『金正淑伝』
 
4 敵地で


  桃泉里

 金日成将軍は、祖国光復会の組織をさらに強化し、それを全国的規模で早急に拡大する構想のもとに、朝鮮内外の各地域にすぐれた政治工作員を派遣した。

 金正淑が将軍から桃泉里─新坡地区への地下政治工作任務を受けたのは、部隊が西崗地区に到着した1937年3月中旬のことである。

 将軍は、桃泉里を拠点にして下崗区一帯の活動を盛りたて、新坡ルートを切り開いて祖国光復会の組織網を東海岸一帯に拡大する任務を正淑に与えた。そして、「きみがこの難しい任務をきっと遂行してくれるものと、わたしは信じる。困難にぶつかれば、そのつど同志たちと人民に依拠しなさい」と述べた。

 「司令官同志、必ず任務を遂行して帰ってきます」

 短い返事ではあったが、いかなる試練や難関に見舞われても、将軍の信頼と期待にこたえようという正淑の決意がこめられていた。

 当時、日本帝国主義者は、朝鮮人民革命軍の国内進出を阻むため、軍隊を鴨緑江の国境一帯に集中させる一方、「協和会」などの悪質な手先を動員して朝鮮人民革命軍にたいするさまざまな悪宣伝を広め、人民の革命的熱意をそごうと悪辣に策動していた。

 こうした時期に、正淑は司令部を離れて長白地区へ向かった。

 まず、天上水から8キロ余り離れた秘密連絡場所に半月ほど留まって祖国光復会支会の活動を指導するかたわら、新聞に載る資料を調べたり、金在水をはじめ、地下組織のメンバーに会って桃泉里と下崗区、それに国内の新坡地区の実態を聞き取り、地下工作の準備を整えた。

 同年4月初、正淑は茂山から移住してきた厳玉順という名の人物に偽装して桃泉里へ向かった。

 桃泉里は、200戸余りの比較的大きな山村で、本村といくつかの村からなっていた。

 正淑はまず、地下組織のメンバーである桃泉里区長の鄭東哲に会い、現地の実態と住民構成、組織関係などについて詳しく聞き取った。

 桃泉里と腰房子をはじめ、いくつかの村に祖国光復会の支会と分会が組織されていたが、積極的な活動はしていなかった。中核の構築や大衆の革命化、組織の拡大など、多くの問題が未解決のままであった。

 鄭東哲は、将軍が工作員を派遣してくれたので自信がついたと喜び、金在水も安心した様子だった。

 正淑は彼らに、人民の尊敬と信頼を得てその心を動かすならなしえないことはない、という将軍の教えどおり、自分も野良仕事をしながら人民の心のなかに入っていくつもりだと語った。

 正淑は、日中は畑に出て村人と一緒に働き、夜は家々を訪ね回って顔なじみになった。こうして、1週間後には「北青の家」「甲山の家」などといった家々の呼び名とともに、200世帯を越す村人たちの名前をほとんど覚えた。

 この時期に、正淑は、女性地下工作員としての資質をそなえるため毎晩、井戸端で水がめを頭にのせて歩く方法を習得した。そして、スリナル(端午)をひかえて、毎晩ぶらんこ乗りの稽古もした。

 夏のある日、区長の鄭東哲の家で、男の子が生まれて祝いの宴がもうけられた。その席には政治工作員や地下組織のメンバーが参加し、巡査や他の地域の区長、密偵なども顔を見せていた。

 正淑は敵の目を欺くため、鄭東哲と示し合わせて工作員に初対面のあいさつをさせた。そして、みずからも朴正淑の前に両手をついて「初めまして」と深々と頭をさげた。この芝居をうつため、正淑は区長に教わってお辞儀の仕方を練習していたのである。

 正淑は、桃泉里の人々のあいだで「先生」ではなく、娘、孫娘にもなり、姉、妹にもなって親しくした。通りすがりにちょっと立ち寄った家でも、そのまま腰を上げようとせず、薪を割ったり、水を汲んだり、踏み臼を使ったりした。嫁入りしたばかりの年若い女性が夫に着せるひとえ上着のつくり方がわからず、こまっているのを見ては、半日がかりでそれを教え、またある母親が頼りにしていた一人息子が重病で食欲をなくし鮮魚汁をほしがっていることを耳にしては、川へ行って魚をとってきたりした。正淑が桃泉里の人々に消しがたい印象を刻したのは、劉家村の地主が熱病にかかった下働きの少女を山小屋に捨てたときのことである。隣人はもちろん、親戚たちでさえ少女に同情してため息をつくだけで、熱病に感染するのを恐れて助けようとはしなかった。

 それを知った正淑は、ためらうことなくその山小屋へ行った。雨雪にさらされ、なかば倒れかかった山小屋で少女は死を待つばかりだった。正淑は少女を抱きしめた。

 意識を失ったまま高熱にうなされ、寂しく死んでいく少女のみじめな姿に、正淑は苦しみに身もだえる祖国の人民を思い浮かべた。

 正淑の犠牲的な行為を知って山小屋の近辺に集まってきた村人たちは、信じがたい光景を目のあたりにして涙ぐんだ。正淑が、熱病にかかった少女を抱いて、おも湯を口に含ませていたのである。

 村人たちが帰った後、鄭東哲をはじめ組織のメンバーは、助かる見込みのない少女を看護して病気がうつったらどうするのか、司令部から受けた重要な任務が果たせなくなったらその責任は誰が負うのか、と言って、山小屋から引き上げるよう説得した。

 正淑は、ほほえみながらこう答えた。

 「心配しないで帰りなさい。命が惜しくて子ども一人、助けられないようでは、どうやって国を取り戻し、人民をどう救えるというのですか。人民にささげた命なのです。なにも恐れることはありません」

 正淑は、山小屋を離れずに看病をつづけ、少女は生き返った。村人たちは、正淑を貧しい人のために「天がたまわった義人」「うちの玉順」と呼ぶようになった。この呼称には、正淑を自分たちの運命とかたく結ばれた一心同体、実の娘、姉妹とみる村人たちの信頼と愛がこめられていた。

 4月中旬のある日、下崗区地下組織の責任者たちに会った正淑は、敵の攻勢が激しくなったからといって組織が活発に活動しないのは間違っている、大胆に立ち向かって主動的に革命組織をうちかため、拡大していくべきだといましめた。

 正淑はまず、桃泉里一帯の青年を熱心に教育して中核に育て、彼らを中心に各村に反日青年同盟を組織した。特に、下崗区一帯の組織で弱点の一つとなっていた女性の組織化に力を傾けた。

 女性を組織に結集することは当時、祖国光復会の組織網を拡大するうえできわめて重要な問題であったが、下崗区の革命組織では女性を結集する活動に進展がなくて気をもんでいた。

 こうした実態を知った正淑は、地下組織のメンバーが、自分の母や妻、妹に革命的な影響を与えて中核に育て、彼女らを通じて村の女性をすべて革命化していくよう指導した。

 正淑は、祖国光復会会員の妻である李貞愛を組織の中核に育てる目的で彼女の家をたびたび訪ねた。その家には6年も床についたままの年老いた父がいたが、女性が読み書きを覚えるために外出したり、社会活動に関与することを許さなかった。

 李貞愛を教育するためには、彼女の家族と親しくなり、まず、父を感化しなければならなかった。

 正淑は、その家の庭にある踏み臼を借りて穀物をひいたり、何かと小用をつくって立ち寄ったり、また、老父のためにおいしい食べ物をこしらえて持って行ったりもした。通りすがりに立ち寄っては、水汲みや薪割りなどの仕事を手伝った。李貞愛には、苦労の末に病気にかかった老父をよく介護するよう諭し、みずからも看護役を務めて実の父のように真心を尽くした。そうこうするうちに、老人は正淑に娘にもまさる親近感を抱くようになり、父への心づかいに深く感動した李貞愛も、正淑を姉のように慕うようになった。

 正淑は、彼女に読み書きや革命歌曲などを教えながら、階級的に目覚めさせようと努力した。山菜を摘んだり、石臼を回したり、踏み臼を使ったりする間も、教育しつづけた。

 貧しいのは「宿命」だと思い込んできた李貞愛は、次第に階級的に目覚めてきた。正淑は彼女が成長するにともない、朝鮮人民革命軍を率いて、白頭山の険しい山々で日本の侵略軍を打ち負かしている将軍の話を聞かせた。そして、将軍が抗日遊撃隊を創建したことや戦闘談について、また『祖国光復会十大綱領』についても説明した。やがて李貞愛は、自分も遊撃隊に入隊して銃を手に日本軍と戦ってみたい、と言うまでになった。

 正淑はそういう彼女に、遊撃隊に入隊しなければ戦えないというわけではない、ここでも十分敵と戦えると言って、彼女にできることを教えた。はじめは、市の立つ日に新坡市場で遊撃隊に送る地下足袋を何足か買ってこさせ、次に周辺に駐屯している「靖安軍」の動静を探知する任務を与えた。李貞愛は、この過程で大胆さと勇敢さを培った。

 このように正淑は、中核を何人も育て、彼女らを通じて村の女性を革命化していった。

 こうして4月20日、正淑の指導のもとに桃泉里婦女会の結成会合が開かれた。この会議で正淑は、桃泉里婦女会の結成を宣し、わたしたちは、みな将軍の戦士であり、その指導に従って祖国の解放のためにたたかう革命の同志だ、いかなる困難に遭遇してもわたしたちは、生死、苦楽をともにし、将軍の忠実な戦士としてたたかうべきだ、と強調した。

 婦女会の会長には、李貞愛が選出された。1カ月前まで人前で満足に口もきけず、敵の銃を見ただけで縮みあがった女性が、祖国解放をめざす反日聖戦に立ち上がったのである。

 正淑は会合をしめくくるなかで、将軍は、朝鮮民族の太陽であり、わたしたちはその陽光になろう、と呼びかけた。

 このように正淑は、中核分子を数多く育て、彼らを動かして組織をたえず拡大していった。正淑が桃泉里に来ていくらも経たないうちに、多数の熱血青年が反日青年同盟に結集し、反日少年会、反日老人会、そして、半軍事組織の生産遊撃隊が組織された。
の地下組織の連絡員に会った。

 正淑は区長(鄭東哲) の家で冠婚葬祭があると、その機会を利用して桃泉里に来る遊撃隊の工作員や各地方の連絡員に会った。一方、下崗区の各地域に足を運んでは地下組織の活動を指導した。そして、みずから育てた中核分子を周辺地域の親族や友人の家に送って青年と人民の教育にあたらせた。

 こうして、祖国光復会の傘下の組織は、桃泉里だけでなく、下崗区と上崗区の広い地域へと急速に拡大されていった。

 正淑は、遊撃隊を支援するよう村人を教育し、支援運動に積極的に参加させた。また、中核のなかから屈強な青年を人民革命軍に入隊させることに力を入れた。入隊者の数は、桃泉里だけでも10数名、下崗区一帯では100余名にのぼった。

 遊撃隊への支援を促す正淑の教宣活動は効を奏し、桃泉里に定住した中国人までもが人民革命軍に支援物資を送るようになり、また、児童団員は戦場の跡を歩きまわっては敵が残していった銃弾を拾い集めて革命軍に送り届けた。

 普天堡戦闘の直後、正淑は、祖国光復会の長白県下崗区委員会傘下の組織責任者会議を開き、下崗区委員会に組織部と宣伝部、教育部、壮年部、青年部、武装部などを設ける機構再編をおこなった。その結果、下崗区委員会は、傘下組織にたいする指導を着実に、主動的におこなえるようになった。スリナルに開かれた普天堡戦闘勝利祝賀会には、その周辺地域はもとより十三道溝とシンガルパ(新坡)の人々まで集まり、これが祖国光復会の組織を拡大し、人民を反日闘争へさらに奮起させる重要な契機となった。

 金日成主席は、そのころの金正淑についてこう述懐している。

 ──金正淑は、桃泉里と新坡一帯で多くの活動をした。わたしが革命家としての彼女の並々ならぬ手腕と能力を発見したのも、まさにそのころである。彼女には、大衆を感化し、目覚めさせ、奮起させるすぐれた才腕があった。
 下崗区一帯に設けられた広範な地下組織網は、国内の広範な地域へと組織を拡大する足場となった。


  「新坡ルート」

 当時、新坡は、朝鮮人民革命軍の国内進出を阻むための敵の軍事要衝の一つで、警戒が厳しかった。朝鮮人民革命軍が活動している長白とは向かい合わせにあり、恵山、長津、江界方面の車道が伸びているこの新坡に、彼らは砲台を構築し、数十名の警官のほかに国境守備隊と憲兵隊まで配置していた。

 金正淑は新坡ルートを切り開くため、まず4月25日に胞胎山で下崗区一帯の地下組織責任者会合を開き、新坡地区での工作を積極化するための課題を示した。そして、地下組織のメンバーを国内の各地に派遣する一方、組織メンバーと桃泉里の人々を通じて新坡一帯の実情を調べた。

 桃泉里の人たちは、わずかな穀物を売ったり、布地を買うにも新坡の市場に行かなければならない状態にあった。そのため、新坡へ出入りする人が多かった。彼らは、履き物やマッチ、塩など遊撃隊に送る支援物資も新坡の市場で購入していた。

 正淑は、新坡行きを気遣う桃泉里の地下組織のメンバーにこう語った。

 「敵の警戒と弾圧が激しければ激しいほど、大胆に彼らの巣窟に入る必要があります。……
 金日成将軍は日ごろから、敵中工作では大胆さがなければならないと、地下工作員たちに教えています」

 1937年5月末、新坡に向けて桃泉里を発った正淑は、十三道溝三水谷を経て鴨緑江の渡し場に着いた。その日は、ちょうど市の立つ日であった。

 正淑は、行商の装いをした金在水とともに市場へ行く人々のなかに混じって鴨緑江を渡った。二人は、重々しい砲台の前で厳しく検査する警官の目をくぐって新坡の渡し場を通過し、市場に向かった。市場では、貧相な身なりの女性がわずかな麦を前にため息をついているかと思うと、ずた袋を手にした子どもが通りがかりの金持ちに物乞いをしていた。

 新坡のこの現実は、まさに受難にみちた祖国の縮図でもあった。正淑が祖国の地を踏んでまず目に触れ耳にしたのは、救いを求める祖国の姿であり人民の声であった。

 新坡ルートを切り開くための正淑の工作は、当初から危険がつきまとった。

 新坡の渡し場から町中へ向かったときのことである。粗末な麦わら帽をかぶった男が正淑の後をつけてきた。彼はとある飲食店の前でタバコを口にくわえたのだが、それは刻みではなく巻きタバコであった。それを見て正淑は不審に思った。貧しい農民が巻きタバコなど吸えるはずがないからである。

 正淑は、あの裏通りからこの裏通りへと密偵を引き回して市場の雑踏に紛れ込んだ。そして、幼児をおぶって重そうなかごを頭にのせて歩いている顔見知りの桃泉里の女の荷をすばやく受け取って頭にのせた。尾行の相手を見失ってあわてふためく密偵を尻目に、正淑はすばやく市場を抜け出した。これは、新坡工作の日々にあった逸話の一つにすぎない。

 その日、正淑は、市場を抜けて石田洋服店に入った。そこには、すでに将軍から聞いていた、三水共産主義者工作委員会の中核メンバーの一人である張海友が待ち受けていた。彼はかつて金亨稷先生の指導を受けたこともあって、将軍とは親しい間柄にあった。また、独立運動に関与したかどで逮捕され、獄中生活を送ったこともあり、一定の闘争歴をもっていた。正淑から将軍の親書を受けて感激した彼は、ためらうことなく自分の所信を表明した。

 「金日成将軍が金亨稷先生の子息金成柱であることを知った以上、この張海友は亨稷先生に従ったときのように、将軍に従います」

 張海友はその年齢や闘争歴から高ぶったり小事にこだわるような人ではなかった。正しいことであれば無条件に支持し、そのためなら、ためらうことなく自分を犠牲にする人であった。彼は日本帝国主義とたたかうため三水共産主義者工作委員会を結成し、数名の同志を糾合したものの、正しい闘争方途を見出せずに、悩んでいた。

 正淑は張海友に会って、その活動を高く評価した後、十分な準備もなしに何人かの人が集まって組織の結成を宣する方法で祖国光復会の組織を結成することはできない、まず三水共産主義者工作委員会のメンバーが各階層の大衆のなかに入り、彼らを祖国解放をめざす金日成将軍の思想で教育し、実践闘争を通じて鍛えたうえで祖国光復会の組織を結成し、各種の反日組織を設けるべきだと諭した。そして、朝鮮人民革命軍の国内進攻作戦に備えて敵の動きや兵力の配置状態などを探知する任務を与えた。

 その日、正淑は、新坡市内の敵の統治機関の配置状態と敵の動きを偵察し、夕暮れどきになって渡し場へ向かった。市場に来た川向こうの人たちがほとんど帰った後だったので、渡し場はひっそりとしていた。ところが、シンガルパ警察署の特高が帰りの遅くなった船客を取り締まっていた。見知らぬ人や少しでも怪しげな者は渡河監視所に引きたてて、あれこれと検問し、体まで検査していた。

 正淑にとってこの日の新坡行きは初めてであったので、彼の目から逃れることは難しかった。ところが、このとき、新坡に渡ってきて一日中つかず離れず正淑を護衛していた金在水がつかつかと刑事に近づいて行った。彼は刑事の目を引くため、わざと空の袋を上着の中に丸め込んで体をふくらませていた。怪しげな素振りを見た刑事は、直ちに彼を呼び止め、胸元をはだけようとした。すると、金在水は両手で胸元をかかえこんで応じなかった。ますます怪しいと思った刑事は、彼を連れて渡河監視所の中に入った。その機を逃さず正淑は監視所の前を通過して無事渡し舟に乗った。しばらくして、刑事をさんざんじらした金在水は平手打ちをくらって放免された。

 正淑が去った後、三水共産主義者工作委員会のメンバーは大衆のなかに入り、彼らを祖国解放をめざす将軍の思想で教育する活動とともに、敵情資料の収集も積極的に進めた。

 正淑は、彼らが収集した敵情資料を支援物資とともにいちはやく司令部に送った。

 同年6月、普天堡戦闘のニュースが桃泉里にも伝えられた。普天堡の夜空に燃え上がった炎は、暗雲に閉ざされていた祖国の地に射し込む解放の曙光であり、抑圧されていた人民の胸に明日への希望と信念を抱かせる再生ののろしであった。全国が感激に震え、「日本帝国主義が滅亡する日は遠くない」「金日成将軍が再び鴨緑江を渡ってくる日は朝鮮が独立する日だ」と喜びにわき返った。

 日本侵略者は、「後頭部をガンと強打せられたる如く」「千日刈った茅一矩に帰せしめた観あり」と悲鳴をあげ、普天堡戦闘が「一般民心に重大な激化」をまねいたと恐怖におののいた。

 普天堡戦闘のニュースを伝え聞いた正淑は、将軍に率いられて祖国の地に解放の銃声を響かせた戦友たちがうらやましくてならなかった。そして、将軍と戦友を懐かしみながら、将軍から与えられた新坡ルート開拓の任務を早急かつ確実に遂行する決意をかためた。

 普天堡で痛撃を受けて周章狼狽した日本侵略軍は、いっそうものものしい警戒網を敷いた。新坡の渡し場だけでも国境警備砲台の兵員を増強し、渡河する人たちを厳しく取り締まった。しかし正淑は、普天堡戦闘があってから一週間後に再び新坡へ渡った。市場や裏通りは普天堡戦闘の話でもちきりだった。

 この日、正淑は、石田洋服店の裏部屋で新坡地区革命組織の中核メンバーの秘密会合を指導し、祖国光復会シンガルパ支会の結成を宣言した。

 その後、正淑の精力的な指導によって、支会傘下に多くの分会がつくられた。

 この年の6月は、正淑によって新坡の随所に祖国光復会の下部組織が生まれ、革命的高揚がもたらされたときであった。

 6月22日、正淑は、張海友、林元三、徐戴逸らをメンバーとする新坡地区初の党グループを結成した。

 正淑の指導のもとに、新坡地区の地下組織メンバーは、将軍の祖国解放構想を人民のあいだに広く宣伝し、広範な人民大衆を祖国光復会のまわりに結集させた。こうして、新坡地区には、クモの巣のような警戒網が張られているなかにあっても、目に見えない地下組織がつぎつぎと生まれていった。

 正淑は、光鮮写真館、石田洋服店、泉そば屋、新坡宿屋、陶器商店、水車小屋など随所に秘密連絡所と秘密工作の場を定め、組織メンバーとの活動を進めた。これらの場所は、組織メンバーとの接触、連絡の場であっただけでなく、遊撃隊への支援物資の集結・保管の場でもあった。特に、正淑が直接出向いて結成した祖国光復会の五函徳分会と阿安里分会は、支援物資を朝鮮人民革命軍に送り、組織メンバーを国内各地に派遣する重要なルートであった。

 赴戦、長津、新興、興南一帯へ向かうメンバーは、主に阿安里分会責任者の家で、甲山、徳城、北青、端川一帯へ向かうメンバーは、家族ぐるみの分会組織である五函徳宿屋で、任務を受けて派遣されていった。この時期、正淑は、三水郡の好仁地区にも組織を拡大していった。

 正淑は、組織の安全をはかつてアジトをつぎつぎと変えて利用し、みずからもいろいろと変装して活動した。そのため、新坡へ数十回も出入りしたが、「フクロウの目」呼ばわりされていたシンガルパの警官たちには全く気づかれなかった。国内からの大量の支援物資は、新坡を経由して朝鮮人民革命軍に送られ、多くの地下工作員と組織のメンバーが新坡を経て国内各地に潜入した。

 正淑はまた、国境周辺の敵情をもらさず探知し、そのつど司令部に通報することによって、朝鮮人民革命軍の軍事作戦遂行に大きく寄与した。

 普天堡戦闘後、日本侵略者は、総督府で緊急会議を開き、大規模な「討伐」計画を立てた。この計画によって朝鮮駐屯第19師団所属咸興隊第74連隊が恵山に到着したという情報を入手した正淑は、これをいちはやく司令部に報告した。報告を受けた将軍は、直ちに国内と国境一帯の地下組織に、恵山に集結した敵の動きを探知する任務を与えた。

 正淑は、新坡地区のすべての地下組織を動かして敵の兵力数と企図をすばやく探知した。敵の「討伐」企図を完全に破綻させるためには、彼らの渡河地点と渡前日時を正確に探り出さなければならなかった。敵は毎日、恵山から1個部隊ずつ鴨緑江を渡らせていた。ところが、組織のメンバーと人民が探知したところによれば、敵は、日中に渡河させた部隊を夜間にまたひそかに恵山へ引き戻らせていた。これは、朝鮮人民革命軍の目を欺くための偽装渡河に違いなかった。

 正淑は、敵の渡河地点と日にち、その兵力を正確に探知するため地下組織を積極的に活動させた。

 その結果、敵は、恵山から新坡に兵力を移動させて鴨緑江を渡河することになっており、それに利用されるトラックは70台、兵力は1500余名、渡河決行は6月27日と28日であることを知り出した。この情報は、直ちに司令部に報告された。

 新坡から鴨緑江を渡った敵の大兵力が間三峰方面へ向かった2日後の6月30日、この日の間三峰戦闘は、朝鮮人民革命軍の大勝利に終わった。朝鮮人民革命軍を「全滅」させると広言した敵は、200名ほどの敗残兵をかき集めて退却した。「カボチャの頭」にまつわる話が広がったのはこのときのことである。

 間三峰戦闘の勝利に大きく寄与した地下組織の先頭に立っていたのは金正淑であった。


  特 使

 1937年7月初、金正淑は、司令部の連絡員を通して金日成将軍からの新たな任務を伝達された。

 伝達された任務は、至急国内に入って地下組織と愛国者に、今後の闘争目標と戦略・戦術を明示し、分散して活動している革命家とすべての反日団体メンバーを祖国光復会の組織に結集させ、党創立の準備活動を推進することであった。

 特に、豊山地区へ行って革命組織の影響力が及んでいる天道教徒の代表をソウルで開催される天道教徒の大会に派遣して、全国の天道教徒に革命的影響を与えるようにし、また国内の地下組織から報告があった李周淵と李英、李繧ノ会って工作する任務が指摘されていた。これは、反日民族統一戦線運動と党創立の準備活動を国内に拡大し、東海岸一帯に革命のとりでを築くための重大な課題であった。

 実体をつかんでいない豊山地区の天道教徒や、不慣れな国内各地の革命家、反日愛国闘士にたいする工作は困難かつ慎重を要するものであった。

 天道教は、1860年に1世教祖崔済愚により、「人乃天」「輔国安民」を理念として創始され、2世教主崔時亨、3世教主孫秉煕を経て当時は300万の教徒を擁する全国的な宗教団体であった。「斥洋斥倭」「輔国安民」の旗をかかげて甲午農民戦争や義兵闘争、3.1人民蜂起を経てきた天道教は、このころになって上層部が改良主義的立場に変質していた。崔麟は投獄されて親日派に転落していたが、絶対多数の教徒はさまざまな組織を結成して反日闘争を展開していた。

 このような実態を推し量り、300万の天道教徒をすべて祖国光復会に結集する構想をあたためていた将軍は、1936年の冬、獅子峰密営で朴寅鎮に会い、3日間にわたりその実現方途について論じ合った。そのとき、朴寅鎮は将軍の祖国解放構想に全面的な賛同を示し、100万の天道教青年党員を朝鮮独立の聖戦に出動させる決意を表明し、今後緊密な連係を保つことを確約した。

 その後、彼は天道教中央大会が開かれるソウルに行き、天道教中央の上層部にいた崔麟と会談した。

 祖国光復会に加わってたたかおうという朴寅鎮の提唱にたいし、崔麟は改良主義的で親日的な詭弁を弄して受け入れなかった。

 憤慨した朴寅鎮は、崔麟と決別して豊山に帰り、毎年おこなっていたソウルへの穀物の拠出を取り止め、ソウルの天道教青年党本部の常務を務めていた役員も呼び戻してしまった。

 その結果、天道教徒の祖国光復会運動は、朴寅鎮が道正を務めていた嶺北地方に局限される岐路に立たされた。これは、300万の天道教徒をすべて祖国光復会のまわりに結集しようとする将軍の構想とは距離があった。

 一方、正淑の工作対象の李周淵は、国内各地に支会を設けて活動した反日愛国団体─ 新幹会舘に関与し、端川農民暴動を主導して逮捕され、獄中生活もした人物であった。

 1907年にハーグの万国平和会議に参加し、割腹自決した愛国烈士李儁の息子李繧ヘ、父親の悲報に接するや、その愛国精神を引き継ぐ決意で中国に入り、吉林省朝鮮人「懇民会」の総務を務め、浙江省へ行つては陸軍士官学校に通い、十月社会主義革命後には極東地方に居を移して「韓人社会党」にも関与した。彼の経歴は、複雑だった。「高麗義勇軍」を組織してソ連赤軍とともに自衛軍やシベリア出兵の日本軍とも戦い、また「黒河事件」という血なまぐさい同族の派閥争いを目撃して、民族の恥辱に身もだえした。彼は決意を新たにして1931年の秋、東満州へ渡ったが、日本警察に検束され、当時は居住制限の制裁として、故郷の北青で「杜門不出(外出禁止)の罰」を受けていた。

 李英も李繧ニ同じような人生を歩んできた人物であった。3.1人民蜂起に参加し、その後「ソウル青年会」(ソウル派)に属して、青年運動や朝鮮共産党(1925年創立)に関与したかどで西大門刑務所で4年間服役した。出獄後は、北青一帯で共産党再建運動や労組、農組運動に加担して再び逮捕され獄につながれた。

 異なる経歴の持ち主ではあったが、彼らはいずれも試練と挫折を体験し、正しい闘争の道に導く指導者に会えずにさ迷い、当時にいたっては闘争意欲と勇気さえも失っていた。

 正淑は、司令部の伝令である金鳳錫、それに朴正淑とともに豊山へ向かった。豊山では、天道教徒で朴寅鎮の弟子であった第7連隊第4中隊の隊員李昌善の案内を受けた。

 李昌善の紹介で正淑と対面した天道教豊山宗理院院長元忠煕は、その日、前年12月の中央天道教徒大会に参加した教導者の会合を催した。

 会合は、清水を供えて24字の呪文を唱えることからはじまった。それは朴寅鎮道正がソウルから帰った後、長白県十七道溝王家洞で天道教徒の会議を開き、その年を天道教の新紀元の年に定め、それにふさわしくつくり直したものであった。「耀光日星、輔国安民、大同団結、一心同体、祖国光復、地上天国」というもので、日と星、さん然と光放てば国と人民は安寧を保ち、その光のもとにすべてが結集し一心同体となれば、祖国の解放をなし遂げ、地上の天国を創れるという意味である。会議のあと、元忠煕は参会者に、金正淑女史は金日成将軍が我々天道教徒につかわされた特使だ、と紹介した。

 彼らに初対面のあいさつをした正淑は、本年に開催される天道教の中央記念行事にもう一度代表団を送るのがよいという将軍の意見を伝えた。そして2千万の朝鮮民族が今日まで植民地奴隷の境遇から抜け出せずにいるのは、全民族が一致団結して日本帝国主義とたたかうことができないからだ、金日成将軍は、国を愛し日本帝国主義を憎む者であれば誰であれ、一つの隊伍に団結させるために祖国光復会を結成したのだとして、こう語った。

 ──我々がソウルに代表団を派遣するのは、決して崔麟のような者を立ち返らせるためではない。崔麟一派とその影響下にある人たちを区別しなくてはならない。崔麟のような者はあくまで孤立させるべきだが、彼にたぶらかされている大多数の天道教徒はすべて教育し救い出すべきである。すべての天道教徒と全民族をかたく団結させ、その団結の力で日本帝国主義を打倒しようというのが金日成将軍の意図である。

 正淑の話を聞いた参会者はみな、大海原のような度量の持ち主である金日成将軍こそ朝鮮の真の「ハンウルニム」だとし、その年の丁丑年記念行事に以前にまさる大型の代表団をソウルに送る問題、天道教青年党中央本部の常務であった者を再びソウルに派遣し、当該地の教導者たちや各地の宗理院に将軍の反日民族統一戦線路線を伝達する問題、平安南道と咸鏡北道、黄海道をはじめ、全国各地の宗理院に当方の立場を知らせて中央行事で足並みをそろえる問題などを討議、決定した。

 こうして正淑は、将軍の特使として第1の任務を遂行した。

 正淑が、工作すべき李周淵や李縺A李英などの人物は、恒常的に日本官憲の監視を受けている「要注意人物」であった。

 しかし正淑は、臨機応変の知略をもって、敵の警戒が張り巡らされているどまん中で彼らに会い、国内の闘土に送る将軍のメッセージを伝え、たたかいの道に導いた。

 監獄で病に倒れ端川郡松坡里の道徳寺の僧房で病床についていた李周淵は、金日成将軍の指示で先生に会いに来たという正淑の言葉を聞くや、がばと起き上がった。

 正淑は彼の手をとり、将軍は国内で活動する同志たちを一時も忘れておらず、今回も同志たちと今後の活動方向や対策を協議し合うよう、わたしをつかわしたのだと言った。そして、将軍が示した朝鮮革命の性格と反日民族統一戦線路線、朝鮮民族自身の力で祖国の解放を達成するという南湖頭会議の精神、国内の党組織を急速に拡大し、革命組織にたいする整然とした組織指導体系を確立する方針などを伝えた。

 李周淵は、獄中のときから暗中模索していた問題が解けて展望が開けたと喜び、別れるときには自信にあふれた顔で正淑を遠くまで見送った。

 同年8月に再び国内の地を踏んだ正淑は、端川郡石隅里にある李周淵の親戚の家で彼と再会し、平壌に出て工作する任務を与えた。

 その後、李周淵は平壌に居を移し、平壌ゴム工場や穀物加工工場などの各工場に地下組織を拡大し、南浦、江西地区の共産主義者たちとも連係を結んで活動した。祖国が解放された後、彼は、北朝鮮臨時人民委員会総務部長を務め、後日は内閣副首相として活躍した。李周淵にとって正淑との対面は、人生の座標を定め直す契機となった。

 端川を後にした正淑は、利原を経由して遮湖に行った。

 正淑は、敵の厳しい警戒をかわすため、観光客でにぎわう「赤壁崗」で李繧ノ会った。李繧ヘ、自分が組織した反日会メンバーの家に来ていたとき連絡を受けて出てきた。彼は最初、あたりを見回しながら、いぶかしげなまなざしだったが、金日成将軍の指示でその言葉を伝えるため白頭山から来たのだという正淑の話を聞いてはじめて警戒心を解き、感激の色を浮かべた。

 「祖国光復会の会長であり、朝鮮国の正統領である抗日の名将金日成将軍が名もないわたしのようなものを知って、こんな死地に大事な工作員を送ってくださるとは!」

 正淑は彼に、我々は、李辮謳カが父上の李儁先生の貴い愛国精神をあくまで守り、国の解放をめざすたたかいに一命を尽くすであろうことを少しも疑わないとし、祖国光復会の創立宣言と10大綱領について説明した。

 李繧ヘ、将軍の祖国解放構想に深く感動し、これからは将軍に忠実な戦士となって愛国精神をあくまで守り、祖国解放の聖業に心身ともにささげるという自分の決意を将軍に伝えてほしいと頼んだ。
 正淑は、その後も国内に出て来たときに彼を訪ね、李辮謳カがたたかいをつづけているのは非常に立派なことだとした将軍の言葉を伝達した。その後、李繧ヘ、日本帝国主義の暴圧のなかでもゆるぎなく革命闘争の道を歩み、解放後には朝鮮の初の都市経営相を務めた。
 その日、正淑は李繧ェ仕立てた馬車に乗って遮湖を後にし、北青に足をのばした。

 北青郡青興里で祖国光復会北青地区の責任者に会い、この一帯の敵情と地下組織の実態を聞き取った正淑は、初期の共産主義運動家であった李英の最近の動向について改めて詳細に調べた。

 李英に会いたいという正淑の言葉を聞いた組織の責任者は驚き、それは危険だといってかぶりを振った。日本の軍警が警戒の目を張りめぐらせているところで「要注意人物」に会うというのは冒険に違いなかった。

 しかし正淑は、将軍から与えられた任務を遂行しようという一念に燃えて、人々が一番多く遊びにくる青興里の松林で、真昼に李英と対面するという大胆な計画を立てた。

 李英は、疲れ切った陰気な顔をしてあらわれた。正淑が将軍の派遣した工作員であることを知った彼は、正淑の手を両手で握りしめ、「どうしてそれを早く言ってくれなかったのですか」と涙ぐむのだった。

 国内の反日運動家に送る将軍のメッセージを伝達された李英は、もう疑問もないし恐れることもない、金日成将軍が望む道にすべてを尽くす、と悲壮な決意をかためた。

 その後、彼は正淑に言われたとおりソウルへ行き、反日運動関係者たちに将軍の革命路線を宣伝し、同志を糾合して「スターリ団」「山岳隊」などを結成した。そして、ソウルを中心に江原道、慶尚北道、平安南道一帯へ組織網を拡大していった。

 祖国が解放されると李英は、将軍の新しい朝鮮建設路線に従って、献身的に働き、共和国創建後には、最高人民会議の責任ある地位で活動した。

 将軍の特命をおびてその実行のために正淑が歩んだ厳しく遠い道のりは、国内の闘士を将軍の導く闘争の道に進ませた道のりであり、また後日、ソウルや東京に祖国光復会の組織網を拡大すべき闘士を育て上げた意義深い道のりでもあった。

 正淑は、豊山へ向かう途中、文藻里陽地村の朱炳譜の家に留まって彼を革命的に教育し、豊山秘密根拠地に立ち寄っては、小部隊と工作班の活動を指導した。そして、洪君地区に行って、洪君ケーブルで働きながら李昌善の指導を受けていた某労働者を教育して組織メンバーの一員に育て、中日戦争勃発のニュースを聞いて帰隊する途中、把撥里で、黄水院ダム工事場で働いていた李仁模に会って闘争の進路を示した。

 正淑が去った数日後、彼女が金日成将軍によって派遣された朝鮮人民革命軍の工作員であることを知った李仁模は、なぜその時に教えてくれなかったのかと李昌善をなじり、それを知っていたなら是が非でもついて行って革命軍に入隊したはずだと悔しがったという。


  獄中からの手紙

 中日戦争を引き起こした日本帝国主義は、革命軍と人民との連係を断ち切るため「集団部落」の設置に狂奔した。

 金日成将軍は、直面した情勢に対処して長白一帯と国内各地に派遣されていた政治工作員と地下組織の責任者を白頭山密営に呼集した。

 司令部の連絡員とともに密営に到着した金正淑は、下崗区や新坡一帯、そして豊山、端川、利原、北青などでの活動について将軍に報告した。

 将軍は、正淑が、司令部の意図どおり、課された任務を立派に実行したと称賛した。

 獅子峰密営では、政治工作員および地下組織責任者の会議が開かれた。この会議で、将軍は、当面の情勢に対応して積極的な活動を展開する課題とその遂行方途を示した。

 正淑には、すでに掌握した桃泉里と新坡一帯を本拠にして、国内に革命のとりでを築く任務が課された。

 桃泉里に戻った正淑は、組織の中核メンバーに、獅子峰密営での会議で将軍が示した方針を伝え、白色テロに対処する対策を立てた。

 各地下組織は、敵の 「集団部落」策動に対処して組織のメンバーを敵の機関に潜り込ませ、彼らを通じて地下組織を守り、敵の密偵や手先の一挙一動を注視する一方、組織のメンバーが地下工作の原則を守って警戒心を高めるよう綿密に手配りした。こうして、下崗区や新坡一帯の敵の支配機構は、深く潜入した地下組織メンバーの活動によって混乱に陥り、少なからぬ支配機構は朝鮮人民革命軍の末端機関のごとき様相を呈してきた。区長の鄭東哲は、警察署長、税関長、面長などと「義兄弟」の契りを結んで敵の秘密を常時探り出していたが、この「義兄弟」には、新坡から派遣された特高まで加わっていた。十三道溝警察署の管下にも2、3名の祖国光復会特殊会員が潜入し、区長や十家長もほとんどが地下組織のメンバーだった。

 新坡地区には、正淑が掌握して育てた中核的な祖国光復会会員によって特殊分会が組織され活動していたが、彼らの擬装ぶりは堂に入ったもので、敵はもとより、祖国光復会シンガルパ支会の責任者であった張海友でさえ、祖国が解放されてから、ようやく彼らが祖国光復会の特殊会員であったことを知ったほどである。

 その過程には、はらはらさせられる数々の危険がともなった。

 桃泉里で地下工作にあたっていた1937年8月、正淑は逮捕された。桃泉里の婦女会員たちが、朝鮮人民革命軍の出版所に送ろうとしていた紙束が「靖安軍」の捜索で発見されたのが原因だった。

 8月初めのある日、正淑は幾人かの婦女会員が新坡の市場で買い入れてきた紙束や他の支援物資を前にして仕事の相談をしていた。ところが、そのとき人民革命軍の行方を捜して山中をさまよい無駄骨を折った「靖安軍」が村にやってきた。腹いせに家々を回り歩いて略奪を始めた彼らは、婦女会員たちが集まっていた家に押し入って隅々まで捜索しているうちに、納屋から例の紙束を発見した。中隊長は、たちまち殺気だって拳銃を引き抜き、「共産党のすみか」だと断言し、主人は誰かと質した。正淑は、平然とした態度で拳銃を払いのけ、彼に問い返した。

 「何の根拠があって共産党だと断定するのか」
 「これが証拠ではないか」
 「これは『住民台帳』に使う用紙だ。あなたたちが『住民台帳』を作って来いと言ったではないか」
 「それなら、この紙をなぜ納屋に隠して置いたのだ」
 「考えてみなさい。ここは、いつ共産軍が降りてくるかわからない所だ。外に出しておいて共産軍に持って行かれでもよいのか」
 言葉に窮した中隊長は「では、なぜこの家に隠して置いたのか。区長は何をしているんだ」と大声を張りあげた。
 「区長から安全なこの家に隠して置くようにと頼まれたからだ。それがいけないとでもいうのか」
 中隊長はすっかり逆上してしまった。
 「怖がりもしないでつべこべ言うのを見ると、共産軍のスパイに違いない。旅団指揮部に行って調べよう」

 こうして捕捉された正淑は、「靖安軍」の旅団指揮部がある腰房子へ護送された。

 「討伐」で毎日のように無駄骨を折っていた中隊長は、「共産軍の女」を逮捕したと旅団に報告した。そして、革命軍工作員だという自白を取りつけようと残忍な拷問を加えた。しかし、正淑の口からは何の秘密も引き出すことができなかった。

 正淑の前にあらわれた某「靖安軍」は、流暢な朝鮮語で、わたしは「良心的な人間」だ、あなたが工作員であることを認めて組織ルートさえ教えでくれれば無事釈放されるよう手を尽くしてやる、もし、これに応じなければ「靖安軍」はあなたを死刑に処するだろう、と脅かした。

 正淑は、自分が工作員だと自白するまで彼らは食い下がってくるだろう、犠牲になることを覚悟しなければならない、自分はいま犠牲になるか脱出するかという二者択一の岐路に立たされている、と実感した。

 正淑が監禁されていたのは、腰房子のある農家だった。庭には、兵士が一人歩哨に立っているだけだった。歩哨をかたづけて脱出するのは難しいことではなかった。けれども、正淑は脱出の道を選ばなかった。もし脱出すれば、みずから革命軍の工作員であることを認めることになり、この家の老夫婦や、自分を保証してくれた桃泉里の人々は報復を免れない。地下組織は白色テロの旋風に巻き込まれ、ひいては、将軍が重視する新坡ルートが危険にさらされることになる。正淑にとって、これらすべてを救うことは命にも代えがたいことであった。最期を覚悟した正淑は、組織あてに手紙をしたためた。

 「安心してください。
 わたしは死ぬでしょう。けれども、組織は生きつづけるでしょう。わたしの財産のすべてである2元を送ります。組織の資金にあててください」

 この手紙は翌日、農家の老婆を通じて桃泉里の地下組織に伝えられた。

 不安にかられていた組織のメンバーは、思いもよらぬ手紙を受け取って涙ぐんだ。そして、命をかけて正淑を救出する決意をかためた。

 組織は、メンバーを動かして緊急救出作戦を繰り広げた。代表団を「靖安軍」部隊の本部に送って供応する一方、無実の良民を不法逮捕したことに強く抗議し、即時釈放するよう要求した。

 「靖安軍」部隊は、移動にかこつけて正淑を十四道溝警察署に移送した。

 組織では、釈放の方途を慎重に討議した末、十三道溝の警察署長と談判する任務を鄭東哲に与えた。

 そのころ鄭東哲と「義兄弟」の契りを結んでいた十三道溝警察署長は、革命軍の軍事活動に恐れをなして縮み上がっており、日本人に不満も抱いていた。それを知っていた鄭東哲は彼に会って、いま十四道溝警察署に拘留されている厳玉順は金日成将軍が派遣した工作員だ、彼女の救出に力をかしてもらいたい、まず、十四道溝からあなたの管轄下にある十三道溝に移すのだ、と迫った。十四道溝警察署は一級高い警察署である十三道溝警察署に従属していたので、移送は難しくはなかった。

 正淑は両手を縛られたまま、桃泉里部落を通過して十三道溝警察署に護送されることになった。

 後日、鄭東哲は、そのときの状況を次のように回想している。

 「午後2時頃であった。……
 縄をかけられた金正淑同志が、警官の厳しい警戒のもとに桃泉里の大道を歩かされていた。全身に残忍な拷問の跡が歴然としていた。いつも端正に身につけていた白いチョゴリと黒いチマはさんざんに裂かれでいた。
 村人は道端を埋めて彼女を見つめた。……金正淑同志は、堂々としていた。敵の銃剣に囲まれて素足で歩いていたが、昂然と頭をもたげ、いつも強靭な意志と英知に輝いていた両眼は、依然として闘志と信念に燃えていた。……
 ゆっくりと足を運んでいた金正淑同志は、大衆の前で歩みを止め、頭を下げてあいさつをした。その様子に、女性も、青壮年も、老人も、すべての村人がすすり泣いた。 わたしはそのとき、心のなかでこう叫んだ。(金日成将軍、がああいう人を育てたのだ!)……」

 鄭東哲だけでなく、桃泉里のすべての人が正淑を涙のうちに見送りながら考えた。

 (革命家とはまさにあのような人間なのだ。人間はあのような生き方をしなくてはならないのだ)

 ある老婆は、わらじを持って駆け寄り、血のにじんだ正淑の足にはかせながら警官をののしった。

 「うちの玉順になんの罪があって引き立ててゆくんだ。うちの玉順を共産党だと言ってつかまえていくというが、玉順のような人が共産党なら、わたしも共産党についていくよ!」

 鄭東哲はその足で正淑のあとを追い、十三道溝警察署へ行って釈放を求めた。署長は500名分の良民保証書を持ってくれば、正淑を「良民」と認めて釈放すると言った。これは、後日、上級から追及を受けた場合、その責任を回避する証憑を残しておくためであった。警察署長は、鄭東哲との「友情」に絡まれ、体面上こう約束したものの、それはとうてい不可能だろうと考えていたのである。

 事実、200戸余りにすぎない桃泉里村で500名の良民保証書をつくるというのは、無理も甚だしい要求だった。「不穏分子」とみなされた人を良民と認める保証書に拇印を押したがらないのは当然の大衆心理であった。ところが、鄭東哲はたった一日のあいだに500名の良民保証書を取りそろえて署長の前に差し出した。署長は目を丸くした。

 金日成主席は後日、これについて次のように述懐している。

 「金正淑が人民からこのような信頼を受けることができたのは、彼女がわが身を惜しまず奮闘した結果だった。彼女は、なにごとであれ、わが身をささげ、死を決する心構えで働いた。それで危険な境遇にぶつかっても生きのびることができたのだ。金正淑は、人間にたいする燃えるような愛情をもった人であり、他人のために犠牲になるのをいささかもためらわなかった。同志のためなら水火をいとわずやり遂げるのが彼女の天性なのだ」

 良民保証書にしばらく目を通していた署長は、どうすることもできず正淑を釈放した。

 これを知った桃泉里の村人は、こぞって正淑を出迎え、喜び合った。ひどい拷問でやつれた正淑のために、ある老人は、何年も使わずにおいていた蜂蜜を壺ごと持ってきた。またある女性は、祝い事のためにしまっておいたもち米でもちをつくってきた。地下組織では、正淑の健康を気遣ってゆっくり養生するよう勧めた。しかし正淑は、将軍から与えられた革命任務を果たすまでは休む権利がないと言い、地下組織のメンバーに会ってその間の活動状況や新たに入手した敵情を聞き取った。

 胞胎山のふもとにある秘密連絡所で司令部の連絡員に会った正淑は、将軍の安否を尋ね、司令部の指示を早く伝えてくれるよう催促した。

 将軍は正淑が逮捕されたという報告が入る前、正淑に、国内に入って白頭山密営と獅子峰密営で提示された新たな方針と司令部の意図を小部隊と政治工作員、地下組織に伝えてその活動を指導する一方、具体的な実状を調べる任務を与えていたのである。この任務を遂行するために巡回すべき地帯は、狼林、赴戦から東海岸沿いの端川、虚川にいたる広い地域だった。

 ところが正淑は、拷問の後遺症で身を動かすのもやっとの状態にあった。連絡員は、司令部にもどって実状を詳しく報告するから、健康を回復してから出かけるか、さもなければ他のメンバーを行かせるのがよいと助言した。

 しかし正淑は、将軍がわたしを信頼して任務を与えたのに、体が少々悪いからといって、その実行を遅らせたり他の人に任せたりしては、将軍のためにすべてを尽くしてたたかう真の革命戦士とはいえない、と言うのだった。

 8月上旬のある日、正淑は警戒の厳しい敵陣を突破して、遠く100余里もの国内政治工作の途についた。

 正淑は、新坡を経て慈江道狼林郡仁山里で政治工作員と地下組織の責任者たちに会った後、蓮花山脈の芝草嶺を越え、玉連山にある赴戦嶺秘密根拠地の密営に足を向けた。

 この地で活動する小部隊のメンバーに会い、白頭山根拠地を狼林山脈と赴戦嶺一帯に拡大させるという将軍の意図どおり、根拠地をより強固にすることに努め、この一帯の政治工作員と地下組織責任者たちに会つては、祖国光復会の組織を拡大し、根拠地周辺地域の青年によって生産遊撃隊を組織する課題を提示した。

 正淑は、新興地区秘密根拠地の設営に力を傾けた。これは、咸興、興南をはじめ、日本の軍需工場が集結している東海岸地区に党および祖国光復会組織と各種の反日大衆団体を拡大し、特に、労組、農組を革命的に改編し、愛国的人民を政治的、思想的に覚醒させるうえできわめて重要な意義を有していた。

 新興地区に行った正淑は、既設の密営を見て回り、今後、設置すべき密営の位置について討議し、その日の夜には、この一帯で活動する朝鮮人民革命軍小部隊、工作班メンバーの会議を開き、赴戦嶺山脈をよりどころにして、武装闘争を国内各地に拡大しようとする将軍の構想実現において新興地区秘密根拠地がもつ意義を強調した。

 正淑は、長津郡高台山密営で小部隊メンバーに会った後、新興炭鉱村へ行って各組織の責任者、炭鉱労働者とその家族たちの胸に革命の火種をつけ、興南地区と新興炭鉱地区の地下組織責任者に会つては、将軍の反日民族統一戦線思想を説明した。

 こうして、新興地区をはじめ、興南、咸興地区の労働者階級の組織は拡大され、新興地区秘密根拠地を構築する活動も成功裏に推進された。

 新興地区での工作を終えた正淑は、その足で東海岸地区の工作地に向かった。

 洪原で政治工作員に会って農組を祖国光復会の傘下組織に発展させる課題を与えた後、北青、利原、端川を経て厚峙嶺秘密根拠地にたどり着いた。

 正淑の歩んだ道は、日本官憲の警備が網の目のように張りめぐらされ、密偵や特務が随所に張り込んでいる危険な道であった。

 厚峙嶺を越え、豊山と三水を経て9月中旬に桃泉里に着いた正淑は、それまでの政治工作状況を連絡員を通じて将軍に報告した。報告を受けた将軍は、正淑の活動を高く評価した。

 100余里にわたる正淑の遠征路は、同年9月の将軍の新興地区進出の布石となった。

 同年10月、正淑は司令部から帰隊の命令を受けた。

 多くの村人たちが、桃泉里を後にする正淑を見送った。

 正淑が、胞胎山の曲り道を登って森林近くまで来たとき、ついてきた婦女会員たちが口々に声をかけた。

 「どこへ行くの……便りを寄こしてくださいよ!」

 正淑は振り返り、顔をほころばせて高く手を振りながら答えた。

 「白頭山の方から銃声が響いたら、正淑もそこで金日成将軍におともして立派に戦っていると信じてください!」

 10月中旬、将軍がいる富厚水付近の密営に着いた王淑は、新しい軍服に着替えて将軍のもとに参じた。

 地下工作の任務を果たして帰隊した正淑を、丸太造りの司令部の前で将軍が出迎えた。

 「ご苦労だった。立派だ……本当に立派だ! わたしは信じていた。きみが立派にたたかって、こうして帰って来るに違いないと信じていた」

 将軍は、正淑がその間、貴重な敵情資料や多量の支援物資を送って普天堡戦闘や間三峰戦闘をはじめ、幾多の戦闘勝利に寄与し、鴨緑江沿岸の国境地帯と国内深部の東海岸一帯に祖国光復会の組織を拡大し、軍事・政治活動を有利に展開できるようにしたことを高く評価した。





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