の形態の一つ。形式上は敵の統治地域であるが、実際には朝鮮人民革命軍の管轄地域で、人民革命軍への支援や革命の後続隊の育成をおこない、敵地と遊撃区との中間連絡所としての役割を果たした。

 「民生団」 日本帝国主義侵略者が1932年2月に中国の間島地方でつくりあげた反革命的スパイ・御用団体。「民生団」は、日本帝国主義の差し金のもとに朝鮮人の「民族としての生存権の確保」「朝鮮人による間島自治」といった欺瞞的なスローガンをかかげ、朝鮮民族の利益をはかるかのように装って朝鮮人民の反日意識を麻痺させ、朝鮮の革命家に危害を加え、朝中人民を離間し対立させ、革命隊伍を内部から瓦解させようと画策した。「民生団」は、当初からその正体があばかれ、1932年7月に解体した。しかし日本帝国主義は、その後も、特務や手先を動員し、革命隊伍内に多くの「民生団」員が潜入したかのように見せかけた。その奸計に乗せられた民族排外主義者と分派・事大主義者の政治的愚鈍さと不純な政治的野望のため、反「民生団」闘争は極左的に進められ、革命隊伍の統一団結と朝鮮革命の発展に甚大な損失をもたらした。反「民生団」闘争の極左的偏向は、金日成主席によって正された。

 満州国 日本帝国主義者が中国の東北地方を占領し、1932年3月1日に清国の最後の皇帝であった溥儀をおし立ててつくりあげた、かいらい国家。

 崔 賢(1907〜1982) 抗日革命闘士。反日闘争に参加して逮捕され、7年間獄中生活を送る。1932年7月に出獄し、金日成将軍の導く朝鮮人民革命軍に入隊して指揮官として活躍。祖国解放戦争(朝鮮戦争)の時期には、朝鮮人民軍軍団長、戦後は人民武力部長など党と国家の要職を歴任した。

 朴 達(1910〜1960) 朝鮮民族解放同盟の責任者。1938年9月、日本帝国主義の手先の密告によって警察に逮捕される。野蛮な拷問によって廃人同様の身となり、1945年8月、朝鮮の解放とともにソウル西大門刑務所から出獄。その後、平壌に移り住み、病床で執筆活動をつづけた。

 「恵山事件」 日本帝国主義が1937年と1938年に恵山を中心とする朝鮮国内と中国東北地方の長白一帯で、朝鮮革命家と愛国的人民にたいして強行した2回にわたる大検挙事件。
 1941年8月、日本帝国主義は「恵山事件」を名目に、「咸興地方法院」でだけでも167名に不法な有罪判決をくだし、多くの愛国者を死刑、無期懲役に処した。

 「協和会」 日本帝国主義が1932年7月25日につくりあげたかいらい「満州国」の反動団体。「協和会」は、日本帝国主義の侵略政策を擁護する別働隊、反動的本拠として、「関東軍」の「治安粛正」計画にもとづき、満州で抗日武装力を「討伐」し、人民に反動的思想を植えつけようと策動した。1945年、日本帝国主義の敗亡と「満州国」の崩壊によって解体した。

 甲午農民戦争 1894年から1895年にかけて、封建支配層と日本の侵略者に抗して朝鮮半島西南部の全羅道地方で起こった農民戦争。この戦争が始まった1894年が甲午年であることから、甲午農民戦争という。

 義兵闘争 侵略者に抗して自発的に展開された愛国的人民の闘争。近代の義兵闘争は、朝鮮にたいする日本の侵略策動が強化された1895〜1896年ごろから激化していった。特に、日本帝国主義が朝鮮を占領した前後10年間(1904〜1914)の反日義兵闘争は、国内外で日本帝国主義侵略者に大きな打撃を与えた。

 3.1人民蜂起 日本帝国主義の野蛮な植民地支配に抗して1919年3月1日に起きた朝鮮人民の全民族的反日愛国闘争。3.1運動ともいう。独立万歳示威闘争に立ち上がった群衆は、日本の統治機関を襲撃、破壊し、侵略者と売国奴を誅殺した。蜂起は、中国東北地方や上海、ロシア沿海州、日本、ハワイなど、海外の朝鮮同胞にも波及した。

 新幹会 1927年2月、ソウルで共産主義者と民族主義者の合作によって創立された統一戦線組織。全民族の団結をはかることを綱領としてかかげ、民族の総力をもって朝鮮の独立を達成しようとした。しかし、日本帝国主義の破壊策動と内部の改良主義的策動、組織の指導中核の欠如のため、1931年5月に解体を余儀なくされた。

 天道教宗理院 天道教(朝鮮固有の民族宗教)で教徒のための諸業務を担当する機関の一つ。中央宗理院と地方宗理院があった。

 熱河遠征 中日戦争勃発の前後に、コミンテルン内の極左冒険主義者が中国東北地方で活動する抗日武装部隊に、「満州国」の首都・長春を包囲して攻撃し、熱河方面へ進出するよう求めて強行させた遠征。この計画は、無謀かつ非現実的な軍事作戦であったため、多大の損失をまねき失敗に終わった。

 5.30暴動 1930年5月、分派・事大主義者が、中国の東満州で起こした極左冒険主義的暴動。この暴動は、日本帝国主義と中国国民党軍閥に共産主義者と反日大衆弾圧の口実を与え、多数の犠牲者を出して失敗に終わった。

 「縮地の術」 伝説でいう、地脈を縮めて一気に数十、数百里を行き来する術のこと。抗日革命闘争の時期、朝鮮人民は、金日成将軍の卓越した用兵術と戦法を縮地の術にたとえて称賛した。

 「東南部治安粛正特別工作」 日本帝国主義が1939年9月、中国の吉林に「討伐司令部」を設置し、朝鮮人民革命軍にたいして強行した大規模な「討伐」作戦。一名「通化・吉林・間島三省討伐」、または「京辺道三省討伐」ともいう。日本帝国主義は、この「討伐」作戦に20万の兵力を投入した。

 安 吉(1907〜1947) 抗日革命闘士。1933年、金日成将軍の導く朝鮮人民革命軍に入隊し、連隊長、第3方面軍参謀長を務める。解放後、党と政府の要職に就き、建党、建国、建軍の三大課題を実現するため力を尽くした。

 呉振宇(1917〜1995) 抗日革命闘士。朝鮮戦争の時期に朝鮮人民軍師団長、軍団参謀長を務める。戦後、人民武力部長、朝鮮労働党中央委員会政治局常務委員会委員など党と国家の要職を歴任。1992年に朝鮮人民軍元帥の称号を授与された。

 金 策(1903〜1951) 抗日革命闘士。1927年から革命に参加。日本警察に逮捕され、数回にわたって獄中生活を送る。1932年に朝鮮人民革命軍に入隊し、指揮官として活躍。解放後、北朝鮮人民委員会副委員長、朝鮮民主主義人民共和国内閣副首相兼産業相を歴任。朝鮮戦争の時期には、軍事委員会委員兼前線司令官を務めた。

 康良U(1904〜1983) 愛国闘士、政治活動家。日本帝国主義の植民地支配当時、教師、牧師として愛国的な教育活動と布教活動に従事。解放後、最高人民会議常任委員会書記長、朝鮮社会民主党中央委員会委員長、朝鮮民主主義人民共和国副主席を歴任した。

 曹晩植 解放後、平壌で創立された朝鮮民主党の指導的ポストに就き、ソウルの米軍政庁の差し金で、党を売国・反民族の道へと誘導する一方、北朝鮮での民主社会の発展と全国的な自主独立国家の樹立をめざす人民の闘争を破綻させ、北朝鮮の民主勢力を分裂させようと画策した。1946年2月、曹晩植とその追随分子は党の指導部と党から除籍された。

 建国思想総動員運動 解放後、日本帝国主義が扶植したあらゆる古い思想と因習を一掃し、新しい建国思想を身につけ、生気にみちた民族的気風を確立するために展開された思想改造運動。金日成主席は1946年11月25日、北朝鮮臨時人民委員会第3回拡大委員会で、この運動方針をうちだした。

 『城隍堂』 金日成主席が革命活動の初期、中国の賈家屯で創作し公演した革命演劇。この作品は、迷信の虚偽性と欺瞞性、地主や日本帝国主義の手先の反動性をあばき、勤労人民が生活を改善するには神ではなく、みずからの力を信じるべきであるという思想を芸術的に形象化している。

 呂運亨(1886〜1947) 朝鮮の独立運動家。京畿道楊平出身。初期に「上海臨時政府」と「高麗共産党」に関与して朝鮮の独立のためにたたかう。ソウルで朝鮮中央日報社社長、朝鮮建国同盟委員長、朝鮮人民党党首などを歴任。解放後、南朝鮮で自主的な政治路線と連共・統一をめざしてたたかい、暗殺された。

 「上海臨時政府」 1919年4月、上海に亡命していた29名の民族主義者が組織した「大韓民国臨時政府」。この「臨時政府」は、いかなる大衆的・政治的基盤もなく、誰からも認められなかった亡命者の集団で、「政府」の要人たちは派閥争いと内閣改造に明け暮れ、アメリカをはじめ、帝国主義列強にすがって朝鮮独立のための「請願運動」を展開した。「運動資金」の名目で同胞から莫大な資金をかき集め、腐敗堕落した生活を送る一方、共産主義者にテロを加え、朝鮮人民の抗日武装闘争を妨害した。1945年8月、太平洋戦争の終結とともに消滅した。

 「5.10単独選挙」 アメリカ帝国主義者が、朝鮮の自主的統一を阻み、南朝鮮を完全に植民地化するため、1948年5月10日、南朝鮮で不法に実施した単独選挙。その結果、売国的な李承晩かいらい政権がつくりあげられた。

 『南山の青松』 朝鮮の反日民族解放運動の卓越した指導者金亨稷が、1918年の秋、祖国解放の大志を抱いて故郷の万景台を後にするときにつくった革命歌。この歌には、金亨稷の不屈の革命精神と反日愛国思想、祖国解放の遠大な志が表現されている。

 南山のあの青松が/雪霜に埋もれて/千辛万苦を耐えしのび/ふたたび陽春を迎え蘇るを/友よ君知るや
 国の独立ならずんば/生きてなにするものか/この身裂け粉となるも/解放の道ひとすじに進むを/はらからよ信じたまえ
 この身倒れても/代を継いでたたかいつづけ/三千里錦繍江山に陽春を迎え/独立万歳の雄たけび/朝鮮よいざあげん





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