『金正淑伝』
 
12 崇高な信義と愛


  万景台の遺児たち

 金日成将軍は、祖国に凱旋してまもないある日、抗日革命闘士たちに次のように語った。

 ……戦火のさなかに散り散りになり、その行方も生死もわからなくなった戦友たちの遺族や遺児を捜し出し、我々が彼らの面倒をみて立派に育てなければならない。倒れた同志たちは、祖国が解放されたら自分たちの子どもを勉強させて革命家に育ててくれと頼んだ。わたしは苦しい戦いの日々、片時も彼らの遺言を忘れたことがない。遺族や遺児を一人残らず捜し出し、面倒をよくみて勉強もさせ、彼らが革命先達の志を受け継いで立派な革命家になるようにしよう。……

 抗日戦の日々にも、遊撃区に児童団学校を設け、倒れた戦友たちの子女を革命家に育てた将軍であり、彼らの母、姉となってその世話をした正淑であった。朝鮮革命の歴史に輝かしい足跡を残した朝鮮人民革命軍主力部隊の少年中隊の道程は、とりもなおさず、将軍と正淑のもっとも高潔な革命的信義と愛の偉大な足跡であった。

 1942年6月のある早朝、将軍と正淑は、白頭山密営の小白水のほとりを散策しながら、祖国が解放されたら、倒れた戦友たちの子女をみな捜し出して立派な革命家に育てようと話し合った。

 解放後、将軍はなお多忙な日々を送った。党と人民政権をうち立てて強化する問題、壮大な民主改革の課題を遂行してその成果を強固にする問題、人民経済の計画化を実現する問題、正規の革命武力を建設する問題など、早急に解決すべき問題が山積していた。

 将軍はこうした事業をおし進めながらも、1946年3月に革命家の遺族や遺児を社会的、国家的に援護するため反日闘士後援会を組織し、翌年には万景台革命学院を設立し、学院生徒募集委員会を設ける措置を講じた。そして、抗日闘士をはじめ、多くの活動家を国内外の各地に派遣し、遺児たちを捜し出して平壌へ連れて来るようはからった。

 正淑は、各地に派遣される戦友や活動家に、1、2回遺児たちを捜してみて消息が知れないからと断念してはいけない、1カ月かかっても2カ月かかっても構わないから必ず捜し出して連れて来るようにと頼んだ。

 1947年の夏、中国の東北地方に散らばっている遺児たちを捜し出す任務を受けた林春秋が東満州へ向かうときにも、正淑は、抗日大戦の戦場で倒れた数多くの革命戦友の顔を一人ひとり思い浮かべながら、天地の果てまで行ってでも彼らの子女を捜し出すという覚悟さえあれば、みな捜し出すことができるはずだと話した。

 それまで愛する家族の生死さえわからなかったにもかかわらず、正淑は、先に逝った戦友たちの子女をみな捜し出して思う存分勉強させ、革命の頼もしい継承者に育てあげて戦友たちの願いをかなえてやろうという熱い思いに駆られていたのであった。

 将軍が講じた措置と正淑が傾注した努力によって、その後、数多くの遺児が平壌に集まるようになった。

 正淑は、彼らが勉強する臨時校舎の建設に深い関心を払った。間里に建設中の臨時校舎を訪ねた正淑は労働者たちに、これからここで祖国の解放のためにたたかって戦死した革命家の遺児たちが勉強することになる、あらゆる迫害と虐待を受けながら苦労を重ねてきた子どもたちが学ぶ校舎だから、レンガを1枚積み、窓を1つ取り付けるにしても誠意を尽くすようにと言った。そして、みずから土をこね、労働者たちとともに、汗を流した。

 1947年8月の初め、革命家の遺児たちが到着したという知らせを受けた正淑は、将軍とともに間里に向かった。将軍の車が学院の校庭に入ってくると、はしゃぎ回っていた子どもたちが一斉に「金日成将軍万歳!」を叫びながら駆け寄ってきた。

 どんなに抱かれたかった父なる将軍の懐であったろうか。

 ところが彼らは、将軍の数歩手前で急に立ち止まり、それ以上近づこうとはしなかった。将軍の前にみすぼらしい身なりをさらすのが恥ずかしかったからである。肩がまる見えのひとえの上衣、膝のすり切れた粗麻の半ズボン、横緒の切れたわらじ……

 子どもたちの様子をじっと見つめていた正淑は、激情に駆られて彼らを抱きしめ、「将軍様はぼろをまとっているからといって、あなたたちをとがめはしませんよ。ぼろをまとい貧しい暮らしをしたのは、あなたたちのせいではないのだから」と言い、将軍のそばへ押しやった。

 子どもたちは、将軍の懐に顔を埋め、「将軍様! 将軍様!」と声を上げて泣き出した。

 将軍も、激情に声を震わせ、「大丈夫だ、泣くんじゃない。これから服も立派なものをこしらえ、勉強もすればいいのだ」と言い聞かせた。

 この日、将軍は正淑に、遺児たちにまず学院の制服をこしらえて着させ、靴や帽子もつくってやるようにと言った。

 その後、正淑は、学院の開院準備を急ぐ一方、院児たちの制服を立派につくるようはからった。

 当該部門の活動家が作成した制服のデザインに目を通した正淑は、わたしたちがつくろうとするのは革命学院の制服であるから、軍服形式にし、袖とズボンには赤い筋を入れて、抗日の革命伝統を継承していることが、はっきりわかるようにしなければならないと話し、みずからその図案を描いて見せた。

 制服のデザインができあがると、正淑は学院の裁縫室や被服工場に詰めきって制服づくりの後押しをした。こうして、開院式の前にすべての院児に制服が支給されることになった。

 開院式をひかえたある日、数名の遺児を私邸に呼び寄せた正淑は、「このように新しい服を着るとみな頼もしく見えるわね。もう一度見せて」と言い、前を向かせたり後ろを向かせたりして服装をあらためた。ところが、一人の女児が体に合わない服を着ていた。正淑は、合わない服はみな仕立て直すようにしたのに、どうしたわけなのかと聞いた。彼女は、服をつくり直してあげると言われたとき、それっきり返してもらえないのではないかと思い、出さずに隠しておいたのをそのまま着てきたと言うのであった。

 正淑は彼女を抱きしめ、「生まれてはじめて着る新しい服なので、そんなことをしたのね。将軍様があなたにくださった服なのに誰が取り上げるというの。もう誰もあなたたちからこの服を取り上げることはできないのよ」と安心させた。正淑は、その場で彼女の体にぴったり合うように服をつくり直し、アイロンでスカートのひだまでつけて着せた。

 ある日、東満州で放浪生活をしていた遺児たちが遅れて到着したという報告を受けた正淑は、すぐ彼らを私邸に連れてくるよう頼んだ。

 子どもたちが正門に足を踏み入れると、正淑は「どうしていまになって。国が解放されて3年になるというのに……。将軍様があなたたちをどんなに捜したかわからないでしょう」と言って彼らを抱きしめ、涙にむせんだ。子どもたちも声を上げて泣いた。彼らの手を引いて部屋に入った正淑は、一人ひとりに両親の名前を聞いた後、古い戦友と再会したかのように子どもたちをまた抱きしめ、「どんなに苦労したことか。お父さんもお母さんもなしに……」と声を詰まらせた。

 涙にれた子どもたちの顔をぬぐっていた正淑は、ある少年の膝小僧がのぞいているのを目にした。

 「ズボンがひどいこと……。さあ脱ぎなさい。わたしが繕ってあげるから……」

 ところが少年は席をずらし、腰のあたりをつかんだまま立ち上がろうとしなかった。

 「下着を着ていないのね……。お母さんが生きていたら、こんなことはないはずなのに……。さあ、こっちへ、ズボンをはいたまま繕ってあげるから」

 少年は「お母さん!」と声を上げ、実の母をほうふつさせる正淑の胸に顔を埋めた。

 正淑は、少年の頭をなでながら「泣いたらだめよ。これから学院へ行き、将軍様がくださった新しい服に着替えるのよ」と言い、破れたズボンを繕いはじめた。

 そばにいた女性活動家が自分にまかせるようにと言うと、正淑はかぶりを振り、「いいえ、戦友たちが息を引き取るときに将軍に託した子どもたちですから、これからはわたしが母の代わりを務めなければなりません。ですから、わたしの手でしなくては……」と言うのであった。

 針仕事をする正淑の手を見つめながら、遺児たちや活動家たちは熱いものを呑み込んだ。

 1947年10月12日、抗日児童団学校の後身として万景台革命学院が開院することになった。

 この日、正淑は、開院式に参加し、院児たちを祝った。

 その後も正淑は、遺児たちを将軍に忠実な革命戦士に、そして、党と国家、軍隊の中核に育てあげるため学院の事業に力を注いだ。

 1947年10月23日、学院の政治担当副院長が呼ばれて将軍の私邸を訪ねた。

 彼を温かく迎え入れた正淑は、将軍は緊急の電話を受げて執務室へ行かれたから、待つ間に院児たちの教育問題について話し合ってみようと言った。

 彼は、自分は教育事業の経験に乏しいので、児童団活動の経験を積んでいる金正淑同志から一度だけでも教えを受けたいと思っていたところだと言った。

 正淑は、自分にもこれといった知識はないが、こんにち、抗日児童団学校の後身である万景台革命学院には、生徒を解放された祖国の党、国家、軍隊の中核に育成すべき重要な課題が提起されている、とくに軍隊の指揮官を多数養成するのは、学院の第一の課題だと述べた。

 そして解放直後、党内に将軍の路線に反するさまざまな主義主張があったことを想起させ、学院では、かつて、彼らの親たちがそうであったように、すべての遺児をひたすら将軍の思想を信奉し、将軍の指し示す道で命もささげる真の朝鮮の革命家に育てあげるべきだと強調した。

 つづいて、授業と多様な課外活動を通じて院児たちを立派に教育し、射撃法をはじめ、軍事教育を着実におこなう問題について語った。

 政治担当副院長は、院児たちは幼いころから系統的な教育を受けていないため、自然科学の課目を非常に難しがっていると、現状をありのままに述べた。

 正淑は、だからといって、先生たちまで自信を失ってはならない、一般的な科学知識がなければ現代的な軍事知識を身につけることができないことを院児たちによく説明し、困難を克服して自然科学の課目を必ず習得するようにしなければならないと指摘した。

 課目の教育内容が話題にのぼったとき、政治担当副院長は、院児たちはみな、党と国家、軍隊の根幹になるのだから、男女を問わず同じ課目を教えるのがよいのではないかと自分の意見を述べた。

 正淑は、先生の言うことも理解できるが、女児には女児としてそなえるべき品性がある、炊事や裁縫もしなければならないので、家事・裁縫の課目をおろそかにせずによく教えるべきだと答えた。

 次に正淑は、道徳教育と体育を強化する問題について述べた。

 正淑は、将軍が大同郡の某中学校に出向いた際、同校を「三興中学校」と命名し、生徒たちを知・徳・体を兼ね備えた新しい朝鮮の担い手に育てあげるよう教えたことを話し、院児たちもそのように育成すべきだと強調した。

 そして、学院の生徒たちは幼いころに両親を亡くし家庭教育を受けることができなかった、彼らを礼儀正しく、目上の人を敬い、友人を愛し、同志と集団のためにわが身をささげる気高い道徳的品性の持ち主にしなければならないと述べた。

 正淑は、革命的節操と信義を守りぬいた父母たちのように、院児たちを革命的に育てるべきであるとし、彼らの学習と組織生活を強化し、生活条件を十分に整える問題、体育と労働によって心身を鍛える問題、給養活動を改善する問題など、万景台革命学院の事業で提起される諸問題について助言を与えた。

 1948年3月20日、正淑は万景台革命学院の射撃訓練場に出向いた。

 訓練場では、実弾射撃を数日後にひかえて射撃訓練がおこなわれていた。

 正淑は訓練に熱中している院児たちを見やり、あの子たちが学院で学びはじめて半年しかならないのに見違えるほど成長した、戦死した同志たちにあの子たちの姿を見てもらえたらどんなに喜ぶことだろうかと言うのだった。そして、彼らの射撃動作を正してやった。

 この日、将軍は院児たちに模範射撃をして見せた後、正淑に銃を手渡し、撃ってみるようにと言った。正淑は銃座の位置についた。銃声が響くと同時に、遠くに据えられていた3本のビンがこっぱみじんになった。

 射撃が終わると、一人の女児が正淑に、どうすればそんなに射撃がうまくなれるのかと聞いた。正淑は、銃は手で撃つのではなく心で撃つのだ、強い敵がい心をもってこそ百発百中させることができると答えた。

 正淑の言葉から、生徒たちは射撃の秘訣だけでなく、それよりもっと大きなもの、銃を手にした革命戦士の姿勢というものを学びとった。

 正淑は、母親のような愛情をもって院児たちを見守った。

 1947年の晩秋、一部の院児が熱病にかかったときのことである。

 学院の幹部は、将軍と正淑の身辺の安全を気遣い、病気が快方に向かった後に報告することにし、治療に専念していた。

 そうしたある日、学院を訪ねた正淑はこのことを知り、病気の子どもたちが収容されている隔離室に行って見ようと言った。子どもたちの看病にあたっていた女性が、熱病なので誰も入れないことになっていると言って制止した。

 「それなら、あなたはどうして入るのです」

 「わたしは、学院の職員ではありませんか。それに、わたしのような者が病気にかかったとしてもなにも差し支えありません。けれども、国の大事をあずかり、まして、将軍のそばにおられる女史は絶対に入つてはなりません」

 彼女の言葉には真情がこもっていた。そばにいた幹部たちも、隔離室には入らないようにと懇願した。

 正淑は語気を強め、あの子たちは祖国の解放のためにたたかって倒れた革命戦友たちがわたしたちに託した子女たちだから、わたしが会いに行かなくてはならない、実の親なら、自分の子どもが病に苦しんでいるのに、伝染病だからといって会いに行かないはずはない、あの子たちはいま高熱にうなされながら母親の暖かい手が差しのべられるのを待っているはずだと言った。

 そして、ためらうことなく隔離室に入り、子どもたちの病状をいちいち確かめた後、もう峠を越したようだから、これからは予後を見きわめ治療に専念するようにと言いおいて部屋を出た。

 帰宅した後、正淑は、セリの漬物やもち米のアメをつくり、各種の薬とともに学院に送った。そして院児たちの健康診断をおこない、軽い病気でも徹底的に治療させるようにした。

 同年秋のある日曜日、私邸に遊びに来た2人の院児と一緒にひとときを過ごした正淑は、女児の一人の顔色がすぐれないのに気づき、入院して治療を受けさせた。

 面会日になると、朝から浮き浮きして家族が来るのを待っていた同室の子どもたちが、なにげなく彼女に「あんたの家からは誰が来るの」と聞いた。

 見舞いに来る人などいなかった彼女は、返事ができずにベッドに横になり、寝るふりをした。ところがそのとき、彼女にお母さんが面会に来たという知らせが届いた。

 (お母さんだって?!)

 彼女は大きく目を見開き、ベッドから飛び起きた。

 そのとき戸が開いて、正淑が入ってきた。

 足早にベッドに近寄った正淑は彼女を抱きしめ、「わたしを待っていたんでしょう。体の具合はどう?」と尋ねた。

 彼女の目から、こらえていた涙がせきを切ってあふれた。そして、正淑の胸に顔を埋め、「お母さん! お母さん! わたしのお母さん!」と声を上げて泣きじゃくった。

 3カ月半後に退院することになり、その日、将軍も健康を取り戻した女児を見て、「おや、うちのおちびさんは病気も治り、背も伸びて見違えるほど変わったな」と喜びの色を隠さなかった。

 同年の夏休みのことである。私邸に遊びに来たその子が庭で本を読んでいると、正淑がたらいの水に桃色の染料を溶かし、布地を染めはじめた。

 それを見て、こんなに蒸し暑いのだから少し休んではと言うと、正淑は「わたしにかまわないで本をお読みなさい。お母さんは、仕事をしなければいっときもじっとしていられないの」と答えるだけで、仕事の手を休めようとしなかった。

 そのとき彼女は、暑い盛りに制服を着て革帯を締めている自分のために、正淑が着替えをつくろうとしていることなど知るよしもなかった。数日後、正淑から出来あがった着替えをもらって、はじめてそのことを知り、母のような心遣いに涙した。

 正淑は時間を割いてしばしば学院を訪ねながらも、日曜日になると朝から院児たちが来るのを心待ちにし、通りで院児を見かけると私邸に連れてくるのであった。そして、キムチを漬ける季節になると学院に足を運んで、みずからキムチを漬け、正月には学院で院児たちと食卓を囲んで彼らを喜ばせた。

 朝鮮人民革命軍の地下組織のメンバーであった人の息子が入学したときには、彼に会うためにわざわざ学院に足を運び、彼を励まし遊撃隊時代から愛用していた万年筆を与えた。

 万景台の院児たちは、正淑の慈しみのなかで、党に限りなく忠実な革命戦士に、朝鮮革命の血脈をしっかり継いでいく根幹に成長していった。

 こんにち、朝鮮革命の頼もしい指揮メンバーとなった革命家の遺児たちは、そのころを追憶し、口をそろえてこう語っている。

 金正淑同志は、わたしたちのまたとない実の母であると。


  温かい人情味

 金日成主席は、次のように回顧している。

 「金正淑は自分のためではなく、同志のために一生をささげた。彼女の生涯は、同志愛から始まり、同志愛にもとづいて発展し、その過程で共産主義的道徳・信義を最大限に発揚する非凡な革命家になったのだ。彼女が一生の間になしたことはすべて、同志と人民、革命のためのものであって、自分のためのものは一つとしてなかった。金正淑には、自分という観念が全くなかったのだ。わたしは、飢えても凍えても病気にかかってもかまわない、ただ同志たちがひもじい思いをせず、寒がらず、元気であれば、それで満足する、わたしが死んで同志たちを生かすことができるなら、何も思い残すことなく喜んで死を選ぶというのが金正淑の人生観だった」

 張哲九は、正淑を「一度会えば、本当に別れがたい人」と評している。

 将軍の直属部隊で正淑と起居をともにした徐順玉も、生涯、正淑のことを忘れることができなかった。正淑は寝床につくと、当時16歳であった徐順玉に自分の毛布をかけてやり、彼女を抱いて寒さを防いでやった。そして、訓練基地で彼女と別れるときには、長い間愛用していた1枚しかないその毛布を記念に与えた。隊員たちは行軍中、背のうが大きくて誰なのかよく見分けがつかないときにも、背のうについているその毛布を見て正淑だとわかったものだった。

 正淑は、別れぎわに自分に抱きついてしきりに泣く徐順玉の背のうに毛布を入れてやりながら、「これを記念に持って行きなさい。新品ではないけれど、あなたを実の妹のように可愛がったわたしの体温がしみていることを忘れないでほしい」と言った。

 徐順玉は、それから半世紀以上もの間、それを大事にしまっておき1992年8月、祖国を訪問した際に金日成主席に贈った。現在、その毛布は、朝鮮革命博物館に展示されている。

 解放後、祖国に凱旋した若い抗日革命闘士たちが一人、二人と所帯を持ちはじめると、正淑はそのたびに彼らの結婚式の祝勝を整えてやった。李乙雪はいまでも、正淑がみずから育てたもやしが添えられた簡素な祝膳を受けたときのことを感慨深く回想している。

 正淑は、彼らが所帯を持った後には、いろいろな副食物を届けたりもした。

 将軍が太炳烈の媒酌の労をとったときも、正淑は彼らの祝勝を整えてやり、その生活を見守った。

 将軍と正淑の祝福を受けたのは彼らだけではなかった。金明俊、孫宗俊、李五松、姜尚昊など若い闘士たちはもとより、抗日戦で伴侶を亡くした年配の闘士たちも、将軍と正淑の慈しみのもとで新家庭を築いた。

 革命同志への正淑の愛は、彼らの遺族にも注がれた。

 呉仲和、呉仲洽、呉仲成など、わが子をみな抗日戦にささげた呉泰煕、呉昌煕老の一家が中国の東北地方から平壌にやって来たのは、1948年3月のことであった。

 彼らが到着したという知らせを受けた正淑は、すぐその宿所を訪ねた。あわてて、はだしで飛び出てきた呉泰煕老とその家族が正淑に深々と腰を折ってお辞儀をしようとすると、正淑は彼らの手をとり、先にあいさつをした。

 「おじいさん、おばあさん、これまでどんなに……」

 正淑は声が詰まって言葉をつづけることができなかった。みなが涙を流し、苦難の日々に悲報に接したときも一涙を見せなかった呉泰煕老も、正淑の手の甲に熱い涙を落とした。

 「凶悪な日本軍と、戦われたあの厳しい時期に、女史が朝鮮人民の願いを一身に担われ、将軍に立派に仕えてこられたので、わたしたちも、いまこのように明るい世の中を迎え、祖国の地を踏むことができたのです」

 「おじいさん、わたしたちが今日のこの喜びを分かち合えたのは、おじいさんたちのご子息たちが将軍に忠誠を尽くし、立派にたたかってくれたからです」

 その日の午後、彼らを私邸に招いた正淑は、3人の嫁のうち1人は義父母の世話をし、あとの2人は万景台革命学院で院児たちの面倒をみるようにしようと話した。

 彼らが将軍の定めた家に居を移した後も、正淑は変わることなくその生活を見守った。1949年の正月をひかえて、正淑は正月を楽しく過ごすようにと、精米や肉をはじめ、いろいろな主食や副食物、菓子類、果物、たき木などを送り、正月には彼らの家を訪ねた。

 その日、正淑は、このように暖かいオンドル部屋で正月を過ごしていると、呉仲洽同志たちとともにたたかっていたころ、雪が降り積もった深い山中で迎えた正月のことが思い出される、あのとき思い描いた夢が現実になったと語り、こうつづけた。

 「おじいさんたちは、抗日遊撃隊を助けるために苦労をし、国を取り戻すたたかいに多くの肉親をささげたのですから、これからは、将軍のもとで、長生きし、子孫をみな立派な革命家に育ててください」

 正淑は子どもたちに、最期の瞬間まで将軍に忠誠を尽くしたお父さんたちの代を継いで、国の柱になるようにと諭した。帰宅後、正淑は、老人たちが薄い衣服をまとっていたのが気にかかり服地を送った。

 吉州で暮らしていた李悌淳の妻崔彩蓮が平壌にやって来たとき、正淑は正門の衛兵所まで出て彼女を迎えた。正淑は、黒瞎子溝密営で会った李悌淳をしのびながら、李悌淳同志は最後まで革命家の節操を曲げることなく立派に戦った、李悌淳同志が果たせなかったことを、子どもたちがやり遂げるよう彼らを立派に育てあげようと鼓舞した。

 崔彩蓮は正淑の心のこもったもてなしを受けながら、将軍の私邸で意義深い日々を送った。正淑は多忙をきわめていたにもかかわらず、彼女を牡丹峰や大同江の船着場に案内し、映画も観覧させ、将軍に言われたとおりメーデーの祝賀宴にも参加させるようはからった。

 正淑は彼女に、将軍が望んでいるとおり、子どもたちを革命学院にやって革命家に育てましょう、どうすれば先に逝った革命同志たちの遺児たちを一人残らず捜し出して学院にやることができるだろうか、どうすればなんの心配もない満ち足りた生活をさせ、寂しい思いをさせずに育てることができるだろうか、服はどんな色の布地でどのようにつくれば気に入るだろうか、こういったことが次々と頭に浮かんで夜もろくに眠れませんと話した。

 正淑の温かい思いやりで、抗日革命闘士の朴達も晩年に楽しく張り合いのある生活を送った。日本官憲の拷問のため身動きできない体となり、解放後、西大門刑務所を出て病院生活を送っていた朴達は、平壌にやってきて正淑に会った。

 「朴達同志!」

 「金正淑同志!」

 二人の対面は、白頭山麓の黒瞎子溝密営と天上水洞窟付近での対面についで、これが3度目であった。正淑は、彼が祖国解放の日まで獄中で立派にたたかったことをねぎらい、国が解放されて将軍の懐に帰ってきたのだから安心して治療に専念するようにと力づけた。

 将軍は、朴達の家を私邸の近くに定めるようはからった。正淑は、室内のしつらえから引っ越しにいたるまで世話を焼き、キムチを漬ける季節になるとみずから足を運んでキムチを漬けてやった。

 将軍の私邸には、いつも多くの人が訪ねてきた。抗日革命闘士はもとより、桃泉里−新坡地区の以前の地下工作員や李周淵、李縺A李英など党と政府の要職に就いた以前の国内闘士たちもやってきた。そのたびに正淑は、彼らを温かく迎え入れ、活動上の助言を与え、生活のすみずみにまで気を配った。

 正淑は、勤労する人民に限りない愛情を注ぎ、搾取と無権利に苦しんできた彼らを国のれっきとした主人、将軍に忠実な担い手に育てていった。

 清津発平壌行きの列車が明川駅に停車した日の早暁にあった話は、いまも当地の住民のあいだに伝説のように語り継がれている。

 その日、金戊Mは炊事当番だったので、水を汲むため朝早く起きた。ところが、いつのまにやら正淑がバケツを手にして外へ出ていった。外は晩に雪が降り積もり、あたり一面銀世界であった。井戸はすぐ見つかったが、つるべがなくて水を汲むことができなかった。朝方のことで、水を汲みに来る女たちの姿も見えなかった。金戊Mは、そばの家の軒下につるべが吊るされているのを目にし、足を向けようとした。

 正淑は彼女を引き止め、すぐ主人が目を覚ますだろうから少し待とうと言った。そして、音を立てないように井戸の周りの雪を掃きはじめた。正淑が雪を掃きおえても、その家からは何の物音もしなかった。金戊Mは、いまにも列車が発ち、また朝食が遅れるのではないかと心配になり、主人を起こそうとした。しかし正淑は、「寝入っている人たちを起こさずに、わたしたちがもう少し我慢して待ちましょう」と言い、また、ほうきを手にして庭の雪を掃きはじめた。庭の雪をきれいに掃きおえたとき、ようやく外に出てきたその家の主婦は、意外な出来事に茫然と立ち尽くした。そして、わたしの家は駅に近いので多くの人が行き来するが、こんなことは初めてだと言った。

 彼女は、この人情味あふれる大らかな女性が誰であるかは知るよしもなかったが、その人柄に解放がもたらしてくれた新しい世の中の息吹を感じとり、正淑をじっと見つめるばかりであった。

 祖国は解放されたものの、誰を問わず朝鮮人民の姿には、植民地民族としての受難の傷跡が残っていた。

 正淑は、一日も早く彼らを将軍がもたらしてくれた張り合いのある生活へと導き、新しい朝鮮建設の主人として押し立てようと心を砕いた。

 1947年4月12日のことである。

 正淑は、息子の正日をともなって平壌製糸工場に出向いた。工場の幹部から生産状況と労働者の暮し向きについて聞いた後、正淑は生産工程を見て回った。繭の選別場を経て糸繰り職場の前に来ると、幹部たちは、あわてて「ここには入らないでください」と言い、戸口の前に立ちふさがった。実際、職場の中はひどいものであった。人の顔も見分けられないほど立ち込める蒸気、天井から垂れ落ちる水滴、息が詰まるようなゆであげた繭のにおい……。

 しかし正淑は、「糸繰り工の女性たちが仕事をしているところなのに、わたしが入れないというわけはありません。わたしは、彼女たちの仕事ぶりを見るためにここに来たのです。さあ、入りましょう」と言って、先に足を踏み入れた。

 正淑は、湯を伝って流れて来る繭を素手で取り出している糸繰り工の一人に近寄った。湯はとても熱そうだった。80度近いその湯に手をつけてみた正淑は、糸繰り工の手を握りしめたまま、なにも言わなかった。しばらくして正淑は、若い娘の手がこんなに荒れているのだから、どんなに痛むことだろうと、むせび泣く糸繰り工の肩をやさしくなでるのであった。そして、国は解放されて勤労人民の世の中になったのだから、胸を張って明るくたくましく生き、楽しく働くことができるようになるだろうと話した。つづいて工場の幹部たちに、解放前に強いられた労苦やさげすみだけでも胸の痛むことだというのに、いまになってもこんな状態ではどうするのか、この工場には親のない女性が多いそうだが、みなさんが親代わりになって彼女らの面倒をよくみるべきだと説いた。

 また、湯がはねても服が濡れないようにゴムの前掛けをつくってやり、工場内の空気がよくないので換気扇を取り付けるようにと言った。

 糸繰り職場を見て回り、絹糸職場に向かうため中庭に出た正淑は、工場のまわりに高く築かれた垣とその上に幾重にも張りめぐらされた有刺鉄線を目にした。日本帝国主義者が、強制的に連れてきた娘たちが逃げられないように設けたものであった正淑は「見ただけでもぞっとするあの忌まわしい有刺鉄線をなぜそのままにしておくのですか。残忍な日本人が有刺鉄線まで張りめぐらして朝鮮人民の膏血をしぼったことを考えると、歯ぎしりがしてなりません。この工場の女性たちがあれを見て、どんなに心を痛めることでしょう。わたしたちが山中で苦労したのも、あのような人間を束縛する垣を打ち壊すためでした。有刺鉄線を取り払い、垣も低くしましょう。そして、女性の心の傷跡を早く癒してやりましょう」と切々と語った。

 この日、正淑は労働者の寮も見て回ってから工場を後にした。

 正淑から工場の実態について報告を受けた将軍は、数日後、この工場を現地指導し、多くの毛布や炊事道具、オンドルの床紙、各種医薬品、ゴムの前掛け、それにさまざまな副食物を送った。

 正淑の人民への愛は、彼女が訪ねた多くの工場や農・漁村など随所に秘められており、彼女が会った労働者や農民、知識人、企業家、商人などすべての人の胸に刻まれている。

 1946年の初夏のことである。

 正淑は、山中で戦ったときの傷跡が痛みだし、高麗医の治療を受けるため外出した。正淑が往診を拒むので、副官がそれでは車を利用するようにと言うと、病院に行くのに車を使うことはないと言い張り、一人で出てきたのであった。

 途中、北朝鮮共産党中央組織委員会で青年活動を担当しているある幹部が、足を引きずって歩いている正淑を見かけて駆け寄ってきた。ことのいきさつを知った彼は「ここでしばらくお待ちください」と言うが早いか、一目散に駆け出した。ほどなくして、彼は老人が引く人力車を引っ張ってきた。そして、ほろを開き、早く乗るようにと勧めた。

 自分が乗るのを待っている腰の曲がった車夫を痛ましげに見つめていた正淑は、彼を連れてきた幹部を見つめ、「わたしたちは、祖国が解放された後、人力車に乗って威張るために、草の根を食べ、雪の上で野宿しながら戦ったのではありません。我々革命家がたたかうのは、あくまでも人民をあらゆる搾取と抑圧から解放し、すべての人が平等で自由な生活を営む新しい社会を建設するためです。あなたは人力車に誰かを乗せるために神経を使うのではなく、人が人を乗せて街を行き交うといった不平等をなくすためにたたかうべきです」ときつくとがめた。

 老人の顔には、積もり積もった悲しみを洗い流すかのように大粒の涙がこぼれ落ちた。

 正淑は彼に近寄り、人力車の梶棒に手をおいて「おじいさん、お許しください。わたしの気持ちがこの人にはわからなかったようです」と言い、別れのあいさつをして立ち去った。

 幹部に支えられて歩いてゆく正淑の後ろ姿を見つめていた老人は、たまりかねて人力車を引いてその後を追った。正淑の前に人力車を止めた老人は、これまで金持ちだけを乗せていたこの老いぼれに、今日を最後にあなたのような高貴な方を乗せて人力車を引かせてほしいと懇願するのだった。

 正淑は、老人の手を両手で握りしめ、こう言った。

 「まだ、わたしの気持ちがわかってもらえなかったようですね。かつてわたしは、奪われた祖国を取り戻し、解放された祖国の地に、おじいさんのようにさげすまれていた貧しい人たちがみな裕福に暮らせる新しい社会を建設するため、朝鮮民族の太陽、金日成将軍のもとで日本帝国主義者と戦いました。なのに、多くの革命烈士が命にかえて取り戻した自分の国で、体の具合がよくないからといって、老人が引く人力車に乗ることが許されるでしょうか。おじいさんの気持ちだけは、ありがたく受けとめておきます」

 老人は言い知れぬ感動を覚え、正淑の姿が見えなくなるまで、その場に立ちつくしていた。

 それ以来、平壌市の街頭から車夫の姿が消えていった。彼らは尊厳ある人間として、新しい朝鮮の主人として生きるため、工場へ、建設現場へと向かったのである。

 解放後、土地改革をはじめ、さまざまな民主改革は反動分子との熾烈な階級闘争をともない、その過程には胸の痛む犠牲もあった。

 自分の村を訪れた将軍と正淑にまみえた平安南道江西郡星台面星二里農村委員会委員長の金恵善も、そうした犠牲者のうちのひとりである。

 土地改革に献身していた金恵善は1946年4月9日、反動分子によって殺害された。彼の訃報に接した正淑は翌日の4月10日、反動分子が暗躍する星二里に行って遺族に会い、将軍の指示に従って葬儀を国葬として執り行うようはからった。そして葬儀委員会を組織し、中央の軍楽団を呼び、弔辞を準備するなど葬儀が立派に執り行われるよう心を配り、敵の手にかかった一農民に永遠の生命を与えた。

 翌年8月、9月に予定されている咸鏡北道にたいする将軍の現地指導を補佐するため、正淑は一足先に鏡城郡におもむいた。そこで正淑は、温泉湯治に来ていた清津紡績工場製糸課の職業同盟委員長の蔡姫に出会った。工場党委員会から休養券を渡されて休養所にやってきた彼女は、思いがけなく正淑に出会い、こおどりして喜んだ。

 正淑が彼女を知ったのは、解放直後、清津で活動していたときのことである。

 ある日の朝、正淑が寝泊りしている解放洞の2階建ての宿所にぼろをまとった女が物乞いに来た。軍服姿の正淑が出てくると、彼女は驚いて逃げ出した。その女がほかならぬ蔡姫であった。

 正淑は女性同盟の活動家に、彼女を呼び戻すようにと言った。そして、外で彼女を待ち受け、温かく迎え入れた。そして、彼女を自分のそばに座らせ、荒れたその手を握りしめながら名前や年を聞いた。彼女は、それまで「乞食」とさげすまれ、放浪生活をしてきた悲しみが込み上げ、両手で顔をおおって部屋を飛び出した。

 翌日、正淑は「乞食谷」を訪れて蔡姫に会った。女性同盟の活動家から、軍服姿のこの人が抗日の女性英雄金正淑女史であると聞かされた彼女は、それまで誰にも話したことのない自身の過去を打ち明けた。

 正淑は、蔡姫の不幸な身の上話を聞いた後、彼女の髪をとかし身なりを正してやった。

 「自信をおもちなさい。あなたもこれから勉強をし、建国事業に参加すれば立派な活動家になれるはずです」

 日暮れどきまで、新しい生活を始めるよう彼女を切々と諭した正淑は、帰りがけにそばに置いておいたふろしき包みを解いた。

 「あなたを助けてあげたいのはやまやまですが、私の手もとにはなにもないのです。それでこれをもってきたのですが、遠慮せずに受け取ってください」

 ふろしきづつみの中には、きれいに手入れした軍服が入っていた。

 彼女に軍服を着せた正淑は、朝鮮人民革命軍の新入隊員のようだと喜んだ。

 その足で清津市保安署を訪ねた正淑は、帰属財産のなかに米や布地のようなものがあれば一日も早く生活の苦しい人たちに分け与えるべきだとし、「乞食谷」に住んでいる蔡姫の面倒もよくみるようにと言い残した。

 数日後、正淑は再び保安署を訪ね、蔡姫の実家が会寧にあるとのことだが、必ず捜し出すようにと頼んだ。

 同年12月の末,会寧の弓心洞で蔡姫は、母親と感激の対面を果たした。その後、彼女は病気を治し、勉強に励んで党員になり、弓心炭鉱の女性同盟委員長を務めた後、清津紡績工場製糸課の職業同盟委員長の職にあった。

 休養生活を終えた蔡姫が別れのあいさつをしようと正淑を訪ねてきた。正淑は、この前より顔色が大分よくなったと喜び、紙包みの半袖のブラウスを取り出して、まだ国が豊かでないので質はよくないが、わたしの誠意と思って受け取ってほしいと言った。

 彼女は、すぐにそれを受け取ることができなかった。みずからは以前と変わらず質素な身なりでいながら、自分には新しい服を着せようとする正淑の心遣いに胸が詰まったのである。

 正淑は顔をほころばせ、そのうち良質の糸を紡いでわたしにきれいな服を一着つくってくれればいいではないかと言って、彼女にそのブラウスを持たせ遠くまで見送った。

 正淑に見守られて成長した蔡姫は、第2回党大会に代表として参加し、1949年4月には職業同盟代表団の一員として外国を訪問した。

 正淑は、このように、人々には仁恕を施しながらも、みずからは、いつも地味なチマ・チョゴリ姿で質素に暮らし、新しい朝鮮の礎石を築くために力を尽くした。

 そのため、正淑に会った人たちはみな、その品性とつましい暮らしぶりに感銘を受け、彼女が誰なのかわからず「失策」を犯してしまうことが少なくなかった。

 愛国米献納運動を発起した農民、金済元も、そうであった。

 彼が牛車に米を積んで将軍の私邸を訪ねたとき、正淑は、彼を温かく迎え、遠路の労をねぎらい、彼が米俵をおろすのを手伝った。仕事が終わると、彼の服についたわらくずやほこりを払ってやり、ちょうずを使うようにと湯の入ったたらいを差し出した。

 彼は、質素な身なりで親切にもてなしてくれるその女性が誰なのかわからなかった彼は、平壌に来て金日成将軍にまみえるという一生の願いはかなったが、将軍に忠誠を尽くし、見事な銃さばきで日本軍を震えあがらせたという金正淑女史に会えずに帰るのは心残りだ、一目だけでも女史に会わせてもらえないだろうかと懇願した。

 彼を暖かい眼差しで見つめていた正淑は、「あなたをお迎えし、一緒に米俵までおろしたのに、改めてごあいさつしなければならないとは」と言ってほほえんだ。

 「えっ? それではあなたが……」

 彼は言葉に詰まり、平身低頭して自分の非礼をわびた。

 新義州からやって来たある企業家も同じような「失策」を犯し、ご夫人は絹の服をまとっておられるものとばかり思っていたと言った。すると正淑は、人民が身につけることのできない絹の服をわたしがどうして着られると言うのですか、今後、将軍の政治を奉じてすべての人が絹の服をまとえるようになったら自分も着るつもりですと話した。

 正淑の温かい思いやりは、朝鮮に来た外国人にも施され、彼らは朝鮮人民の親しい友人となった。

 1946年のことである。

 敗亡して帰国する日本軍にまじって中国の東北地方から平壌にまで逃げ延びてきた19歳と16歳の二人の日本人娘が将軍の私邸に食料をもらいに来た。

 正淑は、彼女たちを家に入れて面倒をみてやることにした。すると幼い正日が、お母さんは日本軍と戦ったのに、なぜ日本人を家に連れてきてご飯を食べさせたりするのかと聞いた。

 正淑は、お父さんとお母さんは、日本帝国主義に反対して戦ったのよ、日本の労働者や農民など勤労人民に反対して戦ったのではないのよと答えた。

 一部の護衛兵は、将軍の私邸にいる敵性国の娘たちに警戒心を抱いていた。しかし正淑は、彼女たちと一緒に将軍の食事の支度をしたり果汁をつくったりするなどして、わけへだてなく接した。

 そうしたある日、将軍が風邪をひいて高熱にうなされていたとき、彼女たちが非常用の薬を差し出すと、正淑はためらうことなくそれを受け取って将軍に服用させた。

 彼女たちは数カ月の間、このように将軍の私邸で家族同様に暮らした。日本へ帰った後も、彼女たちは、もっとも困難な時期に自分たちを見守ってくれた正淑のことを忘れなかった。それから24年後の1971年1月、彼女たちは金日成主席に感謝の手紙を送り、日朝親善のために尽くすという決意を示した。

 正淑は、朝鮮人と結婚して近所に住む日本人女性も温かく見守った。

 その女性は、自分が日本人であることに引けめを感じていた。正淑は彼女に会い、そんなことは気にせず、新しい朝鮮の建設に専念する夫を内助するようにと力づけた。そして幼い正日には、その家の子どもたちも近所の子たちと同じく兵隊ごっこに入れて一緒に遊ばせるようにした。

 その後、長い歳月が流れ、彼女は80をすぎ、その子たちも60に手が届こうとしているが、彼らは、いまでも当時を振り返り正淑を懐かしんでいる。

 解放直後、将軍に会うため各国の代表団や各階層の外国の友人が平壌を訪ねてきた。その際、正淑はしばしば彼らを私邸に泊めた。

 1948年の夏、抗日武装闘争の時期に将軍と親交が厚かった周保中の夫人・王一知と娘が平壌を訪れると、正淑は彼女たちを私邸に連れてくるようはからった。

 そのころ、中国では国民党との熾烈な戦いが展開され、将軍が派遣した朝鮮人民革命軍の各部隊が中国革命を支援していた。

 正淑は、王一知とその幼い娘の周偉を家族と同様に扱った。何日か経つと、周偉は自分の家のように遊び回り、食べたいものがあれば、自分の母親ではなく正淑にせがむようになった。

 正淑は、周偉の願いはなんでも聞き入れた。ジュースが飲みたいと言えばつくってやり、中国料理が食べたいと言えば、みずからギョーザやジャージャー麺をこしらえてやった。そしてあるとき、わたしたちは、いまはこのように一緒に食事をし、帝国主義者と戦うときには同じ塹壕で血をも分かち合う階級的兄弟だとしみじみと語った。その後、祖国解放戦争が始まると、周保中は朝鮮人民のたたかいに連帯を示し、1951年には自分の副官と運転手を朝鮮戦線に送り込んだ。


 (注)李乙雪氏に関する報道 訃告・略歴 国葬

 仁恕=(じんじょ)あわれみ深く、思いやりの厚いこと。広辞苑第6版より引用。





inserted by FC2 system