『金正淑伝』
 
8 最後の決戦の日に備えて


  訓練基地での軍事・政治訓練

 金正淑は1943年3月、わが子を抱いて白頭山密営を発ち、ハバロフスク近郊の訓練基地に向かった。

 当時、朝鮮人民革命軍は、訓練基地に依拠して小部隊作戦と偵察活動をおこなう一方、軍事・政治学習と訓練に専念していた。

 正淑は、訓練基地で人民革命軍の指揮幹部と隊員を祖国解放作戦を立派に遂行できる有能な軍事・政治活動家に鍛えあげ、ひいては新しい祖国建設のすぐれた担い手に育てあげようという将軍の意を体して、政治学習と軍事訓練に励んだ。

 正淑は、女子隊員たちの生活の指導にあたった。

 訓練基地における教育は、軍事一面に偏ることのない総合的な政治・軍事教育および訓練であった。

 正淑は、食事すら忘れるほど学習に熱中した。戦友が、学習も大事だが食事を欠かすのはよくないとたしなめると、食べ物より学習のほうがもっと貴重な革命の糧だと言ってほほえむのであった。

 将軍が、朝鮮人民革命軍政治幹部および政治教員におこなった演説『朝鮮の革命家は朝鮮をよく知るべきである』を熱心に学んで内容に通暁した正淑は、将軍の演説を学習してみると、白頭山の頂から全朝鮮を見おろすような思いがすると言うのだった。

 ある日、部隊では将軍の著作学習討論会が開かれた。そのとき、内容を掘りさげて把握した正淑の筋道だった討論に深い印象を受けた林春秋は、30数年が過ぎた後も、正淑の発言内容をほとんどそのまま人に話して聞かせていたほどである。

 訓練基地では、軍事理論学習のほかに実動訓練もおこなった。戦術、落下傘、射撃、スキー、無線電信など現代戦に備えての各種訓練が連日盛んにおこなわれた。それは、屈強な男子隊員ですら、くたくたになるほど激しいものであった。そうした訓練にも正淑をはじめ、すべての女子隊員が参加した。

 将軍は海洋国朝鮮の実情にかんがみ、水泳訓練に特別力を入れた。隊員のなかには、水泳というものを知らない女性が少なくなかった。ほとんどが海を知らずに育ったのである。正淑は、そのような女子隊員を水泳の上手な全順姫につけて習わせた。

 渡河訓練中、疲れておぼれそうになった隊員に正淑は、あの向こう岸を祖国だと考えれば力が湧くはずだと励まし、川幅数百メートルのアムール川を全員無事渡河するよう導いた。

 女子隊員にとっては、強行軍も苦しい訓練であった。

 1943年の冬、区分隊別の強行軍競技がおこなわれた。正淑を責任者とする区分隊は大半が女子隊員と年少の隊員で構成されていたが、他の区分隊をどんどん追い抜いてなんと一番最初にゴールインした。もちろん、落後者は一人もいなかった。この予想外の結果に指揮官も隊員もみな感嘆し、ともども正淑に祝いの言葉を述べた。

 落下傘訓練と空挺隊訓練を始めたときのことである。

 訓練指揮部では、安全上の理由で女子隊員を訓練から除外することにした。

 しかし正淑は、この訓練も祖国解放の最後の決戦に備えての訓練だから、女性を除外しないで欲しいと、訓練指揮部に強く申し出た。こうして、女子隊員も参加することになった。

 まず、着地時に両足をそろえる訓練と、回転椅子に座って抵抗力をつける訓練は円滑にいったが、次の訓練からはそれが容易でないことを知った。一部の女子隊員のあいだでは、空中から飛びおりるときに目を閉じてしまう欠点がなかなか是正されなかった。これを見た正淑は、この訓練は、敵を撃滅し、父母兄弟を解放するための訓練ではないかと言って女子隊員を力づけた。

 このようにして、女子隊員の降下動作は次第に上達していった。

 最初の飛行降下訓練が始まった。正淑は降下命令がくだると、「みなさん、地上でまた会いましょう」と言って、真っ先に飛行機から飛びおりた。女子隊員たちはその後につづき、全員指定の地点に正確に着地した。男子隊員たちは一斉に走り寄って、彼女たちに花束を渡した。

 正淑は、無線電信の訓練でも誰よりも早く送受信動作に習熟した。

 一部の安子隊員が看護訓練を軽視してこれにあまり力を入れないのを見た正淑は、わたしたちが治療法を知らなかったために大切な同志を失ったことをどうして考えないのです、それは一度や二度のことではなかったはずです、わたしたちは二度と大事な同志を失つてはならないのです。そんな悲しい思いをしたことを考えても、看護学を熱心に学びましょうと言い聞かせた。

 正淑にとってその日々のすべての訓練は、祖国解放の最後の決戦に備えてのものであった。

 休息を勧めたり訓練の度合いを加減しようという隊員に向かって正淑は、わたしたちには時間があまりありません、司令官同志とともに祖国へ進撃する日は遠くないのですと言うのであった。

 正淑にとっても1日は24時間であった。他人なら10、20日をかけてすることを、その24時間の間に将軍を助け、その意図するところを正確に実行し、また部隊内の大小の仕事を処理し、指揮メンバーと隊員の生活の面倒をもみた。訓練の合間には、山菜をとってきて食卓を潤すことも忘れなかった。

 このように正淑は、軍事・政治訓練ばかりでなく、部隊の生活を営むうえでも先頭に立って隊員たちを導き、祖国解放の日を早めるのに積極的に寄与した。


  名射手

 金正淑は訓練基地で、人民革命軍隊員の射撃訓練に深い関心を払い、常に、みずからその手本を示した。

 1944年3月のある日、基地では朝鮮自民革命軍の盛大な射撃競技大会が催された。それは、祖国解放の最後の決戦に各自がどのように準備したかが、試される重要な競技大会であった。

 隊員のなかには、日本軍との戦いで勇名をとどろかせた名射手が多かった。暗夜に百数十メートル先にある敵陣の電球をまたたくまに一つ残らず撃ち砕いて敵兵のどぎもを抜いた名射手もおれば、屋根の上にかかった電話線を1発の拳銃射撃で切断し、敵の通信を麻痺させた名射手もいた。

 競技種目は、小銃と拳銃、軽機関銃、重機関銃による射撃であった。小銃の射撃対象は、100メートル先の円形標的、200メートル先の半身形出現標的、300メートル先の走者形移動標的、それに100メートル先の5木のビンであり、拳銃の射撃対象は円形標的と3本のビンで、この3本のビンは振り向きざまに撃ち当でなければならなかった。

 射手たちがいれかわり立ちかわり出場して、その腕のほどを見せていくなか、いよいよ正淑が射台にあらわれた。すると、射撃場はしいんと静まり返り、全隊員の視線が正淑に注がれた。正淑の射撃は、百発百中という表現では、とても言い尽くせないほど伝説的な語り草となっていた。

 紅頭山戦闘のとき、隊員たちは正淑に敵を何名撃ち倒したかを聞いたのではなく、弾帯の弾丸が何発無くなっているかを見て、40名の敵兵が射殺されたことを確認した。

 正淑の驚くべき射撃術は、訓練基地でもいかんなく発揮された。スキー訓練中の休憩時間、一隊員のすぐそばからキジが一羽飛び立った。隊員たちはわれ先に銃をつかんで立ち上がった。何発もの銃声が同時に鳴り響いたが、キジは悠然と遠ざかっていった。そのとき、正淑がスキーを滑らせてキジを追った。滑走しつつ拳銃を抜き、ジャンプした瞬間に引き金を引いた。飛んでいたキジは、石ころのように落ちた。その見事な射撃に、指揮官も隊員もただただ驚嘆するのみだった。その場に居合せなかった隊員たちはその場面を見られなかったことを非常に残念がった。

 ついに射撃の合図が鳴り、同時に3発の銃声がつづけざまに上がった。信号手は、両手の旗を三度上げた。30点満点。3発が全部標的の銅貨ほどの中心を射抜いたのである。正淑はつづけて200メートル、300メートル先の標的もまたたくまに撃ち当てた。次の標的は,100メートル先に立てられた5本のビンであった。それらは、5つの点としか思われないほど小さかった。正淑は、沈着に狙いを定めて引き金を引いた。5つのビンは次々に砕け散った。

 つづいて拳銃射撃に移った。円形標的を射撃した後、振り向きざまに横木の上に置かれた3本のビンを撃つのである。3本とも命中させた射手はそれまで一人もいなかった。

 正淑は円形標的を射抜き、振り向きざまに3本のビンを次々に撃ち砕いた。正淑の射撃には、拍手よりも嘆声が上がるほどだった。「弾に目がある」「神様も脱帽する」……。

 その日の射撃競技で正淑は、一発の狂いもなくすべての標的に弾を命中させた。

 競技を総括した将軍は、最高点数を獲得して優勝した正淑に表彰として小型拳銃を授与した。全部隊が惜しみない拍手を送った。正淑の一発一発の命中射撃が、戦場で勝利の突破口を開き、朝鮮革命を危機から救ったことは一度や二度ではなかった。紅旗河戦闘のとき司令部の近くにしのび寄った敵兵を掃滅したのも、大沙河奥地の戦闘のとき将軍を狙う敵兵を一発のもとにしとめ、朝鮮革命と朝鮮民族の運命を救ったのも、正淑の百発百中の名射撃術であった。

 正淑はその拳銃を、踏みにじられた祖国と塗炭の苦しみをなめる人民を一日も早く解放するためにいっそうかたく握りしめるべき革命の武器、世界に帝国主義が残っているかぎり決して手放してはならない階級の武器として受け取った。

 射撃競技が終わると、隊員たちは正淑に、名射撃の秘訣を教えてほしいとせがんだ。なかには、その非凡な射撃術はもって生まれたものに違いないという者もいた。

 正淑はほほえみながら、まさかもって生まれた射撃術なんであるはずがないでしょう、これは、夢にもうつつにも司令官同志を守らなければという一念で熱心に練習を繰り返したおかげです、将軍のもとで戦う戦士にとって射撃術を高めることは、たんなる軍事的な義務ではなく、朝鮮民族の運命を一身に担う将軍を守る気高い使命なのですと言った。

 将軍を守る警護隊員には、たった一発の誤射も許されないというのが、正淑の生涯の信念であり、座右の銘であった。

 祖国が解放された後、正淑が将軍と一緒に万景台を訪れたときのことである。警護隊員たちは紺碧の空を舞うタカを見て、正淑に一度射撃のお手並みを拝見させていただきたいとせがんだ。彼らは、正淑の見事な射撃術については噂に聞いているだけで、実際に目撃したことのない新入隊員たちであった。

 正淑は、ただ笑うだけで応じようとしなかった。かたわらで、そんな様子を見ていた将軍の祖父金輔鉉が、「なんてことを。空飛ぶ烏をどう射止めるというのじゃ」と言った。正淑の射撃術について話は聞いていたが、矢のように飛ぶ鳥まで射止めるとはとても思えなかったのである。

 そのとき、空を見上げていた将軍が、正淑に一度撃ってみてはと言った。

 正淑は、すぐさま警護隊員から小銃を受け取った。空高く舞うタカは一つの点のようであった。しかし銃声が一発上がると、タカはまっさかさまに地上に落下した。祖父は、「ふうむ…… 確かに聞いていたとおりじゃ」と大きくうなずいた。

 正淑が将軍とともにある地を訪れたときに、拳銃射撃で岩に字を刻んだことや、金剛山の三日浦で、遠く波間に漂う標的を一発で撃ち当てたことは広く知られている話である。伝説のように語り継がれている三日浦の銃声…… 朝鮮人民は、これを『忘れがたい三日浦のこだま』という歌にして広くうたっている。

 朝鮮の歴史をひもとけば、数えきれないほど多くの名射手がいたが、その矢や銃弾に歴史と民族、革命にたいする無上の使命感をこめることはできなかった。

 正淑は、その一発一発の銃弾に、民族と革命の運命を守り将軍の安全をはかるという、祖国と民族から授かった大いなる使命感をこめていたのである。


  最後の決戦前夜

 1944年に入って、内外の情勢は朝鮮人民の祖国解放偉業の完遂にきわめて有利に展開していた。日本帝国主義は、朝鮮人民革命軍の小部隊、工作班の活動と、国内の労働者、農民をはじめ、各階層人民の各種形態の反日闘争、それに太平洋戦争と中国戦線での連戦連敗によって泥沼に陥っていた。

 当時、金正淑は、朝鮮人民革命軍の総攻撃と全人民的蜂起、敵背連合作戦など、祖国解放に向けた金日成将軍の3大課題を貫くため精力的な活動を繰り広げていた。

 正淑は、日本軍との最後の決戦をめざす軍事・政治訓練に励むかたわら、国内へ派遣される小部隊と工作班の活動も細心に指導した。正淑は、白頭山密営で長らく小部隊と工作班、地下組織の活動を指導していたため、鴨緑江と豆満江一帯の実情と国内各地の秘密根拠地については誰よりもよく知っていた。こうしたことから、国内へ向かう小部隊と工作班は、必ず正淑に会って密営を後にした。

 正淑はこの年の秋、国内へ向かう小部隊と工作班に、国内各地の革命組織をはじめ、生産遊撃隊、生産突撃隊、労働者突撃隊などと緊密なつながりをもって正しく導き、祖国の解放をめざす最後の攻撃作戦が開始されたとき、各自その役割を立派に果たすようにしなければならないとし、彼らが出向いていく地方の実情や情勢についても詳しく教えた。そして、彼らの旅装にも気を配り、途上の食べ物までこしらえて背のうに入れてあげた。

 一方、正淑は、みずからも、たびたび小部隊を引率して国内へ出かけた。

 国内で正淑は、すでに何度も指導した延社、茂山地区の党および祖国光復会各組俄の中核メンバーと会い、全民抗争の準備を早めるよう強調した。

 とりわけ、祖国光復会西頭水支会にたいする正淑の指導は、逆境を順境に、禍を福に変える非凡な英知と知略の模範であった。

 1939年以来、正淑の指導を受けて闘争を繰り広げてきた西頭水文会は、サボタージュと構造物・設備の破壊闘争を繰り広げ、ストライキでも勝利をおさめていた。ストライキでは、労働者突撃隊が大きな役割を果たした。西頭水支会は、武装蜂起の準備も進めていた。

 そうした西頭水支会に思いがけない事態が生じた。労働者の激烈な闘争によって窮地に追い込まれた日本帝国主義者は、太平洋戦争と中日戦争で莫大な人的・物的資源の損失ともあいまって、西頭水発電所の建設工事を中止することにしたのである。彼らは、労働者を禿魯江(現在の将子江)発電所工事現場と朝鮮南部の飛行場や海軍基地の工事現場へと移送しはじめた。軍事的に急を要する箇所に労働力を集中する一方、団結した革命勢力の分散をもくろんだのであった。

 水力発電所工事の中止によって、数千名の労働者が各地に散っていかざるをえなくなり、革命勢力は分散を余儀なくされることになった。

 組織の中核メンバーは毎日のように集まって対策を練ったが、これといった打開策は見出せなかった。

 彼らが考えだした対策といえば、まず移動しなくてもよい組織のメンバーには他の職場を斡旋して当地を離れないようにさせ、移動を強要されたメンバーは、さまざまな口実を設けて移動を避けるというものであった。しかし、これは可能性の薄いびほう策にすぎず、革命大衆の解体は避けられなかった。

 支会の責任者は、苦労して育てた組織のメンバーと、闘争のなかで鍛えられた労働者が散り散りになると考えると残念でならないと悲痛な表情で正淑に訴えた。事実、他に方法はなさそうだった。

 しかし正淑は、事情が困難になり複雑になればなるほど将軍の教えを深く研究し、そこから解決策を見出すべきであり、問題を狭い枠内で考えず、全般的範囲で幅広く考えなければならないとし、全国的範囲で全民抗争を準備するという将軍の方針を詳しく説明した。そして、日本帝国主義者は労働者を他の工事現場へ送って、軍事的になお急を要する箇所を埋め合わせる一方、団結したわが革命勢力を分散させ弱体化させようと狙っているが、我々はこの機会に当地で豊富な闘争経験を積んだ組織のメンバーと労働者を集中的に教育し訓練して、各地域に送り込み、彼らが他の工事現場で大衆に革命的影響を与え、先鋒的役割を果たすようにすべきである、これは結局、日本帝国主義にたいする全民抗争の準備に向けて多くの中核分子を広大な地域に派遣することになると言った。また、遠く三南地方(忠清・全羅・慶尚南北道)出身の者たちにも、故郷に帰って父母妻子や兄弟、友人たちを組織に結集して日本帝国主義との決戦に立ち上がらせる準備を整え、白頭山から人民革命軍が進撃してくれば、力を合わせて故郷を解放し、解放された祖国で再会することを約束すればいいだろうと教えた。

 その後、西頭水発電所の工事現場からは、組織のメンバーと革命化された多くの労働者が全国各地に散っていき、その行く先々で全民抗争をめざす組織がつくられはじめた。

 日本の官憲が控え目に発表した資料によっても、当時、国内には180余の反日地下組織に50余万人が結集されていた。

 正淑は、茂山地区の党組織責任者には、鉱山の青年労働者によって組織された抗戦組織「白衣社」の活動方向を教え、延社地区の党組織責任者には、全民抗争に備えた武装隊の隊列を早急に拡大する方途をはじめ、武装の強化対策、武装隊の訓練問題などについて助言を与えた。

 さらに、各地域の祖国光復会組織責任者と会って彼らの活動状況を聞き取り、全人民を日本帝国主義者との最後の決戦に立ち上がらせる祖国光復会組織の課題を示した。彼らのなかには、ソウルから来た祖国光復会組織の代表もいた。

 彼からソウルにおける活動状況を聞き取った正淑は、1937年7月に北青で知り合いソウルに送り込んだ李英の安否を尋ねた。

 当時、正淑は、国内の小部隊と工作班、革命組織にたいする全般的指導を担当していた。

 ファシズム・ドイツが敗亡し、日本帝国主義者の滅亡が目前に迫った時期に、正淑は、将軍から豆満江沿岸とと北部朝鮮一帯の小部隊と工作班、革命組織の最後の決戦準備を指導する任務を受け、再び国内へ向かった。

 正淑は、人民革命軍の総攻撃作戦の戦略的要衝である先鋒および羅津(現在の羅先市)などで偵察任務を遂行している小部隊と工作班を指導した。

 正淑は、小部隊と工作班のメンバーに、偵察活動に革命組織のメンバーと愛国的人民を積極的に引き入れる一方、特に、敵としばしば接触する者や敵の機関に勤める者たちへの工作を積極的におこない、彼らを通じて敵の軍事情報など敵情資料を適時、正確に集めなければならないと強調した。

 当時、先鋒市内には反日会の名を持つ祖国光復会組織があり、そこには、日本の官憲としばしば接触する者たちも少なくなかったが、偵察班は彼らとの連携を意識的に避けていた。以前、一部の工作班が顔見知りでない民家に泊まり、主人の密告で犠牲になったり、偵察中、山中で見知らぬ人に会ったことから敵の追撃を受けた例もあったのである。

 正淑は、そんなことで気を遣っている者たちに、こう言って聞かせた。

 ──味方を正しく見分けず、油断して行動すれば、敵の罠にかかる恐れがある。だからと言って人民を信じようとせず、まして、革命組織の者たちまで信頼できないとすれば、どうやって敵中活動をおこない、革命闘争で勝利をおさめようというのか。もちろん、敵中活動の過程で敵の密偵や手先のために胸の痛む犠牲を払ったこともあり、苦しい試練を経験したことも少なくない。しかし、それはごく少数の民族反逆者の行為であって、決して人民が悪いからではない。我々は、人民を教育して反日闘争隊伍に結集し、彼らと団結して祖国の解放をなし遂げようとしているのである。だから、人民を我々と同じ塹壕でたたかう革命同志とみなすべきであり、彼らを信じ、彼らに依拠してたたかうことを常に行動の準則としなければならない。……

 これは、正淑が以前から一貫して守ってきた持論であり、行動準則であった。

 正淑は小部隊と工作班のメンバーに、常に強い革命的警戒心をもち、どんな不慮の事態にも主動的に対処できるよう準備しなければならない、そして、いったん機が熟せば、敵の武力と軍事対象を一撃のもとに撃滅する戦闘態勢を十分に備えていなければならないと強調した。そして、小部隊と工作班が、将軍の方針貫徹において司令部の目となり、耳となり、手足となって、抗日大戦で最後の勝利を遂げるために大いに貢献するものと信ずると励ました。

 清津地区の革命組織には、車廠子遊撃根拠地で遊撃隊生活をしていたとき、排外主義者から「民生団」の嫌疑をかけられて当地に身を避け、組織のメンバーになっている者がいた。彼は当時、祖国光復会の下部組織である「土幕反日労働者同盟」の責任者を務めていた。車廠子遊撃根拠地で彼と顔見知りであった正淑は、その間10年の歳月が流れていたが、彼を信じてためらうことなく会った。

 思いがけず正淑に会えた彼は、感激と喜びにただ嗚咽するばかりであった。正淑は彼に、全民抗争のための課題を話し、最後の決戦で誰よりも勇敢にたたかってほしいと信頼を寄せた。彼は、将軍の命令に従って最後の決戦で生命を賭してたたかうことを誓った。

 その後、彼は誓ったとおり立派にたたかい、祖国の解放後は清津市保安署の副署長となり、正淑を清津に迎えたときはその護衛任務を果たした。

 正淑はさらに、恩徳地区や甑山地区など敵の戦略的要衝へ出かけ、その一帯の小部隊と工作班に、最後の決戦時に敵背撹乱作戦を展開できるよう、万端の準備を整える任務を与えた。

 後日、最後の決戦が繰り広げられたとき、この一帯の全民抗争組織は大きな役割を果たした。

 訓戎、馬乳山一帯の人民武装隊は、敵の火薬庫と砲弾・弾薬が野積みされた場を爆破して、全般的戦闘の勝利に大きく寄与した。会寧地方の鵲峰武装隊は、退却してくる敵兵を掃討し、火薬庫とガソリンタンクを爆破した。彼らは、自力で会寧市を解放し、敵の航空機5機をはじめ、数10門の高射砲と大量の衣服・装具類を分捕った。

 先鋒−羅津地区、恩徳−先鋒地区など日本軍が10年余をかけて構築した要塞区域が、わずか数日間で崩壊したのは、全人民的蜂起と敵背撹乱作戦が果敢に展開された結果であった。

 羅津と城津も人民武装隊によって解放された。

 正淑が、祖国解放の最後の決戦前夜に活動拠点とした白鶴山は現在、史跡として立派に整備されている。

 白鶴山の革命史跡では、正淑の革命活動のエピソードや白鶴山の新しい伝説も聞くことができる。そのなかには、「白頭山女将軍は縮地法を用い、変身術にも長じている」「日本人を盲にする道術も使う」という伝説もある。

 1945年8月9日、将軍はついに朝鮮人民革命軍各部隊に祖国解放をめざす攻撃作戦の開始を命じた。

 万端の戦闘態勢を整えていた人民革命軍の各部隊は、ソ連軍とともに全戦線にわたって一斉に総攻撃を開始した。

 これに呼応して人民武装組織の敵背打撃戦と全民抗争が果敢に展開された。

 1945年8月15日、日本帝国主義は敗北した。

 抗日大戦の勝利には、いつどこにあっても、金日成将軍を政治的、思想的に生命を賭して守り、その革命路線と方針を先頭に立って貫徹した金正淑の偉勲が秘められている。





inserted by FC2 system