『金正淑伝』
 
3 白頭の女将軍


  朝鮮人民革命軍へ入隊

 1935年9月18日、金正淑は、車廠子遊撃区で朝鮮人民革命軍に入隊した。このときより、朝鮮人民のあいだで数多くの伝説となって伝えられる「抗日の女性英雄」「白頭山の女将軍」としての金正淑の新しい生涯の一ページが開かれることになる。

 車廠子の空にひるがえる赤旗の前で、正淑は戦いの道で倒れた同志たちの血潮と念願、全民族の願いがこもった銃を授与された。この日、正淑は大きな栄光と誇りを胸にこう誓った。

 「わたしは、革命先輩の血潮がしみた、人民の祖国解放の願いがこもったこの銃を握りしめ、金日成将軍に最後まで忠誠を尽くします。この一挺の銃を百挺の銃として握りしめ、この一発の弾丸を百発の弾丸として敵を撃ちます」

 正淑は入隊したその日から、この誓いを忠実に実行した。入隊すると同時に党組織から部隊内の共青活動を任された正淑は、任務を立派に果たす一方、遊撃戦術訓練や政治学習に励んだ。そして、片時も銃を手放すことなく射撃訓練に専心した。正淑の射撃術のすばらしさは、入隊後初めて参加した遊撃区防衛戦のときから広く知られるようになった。

 同年10月、敵地の地下組織から、車廠子遊撃区「討伐」のため1万の敵軍が出動するという通報があった。そのころ、車廠子遊撃区を守備していたのは、100名余の遊撃隊員と反日自衛隊、青年義勇軍だけであった。

 100対1、兵力の差はあまりにも大きかった。一部の指揮官は危惧と不安にかられ、それはまた、陣地についている隊員たちにも伝染した。

 このとき正淑は、我々の防御陣地には水深の深い古洞河と切り立った絶壁がひかえているので、いくら多くの敵が攻めてきても防ぐことができると、戦友たちに勝利の確信を与えた。

 戦闘は早朝から始まった。敵は、重機や軽機、大砲、それに航空機まで動員して攻撃してきた。三面から攻撃をかけてきた敵は古洞河の岸辺からはそれ以上前進できず、人民革命軍部隊の位置を探り当てるため、しばし、めくら滅法に砲撃と爆撃を加えた。彼らが攻撃をつづけるには、合流点に架けられた狭い木の橋を渡るよりほかなかった。

 車廠子の「関門」といえるこの防御陣には、部隊きっての名射手たちが配置されていた。人民革命軍の陣地から応戦する気配がないので、正午近くになって敵は橋を渡りはじめた。敵が橋の中間に至ったとき、遊撃隊員たちは一斉射撃を浴びせた。橋の上には、またたく間に敵兵の死体の山がきずかれた。

 正淑は、日本刀をかざして兵士たちを叱咤している将校を一発で撃ち倒した。これを見た敵兵たちはあわてて退却し、対岸の森林の中でめくら撃ちをつづけた。このとき中隊長が駆けつけ、敵が青年義勇軍の陣地を突破しようとしている、応援を送らなければならないと言った。正淑は即座に、自分が行くと申し出た。そこは、正淑が何度か行った覚えのあるところであった。

 正淑が一名の古参兵を伴ってその陣地に駆けつけると、敵は川を渡っている最中であり、すでに渡河した一群はこちら側の高地に這い登ろうとしていた。戦闘経験のない青年義勇軍の隊員たちは、ろうばいしてなす術を知らなかった。

 即座に状況を察した正淑は、隊員たちのところへ駆け寄り、「石を転がしましょう! 石の雨を浴びせるんです!」と叫んだ。その周辺には、防御工事のときに積んでおいた石の山があった。ようやく気を取り戻した隊員たちは、一斉に石を転がしはじめた。これは敵にとって全く予想外のことであった。高地を這い登っていた敵は、石をくらって倒れる者、逃げまどう者など、瞬時にして大混乱に陥った。

 正淑はこの瞬間を逃さず、隊員たちに、あわてずに敵を一人ずつ狙い撃ちするようにと言い、みずからも一発また一発と命中弾を浴びせて敵兵を撃ち倒した。

 翌日になって、戦闘は苛烈さを増した。そのうちに弾丸が切れてきた。正淑は、女子隊員たちとともに弾薬の運搬にとりかかった。正淑は、一箱でも重い弾薬箱を二箱ずつ運んだ。そうして何回か運び、また弾薬箱を肩に高地をめざして登っていたとき、隊員たちの前方で爆弾が炸裂した。砲煙が消えたあと頭を上げると、先にいた正淑の姿が見えなかった。不吉な予感がした隊員たちは、正淑の名を呼びながら捜しはじめた。ところが意外にも、山頂から「みんな、そこでなにをしているんです?」という正淑の声が聞こえてきた。正淑は爆弾が降り注ぐなかでも沈着に行動し、高地へ駆け登っていたのである。正淑の果敢な行動に励まされた隊員たちは、勇気百倍、弾薬箱の運搬をつづけた。

 こうして、車廠子遊撃区の防衛戦は勝利に終わった。

 正淑が車廠子を発ったのは、同年11月の初めであった。車廠子遊撃区にいた部隊が安図県内島山と迷魂陣へ移動することになったのである。

 内島山への行軍路についた正淑は、車廠子の山並みを何回も振り返った。祖国が解放された後も、正淑は女性抗日革命闘士たちと席をともにするたびに、車廠子遊撃区にいたころのことをよく回想したものである。

 降りしきる雪をついて行軍をつづけた部隊は、十日余りで安図県二道溝付近に至った。そこには、日本の手先が経営している大きな朝鮮人参畑があった。部隊があらわれると畑の主は逃げ去ってしまった。部隊は、そこで多くの給養物資を得た。正淑のアジ演説で、労働者はわれ先にとろ獲物資の運搬を申し出た。

 それから数日後、行軍をつづけていた部隊は「討伐隊」に遭遇した。部隊は機先を制して敵の気勢をくじいたが、やがて、隊伍を収拾した敵は必死になって応戦してきた。指揮部では敵を牽制しながら、兵員の一部を有利な地点へと迂回させた。

 正淑は隊員たちとともに倒木を乗り越え走りつづけながらも、追撃してくる敵兵に命中弾を浴びせた。正淑の沈着な行動とすぐれた射撃術は、浮き足立っていた隊員たちに力と勇気を与えた。ところがそのとき、新入隊員の一人が負い革を木の節にひっかけて銃を振り落としてしまったことに気がつかず駆けてきた。そばにいた隊員たちが大声でそれを知らせたが、彼は無我夢中で走りつづけた。

 それを見た正淑は、即座に敵弾が降り注ぐなかを引き返した。隊員たちが危ないと制止したが、正淑は走りつづけた。

 正淑がその銃を持ち帰ってきたとき、ようやく自分の肩に銃がないことに気づいた新入隊員は「銃がない!」と叫んで正淑のところに駆け守った。そして重ねて礼を述べ、正淑の犠牲的行動に感動して涙ぐんだ。ところが、彼はこのことを指揮官に知らせないでほしいと正淑に頼むのであった。

 すると正淑は、過ちは隠してはならない、ありのままに話して批判を受けるべきであり、その批判を受け入れてこそ二度と同じ過ちを犯さなくなるのだとたしなめた。やがて、その隊員は、進んで同志たちの前でみずからの過ちを悔いて自己批判し、立派な遊撃隊員になることを誓った。その日から、彼は就寝時には必ず銃を胸に抱きしめて寝るようになった。正淑の忠告は、犠牲的同志愛にもとづく原則的なものであったため、過ちを犯した新入隊員だけでなく、全隊員の胸を打った。

 部隊は11月の末に安図県内島山に到着した。内島山は、西南方に白頭山を望む森林地帯に位置する山であった。山のふもとには、70戸ほどの村落があった。この村で部隊は、積極的な政治工作をおこなった。

 正淑は、婦女子を教育して婦女会を結成するために力を尽くした。その結果、婦女会の中核が育成され、翌年の2月3日に内島山村に婦女会が誕生した。

 正淑は、婦女会結成の会合で演説し、すべての女性を婦女会に結集するよう強調した。そして、女性が革命組織に加わって活動する必要性を説いた後、婦女会の当面の課題は、多くの女性を組織のまわりに結集し、会員の組織生活を強化し、革命軍への支援活動を活発におこなうとともに、革命的警戒心を高め、家庭を革命化することだと述べた。

 村では、解散状態になっていた各種の大衆組織が立て直され、有名無実の存在となっていた大衆組織も活発に動きはじめた。

 当時の日本のある出版物は、内島山における朝鮮人民革命軍部隊の活動について次のように記している。

 「……共産軍ハ内島山へ移動シタ後、昭和十年(1935年)十一月、部落民ヲ集メテ、其迄ノ満州国制度ノ区長ヲ廃止シ、農民委員会ヲ組織サセタ。部落民ハ協議会ニテ会長、副会長、経理部責任者等ヲ選出シタ。
 其後、農民委員会ハ……食糧供給、運搬作業、燃料採取等、革命軍ニ対スル援護活動ヲ行ツタ。
 其外、昭和十一年二月初旬ニ婦女会ヲ組織シタ」

 部隊は大衆政治工作とともに、積極的な軍事活動を展開した。その一つが、柳樹村に陣取っていた悪質な「満州国」軍の呉大隊長部隊にたいする復讐戦であった。

 呉大隊長部隊は、村の種鶏までつぶして食べたり、婚礼を挙げる家に押し入っては真っさらの布団を奪い取り、新婦を引きずり出して乱暴を働き、激憤して駆けつけた新郎を虐殺するという蛮行を働いた。そのため、彼らにたいする村人の恨みは頂点に達していた。

 1936年1月13日、部隊は柳樹村から4キロの地点で共同作戦のために駆けつけてきた第1連隊の一部の中隊と合流した。

 柳樹村の南端にある敵の兵営は高い土城に囲まれ、土城の二隅にはやぐらづくりの砲台があった。

 正淑は、城門から突入して兵営を襲撃する任務を受け持った第3襲撃班に属することになった。第3襲撃班が城門近くに至ったとき、他の襲撃班が敵に発見され、砲台から射撃が開始されたため事態は急迫した。しかし、城門を打ち破って突入することはできず、身丈の2倍もある城壁を飛び越えることもできなかった。

 このとき城壁にぴたりとついていた正淑は、足元に城壁から崩れ落ちた土くれがあるのを発見した。土で築いた壁だから押せば崩れるのではないかと思った。指揮官は正淑の意見を容れ、一斉に城壁を押し崩すよう指示した。城壁の一角が崩れた。襲撃班は城内に突入し、安泰範は崩れた城壁の上に機関銃を据え、城外へ飛び出そうとする敵に速射を浴びせた。こうして柳樹村の敵は全滅した。

 内島山へ進出した朝鮮人民革命軍部隊の積極的な軍事・政治活動に極度の不安と恐怖を覚えた日本軍は、内島山村にたいする「討伐」を開始した。彼らは、もっとも悪質な「新選隊」や日本軍迫撃砲中隊など、日本と「満州国」の軍警800余名を動員して内島山へ攻撃をかけてきた。「新選隊」は、「東辺道土匪司令」と称される李道善が率いる悪質な部隊であり、後に金廠戦闘で崔賢部隊により全滅させられることになる。

 そのとき内島山には、裁縫隊、兵器修理所、病院などの後方勤務者と児童団員、それに40余名の遊撃隊員しかいなかった。しかし、彼らは、村人らとともに戦いに立ち上がった。

 正淑は高地で戦いながらも、合間合間に村へ駆け下りては女性たちを動員して弾薬箱を高地へ運搬したり、炊き出しをしたりした。

 防御戦闘が苛烈をきわめていたある日の夜、某女子隊員とともに湯の入った水筒を携えて高地へ向かっていた正淑は、つい足を滑らせて崖から落ちてしまった。同行した女子隊員が、意識を失って雪に埋もれている正淑を抱き起こした。正淑はしばらくして意識を取り戻したが、そのときにも戦友に届ける水筒だけは胸にしっかりと抱きしめていた。こうした正淑の革命的同志愛と闘争精神に励まされた遊撃隊員は、酷寒と極度の疲労に耐えて戦いつづけた。

 敵は人民革命軍の夜間奇襲を受けて多くの兵員を失い、夜にはたき火も焚けず寒さに震えながらも、人民革命軍の兵力が少数であることを知って攻撃をつづけた。

 正淑は、敵の攻撃がもっとも激しい高地の突出部に位置を定め、敵に続けざまに命中弾を浴びせた。そこから400メートルほどの山すそでは、日本軍将校がしきりに兵卒に突撃を命じていた。正淑は、その将校を一発でしとめた。正淑の射撃の腕を見守っていた村の老人は、自分も長年独立軍で戦い、たわら2俵ほどの弾を撃ちまくったものだが、こんな百発百中の名射手は見たことがない、さすがに女傑と言われるだけのことはある、と感嘆してやまなかった。遊撃隊員と人民の英雄的闘争により、敵は300余の死体を残したまま退却した。

 同年2月、部隊は、内島山を発って撫松県馬鞍山へと向かった。その日は吹雪であったにもかかわらず、村人たちは遠くまで遊撃隊員を見送った。

 その後、内島山の人々は「討伐」を避けてそれぞれ朝鮮や他の地方に散って行ったが、彼らを通じて、人民革命軍に百発百中の女将軍がいるという噂が各地に広まった。


  馬鞍山で

 内島山から馬鞍山までは、徒歩で2日の距離である。にもかかわらず、行軍は最初から困難をきわめた。千古の原生林、腰まで埋まる雪、険しい崖、急傾斜の山道……。

 正淑は20余名の児童団員を連れて行軍しなければならなかったので、人一倍苦労した。子どもたちは車廠子から部隊についてきたのである。

 車廠子を発つとき一部の偏狭な指揮官や排外主義者は、部隊の行動に支障をきたすからといって児童団員を敵の支配区域へ送ろうと主張した。

 そのとき正淑は、それは金日成将軍の意に反しており、朝鮮革命の将来を考えないゆゆしい行為だと反対した。多くの隊員が、正淑の主張を支持した。こうして、部隊とともに車廠子を発った児童団員たちは、途中で敵に遭遇した際に部隊と別れる破目になってずいぶん苦労したが、ようやく内島山にたどり着いた。彼らは、たとえ、死ぬことがあっても遊撃隊についていって死のうと覚悟を決めていた子どもたちだった。

 正淑は、内島山へやってきた児童団員の破れた服を繕ったり、病気にかかった子を手厚く看護した。一方、彼らは、敵情監視や衛兵勤務を果たし、「討伐隊」との戦闘のときには遊撃隊に加勢して戦った。

 ところが、排外主義者と彼らに追従する一部の指揮官は、内島山を発つとき、またも児童団員を置き去りにしようとしたのである。彼らの論拠は、ぼろをまとった子どもたちをこの厳しい寒さのなかで苦労させることはない、部隊についていくために苦労する子どもたちがかわいそうではないか、そのうえ、我々がここに来る途中では戦闘で子どもたちが大きな足手まといになったではないか、というものであった。

 そのとき正淑は、それは全く事実に反している、子どもたちをここに置き去りにしたのでは先に逝った同志たちに面目が立たない、自分が責任をもって子どもたちを連れていく、と強く主張した。正淑の毅然たる態度に、排外主義者はそれ以上反対することはできなかった。

 こうして出発した隊伍が、馬鞍山付近に至ったときである。連隊指揮部は、本隊は蚊河方面へ向かうが、「民生団」嫌疑者と児童団員はここから馬鞍山密営へ行くよう指示した。これは、彼らを厄介払いしようとする排外主義者の偏狭な振る舞いであった。

 正淑は怒りをこらえ、疲労困憊した児童団員を引き連れて馬鞍山へ向かった。これ以上歩けないと座り込む子どもには、もう少しで馬鞍山に着くからと力づけ、幼い子はおぶいながら、やっとのことで馬鞍山にたどり着いた。

 ところが、馬鞍山に着いてみると、ねぎらってくれる人はおらず、密営の責任者は、誰の指示でここに子どもたちを連れて来たのかと怒りをあらわにし、子どもたちがそばにいると戦闘の邪魔になるから、遠く離れた丸太小屋へ連れていけと命じた。そして、一緒に来た隊員たちも「民生団」嫌疑者であるからと、そこから離れた参圃密営に隔離させられた。

 児童団員にあてがわれた丸太小屋は、戸もなく、明かり窓まで壊れて雪が吹き込む、家ならぬ「家」であった。そこには、よその土地からやって来た子どもたちが何人かいたが、その子らは正淑が連れて来た子どもたちより、もっとひどいぼろをまとっていた。彼らも親の仇をとろうと遊撃隊と行をともにし、馬鞍山に来て見捨てられた子どもたちであった。こうして、正淑は独りで数十名の児童団員の面倒を見ることになった。

 2日が過ぎたが、一人としてこの丸太小屋を訪ねる者はなかった。その間、正淑は、児童団員たちと一緒に小屋を修繕し、どうにか風雪をしのげるようになったが、食糧だけは工面することができなかった。3日目になって、正淑は密営の責任者を訪ねた。しかし責任者は、ここは子どもたちを養育するところではない、敵地なりどこなり早く送り返してしまえ、とどなりつけるのだった。

 しかし、正淑は、絶対にそうするわけにはいかなかった。独りで数十名の子どもを養うというのは、力に余ることである。密営の責任者にさんざんいやみを言われた後に、やっともらってくるわずかな食糧だけでは、日1食分の糧にもならなかった。

 正淑は、雪の中から革の根を掘り出したり木の実を拾い集めたりして、子どもたちの「食事」にあてた。そして、自分は水で空腹をいやすのがつねであった。

 そのうえ病気の子を看病したり、ぼろぼろになった子どもたちの服を繕ってやらなければならなかったので、ろくに睡眠もとれなかった。あるとき、何人か子どもたちを連れて谷間の奥にある古寺にも行ってみたが、住職がいなくなって久しい寺に食べ物があるはずはなく、少量の米ぬかを得たにすぎなかった。

 こうして、ほぼ1ヵ月が過ぎた。子どもたちは、日に日にやせ細り、病人が続出した。子どもたちをこれ以上こんな状態で放置するわけにはいかないと考えた正淑は、一緒に密営にやってきた隊員たちのところを訪ねた。しかし、「民生団」嫌疑者のレッテルを張られている彼らの境遇も児童団員たちと変わるところはなかった。この馬鞍山には、いまなお、極左的な反「民生団」闘争の寒風が吹きすさんでいたのである。

 しかし、正淑には、彼らしか頼る人がいなかった。

 「どう考えても食糧工作に出なければなりません。子どもたちをこのままにしておいては何日ももたないでしよう。どうかわたしたちを助けてください。食糧工作のための小部隊を組織してください。わたしもついていきます」

 指揮官に切々と訴える正淑の目は涙にうるんでいた。隊員たちの賛同を得て、指揮官はすぐに食糧工作の小部隊を組織した。これは、「民生団」の嫌疑を受けている彼らとしては並々ならぬ勇断であった。

 指揮官は正淑に、食糧を手に入れてくる間、密営に残って子どもたちの世話をするようにと言った。しかし、正淑は、子どもたちにおもゆ一杯食べさせられないのに密営に残って何をするというのか、一人でも多く行けばそれだけ多くの食糧を手に入れることができるではないかと言い張り、小部隊に同行することにした。工作班のメンバーのなかで「民生団」の嫌疑をかけられていないのは正淑ただ一人であった。しかし、正淑は彼らと行動をともにすることをいささかもためらわなかった。そのとき、駆けつけてきた子どもたちが正淑を取り囲み、一緒にいてほしいと泣きついた。

 正淑は、小部隊のメンバーが背のうをはたいて集めた少量の食糧を子どもたちに残して密営を発った。

 小部隊は、初め撫松方面へ向かったが、敵の警戒が厳重であったため、計画を変更して臨江方面へ向かった。小部隊には、敵と戦闘ができるほどの弾薬がなかった。「民生団」の嫌疑者であるということで一人当たり数発の弾丸しか与えられていなかったのである。馬鞍山を発ってから1週間ほど経ったある日、臨江から東へ40キロほどの螞蟻河村に来てはじめていくらかの食糧を得ることができた。螞蟻河の住民は、遊撃隊員を温かく迎えてくれた。

 正淑は、馬鞍山でひもじい思いをしている子どもたちを思い、差し出された食べ物にはほとんど手をつけず、そっと背のうにしまいこんだ。

 小部隊が食糧を携えて村を発とうとしたとき、日本人指導官が率いる「満州国」軍が村を襲った。小部隊は、明け方の薄闇にまぎれて、いち早く村を抜け出し、山の中腹の有利な地点を占めた。いましがた遊撃隊が村を抜け出たことを知った敵は、山へ這い登ってきた。小部隊には少量の弾丸しかないので、できるだけ敵を近づけて命中弾を浴びせなければならなかった。敵が眼前に迫ったとき一斉射撃が始まった。

 正淑はまず、射撃を開始しようとする敵の機関銃射手をしとめた。すると、敵は地に這いつくばり身動きしようとしなかった。

 この機を逃さず正淑は敵に呼びかけた。

 「日帝の手先として犬死にせずに、銃と弾丸を捨てて逃げろ!」「我々は中国人を害しはしない」

 李斗洙、金確実らもこれに加わった。ついで、正淑と女子隊員たちが『満軍反変歌』を歌いはじめた。力強い呼びかけと歌声に戦意を失った「満州国」軍の兵士は、武器と弾薬を投げ捨てて逃げ去った。

 こうして、戦闘は勝利に終わり、食糧も手に入れたが、帰路につく準備をする遊撃隊員の気は重かった。密営で自分たちを待っているのは、ぬぐいがたい「民生団」の嫌疑と敵意に満ちた冷たい視線だけだったからである。

 正淑は、義憤ともどかしさに胸がふさがる思いだった。……敵との戦いでこんなに勇敢な人たちになぜ「民生団」の嫌疑がかけられるのか、それに、いくらかの食糧を手に入れたものの、これが児童団員たちにどれほどの助けになるというのか、また、子どもたちのぼろぼろの服はどうしたらよいのか……。

 正淑は、小部隊とともに帰路についた。そのとき、思いがけなく連絡員に出会った。

 彼の話によると、金日成将軍が撫松に来て正淑らを待っているということだった。一同は、一斉に歓声を上げ、抱き合って喜んだ。夢のような話であった。正淑は連絡員に、もう少し詳しく話してほしい、司令官同志はお元気なのか、いまどこにおられるのか、と矢継ぎ早に尋ねた。

 筆舌に尽くしがたい苦難のなかで、いつどこにあっても金日成将軍の無事を祈りつづけてきた正淑であった。

 小部隊は、羽でも生えたように険しい峰や深い森林を一気に踏破した。隊伍は、夜も寝ることなく行軍をつづけ、馬鞍山に到着した。

 「お姉さん!」と口々に叫びながら児童団員が正淑に抱きついてきた。彼らは、新調の服を着ていた。その服にまつわる話を伝え聞いた正淑は目頭を熱くした。

 新しい師団編成に関する迷魂陣会議の後、将軍は朴永純から馬鞍山の児童団員の話を聞き、馬鞍山に到着すると直ちに彼らを訪ねたというのである。

 見るもあわれな子どもたちの姿を目のあたりにした将軍は、密営の責任者を叱責した。そして、武装闘争の道を踏み出すときに母からもらったいわれのある20元の金で布地を買い、子どもたちに服をつくってやるようはからったのである。それでも全員に服がゆきわたらなかったので、将軍は撫松にいる張蔚華のところに人を派遣し、布地をさらに手に入れたということであった。

 正淑は、児童団員の新しい服をなでまわした。そして、「みなさん! みなさんは必ず金日成将軍様の大きなご恩にこたえなければなりません。いつどこにあっても将軍様を慕い、将軍様を守る真の戦士にならなければなりません」と言い聞かせた。

 しかし、小部隊が帰ってきた馬鞍山の参圃密営の丸太小屋には、依然として狂風が吹き荒れていた。

 正淑が小屋に入ったとき、期待と希望を抱いて駆けつけてきた隊員たちの前にあらわれた密営の責任者は、金日成同志はすぐきみたちに会うといっているが、各自それぞれの立場を忘れることなく、金日成同志の前で分別ある行動をとるようにと威嚇した。隊員たちの期待と希望は消えた。「民生団」の嫌疑をかけられたときからこのかた、それを否定し抗弁もしてきたが、その言葉を信じてくれる人も、親身になって聞いてくれる人もいなかった。ただ、「陳述書」や「自白調書」の厚さが増すのみであった。

 金日成将軍が小屋に入ってきても誰一人顔を上げる者はなく、きみたちが「民生団」だというのは本当なのかと聞かれでも口を開く者はいなかった。

 将軍が隊員の一人に重ねて問いただすと、彼はうなだれたまま、そのとおりだと答えた。いかなる力も自分を救うことはできないという絶望感から出た自暴自棄の態度であった。将軍は、彼らの心中を察して丸太小屋を出た。

 金確実、張哲九ら女子隊員は、絶望感と無念さのあまりむせび泣いた。

 符岩遊撃区のころから金確実とともに戦ってきた正淑は、この光景を見て義憤を抑えきれずこう言った。

 ──みなさんは、誰に頼るつもりなのか。「民生団」の調書の束をかざして冷たい仕打ちをした人がみなさんの身の潔白を証明してくれるとでも思っているのか。さもなければ、金日成将軍にこれまでの無念やるかたない事のいきさつを話せる機会が来たいまになっても、なにが怖くて押し黙っているのか。みなさんをいまの境遇から救ってくれるのは、金日成将軍しかいないのだ。わたしたちは、いつどこにあっても金日成将軍のみを信頼すべきだ。

 正淑の言葉は、隊員たちを力づけた。

 金確実は、正淑の手をかたく握りしめたかと思うと、とっさに小屋を飛び出した。

 木の陰で待機していた彼女は、沈痛な面持ちで小屋の方へきびすを返した将軍の前へ進み出た。そして涙ながらに訴えた。

 「将軍、わたしは『民生団』ではありません。わたしは『民生団』の嫌疑者と結婚したという理由で『民生団』の濡れ衣を着せられました。でも、彼は『民生団』ではありません……。 わたしたちがどうして日本人のスパイになるというのでしょうか。わたしも張哲九オモニも、夫のために『民生団』の濡れ衣を着せられたのです」

 将軍は彼女を連れて小屋に戻り、長時間にわたって「民生団」嫌疑者の訴えを聞き取った。そして「民生団」の嫌疑がかかっていない何人かの隊員に、きみたちはこの人たちをどう思っているのかと尋ねた。誰も口を開こうとはしなかった。

 そのとき正淑がすっくと立ち上がり、調書にどう書かれているかはわかりませんが、わたしは革命のためなら命まで投げ出そうとするこの人たちの覚悟だけはよく知っています、この人たちは絶対に「民生団」ではないと思います、と彼らの身の潔白を保証した。正淑の革命同志への信頼はどんな逆境にあっても変わらぬものであった。

 将軍は、「民生団」嫌疑者の決意を聞いた後、「……きみたちは、この瞬間から再出発するのです。だから、これまでのことは問題になりません。『陳述書』や『調書』『証拠文書』といったこの書類の束よりも、きみたち自身が革命の道で戦うというその決意をわたしは信じる」と話した。そして、「民生団」の書類の束を庭に積み上げさせた後、100余名の「民生団」嫌疑者の目の前で火をつけた。これは、朝鮮革命の危機を、身をもって救おうとする金日成将軍ならではの大勇断であった。

 将軍は、書類の束を焼き捨てた後、その場で「民生団」嫌疑者全員を新たに編成する師団に受け入れるととを宣言した。そして、「民生団」嫌疑者の一人であった張哲九を司令部付きの炊事隊員に任命した。また、撫松にいる張蔚華を通じて手に入れた布地で、主力部隊の全隊員に新しい軍服をつくって着せるようはからった。

 正淑は、ほかの女子隊員とともに軍服づくりにとりかかった。夜通し仕事をしても疲れを覚えなかった。

 将軍が、児童団員の願いどおりみんなを連れていくことにしたという知らせに、正淑はいっそう感激した。

 その後、馬鞍山の児童団員と「民生団」嫌疑者は、厳しい革命闘争の過程で朝鮮革命の頼もしい根幹に成長し、祖国解放の歴史に永遠に輝く貴い業績を残した。

 正淑は、主力部隊の第7連隊第4中隊に編入された。この中隊は、司令部護衛の任務も遂行することになった。


  漫江で迎えた春

 金正淑は、金日成将軍の率いる部隊に属し、1936年の春を漫江で迎えた。

 朝鮮人民革命軍の主力部隊は、東崗への行軍の途上、漫江付近で数日間宿営した。部隊は休息を取りながら、理髪をしたり行軍の準備を整えたりした。

 正淑も宿営地のほとりの小川で女子隊員のひとりと一緒に洗濯をしながら休んでいた。漫江の春のせせらぎは望郷の念を呼び起こした。正淑は、幼いころ故郷で愛唱していた歌を口ずさんだ。女子隊員もそれに和した。宿営地を見回っていた将軍が、その歌声を耳にして小川のほとりに来た。

 「きみたちも故郷を思い出しているようだね」

 歌が終わったとき、将軍は微笑しながらこう言った。

 正淑は、あわてて女子隊員とともに立ち上がり姿勢を正した。

 将軍は、二人に万景台の美しさについて話した。そして深い感慨にひたり、川辺をゆっくり歩きながら歌を口ずさんだ。


  ふるさとをたつ朝 わが母は
  門(かど)にでて涙ぐみ 「さあお行き」
  その言葉 ああ耳をうつ

  わが家のほど近く 小川あり
  弟たちしぶきあげたわむれた
  その姿 ああ浮かびくる


 将軍のうたうこの『思郷歌』を正淑は涙ぐんで聞いた。それ以来この歌は、正淑がいちばん愛する歌となり、うれしいにつけ苦しいにつけ、この歌を口ずさんだ。解放された祖国に帰ったき、清津での歓迎集会でも正淑はこの歌をうたった。

 その日、正淑は、漫江の小川のほとりで自分の家庭の来歴について将軍に話した。将軍はその話を聞いてしばし無言でいたが、やがてこう言った。

 「……つまり、我々は、みな同じ境遇なのだ。だから、我々は革命の道でたたかわざるをえない。誰よりもまず、我々のような人間が革命の先頭に立たなければならない。……革命の道に生き、革命の道でたたかわなければならないのだ」

 ふと歩を止めた将軍は、勉強はどれくらいしたのかと尋ねた。学校には入れず夜学で読み書きを習っただけだという正淑の返答を聞いて軽くうなずくと、言葉をつづけた。

 「革命に邁進するためには、学習に励まなければならない。きみたちは、銃を手にして聖なる革命戦線に飛び込んだ立派な女性たちだ。その責任を自覚して立派な女性闘士、女性革命家にならなければならない」

 その日の夜、正淑はたき火を明かりにして将軍の教えと『思郷歌』を手帳に書き込んだ。それは、生涯にわたって正淑の信念となり座右の銘となった。

 漫江で迎えたこの春は、この世に生を受けて以来、苦しみと不幸、喪失の悲しみと重なる恨みのなかで生きてきた正淑の生涯において、一つの分岐点となった意義深い春であった。

 漫江を後にした部隊は、4月末に東崗密営にたどり着いた。この密営は、標高1100メートルの高原地帯の原生林の中にあった。

 ここが、朝鮮反日民族解放闘争史に末永く伝えられる東崗会議の場となる。

 会場をつくる仕事は、第7連隊第4中隊の1個小隊が担当した。正淑は、各地から来る代表と愛国人士を案内し、彼らの寝食の世話をしながら、会場を整える仕事にも加わった。

 会議は1936年5月1日に始まった。そして、5月5日には将軍によって、朝鮮での初の反日民族統一戦線体である祖国光復会の創立が宣言された。将軍は、祖国光復会の会長に推戴された。これは朝鮮人民が、金日成将軍を民族の領袖としていただいたことを国内外に宣言した歴史的な出来事であった。

 会場から出てきた正淑が、伝令や炊事隊員に真っ先に伝えたニュースはこのことであった。

 「喜んでください。司令官同志が、祖国光復会の会長に推戴されたのです!」

 正淑は、この出来事がもつ歴史的意義を誰よりも深く知っていた。将軍が発表した『祖国光復会創立宣言』『祖国光復会10大綱領』から、階級と政見、信教の違いを超越した祖国解放の大経論と「以民為天」の思想を改めて理解し、全朝鮮人民が将軍のまわりにかたく団結して抗日戦に奮い立つ明日を思い描いた。

 会議後、正淑は、司令部書記処の印刷所で『祖国光復会10大綱領』を謄写して部隊に配布し、誰よりも先に10大綱領の主旨を把握した。そして、主力部隊の全隊員が、人民にこの綱領を幅広く解説、宣伝できるよう準備するうえでも先頭に立った。

 正淑は隊員たちに、「朝鮮人民革命軍の隊員は、銃を手にして敵と戦う戦闘員であるだけでなく、司令官同志の思想で人民を武装させ、その実現をめざす闘争に大衆を動員する宣伝者、組織者です。それゆえ、敵に遭遇しては、獅子のごとく勇猛果敢に戦い、人民のなかに入つては誰もが積極的な煽動家にならなければなりません」としばしば話すのだった。


  撫松で立てた偉勲

 東崗会議以後、金日成将軍は、抗日武装闘争の朝鮮国内への拡大をめざして白頭山根拠地の創設を推進させ、そのために、朝鮮人民革命軍の主力部隊を撫松地区へ進出させてこの一帯の敵を軍事的に制圧することをはかった。これにより、数カ月間に老嶺戦闘、西南岔戦闘、西崗戦闘、撫松県城戦闘など幾多の戦闘が、成功裏におこなわれた。

 正淑が将軍の指揮のもとにおこなわれた戦闘に初めて参加したのは、1936年6月16日の老嶺戦闘であった。老嶺は、撫松県と臨江県の境にある高峰で、鴨緑江沿岸と満州の内陸地方を結ぶ幹線道路上にあった。「満州国」軍のなかでももっとも悪質な靖安軍が老嶺を通過するという情報を入手した将軍は、部隊を有利な地点にひそかに配置した。

 正淑は、女子隊員たちを率いて第4中隊とともに道路から100メートルほど離れた高地の斜面で待ち伏せした。朝6時ごろになって遠方監視所から敵があらわれたという合図があった。しばらくして2個中隊ほどの敵兵が伏兵圏内に入りはじめた。敵兵全員が伏兵圏内に入ると、将軍の射撃命令がくだり、部隊の一斉射撃が始まった。不意打ちを食らった敵は、応戦の構えもできず右往左往した。正淑は、命中射撃でつづけざまに敵を撃ち倒し、岩の陰に身を隠そうとする者にまで命中弾を浴びせた。

 将軍は、敵に息つく暇も与えず突撃命令をくだした。全隊員が、銃剣を振りかざして敵陣に躍り込んだ。白兵戦の真っ最中に、高地の斜面をつたって逃走しようとした一群の敵兵が正淑をはじめ女子隊員たちに遭遇した。もともと悪質な靖安軍であるうえに、相手がひ弱な女性だと見てとった敵は、銃剣を振りかざして襲いかかってきた。この白兵戦で正淑は、女子隊員とともに多数の敵を打ち倒し、多くの武器をろ獲して隊員たちを驚嘆させ、将軍から称賛された。

 老嶺戦闘についで7月10日の西南岔戦闘のときにも、正淑は将軍の戦術上の意図を深く読み取って、またも隊員たちを感嘆させた。西南岔は、約300戸の比較的大きな集団部落で、背丈の2、3倍にもなる丸太の城壁に囲まれ、部落の真ん中には「満州国」警察分署や兵営が配置されていた。部隊が占めていた山からは、西南岔の全景が一目で見渡された。

 隊員たちは、それまでの経験をふまえて、城市への襲撃は夜間に限るものとばかり思っていた。ある隊員は、城門の前で肩をいからせている歩哨を見おろしながら、「今宵限りお前の命も尽きるのだ」とせせら笑った。正淑は、戦闘はどうして夜間におこなわなければならないのかと質問した。するとその隊員は、城市は夜襲してこそ敵の意表を突くことができるし、そうでなくては城壁や砲台に頼っている兵営に突入するのは無理だと、数回の戦闘経験からそれを「論証」した。正淑は城市を見下しながら、戦闘は必ず夜間でなくては敵の意表を突けないわけではない、城市襲撃戦だとしても、不意打ちができるならほかの有利な時間を選択することもできるではないか、と反論した。

 やがて、将軍の攻撃命令がくだった。敵は夜になると城門を閉めきって神経をとがらせるが、昼間は城門を開けたまま、のんきに武器の掃除などをするので、そのすきに乗じて、白昼に不意打ちをかけて西南岔を占領するという作戦だった。隊員たちは、申し合わせたように正淑を見つめた。戦闘は2、30分で完全な勝利となり終結した。朝鮮人民革命軍は、西南岔の住民の前で演芸公演をおこなってから悠然と撤収した。

 この戦闘があって間もなく西崗戦闘が断行された。西崗は、朝鮮人民革命軍の活動に有利な白頭山の樹海地帯につながっていたため、敵は、ここに1個連隊の「満州国」軍を駐屯させ、遊撃隊「討伐」の前哨基地としていた。部落のまわりに大木を使って背丈の3倍もある柵をめぐらし、その外側には背丈を越す外堀までつくってあった。そして、城壁の四隅には砲台が構築され、東南と東北側のものは地下設備を備え、西南と西北側のものは望楼を兼ねた2階建てになっていた。

 将軍は偵察資料にもとづいて、火攻め戦術、火力打撃、呼号攻勢で、一挙に西崗の敵を壊滅することにした。

 隊員たちは、直ちに火攻めの準備にとりかかった。綿のかたまりを鉄線で縛り、それにとげをさし込んで石油をしみこませた。男子隊員たちの仕事の手助けをしていた正淑は、とげが短く少ないことに気づいた。これでは、傾斜の急な屋根にひっかからず、そのまま転がり落ちるおそれがあった。これは戦闘の勝敗を左右することであり、ひいては将軍の作戦上の意図の実行にかかわることであった。正淑の助言で、綿のかたまりにより長いとげが多くさし込まれた。

 ところが、その日の夜、あいにく小雨が降り出して、兵営の屋根がすべりやすい状態になった。けれども、事前に放火棒の欠陥が是正されていたので、放火班が投げた放火棒はそのまま屋根にひっかかり、兵営は火の海と化した。同時に、猛射撃を浴びせて連隊長を屈服させた。「満州国」軍連隊は、武器や装備、軍需物資をそっくり人民革命軍に引き渡して降伏した。

 将軍が白頭山西北部一帯の敵を完全に制圧するための作戦を指揮した同年8月17日の撫松県城戦闘は、正淑の「抗日の女性英雄」としての偉勲をとどろかす契機となった。撫松は、白頭山周辺の諸城市のなかでも敵が特に重視していた軍事要衝であり、「東辺道治安粛正」の中心拠点の一つであった。ここには、関東軍、「満州国」軍、警察隊などおびただしい兵力と実戦で鍛えられたという高橋の「精鋭部隊」も駐屯していた。撫松県城戦闘には、万順、呉義成の第1支隊などの各反日部隊も参加した。戦闘は午前2時に開始された。正淑が属した第7連隊は、東山砲台にひそかに接近し、銃声もあげず素早く敵兵を捕えて砲台を掌握した。連隊がすかさず小南門方面へ突進するや、城内の敵は兵力を総動員して頑強に抵抗した。

 戦闘が長びくことを見通して小南門近くに指揮所を移した将軍は、正淑に7名の女子隊員を率いて東山砲台近辺の山ひだで、朝食の支度をするよう指示した。その山ひだは、煙が立ち上っても敵の目にとまらないところに位置していた。

 山ひだに着いた正淑は、警戒措置を講じてから炊事に取りかかった。このとき、県城を東と北の両側から攻撃していた反日部隊が、敵の頑強な抵抗にあって勝手に退却したため、その方面の敵の兵力が小南門の方に集中することになった。小南門砲台の占領をめざす戦いは予想外に激しくなり、反日部隊の無秩序な退却で戦況は非常に不利になった。

 将軍は敵を城門の外におびきだして壊滅することにし、部隊を東山と小馬鹿溝の稜線に撤収させた。誘引、戦術の罠にかかった敵は、城門からどっと押し出てきた。そのうちの1個小隊が山ひだに先回りしようと攻め寄せてきた。山ひだは、城内に突入した部隊が東山に撤収する唯一の通路だった。もし、敵がその山ひだを占めることになると、部隊は包囲され、小南門近くに位置する司令部がのっぴきならぬ窮地に追い込まれかねなかった。敵は女子隊員たちが占めている前方にたどり着くと、小南門方面から撤収する朝鮮人民革命軍部隊の退路を断つ態勢に入った。

 正淑は、「みんな決死の覚悟で戦いましょう。司令部の安全を命をかけて守りましょう」と隊員たちに呼びかけ、射撃を始めようとする敵の機関銃射手をモーゼル拳銃で1発のもとに撃ち倒した。これを合図に女子隊員たちの銃口が一斉に火を噴いた。不意打ちをくらった敵は、最初気をそがれてめくら撃ちするだけだったが、相手が少数であることを知ると、喚声をあげながら攻め寄せてきた。近づいてきた敵に手榴弾が投げられた。敵もやっきになって襲いかかってきた。山ひだを誰が先に占めるかによって戦闘の命運が決まることを敵も十分知っていたのである。敵弾が降りそそぐなか、正淑は拳銃を両手にして10余名の敵を撃ち倒した。金確実も両眼を大きく見開いて命中弾を浴びせた。

 「生命を賭して司令部を守ろう!」

 正淑のシュプレヒコールは、女子隊員たちの敵愾心をさらに燃え立たせた。樹木の陰に隠れて兵卒を突撃に駆り立てていた将校が正淑の銃弾を浴びて倒れた。敵が混乱に陥ったとき、第7連隊第4中隊が駆けつけ、交差射撃で敵を完全に掃滅した。その間に、部隊の主力は、無事に撤収して伏兵の陣を張り、迫撃してきた悪名高い高橋の「精鋭部隊」を壊滅した。

 金日成主席は、回顧録『世紀とともに』で撫松県城戦闘のとき拳銃を両手にかざしてまたたくまに10余名の敵を撃ち倒した正淑の偉勲を回想し、こう述べている。

 「事実この日、指揮部は、山ひだを英雄的に守り抜いた女子隊員たちによって救援されたというべきであろう。女子隊員たちが敵を防ぎ止めなかったなら、我々は敵より先に東山へ登ることができなかったに違いない」

 数回の、戦闘を通じて白頭山根拠地の創設に有利な条件を整えた朝鮮人民革命軍の主力部隊は、数カ月前に留まった漫江村に、また立ち寄り、数日間過ごすことになった。正淑は、村人に『祖国光復会10大綱領』の主旨を宣伝し演芸活動もおこなった。

 革命演劇『血の海』をはじめ、さまざまな公演によって、漫江の人々に深い印象を残した朝鮮人民革命軍の主力部隊は、ついに白頭山地区への行軍の途についた。


  白頭山密営

 漫江住民の歓送を受けて鴨緑江沿岸の国境地帯へ向かった朝鮮人民革命軍の主力部隊は、果てしない千古の森林をくぐり抜けて多谷嶺に至った。多谷嶺は白頭山の西南に位置する高く険しい嶺である。

 苦しい行軍ではあったが、この嶺をきわめれば祖国の地が望めるという金日成将軍の言葉に力づけられた隊員たちは、疲れも忘れて嶺を登りはじめた。

 やがて頂から「祖国が見えるぞ!」という将軍の太い声が聞こえてきた。

 金正淑は、女子隊員と手を取り合って一気に嶺をかけ登った。

 白雪をいただき太古然としてそびえ立つ朝鮮の祖宗の山──白頭山、そこから発する祖国の青い山並みが絵のように鮮やかに浮かび上がってきた。

 なつかしい祖国! 銃を手にとった日から祖国の地を踏む日を思い描きながら、戦ってきた隊員たちであった。

 正淑は「会寧は、どの辺でしょうか」と将軍に尋ねた。将軍は、白頭山が見える北東を指差しながら、会寧は白頭山のずっと向こうの豆満江のほとりにあると教えた。

 正淑は、将軍が指差す方角を深い感慨をこめたまなざしで眺めた。

 将軍は、鴨緑江沿岸の祖国の地を指差しながら、あのぼうぼうたる樹海と絶壁をなして深く落ちた渓谷を見なさい、祖宗の山──白頭の霊峰から発するこの立派な天険の要害は、我々に誇らしい闘争の舞台を提供してくれるだろう、我々はこれから、この大森林地帯の天然の要害を利用して、白頭山麓の深い密林の中に密営を設け、人民を解放戦線にかたく結集して祖国解放ののろしを高くあげることになるだろう、と隊員たちに語った。

 将軍の言葉を胸に刻みながら正淑は、この白頭山に至るまでの路程を思い返した。それは、銃剣の林をかき分けてきた血路であった。この道で朝鮮革命の中枢的力量をなす朝鮮人民革命軍の威力は数倍に増強され、常設の反日民族統一戦線体である祖国光復会が創立され、その旗のもとに各階層の人民大衆が結集しているのである。

 やがて白頭山に陣を張れば、国内のすべての愛国勢力を一つに結束し、全民抗争によって祖国解放の偉業を達成することになるであろう。その構想をあたためてきた将軍は、東崗会議後、直ちに白頭山地区に新たな革命根拠地を設けることを決心し、金周賢と李東学を先発隊として派遣することにしたのである。

 彼らが、白頭山地区に密営の位置選定のため出発する日であった。

 金周賢は、白頭山根拠地の選定は少々骨がおれでも独りで担当するから、司令部護衛の任務を担っている李東学中隊長は部隊に残してほしいという意向を述べた。すると正淑は、白頭山地区に革命根拠地を新設することは、朝鮮革命全般にかかわる重大な問題なので、将軍が特別にはからってあなたたちを先に派遣することになったのだと思う、司令部の護衛はわたしたちが担当するから、心配せずに任務の遂行に専心してほしいと説得した。

 こうして、まず金周賢、李東学が、白頭山地区へ実地調査に向かったのである。

 部隊が多谷嶺をくだって長白入りした後、正淑は白頭山根拠地の創設に全力を尽くした。白頭山周辺地域での軍事・政治活動に積極的に参加し、大徳水戦闘をはじめ小徳水戦闘、十五道溝東崗戦闘、天橋溝戦闘、竜川里付近での遭遇戦、二十道溝二終点戦闘で輝かしい偉勲を立てた。また、新昌洞、吉州徳、天上水、黄公洞などの住民を祖国光復会のまわりに結集する大衆政治活動も精力的に繰り広げた。

 1936年9月20日の明け方、将軍に率いられた部隊は、長白県二十道溝の黄公洞を後にし、北東方向への行軍の途についた。

 金周賢が、道案内を務めた。この行軍が将軍の構想を実現するためのものであることを理解していた正淑は、炊事道具など重い荷を背負いながらも、他の女子隊員を助けながら力強く歩きつづけた。

 密林の間をぬって行軍をつづけた部隊は、夕暮れどきになって小白水谷に到着した。高い峰で囲まれた谷間はなんとなく落ち着けるところだった。

 翌日の朝、司令部のテントでは、主力部隊の指揮官の会議が開かれた。会議では一連の問題とともに、白頭山根拠地の創設を早急に推進する問題が再び重要案件として討議された。白頭山根拠地の創設は、密営の建設と革命組織の建設という二つの意味を包括していた。

 密営の建設は、会議が終わった翌日の朝から始まり、正淑はこれに熱心に参加した。

 白頭山密営網の心臓部は、小白水谷に建設する「白頭山1号密営」であった。この密営の位置は、将軍がみずから定めた。これが今日、朝鮮人民のあいだで革命の聖地と呼ばれている白頭山密営である。

 正淑は、白頭山1号密営の建設に参加した隊員たちに、この密営を建設する意義について説明し、みずからこの建設に誠意を尽くした。

 密営が建設されると、正淑はその周辺の立ち木の皮をはぎ、そこに意味深いスローガンを書き記した。

 「白頭山に将軍星あらわるる。白頭山の将軍星、三千里を照らす」「男尊女卑反対、女性解放万歳、貧困に苦しみ、さげすまれる朝鮮女性よ、総決起して抗日戦に参加せよ」

 小白水谷に白頭山密営が建設されることによって、朝鮮革命の中心的指導拠点が構築され、朝鮮革命全般にたいする指導が確固と保障されることになった。白頭山密営の建設についで、国内の白頭山地区では、獅子峰、熊山、仙五山、間白山、無頭峰、小胭脂峰などに密営が設置され、西間島方面では黒瞎子溝、地陽渓、二道崗、横山、鯉明水、富厚水、青峰などに衛星密営が建設された。

 白頭山密営の建設後、正淑は地下組織網の整備のため精力的に活動した。

 白頭山密営建設の指導を終えた将軍は、黒瞎子溝へ向かうとき、鴨緑江沿岸の状況を具体的に調べる任務を正淑に与えた。

 当時、鯉明水をはじめ、白頭山周辺の地域では、その年の6月から金周賢の指導のもとに祖国光復会の組織が結滅されていた。正淑は、それらの組織に連絡員を派遣し、恵山をはじめ、鴨緑江沿岸、特に白頭山周辺地域の状況や住民構成とその思想的動向、革命組織の活動状況を調べさせる一方、組織をさらに拡大、強化し、朝鮮人民革命軍にたいする支援活動を活発におこなわせる具体的な課題を示した。

 こうして、鯉明水や胞胎山など白頭山周辺の地域では、祖国光復会の組織網が急速に拡大されていった。

 当時、金日成将軍に会うため、密営に国内の革命家が訪ねてきたが、そのなかに李悌淳と朴達もいた。

 ある日、李悌淳が李東学中隊長の案内を受けて女子隊員の兵営の前を通りかかった。そのとき、正淑は武器の手入れをしていた。李悌淳は、歩を止めてその様子を見つめた。李東学中隊長は、彼女が部隊全体が誇りとして、うらやむ名射手であることをいくつかの例を上げて話した。

 李悌淳が感心してその秘訣を尋ねると、正淑は、まだ未熟な女子隊員にすぎない自分にさほどの腕があろうはずはないと謙遜し、こう答えるのだった。

 「敵を一発で撃ち倒さなければ、相手にわたしが倒されます。それに、わたしたちは死地で将軍につきそっているのです。それでわたしは、敵がいつどこから現れても一発で撃ち倒せるよう射撃訓練に励んでいます。……

 わたしは、朝鮮人民革命軍の隊員は、身も心もすべてが将軍を守り、朝鮮革命を守る銃にならなくてはならないと思います」

 李悌淳は、ここに来て名射撃術の秘訣を習うことができた、自分も金日成将軍の安泰と朝鮮革命の司令部を守る一挺の銃になる、と誓った。彼はその生涯を閉じるまで、この誓いに忠実であった。彼は、絞首台の露と消えたが、将軍のいる司令部と組織の秘密をあくまで守りぬいたのである。

 李悌淳は密営を離れるとき、革命軍の軍服を一度でも着てみたいと将軍に話した。李東学中隊長からその話を聞いた正淑は、李悌淳の身体にぴったり合いそうな軍服を選び、きれいに手入れして渡した。

 李悌淳の案内で将軍と対面した朴達も、密営に留まっている間に正淑から深い印象と感銘を受けた。朴達は、いつもにこやかな表情で細やかに面倒を見てくれる正淑に、女性の身で遊撃隊の生活はつらくないかと尋ねたことがある。戦闘と行軍の連続である遊撃隊の生活を目にしたからである。

 正淑は、静かなほほえみをたたえて答えるのだった。

 「もちろん、苦しくつらいときがたくさんあります。それで苦難に満ちた革命だというのではないでしょうか。つらく苦しいときはいつも、将軍に従い、苦労に耐えて戦ってこそ国を取りもどし、父母兄弟の恨みを晴らすことができる、そう考えるようにしています。そうすると、困難にあっても力が湧いてまた立ち上がり、革命に参加しているという誇りを感じるのです。わたしは、一度選んだこの道を変わることなく歩きつづけ、この道で命をなげうつ決心です」

 その日、朴達の心に、朝鮮革命の心臓部である白頭山密営が金日成将軍と金正淑の影像とともに深く刻み込まれた。その後、彼は「恵山事件」のため身を潜めていたが、天上水洞窟の付近で正淑と再会した。それは、ほぼ2年ぶりであったが、彼は一目で正淑を見分け、「金正淑同志!」とのどを詰まらせて駆け寄った。

 祖国が解放された直後、朴達が身動きもできない体で平壌に来たときも、正淑は彼を温かく迎えて面倒を見た。自宅のそばの朴達の家をたびたび訪ね、白頭山密営と天上水洞窟付近での出会いを回想しながら、彼を力づけた。

 金日成主席が「愛国的地主」と回顧した金鼎富も、正淑の世話になった。1936年の夏から数カ月間、金鼎富は白頭山根拠地の横山密営に留まっていた。一部の隊員は、将軍にはトウモロコシがゆの食事をさせながら、地主の金鼎富には白米の飯を食べさせなければならないことを不快に思っていた。

 そのとき正淑は、金鼎富は愛国愛族の志士だと言い、力のある人は力で、知識のある人は知識で、金のある人は金で、全民族が反日聖戦に立ち上がってこそ祖国の解放をなし遂げることができるという将軍の反日民族統一戦線思想で隊員たちを説得した。

 金鼎富は密営を離れる際、将軍に、自分は死んでも人民革命軍を助け、その道で死ぬつもりだ、金鼎富は生きても死んでも将軍の味方であることを信じてほしい、と言い残した。その後、彼はその言葉どおり誠心誠意、人民革命軍を支援した。

 正淑は、将軍直属の部隊に新しく編入される隊員が、直属隊員らしく身だしなみを整えるよう気を配った。

 当時、各地域で活動していた小部隊は、将軍の命を受け、白頭山根拠地に来て主力部隊に編入された。ところが、彼らのなかには、新しく支給された軍服をろくに手入れもせずに着用したり、甚だしくは、ひげがぼうぼうに生えても平気でいる隊員もいた。なかには、遊撃隊の生活でそれくらいのことは普通だと言う隊員もいた。

 正淑は、主力部隊が、百戦百勝の戦闘力をもった鉄の隊伍になったのはすべて将軍の命令と教えに従ったからだ、だから、我々は、将軍が定めた規律と秩序を自発的に守り、まず容姿からして直属部隊らしく身だしなみを整えなければならない、と彼らを諭した。正淑の努力により、部隊に新しく編入された隊員は規律正しい生活をするようになっただけでなく、容姿の面でも将軍直属の部隊らしい面貌をそなえるようになった。将軍に率いられた朝鮮人民革命軍の主力部隊が、人民のあいだで「大学生部隊」と呼ばれ、追跡してきた敵が宿営地のたき火の跡を見ただけで将軍直属の部隊であることを知って逃げ出すまでになったのは、正淑のこのような努力に負うところが大きかった。

 部隊には、長白一帯からの新入隊員も少なくなかったが、彼らは遊撃隊の生活に慣れず、非常な苦しみを感じた。そのなかには馬東煕もいた。彼は扁平足であったため、行軍と戦闘がうち続く遊撃隊生活はなおさら辛いものであった。ときには疲れきって、服がはだけていることにも気づかないこともあった。

 正淑は、行軍のときには、一緒に歩きながら力を与え、射撃動作にも熟達させ、将軍の革命思想も詳しく説明した。

 馬東煕は、立派な朝鮮人民革命軍の隊員に成長した。戦闘では勇敢で、学習でも模範であった。彼は疲れきって倒れているときでも、学習だというと誰よりも先に駆けつけ、討論にも熱心に参加した。学習の時間は、馬東煕が一番意欲に燃える時間であった。

 彼は白頭山密営で、将軍からじきじきに任務を受け、地下工作もたびたび遂行した。

 彼は、将軍の思想と意図をもっとも正確に把握し、名射手でもあり、同志のために献身する正淑を非常に尊敬し、ことあるごとに正淑を見習おうと努めた。

 特に1937年3月、撫松への行軍途上で聞かされた正淑の言葉を命の尽きる瞬間まで忘れなかった。撫松遠征の行軍路は困難をきわめた。隊員たちは休止の号令がかかると、たき火のそばにどっと倒れて眠り込んでしまうのであった。馬東煕もやはりたき火のそばで眠りこけ、帽子の耳隠しが焦げるのも気づかなかった。

 正淑は彼を起こさず、そっと帽子を脱がせて火をもみ消し、それを繕いはじめた。しばらくして眠りから覚め、頭をなでながら当惑している彼に、「火の粉が散って帽子を焦がしたようですわ。わたしたちも入隊した当初はこんなことがよくあったのですよ」と言って正淑はほほえんだ。

 馬東煕は、小学校のときに帽子なしで過ごしたことを思い出し、「この軍帽は、わたしが生まれてはじめてかぶった帽子です」と言って、帽子にまつわる話をした。

 彼は小学校に通っていたとき、成績はいつも一番であったが、金がなくて帽子をかぶることができなかった。ある日、先生が不当に権勢家の子を首席にしたことに憤慨した馬東煕は、学校を飛び出した。ちょうどその日、父が市場で学生帽を買ってきてくれた。そんな話をしながら彼は、その帽子は、わたしがかぶれる帽子ではなく、その学校もわたしが通える学校ではなかった、遊撃隊こそ自分が通うべき学校であり、革命軍の軍帽こそ自分がかぶるべき帽子だと言うのだった。

 馬東煕の話を聞いた正淑は、軍帽に赤い星をつけて渡しながら、この赤い星がこれから困難な闘争の道で金日成将軍に限りなく忠実な革命戦士になるようあなたを導く心の星、忠誠の星になることを望むと言った。

 その後、馬東煕は、敵に逮捕されたとき、最後まで白頭山密営の秘密を守って自分の舌をかみ切り、壮烈な最期を遂げた。

 正淑は、実践によって模範を示し、将軍の安全を守ることが革命遂行における最重要任務であることを隊員たちに悟らせた。

 大木もひび割れるほどの吹雪の夜にも、戦闘や強行軍のため、みんなが疲労困憊して身動きできなくなった夜にも、正淑はすすんで衛兵勤務を受け持った。

 女子隊員は、正淑が毎日朝早く起きるのを知っていたが、それは朝食の支度をするためだとばかり思っていた。ところがある日、女子隊員は、夜明けの薄闇のなか、銃を肩にして司令部の丸太小屋のまわりを見回っている正淑を見て、毎日のように司令部の安全のために歩哨に立っていることを知ったのである。

 正淑は、警戒勤務につく隊員たちに「いつも将軍のいらっしゃる位置に気を配ることを忘れてはなりません。状況が特に困難で複雑をきわめているときなので、わたしたちは全身で将軍を守る鉄の防弾壁にならなければなりません」と念を押した。

 1937年1月3日、正淑は共産党に入党した。それは、祖国の解放と人民の幸せのための栄えあるたたかいに一身をささげる金正淑の革命的生涯にとって新たな一里塚となった。





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