『金正淑伝』
 
10 常に変わらぬ姿勢


  みずから護衛兵になって

 日本帝国主義の植民地支配から脱した朝鮮は、解放の感激と喜びに沸き返った。全国の村々と家庭では、徴兵や徴用から帰った人たち、異国や他郷をさすらい、もどってきた人たちが親族との再会に涙を流した。

 しかし、金正淑は、平壌に来てからもいささかも休息することなく、以前と同様に金日成将軍を補佐し、身辺の安全をはかって精力的な活動を繰り広げた。

 正淑は、故郷の会寧へ行き、親類や知人とも会ってみるよう勧められると、日本帝国主義者は駆逐されたが、いまは南朝鮮にアメリカ軍が居座っている、反動分子も蠢動しており、情勢は錯綜している、将軍は、こうした環境のなかで昼夜を分かたず活動している、こんなとき将軍の補佐をしないでどこへ行っていられると言うのか、国が安定するまでは、親類を訪ねるつもりはないと答えるのだった。

 実際、当時、反動分子の蠢動が激しくなっている情勢のもとで、将軍の身辺の安全をはかることは、とりわけ重要な問題であった。

 朝鮮の北半部で建国の基礎が築かれ、民主勢力が強化されていくと、階級の敵はアメリカ帝国主義者の差し金で盛んに白色テロをおこなった。平安南道党委員会委員長も敵のテロの犠牲になった。彼は解放前、正淑が平安南道地区に派遣した李周淵の指導で革命組織に加わり、将軍の思想に従って活動していた人物であった。

 反動勢力の蠢動がどれほどあくどくなっていたかは、将軍の参加のもとに開かれた3.1運動27周年平安南道慶祝大会のさなかに幹部壇上に手榴弾が投擲された事件が如実に語ってい。将軍の建国路線に呼応した康良U牧師の家庭へのテロ事件もその一例である。

 白色テロの主要目標は、将軍を先頭とする党と革命の首脳部であった。ところが当時、警護隊は敵の蠢動をそのつど粉砕できるほど十分に準備されていなかった。将軍は、抗日武装闘争で鍛えられた信頼すべき闘士たちをすべて、新しい国づくりの各要地に派遣していたのである。

 正淑が平壌に初めて足を踏み入れたとき、警護隊には生まれて初めて銃を手にとり軍服を着た青年が大半を占めていた。

 正淑の平壌到着を誰よりも喜んだのは金策だった。

 「金正淑同志が来たからもう安心できます」

 これが金策の最初のあいさつであった。金策は、将軍の身辺の安全をはかる点ではいささかの譲歩も許さず、いつどこでも万全を期する正淑のことをよく知っていたのである。

 彼から、自身の身辺や寝食については関心を向けない将軍について聞かされた正淑は、こう言った。

 「金策同志、心配しないでください。警護隊を強化する問題はわたしが努力してみます。わたしとしては山中で戦ったときもそうでしたが、いまも将軍を守ることより重要な任務はありません」

 正淑は毎朝、警護隊の指揮官と将軍の副官に会い、将軍の護衛で持ち上がる大小の問題についてこまごまと相談し、将軍の帰宅後は自身が警護隊員となって護衛の任務を果たした。

 1946年2月初めのある日、将軍が北朝鮮臨時人民委員会の樹立に関する報告文を徹夜で作成していたとき、巡察中の警護隊員は雪に打たれながら執務室の窓の下に立っている正淑の姿を見た。

 彼らが早く中へ入って休むようにと言うと、正淑は山中で戦っていたときからの習慣で、やめられないのだと言ってほほえんだ。正淑は、抗日武装闘争時代と変わりなく将軍の安全を守る休息なき巡察兵、交替なき歩哨であった。それは、正淑にとって義務である前に、長い抗日武装闘争時代に身についた習慣であり、生活の第一の要求であった。

 その年の2月中旬のことである。

 将軍は、自邸で夜遅くまで、宣伝部門の活動家に放送事業について意見を述べていた。正淑は、活動家たちに茶菓子をだし、傍らに立っていた。

 そんなとき近くで銃声が鳴り、電灯が消えた。室内は暗闇に包まれた。不意の状況にその場に居合わせた人たちは、どうしてよいかわからずとまどった。

 しかし将軍は、「驚くことはない。何匹かのネズミが騒いでいるようだが、少し休んで話をつづけよう」と言って立ち上がり、戸口のほうへ向かった。

 ところが、正淑が両手を広げて戸口の前に立ちはだかった。正淑の手には、拳銃が握られていた。

 「いけません。中にいてください」

 将軍は、「大丈夫だ。何事か行って確かめてみよう」と言って外へ出ようとした。

 しかし正淑は、それをさえぎり、「絶対にいけません。お出になってはいけません。これは警護隊の要求です」と強く言い張った。

 人々の前には、ついさっきまで茶菓子を勧めていた物静かな女性ではなく、拳銃を手にして厳しく暗闇の向こうを見据える白頭の女将軍、親衛兵が立っていた。このときの正淑は、文字どおり将軍を守る城壁であった。

 そのときの目撃者であった許貞琡は、後日、次のように語っている。

 「本当に忘れられない光景でした。この世のどんなに有能な画家でさえ、将軍をかばうこの日の金正淑女史の毅然とした姿をそのまま描くことはできないでしょう」

 その夜の銃声は、朝鮮革命の首脳部を攻撃するために侵入した曹晩植のテロ団体「希望団」と巡察中の保安署員の間に飛び交った銃声であった。

 このように正淑は、常に変わらぬ親衛戦士として将軍を断固として守る一方、警護隊員の教育と指導に精魂を傾けた。

 正淑は、警護隊員は、抗日革命闘士のように将軍の身辺護衛に心身をささげるべきだと彼らに教えた。

 正淑は、警護隊員は、誰よりも将軍の思想でしっかり武装すべきであり、政治的、思想的な覚悟が高くなければならないとし、彼らの政治学習に力を入れた。正淑は毎朝、党機関紙を読んで重要な記事をチェックし、警護隊指揮官に会読するよう指示した。そして、党機関紙には、将軍が各時期ごとにうちだす路線と方針、それに、もろもろの国内外の情勢が掲載されるが、それを読まなければ将軍の思想と意図を知ることができず、結局、革命戦士としての役割を正しく果たすことはできないと説いた。こうして警護隊では、党機関紙をはじめ、出版物を通じた隊内教育が整然とした体系をもって活発におこなわれるようになった。

 正淑は、党政策を知らなければ、いくら党に忠実であろうとしても、党の方針に反する行動をとることになると強調した。

 正淑は、党生活も警護隊内の細胞に属しておこない、隊員たちにすぐれた手本を示した。

 北朝鮮労働党創立大会直後の1946年9月、新党員証の授与に関する各党員との対話が全党的におこなわれた。そのとき、警護隊党細胞は、正淑がいる細胞でことさらに対話をおこなわなくてもいいのではと考え、対話をしなかった。上部の党組織も同じ意見であった。

 ところが正淑は、わが党には特別な党員はありえない、わたしたちは将軍のそば近くで活動している党員であるから、他の党員より党生活にいっそう励まなければならない、わたしたちが山中で戦っていたときも、司令部警護隊員は党生活で常に手本を示してきたと彼らをいましめた。

 翌日、正淑は、細胞の他の党員と一緒に上部の党組織を訪ね、対話に誠実に参加した。

 正淑の指導のもとで立派な護衛戦士に鍛えられていく警護隊員の胸には、熱く清らかな忠誠心をもって将軍を守る正淑の姿勢が、忠臣の最高の手本、行動の鑑として深く刻まれた。

 1962年4月初めのある日、金正日総書記は、金日成主席がしばしば行き来する道端の花壇を手入れしている護衛たちの手助けをしながら、次のように回想した。

 「わたしの母は解放後のある日、金日成同志の執務室の窓の下にヒャクリコウを数株植えました。そのとき人々は、この木は移植が難しいと言いましたが、母は心をこめて手入れをし、とうとうその木に花を咲かせました。金日成同志は深夜、執務で疲労を感じると、窓を開けてその花の香りをかいだものです」

 その花樹を移植するとき手助けをした警護隊員たちは、正淑がとても大事に丹精してきた木、それも移植の困難な木をなぜ移そうとするのか、庭園のどこからでもよく見え、将軍の執務室からはとりわけよく見える位置にある木ではないかと気にかけた。正淑は額の汗を拭きながら、将軍の部屋からは花壇がちょっと遠いように思われる、それに風が建物の横を吹き抜けるので将軍の部屋に香りが入らないと言うのだった。

 雨の降る日は必ず傘を持って正門の前で待ち、車を降りる将軍に傘をさしかける正淑の姿も、警護隊員の心に焼きついた。

 正淑は将軍が在宅中は、室内外を静粛にし、巡察兵の靴音にも気をつかつて静かに歩くよう注意を与え、薪は庭園の片隅で割り、小鳥が騒々しくさえずると、その群れを追い払った。将軍が私邸を出る前や帰宅する前にはちり一つない道をさらに掃き清め、将軍が遠出するときは気象観測所に天気を問い合わせ、道路の状態まで確かめ、護衛メンバーに注意事項を話して聞かせ、また、どのような状況に遭遇しても将軍の身辺の安全に差し障りがないようことこまかに旅装を整えた。

 正淑の一挙手一投足は警護隊員にとって、将軍護衛の姿勢と立場、将軍にたいする清い忠誠心の鑑であった。

 正淑は、警護隊員の射撃術の向上にとくに力を入れた。警護隊員の銃弾が1発で目標に命中しなければ、その銃は石ころや棒切れにも劣るとし、彼らがみな百発百中の名射手になるよう鍛えていった。

 1946年秋のある日、警護隊の射撃訓練を見た正淑は、ある小隊の射撃成績が思わしくないことを知った。その原因を確かめてみたところ、小隊長の指導に欠点があった。自分が何日間か正しい指導を与えれば隊員の射撃術を間違いなく向上させることができると思われた。しかし正淑は、指揮官の射撃術を高めれば新入隊員の射撃訓練が正しくおこなえると考えた。翌日、小隊長と一緒に射撃場に行った正淑は、彼の拳銃の性能を調べたあと、30メートル先の標的を射撃した。標的は1発で命中した。

 正淑は、彼に拳銃を返し、一度撃ってみるようにと言った。以前に拳銃射撃を何回してもほとんど命中したことのない小隊長は、今度も2発目に標的の端をかすめただけだった。

 正淑は、自身が体得した射撃原理を細かく話して聞かせ、彼の射撃動作の欠点を一つひとつ直していった。こうして、何日かが経つと小隊長の射撃術は急速に上達した。

 正淑は、指揮官は各種の武器に精通していなければならないと強調し、機関銃の射撃法も教え、また出現標的と移動標的、音声標的にいたるまで1発で打ち倒せるよう指導した。小隊長の射撃術が上達するにつれて隊員の射撃術も目に見えて向上した。

 正淑は警護隊員に、歌にリズムや節があるように、どんな音にも特有のリズムがあるものだと言い、次のようにつづけた。

 ……審議隊員はすべての音のなかで、なによりも金日成将軍を識別できるようにならなければならない、将軍の乗用車のエンジンの音、足音、戸を開閉する音、咳ばらいなど、音を聞いただけでそれが将軍だとわからなければならない、とりわけ夜は、音の判断がいっそう重要だから、夜の音には平素から習熟していなければならない、木の葉のそよぐ音、虫や烏の鳴き声、草葉からしずくがしたたり落ちる音など、すべての音にしっかり慣れていてこそ、聞きなれない音を即座に識別して対策を立てることができる……

 こうしたことはすべて、正淑が白頭の密林や満州の荒野で将軍を護衛していたときの貴重な体験によるものであった。正淑は、その経験をもって、警護隊員をさまざまな兆候を判断する名手に育てていった。

 正淑は、警護隊員が規定と教範の要求を正確に守るよう強調し、隊列訓練に力を入れて精鋭武力として面目を一新するように指導した。とくに護衛規定を厳守するよう求め、みずからその手本を示した。

 ある日、外出先から帰った正淑は、私邸正門の前で見知らぬ将校に通過を差し止められた。新規に配属され歩哨勤務状況を巡察していた将校であった。彼は正淑に、訪問の理由を尋ねた。正淑は微笑してこの家の者だと答えた。しかし、正淑の身なりがあまりにも質素だったので、目の前の女性が金正淑女史だとは夢にも思わなかった彼は、歩哨が口を挟むいとまも与えず、確認すると言って邸内へ入っていった。しばらくしてあわてふためいて走ってきた彼は、正淑の前でまごまごし、口もろくにきけなかった。

 正淑は彼に「立派です。将軍を護衛する警護隊員は、規定をそのように厳格に守らなければなりません」とほめ、彼を手本としてみんなに見習わせた。

 正淑は、警護隊員の服装にも細かい注意を払った。

 ある日、警護隊員の就寝中に、彼らのえりあてを取ってきれいに洗い、アイロンまでかけてあげた。そして、恐縮する隊員たちに「家では、お母さんや姉さんが世話してくれていたのに、自分の手でするのは大変でしょう」と言うのだった。

 隊員たちは、ただうなだれていた。

 「女性同盟員に頼んだら、みなさんのためだから、喜んでしてくれるでしょう。けれども、軍人はなんでも自分の手でしなければならないのです。針仕事も洗濯も、炊事もなんでもできるなら、どんな状況に際しても苦労せずにそれを克服することができます」

 こう言って、正淑は、彼らにえりあての付け方を教えた。

 正淑は、雨の降る日は歩哨たちのためにテントを張ってやり、寒いい冬の日は温めた石を足の下に置いてあげた。

 このような正淑の気遣いで、解放直後に結成されて日の浅かった警護隊は、高度の政治的・思想的準備と軍事技術的準備、鉄の規律を備えた精鋭部隊に成長していったのである。

 警護隊の成長ぶりに満足した将軍は、平壌学院をはじめ全訓練所の責任幹部に、中央警護隊の軍務生活状況を見学させ、その模範を一般化するようはからった。

 警護隊の軍務生活のすばらしさに感嘆した幹部たち、とりわけ金策らの抗日革命闘士は、革命の首脳部護衛の礎をしっかりかためた正淑に謝意を表した。

 警護隊の経験はその後、朝鮮人民軍の内務規定および教範を完成させる基礎となり、警護隊は正規の革命武力建設におけるモデルとなった。

 正淑は、将軍の安全を守るため誠意の限りを尽くした。普段から人民と同じ食事をとっている将軍にわずかのそそうでもあってはと常に気を配り、将軍の現地指導用特別列車の電灯の笠を目の疲れをいやす淡紅色のものと取りかえるようはからい、将軍の現地指導コースを事前に視察しては不備な道路や橋を普請するようにするなど、その心遣いを挙げれば枚挙にいとまがない。

 祖国解放の決戦を準備していたある日、将軍が各種の書物がぎっしり並んだ書斎にいる夢を見た。その話をしたところ、抗日革命闘士たちは、大統領になる夢だと言って喜んだ。それから数年の歳月が流れ、抗日闘士も将軍も夢の話をすっかり忘れていた。ところが、正淑だけは忘れていなかった。

 1947年4月、正淑は誠意をこめて将軍の書斎をしつらえた。書架や机の位置とその規格、備品について細心の注意を払い、将軍の利用に便利なようにと、本を書架に種類別にそろえて立て、新聞、雑誌、文書も順序正しく整頓した。

 書斎を見た将軍は、書斎が立派なばかりでなく、書物の分類もよくできており、新聞、雑誌も利用しやすく整理されていると言って満足した。

 そして、正淑と並んで書斎で記念写真を撮った。

 将軍の江原道現地指導に随行した正淑が金剛山で語った言葉は、朝鮮人民に広く知られている。

 将軍の夕食の支度のため有名な万物相を目前にして山を降りた正淑は、翌日の9月28日も九竜の滝近くで一人きびすを返した。

 「将軍の食事を支度する時間になったのに、『神仙の遊びに斧の柄朽つ』ということわざどおり金剛山の見物に夢中になって、食事の時間を違えるところでした」

 せっかく、ここまで来たのだから滝を見てはと勧める随員に、正淑はこう言った。

 「午後、将軍は、また現地指導に出発することになっています。だから、昼食の支度をし、出発の準備も整えなければならないのです」

 後日、九竜の滝を再び訪れた将軍は、この日のことを感慨深く振り返った。1947年の秋にここへ来たとき、正淑はわたしの昼食の支度のため、近くまで来ていながら滝の見物もできずに山をおりていった、わたしが九竜の滝はすぐそこだから見ていくようにと言ったが、後日また来ると言っておりていった、こうして正淑は、とうとう九竜の滝を見ることなく世を去ったと言って胸を痛めた。

 思えば、チュチェ革命偉業の起源が開かれたその日から、朝鮮民族の救いの星であり、未来である金日成将軍を立派に守ることは、歴史が提起した朝鮮民族至上の課題であった。朝鮮革命の歴史が時代と民族に課したこの重大な使命を、金正淑は一身に体現していたのである。


  不滅の頌歌

 解放の喜びにひたりながら新しい生活を営む朝鮮人民の心は、解放の恩人である金日成将軍の業績を歌にこめて末永く伝えたいという思いに燃えていた。

 1946年5月のある日、金正淑が庭園で野菜畑の手入れをしていたとき、金策が訪ねてきた。

 「急いで相談したいことがあってやって来ました」

 金策は、こう言ってカバンの中から厚い手紙の束を取り出した。毛筆のものもあれば、ペンや鉛筆で書かれたものもあったが、手紙には将軍の歌を作ってほしいという全朝鮮人民の一致した思いがこもごもに記されていた。

 それでなくても当時、金策は将軍の歌を作るよう詩人の李燦に任務を与えていた。それを聞いた正淑は、李燦のことは自分も前から知っている、彼の詩を新聞で見たこともある、あのように情熱的で才能も豊かな詩人だから、将軍の歌を立派に作れるだろうと言った。

 金策は、将軍がこのことを知ったなら、きっととがめられるだろうと言って心配した。

 顧みれば、朝鮮革命の黎明期に戦友たちが将軍を仰いで革命頌歌『朝鮮の星』を作り、広くうたったものだが、それからは、新しい歌は作られていなかった。

 抗日武装闘争の時期に人民革命軍の隊員たちは、将軍の歌を作ってうたいたいと願っていたが、その問題が持ち上がるたびに将軍が厳しく禁じたのであった。

 正淑は、将軍の歌はぜひ作るべきです、その歌は将軍の業績をたたえる歌として、朝鮮人民が孫子の代までうたう永遠の歌になるよう立派に作らなければなりませんと強調した。

 正淑はその後、歌の創作状況をしばしば尋ねた。

 ある日、正淑は、金策に抗日革命闘争を体験していない詩人が将軍の歌を作るのは難しいだろうと言い、将軍が作った歌をはじめ、百余編の革命歌が書き記されている手帳を詩人に贈った。それは、正淑が抗日武装闘争の全期間、革命歌を一編一編書き込み、大切にしまっておいたものであった。

 やがて、歌詞の草稿を書き上げた詩人は、金正淑女史に一度ご覧にいれ、助言を得たいと金策に申し入れた。

 正淑は、早速詩人に会った。

 この日、正淑は、将軍のもとで抗日武装闘争をおこなった体験談を語ったあと、こうつづけた。

 「ひたすら祖国の独立と人民の幸せのため半生をささげてきた将軍の偉大な足跡は、朝鮮のここかしこに残されています。その足跡は、白頭山の険しい山並みや鴨緑江と豆満江の流れにも反映されています。そして、解放を迎えたこの国の各地にも刻まれています。わたしたちは、満州荒野の寒風をついて戦い、密営のたき火の前で長い夜を明かしながらも、祖国と人民にささげている将軍の偉大な愛をきっと感慨深く振り返るときが来るだろうとかたく信じていました。
 ……金日成将軍の不滅の革命業績は、将軍のご芳名とともに朝鮮人民の胸に永遠に光を放つことでしょう」

 正淑の言葉は、詩人が苦心して探し求めていた詩想であり韻律であった。解放後、朝鮮で初めて作られた革命頌歌は、このような過程を経て完成された。この歌詞は、直ちに新聞、雑誌に紹介され、青年作曲家金元均によって作曲された。

 『金日成将軍の歌』は試聴会を経てまたたくまに、新生活の創造に沸く全国各地の全人民に愛唱されるようになった。

 『金日成将軍の歌』は、新しい民主朝鮮の建設と祖国解放戦争、戦後の復興建設と社会主義建設の日々、そして、チュチェ革命偉業遂行の全期間にわたって朝鮮人民を鼓舞、激励し、導く不滅の頌歌、忠誠の歌となった。

 他方、正淑の指導によって金日成将軍の銅像が建立され、朝鮮民族は普段でも将軍の英姿を仰ぎ見ることができるようになった。

 1947年8月10日、当時、間里にあった万景台革命学院を訪れた正淑は、院児たちに、いまはまだ生活が多少不便であろうが、将軍が万景台に建ててくださる新しい校舎が竣工したら、そこで何不自由なく勉強できるようになると言った。

 子どもたちは、大喜びし、早く万景台に行きたいと口をそろえて言った。

 正淑は、同行した抗日闘士や幹部たちにこう言った。

 「新しく建てる万景台学院には、将軍の銅像を立て、学院の子どもたちがいつも将軍の姿を見ながら生活できるようにしてあげましょう。

 将軍の銅像の位置は、学院本館の前が最適です。そうすれば、子どもたちは将軍の銅像を仰ぎ見ることができ、常に自分たちのそばに将軍をいただきたいと願う彼らの希望をかなえてあげることができます」

 金策ら抗日闘士たちは、心から賛意を表し喜んだ。

 正淑は、将軍の銅像は大同江と万景峰が一目で見渡せる学院本館の前に建て、子どもたちが大同江からも万景峰からも見ることができるようにしようと言った。

 私邸に帰った正淑は、朝鮮で初めて建てる将軍の銅像をどのように形象化すべきかを深く考えた。そして、翌日から銅像の建立に造詣の深い専門家を探し出させ、彼らが集まると、学院に建てる将軍の銅像は抗日武装闘争時代の姿を形象化すべきだと言い、その方途について助言を与えた。

 1948年10月24日、万景台革命学院で将軍の銅像除幕式が新校舎の竣工式と並んで挙行された。

 このとき以来、朝鮮では、全人民の願いをこめて金日成将軍の銅像が各地に建立されていった。





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