『金正淑伝』
 
9 祖国への凱旋


  解放なった祖国で

 1945年8月15日、日本無条件降伏のニュースが伝えられた。

 金正淑は、このニュースを訓練基地で聞いた。

 当時、基地には、司令部に従って国内各地に進出し、全民抗争を指揮する任務を与えられた朝鮮人民革命軍の空挺隊が待機していた。

 彼らは、祖国解放のニュースに抱き合って喜んだ。日本帝国主義の敗亡により、金日成将軍に従って血みどろの抗日大戦をつづけてきた彼らの宿望はついにかなった。しかし、反面、日本のたちまちの降伏によって最後の決戦に参加できなかったことを彼らは残念がった。

 世界大戦が終結し、ファシスト諸国の壊滅により、世界の多くの国で新しい民主社会建設の道が開かれた。

 日本の敗亡とともに、朝鮮の全国各地に人民委員会が組織され、さまざまな政党や大衆団体が続々と出現した。金日成将軍の思想と路線に従って、祖国光復会運動と党創立準備を進めてきた革命組織や全民抗争組織が、その先頭に立っていた。

 訓練基地内の人民革命軍隊員は、一日も早く帰国したいと胸を焦がしていた。

 将軍は凱旋に先立ち、新しい祖国建設の準備に心血を注いでいた。

 当時、情勢はきわめて有利に進展していたが、国内ではさまざまの難題が持ち上がっていた。国内各地では、日本の敗残兵や反革命勢力が抵抗をつづけており、分派分子が権力争いをはじめていた。それに北緯38度線を境に、南には米軍が、北にはソ連軍が進駐することになっていたので、朝鮮半島は民主勢力と反動勢力の決戦場となる恐れがあった。

 このような情勢を見通した将軍は、8月20日、朝鮮人民革命軍軍事・政治幹部協議会を開き、『解放された祖国での党、国家および武力建設について』と題する演説をおこなった。この演説は、祖国の解放が達成された新たな条件のもとで、朝鮮人民が新しい民主朝鮮の建設を力強くおし進めていくための綱領的文書であり、党、国家および武力建設の基本的な指針となった。

 将軍は、建党、建国、建軍の3大課題の実行をめざして、各道と主要な市・郡に派遣するメンバーを任命し、数日にわたって彼らのために講習をおこなった。

 正淑は、将軍の3大課題をしっかり身につけるため学習に励み、工作班の講習会にも熱心に参加した。

 講習会の終了後、司令部に従って国内各地に進出することになっていた人民革命軍の空挺部隊は帰国の途についた。

 将軍は、万一の事態を考慮して子持ちの女子隊員を基地に残し、後日帰国するようはからった。女子隊員たちは将軍と一緒に帰国するとせがんだが、将軍は、みんなの気持ちはよくわかるが、ここはよく考えるべきだ、この子らはみなかけがえのない子たちだ、この子らは革命の荒波のなかで、衣食もろくにあてがわれずに育った子たちではないか、戊Mさんもそうだし、ここにいる多くの母親がわが子を亡くして悲痛な思いをこらえてきたではないか、今度もまたそんな思いをさせてはいけないと言い聞かせた。

 正淑は将軍の意図に従って、他の女子隊員たちと基地に残った。そして、基地の後始末をするかたわら、女子隊員すべてが解放祖国で新しい国づくりに立派に参加できるよう、彼女らの政治的・実務的水準の向上に力を尽くした。

 正淑は、8月20日の演説をはじめ、将軍の諾著作を深く学習し、女子隊員たちとたびたび研究討論をおこなった。

 訓練基地で送った日々は、正淑にとって朝鮮の現実を知り、将軍の新祖国建設路線を深く体得する日々であったし、抗日武装闘争で鍛えられた女子隊員たちを新しい国づくりの有能な働き手にさせる日々でもあった。

 正淑は1945年11月下旬、わが子を伴って軍艦に乗り、帰国の途についた。金戊M、金玉順ら数人の女子隊員が同乗した。

 11月25日、水平線上に祖国の大地が浮かび上がった。

 甲板に幼い正日と並んで立っていた正淑は、朝焼けに赤く染まった祖国の山々が喜んで迎えてくれているように思えてならなかった。

 「みなさん、祖国よ、祖国が見えるわ」

 女子隊員たちは甲板に上がって来て、抱き合って歓声を上げた。

 正淑の頬に熱い涙が流れた。なつかしい祖国、生死を分かつ数万里にのぼる長征の間、片時として忘れることのなかった祖国であった。国内地下活動で歩んだ道は数百里を超えたが、それらは祖国の地ではあっても、まだ暗黒に閉ざされ、いたるところ敵のばっこする危険な敵地であった。

 ところがいま、祖国の山々が水平線上に浮かび、喜んで迎えてくれているのである。

 正淑は、わが子を高く抱き上げた。

 「ほら、ごらん、あれが祖国よ」

 幼い正日は、母親からおとぎばなしのように聞かされてきた祖国の岸辺に向かって、両手を振った。

 ついに軍艦は、先鋒港に入港した。

 埠頭には、当地で活動中であった抗日革命闘士の沈泰山と金竜化が出迎えに来ていた。

 正淑は彼らとあいさつを交わし、女子隊員たちと一緒に宿舎に案内された。埠頭は、日本軍が敗走を前に破壊したままの姿で人影はほとんどなかった。
このように、正淑は十五星霜にわたる血戦を終えて、祖国の地に静かに上陸したのである。

 正淑は凱旋後、戦友たちとともに建党、建国、建軍の3大課題を遂行する活動に着手した。

 正淑は、先鋒の人民生活や、日本軍が破壊した施設の復旧状況を調査するため、女子隊員たちを伴って先鋒の街を見て回り、そのあと埠頭に向かった。埠頭からは、広々とした東海が一目で見渡せた。

 埠頭の復旧工事を指導していた沈泰山と金竜化が、正淑が来たことを知り、急ぎ足でやってきた。正淑は彼らから港湾の復旧状況を聞いた。

 そのうち、抗日闘士と話している女性が「白頭の女将軍」として名の高い正淑であることが知れ渡り、四方から人々が押しかけ、埠頭は黒山の人だかりとなった。伝説のように伝え聞いていた抗日の女性英雄を目の当たりにした人々の感激は大きかった。

 どよめく群衆のなかから一人の老婆が駆け寄り、正淑を胸に抱いた。正淑は老婆の手をとり、日本人のため、さぞ苦労したことでしょう、もう国が解放されたのですから、なんの心配もすることなく長生きなさって幸せに暮らしてくださいと言った。

 正淑は、工事中の埠頭の高台に上がった。無数の視線が、正淑に注がれた。正淑が彼らに向かってお辞儀をすると、嵐のような歓呼の声が沸き起こった。

 正淑は、きょう、こうしてみなさんと会ってみると、久しく別れていた父母兄弟や親戚に会えたようなうれしさで胸が一杯になります、どれほど待ちに待ったこの日でしょうか、金日成将軍のもとで山中で日本軍と戦っていたときにも、わたしたちは一日として、みなさんのことを忘れたことがありませんと語った。

 さらに正淑は、朝鮮の数多くの青年は、解放されたきょうの祖国を見ることなく、白頭の密林や満州の荒野に埋もれて帰ることができなかった、革命の先達が流した貴い血を決して忘れることなく、彼らの念願どおり金日成将軍の指導に従って、三千里祖国の山河に人民の楽園を築くため力一杯たたかいましょうと言った。そして、「みな将軍のまわりにかたく結集し、富強な新しい民主朝鮮の建設をめざしていっそう力強くたたかっていきましょう」と呼びかけて演説を締めくくった。

 群衆のなかから、またしても歓呼の声が沸き起こった。「民族の太陽、金日成将軍万歳!」「朝鮮の解放万歳!」

 正淑は、埠頭から海辺に出た。そこには、壊れた漁船がここかしこに散らばり、使えそうなのは小舟数隻にすぎなかった。しかし、正淑は少しも失望の色を見せなかった。

 正淑は金竜化に向かって、決して気を落としてはなりません、ここのように海をひかえたところで緊迫した食糧問題を解決する早道は、魚をたくさん捕ることですと言った。そして、壊れた船と漁具を早く修理し、新しい船をつくり、当面はまず、小舟で魚を捕るようにと言って埠頭を後にした。大豆を脱穀中のある農家に立ち寄った正淑は、脱穀を手伝いながら農作物の出来具合いを尋ね、金日成将軍は働く農民が土地の主人となる日のことを考えておられると話して聞かせた。

 農民夫婦は感動して、「将軍になんと感謝していいかわかりません。きっと、そのご恩に報いて、精一杯農業に励みます」と言った。

 正淑は、当地で工作中の抗日闘士に、先鋒郡に組織された大衆団体、特に青年団体について尋ねた。

 ここには、共青が、組織されていた。しかし、共産主義を信奉する徹底した無産青年だけを受け入れていたので、人員は多くはなかった。一方、解放青年同盟が組織され、多くの青年がこれに加わっていたが、彼らは敵産の分配に割り込んだり、興味本位の「時局演説」などをして日々を過ごしていた。

 正淑は沈泰山と金竜化に、労働青年や農村青年をはじめ、広範な青年を民主的青年団体に結集し、新しい国づくりに奮い立たせようという将軍の民主青年同盟建設路線を説明し、その路線に従って、共青を早急に広範な青年が参加する民主的な青年団体に再編するよう教えた。

 一方、解放青年同盟の労働部長に会い、解放朝鮮の青年が進む道はただ一つ、金日成将軍の新しい祖国建設路線と方針を貫くことにあると話し、各階層の青年すべてが民主主義の旗のもとに一つに団結すべきであると説いた。

 宿舎に帰った女子隊員たちは、将軍がいる平壌に早く行こうと、出発の支度を急いだ。

 しかし正淑は、平壌行きをしばらく延ばすことにし、女子隊員たちに、将軍を補佐するためには、解放朝鮮の現実をよく知らなくてはならない、それもわからず、どう将軍を補佐し、新しい国づくりに尽くせようか、わたしたちが、ここで人民に将軍の建党、建国、建軍の3大課題をはっきりと教え、彼らが新しい国づくりに奮い立つよう導いてあげようと言った。

 祖国の地に凱旋の第一歩を印した正淑は、女子隊員たちと一緒に幌を張ったトラックに乗って清津に向かった。清津で工作中の安吉が、一行を出迎えた。彼の案内で一行が解放洞の2階建ての宿舎に着いたのは夜中の12時過ぎであった。トラックの上で初冬の寒風にさらされながら100余キロの道を走り、深夜に到着したにもかかわらず、正淑はすぐさま平壌の将軍に電話で無事到着したことを報告した。

 一行の安否を尋ねた将軍は、清津で工作中の同志たちを助け、当分ここで仕事をするつもりだと言う正淑の意見に同意した。女子隊員たちがぐっすり寝入ったその夜に、正淑は清津での活動計画を練った。

 当時、清津で発行されていた『セギル新聞』は、正淑の清津到着を第1面に大きく報じた。

 「か弱い女性の身でけなげに銃を取り、満州の広野を舞台に吹雪をつき、露に濡れて野宿しながら、ひたすら朝鮮の解放をめざし、朝鮮が生んだ革命家金日成将軍とともに、日本帝国主義と果敢に戦い、武装闘争によって朝鮮革命を成就せんと10余年間、悪戦苦闘の血闘をつづけてきた金正淑女史……さる26日夜、清津に到着した」

 翌日の11月27日朝、正淑は清津一帯で工作中の崔春国、朴永純、沈允景らと久しぶりに会い、咸鏡北道の状況を聞いた。

 当時、咸鏡北道の状況は複雑をきわめていた。安吉をはじめ、抗日革命闘士が将軍の指示で当地へ派遣されてきたとき、朴憲永の指令でもぐりこんでいた男が、道党委員会の最高責任者となって「ソウル中央」を云々し、将軍のうちだした党の組織路線と政治路線を陰に陽に妨害していた。

 その日の午後、正淑は女子隊員たちと古末山に登った。正淑は、清津市の全景を見おろしながら女子隊員たちに、日本人はすべての工場を破壊してしまったと言い、「わたしたちは、金日成将軍の新しい祖国建設路線に従って、政治活動を力強く繰り広げ、人民を奮い立たせなければなりません。このことが、ここでわたしたちがしなければならない当面の任務です」と強調した。

 あくる日、正淑の宿舎に雪をかぶった『セギル新聞』の記者たちが訪ねてきた。

 彼らは正淑の清津到着を知ると、直ちに『セギル新聞』の主幹を兼ねていた安吉を訪ね、金正淑との記者会見を取りもってくれるよう要請し、安吉の案内で解放洞の宿舎に来たのであった。彼らは正淑に、女性の身で満州の荒野を駆けめぐり、100万の日本軍と戦って勝利した話を聞きたいと言った。

 正淑は、ほほえんで記者たちを見回し、こう言った。

 「わたし自身については、これといって話すことはありません。でも、将軍が強盗、日本侵略軍を撃滅した話はいくらでもあります」

 記者会見は、このように始まった。

 正淑はまず、抗日武装闘争を勝利へと導いた将軍の戦略、戦術と戦法について語った。また、ともに戦った戦友たちについても話した。解放祖国を見ることができずに先に逝った同志たちを追憶するとき、正淑の目に涙が浮かんだ。

 正淑は最後まで、みずからについては一言も語らなかった。

 記者が「女史の生涯についてお話し願えませんか」と言うと、正淑は「新聞は当然、偉大な金日成将軍について書くべきでしょう。戦士の話は、領袖の歴史のなかに含まれているものではありませんか。ですから、将軍についてお書きください」と言って、みずからのことを話すのを辞退するのであった。

 記者たちは仕方なく、何歳のとき革命に参加したのか、朝鮮人民革命軍にはいつ入隊したのか、どんな戦闘に参加したのかなどと矢継ぎ早に質問した。

 正淑は記者の質問に手短に答えるだけで、みずからの功績についてはいっさい語らなかった。正淑の功績を大きく紹介しようと意気込んでいた記者たちはいたく失望した。しかし、取材にあまりにも多くの時間を取らせたので恐縮して腰を上げた。

 正淑は、彼らの手を取って、これから新聞に将軍の路線と方針をわかりやすく解説して、新しい国づくりに大衆を奮い立たせてくださいと頼んだ。

 『セギル新聞』は第1面に、「熱血14歳の少女の身で革命運動に身を投ず」という表題のもとに「金女史の半生」という副題をつけて次のような記事を載せた。

 「朝鮮の革命家、金正淑女史は……間島延吉県符岩で14歳の少女の身で、たぎる革命への熱を抑えきれずに遠大な抱負を抱いて家族のもとを離れ、満州で日本軍閥のどうもうな白色テロのもと、独立をめざして血戦をつづける金日成遊撃部隊に敢然と参加したという。
 銃を取って遊撃戦の先頭に立ち、生命が危険にさらされたことが幾度もあったという。……金女史の話によると、驚くなかれ、金日成将軍は30歳の血気旺盛な青年将軍だとのことである。朝鮮解放の大志を抱き、満州広野を舞台に猛虎のごとく活躍して日本軍閥の心胆を寒からしめ、世界に勇名を馳せた金日成将軍は、さすがに朝鮮が生んだ革命家である。
 ……朝鮮の革命家はもとより、隣邦中国の革命家まで麾下において、ひたすら朝鮮の解放をめざし、日本軍閥と熾烈な血戦をつづけてきたことは、我々の誇るべき偉大な存在である。
 金日成将軍は現在、平壌に健在し活躍中である」

 新聞はまた「独立と解放のため女性の身をもって半生をたたかいに。見習おう!この犠牲精神を」という記事を載せ、記者会見における正淑の言葉を伝えた。

 「金正淑女史は旅の疲れもものともせず、軒昂たる意気で来訪記者の一人の手を取り、『ずいぶん苦労なさったことでしょう』とねぎらい、……次のように述べた。『みなさんもご存じのように、朝鮮の解放はまだ完全に解決されたわけではありませんから、朝鮮人民大衆には、よりいっそう犠牲的な努力が求められています。
 なによりも、全民族的な大衆団結を実現しなければなりませんし、同時に建設も積極的に繰り広げなければなりません。
 朝鮮女性は、覚醒して朝鮮の現実を正しく理解し、偉大な建国事業にひとしく励むべきです。
 ……我々の主権を一日も早く確立し、朝鮮の完全な独立を達成し、我々女性が願望する女性解放問題を解決しなければなりません。
 わたしはこれから、朝鮮の実情を勉強して力の限り、朝鮮の建国に努めるつもりです』……」

 記者会見の内容を報じたこの新聞は、咸鏡北道にとどまらず、平壌をはじめ、全国各地に配布され、大センセーションを巻き起こした。

 数日後、この記事を読んだ将軍は次のように語った。

 「正淑が立派なことを言った。……わたしが考えていたこと、言いたかったことをそっくりそのまま言ってくれた」

 正淑は清津にとどまっていた間、人民に将軍の思想と意図を認識させ、彼らを新しい祖国建設に奮い立たせるため精力的に活動した。

 11月29日、正淑は同行した女子隊員と党員協議会を開いて、今後の活動方針を打ち合わせた。

 ここで正淑は、これまでと同様、解放された祖国でもつねに金日成将軍の革命戦士として生き、かつ、たたかわなければならない、これまでのたたかいと、今後のたたかいに違いがあるとすれば、これまでは銃を手にして日本帝国主義を撃滅するためにたたかったが、これからは、彼らが破壊した工場や農村を立て直すために、つまり将軍の新朝鮮建設路線を貫くためにたたかわなければならない、これは全人民の団結した力によってのみ達成することができる、これから、わたしたちは、清津市内の各階層大衆のなかに入っていかなければならないと述ベた。

 正淑はまた、わたしたちが将軍をいただいて日本帝国主義者と戦ってきたことを知ったら、人々がいろいろなことを知りたがるだろうから、そのつど金日成将軍は朝鮮民族の救世主であり、真の指導者であることをはっきりと教えなければならないと強調した。

 この日、正淑は清津市西興洞の市場を見て回り、将軍の意図どおり人民生活佐向上させるためには物価の安定をはかる必要があると述べた。その翌日は、開業医の一人に会って、人民に尽くす医者になるよう激励した。また、清津市の「朝鮮会館」で開催された歓迎会に出席し、「解放望郷楽劇団」の祝賀公演を観た正淑は出演者たちに、流行歌より金日成将軍の建国路線を貫くための革命の歌、闘争の歌をうたうよう勧めた。この日、歌を一曲うたってほしいという参会者の要請に、「わたしは歌は上手ではありませんが、みなさんが是非とおっしゃるなら、白頭の密林で戦っていたとき、故郷を思い、祖国の同胞のことを考えるたびにうたった歌を一曲うたわせていただきます」と言って『思郷歌』をうたった。

 翌12月1日、正淑は清津市人民委員会の幹部たちとの座談会に参加し、そのあと、咸鏡北道女性同盟組織準備委員会の活動家に助言を与えた。

 12月9日の午前には、安吉に案内されて清津駅を見て回り、午後には線路の復旧状況を知るため現地に出向いた。

 この日は非常に寒かったが、正淑は、山中で戦ったときは雪の上でも寝たではないか、これくらいの寒さにおじけることはないと言って復旧現場に出かけ、そこで手動式のレール走行台車に乗り、富寧谷から吹きおろす寒風にさらされながら、みずからレバーを手にして輸城方面に向かった。鉄道の左右を破壊された工場があとからあとへと流れ去った。

 輸城川の鉄橋付近で復旧された線路と鉄橋を見て回ったあと、線路の復旧現場にもどった正淑は、労働者たちに、鉄道は国の動脈であり、みなさんはその動脈を守ってたたかう労働者階級です、金日成将軍は、建党、建国、建軍偉業を夜を日に継いで指導しています、わたしたちが立派に働いて将軍の労を少しでも省かなければなりませんと言った。

 12月10日、清津市労働組合評議会を訪れた正淑は、幹部に、労働者階級への将軍の信頼と期待がいかに大きいかを労働者に知らせ、彼らが工場の主人、国の主人としての自覚を抱いて、革命の指導階級らしく、将軍の指導のもと全人民を新しい国づくりに導いていくようにすべきだと強調した。ついで、清津市内の各工場、企業所から選ばれた30余名の労働者代表と会い、長時間にわたって新しい国づくりに関する将軍の構想を説明し、彼らの奮起を促した。

 12月12日、正淑は清津製鉄所(現在の金策製鉄連合企業所)を訪れて、日本帝国主義者が破壊した工場の実態を確かめ、高炉の再建方途を討議している労働者たちと座をともにした。彼らは、炉内に冷え固まった数10トンの鉄塊と残骸の除去対策が立たず、途方に暮れていた。

 正淑は、なにか大胆な方法を考えてみてはと、彼らを励ました。

 一人の労働者が、爆破によって除去できると思うが、ダイナマイトの入手が難しいと言った。

 正淑は、山中で戦っていたとき「延吉爆弾」を作って日本軍と戦った抗日革命闘士の精神と気迫さえあれば、ダイナマイトを手に入れるのは難しいことではないと話した。

 正淑は、日本人が破壊していった機関車を修理し、かまに火をたきつけたばかりの機関助手に会い、以前は日本人機関士のもとでむごい仕打ちを受け苦しい労働を強要されてきたでしょうが、いまはもうこの機関車の堂々たる主人です、ひとつ勢いよく走らせてごらんなさいと言って機関車に乗った。

 ひっそりとしていた製鉄所の構内に鋭い汽笛の音が鳴り響いた。

 「結構です。では、機関車を動かしてごらんなさい」

 機関車は、蒸気を吹かして動きはじめた。

 このように、正淑は清津で、将軍の建党、建国、建軍の3大路線を貫くため、わずかの休憩をも忘れて多忙な毎日を過ごした。時局講演会の講師ともなり、清津女子中学校や水源小学校南江分校など各級学校も視察し、漁夫の操る舟に乗って海上にも出た。

 正淑が富寧冶金工場とが古茂山セメント工場の復旧状況を確かめるため、富寧に向かったのは12月14日の朝であった。木炭トラックに揺られ12時近くに一行は富寧に到着した。富寧冶金工場復旧委員会の委員が事務所に案内しようとしたが、正淑はまず現場から見ることにすると言って、変圧器の修理現場と電気炉の復旧現場で労働者たちと話し合い、技術も大切だが、それにもまして大切なのは、自力で復旧するという決心と、決心すればきっとやれるという信念をもつことだと強調し、自力で日本人が破壊した工場をこれ見よがしに、何倍も大きく建て直してみようと励ました。

 その日、富寧冶金工場を後にし、古茂山に向かったときのことを、同行した抗日闘士は次のように回想している。

 「古茂山は会寧に行く途中にあった。車で行けば、会寧まではさほど遠くない。
 そこで、わたしたちは、この機会にどうしても金正淑同志と一緒に会寧へ行くことにしようと決めていた。
 金正淑同志と連れ立って会寧の地を踏むことができると思うと、わたしたちの心は浮き立った。
 車は、わたしたちのそんな気持ちを乗せて、一路古茂山に向かって走った。車が大道路から古茂山セメント工場に向かう分れ道にさしかかると、わたしたちは車を止めさせ、金正淑同志にセメント工場は、会寧に行つての帰りに寄ることにしようと勧め、運転手に車をまっすぐ会寧に向けるよう促した。
 ところが、車から降りた金正淑同志は、感慨無量の面持ちで茂山嶺のかなたの会寧の空を眺めやるのだった。鉄道も車道も会寧方面に向かって延びており、その道にそってあの茂山嶺一つを越えれば、夢にも忘れない故郷があった。
 会寧の方を眺めていた金正淑同志はわたしたちにこう言った。
 『いま将軍は、新しい祖国建設路線を示し、その実現のため寝食を忘れて奮闘しておられます。
 それなのに、わたしがどうして……故郷から先に訪ねられるというのです。いまは、ここで早く仕事を終えて平壌に行って将軍の身辺を守らなければなりません』と。
 わたしたちはがっかりして、道端に立ちつくしていた。
 金正淑同志はほほえんで、『会寧にはこのつぎ、花が満開のときに行ってみることにしましょう』と言うのだった」

 こうして、正淑はなつかしい故郷を目の前にしながらも、そこへは立ち寄らず、古茂山セメント工場へ直行したのであった。

 正淑が清津市で過ごした日々は、戦士が金日成将軍をどう補佐すべきかという手本を生き生きと示した意義深い日々となった。

 12月22日、正淑はついに平壌行の列車に乗った。それは客車でなく、床にござを敷き、小さなストーブを置いた有蓋貨車であった。

 清津市民の熱烈な歓送を受けながら、列車は清津駅を後にした。汽車はのろのろと前進した。線路がまだ復旧中で、しばしば停車しなければならないという状況で、平壌に着いたのは8日後のことであった。

 正淑は、この8日間も将軍の建国路線の貫徹に努めた。

 列車が最初に止まった明川駅で、明川郡の幹部たちと長時間言葉を交わして、郡の実状から郡内住民の生活状況や幹部たちの活動状況にいたるまで詳しい説明を聞き、彼らが人民の忠僕となり、人民の生命、財産を大切に扱うようにと助言した。

 翌朝、正淑は駅の近くで会った女性たちに、古い思想や因襲を振り払って、女性同盟の生活に励み、建国事業に積極的に参加するよう力づけた。

 吉州駅では駅前に集まった人たちと熱いあいさつを交わし、富強な自主独立国家の建設に奮い立つよう呼びかける演説をおこなった。そして、車内で郡女性同盟の幹部たちと席をともにし、解放された祖国で女性同盟の活動家が将軍の路線をどのように受け止め、どう国づくりに尽くすべきかを語った。

 翌12月24日は、正淑の誕生日であった。

 正淑は、祖国で初めての誕生日を、のろのろと走るこの清津−平壌間有蓋貨車の中で迎えた。ゴトリ、ゴトリと絶え間なく鳴るレールの音、ストーブが煙を立て、ござとなん枚かの軍用毛布が敷かれているうす暗い車内で、正淑は女性抗日闘士たちと手作りの簡素な食事を分かち合って、誕生日を送ったのである。

 金正淑が、平壌に凱旋したのは12月29日であった。全国が解放の喜びに沸き立った1945年は2日残っていた。


  万景台の大慶事

 1946年の元日、金正淑は、金日成将軍とともに息子の正日を連れて万景台を訪れた。

 万景台は正淑にとって、抗日大戦の日々、一日として忘れることのなかった心のふるさとである。将軍から教わった『思郷歌』をうたうたびに思い描いた万景台であり、宿営の夜、たき火の前で将軍が語る祖国の話を聞きながら思い描いた万景台であった。

 万景台の家でも、正淑が平壌に到着したことを知って、正淑の訪問をいまかいまかと待っていた。将軍に従い、山野を縦横に駆けめぐって戦った抗日の女将軍とはどんな人だろうか? 祖母はまだ見たことのない孫嫁の姿を思い描きながら、山中で戦ったその苦労はいかばかりであったろうかと、首を長くして待っていた。祖父の気持ちも同様であった。ヤチダモの枝に止まったカササギが朝早く鳴くと、きょうこそはやってくるに違いないと、終日縁側に出て、開かれたしおり戸の方を眺めるのであった。そのしおり戸を開けて、多くの孫子が万景台を去った。救国の大志を抱いて彼らが家を出たあと、そのしおり戸は長い間、開かれたままであったが、ほとんどが帰らぬ人となった。二人の息子と嫁、2番目の孫、それに多くの近親が革命に命をささげた。

 それが、抗日の女将軍として広く名を知られた孫嫁がひい孫の手を引いてやってくるという。祖父はこの日も、朝から縁側に出てそわそわしていた。

 将軍に従い、正日の手を取って万景台に向かった正淑の胸もときめいていた。まだ見ぬ祖父母と親戚の人たちの面影がまぶたを去来した。

 万景台の将軍の生家に着くと、祖母がしおり戸の外に走り出て、ひい孫をかき抱いた。

 祖父は、孫嫁とひい孫をまじまじと見つめた。

 「わが家の孫嫁が明星のようなひい孫を連れて来た! きょうはわが家のお祭りじゃ」

 こう言う祖父の目に光るものがあった。

 正淑は、祖母と叔母の手にとられて部屋に上がった。

 将軍の紹介で、正淑は祖父と祖母に向かって膝を折って礼をし、親戚の一人ひとりにもお辞儀をした。白頭の山野を縦横に駆けめぐって戦った女将軍だから、さぞかしいかめしく近寄りがたかろうと思っていた叔母は、その素朴な礼儀正しい振る舞いに驚いて、山中で戦いながら、いつそんな礼儀作法を身につけたのかと言った。祖父は「ばかな! 国を取り戻そうと戦うほどの者に礼儀をわきまえない者がいるはずがなかろう」と言った。

 正淑はあいさつを終えると、わが子を前に立たせた。幼い正日は膝を折って、曾祖父母にそれぞれ礼をした。

 礼を受けた曾祖父は、ひい孫を抱き寄せ、節くれだった手で顔や肩をなでた。

 「なんと、うちの将軍とこうもそっくりなのじゃ。あの苦しいときに、こんな立派な子を生んだとは」

 祖父の頬にまたも熱いものが流れた。

 早速、つつましやかな祝宴が催された。食卓には、将軍の生家と近所の人たちが支度した質素ながら心のこもった料理が盛られた。

 祖父は「お前たちに婚礼を挙げてやれなかったが、きょうのこの宴をそれと思って受けてくれ」と言った。

 正淑は、持参した酒を祖父に注いだ。盃を受けた祖父は、ごま塩の髭をなでおろした。

 「ひどい世を生き抜いてきたかいがあった。
 将軍になって帰った孫に会えたし、きょうはお月さんのような孫嫁に会い、わが家の血統を継ぐひい孫をわしの膝に乗せることができた。こんなうれしい日を迎えて、先に逝った者も安らかに眠れるだろう。ありがとうよ。
 こうやってお前まで来てくれて、万景台のこの家がずいぶんと明るくなったわい」

 祖父は、こう言って会心の笑みを浮かべ、盃をほした。

 正淑は、祖父母に向かって「おじいさま、おばあさま、その間、どんなにご苦労なさったことでしょう。もう明るい世の中を迎えたのですから、どうか末永くお暮らしください」と言った。

 祖母は、「ここでは苦労といったって、屋根のある家で暖かいオンドルで過ごしたんだよ。苦労はお前たちがしたんだ。雪の上でろくろく眠れず、草の根をかみながら15年も山中で戦ったんだからさぞ苦しかったろう」と言って孫嫁の手をなでさすった。

 将軍は、にこやかに祖母を見やって「おばあさんは、本当に苦労なさいました。日本の警官やその手先に引っ張りまわされて、さぞひどい目にあわれたことでしょう」と言った。

 祖母は昔のことを思い出した。

 「あたしは、あのときのことは苦労などとは思ってもいないよ。日本のやつらやその犬が、あたしを引っ張りまわしてて、孫のいるところを教えろと大変なけんまくだったけど、あたしは絶対に負けなかったよ。そりゃ学校に通ったことなんかなかったけど、腹はちゃんと据わっていたさ。孫が将軍だと思うと心丈夫でね。
 あたしは、そいつらに『孫がお前たちをただではおかんからね。お前たちがいくらやっきになっても孫は捕まらないよ』と言ってやったら、そいつらはおじけづいてね、あたしに手出ししようとはしなかったよ。あたしを下手に扱うと、いつ遊撃隊にやられるかわからんと思ったのだろうね。だから、あたしをいじめることができなかったのだよ。
 そんな辛かったこともみんな昔話になって、生き残った人には、そんな苦労ももう大した苦労ではなかったと思えるけど、きょうのこの日を見られないで先に逝った人たちのことを思うと……」

 祖母は、のどをつまらせ涙をぬぐった。救国の大志を抱いて郷里を後にした長男が命を落とし、三男が亡くなってからも長い年月が経った。いとしい嫁と2番目の孫まで異郷の土となったと聞いたのも、もうかなり前のことであった。けれども、いくら歳月が流れても、祖母にそうした不幸は忘れられるはずがなかった。

 将軍が解放後はじめて万景台に帰ったときもそうであうたが、きょう、こうして孫嫁を前に座らせ、ひい孫まで抱いてみると、亡くなった孫子たちのことがひとしお恋しくなるのだった。祖父や居合わせた親戚たちもみな涙をぬぐった。

 悲痛な追憶にふける人々の重苦しい気持ちを喜びへと変えたのは幼い正日であった。正日は母の膝に乗って、「お母さん、雨の日にまた来ようよ」と言うのであった。

 「あら、どうして?」

 「ぼくも父ちゃんのように、ヤチダモの木に登って虹をつかむんだ」

 正日のこの言葉に、人々は将軍の幼年時代にあった数十年前のことを思い出し、深い感激にひたった。

 正日は、村人たちから歌をうたうようにと言われて、すぐさま立ち上がり、『遊撃隊行進曲』をうたった。アンコールでも革命歌をうたった。悪びれた様子もなく、歌をうたう正日のけなげな姿に、人々は感嘆して拍手を送った。

 祖父は「竹は竹やぶで生えると言うが、この子もさすがに将軍の器じゃ」と満足そうに言った。万景台の家は、つきせぬ喜びにひたっていた。その夜、将軍の生家では、集まった人々が歌に興じたが、叔母は、将軍の母の康盤石が愛唱していた『子守歌』をうたった。

 正淑は、叔母の指名と人々の拍手を受けて『思郷歌』をうたった。その歌は、人々に深い印象を残した。

 万景台の夜は更けていった。

 将軍はその夜、平壌にもどった。わざわざ訪れた生家であったが、国事に多忙な将軍は一夜としてゆっくり過ごすことはできなかったのである。

 村人たちもみな帰り、生家では床をとった。正淑は正日と一緒に、祖父母と並んで床についた。

 どれほど時間が経ったのか、正淑が目をさまして見ると、正日を抱いて祖父母が枕元に座っていた。

 「目がさめたのかい。まだ暗いからもっと寝なさい」

 祖母の温かい言葉であった。

 正淑が起き上がって、「おじいさま、おばあさま、どうしてお休みにならないのですか」と聞くと、祖父が穏やかに言った。

 「年を取るとよく眠れないんじゃ。わしらのことは気にしないで、もう少し寝ていなさい。山中では石が枕で、一日として暖かいオンドル部屋で寝たことがなかったろう」

 それでも正淑が横にならないので、祖父はこう言った。

 「お前は小さいときに家を出て、ずいぶん苦労したようじゃが、小さいころから国を取り戻そうという一念に燃えて、歯を食いしばって生きてきたことも聞いている。
 国の運命がつきようとしていたときだから、どの家だって穏やかな日はなかった。わしらも国を取り戻すと言って多くの孫子たちが家を出てゆき、一日として穏やかな日はなかった。
 軒から雨だれが落ちる晩は、どこかの空の下で寒さに震えてはいなかろうかと、一睡もできず夜を明かしたことも多かった。
 このばあさんが糸もない糸車を回しているので、なんでそんなことをしてるのだと聞くと、心配で心配でじっとしていられないと言ったものだ。しかし、それも、いまは昔話になった。
 愛国の魂を誇りとする、この家の血統を継ぐひい孫を連れて、お前が来てくれたので、わしはどんなにうれしいかしれない。お前がこの家を花と咲かせるのじゃ。この子を立派に育てて、国の代を立派に継がせるんじゃよ」

 万景台で、将軍一家の革命的で愛国的な家風をしみじみと味わった正淑は、祖父の言葉を朝鮮人民と民族の切願として心に刻み込んだ。

 正淑は横になったが、目が冴えて眠れなかった。

 翌日、正淑は、万景台を後にして平壌に帰った。

 正淑は、その後もしばしば万景台を訪れて祖父母に孝養を尽くした。

 正淑は、祖父母を平壌に迎えようと心を砕き、寒くなると冬着を送り、なにか珍しい食べ物が手にはいると祖父母のことを考えた。

 ある日の夕方、正淑は祖母が病気にかかったとの知らせを受け、急いで万景台に向かった。

 昨夜来の雨で万景台への道はぬかるんでおり、もう日も暮れたのだから明日の朝に延ばしてはと勧める者もいたが、正淑はそのまま出発したのであった。

 田園の道はすでに闇に包まれていた。車が万景台の方に折れると、土手の道が水に、浸ってどろどろしていて、車を進めることができなくなった。

 正淑は車を降り、コイと果物の包みを提げて、どろ道に足を踏み入れた。同行者が暗くて危険だからあきらめるようにと言って引き止めたが、山中で戦っていたときは何倍も危険な夜道を歩いたのに、これくらいの道がどうしたのですと言って、歩きつづけた。

 正淑を迎えた祖母は、「大したことでもないのに知らせたりして、お前がこんな夜道をやってきてくれたんだね。ときどき起きるちょっとした病気だからあまり心配することはない。これもみなあの悪どい日本人のためにかかった病気だから、そいつらが追い払われたいまは、この病気もすぐに治るだろうよ」と言うのだった。

 正淑は「おばあさまのおっしゃるとおりです。日帝が滅んで国の病気も治ったのですから、おばあさまの病気もきっと治るはずです」と言って祖母をなぐさめた。

 いつだったか、正淑が柱時計を買っていったことがあった。万景台の家には、そのときまで柱時計すらなかった。

 祖母は、こんな高いものをと言いながらも、とても喜んでくれた。

 祖母は時計を眺めながら、「あたしがほんとに欲しがっていたものを買ってきてくれたんだね。お前のしゅうとが中学校に通っていたとき、時間がわからなくて、おおよその見当で朝ご飯を炊いたもんだけど、あのころは、柱時計が欲しくてならなかったものだ。お前は、そんなあたしの気持ちまで察してくれたんだね」と言って涙ぐんだ。

 正淑は平壌を遠く離れた地方に出向いているときも、万景台の祖父母のことをよく考えた。

 1947年9月、将軍と一緒に金剛山に登ったとき、正淑は、土産物屋で自分のものは何一つ買わず、将軍の登山帽と祖父に贈る杖を買った。

 いまも、万景台を訪れる人たちは、縁側の隅に立てかけてあるその杖を見ることができる。

 このように孝心の厚い正淑のことであったから、万景台では、気立てのやさしい孫嫁の来るのを待ち、正淑が訪れると、お祭り騒ぎをするのであった。

 ある日のこと、祖母は将軍に、少し高くついても女性用の高級腕時計を手にいれてくれないかと頼んだ。柱時計もなしに過ごしてきた祖母が、突然女性用の腕時計を、それも高級品をと言うので、将軍はけげんに思った。

 将軍は、腕時計を買ってきて祖母に渡した。

 「おばあさん、これをどうするつもりなのです」

 祖母は腕時計を手にして言った。

 「お前たちが山中で、なにもなしに結婚したというのが気にかかって仕方がなかった。お前たちが帰ってきてずいぶん長くなるというのに、この年寄りはろくにもてなすこともできなかったし、服の一着も作ってあげられなかった。それで、お前の嫁に時計をあげたかったのだよ。あれが時計を手首に巻いているのを見たら、あたしの気持ちも少しは楽になると思ってね」

 このような祖母の愛情こもった腕時計を、正淑は愛用した。

 1949年9月、金正淑との永別にあたって金日成将軍は、もっとも近しかった革命戦友の手首に、その時計を巻いて野辺送りをした。





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