『金正淑伝』
 
7 必勝の信念


  小哈爾巴嶺会議の直後

 日本帝国主義者は「大東亜共栄圏」の野望を遂げるため、中日戦争を終結できないまま東南アジア地域に戦火を拡大しつつ、「後方の安全」を確保するため朝鮮人民にたいする未曾有の政治的暴圧と経済的収奪を強行する一方、20万の精鋭部隊を投入して朝鮮人民革命軍の「完全掃滅」を狙う全面的な大「討伐」攻勢を展開した。

 国際的には、第2次大戦の炎が全世界に燃え広がっていた。

 情勢はますます厳しくなっていたが、金日成将軍は祖国の解放を確信し、その日を主動的に迎えるための戦略的方針をうちだした。

 1940年8月10日と11日の両日、小哈爾巴嶺で開かれた朝鮮人民革命軍軍事・政治幹部会議で、将軍は、祖国解放の大事を主動的に迎えるため、朝鮮革命の枢軸をなす人民革命軍の力量を保持、蓄積しながら、彼らを有能な政治・軍事幹部に育てるとともに、朝鮮人民を政治的、思想的にしっかりと備えさせ、全国的な規模で全民抗争の準備をおし進めるべきだとし、そのためには、大部隊作戦から小部隊作戦へ移行しなければならないとする新たな方針を示した。

 会議後、人民革命軍の各部隊は、小部隊と工作班および軍事・政治訓練をおこなう部隊に再編成された。

 そのころ、金正淑は、将軍の指揮のもとに進められた安図県黄花甸子付近の沼沢地戦闘、延吉県発財屯付近戦闘など数々の戦闘や小部隊活動に参加し、行く先々で人民を祖国解放の聖戦へと立ち上がらせる大衆政治活動を繰り広げた。

 同年9月、正淑は将軍にしたがって間白山密営に到着した。それは、白頭山の主峰と間白山の間につくられた密営で、広い盆地に展開されていた。

 小哈爾巴嶺会議以降の小部隊と工作班の活動状況を全般的に確認した将軍は、小部隊・工作班責任者会議を招集した。正淑も会議に参加した。

 将軍は会議で、小部隊、工作班のメンバーがみずからを有能な軍事・政治幹部に鍛えるとともに、北部朝鮮一帯の有利な山岳・樹林地帯に臨時秘密根拠地と活動拠点を設け、重要な産業地帯と農漁村に深く入り込んで広範な大衆を意識化、組織化し、各種形態の反日闘争をより強力に展開する具体的な課題と方途を示した。さらに、一部の小部隊を新たに編成し、小部隊と工作班の活動区域を分担した。

 このころ、人民革命軍小部隊・工作班の縦横無尽な活動によって大混乱に陥った日本帝国主義者は、将軍のいる司令部の行方を突きとめようと血眼になっていた。「討伐隊」のほか、多くの密偵や革命の裏切り者が山や谷をくまなく捜索した。

 こうした状況下で、正淑は、将軍の身辺の安全を守ることを直属小部隊の第一の任務とみなした。

 正淑は、小哈爾巴嶺会議の直後に開かれた小部隊の党細胞会議で、司令官同志の身辺にいる我々司令部護衛兵の任務は、1にも2にも3にも司令官同志の身辺護衛を立派におこなうことである、司令官同志が朝鮮革命の陣頭にしっかり立っていてこそ、祖国の解放も革命の明るい未来もあるということを我々は肝に銘ずるべきだと強調した。

 正淑は、将軍の指揮のもとに進められた小部隊活動の日々、常に真っ先に立って危機を切り抜けていく先兵となり、将軍の安全を命を賭して守る交替なき哨兵となった。行軍の際には、隊伍の先頭に立って辺りに目を配り、宿営時には時を問わず周囲を見回って安全を確かめるのを常とした。

 司令部直属の小部隊が安図県黄溝嶺基地で活動していた1940年10月のある日の明け方、敵が司令部の位置を探り当てたようだから、迅速に移動するようにという将軍の指示により、小部隊は出発の準備を急いだ。

 隊員たちが朝食を終えかけたとき、歩哨に立っていた機関銃副射手の李乙雪がテントの中に入ってきた。どうしたのかと聞く隊員に、彼は、司令官同志が食事をするようにと言い、歩哨をかわってくれたと答えるのだった。

 正淑は話を最後まで聞こうともせず、テントを飛び出そうとした。その瞬間、監視所の方から「誰だ!」という将軍の声とともにモーゼル拳銃の銃声が響いた。ついで、機関銃の火を噴く音がした。

 正淑は「司令官同志!」と叫ぶが早いか、監視所めがけて駆け出した。雨あられと飛び来る銃弾も気に留めなかった。

 将軍は、倒木を盾にして這い寄る敵兵に命中弾を浴びせていた。正淑は、すばやく将軍をわが身でかばい、敵の機関銃射手を撃ち倒した。

 「司令官同志! 危険です。早くここを避けてください」

 危険きわまる瞬間であった。

 李乙雪をテントに送った将軍は、倒木に腰をおろして今後の作戦を構想していた。そのとき、どこかで枯れ枝の折れる音がした。密林で枯れ枝が折れるのはごくありふれたことであった。しかし将軍は、長年の戦いの過程で身についた第六感で、敵兵がすぐ近くに接近していることを察知した。将軍は、倒木から滑りおりながらモーゼル拳銃を抜き、音のした方向に向けて射撃した。ほとんど同時に、敵の機関銃の音が鳴り響いた。大勢の敵兵が、朝もやに乗じて宿営地を包囲し、じりじりと接近していたのである。彼らは、宿営地のすぐ近くまで来て機関銃を据え、引き金を引こうとした瞬間、枯れ枝を踏んだのである。

 将軍は、機関銃射手と数名の隊員に敵を牽制するよう指示し、残りの隊員には戦闘に有利な裏山の台地を占めるよう命じた。

 「みなさん! 司令官同志を守って早くあの台地に登るのです」

 正淑はこう叫ぶと、機関銃射手のそばに身を伏せ、援護射撃をはじめた。敵の攻撃はすさまじかった。朝鮮革命の司令部をなんとしても掃滅しようという魂胆であった。

 モーゼル拳銃をしまい、弾倉をかえて機関銃をつかんだ正淑は、猛烈な射撃を加えた。敵兵は頭をもたげるとともできなかった。

 やがて、からみあったヤマブドウのツルを銃剣で切り払いながら台地にたどり着いた隊員たちが射撃を開始し、ついに敵を完全に制圧した。

 敵軍は、裏切り者の林水山が道案内してきた「特殊部隊」であった。敵を駆逐し、戦場を捜索していたときにこのことを知った隊員たちは怒りに震えた。かつて、師団の参謀長まで務めたことのある男が、悪辣な日本帝国主義者の手先になりさがったことに憤慨せざるをえなかったのである。

 正淑は、林水山をよく知っていた。正淑が蔵財村で児童団の指導員をしていたころ、彼は、そこで中隊政治指導員を務めていた。

 正淑は小部隊の隊員たちに、革命家は良心を失うと変節するものである、革命家にとってもっとも大切なのは革命的良心であり、もっとも有力な武器は革命勝利の信念である、革命家が良心と信念を失えば革命を放棄して敵に投降し、同志たちに銃口を向けるようになる、林水山の例がそれをよく示していると話した。

 林水山はその後、日本帝国主義者からも見捨てられて酒売りになりはて、祖国が解放されたことも知らずに日々を送っていた。そして、普天地区で日本軍の敗残兵を掃討していた柳京守の手で逮捕された。

 司令部直属の小部隊で、正淑は炊事と病人の看護を担当しながら、全隊員の面倒を見た。

 隊員たちに冬の軍服を着せることになったとき、正淑は連日、夜も寝ずにたき火のそばで軍服を縫った。それを見かねた全文燮が、自分が縫ってみると言うと、正淑は、簡単な縫い物さえしたこともないあなたに軍服など縫えるはずがない、と笑って取り合おうともせず、最後の軍服まで独りでつくりあげた。

 そのころ、将軍は、連絡員が戦死したため音信の絶えた呉白竜小部隊のことを気にかけ、日に何度も、彼らがまともな軍服を着ているだろうか、飢えに苦しんでいるのではなかろうか、とつぶやくことがあった。深夜や早暁に密営のはずれまで足を運んだこともたびたびだった。

 正淑は、呉白竜小部隊の隊員たちの名前を一人ひとり思い浮かべては、彼らの背丈や体格を考えながら綿入れの軍服を縫い上げた。そして、たばこ入れをつくり、「革命勝利」「祖国解放」という必勝の信念を抱かせる文字を縫い込んで、冬服のポケットに一つずつ入れた。

 綿入れの軍服とたばこ入れを見た将軍はたいへん満足した。

 「本当に立派なことをしてくれた。敵中で苦労している同志たちがこの綿入れを受け取ったら、どんなに喜ぶことだろうか。寒さに震え、飢えに苦しんだこともすっかり忘れてしまうに違いない」

 司令部直属の小部隊は将軍に従い、一刻も早くソ満国境地帯に向かわなければならなかった。将軍はそのとき、朝鮮人民革命軍と東北抗日連軍、ソ連極東軍との連合作戦問題を討議するため、ハバロフスクで開かれる会議に参加することになっていたのである。

 ところが、出発の日になっても呉白竜の小部隊はあらわれなかった。

 部隊が出発する前に、正淑は隊員たちと一緒にたき火の跡の地面を掘り、枯れ木を切って底に敷いた後、そこに綿入れの軍服と2俵の米を埋めた。

 その後、遅れてそこに到着した呉白竜小部隊は米と軍服を見つけた。湿り気一つない冬服のポケットに刺繍入りのたばこ入れが入っているのを見た彼らは、「金正淑同志の心づかいだ!」と歓声をあげ、感激に目をうるませた。

 司令部直属の小部隊が、汪清県百草溝や蛤蟆塘で軍事・政治活動を繰り広げ、琿春付近に至ったときは、もう薄氷が張りはじめた初冬であった。

 ある日、宿営命令がくだると、相次ぐ、戦闘と行軍に疲れきっていた隊員たちは、たき火の前ですぐ眠り込んでしまった。

 その間に、正淑は谷間に降りていき、薄氷の張った谷川の水で将軍の衣服を洗った。洗濯を終えたとき、正淑の軍帽からのぞいている髪や眉は霧氷で白くなり、唇は真っ青になっていた。

 正淑が洗濯物をたき火で乾かしていたとき、非常呼集の号令がかかり、出発命令がくだった。敵が近くにあらわれたのである。

 正淑は、濡れた衣服をたたんで懐の中に入れた。

 小部隊は、直ちに行軍を開始した。

 次の宿営地で、手入れの行き届いた乾いた衣服を持って司令部のテントに入ってきた正淑の顔は、寒さのため真っ青になっていた。乾いた清潔な衣服と凍えた正淑の顔を見比べながら、将軍は低い芦ではあったが、強く面詰した。

 「誰が、きみにこんなことをしろと言ったのだ?!」

 「……」

 正淑は口を閉ざし、その場に立ち尽くしていた。

 将軍は声を和らげてこう言った。

 ……わたしを思っての、きみの誠意には頭がさがる。それだけは、いつもありがたいと思っている。しかし、どんなつもりでそんなことをしたのだ。そんなことをして傷寒にでもかかったらどうするのだ。きみを犠牲にしていい目を見ても、わたしの心が安らぐはずはない。

 金日成主席は後日、そのときの心情を次のように述懐している。

 「ひどく凍えて真っ青になった彼女の顔を見て、わたしは涙が出そうになった。生前の母にもできなかったことを彼女がしたのだと思うと、何をどう言ったらよいのかわからなかった。母でさえできなかったことを、みずからすすんでなした金正淑の犠牲的な同志愛、それはいま思えば、司令官にたいする革命的な同志愛であると同時に、熱い人間愛でもあった」

 将軍はそれ以上言葉をつぐことができず、テントを出た。外は、ぼたん雪が音もなく降りしきっていた。

 将軍はゆっくり歩を移しながら、2年前、双山子戦闘の際にあった出来事を思い浮かべた。

 それは、将軍みずからが機関銃を手にして戦わなければならないほど熾烈な戦闘であった。一息入れて食事をとるひまもなかった。ところが、急に脇腹にぬくもりが感じられた。ポケットを探ってみると、なんとマントーが入っているではないか。あたりを見回すと正淑が戦場をぬって、隊員たちにマントーを配っていた。

 また、ある戦闘の際、指揮をとっていた将軍は、誰かが自分のポケットに何かを入れる気配を感じた。振り返ってみると正淑だった。それは、松の実を一粒一粒割って紙に包んだものだった。戦闘が終わったあと、将軍がどこで手に入れたのかと聞くと、正淑はただ微笑を浮かべるだけだった。将軍は、自分が着用している綿入れの外套についても回想した。それは、真綿が銃弾を通さないということを知って正淑が機会あるたびに真綿を集め、幾晩も眠らずに縫い上げたものであった。外套が将軍の体にぴったり合うのを見て、正淑はうれしさを隠しきれなかった。

 正淑はまた、暇を見ては将軍のために毛糸の靴下や腹巻きを編んだ。季節が変わるたびにつづけられることだったので、いつか将軍が毛糸はどこからどう手に入れるのかと尋ねたことがあった。そのときも、正淑はただほほえむだけで、なんとも答えなかった。正淑には、毛糸の靴下があるのかと聞いても、やはり答えなかった。将軍が重ねて問いかけると、正淑は物静かにこう答えた。

 「将軍は大事をあずかっておられるのですから、そんなことを気にすることはありません」


  「他郷で春を迎え」

 1941年1月初旬、ハバロフスクでは、満州で活動する朝鮮人民革命軍と中国人抗日武装部隊、ソ連極東軍各代表の会議がコミンテルンの名義で招集された。

 ハバロフスク会議で重点的に討議されたのは、東北抗日連軍と朝鮮人民革命軍の活動方向に関する問題であった。会議では議論の末、今後の活動は、小部隊活動、大衆工作、実力培養に基本をおくことにした。これは、金日成将軍が小哈爾巴嶺会議で示した方針と一致するものであった。会議ではまた、ソ連領内の訓練基地を根拠地にして、朝鮮と満州の広い地域で小部隊活動を展開することについても合意を見た。

 ハバロフスク会議後、ソ連極東地域に南キャンプと北キャンプが開設され、朝鮮人民革命軍の一部の部隊は南キャンプに集結した。

 金日成将軍は、人民革命軍各部隊を小部隊に再編成して国内および満州一帯に派遣することにし、みずからも1小部隊を率いて白頭山東北部と国内に進出し、軍事・政治活動を展開する決心を明らかにした。そして金正淑には、白頭山密営に行って、国内各地と長白一帯に派遣されている小部隊と工作班に司令部の作戦的意図を伝え、小部隊と工作班および革命組織の指導にあたる任務を与えた。

 正淑を白頭山地区に派遣する問題が持ち上がったとき、指揮メンバーは非常に心配した。彼らが心配するのも無理はなかった。そのころ、日本帝国主義者は、対ソ侵略戦争を予定して前年初秋から朝鮮人民革命軍への大々的な攻勢を強行する一方、朝鮮人民にたいする未曾有のファッショ的暴圧と収奪を強化していたのである。こうした状況のもとで、各地に分散している小部隊と工作班の活動を指導するというのは容易なことではなかった。まして、内外の情勢が複雑をきわめているとき、身近にあって将軍を補佐すべき正淑が長期間将軍のもとを離れるというのは、慎重を期すべき問題であった。

 将軍は、彼らのそうした憂慮ももっともだと思った。しかし、ほかのことならともかく、この任務だけは、現地の実情に明るく、地下工作の経験を積んだ彼女をおいて適任者はないとし、正淑に白頭山密営へ行く準備を整えるよう指示した。

 その日以来、正淑は、先に小部隊活動の途につく将軍と工作地に向かう隊員たちの旅支度を手伝いながら、みずからの出発準備を急いだ。

 そんなある日、隊員たちが将軍に写真を撮りましょうと言った。将軍が小部隊の工作に出かけたらいつまた会えるかわからないので、写真を撮って記念に残そうというのであった。

 気の早い隊員が、カメラを手にして、将軍はお顔だけ貸してくださればいいのです、とおどけた調子で言った。指揮メンバーの崔賢や安吉も同じ思いで、外で撮影場所を定めて将軍を待っていた。

 将軍は、みんながどうしてもと言うなら、今日は天気もよいことだし写真を撮るのも悪くなかろうと言って外に出てきた。将軍は春の水気を含みはじめたシラカバの木の前で、指揮メンバーと写真を撮り、隊員たちとも何枚か撮った。そのとき誰かが将軍に、小部隊工作に出かける記念に正淑同志と1枚撮るようにと勧めた。それを聞いて正淑は顔を赤らめ、女子隊員たちの後ろに隠れた。女子隊員たちは正淑の背中を押して将軍の傍らに立たせた。その瞬間を逃さず、「カメラマン」がシャッターを切った。それは、正淑にとって結婚記念写真とも言えるものであった。

 前年の晩秋、訓練基地へ向かう苦しい行軍の途上で結婚を公表してからも、多忙な二人はゆっくり話を交わす時間すら見出せずにいた。それがこの日、戦友一同の祝福を受けながら、末永く伝えられることになる記念写真を撮ったのである。将軍は、その春を永遠に記念しようと、写真の裏に、「他郷で春を迎え、1941・3・1」と記した。

 もともと将軍と正淑は、祖国を解放する前に結婚しようとは一度も考えたことがなかった。他の同志たちの場合も同じだった。しかし、祖国の解放は1年や2年で達成できるものではなく、革命は代を継いでつづけなければならない事業であった。それに歳月は人を待ってくれるものではないため、二人は思い直して結婚に踏み切ったのであった。

 実に、他郷で迎えたその春は、二人の生涯にとって忘れることのできない祝福すべきものとなった。

 戦いは困難をきわめ、革命の道は遠い。これからまた、いかに多くの春を他郷で迎えることになるのかわからない。しかし、解放祖国の春を早く迎えるため、再び厳しい国内遠征の道を歩まなければならない二人であった。

 数日後、将軍は正淑に、豆満江沿岸一帯の政治工作班と革命組織の活動状況を確かめ、5月中旬までに汪清県夾皮溝臨時秘密根拠地に到着するよう指示し、小部隊を率いて先に遠征の途についた。

 その前に正淑は、人知れず自分の髪を切って将軍の軍靴の底に敷いた。正淑はひたすら、遠く険しい道を歩む将軍の無事を祈ったのである。

 人民革命軍の隊員たちは、明日への確信と楽観に満ちて小部隊活動を果敢に展開する一方、軍事・政治訓練に拍車をかけた。

 そうした4月中旬、ソ連と日本の間に中立条約が締結された。このニュースは革命家たちに大きな衝撃と失望を与えた。人民革命軍の隊員のなかにも、朝鮮革命の前途を憂え、悲観するものがあらわれた。

 こうした状況を察知した正淑は、出発の準備で多忙をきわめていたが、隊員たちを集めてこう言った。

 「我々は情勢が複雑になるほど、自国人民の力を信じ、みずからの力で自国の革命を責任をもって最後までやり遂げるという意志と信念をもたなければなりません」

 つづいて正淑は、大国の援助なしには祖国を解放できないと考えるのは事大・依存思想だ、我々は他人に頼って革命をはじめ、他人の力に依存して革命を進めてきたのではない、我々はひたすら将軍に従う広範な人民大衆を組織、動員し武装させて、強大な日本侵略軍と戦っているではないか、我々が革命で勝利するためには司令官同志のお言葉どおり、事大・依存思想を捨て、自己の革命力量をさらにしっかりと整えなければならないと強調した。

 その後も、正淑は、指揮メンバーや隊員たちにたびたび会って、日ソ間の解消しがたい矛盾、そして朝鮮革命の勝利の必然性について話して聞かせ、彼らの胸に将軍の思想と路線にもとづく必勝の信念を植えつけた。

 5月の初め、正淑は小部隊を率いて訓練基地を発った。

 正淑は、豆満江沿岸一帯の政治工作班と地下組織の活動状況を確かめたあと、5月中旬、汪清県夾皮溝臨時秘密根拠地に到着した。

 秘密根拠地の外哨で金一が正淑を迎えた。司令部へ案内された正淑は将軍に、訓練基地から当地へ来る途中に確認した豆満江沿岸一帯の政治工作班と地下組織の活動状況および各地の小部隊から届けられた通信資料、それに、みずから収集した情勢資料を報告した。報告を受けた将軍は、貴重な資料だと言って満足した。

 正淑はまた、日ソ中立条約の締結に関連して隊員たちのあいだに見られる思想的動揺と偏向について詳しく報告した。

 将軍は指揮官たちに向かって、自分も予測していたことだが、この問題を速やかに解決しないことには朝鮮革命は大きな難関にぶつかることになる、できるだけ早く国内に入って小部隊と工作班の責任者と組織メンバーの会議を開き、彼らに日ソ中立条約にたいする正しい認識を与え、革命闘争で自主的立場を堅持するよういま一度強調する必要があると述べた。

 将軍の指示により、会議の準備のため指揮官の一人が直ちに現地に派遣された。

 その後、将軍は、「我々の力で朝鮮革命を完遂しよう!」というスローガンをうちだし、人民革命軍内の事大・依存思想を一掃し、自力で朝鮮革命をなし遂げるための教育活動を強化する措置を講じた。

 5月中旬、正淑は、将軍にしたがって夾皮溝臨時秘密根拠地を後にした。隊伍は二道河子を経て安図県寒葱溝に至った。

 将軍は正淑に、6月の中旬に国内と長白地区で活動している小部隊と工作班、革命組織責任者の会議を開く予定だと言い、この一帯で活動中の各小部隊と工作班の責任者に連絡して、間白山密営に呼び集めるよう指示した。

 正淑は、韓昌鳳、韓泰竜など小部隊のメンバーを伴って寒葱溝を発った。目的地は白頭山密営であった。

 安図県小沙河に至ると、正淑は、その一帯の革命組織の活動状況を確かめるよう指示して一部の隊員を残した。そして、長白県十五道溝天上水付近でいくつかの班に分けて各地域に派遣し、自分は佳在水村へ行くことにすると言った。

 隊員たちは、正淑が村へ行くことに反対した。しかし正淑は、「恵山事件」によって当時、長白一帯の多くの組織が破壊されたにもかかわらず、佳在水一帯の組織は健在で立派に活動していた、苦難の行軍の際にも危険をものともせず、我々に物心両面の支援をしてくれた、いま彼らは我々との再会を待ち焦がれているに違いないと言い、先に立って歩いた。

 長い間組織との連係が絶えてもどかしい思いをしていた当地の組織メンバーに会った正淑は、当面の情勢と祖国解放の大事を主動的に迎えようという将軍の構想を説明し、勝利の確信をもってさまざまな大衆闘争を果敢に展開するよう強調した。

 その後、正淑は韓昌鳳、韓泰竜の二人が待っている桃泉里の胞胎山に向かった。

 小部隊は、数日間胞胎山に留まり、下崗区一帯の村々の実態をくまなく調査した。

 やがて、胞胎山を後にした小部隊は、黒瞎子溝方面に向かい、途中、十九道溝徳富洞付近で銃を肩にしたまま釣りをしている二人の「満州国」軍兵士を捕らえた。二人は、自分たちは紅頭山一帯に駐屯中の「満州国」軍に所属し、長白一帯の「治安」が「確保」されたので帰郷する準備をしているところだと言うのだった。これは、当地域の敵が安心しきっていることを示す重要な情報であった。

 二人の陳述と、工作班が各地で入手した資料にもとづいて敵情を分析した正淑は、敵が油断している間に革命組織を国内に拡大する活動を積極的におし進めるべきだと考えながら、行軍をつづけた。

 一行は、6月の初めに白頭山密営に到着した。


  再び白頭山密営で

 白頭山密営の小部隊の隊員たちと会った金正淑は、休息する間もなく、間白山会議に参加するメンバーを呼び集めるため各地に連絡員を送る一方、将軍に提出する活動報告を準備した。そのあと、密営の責任者と一緒に、将軍の指導のもとに開かれる重要会議の場所に定められた間白山密営に向かった。ここで正淑は、会場と会議参加者の宿所を見て回り、会議の準備に手抜かりのないよう当地に留まって綿密な手配りをした。

 その間、白頭山密営では、丸太小屋を一棟新築する作業が進められた。正淑の使う小屋であった。それまで正淑は、裁縫隊の営舎で女子隊員たちと一緒にすごしていた。韓昌鳳、金俊益らは、小白水のほとりにある将帥峰(現在の正日峰)の麓の日当たりのよいところに敷地を定め、太さの一様な良質の木を切り出して丸太小屋を建てた。

 当時は誰も、この丸太小屋が半世紀後に「白頭山密営の生家」と呼ばれる歴史的な建物になるとは思ってもいなかった。

 その数日後の6月中旬、将軍が白頭山密営に到着した。間白山密営から帰って待機していた正淑は、将軍を司令部にあてられている丸太小屋に案内した。将軍の護衛を務めていた抗日革命闘士金益鉉は、その日のことをこう回想している。

 ……金日成将軍につきそって司令部の小屋に足を踏み入れたとたん、わたしはびっくりした。……:机と椅子は新しく作られ、やかんもピカピカした新品に取り替えられていた。密営の責任者に、こうまでするにはずいぶん苦労しただろうと話しかけると、彼は手を左右に振って、これはみな金正淑同志によるものだと答えた。

 正淑は将軍に、国内各地と長白一帯での小部隊と工作班、革命組織の活動状況について報告した。

 それが終わったのは日暮れどきだった。このとき密営の責任者は、小白水のほとりに新築した丸太小屋のことを将軍に報告した。密営の隊員たちが誠意をこめて建てたその丸太小屋は、正淑が入ることを拒んでいたので、まだ空き家のままであった。

 将軍は驚いたようにしばらくおし黙っていたが、やがて、みな久しぶりに会ったのだから、夕食を一緒にとり、そのあとで相談しようと言った。食卓には、キビとアワを混ぜて炊いたご飯と、イワナ、山菜の副食が並んでいた。

 食後、将軍は正淑に向かって、密営の同志たちが誠意をこめて建ててくれた家ではないか、革命活動をもっと立派におこなってみんなの愛情にこたえることにし、せっかく建てた家だから、彼らの誠意を受け入れるほうがよいと言った。指揮官や隊員たちも将軍の勧告に熱烈に賛同した。こうして、正淑は小白水のほとりのこぢんまりとした丸太小屋に入ることになった。

 二日後、正淑は、将軍に従って間白山密営へ出向いた。ここでは、国内と長白一帯で活動中の朝鮮人民革命軍の小部隊、政治工作班および革命組織責任者の会議が開かれた。

 将軍は会議で、国内各地の小部隊と工作班、革命組織の活動実態を具体的に聞き取ったあと、今後の活動方向を示した。特に、日ソ中立条約の締結を機にいっそう悪辣になった日本帝国主義者の思想攻勢に対処して、すべての政治工作員と革命組織のメンバーが自主的な立場を堅持し、必勝の信念を抱くよう強調した。そして「我々の力で朝鮮革命を完遂しよう!」というスローガンをかかげていっそう果敢にたたかうべきだと言った。

 会議を終えると、将軍は、白頭山密営で遂行すべき任務を正淑に与えて、再び遠征の途についた。

 正淑は、この任務を立派に果たすためには、なによりも、国内と鴨緑江、豆満江一帯で活動する小部隊、工作班、革命組織と緊密な連係を保ち、彼らが司令部の意図をいち早く知って、その実現に奮い立つようにすることが重要だと考えた。そこで、直ちに、密営の隊員を二人組、三人組に分けて、各地の秘密根拠地と臨時秘密根拠地に派遣した。

 当時、白頭山密営では、各地の小部隊と工作班を現地に出かけて助ける活動をほとんどおこなっていなかった。そのため、小部隊や工作班の方から密営を訪ねてきて活動状況を報告し、新たな任務を受けて帰るというのが慣例になっていたのである。

 正淑は、このような活動方法を改めて、二人組、三人組を国内各地に派遣し、彼らがその地の革命組織と小工作班の活動状況を調べ、司令部の意図を伝えるようにした。その結果、司令部の意図が各地に迅速に伝えられ、活動が機動的におこなえるようになった。

 1941年8月、正淑は白頭山密営で将軍からの手紙を受け取った。そこには、白頭山密営を中心とする国内と鴨緑江沿岸一帯で卓上谷会議と夾皮溝会議の方針を貫くべく指示事項がしたためられていた。将軍は白頭山密営を発ったあと、穏城郡豊利里卓上谷で、政治工作員および地下組織責任者の会議を開き、ついで汪清県夾皮溝で朝鮮人民革命軍小部隊責任者の会議を招集して、『必勝の信念を抱いて祖国解放の偉業を成就しよう』と題する演説をおこなったのである。

 正淑は手紙の行間から、将軍が切り抜けてきた死線の厳しさを読み取った。

 当時、情勢はますます錯綜していた。ソ連侵攻を開始したファシズム・ドイツは、先制攻撃と技術装備の優位によって広大な領土を占領し、それを国内深くにまで拡大していた。社会主義ソ連は未曽有の厳しい試練に直面していた。

 日ソ中立条約の締結2カ月後にドイツのソ連侵攻が開始されると、日本は待っていたとばかりに、「関東軍特別大演習」の実施を発表した。これは、対ソ戦の予告にひとしいものであった。

 しかしソ連は、中立条約がやがてウラル東方のソ連領土を占拠するための日本の術策であることをよく知りながらも、東西両面戦争に巻き込まれないため依然として中立の立場をとっていた。

 このような事態にあって、朝鮮革命は誰に頼り、誰の支持を待たなければならないのか、世界大戦という激浪のなかで、朝鮮革命は停泊する港を失った小舟のようなものではないかというのが、少なからぬ人たちの心理状態であった。かてて加えて、日本帝国主義者の反動的な思想攻勢はいちだんと猛烈になっていた。

 金益鉉の小部隊から池甲竜という隊員が、革命を放棄し敵中に逃亡したのも、このころのことである。

 正淑は、車廠子で活動していたときから池甲竜を知っていた。戦場では勇敢に戦う遊撃隊員であった彼が、情勢が変わるや革命の逃避者に落ちぶれたのは、激変する国際情勢、そこからくる二重三重もの闘争の苦しさに耐え切れず屈服したからであった。

 この厳然たる事実を前にして、正淑は毎夜寝つかれなかった。

 数日後、各秘密根拠地に派遣されて帰隊した工作班から茂山、延社地区革命組織の活動実態にたいする報告を受けた正淑は、現地へ出向くことにした。そこでも急変する情勢のため、一部思想的に動揺する者があらわれていたのである。隊員は全員、正淑の意向に反対した。正淑の健康がすぐれず、安静が求められていたからであった。しかし、正淑は決心をひるがえさなかった。

 正淑は早速、白頭山密営で活動している数名の隊員を伴って、茂山、延社地区に向かった。国師峰秘密根拠地の水車谷密営に到着した正淑は、茂山、延社、三長地区革命組織責任者との会合をもった。

 彼らから実態報告を受ける正淑の胸は痛んだ。そこは以前、日本帝国主義者の木材略奪反対闘争が伐採場やいかだ流し場で相次いで展開された延社地区であり、敵の電力開発の企てに大きな打撃を与えた西頭水水力発電所の工事場であった。数十キロの延面水流域と西頭水流域の伐採場やいかだ流し場などで、サボタージュ、スト、いかだ破壊闘争がつぎつぎと起こり、そのため日本人は1939年の1年間だけでも数万立方メートルの木材損失をこうむり、その翌年も、1ヵ月の間にいかだを流せない日が10日を超えたほどだった。日本人はその年の夏、木材所労働者を懐柔しようと「宴会」を催すようなことまでした。一方、白茂線鉄道工事場では革命組織の指導のもとに、労働者たちが大量の電線と工具を地中に埋めて工事を大きく混乱させた。ところが、いまはせいぜい、いかだ破壊程度の闘争しかやれないでいるのである。

 正淑は、会議の参加者たちに、まず卓上谷会議と夾皮溝会議における将軍の演説内容を伝えた。そして、茂山、延社地区の一部革命組織の活動における欠陥を指摘し、今後の課題を明らかにした。正淑は、当地に見られる現象は、一部の政治工作員と地下組織責任者が、あたかも朝鮮革命が孤立無援な状態に陥ったかのように考えて必勝の信念を失い、反日愛国勢力を結集させる活動と反日愛国闘争を積極的に展開していないことに原因があると指摘し、我々はいかなる風波や試練のなかでも、朝鮮革命を自力で完遂しなければならないという金日成将軍の教えを肝に銘じ、祖国解放をめざす闘争を最後までつづけていくべきだと強調した。

 また、中核分子を育成し、組織を拡大する問題、現在の大衆政治活動のおける中心的な問題、組織を守り闘争を強化する問題、労働者突撃隊、生産遊撃隊といった半軍事組織を結成する問題などを提示した。

 この地を後にした正淑は、茂山郡篤所里烟頭峰に赴いた。

 連絡を受けて集まった茂山一帯の政治工作員と革命組織責任者たちが、山麓の指定された地点で待っていた。彼らは、白頭山から遠く離れたところまで、敵の厳しい警戒網をくぐり抜けて訪ねてきた正淑に会い、言い知れぬ感激につつまれた。

 正淑は、各組織の実態と活動状況、持ち上がっている問題について報告を受けたあと、烟頭峰烽火火場祉で会合をもった。会合で正淑は、現情勢と将軍の祖国解放構想、それを実践する課題を示した。

 正淑のこうした活動によって、厳しい情勢のもとで一時萎縮していた茂山、延社地区の革命組織は活気を取り戻して活動しはじめた。

 その後、西頭水水力発電所工事場の労働者は、待遇改善と労働保護対策など5項目の要求条件をつきつけ、第1坑から第10坑まで波状ストを断行して日本人企業家を屈服させ、ついに発電所工事は中止せざるをえなくなった。他方、大陸侵略と太平洋戦争遂行のために開始した白茂線鉄道工事も労働者のひきつづくサボタージュとストのため、日本帝国主義者はその敗亡を目前にした1944年12月になってようやく終えたのである。

 茂山、延社地区革命組織の闘争がいかに激烈であったかは、国境沿線を巡察した咸鏡北道警察部長が「……小事から大事に至るまで緊張一貫で任務に当たらなければ、いつどんな出来事が起きるか予測できない」と述べたことや、警察官駐在所の一警部補が「拳銃を手にしていなければ、どんなに疲れていても眠れない。……夢想の間にも非常警戒を忘れることができない」と悲鳴をあげたことからもうかがい知ることができよう。

 白頭山密営に帰った正淑は、すぐにまた新坡地区へ出かけ、地下組織責任者たちの活動報告を聞き取ったあと、将軍の意図を伝え、彼らに必勝の信念を植えつけた。そのあと一隊員に金昌地区、五佳山、狼林山一帯の活動を指導する任務を与えて厚昌方面に送り、他の隊員には、将軍の新たな軍事・政治活動方針を伝える任務を与えて、黄海道の谷山方面に派遣した。

 このように、正淑は白頭山密営で活動する間、一日も休息をとることなく、密営をひっきりなしに訪ねてくる隊員たちから報告を受けては、新たな任務を与えて送り出し、みずからも死線を越え敵中で活動した。


  パルチザンの子の誕生

 1942年2月、白頭山密営で大きな慶事があった。

 2月16日の早朝、朝鮮人民の偉大な指導者金正日総書記が密営の質素な丸太小屋で呱々の声を上げたのである。

 その日、白頭山密営にいた抗日革命闘士たちは、前日まで吹き荒れた吹雪が嘘のようにおさまって空が青々と澄み渡り、いつになくうららかな日和であったことを今日も感動深く回想している。

 日本気象機関発行の『朝鮮気象月報』にも、その日、白頭山一帯はもとより清津、新義州、平壌、ソウル釜山など朝鮮全域が快晴で温かい日であったと記録されている。

 南朝鮮の21世紀研究委員会委員の崔徳俊は、『海外朝鮮革命運動小史』の筆者崔一泉から聞かされた話を回想し、この日の意味を次のように書いている。

 「金正日将軍は……もっとも厳しい新旧時代の対決場である抗日大戦の炎の中で、パルチザンの放つ銃声を聞きながら、祖宗の山、白頭山でパルチザンの子として誕生した。5千年の民族史上初めて見る白頭山の子の誕生であり、人類史にかつてないパルチザンの子の誕生であった。

 歴史には、偉人、名将、名人が数多い。……しかし、金正日将軍のように民族の聖山で天下のパルチザン名将を父母にいただいて誕生したパルチザンの子はなく、まことに非凡な家門における空前絶後の誕生であった。それで、ある天道教徒が、金正日将軍は誕生からして偉大である、その方は誕生と同時に早くも救世主の使命を担ってお生まれになったと念誦したのである。荒涼たる広野で艱難辛苦に耐えながら血戦を繰り広げていたパルチザンの勇士たちが、やがて白頭山に腰をすいえて天下を平定する英雄が出現したとして、将軍に『白頭の光明星』という雅号を奉り、金日成大将軍と全く同じ太陽だという意味で、もっとも明るい太陽になっていただくよう念願して正日という名をつけたのもそのためであろう」

 抗日革命闘士たちは、丸太小屋の背後に高くそびえる峰を、金日成将軍のあとを継ぐいま一人の将軍をいただいたとして「将帥峰」と名づけた。

 そのころ、金正淑のそばには数名の女子隊員と小部隊のメンバーがいただけであった。正淑は自分の軍服でわが子を包んだ。

 女子隊員は、粒トウモロコシを炊き、乾燥山菜に塩を入れて山菜汁を作り、背のうにしまってあった大小の布切れを取り合わせ、各自の冬服から少しずつ綿を抜き取って布団を作った。彼女らは間白山密営から布地を少し持ってこようとしたのだったが、正淑が許さなかったのである。

 正淑は継ぎ合わせの布団を申し訳なさそうに出す女子隊員たちに、あなたたちの真心がこもっているこの布団が一番だと言って明るくほほえんだ。

 正淑は彼女たちに、いまに祖国が解放されたら、そのときは全国各地に立派な託児所を設け、子どもたちをすこやかに育てましょうと言った。

 正淑は、継ぎ合わせの布団と軍用毛布でわが子を包み、子守歌をうたった。


  ねむれねむれ いとしいわが子
  早く大きくなって銃を担い
  解放万歳の声高いところに
  おまえは前にわたしは後ろに立ってたたかおう

  ねむれねむれ いとしいわが子
  早く大きくなって赤旗かかげ
  共産主義の世を迎え
  おまえは前にわたしは後ろに立ってたたかおう


 密営では正淑の健康に大きな関心が払われていたが、彼女は自分へのどんな特恵も許さなかった。密営で「おじさん」と呼ばれていた金俊益が非常用の大豆でうち豆をつくって勧めたときも、そんなことをしてはいけないと厳しくとがめた。

 あるとき、司令部伝令長の金鳳錫が、正淑のためにモチアワを一袋背負って密営にやってきた。1937年夏の国内地下工作時代以来たびたび正淑と同行していた彼は、身体が衰弱した正淑にアワもちをつくってあげようと金俊益にはからったのである。

 しかし正淑は、情におぼれて規律に背いてはいけない、規律を無視しては金日成将軍から授かった任務を果たすことはできないと言って、水に浸けであったモチアワを取りだして乾かした。

 このように常に最小限度の食事をとりながら、正淑は、各地に小部隊や連絡員を派遣し、送られてきた通信資料にもとづいて活動対策を講じた。そればかりか、夜を明かしながら松ごっぱの灯の下で司令部書記処で出している将軍の著作を学習し、また地方の各組織から持ち込まれてくる図書や新聞、雑誌を読んだ。

 金俊益は、正淑がひもじさに耐えながら毎晩夜を明かしていることに胸を痛めた。

 彼にとって正淑は、小部隊や工作班、革命組織を将軍の作戦上の方針貫徹へと導く指揮メンバーであり、未来の太陽をはぐくむ革命の母であった。

 彼は正淑に向かって、学習はこの先いくらでもできるから、夜は少し休むようにとたしなめた。正淑はほほえんで、おじさんは祖国の解放後どんなことをしたいと思っているのかと尋ねた。彼は日ごろ考えていたとおり、故郷に帰って野良仕事をすると答えた。

 正淑は、解放なった故郷で野良仕事をするのも楽しいことだが、革命活動に従事してきたわたしたちが、いざ祖国が解放されたら、のうのうと土をいじくって暮らせるようにはならないだろう、自分も最初は日本侵略者や地主のいない故郷で楽しく野良仕事をする夢をよく見た、その後、児童図活動をしていたときには、倒れた闘士たちの子弟や、労働者、農民の子どもたちのために教育者になろうと思った、けれども、いまではそういう考えも変わった、将軍を身近で補佐していた呉仲洽同志や金周賢同志も世にいないのだから、彼らに代わってわたしたちが将軍を助けなければという思いが頭を離れない、だから、最近は経済書も読み、社会生活についての本にも目を通すなど、もっともっと勉強に励むようになったと言うのだった。

 このように正淑は、このうえなく困難な状況のなかでも革命の任務を果たしながら、解放祖国のために学び、わが子を育てた。

 数カ月後、将軍が小部隊を率いて白頭山密営に到着した。

 歩哨兵は、喜びのあまり敬礼するのも忘れ、「司令官同志がお帰りになったぞ!」と叫んだ。密営から全隊員が飛び出してきた。正淑は、わが子を抱いて彼らの後ろに立っていた。一人の女子隊員が赤子を抱き取って将軍の前に差し出した。

 わが子を抱いた将軍は、こう言った。

 「白頭山で高くかかげた革命の赤旗を、次の世代もひきつづきかかげていくようにするのが我々の意図です」

 将軍を迎えて、白頭山密営では重要な会議やさまざまな講習などで多忙な時間が流れたが、指揮官や隊員は暇さえあれば生家の丸太小屋へ駆けつけた。所帯道具といえるものは、台所の棚にあるいくつかの食器と、壁にかけてあるお膳とハギ製のかご、それに室内の軍用毛布と質素な布団、背のうがすべてであった。目立つものといえば、継ぎ合わせの布団と伝令が鷲の羽根でつくったほうきだけであった。ある日、丸太小屋へやってきた指揮官と隊員たちは、自分たちの無能無策を恥じた。そのとき、正淑は外出中で、一女子隊員が赤子の世話をしていた。彼らが次回に派遣される小部隊と工作班が、各自、何か一つずつでも手に入れてくるようにしようと話し合っているとき、将軍が部屋に入ってきた。

 将軍は微笑して、みんなが心をこめて建ててくれた家なのに入居祝いもできず申し訳ない、とにかく少し休んでいきなさい、いま布団の話をしていたようだが、それがどうしたというのだ、もちろん、みんなの気持ちはわかる、わたしもそうだし、正淑もいつも同志たちの愛情につつまれて健康な身体で革命活動をつづけていることを本当にありがたく思っている、いまは時が時だけに、子どもたちを安らかに育てることができず、実際そのような状況でもないと言った。

 しばらく口をつぐんだ将軍は、こう言葉をついだ。

 「我々は、子どもたちを抗日大戦の砲声の中でたくましく育てなければならない。暖かい温室ではなく、寒風吹きすさぶこの白頭の嵐の中でだ。そうしてこそ、やがて彼らが解放された祖国で恵まれた生活をするときも、今日のことを思い返しながら革命をつづけていくことができるのだ」

 金正日が生まれ幼年時代を過ごした当時、白頭山密営と訓練基地の生活条件は劣悪であった。日本帝国主義者の苛酷な収奪によって朝鮮人民は豆かすで飢えをしのぎ、訓練基地の生活も独ソ戦争のさなかのことで非常に倹素であった。

 幼い正日は、祖国解放の日まで将軍と正淑の軍服を作り直した衣服を着、白頭山密営でつくった継ぎ合わせの布団をかけて過ごした。

 当時のことが忘れられず、林春秋は祖国が解放された後、中国東北部の延辺で活動中、休暇で祖国に帰るとき高級毛布500枚を入手してきて、将軍と正淑に贈った。

 抗日革命闘士たちは、暇さえあれば正淑を手伝い、幼い正日と一緒に過ごした。

 金明俊と林春秋は、毎日正淑のところへヤギの乳を持って来たり、食卓にのぼるパンを少し残しておいては持って来たりした。

 正淑と林春秋の交友関係は、古くからつづいていた。正淑が符岩洞で夜学に通っていたとき、林春秋はその講師であったし、正淑の母が病床にあったとき治療をしたのも林春秋であり、また正淑が遊撃区に入る途中、意識を失ったとき救ったのも林春秋であった。

 二人の深い交友は、正日の誕生後、将軍が開いたチュチェの革命偉業を継承し、完成していく後継者への献身性として引き継がれた。林春秋は小部隊工作から帰る途中、幼い正日のためにと、数十個の鶏卵を手に入れ、厳しい敵中をつき抜けて帰隊したこともあった。

 李乙雪は小部隊活動の日々、常に幼い正日の安全と生活について気遣い、暇さえあれば一緒に過ごした。呉振宇や他の闘士たちも同じだった。金策は、正日をいつも「幼い将軍」と呼んだ。

 後日、金日成主席は、抗日革命闘士と金正日総書記との血縁的つながりについてこう語っている。

 ……いま多くの人は、わたしが指導の継承問題を立派に解決したと言っているが、この問題の解決では抗日革命闘士に負うところ大であったと言うべきであろう。抗日革命闘士は幼い正日に着るもの、食べるものを与え、あんよを教えた。そのころから、正日の心には、抗日革命闘士への信頼と尊敬の念が芽生え、抗日革命闘士の心には正日への信頼と親愛の情が芽生えたのである。正日の思想的・精神的成長と感情・情操の発展においてもっとも主動的かつ積極的な作用を及ぼしたのは、ほかならぬ抗日革命闘士だ。金正日同志が備えている必勝の信念と鉄の意志、革命的楽天主義は抗日革命闘士と親しくするうちにいっそう充実したものとなり、しっかり鍛えあげられたと言える。





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