『金正淑伝』
 
13 将軍の志を継がせるために


  白頭山の子として

 金日成主席は次のように述べている。

 「一生涯、同志と人民のためにすべてをささげた金正淑だったが、子女には1銭の金も、一つの財産も残さなかった。彼女が使った金はわたしの月々の給料であり、彼女が使用した家や家具は、すべて国のものだった。

 金正淑が我々に残した遺産といえば、金正日を未来の指導者に育て、党と祖国の前に立たせたことだ。みなさんはわたしが金正日を後継者に育てたと言うが、その基礎を築いたのは金正淑なのだ。彼女が革命の前に残したもっとも大きな功績は、まさにこれだった」

 正淑が、正日を生み育てた日々は平穏な時期ではなかった。

 それは、抗日の銃声が響く厳しい血戦の日々であり、廃墟の上に新しい民主朝鮮を建設するという未踏の道を歩む苦難の日々であった。

 厳しい抗日武装闘争の時期、正淑はあるときは弾雨をわが身で防ぎ、またあるときは自分の体温で凍えた体を温め、火薬のにおいの染みた軍服に抱いて正日を育てたのである。

 正淑はいつも正日に、早く大きくなってお父さんに仕え、お父さんの志を受け継いで祖国と人民のために尽くす立派な人になるのだと言い聞かせた。

 そして、正日が幼いころから、金日成将軍を一家の父としてではなく、全人民の領袖としていただき、その志を肝に銘じて、そのまま受け継いでいくよう心を砕いた。

 ある日、正淑は、お父さんの名前は朝鮮人民の願いをこめて革命同志たちがつけたのだ、お父さんの名前には、朝鮮を明るく照らし、人民に永遠の幸せをもたらす太陽になってほしいという深い願いがこめられている、月は太陽の光を受けて明るく見えるのであり、空にある無数の星もみな太陽の光を受けて輝いているのだ、だから、太陽はこの世に一つしかない光の源であるとかんで含めるように教えた。そして、お父さんは祖国と人民の太陽であるから、わたしたちはみな、その戦士としての信義を守らなければならないと諭した。

 祖国に凱旋して万景台の将軍の生家を初めて訪ねた翌日、正淑は正日に、お父さんの一家はみな祖国と人民のために敵と勇敢にたたかった、だから、これからは、お前が早く大きくなってお父さんの志を継ぎ、解放された朝鮮をこの世で一番立派な国にしなければならない、そうするのが万景台の血を受け継いでいくことになるのだと話した。

 正淑は正日を連れて、将軍の一家が居を構えていた七谷や烽火里も訪ねた。そして万景峰に登つては、祖父の金亨稷がつくった詩『南山の青松』の話をし、麦田の渡し場に行つては、お父さんは幼いころおじいさんの言いつけを守り、おじいさんの活動を助けたものだと話した。

 代々、外来侵略者に抗して祖国と人民のためにたたかってきた革命的家系の大本を植えつけようとする正淑の言葉は、幼い正日の心に忘れがたい印象を残した。

 ある日、正淑が万景台に出かける支度をしていたとき、正日が、ぼくのふるさとはどこなのと聞いた。

 そのとき正淑の脳裏に、うっそうとした密林の中の白頭山密営、小白水のほとりの質素な丸太小屋、そして、1歳にもならない正日を同志たちに託して敵地へ向かったこと、任務を遂行して帰ってくると、外哨まで迎えに来た戦友からわが子を抱きとり、その頬をなでてやったことなどがありありと浮かんできた。

 「お前のふるさとは白頭山だよ。朝鮮で一番高い山なのよ。白頭山には天池があり、木もたくさん生えているのよ。そして、そこは、お父さんが日本の侵略軍をやっつけたところなんだよ」

 そして、白頭山には、百ぺん倒れても立ち上がり、最後まで戦って勝利した革命精神が秘められていると言い聞かせた。

 こうした話を聞かされるうちに、正日の胸に、白頭山を縦横無尽に駆け巡りながら日本の侵略軍を征討した父にたいする誇りと尊敬の念が根づいていった。

 正淑は、将軍が現地指導をするたびに正日をともなって随行した。それは、人民のためにすべてをささげる父の気高い品性を身につけさせるためであった。

 そして、将軍とともに、工場や農村、漁村を訪ね、労働者、農民の創造的熱意と愛国的熱情にあふれる祖国の現実から、人民のために尽くす将軍の労苦と心血をくみ取るよう正日を教育し、父のように勤労人民を愛し尊び、彼らのために尽くすよう懇々と諭した。

 雨の日も雪の日も将軍に付き従って全国津々浦々を巡り歩く過程で、正日は、革命の目的は人民に最大の幸福をもたらすことにあり、人間の自主性を実現する革命は人間への最大の愛であるという真理を体得し、金日成将軍こそは人民への愛を体現した偉大な人間であることを悟った。

 正淑はまた、みずから模範を示して、父によく仕えるよう正日を教育した。

 早朝、正門まで将軍を見送り、どんなに帰りが遅くなっても正門で出迎えるのを常としていた母を見慣れていた正日は、父が帰宅する時間になると母と一緒に正門で待つようになった。

 風雨が吹きつけるある晩のことである。人気に目を覚ました正日は、家の中に入ってきた母の冷たい手をとり、どこへ行ってきたのかと尋ねた。正淑は微笑をたたえ、雨風がひどいので家のまわりを見回ってきたと答えた。ところが、母が毎晩のように外へ出ていくので、正日はなにをしに行くのかとしきりに尋ねるようになった。すると、正淑は正日の頭をなでながら、「お母さんは、お父さんを守る警護隊員なのよ」と言うのであった。

 翌日、将軍が帰宅する時間になると、正日は木銃を手にして正門の衛兵所に立った。

 正淑は、将軍の書斎の前を通りすぎるときは、いつもつま先で静かに歩いた。母を見習って、正日も将軍の書斎の前にいたると音を立てないように注意して歩いた。

 正淑は、正日が幼いころから、ひたすら革命の勝利と人民の自由と幸福のためにすべてをささげている将軍の日課をそのまま見習うよう、正日の日課表をつくった。それは、将軍の日課に合わせたものであった。

 正日は、その日課をきちんと守った。将軍は、朝早く起きて散歩についてくる正日の手をとって庭園を歩きながら多くのことを教えた。自然と社会、朝鮮革命と世界革命、古代史から現代史にいたる偉人の話、経済や軍事など、対話の内容と範囲を次第に広げていった。

 こうして、正日は、指導者としての資質と天稟をさらにはぐくんでいった。

 ある日、正日が日課を鉄則としていることを知ったある幹部が正淑に、まだ遊び盛りなのにご子息に将軍の日課を見習わせるのは無理ではないかと言った。

 すると正淑は、人の習慣は幼いころにつくものだ、正日はゆくゆく将軍に仕えるべき身であるから、いまから将軍の日課に慣れさせるべきだと答えた。

 将軍は仕事に追われ、毎日のように深夜か明け方近くに帰宅した。正淑は、将軍が帰ってくるまで必ず待つ習慣を正日につけさせるため、初めのうちは面白い昔話や童話を聞かせたり、なぞなぞをしたりして正日の興味を引き、次第にその時間を正日のその日の生活を総括し教育するのに利用していった。

 正淑は、将軍に喜んでもらうことを最大の幸せ、生涯の信条とするみずからの革命的人生観を、正日がそのまま受け継ぐよう導いた。

 正淑は、夜半過ぎにも机の前に座って将軍の著作を学習し、車内でも新聞を開いて新しく発表された将軍の演説を読むのを常とした。こうした母の模範的実践と革命的教育は、正日の真摯な学習気風を確立するのに大きな影響を及ぼした。

 正淑はとりわけ、正日の非凡な思考力と観察力、人並みはずれた探究心と強靭かつ大胆な気質、豪放かつ寛大な性格を助長することに努めた。

 そして、正日がさまざまな自然現象について聞くと、絶対に聞き流したりいい加減に答えるのではなく、自然と社会の複雑な現象にたいする観察力をはぐくみ、事象の道理を筋道立てて説明した。

 正淑は、地球はどんな形をしており、なぜ回るのか、夜と昼、季節の区別はなぜ生じるのか、なぜ雪や雨が降り風が吹くのか、なぜ川は流れ海に注ぐのか、石を放りあげると地に落ちるのにゴム風船はなぜ空に舞い上がるのかといった自然現象はもとより、人類社会はいつ始まってどのように発展してきたのか、地主と資本家はどのように労働者、農民を搾取したのか、労働者、農民はなぜ工場と土地の主人にならなければならないのか、アメリカ侵略軍はなぜ南朝鮮にやって来たのか、といった複雑な社会現象にいたるまで一つひとつ教え、正日の思考力を伸ばしていった。

 また、正淑が正日の音楽にたいする愛好心と才能をはぐくもうと心を砕いたため、ある抗日革命闘士から、将来、子息を音楽家にするつもりかと聞かれたこともあった。

 正淑のこうした教育は、正日が人間のきわめた科学と技術のあらゆる領域はもとより、文学・芸術にいたるまでの博学多才な実力を蓄える下地となった。

 将軍の意を体して正日を立派に育てようとする正淑の心配りには、なみなみならぬものがあった。

 正淑は、よく正日に、将軍が構想している新しい祖国建設の壮大な展望についてわかりやすく話して聞かせた。それは、幼少のころから父の仕事に深い関心を持たせるだけでなく、祖国という大きなスケールですべてを大胆に考えるようにさせるためであった。

 正淑は、正日が山に思いを馳せるなら朝鮮で一番高くて雄大な白頭山に思いを馳せ、広くて大きなものなら川や湖でなくぼうぼうたる大海原に思いを馳せる大きな心をもつよう導いた。

 1989年11月のある日、金日成主席は、白頭山を見ると金正日同志の姿が目に浮かぶ、金正日同志は白頭山の子であり、白頭山は彼のふるさとであり胆力を養った揺籃である、その思想や性格を見ても、趣味や習慣を見ても、彼は白頭山によく似ている、白頭山の精気と気概が彼の全精神と全身にみなぎっている、金正日同志こそは白頭山タイプの人間であると語った。

 白頭山の気概をそのまま体現した金正日総書記のこうした気質は、正淑の手で培われ、開花したのである。

 猛烈な軍事・政治訓練がおこなわれていた抗日武装闘争時期のある日、その日の訓練を終えて正淑が戦友たちと一緒に帰ってくると、正日が大きな岩によじのぼろうとしていた。

 戦友たちがけげんな顔をすると、正淑は、あの岩が高いので、そこに登って密林を見おろそうとしているのだろうと言った。そして、正日に手を貸そうとする戦友たちを引き止め、自分の力で登ろうとしているのだから放っておこう、あれぐらいの岩に登れないわけはないだろうと言った。

 このように正淑は、正日がまだ幼少のころに、その意地と勇敢さに不屈の気概と無比の胆力の芽を見いだし、常に大胆に考え行動するよう気を配り、一度決心したことはあくまでやり遂げるよう導いた。そして、原則と道義にもとる行為にたいしては絶対に許さず、正日を気骨のある正義感の強い子に育てた。

 雪が降り、冷たい風が吹く冬の日も、正淑は正日に厚着をさせなかった。

 正淑は、お父さんは山中で日本軍と戦ったとき、寒い冬にもよくひとえの服で過ごしたものだ、それでもひとしきり戦闘をしたり行軍したりするとびっしょりと汗をかいた、だから寒いからといって厚着をせずに、外に出て雪合戦でもして遊びなさいと言い聞かせた。

 こうして正日は、鉄の意志と胆力、体力をそなえていった。

 1946年夏のある日のことである。

 正日は、私邸の前につながれている馬を見て、乗せてくれとせがんだ。そばにいた護衛兵は、正日を馬に乗せ、手綱を取って歩きはじめた。ところがしばらく行くと、正日は自分に手綱を持たせてくれと言った。しかし護衛兵は、まだ4歳にしかならない正日に手綱を持たせることはできなかった。日ごろ従順な馬でも急に走り出したり跳びはねたりすることがあるからである。それを考えると、彼としては絶対に手綱を渡すわけにはいかなかったのである。

 あとで彼がこのことを話すと、正淑は「まだ幼いのに独りで馬に乗ろうとするのは、非常に大胆で将帥らしい気迫といえるでしょう」と喜び、自分が乗馬の訓練を施し、馬に乗る正日の姿を将軍にお見せすると言うのだった。

 正日の突飛な要求、ときには実現不可能と思われる願いも心にとめ、そのつど、かなえてくれる正淑の心づかいで、正日は乗馬の訓練を始めた。

 正淑は、正日のために鞍やあぶみを直し、注意すべきことも教えた。そして、馬も主人が自分を可愛がってくれるかどうかがわかるものだ、だからよくなでてやり、好物の餌もやって馬を手なずけるようにと諭した。

 それから1年過ぎたある日、競馬場から白馬が引かれて来た。

 正日がその馬に乗ろうとすると、庭にいた曽祖母の李宝益が、怪我でもしたら大変だと言って止めた。そばでこれを見ていた将軍と正淑は笑みをたたえ、大丈夫ですと曽祖母を安心させ、正日が馬に乗るのを助けてやった。正日は、白馬にまたがり、手綱をしっかりと握りしめた。馬は、はじめのうちは何回か跳びはねていたが、しばらくするとおとなしく歩きはじめた。正日は、いささかも動じることなく手綱を握り、門の外へ馬を駆って行った。

 その日、将軍の家に来ていた曽祖母をはじめ親戚一同は、りりしい正日の姿に感嘆の声を上げた。

 1947年9月のある日、咸鏡北道鏡城地区に滞在していた正淑は、現地指導のため当地を訪ねた将軍に、馬に乗った正日の姿を見せた。

 馬に乗って大通りに出た正日が早足に移って駆けていたとき、不意に1台の牛車が道の真ん中に出てきた。すると、正日はさっと手綱を引き、駆けていた馬をその場に止めた。馬は前足を上げていなないたが、正日は平然と馬にまたがっていた。

 馬に乗って後ろからついてきた将軍は、それを見て豪快に笑った。

 正淑は、正日が銃も上手に扱うよう導いた。

 木や岩に依託しての射撃の姿勢、飛ぶ鳥や水中の魚に照準をあてるコツ、そして照星と照門の合わせ方や狙いの定め方などを教え、みずから模範動作をしてみせた。

 そうしたある日、地方へ出向いた際、正淑は将軍に正日の射撃の腕前を見せた。標的はドロノキの枝にかけられた紙であった。正日は、将軍が装弾してくれた拳銃を受け取り、自信満々の面持ちで射撃の姿勢を取った。正淑は、正日の姿勢を正してやり、銃は手で撃つのではなく心で撃つべきだと言った。

 銃声が鳴り響いたかと思うと、3発の銃弾はみな白紙を撃ち抜いていた。

 将軍は正日を抱きしめ、よくやった、これからは馬を走らせながら銃を撃ってみるようにと励ました。

 正淑は、正日に友愛の精神を植えつけるため心を配った。

 幼稚園で三輪車競争がおこなわれたときのことである。普段から体を鍛えていた正日は、この日の競争でも断然トップに立っていた。ところが、そのとき競争相手の一人が転倒した。これを見た正日はすぐ三輪車を止めて駆け寄り、その子を助け起こして三輪車に乗せてやった。そのため、惜しくも正日は2等になってしまった。正淑は正日を抱きしめ、「倒れた友達を助けてやったんだから、1等になるより立派なことをしたのよ。本当に偉いわ」とほめた。

 正淑は、人のために尽くしてこそ立派な人間になれるとし、正日が高潔な人間愛と厚い道義心、革命的原則性と正義感をもつ革命家に育つよう気を配った。

 解放直後、将軍の私邸には馬東煕、柳栄燦をはじめ、多くの闘士の遺族や革命戦友が訪ね、数日、ときには数カ月間も寝泊まりしたが、正淑はそのわけを聞く正日にこう話した。

 ……人がこの世で生きていくうえで大切なのは愛と信義だ。人はひとりで生きていくことはできず、必ず他の人たちと一緒に暮らすことになるが、そのためには、人を愛し、人から愛されたらそれに報いなければならない。もし、愛されることを求めるだけで、それに報いようとしなければ人間としての道義にもとることになり、人から悪い人とみなされて見放されてしまう……。

 ある日の晩、正淑は正日の日課を総括しながら、きょう友達と仲よく遊んだのは大変よいことだ、敵でない以上は、誰でも信頼し愛してやれば、みなお前を慕うようになると言った。

 そして、革命の道を踏み出したすべての人を同志にするためには、愛と信頼によって導かなければならないとこんこんと諭して聞かせた。


  将軍の息子だからこそ

 金正淑は、質素で簡素な生活をするよう息子の正日をしつけた。

 正淑は、朝鮮人民がお父さんを慈父として仰ぎ慕うのは、お父さんが偉いからだけでなく、人民と一緒に生活し、常に謙虚で素朴であるからだ、お父さんの言いつけどおり、いつも人民と同じように暮らさなければならないと言い聞かせた。

 人民によりよい暮らしをさせるため、穀物加工工場、製糸工場などの工場や農村、漁村へと現地指導をつづける将軍と正淑であったが、その暮らしぶりは質素そのものであった。家具といえば、たんすがわりの衣桁とごく普通のベッド、それに机が一つあるだけだった。

 正淑が、正日の夏服をつくっていたときのことである。

 そばで手伝っていた女性が正淑の手にしている布地が落下傘をほどいたものであることを知り、ご子息の服なのだから、どうせならもう少し上等の生地でつくってはと言った。落下傘の生地は風がよく通らず汗を吸わないので、夏物には適していないと思ったのである。

 すると正淑は、いま上等の生地で子どもに服をつくってやれる家が、どれほどあるだろうか、わたしたちも普通の家のように子どもたちに質素な身なりをさせるべきだと言うのだった。白い落下傘の生地を利用した半袖のシャツと黒のズボン、それが正淑のこしらえた息子の夏服であった。

 冬になると、正淑はまた、ほかの子どもたちと同じような服をつくって正日に着せた。

 ある日、正日は正淑が継ぎはぎした靴下をはいて警護隊の詰め所へ行った。

 それを見た警護隊の若い兵士たちは驚き、「将軍のご子息が継ぎはぎの靴下をはいているとは……」と絶句した。

 正日からこのことを聞いた正淑は、「それは、おじさんたちの思い違いというものよ。継ぎをした靴下をはいているのがなぜ恥ずかしいことだというの」と言い、自分は子どものころ、寒い冬にも靴下はおろか足をくるむ一片の布切れさえなかった、山中で戦ったときは靴が擦り切れて縄を巻いて行軍したこともあると話した。そして、祖国は解放されたが人々はまだ苦しい生活をしている、新しい靴下をはいている子どもより継ぎ当ての靴下をはいた子どものほうが多いということをお前も知っているだろう、将軍の息子だからといって特別な存在だと思ってはいけない、他の人たちが粟飯を食べるときはわたしたちも粟飯を食べ、繕った靴下をはいていたらわたしたちもそのようにすべきだ、他の人たちが継ぎはぎの服を着て繕った靴下をはいているときに、新しい服や靴下を身につけているほうがもっともっと恥ずかしいことだと言い聞かせた。

 正淑は、食生活も質素にするよう努めた。

 1947年の秋、咸鏡北道鏡城郡に滞在していたときも、正淑は正日に粟入りのご飯を食べさせた。これを知ったある女性活動家が気をもむと、正淑は、将軍は山中で戦っていたときいつも隊員たちと一緒に食事をとり、隊員たちがかゆをすすれば自分もかゆをすすり、トウモロコシを口にすればそれを召し上がった、いまも、将軍は人民がまだ雑穀のご飯を食べているというのにわたしたちが白米のご飯を食べるわけにはいかないと戒め、雑穀のご飯が出されてこそ安心して召し上がると話した。

 その女性活動家が、それならご子息にだけでも白米のご飯を食べさせてはと言うと、正淑は微笑をたたえて、幼いころから他の人と同じものを食べる習慣をつけなければならないと言うのだった。

 あるとき、護衛担当の幹部が正淑に、ご子息にせめておやつだけでも、もう少しましな物をあげてほしいと言った。

 すると正淑は、将軍はいま子どもたちにキャンデーや菓子を思う存分食べさせられないため心を痛めている、将軍の息子であるからといって特別扱いをしてはならない、そうするのは将軍の意に反し、またわたしも許せないとたしなめた。

 正淑は正日に、日本人が逃げていくときに穀物加工工場をすべて破壊してしまったため、まだキャンデーや菓子を十分に生産することができない、だから、労働者や農民の家では子どもたちにおやつを食べさせられないありさまだと話した。

 そのころ、将軍の家をたびたび訪れた魏昌淑はこう回想している。

 「わたしは、託児所と幼稚園のすべての子どもたちに毎日おやつとして与えられるあん入りのパンや、祝日ごとに贈られる抱えきれないほどのキャラメルやお菓子を目にすると、あのときの金正淑同志の言葉が思い出され、ふかしたジャガイモをおやつ代わりにしていた金正日同志の姿が浮かんできます」

 正淑は、正日が将軍の共産主義的品性をそのまま受け継ぎ、真の人間になるよう心を砕いた。

 ある日の夕方、正日はアイロンがけをしている正淑に、他の人たちは歩哨の前を通り過ぎるとき何も言わないのに、お父さんとお母さんはどうしてあいさつをするのかと聞いた。すると正淑は、歩哨のおじさんたちは、いつもお父さんを守ってくれているのだからあいさつをするので、それが礼儀というものだと答えた。

 正淑は、礼儀を守るかどうかによってその人の尊厳と人格が評価されるのだと言い、礼儀作法について教えた。

 万景台の曽祖母が、将軍の家で数日間過ごしていたときのことである。

 正日は、毎朝早く起き、身なりを整えてから「おばあさん、お早ようございます」とあいさつし、夜になると、曽祖母が夜中に目を覚ましてもすぐ水が飲めるように水差しを持っていき、「おばあさん、お休みなさい」とあいさつしてから寝床に入った。また、外へ遊びにいくときは、「おばあさん、外で遊んできます」と言って出かけた。

 曽祖母はそのたびに、正日の殊勝な心がけに目を細めたものであった。

 正淑はまた、正日が人民を尊重し、人民に迷惑をかけないよう教えた。

 正淑が、鏡城郡にとどまっていたときのことである。訪ねて来た地元の女性たちが、正淑が重ねて断ったにもかかわらず、持ってきた布団を置いていった。

 彼女らを見送った正淑は、家庭で布団を手入れするとなると容易なことではない、この新しい布団にはあの人たちの誠意がこもっている、布団を大事にしまっておいて、ここを発つときに返すことにしようと言った。そして、正日にも家から持ってきた毛布だけを使わせた。

 幹部たちがご子息にだけでもこの布団を使わせてはと言うと、正淑は、抗日武装闘争の時期、将軍は人民の利益に反するようなことは絶対にしてはならないと戒められた、人民の誠意だからといって彼らが大事にしている布団を使うわけにはいかないとたしなめた。

 正日は、自分は毛布の方がいい、自分もお父さんに見習って人民の利益に反するようなことはしないと言うのだった。正淑は正日の肩をなでながら、本当に偉い、わたしたちはいつもお父さんの言いつけどおりにしなければならないと言い聞かせた。

 母の人民的品性を鑑とした正日は、自分を特別な存在と考えたことは一度もなかった。幼稚園、小学校のころ、正日は、友達と同じ木綿の靴下にゴム靴や運動靴をはき、服も普通のものを着、学用品をふろしきに包んで通った。中学校に通っていたある年の夏、正日が水道でゴム靴を洗っていると、そばにいた友達が、なぜ格好のよいシューズみたいなものをはかずに、汗がにじむゴム靴をはいているのかと聞いたほどである。

 正日は、高級中学校や大学に通うときも、勤労動員のときも、普通の学生服や作業服を着て、学友と一緒にもっこを担いだり泥を掘り出すなどして、同じ規律のなかで生活した。こうした正日の品性はみな正淑によって培われたものであった。

 正日があまりにも質素で規律正しい生活を送っているので、将軍の私邸の近くに住んでいたある女性が正淑に、ご子息のしつけが厳しすぎはしないかと忠言した。すると正淑は、わたしの息子は白頭山で生まれ、わたしが軍服にくるみ背のうの上に乗せて歩いた、そしてわたしの銃にすがって歩きはじめ、白頭山の水を飲み山菜を食べて育った、だから、わたしは息子を白頭山の子らしく育てるつもりだと答えた。

 このように正淑は、祖国と革命の遠い将来を見通し、正日を将軍の切り開いたチュチェの革命偉業の代を継いでいく偉大な革命家、祖国の息子、人民の息子に育てたのである。


 解放後、朝鮮では、朝鮮労働党が創立されて新しい祖国の建設を指導し、初の自主独立国家である朝鮮民主主義人民共和国が創建されるとともに、抗日の伝統を継いだ革命武力が強力な軍隊に成長しつつあった。そして、2回にわたる人民経済計画を遂行する過程で、人民の物質生活も向上した。

 1949年9月21日、金日成将軍は新しい祖国建設に立ち上がった人民を励ますため、兎山郡へ現地指導の途についた。正淑はいつものように門の外まで将軍を見送った。足どりや言葉づかいもいつもと変わりなかった。

 実のところ、そのとき正淑の病状は悪化していた。しかし、そんなことはおくびにも出さず、笑顔で将軍を見送ったのである。

 将軍の車が見えなくなった後も、正淑は正日と一緒にその道をじっと見つめていた。これが将軍への最後の見送りになろうとは、彼女自身も知らなかった。

 正淑は、幼稚園へ行く正日を見送ってから部屋にもどった。そして、痛みをこらえながら、編みかけの将軍の毛糸の肌着をつくりあげた。

 夕暮れになると、正淑の病状はさらに悪化した。しかし正淑は、幹部たちが入院を勧めても応じなかった。将軍が帰ってくるまで家で待つというのであった。すると、副官が長距離電話で将軍に正淑の病状を知らせようとした。正淑はそれを制止し、将軍の活動に支障をきたしてはならないと言った。

 正淑がもうろうとする意識をなんとか持ちこたえながら苦しい息をつくと、副官はたまりかねて受話器をとった。午後11時40分、将軍が私邸に着いたとき、正淑は昏睡状態に陥っていた。正淑は意識を失ったまま病院に運ばれた。

 1949年9月22日未明、祖国と人民、同志と同胞を思ってやまなかった抗日の女性英雄、不撓不屈の革命闘士である金正淑は帰らぬ人となった。

 新聞やラジオで正淑の逝去が報じられた。思いがけない悲報に接し、全国の人民が涙にくれた。

 22日の朝から弔問客が引きも切らず訪れた。

 将軍は、生花に包まれて静かに眠る正淑の顔をつくづくと眺め、こう語った。

 「金正淑は、祖国の解放と朝鮮革命の勝利のためにすべてをささげた熱烈な革命家だった。彼女は名立たる名射手で有能な地下工作員であり、厳しい試練と難関にも屈しない剛直な共産主義者だった。彼女は、幼いころに両親と弟を亡くし親戚とも生き別れ、ありとあらゆる辛苦をなめ尽くした。彼女は人一倍祖国を愛し、同志を愛し、革命の利益のためであれば自分のすべてをささげてきた。彼女のなしたことはみな同志たちのためであり、自分のためのものは一つもなかった」

 9月24日午後、葬送曲が流れるなか、党と政府の幹部たちが正淑の霊枢を送り出した。

 正淑は抗日の血路を切り開きながら、あれほど心に描いていた解放された祖国で4年しか生きられず、32年の生涯を終えた。正淑の死は全朝鮮人民にとって大きな悲しみであった。

 しかし正淑は、その短い生涯に祖国と民族に不滅の功績を残したのである。

 正淑の生涯は、偉大な領袖金日成主席のためにすべてをささげた親衛戦士としての高潔な生涯、祖国の解放と人民の自由と幸福のためのたたかいで不滅の業績を積みあげた生涯、金正日総書記を朝鮮革命の指導者に育てあげ、チュチェの革命偉業の代を継がせた生涯であった。

 金正淑の業績は、朝鮮人民のあいだで永遠に語り継がれるであろう。





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