『金正淑伝』
 
11 祖国の復興のために


  金日成将軍の路線に従って

 解放直後の朝鮮の情勢は複雑をきわめていた。南朝鮮を占領したアメリカ帝国主義者は、新しい祖国の建設をめざす朝鮮人民の闘争を破綻させようと悪辣に策動し、階級の敵は、アメリカ帝国主義に教唆、扇動されて人民を反動の道に誘導しようと狂奔した。それに加えて、「革命家」と自称する分派分子、左右の日和見主義者は、ブルジョア共和国を樹立すべきだの、即時、社会主義革命を遂行すべきだのと人民を混迷に陥れていた。

 金正淑は、各地方に派遣されている抗日革命闘士に、かつて山中で戦ったときのように、革命の裏切り者や分派分子の蠢動を退け、将軍の建党・建国・建軍路線をあくまで貫きましょうと強調した。これは、複雑な情勢のなかで一貫して堅持すべき合い言葉でもあった。

 解放後、新しい祖国建設の成果いかんは、創立されたばかりの党の強化と役割にかかっていた。

 正淑は行く先々で、各党組織の活動が将軍の革命思想どおり進められるよう気を配った。1945年12月、清津市党委員会を訪ねた正淑は、党の組織建設路線を貫徹する方策が定まらないうえに中核分子を見出せず頭を悩ませている活動家に、咸鏡北道には抗日武装闘争の影響下でつくられた地下組織が多く、祖国解放のために献身的にたたかった人が多いから、彼らを探し出して中核に育てるべきだと話した。そして、党を無産階級に依拠した大衆的政党に建設すべきだとした党創立大会での将軍の方針を伝え、そのためには、労働者、農民をはじめ、各階層の大衆のなかから鍛えられた人を大勢入党させ、製鉄所をはじめ、各工場、企業所に早急に党組織を設けなければならないと強調した。

 その後も、各地方党組織に出向いて活動上の偏向を正し、活動方法を教え、将軍の党建設路線が正しく貫徹されるようはからった。

 正淑は、青年組織にたいする活動に力を注いだ。朝鮮の青年運動を将軍の路線に従って進めることは、党と朝鮮革命の主体的力量強化の要諦であった。

 祖国の解放は、青年の胸を噴火山のように燃え上がらせた。しかし、彼らは進むべき道を見出せず、情熱のはけぐちがなかった。

 祖国の解放とともに全国各地に共青組織がつくられたが、それには少数の無産階級出身の青年が加わっただけで、「解放青年同盟」「学生同盟」「白衣青年同盟」「キリスト教青年会」「天道教青年同盟」といったさまざまな青年団体が結成され、てんでに青年を引き入れていた。このような青年運動の実態を把握した将軍は、「愛国的青年は、民主主義の旗のもとに団結せよ!」というスローガンを示し、各階層の青年を結集する全一的な大衆的青年組織としての民主青年同盟を結成する方針をうちだした。ところが反党分派分子らは、共青を民青に改編するのは青年運動の「後退」「右傾化」だとして民主青年同盟の結成に執拗に反対し、民主青年同盟結成会議で共青は共青なりに存続させるという決議を採択してしまった。

 将軍は、党中央組織委員会第3回拡大執行委員会で、民主青年同盟の結成に反対する分派分子の分裂・破壊策動を厳しく批判し、遅滞なく民青を創立する対策を講じた。そして、1946年1月17日に開かれた北朝鮮民主青年団体代表者会議で、北朝鮮民主青年同盟の創立を宣した。

 その日、正淑は青年代表たちと夜更けまで語り合い、彼らに自信と勇気を与えた。そのときの正淑の言葉は、彼らの胸に深く刻みつけられた。

 「金日成将軍は、青年は新しい民主朝鮮建設の柱だと述べています。青年運動から革命闘争を始めた将軍は、祖国解放をめざす血みどろのたたかいのときのように、新しい祖国の建設でも青年が大きな役目を果たすよう望んでいます。ですから、みなさんは将軍の新しい祖国建設路線に従って、工場と農村、学校を問わず、青年のいるところにはすべて入り、将軍の遠大な志を植えつけて、彼らを民青組織にかたく結集しなければなりません」

 民主青年同盟が創立されると、多くの青年が加盟した。

 正淑は、民青が党の路線と方針の貫徹において、真の青年前衛、党のベルトとしての使命を果たすよう導いた。

 一部の青年学生が、敵のデマに惑わされて党の方針に反対し、平壌市の某学校で「同盟休校」を起こしたとき、正淑は早急に市内の青年学生を集めて講演会をもたせ、みずから演壇に立った。そして敵のデマ宣伝の本質をあばき、青年に負わされた使命について説き、講演を次のような言葉で結んだ。

 「再び帝国主義の奴隷になるまいとするなら、わが国が真の自主独立国家になることを望むなら、将軍に従わなければなりません。
 新しい民主朝鮮を建設するために、学生は、学びに学び、また学ばなければなりません。みなさんの進むべき道はただ一つ金日成将軍の導く民主主義の道です」

 会場に割れんばかりの拍手喝采とともに「金日成将軍万歳!」の歓声が沸き上がった。

 正淑の精力的な活動によって、民主青年同盟は、将軍の意図どおり党の青年前衛としての使命を立派に果たすようになり、党の青年基盤はいっそう強化された。

 正淑は、将軍の建国路線の貫徹のために精力的に活動した。

 当時、アメリカ帝国主義者は、人民政権の樹立を挫折させようと悪辣に策動した。これに歩調を合わせて、分派分子をはじめ不純分子は、親米的な「ブルジョア共和国」の樹立を叫ぶかと思うと、一方では直ちに「プロレタリア独裁政権」を樹立すべきだと主張して真の人民政権の樹立を妨げた。そして、地方政権機関の要職を占めていた親日派、民族反逆者は、大衆のあいだで人民政権機関の権威を失墜させようとあらゆる術策を尽くした。

 解放された祖国に帰って数日経ったある日、正淑は清津市人民委員会の活動家と席をともにした。正淑は彼らに、解放された祖国にどのような政権を立てるかは、国と民族の運命にかかわるきわめて重要な問題である、いま一部の人は「ブルジョア共和国」だの「プロレタリア独裁政権」だのと喧伝しているが、これは朝鮮革命の性格と任務を無視した詭弁にすぎないとし、朝鮮の具体的実情と人民大衆の要求にかなった民主主義人民共和国を樹立するという金日成将軍の方針を実現するため積極的にたたかわなければならないと励ました。

 正淑は陽徳や中和をはじめ、各地方を訪れるたびに、地方人民委員会の活動状況を調べ、政権機関の活動家が人民の忠僕になるよう強調した。

 1946年5月、正淑は将軍に随行して中和郡人民委員会を訪ねた。そのとき、同地の活動家は、将軍から郡内の農村の実状を尋ねられたが、満足に答えることができなかった。のちに彼らに会った正淑は、日本帝国主義支配時代の郡庁は官僚主義と専横によって人民を統治する反人民的な支配機関であったが、いまの郡人民委員会は人民の利益を擁護する真の人民の政権であると話し、将軍の教えどおり活動を正しく進めるよう強調した。

 1946年2月8日、北朝鮮では中央政権機関である北朝鮮臨時人民委員会が樹立され、 金日成将軍がその委員長に推戴された。しかしその後、敵の策動はさらに、激しくなった。

 正淑は身の危険をかえりみず、反動派の策動を粉砕するため積極的に活動した。

 同年2月、北朝鮮臨時人民委員会樹立直後のある日、平壌第4女子中学校の講堂で開かれた人民政権樹立に関する大衆講演会が反動派の策動で流産する事件が起きた。講演の最中に一人の反動分子がつと立ち上がり、講師に向かって、まだ統一政府が樹立されていないのに、北朝鮮にだけ臨時人民委員会が樹立されたのは国を分裂させることになるのではないか、北朝鮮臨時人民委員会は労農大衆の政権だと言うが、だとすれば資本家や商人を排除するということを意味する、これは一方的な政権ではないかと詰め寄った。当惑した講師が答弁に窮していると、反動分子らは、我々はそんな曖昧な政権は支持できない、汎国民的な政権を要求すると騒ぎ立てビラまでばらまいた。こうして、講演会は中止されざるをえなくなった。

 事態を知った正淑は、講演会をやり直すべきだとして、みずから講師役を買って出た。活動家は、講演会はやり直すとしても、反動分子らがどんな暴挙に出るかわからないから演壇に立つことだけはひかえてほしいと押しとどめた。

 しかし正淑は、将軍の建国路線を大衆に認識させる重要なことなのに、危険だからとやめるわけにはいかないと言って、講演会を再開するよう手配りした。

 講演会が再開された日、講堂は正淑が講演に出るということを知って集まった聴衆で超満員になった。

 演壇に立った正淑は、まずこう述べた。

 「みなさん! わたしたちは先日、歴史的な北朝鮮臨時人民委員会の樹立を盛大に祝いました。自分の手に主権を掌握した朝鮮人民は、この意義深い慶事を限りない喜びと沸き立つ歓喜をもって迎えました」

 そして、朝鮮人民が自己の真の主権機関をもつようになったのは、民族の英明な指導者金日成将軍が20年余の困難な抗日革命闘争を繰り広げ、解放後、政権樹立をめざして精力的に活動した結果であることを感銘深く話した。また、将軍がうち立てた北朝鮮臨時人民委員会は、かつて人民の膏血をしぼった日本帝国主義の支配機関とは根本的に異なる、人民大衆のなかに根をおろし、人民の意思にそって活動し、人民の利益を擁護する真の人民政権機関であると力説した。また、北朝鮮臨時人民委員会は、統一政府の樹立になんの支障も与えないばかりか、かえって統一政府樹立の強固な土台を築いてその過程を促進するものであり、この政権は、労働者、農民とともに良心的な民族資本家、宗教家を含む各階層人民の統一戦線にもとづく政権で、ただ日本帝国主義と結託していた民族反逆者、買弁資本家のみを排除する政権であることを明らかにした。

 講演は、最初から聴衆の心をゆさぶった。正淑は、なんのつくろいもない淡々とした語調で講演をつづけた。

 「わたしたちは、この講堂でおこなわれた前回の講演会のときに、一握りの反動分子がビラをまいて騒ぎ立てたことを覚えています。彼らは北朝鮮臨時人民委員会の樹立に反対しましたが、周知のように人民委員会は樹立され、人民はそれを熱烈に支持しています。この厳然たる事実はなにを示しているのでしょうか。人民の敵がいくら悪辣に策動しても、正義を志向する人民の願いをくじくことも、前進する歴史の歯車を逆転させることもできないことを如実に示しているのです」

 正淑は興奮した聴衆に向かって、まもなく北朝鮮臨時人民委員会は諸般の民主改革を実施して、労働者、農民の宿望をかなえ、この地に大変革をもたらすでしょう、みなさん、金日成将軍のまわりにかたく団結して人民政権を守り、新しい祖国の建設にこぞって立ち上がりましょうとアピールした。聴衆の拍手喝采で講演はしばしば中断された。

 講演が終わると、場内では「金日成将軍万歳!」「北朝鮮臨時人民委員会万歳!」「金日成将軍の路線に従って民主の基盤を築く建国闘士になろう!」というシュプレヒコールが連呼された。

 この日も反動分子らは講演会を破綻させようと講堂に潜り込んでいたが、理路整然とした正淑の講演と高ぶった聴衆の気勢に圧倒され、こそこそと逃げ出した。

 この講演会は、反動分子の罪業を暴露し、大衆に人民政権路線の正当性を認識させ、彼らを新しい祖国の建設に奮起させる重要な契機となった。

 将軍は、土地改革法令と重要産業国有化法令、労働法令、男女平等権法令などを発布し、それを立派に実施して驚天動地の新時代を開いた。この偉大な変革の陰には、正淑の不眠不休の労苦と輝かしい業績が秘められていた。

 土地改革がおこなわれた日々、正淑は、農村へ行って地主と反動分子の陰謀を暴露、粉砕し、将軍の土地改革方針の貫徹に向けて農民を立ち上がらせた。

 土地改革をひかえた1946年2月のある日、大同郡古平面新興里に行った正淑は、村の女性たちの仕事を手伝いながら、将軍の土地改革方針をわかりやすく説明した。そのうちに打ち解けてきた女性たちは、口々に心のうちを打ち明けるのだった。

 ……金日成将軍が地主の土地を没収して農民に分与するという噂は本当なのか。わたしたちのような貧乏人も土地をもらえるのか。土地はくれてもお金は出さなくてはならないという話もあるが、1ヘクタール当たりいくらなのか。地主がやすやすと土地を手放すだろうか。……

 正淑は彼女らに、金日成将軍は農民の願いをかなえるため、まもなく土地を分与する、土地代を払わせるというのは反動分子が流しているデマだ、地主はごく少数で農民は数百数千もいるのだから、農民が団結し労働者とかたく手を握ってたたかうならば、地主は土地を出さずにはいられないはずだとわかりやすく説明し、彼女らが土地改革実施の担い手になるよう自覚させた。

 土地改革が成功裏に実施され、ついに農民の宿望は実現されたが、その後も反動分子らの策動はつづいた。事態を憂慮した正淑は、ある日、大同郡の農村に行って農民の種まきを手伝いながら彼らと語り合った。農民が口々に土地の分与を受けた喜びと感激について話しているとき、一人の農民が、もらった土地をまた返すことになるという噂があるが、本当なのかと質問した。

 正淑は、それは土地を没収された地主が言いふらしている反動的なデマであると言い、「農民は土地の永遠の主人になったのです。誰もこの土地を奪うことはできません」と答えた。そして、いま土地を没収された地主はあらゆる陰謀をめぐらしている、彼らは、農民はいつまでも土地を自分の所有にすることはできない、やがて「統一政府」が樹立されれば、また返さなければならなくなると流言飛語をとばしている、甚だしくは、堅実な農村の活動家や中核党員を殺害するという卑劣な行為まで働いている、このような状況のもとで、我々は、金日成将軍のまわりにかたく団結し、将軍から与えられた土地をしっかり守り、農業を立派に営んで建国の基盤を強固に築かなければならないと強調した。

 このように正淑は、土地改革に反対する反動分子の策動を粉砕し、動揺したり悲観していた農民を目覚めさせて新しい祖国の建設に奮起させた。

 正淑はまた、重要産業の国有化に反対する階級の敵の策動を粉砕するため精力的に活動した。

 当時、反動分子は、産業国有化法令が発布されれば、私営工場は大小にかかわりなくすべて国有化されるというデマを流していた。それを真に受けた一部の企業家は、急いで工場の設備を市場で売却しはじめた。正淑は、このような事態を収拾するため、平壌市内の中小企業家に会って重要産業国有化の本質と正当性を説明し、この法令が中小企業家の利益を侵害しないばかりか、自由な企業活動を保障するものであることを認識させた。こうして、中小企業家を民主陣営から引き離し、産業国有化を破綻させようとした反動分子の企図は粉砕された。1946年8月10日、『産業、交通運輸、逓信、銀行などの国有化に関する法令』が発布された。

 重要産業国有化法令と労働法令の実施によって、さげすまれ抑圧されていた労働者は、奴隷のくびきから抜け出して工場の主人、国の主人となり、真の自由と平等を実質的に享受できるようになった。

 将軍は、男女平等権法令を発布するとともに、司法、検察、教育および文化の民主化を実現する諸施策を講じ、民族幹部問題、知識人問題を解決するための活動もおし進めた。

 将軍の指導のもとに反帝反封建民主主義革命の課題が成功裏に遂行された結果、人民政権はさらに強化され、1947年2月には、北朝鮮人民委員会が樹立され、朝鮮革命は社会主義への過渡期に移行した。

 正淑は、将軍の建国路線を貫徹するにはまだほど遠く、全朝鮮を包括する統一政府が樹立されてこそ建国の偉業が完遂されるとみなし、その実現をめざして奮闘した。

 1948年のの南北朝鮮政党・大衆団体代表者連席会議を契機に、南北朝鮮の全地域では、アメリカ帝国主義と李承晩かいらい一味の民族分裂策動を粉砕し、国の自主的統一を実現するための民族あげての闘争が繰り広げられた。同年5月、アメリカは南朝鮮で単独「選挙」を強行させ、その結果をでっちあげて不法な単独かいらい「政権」を発足させた。

 1948年6月29日、将軍は南北朝鮮政党・大衆団体の指導者協議会を招集し、遅滞なく民主主義人民共和国を樹立するという党の政治路線を具現し、全朝鮮を包括する政府を樹立する方針を示した。

 正淑は、共和国の国章と国旗の制定のためにも労をいとわなかった。将軍が帰宅して通覧できるよう、前もって各種の資料や文書、参考書のなかから必要な内容をチェックしたり抜粋したりした。

 ある日、共和国の国章と国旗の図案作成に苦慮していた北朝鮮人民委員会の宣伝局長が将軍の私邸に訪ねてきたとき、正淑は次のように言った。

 「……我々の国章と国旗は、北朝鮮人民だけでなく、南朝鮮人民にも受容できるものにし、将軍の新しい祖国建設の遠大な構想と方針を十分に盛り込まなければなりません。将軍は、共和国の国旗は祖国の自由と独立のためにたたかった革命烈士の赤い血潮と党のまわりに結集した革命力量を象徴する赤色を基調とし、国章の上部には赤い五角の星と光線を配して、祖国の明るい未来と、共和国が引き継ぐ革命伝統を表現しなければならないと述べました」

 正淑は、党の革命伝統と祖国の未来を象徴する赤い星を国旗と国章に配することを絶対に忘れてはならないと再三強調した。

 当時、反党・反革命分派分子らは国旗の白丸の中に五角星ではなく、「朝鮮の特徴」を生かしてすき描くべきだと主張していた。正淑は宣伝局長に将軍の意図を正しく認識させて、反動的な主張を退けさせた。国章図案の完成段階でも、将軍が図案にある溶鉱炉が気に入らないとして電化を盛り込むべきだと指摘したとき、発電所を描けば電化を表わすことができるという意見を出して将軍を喜ばせた。朝鮮民主主義人民共和国の国旗と国章はこうしてつくられた。

 共和国創建前後の時期、正淑は人民的で革命的な文学・芸術の建設のために尽力した。演劇『白頭山』の創作や抗日武装闘争をテーマにした初の劇映画『ふるさと』などの映画制作にも助力した。平壌第4女子中学校で演芸公演の準備が進められていたときには、みずから舞台に上がって生徒の舞踊と歌を指導し、遊撃区の児童団員がよく踊っていた歌舞『団結紐』を完成させた。

 将軍は、国の経済状態が困難ななかでも全国各地に数多くの病院と療養所を設置する対策を講ずる一方、近代的な中央総合病院を新設して、他の病院で治せない病気を治療し、各病院に技術的援助を与える事業を推進した。

 1948年3月10日、正淑は将軍に随行して中央総合病院(現在の朝鮮赤十字総合病院)の敷地を定めるため平壌市東区大新里へ行った。つい先日、将軍は私邸で、ある医療関係者と一緒に食事をしながら、中央総合病院の敷地を選んでみたかと尋ねた。彼が返答できずにいると、同席していた正淑が、あちこち見て回ったが、総合病院の敷地としては東平壌競馬場の横にある空地がふさわしいと言うのであった。こうして、この日、金策や李繧ネどと一緒に将軍に随行して来たのである。現地に来ると正淑は、この空地は広く静かで、空気もきれいで交通の便もよいので、大きな病院の位置としては最適ではないかと進言した。将軍は大いに満足し、その場所を病院の敷地として確定した。

 その後も正淑は、病院の基礎工事が始まったときから建設現場にたびたび足を運び、輸送や資材供給など建設過程での難問の解決をはかり、建設事業所が自力で技能工を速成養成できる対策を講じ、建設者への給養活動にも深い関心を払った。

 翌年の4月初め、正淑が3度目に建設現場を訪れたときには、病院の築造工事は終わり、内部工事に入っていた。建設の進行状況をあらためた正淑は、部屋が400あるなら、さまざまな病気の治療に必要な科をすべて設置できると話し、とくに産婦人科と小児科を立派に整えるよう強調した。そして、人口の半数を占める女性が解放を迎えて男子と同等の権利をもって社会生活に参加しているが、少なからぬ女性が婦人病のため苦しんでいるので、彼女らが十分に治療を受けられるように産婦人科を充実させなければならないと語った。また、朝鮮の女性は、男性医師に治療を受けるのを嫌うので、女性の産婦人科医師を養成して配置するのがよいと話した。

 1949年8月19日、保健相が将軍の私邸に往診した。正淑は自分の体調については気にもとめず、8月15日に予定されていた総合病院の竣工式が遅れている理由を尋ね、一緒に現場に行ってみようと促した。保健相とともに病院に到着した正淑は、大きな病院の建物を眺めながら、「これなら、わが国も大きな病院を建てたと自慢できるでしょう」と言った。そして、病院の内部を見て回りながら、各科と入院室の配置問題やその他未解決の問題についても助言を与えてから、我々は大きな病院を一つ建てたが、今後この病院を母体にして全国各地に近代的な病院を建てようと語った。もっとも先進的で人民的な保健・医療制度を樹立し、人民に無病長寿の幸せな生活を享受させようというのが正淑の切なる願いであった。

 正淑は、党機関紙をはじめ、マス・メディアを朝鮮革命の要請に即して編集、発行することに深い関心を払った。

 1946年4月14日、正淑はある編集者に会った席で、党機関紙の編集はかなり改善されたが、外国に関する記事が多すぎることを指摘し、次のように述べた。

 「党機関紙は、あくまでも朝鮮のことを基本にして編集しなければなりません。党機関紙は朝鮮革命を立派に遂行するための思想的武器です。我々は常に、朝鮮革命を立派に進める立場に立って問題を考察し、それにすべてを服従させなければなりません」

 正淑はまた、マス・メディアが階級的線から逸脱しないよう、そのつど注意を喚起した。

 実に、建党、建国の日々を振り返ると、正淑の労苦と心血が注がれていない部門はほとんどない。

 1948年9月9日、朝鮮民主主義人民共和国の創建を全世界に宣言したこの日、私邸に戻った将軍は正淑を食卓につかせた。そして、建党、建国、建軍の3大課題はきょう完遂された、その間、わたしの世話のためにいろいろと苦労をかけた、何もしてやれず苦労ばかりさせたが、きょうはわたしが一杯つぐからほしなさいと杯をすすめた。すると、正淑はこう言うのだった。「なぜ何もしてくださらなかったと言うのですか。党を創立し、軍隊を創建し、共和国を創建したのに、それにまさる贈物などないはずです。一生の願いをかなえてくださったのですから、それ以上の望みはありません」

 建党、建国、建軍の3大課題の実現、これは正淑が抗日の日々から抱いてきた夢であり、切なる願いであった。


  建国思想総動員運動の先頭に立って

 共和国北半部での反帝反封建民主主義革命課題の遂行によって、朝鮮革命は新たな高い段階に入ることになった。

 しかし、社会経済的条件の変化に比べて人々の政治・思想意識は立ち後れていた。人々のあいだには、依然として資本主義的・封建的思想の影響と悪習が多分に残っていた。

 この古い思想的影響を一掃し、新しい民族的気風と革命精神を発揚させずには、民主改革の成果をかためることも、革命と建設をより高い段階へと前進させることもできなかった。

 金日成将軍は、革命発展のこうした切実な要請を深く洞察し、1946年11月25日、北朝鮮臨時人民委員会第3回拡大委員会で建国思想総動員運動を繰り広げる方針を提示した。

 金正淑は、この運動を全国に広げるため大衆のなかに入り、この運動の目的と意義を説明して彼らを奮起させた。

 朝鮮では、1947年から初めて人民経済計画を作成し、その遂行に取り組んだ。初の人民経済計画は未復旧の工場、企業所をすべて復旧し、工業生産を前年に比べておよそ2倍に高めることをめざす膨大な計画であった。それだけに難関も多かった。計画が発表されると、階級の敵は「山中で銃を使っていた者たちが天の星を取ろうと夢想している」と悪態をつき、外国からも憂慮する声が聞こえてきた。

 こうした状況にあった1947年2月のある日、抗日革命闘士たちが将軍の私邸を訪ねてきた。彼らは、反動勢力が好ましくない世論を広めていることを正淑に告げた。

 正淑は、反動勢力には言いたいことを言わせておくことだ、将軍が抗日武装闘争を開始したとき、日本帝国主義者は我々を「滄海の一票」だとあなどり、炸裂弾で「大日本」の打倒を夢見る「ばかげた夢想家」だとうそぶいた、そして、我々が祖国を解放すると、今度は、山中で丸太小屋しか造れなかった者が斧や鋸で溶鉱炉を復旧するというのかとあざ笑った、事実、そのとき我々が持ってきたのは背のう一つしかなかった、しかし、我々は製鉄所や製鋼所を復旧して鉄鋼材を生産し、経済の復興発展をはかって朝鮮人民が生きてゆく基礎を築いたではないかと言うのだった。そして「わが国で最初の人民経済計画は、人民の革命的熱意と現実的可能性を十分に計算して作成された計画です。みなさんは、資金や資材、技術などの問題で心配しているようですが、それも将軍の言葉どおり労働者と農民、知識人と技術者のなかに入って彼らの力と知恵を引き出せば、すべて解決できるはずです。そのためには、将軍が発起した建国思想総動員運動を力強くおし進めなければなりません」と語った。

 その後、正淑は、各地の工場、企業所、農村にたびたび足を運び、幹部と労働者、農民の仕事の仕方を改めさせ、潜在力を探求しながら、建国思想総動員運動のさらなる高揚をはかった。

 ある日、正淑は、平壌市中区にある自動車修理作業場を訪れ、労働者たちとあいさつを交わしてから、車の修理は円滑に進んでいるのかを尋ねた。この時、正淑が来たことを知った作業場の責任者が駆けつけてきた。

 責任者が事務室に案内しようとしたが、正淑はそれを断って作業場を見て回ろうと促した。作業場には、まだ十分使えるねじくぎや部品があちこちに転がっていた。これを目にとめた正淑は、労働者たちは資材や部品が不足して車の修理が思うようにいかないと言っているが、貴重な資材があんなに放置されているのを見ると、ここでは節約し増産しようという将軍の呼びかけがよく実行されていないようだと指摘した。そして、責任者と一緒に構内の隅にあるくず鉄集積場に行った。くず鉄の山をかき分けてみると、ねじくぎや、そのままでも使える部品だけでなく、手を加えれば再利用が可能な機械設備もあった。それを見た責任者と労働者たちは、自責の念に駆られて頭を上げることができなかった。

 正淑は、彼らにこう言って聞かせた。

 ……以前は、わたしたちは日本人の工場に雇われて働く植民地の労働者だったので、工場も機械も自分のものではなかった。我々の膏血をしぼり取る資本家たちのものをわたしたちが大切にするはずはなかった。しかし、いまは、わたしたちが国の主人であり、工場も機械もすべて国家の財産であり、わたしたち自身の財産なのだ。
 国の主人がその財産を大事にせず、このように捨てたり、浪費したりしては国の経済はどうなるだろうか。長い間、日本帝国主義者に略奪され、無から建国の第一歩を踏み出したわたしたちは、持っているものよりないもの、足りないものの方が多い。こういう状況のもとで富強な新しい朝鮮を一日も早く建設するためには、みんなが歯を食いしばって取り組み、ないものはつくりだし、あるものは節約して難関を切り抜けなければならない。
 将軍が、建国思想総動員運動を発起したのも、すべての人に国の主人だという自覚と誇りをもたせることに重要な目的がある。わたしたちは、将軍のこのような高い志を体して、建国思想総動員運動に奮起しなければならない。……

 正淑は、この運動をさらに積極化するための方途についても詳しく話した。まず、この運動は、スローガンを叫んだり、アピールをしたりして終わるものではなく、すべての人が古い思想を捨て、実際の行動によって民主朝鮮の建設に貢献するように導く実践的運動であると言った将軍の教えを伝えた。そして、将軍の意図どおりこの運動を力強く繰り広げるためには、誰よりも幹部が先頭に立つべきだと強調し、幹部は将軍の演説内容を深く学習し、仕事の手配を綿密にして、大衆をこの運動に奮い立たせるべきだと説いた。

 これを機に、自動車修理作業場では、建国思想総動員運動と大衆的増産競争運動が活発に繰り広げられるようになった。そして、この作業場の労働者は、資材や部品を丁寧に管理し、なかったり不足する部品は自分の手で作り、車の修理計画を毎月超過遂行した。

 1947年4月16日、正淑は平壌穀物加工工場へ行き、幹部と労働者を建国思想総動員運動と増産競争運動に立ち上がらせた。

 当時、この工場では、毎日数十トンもの水飴やノンマ(ジャガイモの澱粉)、ブドウ糖が生産されていた。しかし、幹部と労働者の仕事ぶりには、依然として日本帝国主義者が残した影響が少なからず禍していた。彼らは、日本人が破壊していった製菓設備を復旧して人民により多くの菓子類を供給しようとは考えず、現行生産のみに満足していた。そして、澱粉職場ではノンマを粗雑に扱うために少なからぬ量が地面にこぼれ落ちていた。

 工場の生産工程を見て回って実態を調べた正淑は、菓子類の生産問題を協議するために集まった労働者、技術者、幹部たちに、解放後2年にもなるのに、子どもたちにキャンデーや菓子を食べさせられずにいることに将軍が心を痛めていることを話した。

 数日前、現地指導を終えて帰る途中、農村の子どもたちに会った将軍は、彼らがまだ砂糖菓子も食べられないという話を聞いて非常に心を痛めた。将軍は前日の朝も、子どもたちに砂糖菓子一つも満足に与えられないというのに、自分の誕生祝いなどできないと、質素な祝いのお膳さえ受けようとしなかった。

 将軍が、そのように心を痛め、穀物加工工場に大きな期待をかけているという正淑の話を聞いた工場の幹部たちは、いまだに雇われ根性が抜けきれず、国の主人、工場の主人としての自覚に欠けて将軍の期待にこたえられなかったという自責の念に駆られた。

 しばらくの間、室内に重くるしい沈黙が流れた。

 やがて、一人の年配の労働者が立ち上がり、我々も決心すれば製菓設備は十分つくれるから、いまからでも取り組んで機械をつくり、子どもたちにキャンデーや菓子を供給できるようにするとの決意を述べた。すると、人々はわれもわれもと生産工程の技術的改造と設備の補充に拍車をかけて生産の画期的増大をはかる方途を提案し、その決意を示した。

 その後、工場の生産に一大転換がもたらされた。

 この年、正淑は、平壌製糸工場、降仙製鋼所、被服工場など数多くの工場、企業所を訪れ、労働者を新しい祖国建設に立ち上がらせた。

 正淑は、農民のあいだに残っている古い思想の影響と因習を一掃することにも関心を払った。

 1947年2月のある日、正淑は中和郡の農村に足を運んだ。5、6戸の農家が住むこじんまりとした村だった。ある農家に立ち寄ってみると、村人が寄り集まり、食卓を囲んで笑い興じていた。将軍のおかげで生まれて初めて自分の土地を耕し、大豊作を迎えた幸福感にひたり、古い因習どおり冬場のひとときを飲酒にまぎらしていた。彼らは、農民はただこれを楽しみに生きていると言うのであった。

 彼らと席をともにした正淑は、いま金日成将軍は国の食糧問題で心配しているというのに、こんなふうに食糧を浪費し、営農準備もせずにいたのでは将軍の恩恵と期待にこたえることはできない、明日からでもみんな精を出して堆肥を十分に用意し、今年は豊作の稲むらをもっと高く積み上げて将軍に喜んでもらおう、こうすることが将軍が呼びかけた建国思想総動員運動に積極的に参加することになると諭した。

 その晩、農村の実態について正淑から報告を受けた将軍は、直ちに農民を建国思想総動員運動に立ち上がらせる対策を講じた。

 1947年9月、正淑は、零細漁民の生活の改善策を講じるため鏡城郡温大津里の執三村を訪ねた。

 11戸の漁民で組織されていた水産生産班の実態を調べた正淑は、資金を出し合って船をつくり、漁労を始めたのはたいへんよいことだ、これは、水産合作社を組織するという将軍の方針の正当性を実践で示す大事な萌芽だとほめたたえ、彼らの生活が改善されているのをたいへん喜んだ。数日後、再び執三村を訪ねた正淑は、実情さらに詳しく調べて将軍に報告し、9月25日には将軍に随行して塩分鎮を訪れた。正淑の報告を受けた将軍は、まさに水産合作社を組織しようという漁民の意志が高まっていることを意味するものだとして、生活の苦しい漁村の実態をもう1カ所調べるために塩分鎮に来たのである。

 この日、将軍は、長時間にわたって漁民たちと語り合い、水産合作社の発展方向を示した。

 正淑は鏡城に留まっている間、中小企業家に会って将軍の私営商工業に関する方針を説明し、彼らを建国事業に奮い立たせた。

 そのとき、正淑が泊っていた鏡城郡の温泉場の宿所は、郡の幹部が正淑のために用意しておいたものであったが、家の中には寝具だんすや主婦のきちょうめんさをうかがわせる台所用品がそのまま残されていた。

 正淑は郡の幹部に、この家は私有住宅ではないかと尋ねた。事実、その家には解放前に酒造業を営んでいた人の未亡人が姪を引き取って住んでいた。それを当分の間借りることにして、彼女らに親戚の家に移ってもらったのであった。

 こうしたいきさつを聞いた正淑は、あなたたちは、わたしを安心させるつもりで親戚のところに行ってもらったと言っているが、実際は解放前、酒造業をして不自由なく暮らしていた階層だからとけむたがって追いやったのではないか、わたしが来ると聞いて黙って家を空けてくれただけでなく、このように寝具だんすに鍵もかけず、倉の米びつも開けたままで出て行ったのを見ると、家の主人はわたしたちを信頼しているのに違いないと言った。そして「家の主人は何も言わずに家を空けてくれたけれど、きっとわたしたちと一緒にいたかったことでしょう」と言って、すぐ連れもどすよう命じた。こうして、正淑は翌日からこの家の主婦と同居することになった。何日か経つうちに、正淑の謙虚な品性と温かい人情味に触れた主婦はある日、こう尋ねた。

「わたしたちのように以前ぬくぬくと暮らしてきた人たちは、これからどうなるのでしょうか」

 それは解放されたその日から、彼女の頭にこびりついていた心配事であった。

 正淑は彼女の心中を察してこう言った。

 「そんなことは何も心配するにおよびません。党の政策を支持する人なら、どこでも胸を張って生きていけます」

 彼女の顔は明るくなったものの、心の片隅にはまだ自分のような者を本当に最後まで信じてくれるだろうか、という危惧の念がくすぶっていた。

 正淑は、彼女と一緒に穀物を踏みうすで掃いたり箕を使ったりしながら、抗日武装闘争の時期、将軍を支持して遊撃隊を支援した良心的な企業家たちについて話し、また地方の実状を知るため市場や商店に足を運ぶときにも彼女を連れて歩き、ときには人民の生活に必要なものを作って売っている私営企業家に会って励ましたりした。

 その過程で、彼女は将軍の建国思想を深く体得するようになり、親戚にはもちろん隣人たちにもそれを話して聞かせるようになった。その話は、近所の写真屋や洋服府をはじめ、鏡城一帯の中小企業家のあいだに広まった。数日後、酒造業者の一人が正淑を訪ねてきた。解放前、彼は正淑の宿泊していた家の主人と同業者であった。この家の主人からいろいろ聞かされてはいたが、かなり緊張した面持ちでおずおずと入ってきた。

 彼は解放後、新しい祖国の建設に貢献しようと少なからぬ寄付金を出していたが、「打倒対象」と指弾されることが多かったのである。

 正淑は、みずから庭に出て彼を迎え、部屋に招き入れて椅子をすすめ、彼の話を聞いた。酒造業者の過去の経歴や苦衷を知った正淑は、将軍が新しい祖国建設のため、私営企業の運営を奨励し、業者の創意をいっそう高めることを望んでいることを話した。

 「……ここに来てみると、中小企業家にたいして『ブルジョアジー』だの『打倒対象』だのと非難の声が多いようですが、それはみな将軍の意に反する分派分子や地方割拠主義者の罵詈雑言です。
 将軍はすでに、抗日武装闘争めときから、国と民族を愛する中小企業家や商人はもちろん民族資本家も信頼していました。これは解放された今日も変わりありません」

 正淑は、解放前には国を奪われたため日本人に虐げられ、解放されたいまになっては苦労せずに暮らしてきた過去があるので良心の呵責を受けるという話ですが、これからはそんなことを気にせず、国と自身のために建国事業にひと役買って出るべきだと励ました。

 酒造業者は、すぐさま正淑に言われたことを同僚に伝え、鏡城一帯の中小企業家がすべて建国事業に奮起するよう積極的に働きかけた。

 数日後、正淑は、女性同盟の幹部たちとともに市場へ行ったその足で、そのときの酒造業者の家を訪ねた。そして企業運営状況を尋ね、国と人民に奉仕する立場に立って企業を運営すれば将軍の信任を得ることができ、また人民からも感謝されるようになると諭した。

 正淑は、彼らと昼食をともにし、抗日武装闘争時代の思い出を話して聞かせた。

 車廠子遊撃区時代の話を聞く女性同盟の幹部や主人夫婦の目には涙が浮かんでいた。当家の主人は、愛国者たちが祖国を取り戻すため将軍に従っていい知れぬ苦労に耐えて戦ったのに、自分たちは温かいオンドル部屋で安穏な生活をしてきたのだから、全く肩身の狭い思いがすると声を震わせるのだった。

 彼の話しぶりから、いまなお彼のような立場の者をどこまでも信じてくれるだろうかと危惧の念を抱いていることを見抜いた正淑は、彼の手を握り、解放されたいま、将軍は建国事業に協力する中小企業家、商人に大いなる信頼を寄せ、配慮をめぐらしている、誰から何と言われようと絶対に動揺せず、ひたすら将軍を信頼することだと話した。

 長時間にわたって将軍の新しい祖国建設路線を説明し、未来にたいする確信を与えた正淑は、帰りぎわに当家の家族と庭園で記念写真をとった。

 それ以来、その酒造業者は、他の中小企業家とともに建国思想総動員運動に乗り出し、後に地方主権機関の代議員にまでなった。

 正淑は、女性の識字運動にも積極的に参与した。

 ある日、龍岡郡の農村を訪れた正淑は、地元の女性たちに識字運動の意義を説き、この運動は単に読み書きを覚えることだけが民的なのではなく、金日成将軍の建国思想を体して富強な新しい民主朝鮮を建設することに目的がある、読み書きができなければ建国事業も子どもの教育もできなくなる、女性たちは農作に励むかたわら識字運動も活発に繰り広げ、新しい生活の道を開いてくれた将軍のご恩に必ず報いようと呼びかけた。


  女性問題の解決のために

 1946年の初め、咸鏡北道女性同盟の代表2名が金正淑あての手紙をたずさえて北朝鮮民主女性同盟中央委員会を訪れた。

 「……わたしたち咸鏡北道の女性は、東方朝鮮の誇りであり、全朝鮮女性の誇りである金正淑女史にもっとも熱烈な敬慕の念を表するものです」

 このような書き出しで始まった手紙は、正淑が十代の幼い身で、金日成将軍の遊撃隊に入隊し、祖国の解放と女性解放のために死闘を繰り広げ、国が解放されたこんにち、朝鮮女性運動のめざましい発展のために活躍していることを称賛し、女史が前年の12月に咸鏡北道に来て正しく指導してくれたおかげで、道内に多くの女性同盟組織が結成され、数万を数える女性が結集したことにふれた後、次のようにしめくくられていた。

 「解放朝鮮の女性として、正義の道を歩もうとするわたしたちは、わが民族の偉大な指導者である金日成将軍の志でわたしたちを導いてくださる女史の指導なくしては、民主女性同盟の強化、発展も、また女性の完全な解放も期待することができないと断言します。

 尊敬する女史!

 女史がわが国の女性同盟の活動を率先して指導し、わたしたち女性を真の闘争の道に導いてくださることを咸鏡北道女性同盟員一同切望してやみません」

 このような請願の手紙は、ほかの道や地方からも毎日のように届けられた。

 だが、正淑は、その信頼に力の限りこたえる決心だとしながらも、自分は将軍の意を体して、これまでどおり女性同盟の活動を後押しするつもりだから、みんなで力を合わせて活動しようと女性同盟の活動家を励ました。

 解放直後、朝鮮女性運動内部の状況は、分派分子と反動分子の分裂策動のため複雑をきわめていた。

 だが、この複雑な問題は、女性運動と女性問題解決に関する金日成将軍の思想と方針を具現するため労苦をいとわぬ正淑によって解決されていった。

 北朝鮮共産党中央組織委員会第3回拡大執行委員会の決定を実行するため、女性同盟中央委員会幹事会議が開かれたときのことである。

 会議では、第3回拡大執行委員会での将軍の報告の基本的内容が伝達され、党の政治路線を貫徹するための女性同盟の課題が討議された。ところが、会議が終わりかけたとき突然、なぜ共産党の政治路線についてのみ討議するのか、民主党の「政治路線」についても討議すべきではないかという意見が出された。すると、それを待っていたかのように、女性同盟中央委員会副委員長のが朴賢淑が、女性同盟ではほかの政党の路線についてもないがしろにせず討議すべきだとし、親日派であれ、民族反逆者であれ「大同団結」して李承晩を大統領とするブルジョア共和国を樹立すべきだという民主党の「政治路線」を提唱した。

 会議の執行部の一員であった副委員長の安信好は憤然として机を叩き、民主女性同盟が支持すべき政治路線は金日成将軍の路線以外にないと断言した。会議は、何の決定も採決できないまま休会となった。

 安信好は、その足で正淑を訪ねた。彼女から一部始終を聞いた正淑は、今日の会議で朴賢淑一派はその正体をさらけだした、彼らの策動を即刻粉砕しなければならないと言った。そして、アメリカ人宣教師と結託してキリスト教系の女性団体を組織し、曹晩植とともに日本帝国主義の走狗団体である「研政会」に加担して妥協と無抵抗主義を唱えた朴賢淑の解放前の罪業しか知らない安信好に、解放後、はっきりとあらわれた彼女の正体について話した。

 解放後、朴賢淑は、曹晩植とともに民主党と平安南道人民政治委員会の上層部にまぎれこみ、党の新しい祖国建設路線の貫徹を妨害しただけでなく、ソウルで結成された右翼反動政党の「女子国民党」ともかかわりをもっていた。

 正淑は、女性同盟は、労働者階級の党の指導を受けてこそ、女性解放の課題を遂行することができると話し、反人民的政府をうち立てようとする反動分子の策動を粉砕し、彼らの正体を暴露すべきだと強調した。

 翌日、再開された会議では、朴賢淑など反動分子の策動が暴露、糾弾され、彼らは会場からほうほうの体で退場していった。しかし、朴賢淑の策動はその後もつづいた。

 正淑は、朴賢淑の反動的罪業をあばく対策を講じた。

 朴賢淑についての暴露は、女性同盟活動者会議で集中的におこなわれ、ついで地方の女性同盟組織でも広範に繰り広げられ、朴賢淑一派はついに女性同盟組織から排除された。

 後日、正淑はこれを回想して、解放直後、朴賢淑一派を適時に排除できたので、女性運動の分裂を防ぎ、隊伍の組織的・思想的統一を保つことができたと述懐している。

 解放直後、女性運動にはさまざまな派があって、その主義主張もまちまちだったが、とくに問題となっていたのはブルジョア女性運動の影響であった。

 1946年の春、女性同盟中央委員会の協議会に参加した正淑は、街頭に見られる「女性の人権を擁護しよう!」「真の女性解放は参政権の獲得から!」というスローガンについてふれ、なぜあのようなスローガンが、いまなお、かかっているのかと尋ねた。

 ある幹部が、スローガンについては女性同盟中央の幹部のあいだで何回も論争があったが、まっとうな結論が出ず、この会議で金正淑女史の教えを仰ぐことにしたと答えた。

 正淑は、この論争を正しく収斂するためには、当然、金日成将軍の女性運動思想と女性同盟建設方針にもとづいて進めなければならないと述べた。

 「将軍はすでに解放直後、朝鮮女性運動の進路を明らかにして『すべての女性は民主の旗のもとにかたく団結し、新しい民主朝鮮建設にこぞって立ち上がろう!』というスローガンを提示しています。我々は、将軍が提示したこのスローガンをかかげるべきです」

 さらに、女性の人権擁護問題について言及し、それはブルジョア女性運動のスローガンであり、それには人権が踏みにじられた搾取社会において女性の権利を擁護するという主張が盛り込まれてはいるが、労働者階級がかかげた女性解放とはかけ離れたものであり、「参政権」というスローガンは、資本主義社会で女性が議会政治に参加する権利を主張したもので、勤労女性の政治的権利とは無縁のものである、我々の人民政権が女性の権利を擁護する数々の施策を講じ、女性が各級人民委員会の委員に選出されて、男子と同等な権利をもって国の政治に参与し、工場の主人、土地の主人となった、こんにちの状況のもとで、「人権擁護」や「参政権」をスローガンとしてかかげるのは、朝鮮革命の要請に合わないものであると条理を尽くして説明した。また、その弊害は、各道の女性同盟から提出された土地改革遂行のための政治活動総括報告に反映された「妾反対闘争」に如実に示されていると指摘した。

 土地改革が実施される時期、一部の地方では分派分子が、女性は人権を取り戻さなければ建国事業に参与することができないといって、女性を土地改革の遂行に参加させず、「妾反対闘争」に駆り立てていたのである。

 彼らは妾暮らしをしている女性を、女性同盟員の集まりに呼び出して前に立たせ、人身攻撃をするかと思えば、そのような家庭の女性と親戚関係にある女性を女性同盟に加盟させず、すでに加盟している女性まで除籍処分に付していた。

 政治教育団体である女性同盟が、法機関、行政機関のごとくふるまい、いたるところで騒ぎを起こしたため、女性同盟の活動家は「がさつな女」と非難され、女性は女性同盟に加盟するのをためらい、また妾だった婦人が妾暮らしをやめはしたが生計が立たず街をさまよい、あげくのはては妾を囲っていた者が仕返しとして、女性同盟の活動家に暴行を加えるというありさまだった。

 正淑はこうしたことを教訓として、女性同盟活動で提起されるすべての問題を将軍の思想と意図どおり分析し判断し、解決するよう注意を促した。

 また、正淑は、日帝時代、男のなぐさみものとしてさげすまれ、不遇な境遇にあったキーセンも、新しい生活の道を踏み出せるよう配慮した。

 正淑は、北朝鮮民主女性同盟の綱領の起草にも助力した。

 ある日、綱領の起草を担当していた許貞琡が正淑を訪ねてきた。彼女は、綱領作成に参加しているメンバーがそれぞれ自説に固執し、自分自身もこの問題にたいする明確な見解が定まらないので、一向にはかどらないもどかしさを打ち明けた。

 異なる主張は二つに大別することができた。一つは、女性の人権を擁護し、政治的・法律的束縛から解放するという内容を含めようという主張であり、いま一つは、無産階級女性の団結力と組織力をもって女性の解放をめざし、当面の利益のためにたたかうという条項を含めようという主張であった。これを聞いた正淑は、前者の主張はブルジョア女性運動の綱領を受け売りするものであり、後者の主張は、社会主義女性運動家が提唱していたプロレタリア女性解放綱領を機械的に置き換えたものであると指摘した。そして、正しい女性同盟綱領を作成するには、民主主義革命期の女性問題解決に関する将軍の独創的な思想を知らねばならないとし、将軍が示した、解放された朝鮮女性の基本的任務は、日本帝国主義と封建思想の影響を一掃し、女性の真の社会的解放をなし遂げることであり、すべての女性が建国事業に奮起し、祖国の完全なる自主独立をかちとることであると説明した。

 「わたしの考えでは、すべての女性が党の基本政治課題である朝鮮民主主義人民共和国の樹立をめざしてたたかうことを女性同盟の第一の任務とすべきだと思います。
 そして、女性を植民地的・封建的抑圧から完全に解放する問題、女性を政権の主人、土地と工場の主人にならしめ、その政治的・経済的地位を高める問題、人身束縛と男女不平等から解放する問題、女性をさげすむ封建的悪習と長年来の無知と蒙昧から解放する問題などを、綱領に盛り込むことができると思います」

 朝鮮民主女性同盟の綱領は、こうして作成されたのである。

 綱領の草案を通覧した将軍は、立派に作成されていると高く評価した。

 民主女性同盟の最初の綱領は、1946年5月10日から開催された女性同盟第1回代表者会議で満場一致で採択された。

 正淑は当時、女性運動内で論議を呼んでいた朝鮮女性運動の伝統に関する問題にも明確な解答を与えた。

 いくつかの女性団体の統合によって民主女性同盟が結成されはしたが、民主党系やキリスト教系の女性団体出身者は、おのおの自己の「伝統」を押し立て、共産党の外郭団体であった婦女同盟出身の一部の者は、分派分子のかつての「闘争」や「運動」なるものを押し立て、あたかもそこから朝鮮女性運動が始まったかのように主張した。ある出版物では、朝鮮女性運動の起源を、1924年に組織された「朝鮮女性同友会」だとし、その「業績」を仰々しく並べ立て、甚だしくは日本帝国主義の御用婦人団体であった「愛国婦人会」の「活動」まで称賛し押し立てていた。

 女性同盟中央委員会では、このような不当な見解に打撃を与えるため、『朝鮮女性』誌に宣伝部長の名で反論を掲載することにした。しかし、女性同盟中央委員会の幹部自身がこの問題にたいする理解に欠けていたため、「愛国婦人会」のような反動的な女性団体を厳しく暴露、批判しながらも、国内外でのかつての女性の「闘争」をすべて朝鮮女性運動が受け継ぐべき「伝統」としようとするいま一つの偏向を犯すことになった。

 こうした状況下にあった1947年2月のある日、女性同盟中央委員会の幹部と席をともにした正淑は、『朝鮮女性』誌の2月号を手にして、朝鮮女性運動の伝統に関するさまざまな主張の不当性を明らかにし、次のように述べた。

 「わが国における女性運動の真の伝統は、金日成将軍が革命の道に立って朝鮮の革命と女性運動を勝利に導くことによって築かれたのです」

 そして、将軍によってきずかれた朝鮮女性運動のこの強固な基礎があったからこそ、解放直後のあの困難で複雑な情勢のなかでも朝鮮女性の大衆的政治組織である民主女性同盟を直ちに結成することができたのだと語った。

 また、朝鮮女性運動が継承すべき革命伝統について正しい認識をもたせるため宣伝活動を活発に展開すべきだとし、その形式と方法を示した。

 女性同盟では、朝鮮女性運動が受け継ぐべき革命伝統について宣伝教育活動を集中的に繰り広げ、それを歪曲したり中傷する行為とは妥協することなくたたかった。こうして、朝鮮女性同盟は、抗日革命闘争期に築かれた革命伝統を継承し発展させていくことができた。

 女性を封建的束縛と無権利から解放し、新しい生活の創造へと導くには、彼女らを一日も早く女性の政治組織に結束する必要があった。

 正淑は、平壌穀物加工工場や東平壌地区をはじめ、各地に足を運んでは女性同盟組織を結成する活動を支援し、広範な女性が新しい祖国の建設に邁進できるようにした。

 当時、平壌穀物加工工場では、職業同盟に婦女担当指導員を置いて女性労働者の社会・政治生活の指導に当たらせていたが、その指導員は女性ではなく、中年の男性であった。男性が女性同盟委員長を務めるというケースは他にも見られたが、これは女性同盟の活動において早急に是正しなければならない問題であった。

 正淑は、従業員の大多数が女性である穀物加工工場のようなところに女性同盟が組織されていないのは大きな誤りだとして、こう述べた。

 「いま女性同盟組織が工場と農村の女性のなかに根をおろしていないのは、将軍が示した女性同盟組織の建設原則に甚だしく反することです。もちろん、専業主婦を組織的に結束することも重要ですが、基本は、勤労女性を女性同盟組織に結集させることです。女性同盟に広範な女性を結集するうえで、勤労女性を基本とするのは女性同盟組織建設の原則的要求です」

 こうして、平壌穀物加工工場では女性同盟の組織化に取り組み、その年の3月下旬にはすべての職場に女性同盟組織が設けられ、やがて穀物加工工場女性同盟委員会を組織する集会がもたれた。

 専業主婦を女性同盟に受け入れることでも、さまざまな問題点があった。ある女性同盟組織では、暮らしの貧しかった女性だけを加盟させ、企業家や商人、その家族は加盟させなかった。

 ある日、上船橋里に立ち寄った正淑は、この里に女性同盟員が少ない理由をそこの女性同盟幹部に尋ねた。彼女は、多くの婦女がいるが、企業家や商人、その家族、それに宗教人、キーセンなどの非適格者が多いので同盟員を速やかに増やすことができないでいると答えた。

 正淑は、そのような女性のなかに女性同盟の組織生活をしたいと望む人はいないのかと問い返した。するとその女性同盟幹部は、先日、中小企業家や商家の女性たちが訪ねてきたが、彼女らを加盟させると同盟の純潔が保てなくなるので断った、上級にも問い合わせてみたが、同じ意見だったと言うのだった。

 その話を聞いた正淑は、わたしたちは、将軍の意図どおり、新しい民主朝鮮の建設に尽くそうとする各階層の女性をすべて女性同盟に結集しなければならないと説いた。

 女性運動に関する将軍の路線を貫徹するための正淑の努力によって、女性同盟結成当時の1945年11月に15万名であった全国の同盟員数は、翌年5月に女性同盟第1回代表者会議が開かれたときには60余万名、同年末には100万名に達した。

 女性同盟員数の急激な成長で、組織の質的強化と女性同盟幹部の政治的・実務的資質の向上が切実に求められるようになった。

 この時期、分派分子や異分子は、労働者、農民出身の女性同盟幹部を無学だとして排斥した。こうなると、勤労女性出身の女性同盟幹部のあいだに、自信を失って退こうとする傾向が少なからずあらわれてきた。

 こうした状況にあった1946年5月初旬、女性同盟第1回代表者会議に参加した女性同盟中央委員会の幹部たちと席をともにした正淑は、この会議が終わり次第、女性同盟活動家のための特別講習をおこなうようにという将軍の教えを伝え、こう言いそえた。

 「全国の女性同盟幹部が一堂に会するのは難しいことですから、こうして集まった機会に講習をおこなえば、幹部の水準を高める面でも、また女性同盟活動の発展のためにも有益だと思います」

 15日間にわたっておこなわれた特別講習は、女性同盟幹部の水準向上に資するところが大きかった。

 1946年7月30日、男女平等権法令が発布された日、正淑は女性同盟中央委員会の幹部たちと喜びを分かち合い、法令の発布を祝う集会を中央と道に限らず郡や面、里、そして、機関、企業所、学校や農村、漁村など女性のいるすべてのところで催すのがよいとし、その形式と方法について話した。こうして、全国が祝賀の雰囲気に沸き、自己の権利と尊厳を守ろうという女性の自覚が高まった。

 数日後の8月初旬のある日、正淑は黄海道で起こったある事件について報告を受けた。

 ある家庭で患っている嫁を追い出したことから、姻戚同士の争いが起こり、それが氏族門閥の争いにまで発展した事件である。嫁は産後の肥立ちが悪くて2年間床に臥していたので、婚家では「七去の悪」ときめつけて追い出したのである。

 封建儒教教理の「七去の悪」とか「三従の義」というのは、女性に無条件に従順と屈辱を強いる古い倫理である。追い出された嫁も、その倫理の犠牲者である。婚家では、嫁を荷車に乗せ、実家の庭におろして立ち去ってしまった。こうして始まった争いが拡大し、社会的に物議をかもしだしたのである。

 正淑は、これをある一家で起こった私事としてではなく、古い封建的倫理の産物、女性の社会的解放を妨げる悪習としてとらえた。

 このような現象は、程度の差こそあれ、他の地方にも見られた。

 博打に狂った夫に口答えしたことが禍して追い出された婦人がいるかと思えば、瘭疽(ひょうそ)にかかって仕方なく片手でしゅうとにお湯を差し出したのが不遜な態度とみなされ、実家にもどされた婦人もいた。

 正淑は、このような悪習は長い歳月にわたって定着してきたものなので、法的統制や何回かの説得によって解決される問題ではないとし、女性同盟では「三従の義」「七去の悪」といった古い生活倫理を一帰する運動を繰り広げるべきだと言った。この運動は、全国的範囲で一大旋風を巻き起こして展開された。

 これにつづいて正淑は、女性のあいだで迷信を打破する運動を繰り広げていった。

 1947年12月のある日、女性同盟中央委員会に出向いた正淑は、最近、平安南道龍岡郡で迷信行為によって起きた出来事を知っているかと尋ねた。

 誰も答えられずにいると正淑は、それをまず知る必要があると強調し、龍岡郡である女性が急病で倒れた母親を医者に見せようとせず、巫女を呼んで3日間神霊の加護を頼む儀式をつづけているうちに死なせてしまったことを話した。正淑は、このような迷信行為が女性のあいだでなくならず、新しい社会の建設と女性運動の発展に大きな支障をきたしていると指摘した。そして、龍岡郡での出来事をもとに寸劇をつくって公演するのがよいと言い、抗日革命闘争の時期に創作、公演された革命演劇『城隍堂』が大衆の啓蒙に大いに役立ったことを話して聞かせた。

 その後、平安南道の女性同盟が迷信の打破を主題にしてつくった芸術小品が大きな反響を呼んだ。これは、講演や解説、統制に比すべくもない効果をあげた。

 正淑は、それまで巫女や占い師をしていた人を女性同盟で正しく教育し、彼女らが自身で迷信のでたらめさを暴露する集いや座談会などを開くようにすれば、小品公演に劣らぬ効果をあげることができるだろうと述べた。その後、その趣旨にそった集いや座談会が各地で広範に催された。

 女性同盟が、このような活動を繰り広げる過程で、かつて女性の精神世界を強く支配していた迷信は次第に姿を消し、女性の思想に新たな変化が生じてきた。

 女性の封建的従属と迷信的束縛からの解放、これは朝鮮女性運動史だけでなく、朝鮮人民の5千年の歴史において特記されるべき出来事の一つである。

 だが、正淑は、これを女性解放の第一歩に過ぎないとみなした。女性が社会生活のすべての分野で男子と同等の地位を占め、革命の片方の車輪を回転させてこそ、男女平等の権利が具現され、女性解放の偉業が実現されるからであった。

 将軍が普通江改修工事の鍬入れをした1946年5月21日の夕方、正淑は女性同盟第1回代表者会議についで15日間の特別講習を受けている道・市・郡女性同盟の幹部たちを訪ねた。

 正淑は彼女らに、金日成将軍の参加のもとに普通江改修工事着工式がおこなわれたことを伝え、新しい朝鮮の主人となったわたしたち女性も男子と肩を並べ、自分の力で普通江の堤防を見事に築いてみせたいと思う、ここに集まった女性同盟の幹部たちが講習を一日受けられなくても、最初ののろしを上げてはと思うが、どうだろうかと問いかけた。

 女性同盟の幹部たちは、この提案を熱烈に支持した。

 正淑は、わたしたち女性が普通江改修工事に参加するのは、単に人手を補充するためではない、この工事に積極的に参加するのは結局、女性の地位と役割にたいする社会的認識を正すよい契機となり、男女平等を政治分野だけでなく、経済、文化など、社会生活のすべての領域で実質的に具現していく過程になるであろうと述べた。

 女性が普通江改修工事に参加するという話は、その晩のうちに平壌市内の女性のあいだに伝わり、みんなが工事に参加する支度を整えた。

 翌日の5月22日、女性同盟中央委員会の幹部と200名余りの講習参加者が工事現場へ向かうと、市内の女性もこれに合流し、その数はたちまち1000余名に膨れあがった。

 隊伍を組み、女性同盟旗をなびかせて意気揚々と工事現場に入って来る女性たちを、多くの青壮年が目を丸くして見つめた。

 こうして始まった女性同盟員の普通江改修工事支援活動は、日増しにその規模を増していった。

 だが、いまだに家に閉じこもって出てこようとしない婦人も少なくなかった。正淑はそういう女性もすべて立ち上がらせるため、平壌市家庭婦女大会の開催を発起した。

 6月16日は、普通江改修の基本工事に突入する第2次突撃戦が始まる日だった。この日の朝、光成中学校の運動場には万余名の専業主婦が集まった。市内の各組織が掲げてきた女性同盟旗とプラカードが風にはためき、吹奏楽が鳴り響くなか、女性たちは声高らかに歌をうたい、シュプレヒコールを叫んだ。平壌はじまって以来の専業主婦の盛大な集会となった。報告につづいて発言があり、金日成将軍に送る感謝の手紙が採択された。

 集会が終わると、参加者たちは勇躍して工事現場へと向かった。現場は、将軍のまわりに団結して建国運動にはせ参じた朝鮮女性の力を初めて誇示した聖なる闘争の場となった。

 3年かかってもできないと言われたこの膨大な工事を、着工して55日目の1946年7月15日に完成することができたのは、女性の力に負うところが大きかった。

 工事期間、正淑は、誰にも知らせず質素な作業服姿で現場に出ては女性同盟員と一緒にシャベルを使ったり、しょいこを背負ったりしながら同盟員たちを励ました。

 7月に入って大雨が降りはじめたが、正淑は毎日のように工事現場に出かけた。そのうち、将軍の夫人が子息と一緒に働いているという噂が、現場の隅々まで広まった。

 そうしたある日、土手の上で現場を見渡していた高齢の老人が正淑に近づき、深々と腰を曲げてあいさつした。

 「おじいさん、これは一体どうしたことですか」

 正淑は、シャベルを地に差し込んで老人を支え起こした。老人はすこぶる興奮していた。

 「我々朝鮮人民が、天がたまわった金日成将軍を民族の太陽として仰ぎいただいただけでもこのうえない喜びだというのに、ご夫人までこうして苦労をいとわず、万民の苦衷を深く察してくださるのですから、その高い徳望は天の高さにたとえられましょうか」

 老人は代々、普通江のほとりで暮らしながら、たびたび洪水の被害を被ってきた人で、改修工事が始まって以来、毎日のように現場の仕事を手伝っていたのである。彼は多くの女性が現場に出て、男子に負けじとばかり熱心に働く姿を感動したまなざしで眺めた。

 女性のあいだで起こったこの驚くべき変化が、正淑によってもたらされたものであることを知った老人は、かつて家の中に閉じ込められ、弱者の象徴とみなされてきた女性を国の主人、れっきとした担い手に育ててくれたその恩があまりにもありがたく感じられて、感謝の意を表したのだった。

 その後、正淑は普通江改修工事の経験を生かして、咸鏡北道鏡城郡と江原道高城郡と平安南道大同郡と陽徳郡をはじめ、各地方に出かけては、女性同盟組織をしてすべての女性を新しい祖国建設のための張り合いある闘争に立ち上がらせた。

 正淑は朝鮮で初の民主選挙がおこなわれたときにも、選挙を通じて女性の社会的解放に新たな前進をもたらすために活躍した。正淑は女性同盟の幹部たちに、今回の選挙は朝鮮の女性にとって男女平等権法令により法的に保障された男子と同等の政治的権利を実質的に行使する意義深い出来事になると強調した。

 選挙の日が近づくにつれ、選挙を破綻させようとする反動分子の策動はいっそう悪辣になってきた。ある地方では、反動分子が占い師や巫女を操って、今回の選挙に参加しなければ3年間は厄払いをしなくてもすむ、票を投票箱に入れないで家に持ち帰って燃やしてしまえば病にかからない、選挙の仕方が変わって、賛成ならば黒箱に、反対ならば白箱に入れることになったなどとデマを飛ばしていた。悪質な牧師は、11月3日は「安息日」の日曜日だから、信者は礼拝をすませたらそのまま家に帰り「安息」しなければならないとうそぶいた。

 10月の下旬、正淑は女性同盟中央委員会の幹部に会った席で、反動分子らの策動に対処して、優秀な活動家と女性同盟員を選挙宣伝に集中的に動員することにし、戸別の有権者名簿をつくり、一人ひとり直接会って選挙の日付と方法を具体的に教え、投票の仕方を示すことにしようと話した。

 こうして、反動分子の策動は失敗に帰し、すべての女性が高い政治的自覚と熱意をもって、初の民主選挙にこぞって参加することになった。

 11月3日、歴史的な初の民主選挙の日、正淑は女性同盟の幹部とともに、平壌市中区の中城選挙区第52号分区で投票した。投票を終えて出てきた正淑を大衆が取り囲んだ。

 正淑は、彼らに向かってこう言った。

 「今日、実施された歴史的な初の民主選挙には、人口の半数を占めるわたしたち女性が、堂々たる有権者として参加しました。また、数多くの女性が、各級人民委員会の委員候補に推薦されて選挙されることになりました。これは、朝鮮人民の5千年の歴史において初めてのめでたい出来事です。

 これはまた、わたしたち女性があらゆる人格的・社会的従属と差別から解放され、社会・政治生活の主人になったことを力強く示すものです」

 このごろ、朝鮮の女性運動は、いま一つの慶事を迎えた。朝鮮の女性同盟が国際民主婦人連盟に加入し、それによって朝鮮の女性が世界各国の女性と肩を並べて国際舞台に進出することになったのである。

 正淑が、この問題を提起したのは1946年4月であった。そのとき、女性同盟第1回代表者会議の報告書草案に目を通した正淑は、わが国の女性同盟が国際舞台でどう活動するかについてなぜふれていないのかと尋ねた。対外活動を始めるのは時期尚早ではないかという意見にたいし正淑は、今回の代表者会議に国際民主婦人連盟への加入問題を上程して討議すべきだ、わが国の女性同盟の歴史は浅いが活動を通して経験を積み、大胆に仕事を進めていけば、世界の進歩的女性に、金日成将軍のまわりにかたく団結して新しい祖国建設を担っていく朝鮮女性の力を示すことができ、彼らの支持と共感を呼ぶことができるはずだと述べた。

 こうして、女性同盟第1回代表者会議で国際民主婦人連盟への加入問題が討議、決定され、正式に加入申請をすることになったのである。

 国際民主婦人連盟では、その年の10月10日から開かれる臨時大会でこれを承認することにし、大会に朝鮮の女性同盟の代表を招請した。10月14日の大会では朝鮮女性代表の演説があった。その後、朝鮮の女性同盟の国際民主婦人連盟への加入が満場一致で決定された。


  新しい世代を立派に育てよう

 金日成将軍は、1946年2月20日に開かれた北朝鮮臨時人民委員会第1回会議の議題として鉛筆の問題を上程し、これを国内生産でまかなうという決定を採択するようはからった。

 これには人知れぬいわれがあった。

 1946年1月のある日、農民の暮らし向きをうかがうため平壌市近郊の農村に出かけた金正淑は、ある農家の一部屋で数名の学童が砂箱を囲んで字を書いたり消したりしているのを目撃した。鉛筆がないのかと聞くと、鉛筆は学校で使おうとしまってあるとのことだった。

 正淑は、学童の本を包んだ風呂敷を開いて見た。そこには、手にやっとつかめるくらいのちびた鉛筆しかなかった。かつては、自分も符岩洞の夜学でこういう砂箱を使って文字を習い、抗日武装闘争の時期にも隊員たちが雪の上や地べたに指で字を書きながら学習したことが思い出された。けれども、祖国が解放されたいまとなっても、どうして子どもたちに鉛筆も持たせてやれないのだろうかと思うと気が重くなった。

 その日、正淑は、農村で目撃したことを将軍に話した。

 将軍は、日本帝国主義者は長期にわたる植民地支配期間に鉛筆工場の一つも建てなかった、今後、国で大きな鉛筆工場を建設することにし、さしあたって各地の中小企業家に鉛筆をどんどん生産させる対策を講じようと言うのだった。

 鉛筆生産の対策を考えていた正淑は、市内に鉛筆を切らさず売っている雑貨店があるという話を耳にして行ってみた。その雑貨店では、普通原のある業者が簡単な設備でつくっている鉛筆を引き取って販売していた。正淑は、それを何本か買ってきて将軍に見せた。

 その鉛筆で字を書いて見た将軍は「これくらいなら結構だ。子どもたちに使わせてもよさそうだ。大切な芽を発見した」と喜んだ。

 翌日、その業者の作業現場を訪れた将軍は、黒鉛と石炭の粉にまみれた労働者の手をとり、立派なことをしていると称賛し、これからは国家が必要な資材をすべて提供するから、良質の鉛筆をより多く生産するようにと励ました。

 こうして、その年の2月に開かれた北朝鮮臨時人民委員会第1回会議に、鉛筆問題が議題として上程されたのである。

 一方、正淑は、学校で扱うすべての課目に民主的で革命的な思想と内容が貫かれるよう関心を払った。

 同年の3月下旬、平壌第4女子中学校を訪れた正淑は、教員や生徒と話し合う過程で、どの学校でも教員が不足しているうえに教具・校具や実験・実習設備も不備なことがわかった。そのなかでも第一の難問は、内容の充実した教科書がないことであった。代数、幾何、物理、化学などの自然科学系統の教科書は、日本帝国主義支配当時のものがそのまま利用されており、社会科学系統の課目は教育局からそのおりおり下達される指導要綱にもとづいて教えられていた。

 正淑は、近いうちに教科書や教具・校具が提供されるはずだ、いまは困難な状況下で授業をしているが、ゆるがせにしてはならない重要な問題があるとして話をつづけた。

 ……現在、教育事業でもっとも重要なのは、教育の民主化を実現することであると将軍は教えている。そのためには、なによりもまず、日本帝国主義の植民地奴隷教育の残滓を一日も早く一掃しなければならない。自然科学の教科書にしても数学の応用問題などに朝鮮人民を見くだす内容があるはずであり、学校の教育事業秩序や生徒の課外活動のやり方、そして教務管理にも日本帝国主義支配期の悪弊が残っていないかを検討してみる必要がある。そして生徒には、将軍が示した新しい朝鮮建設の路線を深く認識させ、これから朝鮮人は、日本帝国主義の奴隷ではなく、堂々たる独立国家の主人であるという高い自覚を抱かせるべきである。朝鮮の歴史と地理、文化について詳しく教え、とくに朝鮮人民のすぐれた息子、娘が武器を手にとって日本帝国主義といかに戦ったかを教えなければならない。また、民主建設に役立つ生きた知識を与えるだけでなく、土地改革宣伝隊のような社会活動にも広く参加させ、新しい民主朝鮮の有能な人材に育てなければならない。

 正淑は、その後も多くの学校に行って教育実態を調べ、難問の解決をはかった。

 1947年7月のある日、正淑は教科書を扱う印刷工場を訪れた。その日の朝、将軍が新学年度用の教科書と学習ノートがまだ完全に準備されていないことを心配していたからだった。

 ところが工場では、出版物の重要さにはかかわりなく、契約された順序によって印刷がおこなわれていた。そのため、教科書の印刷は後回しにされるありさまだった。

 正淑は、解放されたこんにち、我々は営利目的ではなく革命のために働いているのだから、印刷の順序も当然革命の利益の見地から定めるべきだと強調し、新学年度の始業日を前にしている現在、教科書の印刷より緊急を要するものはないと説いた。

 工場から帰ってきた正淑は、印刷工場の実態とあわせて、これから教科書を適時に印刷するためには、教科書専門の印刷工場を別個に設ける必要があると将軍に提言した。

 将軍は、直ちにその印刷工場で教科書を優先的に印刷するようはからい、その後、教科書専門の印刷工場を設ける措置を講じた。こうして、学校教育事業でもっとも大きな難点となっていた教科書の問題は円滑に解決されることになった。

 正淑は、新しい世代を幼いときから組織生活とさまざまな課外活動を通じて革命的に教育する問題に大きな関心を払った。

 1946年6月のある日、正淑は平壌新陽小学校での少年団入団式に参加した。正淑を迎えた教職員と児童は大いに喜び、晴れ姿で集まった父兄で式場は盛況を呈した。

 校長の報告につづいて少年団団長が誓約文を朗読し、入団する児童に少年団バッジを授与する儀式がおこなわれた。

 校長は、正淑に祝辞を述べてほしいと要請した。予想外の申し入れであった。いつもだったら辞退するはずの正淑だったが、新しい世代のためを思って演壇に立った。まず、新しく入団した少年団員を熱烈に祝い、こう述ベた。

 「わたしは金日成将軍の懐に抱かれて少年団に新しく入団するみなさんを見ると、遊撃根拠地の児童団員を思い出します。金日成将軍は荒れ狂う吹雪をついて日本帝国主義者とたたかう困難な状況のなかでも、革命の将来を見通して少年の真の組織である児童団を結成しました」

 つづいて、児童団員が厳しい試練に堪えてひるむことなくたたかったことを話し、こうつづけた。

 「強盗日本帝国主義者を撃滅する血みどろのたたかいの日々、金日成将軍が児童団員に持たせたその赤旗は、こんにち朝鮮少年団に引き継がれ、その隊伍は数十万に成長しました」

 正淑は最後に、少年団員は革命の節操をまげずにあくまでたたかった児童団員のように、将軍に忠実な新しい朝鮮の担い手に育たなければならないと強調した。

 入団式が終わった後、少年団の指導メンバーと席をともにした正淑は、まず少年団の誓約文に目を通した。そして、少年団の誓約は少年たちが最初の組織生活を始めながら誓う決意なのだから、なによりも将軍への忠誠を誓うことが大切だと説いた。少年団細則を見ては、現在の4つのスローガンの代わりに、「金日成将軍の旗のもとに団結しよう!」という一つのスローガンにしてはどうだろうかと意見を述べた。

 この意見にもとづいて、民青中央委員会では新しい誓約文とスローガンを制定した。

 このように、少年団活動の政治的・思想的主軸をうち立てた正淑は、その後「模範少年団創造運動」を発起し、たびたび少年団員に会って抗日武装闘争期に勇敢にたたかった児童団員について話して聞かせ、その不屈の闘争精神と革命的気概を見習うよう導いた。

 正淑は生徒のマスゲームを広く奨励して、新しい世代の組織性と集団主義精神を培った。

 1947年4月、平壌市南山町にある民青体育館の開館をひかえて、民青では「特別体育の夕べ」を準備していた。

 このとき平壌第4女子中学校では、マスゲームを準備しようという意見が体育教員から提起された。しかし、マスゲームの経験も技術もないのだからそれは不可能ではないかという意見が出て、いくつかの簡単な体育種目を準備しようということに、まとまりかけていた。

 この話を聞いた正淑は、体育教員がよい意見を出した、マスゲームは体力の鍛練に有益であるだけでなく、生徒の組織性と集団主義精神を培ううえでもよい運動だと述べた。そして、抗日武装闘争の時期に遊撃根拠地内の児童団学校で運動会を催したとき、規模は小さいながらもそういった体操を盛んにおこない、その過程で出場する児童団員と観客が大いに教育されたことを話し、教職員と生徒が力を合わせ、マスゲームに教育的内容を盛り込んで立派にやってみるよう鼓舞した。

 この言葉を伝え聞いた体育教員は、マスゲームの創作構想がはっきり浮かんでくると喜びを隠しきれなかった。

 4月下旬のある日、正淑は将軍とともに「特別体育の夕べ」に参加した。

 多彩な競技があった後、最終プロとしてマスゲームがおこなわれた。まず、さっぱりした白いユニホームの一団が民主学院で思う存分学び、元気に育つ姿を見せる迫力のある徒手体操が演じられた。ついで、両手に赤い花を持った体操チームが登場し、さまざまな隊形をつくりながら、金日成将軍にささげる栄光と感謝の念を体操にのせて披露した。つづいて18名の生徒が隊列の前に走り出ながら、懐から文字入りの布を取り出して「新しい民主朝鮮の担い手にしっかり準備しよう!」というスローガンを組み立てて見せた。その瞬間、退場していた徒手体操チームが扇の形に広がった体操チームの間をぬうように走ってきて「金日成将軍万歳!」を声高く唱えた。

 場面が変わるたびに、将軍は拍手を送り、満面に笑みをたたえるのだった。

 正淑はたいそう喜んだ。元気に育つ生徒たちの姿から、将軍を仰いで進む朝鮮の未来を確信し、大きな幸福感にひたるのであった。

 1949年6月5日に少年団創立3周年を記念しておこなわれた4万余名の少年団員のパレードと連合団体集会に参加した正淑は、帰りの道すがら、16年前の王隅溝北洞での少年先鋒隊員と児童団員のメーデー祝賀行進を感慨深く回想し、車窓に流れる少年団員を見ながらこう言うのだった。

 「朝鮮の未来を担っていく子どもたちがたくましく育つ姿を見ると、それにまさる喜びはありません」

 新しい世代にたいする正淑の関心は、学齢前の子どもたちにも向けられた。

 正淑の努力により、1947年7月には、全国的に普及させるモデルケースとして設けられた託児所、幼稚園が、保育・教育事業を開始した。

 正淑は、1946年5月に北朝鮮民主女性同盟第1回代表者会議に参加した女性活動家と席をともにし、託児所と幼稚園を各地に設けるべきだとする将軍の教えを実行する方途を模索してきた。

 翌年の1月10日、託児所に適した建物が見つかったという話を聞いた正淑は、すぐ現地に出かけた。中区巡営里に位置する2階建てのレンガづくりの屋舎を訪れた正淑は、修築すれば託児所に利用できそうだと言って、1階と2階の各部屋を見て回りながら、なにかと手帳に書き入れたりした。この屋舎は、そのころまで音楽学校の校舎として利用されていたものであったが、内部は荒れ放題だった。同行者の一人が、この屋舎を託児所にするとなるとかなり手がかかりそうだと難色を示した。

 正淑は、条件が整うまで待とうとせず、我々の力で託児所を整備しよう、自分もできる限りの助力をするから思いきってやってみるようにと励ました。

 その晩、正淑は机の上に大きな紙を広げ、建物を見て回りながらメモした手帳をもとに、さまざまな色鉛筆で描いたり消したりしながら夜更けまで図案の作成に没頭した。それは、2階建ての建物に配置する寝室や食堂、授乳室、遊戯室、医務室、更衣室、浴場、炊事場、倉庫、事務室、それに各部屋にセットする設備まで具体的に記した託児所の設計図案だった。

 1月12日、正淑はその図案をもって再び現地に足を運び、部屋の配置と整え方について助言を与えた。そして、託児所の要員を早急に抜擢して配置し、医者が足りないことを考慮して医務室には看護婦をおき、病院に託児所担当の医師を定めて常時、検診と治療に当たらせるようはからった。

 託児所の整備がほとんど終わりかけていた1947年5月のある日、まだ不備な点はないかを確かめた正淑は、戦友から贈られた布地で数組の布団をつくり、ミシンや炊事道具、蓄音機まで取り寄せて寄贈した。

 また、子持ち女性の出退勤の便宜をはかって託児所の日課を定め、字の読めない子どもたちのために自分の戸棚がすぐわかるよう扉に飛行機や自動車、戦車、リンゴ、トマトなどいろいろな絵を張りつけるようにした。

 託児所の運営が始まった数日後、託児所の名を付けてほしいという要請を受けた正淑は、女性の国際的祝日である3.8デーにちなんで「3.8託児所」と命名してはどうかと言った。

 朝鮮における人民的な幼児保育・教育の歴史は、このように正淑の努力によって開設された3.8託児所をモデルにして始まったのである。こんにち、朝鮮人民はその日の「3.8託児所」を「金正淑託児所」と呼んでいる。

 1947年9月のある日、3.8託児所を訪れた金日成将軍は、託児所の整備に努めた関係者の労をねぎらい、託児所の日課が適切に定められていると話し、戸棚に張られた絵を見ては、子どもの知的水準を考慮したよい着想だ、こうすれば、子どもの情緒を培う面でも有益なはずだと満足の意を表した。

 託児所のある部屋で3歳の子どもたちが遊びたわむれる様子を見ていた将軍は、子どもらが倒れたり遣い回って膝を痛めるようなことがあってはいけないと、随行の幹部に党中央委員会の庁舎に敷かれているカーペットをこの部屋に敷いてやるよう指示した。

 正淑は、幼稚園の運営にも深い関心を払った。

 1947年に、小学校の1年制の幼稚園班をなくし、3年制の幼稚園を設けるという国家の措置が講じられて以降、国家運営の幼稚園が数多く設立されていった。

 1949年1月25日、ある幼稚園に出かけた正淑は、赤にも青にもすぐ染まりやすい白紙のように無垢で、周囲の環境に敏感な子どもたちの特性に合った正しい教育をほどこすよう指摘した。そして、教育事業は、祖国と民族のあすの運命にかかわるきわめて重要な事業であるから、祖国の将来はわたしたちが子どもをいかに教育するかによって決定されると強調した。

 同年3月、再びこの幼稚園を訪れた正淑は、授業を参観した後、幼稚園の子どもたち、とくに、上級班の子どもたちは、じきに就学することになるので、学校のように授業時間に合わせて課目別の知識を与え、唱歌や遊戯の時間には情操教育を通じて階級敵を憎悪する精神を培うことをゆるがせにしてはならないと強調した。

 このように、正淑はこの幼稚園を全国のモデルにつくりあげ、同年6月下旬、現地でこの成果を確認し、その経験を全国に普及させる措置を講じた。

 翌年、平壌で全国幼稚園教養員の経験交流会が関かれた。惜しくも、そのとき正淑はすでに他界していた。参会者は、正淑を失った大きな悲しみのなかで、正淑が生前にあれほど心血を注いだ崇高な志を体して、新しい世代をさらに立派に育てていく誓いをかためた。

 正淑は、民族幹部の養成が新社会建設においてもっとも重要な意義をもつ問題であり、祖国の限りない繁栄を保障する重要な事業であるとみなし、これを優先させる将軍の気高い志を実現すべく心を砕いた。

 当時、総合大学の創設は、民族幹部育成の原種場をつくるという重要な事業であった。

 将軍は1946年7月、朝鮮で初の人民の大学である総合大学を創設するという北朝鮮臨時人民委員会の決定を公布し、その準備を推進した。

 総合大学創立準備委員会では、この大学に将軍の尊名を冠することにしてその準備を進めていた。

 そうしたある日、正淑はいっとき「ソウル中央」を唱道していた連中が、総合大学に将軍の尊名を冠する問題についてあれこれと論難しているという話を準備委員会の幹部から聞いた。

 正淑は、その連中は最初から総合大学の創設は「時期尚早」だと一言って反対したではないか、だから彼らの策謀に驚くことはない、総合大学に将軍の尊名を冠することは人民の一致した願いであり、あまりにも当然のことだと強調し、こう述べた。

 「総合大学の創立を発起したのも将軍であり、また将軍の精力的な指導によってその創立が間近に迫っているではありませんか。我々は一日も早く金日成総合大学を創立して、その名を世界にとどろかせましょう。金日成総合大学を世界トップクラスの大学にしましょう」

 総合大学の創立準備はいっそう活発に推進された。

 正淑は、総合大学で労働者、農民の息子、娘や革命家の遺児を民族幹部に育てる方法を模索し、彼らに予備教育を与えて大学に進学させてはどうだろうかと将軍に提言した。

 また、その後、総合大学の一部の学部を母体にして理科系の大学を創立するという将軍の構想に従い、新しい大学の創設にも大いに助力した。こうして、一つの大学もなかった朝鮮に多くの大学が生まれ、数多くの民族幹部を養成する新しい歴史を開くうえで、正淑は不滅の貢献をした。


  建軍史に残した功績

 金日成将軍は、朝鮮が完全な自主独立国家になるためには、国と民族を防衛し、革命の獲得物を守りぬくことのできる強力な民族軍隊をもたねばならず、とくにアメリカ帝国主義が国土の半分を占領して.全朝鮮を植民地化しようと狂奔している状況のもとでは、強力な民族軍隊の創建がさし迫った課題であるとし、朝鮮人民革命軍を早急に正規の革命武力に発展させる建軍路線を提示した。

 革命に身を投じた当初から、銃をもってのみ国の解放をなし遂げ、党と領袖、祖国と革命を守りとおすことができるという革命の真理を悟った金正淑は、将軍の建軍路線の貫徹に惜しみなき情熱を注いだ。

 正淑は、正規の革命武力の根幹をなす軍事・政治幹部の養成に第一義的な関心を払い、30数回にわたって平壌学院を訪問し、この学院が、軍事・政治幹部養成基地としての使命と任務をまっとうするよう尽力した。

 1946年2月23日、将軍に随行して平壌学院の開院式に参加した正淑は、学院の幹部に、この学院でのすべての教育はあくまで将軍の革命思想を指針にしておこなうべきであると説いた。

 学院内の廊下にかかっている外国人名将の肖像に目をとめた正淑は、朝鮮にも愛国的名将が多いというのに、なぜ外国人の写真ばかりかけておくのか、これからは朝鮮の愛国的名将の写真をかけよう、祖国愛はなによりも自国のことをよく知ってこそ湧き起こるものだと指摘した。そして、学院でつくったさまざまな直観教具を見て回りながら、学生の大半が国文をやっと読める程度という実情を考慮し、実物教育、直観教育を広く導入して学習に役立てるよう強調した。また、軍事教育はどの国の方式であれ機械的に模倣してはならず、抗日武装闘争の時期に我々が実践したとおり朝鮮式におこなうべきだとした。

 平壌学院では、その性格と使命に合わせて教育内容をすべて将軍の思想にもとづき、朝鮮のものをより効果的に教えられるように構成し、教育方法も改善して学生の革命的な学習気風を確立していった。

 正淑はなによりもまず、平壌学院をはじめ、各軍事・政治幹部養成機関の学生を将軍への限りない忠実性で教育するよう力を注いだ。『金日成将軍の歌』がつくられたときには、平壌学院の院長を務めていた金策にはからって、その歌を平壌学院の学生に大合唱させた。

 1946年に入り、アメリカ帝国主義侵略者は1月から6月までの期間だけでも、8個連隊の南朝鮮「国防警備隊」と「海岸警備隊」を編成して、その統帥権を掌握し、南朝鮮を恒久的な植民地にしようとする野望を露骨化していた。こうした情勢は、朝鮮人民革命軍を早急に近代的な正規の革命武力に発展させることを求めていた。

 将軍は、同年7月に中央保安幹部学校を設立して軍事指揮官を専門に養成し、平壌学院では、軍隊の政治・文化活動家を養成するなど、軍事教育を新たに発展させる措置を講じた。

 正淑は、中央保安幹部学校にたびたび出向き、将軍の軍事思想と朝鮮式の戦法、戦術を学生に体得させるため鋭意努力した。戦術訓練場にもたびたび赴き、そのたびに教員と学生に、将軍の攻撃戦法や東声西撃の戦術など朝鮮式の霊妙な戦法と戦術を正しく修得させることに努め、将軍の砲兵建設方針を貫徹するよう導いた。

 正淑はまた、軍隊の政治幹部養成に大きな意義を付与した。1947年3月末と5月初旬に平壌学院を訪れた正淑は、同学院の教育でもっとも重要なのは思想教育であり、思想教育を正しくおこなってこそ、すべての学生を将軍に忠実な政治幹部に育てることができると話した。また、政治幹部を養成するからといって軍事課目の教育をおろそかにする偏向をとらえ、政治・文化活動家が軍事にうとくては軍人に軍事課題を正しく遂行させることはできず、軍事指揮官の活動も政治的に後押しすることはできないと指摘した。

 平壌学院の第3回卒業式がおこなわれた1947年10月5日、正淑は再び学院を訪れた。

 正淑は、革命武力建設のため任地に赴く卒業生を熱烈に祝い、党の中核であり人民軍の政治幹部であるみなさんに将軍は大きな信頼を寄せている、部隊に行つてはまず、すべての軍人を将軍の革命思想で武装させ、将軍のまわりにかたく結束させ、彼らが朝鮮革命に限りなく忠実であるように導くべきだと強調した。

 正淑は、正規武力の軍種指揮官の養成にも力を注いだ。

 軍種、兵種、専門兵の指揮官を養成することは、正規軍建設における必須の要求であった。しかし、解放直後の新たな情勢と諸条件からして、こうした幹部養成機関を直ちにすべて設けるのは無理だった。

 1946年3月17日、将軍は、平壌学院に航空班を新設する措置を講じた。

 同年6月30日、平壌学院を訪れた正淑は、学院の幹部に、新しい朝鮮の航空隊創設の問題に関する将軍の意図を伝え、飛行場の建設を学院の力で速やかになし遂げるよう強調した。そして、建設現場へ行つては、学生の仕事を手伝いながら、飛行場の建設を早く終えるよう励ました。

 学院では、集団的革新を起こして7月末までに必要な工事を終えて飛行訓練を開始し、8月11日に将軍と正淑の臨席を仰いで示威飛行をおこなった。

 翌年の11月、水上保安幹部学校の校長に赴任する某幹部を私邸に迎えた正淑は、三面が海に囲まれている朝鮮は、海上を防御する強力な海軍を持つべきであり、海軍建設でもっとも早い道は海軍指揮官を自力で育てることだ、海、戦の指揮能力を備え、近代的な軍艦を管理できる海軍指揮官を早急に養成してもらいたいと強調した。そして、当該道の責任幹部にたいし、大衆に働きかけて水上保安幹部学校の建設を積極的に援助するよう念を押した

 正規軍の根幹育成に向けての正淑の努力により、朝鮮の革命武力は朝鮮人民軍に発展していく当初から、党の軍隊となり、朝鮮革命偉業の守護者としての本分をまっとうする政治的・軍事的基礎をうちかためることができた。

 この時期、正淑は、正規軍の建設に必要な給養活動を活発化させるためにも多忙な日々を送った。

 さしあたり解決すべきことは、軍服の問題であった。まだ軍服が定められていなかったため、兵士も指揮官も入隊当時のさまざまな服を着用したままで、なかには、日本軍から奪った軍服を着ている軍人もいた。

 将軍は、我々の軍服は、抗日武装闘争時期の伝統を生かして、革命の軍隊、人民の軍隊としての性格がよくあらわれ、民族的特性と生活感情に合い、戦闘行為にも至便な朝鮮式の軍服でなくてはならないという軍服制定の原則を示した。

 正淑は、軍需被服工場にしばしば出向き、軍服、革帯、帽子、肩章、背のう、弾帯、弾倉袋、水筒袋、工兵シャベル袋など、被服や装具類の試作品の生産を促した。

 1947年2月25日に軍服の試作品ができあがった。正淑は、これをまず警護小隊員に着させ、欠点を改めさせてから将軍に見てもらった。警護隊員が身に着けた軍服を見た将軍は、兵士服の上着は開襟にして、あい色の胸当てを付け、袖口とズボンの裾には縫い足しの布をあててボタンをつけ、帽子の縁を低くして重ね折りにするよう細やかに教えた。

 正淑は、その言葉どおりに軍服が仕上がるよう気を配った。

 この日、正淑は女性兵士の軍服を着用させたモデルも将軍に見てもらい、スカートが朝鮮女性の体格に不釣り合いで活動的でないように見える、正規軍の女性軍服のスカートは、抗日遊撃隊の女性隊員が着用していたものを参考にして、裾の部分を広げた折りひだのスカートにするのがいいのではないかと助言した。

 将軍は、それに賛成した。しかし、きょう見た背のうの試作品は感心できない、軍事行動に至便で実用的なものにつくり直すようにと言った。

 翌朝、正淑は徹夜してつくり直した背のうの見本を将軍に見せながら、遊撃隊で使っていたものを模倣したのだが、どうだろうかとうかがった。そして、背のうの大きさは、軍人が携帯する食糧や弾薬、非常用品が入る程度のものにし、毛布などをくくりつける紐をつけ、常用具を入れる袋を外側につけ足したと説明した。また遊撃隊では、背のうの担い帯を綿布を縦幅にそのまま切ってつくったが、正規軍の風格が損われそうなので、布地を二重に広く刺し縫いにしたとつけ加えた。

 説明を聞きながら背のうを細やかに見た将軍は、使用に便利で格好も悪くない、工場でもつくりやすいだろう、担い帯も刺し縫いにしたので正規軍の風格に遜色はなく、布地もかなり節約できると満足の意を表した。

 1947年3月17日、将軍はこの試作品を朝鮮人民軍の軍服に決め、4月末までにすべての軍人に着用させることができるよう、夏季の軍服を生産する指示を与えた。

 正淑は、毎日のように軍需被服工場や関連工場に出かけ、流れ作業を導入して生産を増やし、質も高めるようはからった。こうして、同年5月からすべての軍人が新しい軍服を着用し、正規の革命武力としての風格を備えることができるようになった。

 1947年10月末のある日、将軍は、中央主権機関創立2周年を迎える翌年の2月8日に朝鮮人民革命軍を近代的正規軍に発展させて朝鮮人民軍を組織することを内外に宣言し、その日に朝鮮人民軍の閲兵式を挙行する計画を示した。

 その閲兵式のために、1200名余の将校と6000名余の兵士の軍服を追加生産しなければならなかった。ところが、期間は3カ月しか残っていないうえに、生産能力は限られていた。一部の給養担当者からは、外国に注文しようという意見まで提起された。

 正淑は、幹部と労働者たちに、閲兵式に参加する軍人に外国でこしらえた軍服を着せようとしてはならないという将軍の訓戒を伝え、我々が山中で抗日戦をしていたときも、春と秋に裁縫隊員は夜を明かして軍服を仕立て、隊員に着替えさせた、当時は、戦闘がつづくなかで自力で布地や綿を求め、手回しミシンや手針で軍服をつくり、くけ針でミシンの針を作って使いながらも、将軍が定めた期日をたがえたことはなかったと彼らを奮起させた。軍服の生産にたずさわった者たちは、朝鮮人民革命軍の裁縫隊員のそういう精神と気概を発揮して生産に励み、期限内に閲兵式用の軍服を全部整えた。

 軍旗の製作も担当した正淑は、図案の作成から製作にいたる全過程に心を配り、将校の家族たちとともにみずから刺しゅうをしたりミシンを踏んだりした。こんにちの朝鮮人民軍の軍旗には、正淑のその日々の労苦がにじんでいる。

 正淑は、閲兵式当日の将軍の服装にも誠意を尽くした。

 軍服と外套、帽子、長靴まで、すべてが正淑の手によって整えられた。こんにちでも、写真や記録映画で見ることのできる閲兵式壇上での将軍の服装にはそうした経緯があったのである。

 1948年2月8日、平壌では朝鮮人民が願ってやまなかった正規武力の誕生を宣する閲兵式がおこなわれた。

 正淑も式場に列席した。歩武堂々と行進する閲兵隊伍に拍手を送り、壇上の将軍の英姿を仰ぐ正淑の目はうるんでいた。この日をどんなに待ち望んできたことか。

 正淑は、傍の抗日革命闘士たちにこう言うのだった。

 「世界のどの総帥も、金日成将軍のようにあれほど困難な状況のもとで大きな犠牲を払って軍隊を創建し、それを強化し発展させたためしはありません。そういう意味でも、人民軍はきょうもあすも永遠に偉大な金日成将軍の軍隊でなければならないのです」

 抗日革命闘士たちの顔も涙に濡れていた。この日のために尽くしてきた将軍の労苦とともに、その建軍偉業を助けて正淑が尽くした労苦と功績を思い、胸を熱くするのであった。

 閲兵式がすんだ後も、正淑は、人民軍の急速な強化、発展のために時間と努力を惜しまなかった。

 将軍は、人民軍の隊伍をたえず拡大し、整然とした組織・指揮系統を確立し、各種の兵種を新たに編成した。将軍は、人民軍内に強力かつ近代的な機甲部隊を建設する構想から、1948年8月初旬、初の戦車部隊を組織する任務を柳京守に与えた。

 正淑は、みずから仕立てた軍服を柳京守に着せてやり、「この軍服には一日も早く強力な戦車部隊を編成してほしいという革命同志たちの願いがこめられています」と言い、早急に戦車部隊を編成して無敵の鉄甲部隊に強化していくよう頼んだ。

 その後、正淑は足しげく部隊に出向いて戦車部隊の編制を助けた。戦車兵の学習と訓練に必要な筆記道具を配ってやりながら彼らを鼓舞し、また、万景台にいる将軍の祖父が畑で作った葉タバコを分けてやりながら、人民の期待にこたえて訓練に励むよう強調した。

 訓練がつづくある日、将軍に随行して部隊を訪れた正淑は、同行した外国の軍事教官から、戦車を自分で操縦できるようになるには少なくとも1年はかかるという話を聞いた。正淑は、部隊の指揮官たちに「我々は外国のようにそんなに長い期間、戦車の操縦法を習っているわけにはいきません。軍人のレベルに合わせて訓練を組み、正しく指導すれば短期間に操縦法を習得することができます。軍人たちは、数カ月の間に操縦法をマスターしようとするはずです」と断言した。

 部隊では、朝鮮式の方法で訓練に拍車をかけ、3カ月で操縦法を身につけて閲兵式に参加するまでになった。地軸を揺るがしながら進む戦車の閲兵隊伍を見守っていた正淑は、我々は山中で戦車を持たずに戦ったが、解放されたいまは多くの戦車がなくてはならない、アメリカ軍が南朝鮮を占領し共和国北半部まで攻め込もうとしているのに、以前のように小銃だけでは戦えない、我々は戦車のような機甲部隊を増強して人民軍をさらに強化すべきだと力説した。

 1949年6月のある日、航空部隊を訪れた正淑は、指揮部の図書室に勤めている女性が是非、飛行士になりたいと言っているという話を聞き、「……立派なことだと思います。将軍のお言葉どおり飛行士に育てるのがよいでしょう。朝鮮の女性は、強靱で愛国心が強いので、飛行機を十分乗りこなすことができます」と言い、かつて、朝鮮人民革命軍の女性隊員が男性にも難しい落下傘の降下訓練を見事にやってのけたことを述懐した。

 祖国解放戦争(朝鮮戦争)の時期、英雄的偉勲を立てた太善姫は、こうして、正淑の信任を得て朝鮮で初の女性飛行士となったのである。

 1949年に入り、内閣特殊産業指導局の管下に数カ所の被服・装具類工場が所属するようになると、正淑は、それらの工場の生産増大のために大きな力を注いだ。

 同年3月6日、正淑は某被服工場に出かけて生産工程を見て回りながら実態を調べた後、労働者を前にして講演をおこなった。アメリカ帝国主義者と南朝鮮かいらい一味の新たな戦争挑発策動が露骨化し、38度線一帯では一日として銃声が鳴りやむことがなく、いつ戦争が起きるかわからない情勢がかもされているとし、抗日武装闘争時期の裁縫隊員たちの闘争について語った。そして、すべての幹部と労働者が、課された任務の重要性を深く自覚し、被服や装具類の生産のために奮起するよう呼びかけた。

 これに励まされた労働者は、数カ月の間に軍服や装具類の生産計画を超過達成するという成果をあげた。

 正淑はまた、軍人への給養活動にも深い関心を払った。人民軍後方局直属の副業農場を何回となく訪れ、野菜づくりと養豚のモデルケースをつくり、それをすべての軍部隊の副業農場に普及させた。そして、パン工場を訪ねては、軍人の食生活を豊かにするため良質のパンを生産、供給するようにし、訓練や有事の際には、食事を簡易にできる乾パンを量産するようはからった。

 将軍の建軍偉業に資するため正淑がとくに関心を払ったのは、軍機関紙『朝鮮人民軍』を創刊し、編集の政治的・思想的水準を高めることであった。

 1948年5月初旬、正淑は創立されたばかりの朝鮮人民軍新聞社の新聞の雛形をあらためた。ところが、その編集形式は、外国の軍機関紙をそのまま模倣し、内容もその国の軍隊を紹介したものが多く、朝鮮の軍機関紙としての特色が生かされていなかった。それは、新聞社の幹部と記者、編集員の大多数が社会分野のライター出身で新聞編集の経験に欠けていたからであった。

 このような実態について報告を受けた将軍は、記者、編集員を政治的・軍事的分野に精通させるため、45日間にわたる講習をおこなう措置を講じた。

 講習が終わった直後の7月4日、新聞社を訪れた正淑は、人民軍新聞は、将軍の軍事思想と路線を解説、宣伝し、軍人をその遂行に奮起させるための新聞であるから、伝統を紹介するにしても抗日遊撃隊の伝統を紹介し、訓練の様子にしても人民軍軍人の訓練の様子を紹介し、新聞編集におけるバックボーンを確立しなければならないと指摘した。

 その翌日、人民軍新聞社のスタッフは、創刊号の発行に向けた将軍の指示を伝達された。

 創刊号発行の準備が進められていた7月7日、再び新聞社を訪ねた正淑は、一通り編集案に目をとおした後、タイトルの下に、先の朝鮮人民軍閲兵式での将軍の演説内容を1面に載せる社説の真ん中に将軍の肖像を入れ、掲載するのが望ましいと助言した。また、訓練で模範的な軍人を紹介する記事に写真をそえる問題、自主独立国家の堂々たる正規軍をもった人民の反響や、祖国防衛の前哨に立った息子や娘、兄や夫にあてた留守家族の手紙を載せる問題など、編集スタッフの思い及ばなかった問題にも助言を与えた。

 4面記事の編集案に目をとおした正淑は、今朝の通信にアメリカ軍が独島付近で操業していた南朝鮮の漁船を爆撃して沈没させ、漁夫たちを殺害した記事があったが、そういう記事を多く載せてアメリカ帝国主義にたいする軍人の憎悪心をかき立でなければならないと指摘した。

 やがて7月10日、人民軍新聞の創刊号が発行された。

 昼食どきにそれを私邸に持ち帰った将軍は、朝鮮人民軍の新聞が創刊されたと喜び、編集も上手にできていると評価した。

 正淑はすぐさま新聞社の主筆に電話をかけ、創刊号を発行した労をねぎらい、その編集がうまくできているという将軍の称賛の言葉を伝えた。

 将軍の建軍路線が立派に貫徹されるにともない、朝鮮人民軍は不敗の革命的武力、近代的強兵に成長し、日増しにその威容をとどろかしていった。

 正淑はその雄姿を目のあたりにするたびに、異国の広野で石を枕に野宿し、近代兵器で装備した日本帝国主義侵略軍と血戦を繰り広げたときから、遊撃隊員たちが夢にまで描いた願いが現実となったという感慨にひたり、この日を見ずに倒れた革命戦友への懐かしさで涙ぐむのであった。

 1948年10月14日、第1中央軍官学校第2回卒業式がおこなわれる日の早朝、正淑は私邸の庭で将軍に随行するため待機していた抗日闘士の孫宗俊に会った。彼は、きょうの卒業式には、将軍とともに是非とも臨席してほしいと正淑に要請した。

 正淑は、「ええ、きっと行きます。本当にうれしいことです。あなたも覚えているでしょう。白石灘密営での学習討論会で、将来、祖国を解放したら一日も早く正規軍を組織すべきだと、どんなに熱心に討論したことでしょう」と話した。

 この日、正淑は、将軍に随行して卒業式に列席し、実弾射撃を兼ねた学生たちの戦術訓練を観た。正淑は、ほんとうにうれしいことだ、昨日の労働者、農民が、国の主人となり、軍官学校に入って教育を受けるというのはなんと誇らしいことかと感激するのだった。

 そして、戦術訓練が終わると食堂に行き、炊事当番と一緒になって袖をまくりあげ、学生のために特別の料理をこしらえた。

 この日は、正淑の生涯において、もっともうれしい一日となった。

 後日、党中央委員会の責任幹部と席をともにした金正日総書記は、当時の母を回顧してこう語っている。

 「先日、姜健総合軍官学校の革命事績館を見て回ったとき、解放直後、主席が正規の革命武力建設のためにどれほど労苦を尽くしたかを示す写真がありましたが、わたしはそれを見て深い感動を覚えました。そのなかに、1948年10月14日の第1中央軍官学校第2回卒業式に主席と母とともにわたしも参加した写真がありました。写真で母は頭を下げていますが、それは泣いていたからです。そのとき、わたしがなぜ泣くのですかと聞くと、母は、こんなにたくましい将校の隊伍を見ると抗日武装闘争のときのことが思い出され、また先に逝った革命同志たちが思い出されるからだと言うのでした。……
 建軍史に残した母の功績は実に大なるものがあります」

 実に、軍建設において正淑の労苦が及ばなかった部門はなく、こんにち、朝鮮の空と陸、海を鉄壁のごとく守る無敵の隊伍と、全国土を一つの要塞に変えた全民武装化の第一歩に正淑の不滅の足跡が大きく残されている。


  まず祖国統一から

 金正日総書記は1981年9月22日の夜、席をともにした幹部たちに次のように述べている。

 「わたしの母のように祖国統一を願った人は多くないでしょう。いまは白頭山のときとは違って領土もあり、主権も樹立され、国の財力もあるのに、どうして服の一着も新調しようとしないのかと抗日闘士たちから問われると、国が統一されて全同胞が不自由なく暮らせるようになったら、わたしたちも絹の服を着てよい暮らしをしましょうとたしなめたものです。母は、いつもまず、祖国統一のことから考え、幸福はすべて後まわしにしたのです」

 金正淑にとって祖国の統一は最大の悲願であった。全民族が統一された祖国で暮らすその日のために、正淑は、解放直後から情熱を傾けた。

 国土の両断は「解放者」「援助者」の仮面をつけて南朝鮮に押し入ったアメリカ帝国主義者によって朝鮮人民に強要された不幸であり、悲劇であった。しかし解放直後、一部には、敵の欺瞞宣伝にたぶらかされて、アメリカ帝国主義にたいし幻想を抱く者がいた。

 ある日、一人の活動家が正淑に、宣伝活動中に当惑させられた1件について話した。彼が宣伝演説を終えたとき、インテリ風の女性が立ち上がって、南朝鮮に駐屯した米軍をどう見るべきか、米軍は「連合軍」の一員なのだから、彼らも「解放者」ではないかと質問した。その活動家は、これに明確な回答を与えることができなかったのである。

 正淑は彼にこう説明した。

 ……アメリカ帝国主義が第2次世界大戦のとき「連合軍」に加わったのは、「戦勝の利得」をより多く手にし、敗戦国と「同盟国」を支配し従属させて、世界制覇の野望を遂げるためであった。歴史的に朝鮮を侵略し、略奪したものが、朝鮮解放のために血を流すはずはない。事実、米軍は朝鮮が解放されて二十日も過ぎた後に銃1発撃たず、血1滴流さず南朝鮮に進駐した。そういう米軍が解放者と言えるのか。米軍は解放者ではなく南朝鮮を占領した侵略者だ。狼が羊になりえないようにアメリカ帝国主義の侵略的本性は変わらないということを肝に銘じ、警戒心を強めなければならない。

 正淑は、活動家に会ったり人民のなかに入ったりするたびに、祖国統一問題について話し、アメリカ帝国主義の分裂策動を暴露し、全民族の団結した力で自主的に祖国を統一しなければならないという信念を植えつけた。とくに、南朝鮮の革命家や各階層の人士を統一聖業に奮起させることに深い関心を払った。

 つとに革命闘争の過程で積んだ大衆工作経験と人の心を引きつける特有な品性によって、正淑は、南朝鮮の革命家と各階層の人士、さらには広範な南朝鮮人民の心に敬慕の対象として刻み込まれていた。

 1946年の初め、平壌に来て1カ月近く将軍の私邸に宿泊して正淑のもてなしを受け、その人柄を知ってソウルに帰った呂運亨は、家族や友人たちによくこう話していた。

 「……わたしはこれまで、朝鮮はもちろん外国でもひとかどの女傑や女性名士に多く会ってきた。しかし、百発百中の名射手として名をとどろかせた女将軍で、高い政治的見識を身につけた政治活動家でありながらも、あれほどしとやかで、優しく、素朴でおおらかな女性は見たことがない。金正淑女史のような方は、古今東西またといないだろう」

 呂運亨は、青年時代から国を取り戻すベく青雲の志を抱き、3.1運動のときには万歳を叫び、東方民族の自決権をめざす国際会議にも参加して植民地弱小民族の悲しみを吐露し、また「上海臨時政府」を訪ねたり共産主義運動家なる人物にも会い、アジアとヨーロッパ諸国を巡り歩き、我こそはという人物にも会ってきた当代きっての朝鮮の名士であった。いつか東京に呼ばれ、「男爵」の爵位を授与し、台湾総督に任命するという総理大臣にたいし、たとえ、男爵や総督よりもっと高い官位が与えられるとしても、それは独立した朝鮮で作男を務めるより劣るとして、断固拒絶した呂運亨であった。

 こういう人生行路を歩む過程で、世に名だたる政治家や英雄豪傑まで見下げる豪気な姿勢が身についた彼であったが、将軍の私邸での約1カ月間の生活を通じて正淑には完全に感服し、南朝鮮に帰ってからも正淑にたいする賛辞を惜しまなかった。

 彼が李花女子大に通っていた二人の娘をアメリカに留学させてやるという敵の懐柔をはねのけ、娘二人を平壌に送って将軍と正淑に任せたことは、まさにこの夫妻こそ民族の父母であり、統一の希望の星であるという信念と敬慕の念がいかに高いものであったかを物語っている。

 1948年に入って、祖国統一の前途は、さらに厳しい状況となった。ソ米共同委員会の活動を破綻させたアメリカは1947年11月、不法にも朝鮮問題を国連に持ち込み、投票機械を発動して南朝鮮に単独「政府」を樹立するという「決議」を採択させた。

 将軍は、新たな情勢に対処して南北のすべての愛国勢力が団結し、アメリカ帝国主義のかいらい単独「政府」陰謀を粉砕する方針を示し、ついで、南北朝鮮の政党、大衆団体代表者連席会議の招集を提議した。

 正淑は、この会議がアメリカ帝国主義の朝鮮永久分裂策動を粉砕し、統一を早める決定的な転機となるよう精力的に活動した。連席会議準備委員会が作成した南朝鮮代表の招請計画に女性代表が6、7名しか予定されていないことを知った正淑は、南朝鮮女性代表の数が少ないのではないか、南朝鮮女性に連席会議を招集した将軍の意図を明確に知ってもらい、人民が主人となった北朝鮮の現実を正しく認識させるためにも、女性代表を一人でも多く招請すべきだと指摘した。こうして、会議への参加を申し込んできた南朝鮮の女性代表全員が連席会議に参加することになった。

 平壌に到着した彼女たちの服装はまちまちで、38度線を越えてくるとき身なりが乱れたりした人もいることを知った正淑は、一夜のうちに20数名の代表の体と年齢に合ったチョゴリ・チマを仕立てさせ、全員が朝鮮民族固有の衣装で会議に参加できるようにした。

 南朝鮮の女性代表たちは、会議に参加して将軍の祖国統一方案に接した興奮と感激も覚めやらぬなか、4月27日には将軍と正淑の接見を受け、2日後再び正淑に会う機会を得た。

 正淑は、病人はいないか、不便を感じていることはないか、旅に出て10日余り経ったので家族が恋しいのではと細かく気遣った。そして、連席会議の精神を体してより多くの女性大衆を奮起させ、救国闘争を力強く展開し、さしあたり「5.10単独選挙」を粉砕する闘争に力を集中することなど、今後の活動で指針とすべき事柄に言及した。

 代表たちの帰る日が迫ったある日、南朝鮮の自主女性同盟の幹部から出発する前にもう一度正淑に会いたいという申し入れがあった。

 自主女性同盟は、民族主義の影響下にある小さな女性団体であった。政治的立場からすれば中道派に属するこの団体の代表たちは、平壌に来ても誰にも気を許さず、参観のときにも客観的で無表情な態度をとっていた。

 ところが、正淑に会った席で自主女性同盟の幹部は、ソウルに帰ったら自主女性同盟を南朝鮮民主女性同盟と合同する問題を提起するつもりだと言うのだった。これは思いもよらぬことであった。もともと、仏教徒の家庭で生まれ、若いころから民族主義の影響を多分に受けていたため共産党系の女性団体を快く思わず、李承晩、金性洙一味の反動的女性団体にも背を向けていた人物であった。

 そういう人物が突然、民主女性同盟との合同問題を持ち出してきたのである。事実、彼女らは、北朝鮮の現実を一度見に行こうという傍観者的な態度で平壌に来たのであった。しかし、見たり聞いたりすることすべてがあまりにも新しく、感嘆させられることばかりだった。北朝鮮で男女平等が法的に保障され、女性が自己の権利を十分行使しているのは、民族解放の課題が達成され主権問題が解決された結果であるということ、そのため南朝鮮民主女性同盟は、何よりもアメリカ帝国主義とその手先に反対し、祖国の統一独立をめざす闘争に女性を立ち上がらせているのだということを認識するようになり、この同盟との合同に踏み切る決心をかためたのであった。

 正淑は彼女らに、平壌に来て正しい認識をもつようになったのは非常に喜ばしいことだが、自主女性同盟が南朝鮮民主女性同盟と合同したいという意向には賛成しがたいと言った。

 北の女性幹部はもちろん、自主女性同盟の代表も、両女性団体の合同を正淑が歓迎するものとばかり思っていた。

 正淑は、現段階では両同盟を合同すべきではない、いま合同するなら、双方のかかげるスローガンが相異なる状況下で同盟員間の融合が難しくなり、また、自主女性同盟の構成から見て合同に賛成せず、別個の女性団体を新たに結成しようとする人が生じかねない、自主女性同盟には、主に民族主義的立場に立つ知識人、宗教人、商工人出身の女性が加わっている、南朝鮮にはそういう階層の女性が少なくないが、彼女らを目覚めさせ、反米救国闘争に立ち上がらせるためには、勤労女性が基本勢力をなしている南朝鮮民主女性同盟より自主女性同盟の方が有利なはずだ、自主女性同盟は、その組織を解体するのではなく、中間層の女性をより多く隊伍に結集させ、南朝鮮民主女性同盟と歩調を合わせて祖国統一のための闘争を繰り広げていくべきではなかろうかと説いた。これは、非凡な政治活動家の英知と豊富な革命活動経験にもとづいてのみくだせる科学的な判断であった。

 これに感動した自主女性同盟の幹部は、正淑の言葉を肝に銘じ、組織を反米・祖国統一をめざす愛国的な団体として強化し、南朝鮮民主女性同盟と強く連帯し、さしあたり「単独選挙、単独政府」に反対する闘争を展開することを誓った。

 その後、南朝鮮に戻った南朝鮮女性団体の代表たちは、「5.10単独選挙」を粉砕する全民族的な闘争で大きな役割を果たした。自主女性同盟は、アメリカ帝国主義者と李承晩かいらい一味が彼らの反動的婦人団体に引き入れようとする策動を断固排撃し、1949年6月に北朝鮮民戦と南朝鮮民戦の合同によって祖国統一民主主義戦線が結成されたとき、南朝鮮民主女性同盟とともにその一員となった。

 南北連席会議には、南朝鮮の極右翼政客も少なからず参加した。

 将軍は、そのなかでも金九がこの会議に参加していかなる態度をとるかは、共産主義者と南朝鮮の右翼民族主義者との統一戦線が結成されるか否かを決定づける試金石となるとみなし、彼との活動に格別な意義を付与した。

 少なからぬ人は、日本帝国主義支配当時には「上海臨時政府」の主席を務め、解放後には南朝鮮の極右翼政党である「韓国独立党」の党首として「反共」に生涯をかけてきた金九を連共に変身させることはほとんど不可能だと思っていた。

 しかし正淑は、金九に民族的良心があるかぎり、北朝鮮における人民的施策と世紀を画する変革、そして将軍の自主的な祖国統一方針を正確に理解するようになれば、彼も連共の道に進むであろうと信じた。

 正淑は、労働党の路線と政策を十分に理解しており、金九の信頼を得ていた安信好を彼にたいする工作に当たらせた。一時「上海臨時政府」の要職にあった安昌浩の妹にあたる安信好は、金九との親交が厚かった。

 将軍は、安昌浩の反日愛国の志を尊び、解放後は彼の家族に深い配慮をめぐらし、安信好を労働党の党員に育て、南浦市女性同盟委員長、女性同盟中央委員会副委員長の職に就かせていた。

 会議を間近にひかえたある日、将軍の私邸で金九が会議に参加するという話を将軍から聞いた彼女は目を丸くした。

 将軍が執務室に向かうと、彼女は正淑のところに行った。還暦を過ぎた年齢に似合わず興奮した面持ちの彼女を見た正淑は、何ごとかといぶかりながら席を勧めた。

 「あんまりびっくりさせられることを聞いたので……。いましがた将軍から金九が南北連席会議に参加するため平壌に来るという話を聞きました」

 「まあ、そんなことでびっくりなさったのですか。国の統一を願う人なら誰もが団結しようというのが将軍の思想ですのに、統一を願うなら、彼だからと来れないわけはないでしょう」

 しかし安信好は、どう考えても金九のような反共分子とは全民族的な統一問題を論ずることができないはずだ、国の統一にかかわる重大事を失敗させるような気がしてならないと言うのだった。

 正淑は彼女に、将軍の統一戦線政策について説明した。正淑の話に感服した安信好は、自分の考えが浅かったことを悔い、金九が来たら将軍の政治について知っているかぎり説明すると言った。

 数日後、安信好は、また正淑を訪ねてきた。いざ金九と会って話すとなると、何からどう話したらよいのか考えがまとまらないので訪ねて来たと言うのであった。

 正淑は、笑みを浮かべてこう諭した。

 「何もそんなに難しく考えることはないでしょう。安先生が北朝鮮で暮らしながら見聞きし、感じたことを少しも誇張せずありのままに話せばよいのです。おそらく金九は、共産主義者というのは自分のような民族主義者を頭から排斥するだろうと思っているはずです。そして、北朝鮮では地主の土地を没収して少数のものが分け合って所有したという南朝鮮の御用出版物の悪宣伝を真に受けているはずです。また、北朝鮮では宗教に反対しているので、寺もみんな取りつぶしてしまったというとんでもない話も真に受けているかもしれません。これが、みんな嘘だということを認識させることです。そして、将軍はどういう政治を施しており、祖国と民族のために昼夜を分かたずいかに奮闘しているかを見聞きしたとおり話せばよいではありませんか。
 安先生が、女性同盟の重要な職責について働いているということを話してもよいし、すべてをありのままに話せばよいのですから、絶対に難しく考える必要はありません」

 安信好は、ようやく自信と勇気を得て、金九を迎える心の準備を整えた。

 4月中旬、平壌に到着した金九は、その日に将軍の接見を受けた。

 将軍は金九を熱烈に歓迎し、連席会議に参加するため平壌に来たことを愛国的な壮挙だと称賛した。

 金九は、感きわまる思いだった。民族の明るい未来を思わせる若くりりしい姿、このうえなく謙虚で情感あふれる風格、力あふれる気性……。

 常に長身にトゥルマギ(外衣)をまとい、眼鏡越しに人をねめつけて威厳をふるっていた金九のその態度は、将軍の大海原のような度量と高潔な風貌を前にしてはみるみるうちに崩れさった。

 金九が将軍と会見した感激を抱いて宿所にもどったとき、安信好が訪ねてきた。二人の対面は感激的であった。互いにあいさつを交わして旧懐の情を分かち合ったのち、安信好は、北朝鮮の現実、とくに将軍の偉大さと人民的品性について自分が見て感じたとおり話し、将軍の温情のもとで営んでいる張り合いある生活についてもありのままに語った。

 その後、金九は万景台の将軍の生家を訪ね、祖父の金輔絃が80に近い高齢にいたっても農作にいそしみ、質素な生活をしている姿を目のあたりにし、万景台革命学院では将軍の懐ですこやかに育ちゆく昔日の独立軍司令梁世鳳の息子に会い、竜岳山を訪ねては、ひところ自分が身をひそめていた寺が以前のまま保存されているのを見た。また、黄海製鉄所を訪れては、日本人によって破壊された溶鉱炉を自力で復旧し、鉄湯をとるのに余念のない労働者の雄々しい姿を見ながら、勇ましく前進する北朝鮮人民の気概を肌で感じとった。すべてが安信好から聞いたとおりであった。

 平壌を発つ前に将軍に会った金九は、「わたしは将軍に従う決心をかためました。将軍は、世界史上類を見ない偉人であり、朝鮮の唯一無二の領袖です」と賛辞を惜しまなかった。

 南朝鮮にもどった金九は、金日成将軍の偉大さについて、またその卓越した政治路線と統一方針について広く宣伝し、将軍の路線を受けとめて連共統一のために一命を賭してたたかった。

 正淑は、祖国統一問題において、常に自主的立場を堅持し、祖国統一のための闘争を国際的な反帝・反ファッショ闘争と密接に結びつけるよう活動家に説いた。

 1949年1月、女性同盟中央委員会拡大会議では、国際民主婦人連盟第2回大会に参加した朝鮮代表団の活動状況を聴取し、それと関連する対策を講じるため女性同盟活動者会議を開くことにした。

 女性同盟中央委員会の幹部たちと席をともにした正淑は、国際民主婦人連盟第2回大会のもっとも重要な精神は、ファシズムと帝国主義に反対し、世界の平和と安全を守り、圧制者に踏みにじられている女性の権利をかちとり保護することであり、我々はこれをわが国の新しい社会の建設と祖国統一をめざす闘争に有利な局面を開く方向で受けとめなければならないと指摘し、こうつけ加えた。

 「ですから、今回の会議を北半部の女性活動家のみを集めて開くのではなく、南朝鮮の女性代表も多く参加させ、全国的な範囲の女性大会にするのがよいと思います」

 そして、会議の性格と討議される内容からみて、アピールを採択して発表することにしてはどうかと提言した。

 その後、女性同盟中央委員会の幹部たちは南朝鮮の各女性団体と合議し、全国的な会議を開いて全国の女性にアピールを発することにした。

 こうした対策案について報告を受けた将軍は、これに同意し、会議の名称を「全朝鮮女性活動者大会」とした。

 アピールの草案を通覧した正淑は、女性活動者大会の重要な目的は、南北朝鮮のすべての女性のあいだで反米・自主統一をめざす闘争の火の手をさらに、激しく燃え上がらせ、とくに南朝鮮の愛国的な女性の闘争を鼓舞激励することだとした。そして、アピールは、我々の経済建設問題を基本とするのではなく、反米・反かいらい闘争の問題、祖国統一問題を基本として南朝鮮女性にアピールする内容のものにすべきだと指摘した。

 その年の2月6日、平壌で開催された全朝鮮女性活動者大会で採択されたアピールは、通信、放送、出版物を通じて広く報道され、女性団体を通じて南北朝鮮のすべての女性のあいだに浸透し、彼女らを反米救国闘争へと奮い立たせた。

 南朝鮮の愛国的な女性は、アメリカ占領軍の即時撤退と李承晩かいらい「政府」の打倒を叫んで闘争に立ち上がり、南朝鮮各地で激しく展開された遊撃闘争に参加したり、それを支援する闘争を繰り広げた。

 正淑は、南朝鮮革命と祖国統一のためにたたかって平壌に来る革命家を温かく見守った。

 そのなかには、南朝鮮革命家の成始伯、済州島抗争闘士姜圭賛・高珍姫夫妻もいた。

 1948年8月のある日曜日、成始伯は万景台を訪れた。彼が将軍の生家へ行って祖父の金金輔鉉と祖母の李宝益にあいさつをし、将軍の父・金亨稷が手ずから植えたドロの木陰で休んでいると、正淑が出てきて「敵地での活動でさぞかし苦労が多かったことでしょう。ここにいる間、ゆっくり休息をとって健康を取り戻してください」とねぎらった。

 成始伯は正淑に、抗日武装闘争時期の豊富な地下工作経験を聞かせてほしいと言った。

 正淑は聞いてもらえるような話はないと固辞したが、重ねての要望を受けて話しはじめた。

 抗日武装闘争の時期、村人のなかに入って地下工作をおこなった経験によれば、敵地での活動で何よりも重要なのは人民大衆のなかに深く根をおろすことだ、大衆のなかに入らず、彼らの積極的な支持と声援を受けなくては地下活動を成功裏に遂行することはできないと前置きし、まず大衆のなかから中核を掌握して教育し、彼らを中心に地下革命組織をうちかため、そのまわりに広範な大衆をかたく結集する問題、地下組織を新たにつくったり拡大するときは必ず援護の手配を綿密にする問題、敵味方を判別し、ことごとに革命的警戒心を強める問題など、敵地工作で指針とすべきことを話してから、こうつけ加えた。

 「また、地下活動でもっとも重要なことは、困難に直面すればするほどあわてず、ひたすら将軍を信頼する革命的信念を抱き、沈着かつ果敢に行動することです」

 正淑の話を肝に銘じた成始伯はその後、南朝鮮にもどって地下組織を拡大し、果敢な闘争を繰り広げて敵の凶悪な反共和国策動を破綻させるうえで大きな功労を立てた。彼は逮捕されて壮烈な最期を遂げる瞬間まで、革命的節操を守り通した。

 姜圭賛・高珍姫夫妻は解放後、済州島に人民委員会を組織し、将軍の政治を南朝鮮全域に施すべく献身的にたたかい、アメリカ帝国主義の「単独選挙、単独政府」に反対して武装闘争を繰り広げ、1948年3月、4人の子女を済州島に残したまま将軍の懐に抱かれた革命家であった。

 将軍は、姜圭賛は党中央委員会、高珍姫は平壌市人民委員会の要職につかせ、南朝鮮人民に選挙されて最高人民会議の代議員になった彼らに会つては、済州島から選出された戦士の代議員夫婦だとほめたたえた。

 正淑は、たびたび高珍姫に会ってその活動と生活に気を配り、彼女が中央高級指導幹部学校に入学することになったときには、最高人民会議代議員の女子学生だという誇りをもって熱心に学ぶようにと励ました。

 そして、彼女と打ち解けて語り合う過程で、この夫婦が済州島に残してきた4人の子どものことで心配していることを知り、そのことを将軍に報告して子どもたちを連れてくる対策を講じるようはからった。やがて、彼ら一家が新しい家に入居することになると、家具一式や寝具、米、副食物まで整えて届け、数日後には、その家を訪ねて子どもたちを抱き上げ、肉親さながらの愛情を注いだ。

 正淑は、高珍姫に、やがて祖国が統一されたら将軍と一緒に漢拏山の白鹿潭に行きましょう、そのときには漢拏山の麓であなたが栗毛の馬にまたがって走る姿を見せてもらいますと冗談まじりに語り、彼ら夫婦に祖国統一への熱望を沸き立たせた。

 祖国解放戦争が起こると、姜圭賛・高珍姫夫妻は、故郷を解放するため最前線と敵背で勇敢にたたかい、偉大な祖国解放戦争の勝利と祖国統一偉業の推進に大きく寄与して壮烈な最期を遂げた。





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