『金正淑伝』
 
5 厳しい試練に耐えて


  戦友の死を無駄にすまじ

 金正淑が地下工作の任務を果たして帰隊したころ、情勢はきわめて厳しく複雑さを呈していた。

 1937年7月7日、中国関内への全面的な侵攻を開始した日本侵略軍は、「後方の安全」をはかるという口実のもとに、朝鮮人民にたいするファッショ的暴圧と朝鮮人民革命軍にたいする「討伐」攻勢をかつてなく強化した。

 金日成将軍は、7月の白頭山密営での朝鮮人民革命軍主力部隊の指揮官会議をはじめ一連の会議、そして、9月に発表した『全朝鮮同胞へのアピール』で、急変する情勢に対処して抗日武装闘争を強化し、朝鮮革命全般を新たな高揚に導く方針を示した。それはまず、朝鮮人民革命軍の各部隊が、国境地帯と国内で武装闘争を積極化して敵の背後をたたき、全国各地で全民抗争の準備を急ぐことであった。

 1937年の冬期作戦と1938年の春期攻勢は、この戦略的・戦術的方針を貫徹するための重要な作戦であった。将軍は、地下組織をうちかため、部隊の新たな作戦遂行に必要な被服と食糧を確保するため、各地に小部隊を派遣した。

 将軍のこの新たな戦略的方針を受けとめた正淑は、帰隊後、数日も経たないうちに、再び地下工作の任務をおびて佳在水村へ向かった。任務は「恵山事件」による敵の弾圧から佳在水の地下組織を保全する対策を至急講じ、当地で進めていた小部隊の被服と食糧調達工作を指導することであった。

 佳在水村に来た正淑は、地下組織のメンバーが敵の弾圧のなかでも組織を保全し、遊撃隊への支援活動を順調に進めていることを称賛した。そして彼らに、敵の白色テロが激化している状況下で地下組織を保全することは何よりも重要だ、……しかし銘記すべきことは、地下組織は闘争のために必要なのであって、保全するためのものではないということだ、革命組織は闘争のなかで強化されるのだ、と強調した。

 正淑は、地下組織をさらに戦闘的な組織にする活動を進めるかたわら、小部隊の被服および食糧調達工作を指導した。

 任務を果たして帰隊した正淑は、裁縫隊員とともに冬期用軍服の縫製に取り組んだ。昼夜兼行の作業によって、部隊では短時日のうちに冬期作戦に必要な軍服や背のう、弾帯、脚半などを一切整えることができた。

 正淑は、またも部隊と別れなければならなくなった。主力部隊を率いて濠江方面へ進出することになった将軍は、正淑に裁縫隊を引率して長白に留まり、国内と長白一帯の組織の活動を指導しながら、翌年の春期作戦のための準備を整える任務を与えたのである。

 残留することになったメンバーは、寂しさを隠しきれなかった。部隊の行軍路は遠く、今回の遠征が春までかかることを知っていたからである。

 部隊にもどって間もなかった正淑であってみれば、将軍に随行したい気持ちは誰にもまして切なるものがあった。将軍の身近で部隊とともに戦うことは、敵中工作の日々にも正淑が胸に秘めつづけていた切なる願いであった。正淑を遠征に参加させるよう将軍に進言しようとすると、正淑はその気持ちを察した指揮官の一人が、それを制止した。

 正淑が抱いていた希望と念願、喜びと幸せは、ひたすら将軍の意図と構想をより立派に実現させようというひたむきな思い以外にはなかった。部隊が出発するとき、正淑は佳在水の地下組織一同から贈られた毛織りのシャツをほぐして編んだ手袋を伝令の背のうに入れ、寒くなったら将軍に使ってもらうようにと頼んだ。

 この年の冬、長白県に大雪が降った。密営は雪に閉ざされ、朝になると穴を掘らなくては外に出られなかった。裁縫隊員が居所とした干巴河子密営は、2キロの間隔を置いた2棟の丸太小屋からなっていた。一方の棟には正淑と一部の女子隊員が、もう一方の棟には朴洙環をはじめ女子隊員がいた。この密営の存在は、極秘にされていた。正淑は密営の秘密を保つことに細心の注意を払いながら、国内と長白一帯の祖国光復会組織の指導に専念した。

 そうするうちに1938年が明けた。ところがそのとき、密営に思いもよらぬ大きな不幸が襲ってきた。「恵山事件」で破壊された地下組織の被害状況を調べ、組織を立て直すため司令部が派遣した馬東煕、張曽烈が、金泰善の密告によって逮捕された。馬東煕は舌をかみ切ってまで司令部と組織の秘密を守ったが、張曽烈が拷問に耐えきれず、十九道溝のアジトを密告したため、そこにいた池泰環と曹開九が逮捕された。かたく口を閉ざした池泰環とは反対に、曹関九は干巴河子の密営をばらしたのである。

 1月のある日、変節漢の「道案内」のもとに「討伐隊」が干巴河子密営を奇襲した。

 朴洙環をはじめ女子隊員が敵を発見したときには、すでに密営は包囲されていた。熾烈な銃撃戦が繰り広げられた。正淑がその銃声を聞きつけたのは、その日の軍事・政治学習を終えたときだった。正淑は直ちに隊員に戦闘準備をさせ、銃声の響く方へ駆けつけた。けれども、腰まで埋まる雪をかき分け、倒木を越えながら密営が見おろせる小高い丘まで来たときには、すでに銃声がやみ、密営は黒煙と炎に包まれていた。丸太小屋のまわりには、「討伐隊」の荒々しい足跡が残っていた。

 正淑は、一本の大樹の下に手に手を取り合って倒れている6名の戦友たちを発見した。とっさに駆け寄って、その戦友たちを抱き起こしてゆさぶり、もどかしげに名を呼びつづけた。

 正淑の目からとめどなく涙がこぼれ落ちた。戦友たちの体は、すでに冷えかかっていた。大樹のまわりには、薬莢が散らばっていた。隊員たちは、銃弾が尽きるまで戦って壮烈な最期を遂げたのである。きぬた俸で日本人巡査を打ち倒し、銃を奪って遊撃隊に入隊した朴洙環、名射手として名を馳せた許順姫、夫(馬東煕)の後を継いで入隊した金容金、そして金相国……。彼女たちはみな、ひたすら金日成将軍を民族の太陽と仰ぎ、将軍に忠実な、戦士になろうという誓いを立て、寒風吹きすさぶ峻嶺、血戦の火の海をともにかき分けてきた貴い戦友たちであった。生死をともにしようとかたく誓い合った戦友たちが、あれほど望んだ祖国解放の日を見ることなく、名も知れぬ異国の雪原を血で染めて倒れたのである。

 立ち木には、戦友たちが最後の力をふりしぼって書き記した「朝鮮革命万歳」という血書が鮮やかに残っていた。この6字の書体は、それぞれ異なっていた。一人が1字ずつ記した「朝鮮革命万歳」のスローガンは、革命の途上で最期を遂げた戦友たちの遺言であり、信念の叫びであった。

 正淑は悲憤をこらえ、戦友たちの心臓は鼓動を止めたが、その革命精神は立ち木に記された文字とともに永遠にわたしたちの心に残るであろう、とその心情を吐露した。

 「みなさん、悲しみを憎しみに変えて、戦友たちがあれほど望んだ祖国解放の日を早めるため、百千倍の力と勇気を奮い起こして、強盗日本帝国主義を撃滅しましょう。戦友たちの死を無駄にしないようにしましょう!」

 正淑は、隊員たちと一緒に日当たりのよい山裾の雪を取り除き、枯れ葉を集めて敷いたくぼ地に6名の戦友を横たえ、上衣を脱いでその顔にかぶせた。

 その夜、正淑は小部隊を率いて干巴河子密営から撤収した。朴洙環の丸太小屋が発覚した以上、密営の安全を保つことは困難であったからである。

 小部隊は雪上の足跡をかき消しながら、2日目に第7連隊第2中隊が留まっていた富厚水密営に行き着いた。

 貴い戦友を失った悲しみを抱き、正淑はこの密営できたるべき復讐戦に備えていっそう軍事・政治訓練に励んだ。とくに隊員たちに、百発百中の射撃術を練磨させることに力を注いだ。そして、将軍が主力部隊を率いて長白にもどってくるはずの春を心待ちにしていた。

 とうとう待ちに待ったその日が来た。4月上旬のある日、将軍が長白に来たという朗報が、司令部連絡員によって富厚水密営に伝えられたのである。

 正淑は、小部隊の隊員たちとともに将軍を迎えに駆けつけた。感激的な対面の場で、6名の戦死者について報告を受けた将軍は、沈痛な面持ちでしばし遠い山並みを見つめていた。やがて将軍は、濠江から長白に来る途上で金確実も戦死したことを告げるのだった。金確実は、延吉県にいたときからの正淑の戦友だった。困難な敵中工作をともにし、車廠子での試練もともに耐え、老嶺戦闘のときには敵の奇襲を受けて白兵戦をともに展開し、撫松県城戦闘のときには山ひだの陣地を一緒に守り抜いた勇敢な戦友の金確実、その人が戦死するとは……。正淑の胸は、悲しみに閉ざされた。じつにこの冬は、あまりにも多くの犠牲と喪失をともなった胸の痛む冬であった。

 翌日、将軍は、全隊員に実弾射撃訓練を命じた。これは、戦死した戦友のための復讐の誓いであり、百千倍の報復宣言であった。標的は100メートル、150メートルの距離の立て板と「討伐隊」の姿を形どった雪だるまだった。銃座を占めた正淑は、つづけざまに引き金を引いた。銃弾はすべて命中し、標的の心臓部や両眼に差し込んであったガラスのかけらを粉々に打ち砕いた。

 この年の春に開始された春期攻勢で、正淑は大胆さと一発必中の射撃術で多くの敵を打ち倒した。

 十二道溝戦闘とそれにつづく4月26日夜半の六道溝城市攻撃は痛快なせん滅戦であった。城市は区域が広かったうえに、警察署付近の砲台には外灯が明々とともっていて、夜襲をかけるには不利な状況だった。だが、戦闘が開始されるや、桃泉里で入隊した韓昌鳳が遠隔狙撃で外灯をすべて撃ち砕いてしまった。

 正淑が属していた襲撃班は、猛烈に火を噴く中央砲台をまたたく間に占領した。敵兵は武器を投げ出して投降しはじめたが、一部の砲台では依然として抵抗がつづいた。前方を注視していた正淑は、敵の銃口から閃光がひらめくたびに、それをめがけて銃火を浴びせ、敵兵をつぎつぎと打ち倒した。この日、部隊は、砲台と兵営、警察署などを襲撃して敵を掃滅した。

 戦闘が終わると、隊員たちは勝利の喜びにわいて語り合った。

 「今夜の戦闘では、多くの敵をやっつけた。これで戦死した戦友たちの仇討ちを思う存分することができた」

 しかし、正淑は首を横に振った。

 「いや、まだまだです」

 正淑にとって、戦死した同志一人ひとりは何十、何百の敵兵とも代えがたい貴重な存在だったのである。

 復讐戦の機会は翌日にもやってきた。将軍は、六道溝での惨敗を挽回しようと迫撃してくる敵を双山子の裏山で撃滅する作戦を立てたのである。

 双山子の裏山は、4つの峰からなっていた。正淑は、司令部が陣取っていた真ん中の高地にいた。

 戦闘は、早朝から夕暮れどきまでつづいた。最初、敵は100名余りの騎馬隊を繰り出して高地に攻め寄せてきた。500メートル、400メートルと敵との距離はだんだん縮まってきた。正淑は、最先頭の騎馬兵に狙いを定めた。将軍の射撃命令がくだると同時に、最先頭の騎馬兵がもんどり打って倒れた。騎馬隊による攻撃が失敗すると、敵は歩兵を繰り出した。敵兵は、機関銃の援護のもとに一歩一歩よじ登ってきた。けれども、今度もおびただしい死者を出して退却した。午後になると、敵は再び1000余の兵力で攻撃してきた。

 熾烈な戦闘がつづいた。午後5時ごろになると、にわか雨が降り出した。敵はそれを好機とばかりに生き残りの兵を総動員し、必死になって高地によじ登ってきた。決戦の時が迫った。苛烈をきわめた双山子戦闘は視界が閉ざされるころになってようやく終わった。敵はおびただしい死体を残して敗走した。

 正淑は、その後の買家営戦闘や新台子戦闘など多くの戦闘でも勇敢さを発揮した。

 春期攻勢を総括する場で、将軍は、正淑の特出した戦功を高く評価し、表彰として金の指輪を授与した。


  再び国内の闘士を訪ねて

 1938年の春、金正淑は、金日成将軍の意を体して再び国内工作の途についた。

 当時、恵山と長白地区の地下組織は、「恵山事件」のため厳しい試練に直面していた。白茂線鉄道工事場での工作員逮捕によって端緒をつかんだ日本の官憲は、極秘裏に朝鮮と満州の国境地帯の警察を動員して甲山、恵山と長白県内の祖国光復会組織にたいする不意の捜索旋風を巻き起こした。そのため権永璧、李悌淳をはじめ、多くの祖国光復会の指導メンバーが逮捕され、地下組織は破壊された。

 将軍は、敵の弾圧から地下組織を守り立て直す一方、全国的規模で武装闘争と全民抗争の準備を早急に拡大、強化するための対策を講じ、その実現に専心していた。

 正淑は、「恵山事件」のため試練に直面している地下組織や逮捕された同志たちのために将軍がどれほど心を痛め、消息が絶えた朴達をはじめ国内闘士たちと連係をつけるため、いかに苦慮しているかをよく知っていた。

 前年の11月、将軍は朴達と連係をつけるため馬東煕を派遣したのであった。その馬東煕が逮捕されたという知らせを受けた将軍は、数日の間まんじりともせず夜を明かした。そして是が非でも朴達を捜し出さなければならないと言い、今度は国内の地理に詳しい白永哲を派遣した。白永哲は並々ならぬ苦労の末に、敵の目をかすめて東海岸一帯を巡り歩き、雲興にもどってきた朴達を捜し当て、彼の手紙を携えて帰隊した。

 連絡地点で白永哲と落ち合った第7連隊の政治委員と金洪洙が、その手紙を受け取って白頭山密営に来た。

 朴達は手紙で、敵の検挙旋風を避けて他の地方へ行っていたが、最近また雲興にもどってきた、その間に組織は破壊され、検挙旋風はなおつづいており、今後の活動方向が定まらずもどかしい思いをしている、朝鮮民族解放同盟のメンバーが試練にさらされている状況下で、自分はここを離れることができないから、司令部から工作員を派遣してほしいと要請してきた。

 手紙を読んだ将軍は、第7連隊の政治委員を呼び、直ちに工作員を派遣する必要があるから、国内の実状に明るい者を選抜するよう命じた。

 これを知った正淑は、将軍にこう提言した。

 「司令官同志、朴達同志のところには、わたしを行かせてください」

 「……」

 将軍は正淑を見つめたまま、じっと黙り込んだ。またも難しい任務をまかせるのが心苦しかったのである。

 正淑は「わたしはある程度、国内工作の経験があり、実状も知っていますから、わたしが行くべきだと思います」と重ねて承諾を求めた。

 将軍は、馬東煕夫妻が果たしえなかった任務を、自分がきっと果たして彼らの願いをかなえてやりたいという正淑のかたくなな懇請を拒みきれなかった。

 将軍は正淑に、敵の検挙旋風によって破壊された朝鮮民族解放同盟をはじめ、各地下組織を早急に立て直し、試練をなめている朴達と国内の革命家に自信をもたせるためにきみを派遣するのだ、自分に代わって国内の革命家たちに戦闘的あいさつを伝えるようことづけた。

 翌日、正淑は、2名の隊員を伴って国内へ向かった。一行は、日光も射し込まない原生林をぬって40キロ余りの道程を強行軍し、普天堡青林里の村外れにたどり着いた。そこでは、金洪洙と白永哲が待ち受けていた。

 正淑は、彼らの道案内を受けてその夜のうちに再び移動し、温水坪と大鎮坪の中間に当たる天上水の洞窟に宿営地を定めた。そして、至急、朴達を捜し当てるため工作班を二手に分け、白永哲と金洪洙は雲興面東浦里へ、他の者は普天面温水坪と大鎮坪地区に残って工作にあたることにし、接触の日と合図を決めた。正淑自身は、隊員1名を伴って温水坪村へおりていった。野中の一軒家を訪ねて主人と話を交わす過程で、「恵山事件」後のこのあたりの状況を聞き取った正淑は、大鎮坪と麗水里地区へ行って逮捕をまぬがれた組織のメンバーや被検挙者の家族に会い、実態をさらに調べてから朴達に会うことにした。身を潜めた組織のメンバーとその家族が監視と尾行の対象になっているに違いない状況下で、直接彼らに会うというのは危険きわまりないことであった。

 けれども正淑は、ためらうことなく大鎮坪を経て麗水里の下村付近へ向かった。そして、反日会のメンバーとして活動中に「恵山事件」で逮捕された人の家族の手引きで、朴達の居所を知っていそうな人に会った。

 翌日の早朝、白永哲と金洪洙が、朴達と李竜述、金鉄億を連れて天上水の洞窟にあらわれた。

 正淑は、朴達と熱く握手を交わした。そして、彼の健康状態を尋ね、国内の革命家への将軍のあいさつを伝えた後、将軍が自分たちを派遣した趣旨と伝言を告げた。朴達は正淑に、「恵山事件」のいきさつと地下組織の実態、そして、その間の活動状況を詳しく説明した。

 朴達によれば、前年10月の「恵山事件」以前まで、朝鮮民族解放同盟の下部組織は40に及び、その傘下に前進会、政友会、反日会、反日青年会、反日少年会、反日婦女会など各種名称の組織がたくさんあった。ところが、日本官憲の検挙旋風で約150名の組織メンバーとその影響下にあった人たちが逮捕され、残りのメンバーは四方に姿を消した。朴達をはじめ組織の中核メンバーは、甲山地区での工作が難しくなった実状を考慮して、冬の間は、各地方の鉱山や炭鉱、工場、伐採場、または身内の家に身を潜めて、春になってまた甲山地区に集まり組織の再建工作をすることにしていた。朴達自身は、あちこちと職場を変えながら組織・政治活動を進め、本年の4月末になって再建工作の準備をしている最中だが、中核メンバーが検挙され四散したうえに、敵の弾圧が激しくて思うように活動できない状態だとのことだった。

 洞窟では、正淑の指導のもとに、朴達をはじめ朝鮮民族解放同盟指導メンバーの会合が開かれた。正淑は、敵の検挙旋風が吹き荒れている状況下にあって、まず地下組織とそのメンバーの保護対策を講じることが急務であると指摘した。そして、組織の保全にとどまらず、組織をひきつづき拡大していくべきだとし、弾圧におびえて組織の活動を積極化せず、隠れ回って自己保全にのみ努めるならば、組織そのものも維持できなくなると戒めた。

 そして、革命組織を親睦会や兄弟契といった親睦団体の形でうまく偽装し、人民のなかに入って、朝鮮人民革命軍のめざましい戦果を伝えれば、「恵山事件」で萎縮した人たちに明日への希望と自信を抱かせ、彼らを反日闘争に立ち上がらせることができると話した。

 会合を終えた後、朴達と別個に会った正淑は、将軍の北朝鮮反日人民遊撃隊組織に関する方針とその意義を述べ、その政治委員に朴達を任命するという将軍の命令を伝えた。

 朝鮮革命が厳しい試練にさらされていた時期に、正淑が死線を越えて国内の闘士に会い、将軍の教示を伝えて闘争の前途を示したことにより、萎縮していた国内の革命組織とそのメンバーは勝利の確信を抱いて隊伍を収拾し、整備しながら活動を積極的に進めていくようになった。

 この年の夏、第7連隊に属して濠江、輝南一帯で活動し、新台子付近の密営に来た正淑は、9月中旬に将軍から再び新たな国内工作の任務を受けた。

 任務は、豊山地区の革命組織を指導することであり、同行者は、朴貞淑、金鳳錫とされた。しかし正淑は、一人で行かせてほしいと願い出た。新たな任務をおびて発つたびに、将軍にもしものことがあってはと心配でならなくなる、将軍の身近に戦友たちが多くいれば出立するわたしの気も軽くなる、豊山地方は歩きなれてよく知っているところだから一人で行かせてほしい、と重ねて要請するのだった。

 忠実な革命戦士の真情のこもった請願を受けた将軍は、感動にひたった声で感謝の言葉を述べ、司令官を思う同志たちの熱い気持ちは決して忘れないと言った。

 じっと立ちつくす正淑を見つめていた将軍は、やがて言葉をついだ。

 ───みんなは、いつもわたしのことを気遣ってくれるが、わたしはどこへ行っても隊員と一緒であり、一歩を進んでもいつも護衛がついている、考えてもみたまえ、男子でもないきみをいつも単独で敵地に向かわせるわたしの気持ちを少しは分かってもらいたい……。

 革命戦士への限りない愛と信義のこもった将軍の一言一言は正淑の胸に熱く染み入った。

 出発に先立って、将軍は派遣員たちに拳銃を一挺ずつ手渡した。朴貞淑は、桃泉里での地下工作や前年の国内工作のときにも正淑と同行しており、金鳳錫もやはり前年の国内工作の際、護衛を兼ねて同行した隊員であった。

 司令部を後にした一行は、十二道溝付近の山小屋で最初の宿営を張った。そこは昨冬、朴洙環、金容金をはじめ6名の裁縫隊員が「討伐隊」と決戦を交えて壮烈な最期を遂げた干巴河子密営からほど遠くないところであった。

 正淑は朴貞淑と金鳳錫に、戦友たちが生前あれほど望んでいた祖国解放の日を早めるために一日も早く祖国へ行き着こう、そして、戦友たちの恨みを晴らしてやろう、と語った。

 翌日、一行は、日暮れどきになって十三道溝付近の山頂にいたった。

 連絡の場となっていた三水谷薬局は廃屋となっていた。党グループの一員だった息子が逮捕され、薬局一家は利原の方へ引っ越していた。五函徳宿屋の主人に会つてはじめて、少なからぬ組織が破壊され、多くの同志が逮捕された新坡の実態をおおよそ把握することができた。

 翌日は、新坡の南山のふもとで祖国光復会シンガルパ特殊分会の責任者に会った。そして彼に、敵の機関に勤めている利点を生かして、地下工作員とこれから組織される半軍事組織をしっかり保護する任務を与えた。

 その日の夜に居所を移し、新坡から2キロほど離れた林の中で一夜を過ごした正淑は、翌日、当地の組織メンバーに会い、破壊された組織を収拾へ再建し、さらに拡大する任務とその方途を示した。これは、一時、萎縮していた新坡一帯の組織を再生させる契機となり、この地域に闘争の火を点じる新たな導火線となった。

 新坡を後にした正淑は、豊山郡文藻里陽地村の朱炳譜家を訪ねた。そのころ、朱炳譜も官憲の弾圧にあって窮地に陥っていた。ソウルの学校に籍を置いて活動していた彼は、この時期、帰郷して夜学にも関与していた。そのため、夜学で「不穏な宣伝」をしていると目され、三日にあげず駐在所に呼び出されては詰問されていた。もともと活動的なタイプの彼は、敵の監視の危め身動きができなくなると、いらだたしさのため、いても立ってもいられない気持ちになった。そんなときに正淑に会った彼は、あまりの驚きとうれしさに手を握ったまま、しばし口を開けられなかった。しばらくして気が静まった彼は、国内ではもう活動できないから、朝鮮人民革命軍に入隊させてほしいと懇願した。

 しかし、正淑は、それよりも、彼がソウル地域の人たちと一定のつながりをもっていることに注目した。彼によれば、ソウルや仁川、永登浦一帯には豊山出身の反日運動家がおり、竜井で学生運動を一緒にした学友との連係を結ぶこともできるとのことだった。

 正淑は、新たな情勢と朝鮮革命の展望について説明し、全民抗争の準備を整えるという将軍の方針を伝えた。そして、こういう時こそ、国内の実情に詳しく、学生運動と地下活動の経験をもっている朱同志が活動すべき舞台はソウル地域だと主張した。そして、ソウルに行ってからは、前年7月に北青で対面し、ソウルに派遣した李英と連携して活動する任務を与えた。また、彼が在籍している学校に組織をつくり、徐々にソウルと永登浦、仁川地区の労働者や労組の中に浸透して、彼らを祖国光復会の組織に結集する方途も示した。

 数日後、正淑は李仁模をはじめ豊山の革命組織の中核メンバーに会い、豊山の各組織の当面の課題を示したあとで、朱炳譜をソウルへ送り出した。

 陽地村を発った正淑は、豊山邑から4キロほど離れた新元里間村で、豊山郡天道教宗理院の院長元忠煕に会った。まる1年ぶりに正淑と会った彼は感きわまって涙をたたえ、将軍の健勝のほどをうかがった。そして、朴寅鎮道正が逮捕された後、先が見通せず、なす術を知らずにいたところ、将軍がこうして高名な工作員を、また、つかわしてくださるとは、まさにぼうぼうたる大海原に漂流していた難船が灯台の灯を発見したときのような気持ちだと、感慨を吐露するのだった。それから、朴寅鎮道正が逮捕されたいきさつや、ソウルの天道教上層部の実態、黄海道、平安南道、咸鏡北道など各地の宗理院にたいする工作状況を説明した。

 正淑は、朴寅鎮道正が逮捕された状況のもとで、今後はソウルと各地の包体(天道教の末端組織)との活動を豊山郡宗理院が主導し、全国各地の天道教の教導者を反日民族統一戦線にさらにかたく結集させるべきだと説いた。また、天道教青年党員の中からすぐれた青壮年を選抜して生産遊撃隊をさらに拡大し、軍事訓練を強化し、いったん、しかるべき情勢が生じれば直ちに武装暴動を起こせるよう万端の準備を整える課題を示した。

 元忠煕は、話を聞いて自信がついた、将軍が示したとおり祖国解放の聖業にすべてを尽くす、と改めて誓いを立てた。

 翌日、正淑は、豊山地区の秘密根拠地を訪ねた。その日の午後、密営では、正淑の指導のもとに豊山地区と厚峙嶺地区で活動していた朝鮮人民革命軍の小部隊、政治工作班、この地区の革命組織責任者の会合が開かれた。

 この会合で正淑は、敵の弾圧にめげず地下組織をかたく守り、一時的な混乱状態を早急に収拾し、破壊された組織の再建に力を入れる問題、大衆政治宣伝活動を強化して秘密根拠地周辺の地域を革命化し、生産遊撃隊などの半軍事組織を拡大、強化して武装闘争の大衆的基盤をうちかためる問題などについて強調した。

 ここでの活動を終えた正淑は、行軍速度を速めて早々に鴨緑江を渡った。

 新台子付近の密営に到着した正淑は、将軍に一行の活動状況を報告した。

 豊山地区での正淑の活動は、祖国光復会の組織網を全国的規模に拡大し、全民抗争の準備を整えるのに大きく寄与した。豊山地区では、祖国光復会の組織がいっそう強化され、各地に半軍事組織の生産遊撃隊が生まれて活動を開始し、革命軍への支援活動は活発になっていった。

 とくにソウルへ行った朱炳譜は、法政学校に籍をおいて李英と連係を保ち、やがて永登浦を中心とする工場地区に強固な足場をつくった。彼は、ソウルの「コミュニスト・グループ」に将軍の祖国解放路線を伝達し、主要労組活動家の一人であった金三竜と緊密な連係のもとに、ソウル−仁川地区の労組運動圏内に深く浸透し、ソウル地区の労働運動が将軍の祖国解放路線を貫徹するのに大きく寄与した。

 彼の援助者兼連絡員として活動したのが李仁模である。李仁模は、豊山とソウルを行き来する一方、朱炳譜と相談のうえ東京へ渡り、豊山出身で組織された「豊友東京苦学生親睦会」を祖国光復会の傘下組織に改編する活動を展開した。

 朱炳譜は解放後も、ソウルで将軍の祖国統一路線と南朝鮮革命路線を貫徹する地下活動をつづけた。共和国が創建されて、初の勲章、メダルが制定されたとき、最初の受勲者のなかに彼の名も含まれていた。彼は生の最期の瞬間まで、正淑によって植えつけられた信念と意志を曲げずにたたかい、1950年3月に敵の手により死刑に処された。

 李仁模は、回想録『信念とわが生涯』で、朱炳譜の最期について詳しく記述しており、正淑との2回にわたる出会いについても感慨深く回想している。


  青峰密営

 1938年の冬は、朝鮮人民の抗日武装闘争史においてもっとも困難な試練の時期であった。朝鮮人民革命軍の猛烈な敵背攻撃作戦と人民大衆の力強い反日闘争によって甚大な政治的・軍事的打撃をこうむった日本帝国主義は、朝鮮人民の革命的進出を阻もうとかつてない反動攻勢に出た。

 一方、極左冒険主義者によって強いられた熱河遠征がわざわいして抗日連軍部隊は多大の損失をこうむり、朝鮮人民革命軍は白頭山西南部一帯に増強された大兵力の敵とほぼ単独で戦わなければならなくなった。こうして、朝鮮革命は厳しい難局に直面することになった。

 1万余の大兵力に包囲された状況のもとで、将軍はこの年の11月25日から12月6日にかけて、南牌子で朝鮮人民革命軍の軍事・政治幹部会議を招集した。

 将軍はこの会議で、熱河遠征の極左冒険主義的本質と重大な結果を厳しく批判した。そして、朝鮮人民革命軍の主力部隊が即時、白頭山を中心とする鴨緑江、豆満江沿岸の国境地帯へ進出し、広い地域で軍事・政治活動を活発に展開することにより、革命組織と人民に勝利の信念を抱かせ、日本侵略軍の悪辣な策動を粉砕すべく新たな軍事的・政治的課題を示した。これは、熱前遠征の極左冒険主義的「路線」がまねいた深刻な結果を早急に克服し、朝鮮革命の主体的立場と自主的支柱を固守して、朝鮮革命全般をひきつづき高揚へと導くための一大攻勢を意味していた。

 会議では3つの方面軍と独立連隊が編制され、その活動地域が分担された。正淑の属する第2方面軍は、将軍の指揮下で朝鮮国内と国境一帯で活動することになった。

 将軍は、各部隊を新たな戦域に送り出す際、彼らの戦果を祈願し、新しい武器とともに冬期の軍服や下着、脚半、軍靴、それに、はったい粉まで供給するようはからった。これらは、部隊の軍服を短期間に準備するよう将軍から指示を受けた正淑が、濠江県二道花園付近の森の中で裁縫隊員とともに連日連夜奮闘して整えたものであった。

 会議が終わって各部隊が出発した後、第2方面軍は南牌子の樹林一帯を幾重にも取り巻いた日本軍「討伐隊」の包囲網を突き抜けて遠征の途についた。部隊は最初から、南牌子を包囲していた「討伐隊」の迫撃を受けながら行軍しなければならなかった。これが後日世に知られた、史上類を見ない「苦難の行軍」である。

 金日成主席は当時のことを次のように述懐している。

 「苦難の行軍の内容を一言で要約すれば、厳しい自然とのたたかい、甚だしい食糧難と疲労とのたたかい、恐ろしい病魔とのたたかい、奸悪な敵とのたたかいが一つに絡まったものであったと言えます。これにいま一つ、深刻なたたかいが伴いました。それは苦難にうちかっための自分自身とのたたかいでした。まずは、生き残るためのたたかい、ひいては敵と戦って勝つためのたたかいが、まさに苦難の行軍の基本内容でした。じつに苦難の行軍は終始、耐えがたい試練と難関の連続でした」

 この年はハンガイ(中秋)が訪れる前に初霜が降り、ハンガイが過ぎると初雪が降った。百年来の大雪と酷寒に見舞われた冬であった。

 正淑は、第7連隊の狙撃班とともに隊伍の最後尾についていた。敵の迫撃は執拗をきわめた。敵は、部隊が行軍を開始した矢先から「猛攻長追戦術」に出た。いわば、ダニのようにしつこく食いついて相手をいたたまれなくする戦術であった。

 正淑は狙撃手と一緒に雪中に待ち伏せて、敵兵があらわれるたびに命中射撃で追撃をかわした。これが、日に何回も繰り返された。正淑はまた、呉仲洽連隊長と一緒に手榴弾地雷も埋設した。

 「百年来の大雪」に覆われた密林の中で、敵軍はあえて先回りしたり迂回することなどは考えも及ばず、部隊が踏み分けて行った雪道にそって追いつづけるだけだった。敵のその弱点を利用し、部隊が通過した雪道に手榴弾を埋め、引き抜き線を伸ばしておくのが手榴弾地雷である。これを知る由もない敵は、これにかかって多くの死者を出した。さんざんな目に会った敵は、それ以上足跡を踏むことができず、処女雪を踏み分けて遠回りしはじめた。

 正淑は敵が迂回してきそうな地点に狙撃手とともに待ち伏せ、そのつど命中弾を浴びせて敵兵を倒した。正淑が遠距離の敵の大隊長を射止めて隊員たちを驚かせ、将軍から名射手だと称賛されたのは、この時期の話である。

 正淑は、苦難の行軍が始まった最初の1カ月間に、濠江県二道花園付近の集団部落襲撃戦、五道岔と四道岔襲撃戦、臨江県の腰溝集団部落襲撃戦と螞蟻河付近での要撃戦、煙筒拉子付近での要撃戦、王家店襲撃戦など数多くの戦闘に参加して無比の勇敢さを発揮した。

 この期間、正淑は、強靭な意志と犠牲的精神、熱い革命的同志愛をもつで隊員たちを導いた。

 相次ぐ戦闘と行軍でわが身を支えるのがやっとの状態にありながらも、枯れた草の葉や木の実、サルナシのつるなどを背のうに収め、隊員が寝入ったときにも深い雪をかき分けて草の根を掘ったりした。

 ある日、炊事隊員とともに草がゆを炊いていたとき、突如銃声が響いた。正淑はとっさに肩の白布を脱ぎ、煮え立つ釜を包んで持ち上げた。他の炊事隊員たちもこれにならって釜を白布に包み、正淑の後を追った。そのときのかゆが、隊員にどれほど大きな力を与えたか、祖国が解放された後も、苦難の行軍に参加した抗日闘士たちはその草がゆの話をよく語ったものである。

 苦難の行軍が始まって1カ月経った1939年1月上旬、部隊が長白県七道溝の奥地に至ったとき、敵は長白−臨江県一帯に前もって配置しておいた大兵力と航空機まで繰り出して「討伐」にいっそう狂奔した。

 さし迫った状況を打開するため、将軍は大部隊で行軍していた主力部隊を3つの方向に分散させて行動する戦術的方針を示した。負傷者と病弱な者、それに女子隊員は青峰密営に行くことになった。

 司令部と別行動をとることになった正淑は別れぎわに、背のうの中にしまっていた非常食のはったい粉の袋を伝令の背のうに入れながらこう言った。

 「一合にもなるかどうか……どうにもならなくなったときに、司令官同志に差し上げてください」

 今日、朝鮮人民のあいだに伝説のように広く伝わる『一合のはったい粉』(抗日闘士の回想記)は、これにまつわる話である。

 正淑は、警護中隊の隊員の手を取って重ね重ね頼んだ。

 「司令官同志の安全を頼みます!」

 正淑は後ろを振り返り振り返り、青峰密営へ向かった。

 青峰密営は朝鮮人民革命軍の後方密営だった。この密営には第7連隊兵站部のメンバーと負傷者がいて、その責任者は連隊給養担当官の厳光浩だった。彼は、正淑が1937年に桃泉里で地下工作に当たったとき、一緒に活動したことのある人物である。

 将軍は厳光浩を青峰へ派遣する際、畑を耕して部隊の食糧を備蓄し、部隊の冬期軍事・政治学習に支障がないよう兵舎を建てておく任務を与えていた。ところが彼は、予備の兵舎一つ満足に建てず、食糧も十分に蓄えていなかった。密営の日課は守られておらず、一日の食事も2食がやっとという状態だった。さらに驚いたことには、新入者が落ち着けそうな兵舎も満足に用意されていなかった。

 正淑をはじめ、新しく来た女子隊員や負傷者は、寒さの厳しい真冬に兵舎を建てることから始めなければならなかった。

 青峰密営は、将軍が歩んでいる苦難の行軍の道とはあまりにも異なる沈滞と無秩序、低迷した雰囲気に包まれていた。

 正淑は、こうした雰囲気を拱手傍観することができなかった。朝鮮人民革命軍の隊員であれば、どこにあっても将軍の革命思想を体して行動しなければならないのだ。正淑は、まず密営をきちんと整え、患者の治療対策を講じるかたわら、長い間部隊と離れていた隊員たちに、将軍が南牌子会議でうちだした方針を説明し、鴨緑江沿岸に進出している主力部隊の戦闘ニュースを伝え、彼らの精神状態を改めさせることに努めた。

 そして、軍事・政治学習を通じて隊員を将軍の思想で武装させることに力を注いだ。しかし、この問題について、正淑は厳光浩や政治キャップの金俊(一名 李東傑)としばしば議論しなければならなかった。彼らの主張によれば、密営入居者の半数が病弱者か負傷者だというのに、学習をさせたところで頭に入るはずがないというのだった。

 けれども、正淑は動揺することなく、同行してきた女子隊員たちと学習を始めた。すると負傷者たちも一人、二人と学習に参加しはじめ、やがて密営のメンバー全員の関心が正淑に注がれるようになった。こうなると、厳光浩は急に態度を変え、金俊の指導のもとに学習を始めることを全員に告げた。彼は、軍事・政治学習を自分が主導して始めたかのように体面をつくろい、その識者ぶりで人々を引きつけようとした。

 1939年2月初めのある日、密営では南牌子会議での将軍の演説内容について学習討論がおこなわれた。隊員たちの討論を聞いていた厳光浩は、討論が的外れだとし、革命の戦略戦術というものは主観的欲求によってではなく、客観的情勢と環境に適応すべきものだ、したがって、この冬のように情勢が厳しく不利なときには敵との正面対決を避けていったん退き、有利な情勢が到来するのを待たなければならないという「理論」を並べ立てた。

 女子隊員の一人が、将軍の方針どおり国内へ進出して朝鮮革命の新たな高揚をもたらすということが、なぜ主観的欲求だというのか、と質問した。

 厳光浩の顔色がにわかに変わった。

 「一つ聞こう。きみは二言めには国内進出を主張するが、なぜ進出せずにここへ来たのかね、この密営にだ」

 「……」

 「見たまえ、革命というものは誰かの思いどおりになるものではない。すべて客観的情勢と環境に支配されるものなのだ」

 正淑は、それ以上こらえることができなかった。これは明らかに将軍の思想に反する発言であるばかりか、将軍の思想と路線にたいする挑戦でもあった。

 正淑は奮然と席から立ち上がった。

 ───厳光浩同志は、あたかも朝鮮革命の運命が決定的に客観的情勢に依存するかのように論じているが、それは誤った考え方だ。わたしは、客観的情勢が革命闘争に影響を及ぼすことを否定するものではない。だが、それを絶対視してはならない。情勢が不利であるほど、革命家はより積極的にたたかい、禍を福に変えるために奮起すべきだ。これが、司令官同志の意志だ。情勢が複雑であるときは敵と戦わず、後退して時を待つのが上策だというのは逃避主義であり投降主義だ。現況下で我々には退却すべき後方もない。敵を打ち倒すためには血を流さねばならず、折重なる難関を果敢に突破して前進しなければならない。革命は、うちつづくたたかいによってのみ勝利をおさめるのだ。

 厳光浩は体面を保とうとして、レーニンの「一歩前進、二歩後退」の命題をもちだして机をたたいた。しまいには、朝鮮人民革命軍主力部隊の国境地帯への進出についてさえも、「無謀な行動」だのどうのと誹謗中傷した。

 正淑は、即座に彼の詭弁に反論を加えた。

  ───我々は、司令官同志がかかげた朝鮮革命の旗のもとで革命に参じ、司令官同志が示した革命路線をあくまで擁護し貫徹する決意を抱いてたたかう朝鮮の革命家だ。いま司令官同志は、当面の難局を打開し、朝鮮革命を一大高揚へと導くため、部隊を率いて国境一帯への進軍を断行している。この道こそ朝鮮革命を救う道であり、破壊された国内の革命組織を立て直し、人民に勝利の確信を与える唯一の道だ。司令官同志のこの正当な革命的方針に照らしてみるとき、革命の「退潮期」だのどうのと、敵との戦いを避け、国境沿岸にも進出すべきでないという発言は、司令官同志の革命路線に反するきわめて不健全かつ危険な見解だ。

 厳光浩は、一言の反論もできず席を立ってしまった。しかし、彼は自分の思想を見直すどころか、日和見主義的で投降主義的な反革命的正体を隠そうと策動した。

 ある日の夜半、彼は急に「非常呼集」をかけた。正淑が引率してきた女子隊員のなかから何かしら「欠点」を見つけだし、屈伏させようとしたのである。しかし、女子隊員からは何の欠点も発見できなかった。すると厳光浩葉、長白で入隊して間もない新入隊員を呼んで隊伍の前に立たせた。部隊の生活に慣れていなかった彼は、非常呼集がかかるとあわてたあまり、銃を兵舎に置き忘れてしまった。

 厳光浩はこれをよいことに、彼の武装を解除し、食事もとらせず圧力をかけた。空腹をこらえきれなくなった新入隊員は、こっそり兵舎から抜け出し、畑で凍ったジャガイモを何個か掘り出し焼いて食べた。厳光浩は、これを正淑をはじめ女子隊員を陥れる絶好の機会とばかりに、その新入隊員を逃亡者として逮捕し、スパイの嫌疑をかけようと拷問を加えた。新入隊員は拷問に耐えきれず、厳光浩の強要に負けて「スパイの任務」を受けて入隊したという偽りの陳述をした。厳光浩は、それを「端緒」にさらに拷問を加え、彼から数名の女子隊員がスパイ活動に共謀したという「自白」を取りつけ、その物的証拠として「毒薬」まで押収した。その「毒薬」とは、新入隊員が苦しまぎれに背のうから取り出した歯みがき粉だった。

 新入隊員から「自白」を取りつけた厳光浩は、敵の「スパイ」がすべて吐いたと言って、正淑をはじめ数名の女子隊員をうむを言わせず逮捕した。

 正淑は憤激して厳光浩を指弾した。

 「……あなたは、わたしたちがどんな人間かわからずに日本のスパイ扱いするのか。わたしたちがスパイだというなら、あなたは桃泉里から無事に帰ってこれなかったはずだ。恥知らずにもほどがある」

 1937年8月に正淑が逮捕されたとき、命を投げだす覚悟で組織の秘密を守ったため、厳光浩も難を逃れることができたのである。にもかかわらず、彼は鉄面皮にも「スバイ組織」の詳しい内幕を明かせと問いつめた。

 それ以上とらえきれなくなった正淑は、断固として抗弁した。

 「……わたしたちは、朝鮮人民革命軍の隊員だ。わたしたちは、金日成将軍の戦士だ。お前は一体何者か。お前は革命の敵だ。革命は、お前のような者を許さない。しかと覚えておくがいい。お前は革命にたいして犯した罪によって処刑されるだろう」

 これにたいして厳光浩は、お前たちは何を頼んでそんな強がりを言っているのか、主力部隊は雪に埋もれてみんな凍死してしまったはずだ、とほざいた。彼はその本性を完全にさらけだした。

 延吉地方で5.30暴動の波に乗って革命運動に加わった厳光浩は、分派的悪習に染まった野心家だった。ひところ、中隊政治指導員を務めたが、最初から人望を失い、反「民生団」闘争のときには極左的な言動で人々を苦しめた。けれども、将軍は彼を教育し、再び中隊政治指導員の重責を担わせた。また、過ちを是正できなかったにもかかわらず、後方の密営に送って改悛の機会を与え、農作を営み、破壊された敵地の革命組織を立て直し、部隊の食糧予備を整える任務を与えた。ところが、彼はかえって職位に不満を抱いて課された任務をどれ一つ誠実に果たさず、思想的に変質、堕落して革命の裏切り者に成り果てていたのである。

 青峰での日々、正淑をもっとも苦しめたのは、厳光浩のむごい拷問や「スパイ」嫌疑ではなく、将軍の革命思想と路線に反対する彼の罪業が何の打撃も受けず容認されていることであった。

 司令部から連絡員が密営に派遣されてきたとき、正淑は両手を縛られた状態にあった。そんな状態で連絡員と会った正淑は、密営の不正常な事態を将軍に報告するよう頼んだ。

 連絡員は、旧正月をひかえて将軍から託された食糧や肉類など、十三道溝部落襲撃戦でろ獲した物資を届けに来たのであった。

 連絡員は、驚きのあまり何も言えなかった。

 その日、厳光浩と金俊も将軍への手紙と「毒薬」の袋を連絡員に渡しながら、至急司令部にもどって「スパイ団事件」を将軍に報告するよう委託した。

 連絡員は早々に司令部にもどった。連絡員の報告を受けて手紙を読んだ将軍は激昂した。そして、隊員の制止を振り切って、証拠だという「毒薬」の袋を解いて舌先で確かめた。それは、毒薬ではなく歯みがき粉だった。将軍は即刻、第7連隊の政治委員を青峰密営に派遣する一方、事態を収拾する対策を講じた。

 1939年4月5日、厳光浩は、北大頂子で、革命の名で峻厳な審判を受けた。

 その日、正淑は厳光浩を断罪してこう言った。

 ──我々は、いつどこにあっても高い政治的自覚と革命的信念をもって将軍の革命思想を断固擁護し、それを誹謗する行為にたいしては容赦なくたたかわなければなりません。

 金日成主席は、当時のことを次のように述懐している。

 「そのとき金正淑が先頭に立って厳光浩の敗北主義を辛らつに批判した。彼女は司令部の路線や作戦上の方針にたいする誤った思想にたいし、いささかも妥協することなく断固としてたたかった。彼女は、徹底した思想論者だった」

 命を投げだしても将軍の革命思想を断固として擁護するというのは、正淑が生涯貫いた不変の信条であり、確固たる意志であった。

 これに先立つ3月上旬、青峰密営から帰ってきた正淑は、司令部に随行して再び苦難の行軍をつづけた。

 正淑は、この苦難の行軍期間、何よりもまず将軍の安泰をはかることを歴史と革命にたいする最大の本分とし、いついかなる状況下においても将軍の身辺の安全に最大の注意を払った。

 部隊が東大頂子裏山の尾根を伝って一晩中行軍をつづけ、翌日の早暁、とある台地で休止したときだった。疲労困憊していた隊員たちは、雪上に座り込むや否や眠りだした。

 しばらくすると、山裾の方から銃声が響いてきた。隊員たちは一斉に起き上がり、銃声の鳴る方に駆け下りて行った。山裾では、吹雪に紛れてひそかに遣い登ってくる「討伐隊」を相手に、正淑が単身で必死に防戦していた。そのとき正淑は、朝食の支度のため、司令部の位置からかなり離れた山裾におりて、草の根を掘り出していた。「討伐隊」が司令部に接近するには、山裾から登ってくるしかなかったので、それと思われるコースを見定め、革の根を掘りながらいざというときは銃声を鳴らして知らせる考えだった。案の定、敵を発見した正淑は、銃声を鳴らし、機先を制したのである。

 「本当に金正淑同志でなかったなら、重大事になるところだった」

 難を逃れた後、隊員たちは正淑の手を取り、口をきわめてほめちぎった。

 長白県上崗区一帯で活動していた呉仲洽の連隊が司令部と合流した後、撫松方面に進出していた第8連隊と独立大隊もやがて司令部と合流した。

 分散していた各連隊が一つになって活動するようになって、いちばん困ったのは塩が切れたことだった。食糧は敵を襲撃して少なからず手に入れたが、塩は敵の統制が厳しくて手に入らなかった。何日も塩を切らしているうちに、隊員のなかには行軍中に酒に酔ったように体の均衡を失ってふらついたり、顔が腫れ上がったり、なかには腫れがひどくて目も開けられない者もいた。

 そうしたとき、将軍の命を受けたその土地出身の隊員が、村人を通して相当量の塩を手に入れてきた。給養担当者はすぐさま、各連隊と中隊にその塩を配分した。各隊は早速その塩を使って食事をとった。

 しかし、将軍の身辺の安全に最大の注意を払っていた正淑は、まず塩に酢をかけてみた。すると塩はあやしげな色に変わった。正淑は急いで塩を水に溶かし、銀製の箸とクロツバラのさじを浸けてみた。箸とさじは、次第に変色しはじめた。塩に毒薬が入っていたのである。

 正淑は、急いで将軍に告げた。将軍がたき火に塩をまいてみると、青い炎が舞い上がった。間違いなく毒入りの塩だった。

 革命の司令部を狙った敵の凶悪な企みは未然に防止された。だが問題なのは、第7、第8連隊が、すでにその塩を食して木材所奇襲に出陣していたことであった。

 革命軍部隊に毒入りの塩を送り込んでその効果があらわれるころ合いを見計っていた敵は、いまこそとばかりに攻撃をかけてきた。

 将軍は、第7、第8連隊を直ちに呼び戻す措置を講ずる一方、中毒を起こしていない司令部のメンバーを率いて戦闘を指揮した。こうして、司令部のメンバーを除いた全部隊が中毒に陥った状態で戦いにのぞまざるをえなくなった。

 これは、1937年に小湯河で数千の敵に包囲されたときよりさらに危急な状況であったと、将軍が後日回想しているように、部隊が全滅するか、戦力を保持して反日抗戦をつづけるかの瀬戸際であった。

 「背のうの弾丸を全部出しなさい。きょうは、ここで生きるか死ぬかの決戦をする」

 将軍は、悲壮な面持ちでこう言った。

 機関銃小隊と司令部護衛兵は、決死の覚悟で奮戦した。その間に、第7連隊と第8連隊は、比較的安全な森の中に隠れ込むことができた。

 正淑は、敵を牽制しながら、非常用に持っていた緑豆を取り出し、それを煎じて解毒処置を講じた。しばらくして、中毒症状のなくなった第7、第8連隊が戦闘に加わった。司令部と主力部隊を一撃のもとに壊滅させるか、生け捕りにしようとした敵は、おびただしい死者を出して敗走した。

 その夜、呉仲洽連隊長をはじめ指揮官たちは、生死を決する危急に際して司令部を守り、革命を救った正淑に心から感謝した。


  茂山に響き渡った勝利の凱歌

 苦難の行軍を成功裏に終えた朝鮮人民革命軍の主力部隊は、北大頂子に至って雪解けの季節を迎えた。

 1939年4月、金日成将軍は、北大頂子で開かれた朝鮮人民革命軍幹部会議で苦難の行軍を総括し、積極的な反撃戦によって日本侵略軍に連続的打撃を加え、再び祖国に進軍する闘争方針を提示した。

 その後、白頭山西南部一帯で春期反撃戦を猛烈に展開し、白頭山が望まれる小徳水台地の森林に至った部隊は、メーデーの前夜に軍装を解いてテントを張り、夏の軍服に着替えた。

 翌日、小徳水の台地では、祖国進軍をひかえてメーデー祝賀集会と演芸公演がおこなわれた。

 メーデーを盛大に祝った後、将軍は、警護中隊と一部の小部隊のメンバーを率いて間白山密営へ赴いた。そこで、鯉明水、三池淵、茂浦、大紅湍一帯に偵察班を派遣して住民の動向と敵情を確認した後、祖国進軍の作戦計画を立てた。そして、黒瞎子溝密営に戻って隊員の出発準備状況を確かめた。

 そのころ正淑は、青峰密営での辛労のためかなり衰弱していた。司令部では、後方病院で治療にあたるよう正淑に勧めた。しかし正淑は、途中で倒れるようなことがあっても今度の国内作戦からは抜けたくない、祖国進軍の隊伍にぜひ加えてほしいと重ねて懇願した。将軍がその願いを聞き届けてくれたときの正淑の喜びようは、ひとかたならぬものであった。

 5月18日の早朝、部隊は五号堰を伝って鴨緑江を渡った。祖国の岸辺には、ツツジの花が咲きこぼれていた。

 正淑は、ツツジを抱きかかえて熱い涙を流した。そして、朝露に濡れたツツジを手折って将軍に差し上げた。それを受け取った将軍は、感慨をこめてこう語った。

 「朝鮮のツツジは、見れば見るほど美しい!」

 降り注ぐ朝の日差しを浴びながら再び行軍を開始した部隊は、やがてトワシラベやエゾマツ、カラマツの大樹が茂る山のふもとに至った。

 一年中青々とした針葉樹に覆われているため、そこは青峰と呼ばれていた。将軍はここで宿営を命じた。祖国での最初の宿営であった。またたく間に、青峰の森林の中に司令部を中心にいくつものテントが立ち並んだ。

 一夜の宿営地であったが、正淑は将軍の指図どおり周辺の整備に気をつかい、支柱を立ててテントを張り、炊事場や湧き水のまわりもきれいに整えた。

 宿営の準備が終わると、正淑は、他の隊員たちと一緒に立木の皮をはいで、革命的スローガンを書き記した。

 「朝鮮民族の自由と独立、解放のために最後までたたかおう」「朝鮮青年よ! こぞって抗日戦にはせ参じよう」「立ち上がれ、団結せよ、全世界の勤労者大衆よ! 自由と解放のためにたたかおう」

 正淑が記したスローガンは、長年の風雪に耐え、革命勝利の永遠の賛歌として今日に伝えられている。

 忘れがたい夜であった。隊員たちは、たき火を囲んで祖国について語り合った。ハーモニカや笛を吹く者もいた。正淑は、張哲九、張正淑と一緒に歌をうたった。

 翌日、青峰を発った部隊は乾滄で第2夜の宿営をし、枕峰へ向かった。

 5月20日、将軍は枕峰で指揮官会議を開いた。そして、敵が胞胎山を中心とする山岳地帯と鴨緑江沿岸一帯に密集し徘徊しており、昼間よりも夜間の警戒を強めている状況のもとで、白頭山麓の広大な高原地帯を横切る「甲茂警備道路」を伝って、白昼に茂山地区へ抜けるという一行千里の戦術を示した。

 枕峰を発った部隊は、三池淵で昼食をとった。

 正淑は、三池淵の滑らかな水をすくって将軍に差し上げた。将軍は、その水を飲みほして語った。

 「三池淵は、景色も美しいし水もおいしい。この水を心ゆくまで飲んで力いっぱいたたかい、祖国の解放をなし遂げよう」

 出発の命令がくだったが、女子隊員たちは立ち去りがたい思いだった。

 そのとき正淑は彼女たちに、祖国を解放した後、将軍と一緒にこの美しい湖を再び訪ねる日が必ず来るだろうと言った。

 三池淵を発った部隊は、日本帝国主義が抗日遊撃隊の「討伐」を目的に建設した道路、それも開通式を間近にひかえてきれいに掃き清め、竣工検査を待っていた「甲茂警備道路」を白昼に行軍した。

 40キロ近い「甲茂警備道路」を一気に踏破した部隊は、夕暮れどきに豆満江畔の茂浦に着き、そこで宿営した。

 その夜、正淑は女子隊員たちとともに、金色の五角星を印した300枚の腕章をつくった。人民革命軍を識別する目印にするためであった。

 5月22日の朝、部隊は大紅湍へ向かった。将軍は第7連隊を新開拓方面に派遣し、みずからは第8連隊と警護中隊を率いて新四洞に出た。

 将軍と行をともにして新四洞に来た正淑は、女子隊員たちとともに、ある丸太小屋を訪ねた。そこには、木材所労働者の老人と14、5歳の娘が住んでいた。明かりを手にして出てきた彼らは軍服姿の一行を見て声をのみ、後ずさりした。部屋の中には寝具らしきものはなく、古びた木箱が一つと釜が一つ、棚の上に欠けた茶碗がいくつかあるだけだった。父娘が身に着けているのは、肌をおおい隠すだけの麻の粗衣であった。

 「ご老人、ご安心ください。わたしたちは、貧しい朝鮮人のために戦う朝鮮人民革命軍です」

 こうあいさつした正淑は、娘の荒れた手をとり、なぜこんなになったのかと尋ねた。

 娘の手はひび割れて見るに耐えなかった。娘はうなだれたまま涙を浮かべ、黙っていた。正淑は、背のうの中からクリームを取り出して娘の手に塗ってやった。そして、朝夕手を洗ったあとでこれを塗れば直るからと、クリームを手渡した。横でこの様子をじっと見ていた老人は、もしや白頭山から来た人たちではないかと尋ねた。

 「わたしたちは、金日成将軍を司令官に戴き、祖国解放のために日本帝国主義と戦う朝鮮人民革命軍です」

 こう答えた正淑は、朝鮮の同胞に祖国解放の信念を植えつけるため、金日成将軍が日本軍の国境警備陣を突破し、みずから大部隊を率いて茂山にやって来られたと話した。

 老人がびっくりしたのは、言うまでもないことだった。そして、感無量の面持ちで、一生の願いだから将軍に一目お目にかからせてほしいと懇願した。

 正淑は、父娘の手を引いて将軍がいる木材所の飯場に案内した。将軍は、だだっぴろい宿舎を埋めつくした労働者にアジ演説をしていた。

 将軍にまみえた老人は、もう死んでも思い残すことはない、老い先短い身ではあるが、祖国解放の偉業に尽くすつもりだと重ね重ね決意を述べた。

 労働者は、われがちに遊撃隊への入隊を願い出た。村はお祭り気分に包まれ、女性たちは、司令部の食事の準備をする正淑の手助けをした。

 翌日の5月23日早暁に、正淑は将軍の率いる警護中隊と第8連隊の隊員たちとともに大紅湍原に至った。将軍は、そこで新開拓に進出した第7連隊が戻ってくるのを待ちながら、敵の追撃を予見して戦闘準備に万全を期した。この大紅湍原で敵を掃滅する腹積もりなのであった。

 大紅湍原は、東は大老隠山、西は鵠峰、南は小紅湍水、北は甑山に囲まれた高原地帯の比較的広い沼沢地である。

 将軍は、警護中隊と第8連隊の機関銃が並んで据えられた丘に指揮所を定めた。正淑は、女子隊員たちとともに将軍のそばで待ち伏せの態勢をとった。

 東の空が白みはじめたとき、将軍が予想したとおり重武装した数百名の日本の守備隊と警察隊があらわれた。彼らは、新開拓に進出した第7連隊の後をつけてきたのであった。日本人が経営する新開拓地区の木材所を襲撃して引き揚げてくる第7連隊は、深い霧のため200メートルほど後ろに敵が迫っていることに気づかなかった。

 将軍は、第7連隊をそのまま通過させ、追尾してくる敵が完全に伏兵圏内に入ったときに射撃命令をくだした。

 正淑はそれまで多くの戦闘に参加したが、祖国の地で敵を討つ戦いは初めてであった。自分の銃弾が切れると、正淑はそばの張哲九の予備弾丸をもらって撃ちつづけた。

 たじたじとなって退却したかに見えた敵は、増援部隊と合流して再び攻撃をかけてきた。

 将軍は、機関銃が据えられた丘で戦闘を指揮していた。

 正淑は将軍の身辺を警護しながら、カヤ原から頭をもたげる敵兵につぎつぎと命中、弾を浴びせた。機関銃射手たちも猛烈な射撃で敵を撃ち倒した。正面からの攻撃は不可能だと判断した敵は、あたりにカッパと鉄かぶとをかぶせたワラ人形を立て、数人の狙撃兵だけを残して北の方角へ迂回した。人民革命軍の側面と後方を討とうとしたのである。

 敵の企図を看破した将軍は、1区分隊に敵を逆包囲するよう命じた。この日の戦闘で、敵は数百名の死傷者を出した。

 部隊は、豆満江方面へ向けて撤収しはじめた。そのとき、新四洞からついてきた200余名の労働者が、危険をものともせず遊撃隊の物資運搬に協力したいと申し出た。

 将軍は、彼らを引率して豆満江を渡る任務を正淑に課した。ところが、正淑が物資運搬隊を率いて「甲茂警備道路」付近に至ったとき、予期せぬ事態が生じた。基本部隊と物資運搬隊の間に敵が入り込んだのである。

 正淑は女子隊員たちに、敵はまだこの状況を察知していないようだからあわてないようにと言い、労働者たちを林の中に潜ませる一方、すばやく伏兵陣をしいて不意討ちをかける態勢に入った。

 道路のそばに待機していた防御隊もこれに加勢して挟撃したので、敵はまたたく間に壊滅状態に陥った。兵士を満載して「甲茂警備道路」を疾走してきた敵の軍用トラックも、遊撃隊の猛射を浴びるや、あわてて逆戻りして逃走した。

 労働者のなかに負傷者はなかった。部隊は、労働者とともに豆満江を渡り、安図県の長山嶺の麓で宿営することになった。

 その夜、正淑は、ろ獲物資をかついできた労働者たちに食事をとらせ、娯楽会を催し、歌や踊りを繰り広げて彼らを楽しませた。そして、将軍の「縮地の術」や人民革命軍の軍事・政治活動について話して聞かせた。

 翌朝、労働者たちは、豆満江を渡って帰ることになった。正淑は、祖国解放をめざす闘争の道でまた会おう、勝利の信念を失わずに強く生きて戦うようにと、彼らを励ました。

 のちにわかったことであるが、豆満江を渡った労働者たちは、農事洞駐在所の巡査につかまり尋問を受けた。彼らは正淑から教えられたとおり、二日の間に見たり聞いたりしたことをありのままに話した。すると巡査たちは、目を丸くし、そのことを絶対に口外してはならないと釘をさした。

 しかし、労働者たちは、親戚や友人に会うたびにその話をして聞かせた。そして、大紅湍戦闘と白頭山東北部地域における朝鮮人民革命軍の活動のうわさは全国に広まり、国内の人民と革命家たちを反日闘争へとさらに力強く立ち上がらせることになった。





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