『金正淑伝』
 
2 青年前衛


   児童団のリーダー
 
 朝鮮人民の初の革命的武装力である反日人民遊撃隊を組織した金日成将軍は、敵の攻撃と弾圧から結成されたばかりの遊撃隊と革命大衆を守り、革命勢力を速やかに拡大、強化するため、1932年5月、解放地区形態の遊撃根拠地を早急に建設する課題を示した。それにもとづき、符岩上村にも遊撃区が設けられ、周辺の革命大衆が集団的あるいは個別的に遊撃区に移住し始めていた。

 その年の秋、金正淑も弟とともに遊撃区に移ることになった。それは、兄や乳飲み子の甥との別離をともなった。その甥は、正淑が日に何回も隣村まで足を運んでもらい乳をし、ときには門前払いを食うという悲哀を味わいながら育ててきた子であった。腹をすかして泣きつづける甥をあやしきれず、一緒に涙を流して夜をあかすこともたびたびあった。

 正淑は、是が非でも甥を連れて遊撃区に入るつもりだった。しかし、兄の基俊は同意しなかった。正淑が涙をのんで家の外に出ると、甥がはげしく泣き出した。兄があやそうとしたが、甥はなお泣きしきった。甥の泣き声にいたたまらず部屋に戻ってきた正淑は、その夜、とうとう出発することができなかった。ところが翌朝、「討伐隊」が再び村を襲撃してきた。正淑は急いで甥をおぶって山に登った。その足で遊撃区に入るつもりだった。ところが、息せき切って追いかけてきた兄は、お前にはまだ革命にすべてを尽くす覚悟ができていない、革命に身を投じた以上、革命を先に考えるべきだ、家族のことにこだわっては革命はできない、さあ、早く行きなさい、立派にたたかうのだ、と言って子どもを抱き取り、山を下りていった。谷間に響く甥の泣き声は遠ざかっていった。正淑から離れまいとして泣き叫ぶわが子を抱いて血の涙を流しながら遠ざかる兄、わが身の一部のように思っていた甥の泣き声を背にして遊撃区に向かう妹、これは革命のために命も家庭もすべて投げだす覚悟をもって闘争の道に立つ兄妹の永遠の別離であった。

 当時、創設されて日の浅い遊撃区の状況は困難をきわめていた。符岩の下村と中村をはじめ、周辺の集落から数多くの人が移住してきたので、食糧も住宅も不足していた。加えて、遊撃区を初期のうちに押しつぶそうとする敵の「討伐」は連日打ちつづいた。

 遊撃区での正淑の日課は、早暁から始まった。正淑が誰よりも先に起きて路や庭を掃くころ、向かい側の山頂から児童団ラッパ手の基松が吹く起床ラッパが鳴り響く。児童団員たちが集まってくると、正淑は彼らを整列させて朝の体操をさせた。児童団員の学習と課外活動の指導を終えると、区共青委員会から受けた大衆政治工作の任務を遂行するため、東谷や蔵財村へ行った。ときには、少年先鋒隊員とともに敵中偵察に赴いたり、遊撃隊を助けて「討伐隊」との戦闘にも参加した。一日中忙しく走りまわり、食事を欠くときもたびたびあったが、正淑は疲れを感じなかった。

 当時、正淑が居を定めていた家の主人の回想によれば、正淑はいつも足早に動き回っていたという。あるとき家の主人は、夜遅くまで帰ってこない正淑を探し回ったことがあった。そのとき、正淑は夕食もとらず川辺で遊撃隊員の軍服を洗っていた。正淑の濡れた手をとった主人はびっくりした。ひび割れてあざになった手は、見た目にも痛々しかった。けれども正淑は、人民の天下となった遊撃区で革命に参加しているという誇りを抱き、それを苦にはしていなかった。

 正淑は、主人にこう言うのだった。

 ──遊撃区での人民の活気にみちた生活と児童団員が列をつくって歌をうたいながら学校に通う幸せな姿は、日本の支配区域では想像すらできないことです。……わたしたちは、金日成将軍がもたらしてくださった、この自由、この幸せを守るために力いっぱい働かなければなりません。この自由、この幸福を守ることは最上の栄誉だと思います。

 正淑は、符岩遊撃区の上村に移ってから間もなく、八区共青委員会の委員に選出され、八区の児童団の活動を指導する任務を課された。遊撃区での児童団の活動は、団員を革命の頼もしい後続隊に育てる重要な革命活動であった。区児童団のリーダーとなった正淑はまず、児童団活動の実状を具体的に調べた。

 その年の11月5日に上村の区共青委員会事務所で開かれた符岩遊撃区児童団指導員会議では、日本軍の「封鎖」策動に対処して児童団指導員の役割をいっそう高める問題について正淑が報告をおこなった。報告では、遊撃区の実態と児童団活動における欠点が具体的に分析され、活動を改善するための当面の課題とその方法が示された。また、児童団学校の運営上の欠点とその原因、指導員の責任感と役割を高めて学校を立派に運営する問題が強調された。そして、児童団員の演芸隊活動を活発におこなう問題、遊撃隊への支援活動、児童団員の組織生活の指導を強化する問題など、指導員の諸任務が具体的に示された。報告についで、各指導員が発言した。

 この会議以来、遊撃区の児童団活動には新たな転換がもたらされた。指導員の責任感と役割は高まり、遊撃区における児童団活動の規律と秩序が確立された。

 当時、遊撃区には、革命組織が面倒を見てやらねばならない子どもが少なくなかった。その大半は、日本軍の「討伐」で両親を失い、遊撃区に入った孤児や革命家の遺児であった。

 正淑は児童団員に、毎日のように金日成将軍のことを語り、彼らの胸に将軍への忠誠心を植えつけた。また、機会あるたびに、祖国の美しい自然と豊かな天然資源について、侵略者とたたかった朝鮮民族の栄えある闘争史とさん然たる民族文化について、そして、日本帝国主義者の搾取と抑圧のもとで朝鮮人民がなめている不幸と苦痛について語り、彼らに祖国への愛と未来への夢を育ませた。

 正淑は、児童団員を革命闘争の実践のなかで鍛えることにも努めた。正淑は、革命的な実践は人々を革命家にする学校であるとし、団員を幼いときから闘争と労働をとおして鍛えてこそ、将来、いかなる難関と試練に直面しても動揺することなく突き進む真の革命家になれるのだと説いた。

 正淑の指導する児童団員は、背のうにはったい粉の入った袋や塩、毛布、針、シラカバの外皮で包んだ下着、黄燐マッチ、鉛筆などを入れ、こん俸を2本吊るして歩いた。彼らは、ただの少年、少女ではなく、根拠地を守り、革命を守る幼い戦闘員であった。団員は、戦場に弾薬を運んだり、「討伐隊」に向けて石を転げ落としたり、激戦たけなわの高地で太鼓を打ち鳴らし革命歌をうたったりした。

 日本帝国主義は「討伐」を強化する一方、「経済封鎖」によって根拠地の人民を餓死させようと企んだ。これに便乗して悪質地主は、「討伐隊」による根拠地への攻撃があるたびに、数十人の人夫に牛車まで駆り出して、まだ収穫がすんでいない根拠地区域の畑の穀物を手当たりしだいに刈り取って運び出した。これに対応して根拠地の人民は、こぞって秋の取り入れ戦闘に立ち上がった。

 正淑は、明け方から共青員と少年先鋒隊員、児童団員を率いて、中村と下村の間の畑に出て、人民とともに取り入れに参加した。

 ある日の午前10時ごろ、敵の「自衛団」が発砲しながら押し寄せてきた。遊撃隊が応戦する間に、正淑は人々を安全地帯に避難させた。そのとき、機会を狙っていた地主が、多数の牛車と人夫を動員して、根拠地の畑の穀物を刈り取りはじめた。

 正淑は、共青員と少年先鋒隊員、児童団員を率いて山に登り、急傾斜を利用して敵に石を転げ落とした。敵の攻撃を予測して、山に前もってたくさんの石を積んでおいたのである。思いがけない石の雨と遊撃隊の猛射に肝をつぶした「自衛団」は逃走しはじめた。あわてふためいた地主は、根拠地の人民が刈り取った穀物の束まで牛車に積んであたふたと逃げ出した。正淑は、隊伍を率いて近道して先回りし、道路のわきで待ち伏せた。退却する「自衛団」が曲がり角に姿を消すと、しばらくして穀物の束をいっぱい積んだ牛車の行列があらわれた。全隊伍は、正淑の合図に従い、槍やこん棒をかざして一斉に道路に躍り出た。地主を見つけた正淑の眼光が一瞬光った。あの恨めしい地主・李春八だったのだ。正淑は、「みなさん! こいつは悪どい地主・李春八です。以前は、符岩洞の農民を苛酷に搾取し、いまはまた遊撃区の人々を餓死させようと血眼になっている仇敵です。こいつを大衆審判にかけましょう」と叫んだ。少年先鋒隊員たちは、半狂乱になった地主を縛り上げて遊撃区に押送し、人夫は訓戒して帰らせた。遊撃区で開かれた大衆集会では、正淑一家と符岩洞住民の宿敵李春八に、人民の名で峻厳な審判をくだした。この日、敵の手から穀物を取り戻してきた大胆なうら若い共青活動家の話は、遊撃区だけでなく、周辺の村落まで広く知れ渡った。

 正淑は、日ごろから児童団指導員に、団員を革命家に育てるには組織生活を強化する必要があると話し、それに深い関心を払った。

 あるとき、正淑は、東谷児童団学校を訪ねた。そのとき、児童団学校の指導で基本は何か、学校を立派に運営するためにまず解決すべき問題は何かと児童団指導員から尋ねられた正淑は、団員の学習と訓練、組織生活の強化が基本であるとし、いかに複雑な問題が提起されても、それをおろそかにしてはならないと教えた。

 正淑は、遊撃区の子どもや人民を親身になって見守った。ときには、児童団員の命を救うため、銃弾が飛び交う戦場や燃え立つ火の中にもためらうことなく飛び込むこともあった。

 ある日、荒れ狂う吹雪にまぎれて「討伐隊」が、不意に遊撃区を襲ってきた。戦闘は熾烈をきわめた。正淑は、児童団員を率いて山に登り、太鼓を打ち鳴らし、革命歌をうたって遊撃隊員を励ました。ところが、その最中に団員の一人がこっそり隊伍から抜け出して敵陣の方に下りて行った。彼は日ごろ、日本軍の銃を奪って「討伐」の犠牲になった父母の仇を討つと言っていた少年だった。しばらくして、彼が隊伍を抜け出したことを知った正淑は、ためらうことなく山を駆け下りて行った。谷底近くまで来たとき、その少年が息を切らしながら雪だまりをかき分け山に登ってくるのが見えた。そのすぐ後ろには、一人の敵兵が追っていた。敵兵の死体から銃をもぎ取ろうとして見つかったのである。少年はすでに力尽き、敵兵との距離はわずか5、6メートルしかなかった。谷間に遊撃隊がいないと思い込んだ敵兵は、周辺に気を配ることなく少年の後を追ってきたのである。

 正淑は、急いで岩のかげに身をひそめた。少年が岩の前を通りすぎると、その跡を踏んですぐ敵兵があらわれた。敵兵が岩の前を通り過ぎようとした瞬間、正淑は敵兵の後頭部めがけて力いっぱいこん俸を振り下ろした。不意打ちを食らった敵兵が頭をかかえて振り返ろうとしたとき、いま一度こん棒で痛打を浴びせた。敵兵は雪の上に倒れ、少年は救われた。正淑の手に引かれて山頂にたどりついた少年は、正淑の胸に顔を埋めてむせび泣いた。

 正淑が自身の危険や困難をかえりみず、遊撃根拠地の子どもを救ったのはこれだけではない。その年の冬、敵の「討伐」企図を探知するため、中堡格・(石へんに立)子村へ行く途中、敵に発見されたときには、追い迫る敵兵を自分の方に誘引して同行の児童団員を助け、また「討伐隊」が火を放った丸太小屋のなかで泣いている子どもを救うため、燃え上がる炎の中に飛び込んだこともあった。それだけではない。寒さに震える老人に自分の一着しかない綿入れを与え、根拠地に伝染病が流行したときには、感染したわが身をかえりみず患者を真心こめて看護した。

 このように、遊撃区の人民と児童団員への限りない愛と犠牲的な献身によって、正淑は彼らから愛され尊敬された。

 1933年3月27日、金日成将軍は狂清で開かれた共青活動家会議で、『共青活動を改善するための課題について』と題する演説をおこなった。将軍は演説で、反日人民遊撃隊組織後の共青活動における成果と欠点を分析し、共青の組織活動に見られる左右の偏向を正して組織をたえず拡大し、思想教育をさまざまな方法でおこなうよう強調した。そして、児童団の活動を責任をもって指導することは、共青と抗日遊撃隊を強化するうえで重要な保障であると指摘した。

 同年4月、王隅溝北洞では、将軍の示した課題を実行するために延吉県内の共青および児童団指導幹部の会議が開かれた。正淑は会議で、すべての青年活動家が将軍の教えどおり活動すればなし遂げられないことはなく、万事、円滑に進展すると強調し、将軍の意図どおり児童団員を革命の後続隊として育てるための指導員の課題について次のように述べた。

 ──児童団を指導するものは、指導員、児童団学校の教師になる前に、まず児童団員の兄となり姉となってこそ、彼らに心から慕われる教育者になれるのです。……わたしたちの一つひとつの言動がすべて児童団員の手本となり、鑑となるようにすべきです。

 正淑の発言は、将軍の意図を深く把握し、しかも豊かな活動経験にもとづくものであったため、一同に深い感銘を与えた。

 会議から帰った正淑は、新たな抱負と情熱に燃えて共青活動と児童団活動の指導に専念した。まず、児童団員に将軍の思想を植えつけることに力を入れた。そして、彼らの生活を親身になって世話した。薪が切れると率先して山へ柴刈りに行き、ノートや鉛筆がなくなると敵地にまで下りて行って手に入れてきた。夜は夜で児童団員を寝かせると、遅くまで彼らの衣服を洗濯したり繕ったりした。

 正淑は、実の姉、実の母のように児童団員の世話をしながらも、彼らに見られる欠点に目をつぶることはなかった。児童団員の性格検討会には欠かさず参加し、彼らの生活と任務遂行状況を具体的に総括して過ちを改めさせ、幼いときから革命家としての品格と資質をそなえていくよう導いた。

 児童団員が正淑の指導によっていかに立派な成長を遂げたかは、次のような日本の報道内容からしてもうかがえる。

 「……今度の討伐のときにも八道溝付近で日本軍に逮捕された12歳の少女は、懐中に日本語で書かれた数十枚の反戦ビラを隠していたが、審問に答えながら、最期の瞬間に日本軍兵士に見せて宣伝するつもりだったと、こんな大胆な言辞を吐いた」

 朝鮮人民に広く知られるだけでなく、当時のコミンテルンの雑誌『コミンテルン』と中国の『救国新報』をはじめ、各国の出版物に紹介されて人々を感動させた児童団員の金今順も、延吉県児童団演芸隊で活動した少女だった。

 正淑が心血を注いで教育した児童団員は、その後、みな立派な遊撃隊員、有能な政治工作員となり、祖国解放の聖戦で輝かしい偉勲を立てた。そのなかには、金今順に限らず、金日成将軍のために、革命のために、祖国と人民のために貴い生命を惜しみなくささげた闘士が多かった。

 育ちゆく新しい世代を人民の自由と解放のための栄えある闘争に身を投ずる革命家に育てたことが、祖国と人民の前にきずき上げた金正淑の不滅の業績の一つである。
 

   演芸隊とともに
 
 金正淑は児童団活動を指導する一方、演芸隊の活動にも深い関心ど払い、精力的に指導した。蔵財村児童団学校で初の児童団演芸隊を組織し、みずから演目を組み、練習の指導にもあたった。そして、公演の準備が整うと、蔵財村の住民の前で数回にわたって公演した。このニュースはまたたく問に各遊撃区に広まり、根拠地の人々の関心の的となった。

 この経験にもとづき、正淑は1933年の迎春公演の準備を進めた。県共青では、遊撃区での初の迎春公演を大晦日の夜、王隅溝北洞でおこなうことにした。公演の場所には、近隣の村からも人々が集まり立錐の余地もなかった。幕が上がると、正淑が舞台に出てあいさつした。正淑は、試練に満ちた一年を送り、希望に満ちた新年を迎えることになったと述べ、朝鮮人民にとって昨年は試練を乗り越えて抗日大戦を開始した年であり、新年は金日成将軍のまわりに団結して日本帝国主義侵略者にせん滅的な打撃を与える年になるだろう、みなこぞって、将軍の革命路線をかかげてたたかおう、とアピールした。

 この日の公演では、『団結紐』と基松のハーモニカ独奏をはじめ、さまざまな歌と踊りが観衆の絶賛を博し、遊撃区の人々に大きな喜びと希望を与えた。

 児童団演芸隊は、敵地の八道溝鉱山で公演したこともあった。数多くの労働者を前にしての公演では、合唱と独唱、舞踊が演じられ、最後に正淑のアジ演説があった。労働者たちは、児童団の生気はつらつとした姿に、遊撃区に生まれた新しい世の中を見た。数十個のカンテラの明かりのなかに響く正淑のアジ演説と、赤いネッカチーフ姿の児童団員の革命的な歌と踊りは、悲しみや苦しみにうちひしがれることなく、闘争に立ち上がらなければならないという自覚を労働者たちに与えたが、ことに青年労働者たちの胸を湧き立たせた。彼らは、「あの若い女の子でさえも日本軍とのたたかいに立ち上がっているのに、我々がこのままじっとしていられるものか。遊撃隊を訪ねて行こう。爆薬を背負ってあの子について山に入ろう」と遊撃隊への入隊を志願した。後日、朝鮮人民革命軍の有能な政治・軍事幹部として活躍する趙正哲、文朋尚も、そのときに八道溝鉱山から遊撃区に入った青年労働者であった。

 労働者のなかに児童団演芸隊の公演をうらやむように観ている一人の少年鉱夫がいた。自分の名前すら知らないこの少年を遊撃区に連れてきた正淑は、金錦山と名づけ、立派な児童団員に育てた。錦山は基松と大の仲良しになり、正淑を実の姉のように慕った。その後、錦山は、朝鮮人民革命軍隊員、機関銃射手に成長し、司令部を守る戦闘で英雄的偉勲を立てた。

 同年6月、正淑は、遊撃区の各児童団学校から抜擢された20余名の団員で県児童団演芸隊を組織した。演芸隊は、遊撃隊の各中隊や反日自衛隊、病院、そして、各遊撃区の村落、さらには4、5戸しか民家のない山里にまで出かけて公演した。演芸隊は、いたるところで遊撃隊員と住民の熱烈な歓迎を受けた。それは、公演を立派におこなったためでもあるが、それにもまして、いつどこに行っても遊撃隊員と住民を誠心誠意助け、つねに礼儀正しくふるまったからである。

 巡回公演スケジュールに従って、遊撃隊の兵器修理所へ行くことになったときのことである。正淑は、数日前から集めておいたかなりの量の古鉄を持って行った。鉄片が欠乏して炸裂弾の製造に支障をきたしていた遊撃隊員は歓声を上げた。この日の演目は、すべてが遊撃隊員の絶賛を博し、彼らを大いに励ました。公演が終わると、演芸隊員は、正淑の指示に従って2組に別れた。一組は、兵器修理所の内部と周辺をきれいに掃除し、鍛冶場のハンマーやふいごを使って遊撃隊員の作業を助けた。正淑に連れられた他の一組は、山に登り、女の子は山菜を一かごずつ摘み、男の子はハギを束ねたほうきを背負子いっぱいに担いで帰ってきた。遊撃隊員は、演芸隊が兵器修理所の数日分の仕事を全部してくれたと言って、その誠意にこたえるためにもより多くの炸裂弾をつくろうと決意した。

 演芸隊は、遊撃区の村落で公演するときにも、宿泊した家の内外をきれいに掃除したり、水汲みをしたりした。また、人手の足りない家庭のために柴刈りや畑の草取りなどもした。

 児童団演芸隊は、中国人反日部隊も訪ねて公演し、将軍の反日連合戦線方針の貫徹に大いに寄与した。当時、中国人反日部隊との連合戦線を結成することが焦眉の急となっていた。日本帝国主義の悪宣伝と民族離間策動に乗せられた彼らは、あたまから朝鮮人を敵視し、抗日遊撃隊の軍事・政治活動に大きな障害をつくりだしていた。

 金日成将軍は、汪清共青活動家の会議で反日部隊との活動を積極的に展開するための共青員の任務を示した。そして、1933年6月には身の危険もかえりみず、反日部隊司令の呉義成と会談して反日連合戦線結成に向けて新たな局面を開いた。

 延吉県では、三道湾付近に駐屯していた徐奎伍の「平日軍」との統一戦線を実現する工作を進めていた。しかし、徐奎伍が敵対的な態度をとったため、所期の成果を達成することができず、かえって痛ましい犠牲を出すのみであった。こうしたとき、正淑は勇躍「平日軍」を訪ね、徐奎伍に会った。金日成将軍の連合戦線方針を実現するために来たことを告げた正淑は、日本人の民族離間策動を暴露し、共通の敵─日本帝国主義に反対してともに戦おうと切々と訴えた。最初は冷ややかな態度で敵対感をむきだしにしていた徐奎伍だったが、正淑の謙虚かつ堂々たる態度、偽りや出まかせでない真情の吐露、並々ならぬ革命的熱意に動かされた。彼は、金日成司令の若い女性工作員には脱帽すると言って正淑を貴賓としてもてなした。そして、児童団演芸隊の反日部隊訪問公演に賛同した。正淑が帰った後も、徐奎伍は「金司令の配下には人材が多い」と、賛辞を惜しまなかったという。

 数日後、児童団演芸隊は、徐奎伍の反日部隊で公演した。歌舞『団結紐』とハーモニカ独奏、革命歌の独唱や重唱の後、中国の歌謡もうたった。こうした公演を初めて観た「平日軍」の兵士たちは、歓声を上げ、拍手を送り、しまいには舞台に上がって踊りの輪に加わった。特に、金基松のハーモニカ独奏と、金今順、金玉順の双舞は彼らに深い感銘を与えた。なかには、家に残してきた妹や娘をしのんで目頭を熱くする人もいた。その日、徐奎伍は、演芸隊員の希望どおり実弾射撃をさせ、帰るときには馬車まで提供してくれた。その後もつづいた演芸活動と正淑の説得力あるアジ演説は「平日軍」兵士の反日感情をさらに高め、のちの八道溝市街襲撃の連合作戦の実現に大いに寄与した。

 1933年9月23日の八道溝市街襲撃戦には、延吉遊撃隊の各中隊と徐奎伍の「平日軍」が参加した。正淑には、共青員からなる宣伝隊と輸送隊を引率する任務が分担された。戦闘は、夜10時に開始された。敵の兵営と警察署を襲撃する銃声と炸裂弾の爆音で八道溝市街は、またたく間に修羅場と化した。自分らの主力部隊が集結している八道溝市街が攻撃されることはないと思っていた敵は、抵抗するいとまもなかった。兵営と警察署を制圧した遊撃隊と反日部隊は、一斉に市内に突入した。砲台にいたところが、「自衛団」が猛射して抵抗した。攻撃は阻止され、時間を引き延ばせば敵が混乱を収拾して反撃に移ってくる恐れがあった。そのとき、正淑が共青の宣伝隊とともに砲台の近くに接近し、呼号工作を始めた。

 「『自衛団』の兄弟のみなさん! あなたたちは誰のために銃をとったのですか。誰のために、戦っているのですか。銃口を日本軍に向けなさい!」「『自衛団員』のみなさん! 民族と同胞に背いて犬死にするのは止めなさい!」

 この呼号工作に砲台の敵は、一瞬たじろぎ、銃声がやんだ。これで戦闘の勝敗は決まった。砲台の敵は制圧され、遊撃隊と反日部隊は市内を占拠した。正淑とともに共青宣伝隊は、市内に入り、ビラをまき、反日スローガンを高唱した。共青宣伝隊の活動ぶりについて当時の出版物は次のように報じている。

 「八道溝襲撃は既報の通りだが、時刻は23日午後10時から翌日3時半までで、遊撃隊は……壮丁団と警察を相手に激戦し……少年隊(共青宣伝隊) は、4種のビラを散布し、一方、激烈な演説をした」

 遊撃区では、八道溝市街襲撃戦闘の勝利を祝う交歓集会が開かれ、徐奎伍の「平日軍」も参加した。集会での演芸隊の公演は、正淑の指揮する合唱『決戦歌』で幕を上げた。そのころすでに、正淑は反日部隊の兵士たちと親交を深めていた。

 その日、反日部隊の一兵士と席をともにして公演を観たある抗日革命闘士は次のように回想している。

 「わたしの横で、合唱を指揮する金正淑同志を見ていた反日部隊の兵士が、あの子は遊撃隊の幹部なのかと尋ねた。区共青委員だと答えると、彼は親指を突き上げて『いまに見なさい、彼女はきっと英雄になる。万人の鑑になるに違いない』としきりに感心していた」

 1934年の春、延吉県児童団演芸隊は、金日成将軍がいる汪清に行くことになった。正淑は、将軍の前で披露する演目とその内容を一つひとつ丹念に再検討して完成し、演芸隊員の技量を一段と高めるため、熱心に練習を指導した。そして、困難な状況のなかでも小道具を新しく作ることにした。

 演芸隊が出発する日、正淑は彼らを遠くまで見送りながら、みんなは金日成将軍を慕ってお会いしたいと思うわたしたちの気持ちを抱いて汪清に行くのだ、汪清に着いたら演芸隊員全員の心をこめて、将軍に忠実な戦士としてたたかう共青員と児童団員、そして、すべての人の願いをこめて、将軍の健康を祈る熱い思いを伝えてほしい、と頼んだ。

 汪清県馬村に到着した演芸隊は、将軍の前で公演した。将軍は、演目が変わるたびに拍手を送り、踊りや歌が上手だと満足の意をあらわした。そして、公演を終えて帰るときには、今後とも勉強に励み、演芸隊の活動も立派におこなうよう励まし、40枚の赤いネッカチーフを贈った。それは、革命の代を継ぐべき児童団員への父なる愛と大きな期待がこめられた貴重な贈り物であった。
 

   遊撃区の旗手
 
 1933年の冬になると、遊撃区にたいする「討伐」攻勢はいっそう強化された。遊撃根拠地の「討伐」で惨敗を重ねてきた日本帝国主義はこの年の冬、朝鮮占領軍「間島派遣隊」と「満州国」軍、警察隊、武装自衛団など数万の兵力を繰り出して遊撃根拠地にたいする「冬期討伐」作戦を強行した。これには、迫撃砲や飛行機まで動員された。延吉県の遊撃区の「討伐」だけでも数千名の兵力が動員された。

 遊撃区を防衛することは、抗日武装闘争の拡大発展と朝鮮革命全般の継続発展にとって重要な問題であった。

 金正淑は、符岩東谷駐屯の反日人民遊撃隊とともに根拠地防御戦に参加した。正淑は、少年先鋒隊員と児童団員を率いて大人と一緒に塹壕を掘ったり、飛び交う弾雨をくぐりぬけて戦場にお湯を運んだり、ときには高地に登って敵の頭上に石を転げ落としたりした。

 革命組織は、遊撃区の人々をより安全な四方台に移動させることにした。

 1933年12月下旬、正淑は先発隊を引率して蔵財村を発った。ところが、後続の隊伍が西側の山を登っていたとき、百余名の日本軍「討伐隊」が彼らを見つけて追撃してきた。雪に覆われた登り坂で敵の追撃を受けた人々は危険にさらされた。大部分が老人や子どもを背負った婦女であったので足は遅く、背後からは敵の機関銃が火を噴き、弾丸が足もとで弾けるなか、群衆と「討伐隊」との距離はますます狭まり、全員が皆殺しになる危険が迫ってきた。この時、蔵財村西北方の鹿肺峰から突如、遊撃隊の突撃ラッパの音が響いた。金基松のラッパであった。組織から敵情監視の任務を受けて鹿肺峰を登る途中、さし迫った状況を目撃した彼は、敵の注意をそらして人々を助けようと突撃ラッパを吹いたのだった。

 突然のラッパの音に「討伐隊」は恐怖と混乱に陥ったが、やがて銃口を一斉に鹿肺峰の方に向けた。たちまち銃弾は、基松に浴びせられた。けれども基松は、場所を変えながらラッパを吹きつづけた。敵は、ラッパの音を追いながら猛射を浴びせてきた。

 基松はついに銃弾を浴びて雪の上に倒れ、そのまま二度と起き上がることはできなかった。当年12歳のあまりにも短い一生であった。

 しかし、そのとき根拠地の人々はこれを知る由もなかった。ラッパの音を聞きながら西の山を越えて中間集結地点に無事到着した人々は、遊撃隊が突撃ラッパのもとで「討伐隊」を撃退したものとばかり思っていた。先に到着した人々とともに集結地点に来ていた正淑は、後から着いた人々のためにたき火をたいたり、宿営の準備をしたりしながらも、弟がみんなを救い、吹雪の荒れ狂う山頂に倒れていようとは夢にも思わなかった。

 基松の遺体は、敵地から帰路についた婦女会の活動家によって発見された。彼女は、正淑とともに遊撃区に来て同宿していた活動家であった。彼女は鹿肺峰にたどりついた時、クヌギの木の下にラッパを握った少年が倒れているのを発見した。赤いネッカチーフが風に揺れ、背のうには2本のこん棒が垂れていた。その少年が正淑の弟であることを確認した瞬間、彼女の胸は張り裂けんばかりであった。

 「なんということに……お姉さんが知ったら……ああ、基松……」

 彼女は、あまりの悲痛さにむせび泣いた。彼女は、ふもとの風の静かな場所を選んで雪をかきわけ、枯れ葉を敷きつめて遺体を葬ってから宿営地に向かった。

 それまで眠れずにいた正淑が彼女を出迎えた。だが、彼女は、正淑と視線が合うと涙が出そうで目をそむけるのだった。そして、横になってからも、こみあげる涙を抑えようと唇をかんだ。その夜、彼女はついに基松の死を口に出すことができず、もんもんと夜を明かした。

 基松の訃報は、革命組織に伝えられ、遺体はすぐ宿営地に移された。

 革命組織は、基松の追悼会を準備し、正淑に弟の戦死を知らせた。

 思いもよらぬ知らせに、正淑は、天が崩れ落ちたかのように動転した。数々の痛恨事にあっても互いに頼り合い、励まし合ってともにたたかってきた弟だったのに……。

 宿営地では、遊撃隊員と人民、児童団員の参加のもとに基松の追悼式が執りおこなわれた。

 基松の英雄的偉勲が語られ、復讐を誓う追悼の辞が述べられたのち、正淑が弟の遺体の前に立った。

 「基松は、わたしの弟である前に革命の同志でした。わたしたち姉弟は、日本帝国主義侵略者のために両親を失い、家族、親類とも離ればなれになり、生死すらわからないのです。しかし、わたしたち姉弟は、祖国を解放して故郷へ帰り、離別した親類と再会する日を思い描いてあらゆる難関と悲しみを乗り越えてきました。わたしは、基松があれほど行きたがっていた祖国の地を一度でも踏んでいたなら、こんなに悲しむことはないでしょう」

 会葬者一同は涙を抑えることができなかった。

 正淑は言葉をつづけた。

 「基松は犠牲になったが、敵の『討伐』から救われた十名、百名の基松が革命のために、祖国の解放のために基松の分まで戦うでしょうし、解放された祖国に帰る日は必ず来るでしょう」

 数日後、正淑は、弟が命をなげうって救った人々を引率して四方台に向かった。

 四方台というのは、登りつめれば四方が見渡せるという意味でつけられた山の名前である。「討伐」を防ぐには、きわめて有利な天然の要害で、山小屋一つない深山幽谷であった。そういうところに、県内の各遊撃区から一挙に数百名の人が集結したので、住むところはおろか食糧もなかった。なかには悲観する人もいた。

 正淑は共青員と一緒に、そこここに寄り集まって途方にくれている人々を訪ねては、たき火をたいて宣伝活動をおこない、児童団員による演芸を披露したりした。気を落として溜息ばかりついている人々と席をともにした正淑は、こんこんと説いて聞かせた。

 ──積極的に革命というものは苦難をともなうものです。わたしたちは、ここに来るまでずいぶん苦しい思いをしてきました。日本侵略軍の銃剣に倒れ、飢餓にさいなまれながらも奪われた祖国を取り戻そうという一念でまた立ち上がり、死線を越えて戦ってきたのに、ここで気を落としてよいものでしょうか。わたしたちが心を合わせ力を合わせれば、必ず生きる道は開かれるはずです。

 熱のこもった正淑の言葉は、人々に新たな決意を抱かせ、苦難を乗り越える力を与えた。

 正淑は、自身の悲しみや苦しみは胸にしまい、四方台に集まった人々の食糧調達に心を砕いた。みんなで雪のなかから枯れた山菜や草の根を掘り、松の実を拾い集めた。また、共青員を率いて何回となく敵地へ行って食糧を求めてきた。

 正淑は、半遊撃区の赤岩洞にも足をのばした。そこには2年前に結成された組織があったが、それを頼って敵地にひとしいところに行くというのは冒険だった。しかし、正淑は、四方台の人々の食糧難を解決したいという一念で赤岩洞へ行き、多くの食糧を手に入れてきた。四方台に集結した人々がこの冬を無事に過ごすことができたのは、正淑のこうした努力に負うところが大きかった。

 1934年に入り、日本軍の「冬期討伐作戦」を粉砕せよとの金日成将軍の指示が緊急伝達され、それに従って敵背奇襲作戦が展開されることになった。そのとき、正淑は敵地に派遣される小部隊に加わり、道案内をかねて斥候、偵察の役割を果たすことになった。

 小部隊が九道溝に進出した時、正淑はいちはやく敵の軍需物資の輸送状況に関する情報を探知して報告した。この情報によって遊撃隊は、伏兵戦を展開し、物資輸送に動員されていた「自衛団」員を生け捕りにし、牛車十余台分の軍需物資を奪取することができた。同時に敵の「討伐」拠点の一つである八道溝にたいする綿密な偵察によって警察分署の襲撃を成功させた。また、北禿橋峰一帯で数カ所の集落の「自衛団」の動静を探知して、遊撃隊が一挙に敵を襲撃して多量の武器と弾薬を獲得できるようにした。

 その年の3月、金日成将軍により、反日人民遊撃隊は朝鮮人民革命軍に改編された。
この措置によって、各県に組織されていた遊撃部隊は、一つの統一的な軍事組織系統に包括され、より大規模な遊撃活動が展開できる革命武力に強化された。

 正淑は、遊撃区の人民にこの改編がもつ意義を広範に宣伝し、それを祝う行事の際には、さまざまの重要なスケジュールを立派にこなした。行事をひかえて、昼は児童団員の分列行進の練習を指導し、夕方には演芸隊の公演指導にあたり、夜はまた寝もやらず講演テキストの作成に熱中した。

 こうして4月、延吉県三道湾遊撃区の能芝営で慶祝行事がおこなわれたとき、児童団員の分列行進と演芸公演、そして、「祖国の解放をめざす輝かしい闘争」という演題の講演は軍民の拍手喝采を博した。この日々、休む暇もなくひたすら革命活動に専心する正淑の姿を目にした県の幹部と人々は、「革命のためにこの世に生まれた人」だと称賛してやまなかった。

 実に金正淑は、革命のために身をなげうって根拠地の活動に一意専心した遊撃区の旗手であった。
 

   かなえられた願い
 

 金正淑は1934年の秋、三道湾能芝営の延吉県共青委員会に召還された。

 失望と悲観を知らず、いつも生気に満ちあふれ、児童団員には姉のように、根拠地の人々には娘のようにやさしくしながらも、敵にたいしては秋霜を思わせるうら若い共青委員を八区地域では知らない人がいなかった。2年あまりの共青生活、特に、八区共青委員としての正淑の活動は、革命任務にたいする強い責任感と限りない献身さ、巧みなオルグ・アジテーターとしての能力と革命家的品性によって、人々の信頼と尊敬の念を集めた。これは、より広い範囲における青年活動も立派にこなせるということを示していた。

 正淑は県共青委員会で、主に内務と敵地の共青組織との活動を担当することになった。

 当時、東満州の各遊撃区では、排外主義者と分派・事大主義者による極左的な反「民生団」闘争の旋風が吹き荒れていた。彼らは金日成将軍が北満州遠征中のすきに乗じて、真の朝鮮の革命家に「民生団」のレッテルを張って、迫害し、殺害する惨劇を演じていた。

 三道湾能芝営では、李相黙が極左的な反「民生団」闘争に熱を上げていた。彼は、夜通し立哨勤務を務めた人が家に帰りながらおなかがすいたと言ったからと「民生団」、炊事隊員がご飯を焦がしたからと「民生団」、「民生団」容疑者を同情したからと「民生団」と、むやみに「民生団」の烙印を押していた。

 人々は、誰を信じればよいのかわからず、また、いついかなる災いを被るか知れず不安と恐怖におののいていた。「民生団」容疑者として監房に閉じ込められた人のなかには、正淑が八区のころからよく知っている県党責任者の具命福、勇敢で原則に徹した遊撃隊指揮官の金東求もいた。

 正淑は、彼らが決して「民生団」であるはずはないと信じ、この反「民生団」闘争が不純分子の策略によるものだと当初から感じとっていた。正淑はすでに前年の春、誤った反「民生団」闘争に真っ向から反対してたたかった経験をもっていた。そのとき、符岩地区では、「民生団」を裁く大衆集会があった。「民生団」として処刑される破目になったのは、早くから女性共青員として立派に活動していた崔希淑であった。容疑の根拠は、遊撃区での生活が苦しいと「不平」をもらしたというものであった。彼女が決して「民生団」でないことは誰もが知っていたが、巻きぞえになるのを恐れてみなおし黙っていた。

 そのとき、正淑が決然と演壇に立って彼女を弁護した。

 ──崔希淑同志は、革命に限りなく忠実なんだと思う。言葉一つを聞いて革命同志を「民生団」だと断言することはできない。もし、わたしたちが革命に忠実な人たちに「民生団」のレッテルを張って亡き者にするならば、喜ぶのは敵しかないはずだ。

 すると、大衆が一斉に呼応した。審判席に座っていた排外主義者はそれ以上どうすることもできず、崔希淑を無罪にせざるをえなかった。その後、彼女が朝鮮人民革命軍の隊員として立派にたたかい、敵に逮捕されて両眼を奪われながらも「革命の勝利が見える!」と叫んで朝鮮の革命家の不屈の意志と革命的節操を守り抜いたことは、周知の事実である。

 それが、一年過ぎたいまになって事態はさらに深刻になってきた。いかなる理路整然たる弁護や有力な証拠も無用であった。「民生団」容疑者を少しでも擁護したり援助したりすれば、直ちに「民生団」として処刑される有様であった。

 しかし正淑は、真の革命家に「民生団」の濡れ衣を着せて殺害し、革命隊伍に不信と恐怖の雰囲気をかもし出しているのを黙視するに忍びなかった。

 正淑は、排外主義者が東溝反日自衛隊員を「民生団」連累者と決めつけたことを知り、ためらうことなく彼らを訪ねた。そして、悲観と不安にかられている彼らに、絶対に屈服せず、朝鮮の革命家らしく革命的原則と立場を守るよう力と勇気を与えた。これは、排外主義者と分派・事大主義者の忌諱に触れざるをえなかった。ある者は、正淑が反日自衛隊を訪ねたことを偏狭な民族主義のあらわれだと決めつけ、二度と彼らのところへ行くなと脅しつけた。

 けれども正淑は、共青活動家である自分がなぜ青年を遠ざけなければならないのか、同じ朝鮮人だからと、彼らに近づくのを「偏狭な民族主義者」だというなら、そう見る者こそ偏見にとらわれた偏狭者であり、ひたすら革命に志す一念に燃えて勇敢にたたかっている彼らが信頼できないというなら、誰が信頼できるのか、と鋭く切り返した。

 排外主義者と分派・事大主義者は、さらに神経をとがらせ、さ細な欠点でも見つけようと、正淑に監視の目を光らせた。しかし彼らも、一挙一動に非の打ちどころがなく、大衆の厚い愛と信望を受けている正淑だけには、むやみに「民生団」の嫌疑をかけることはできなかった。

 正淑は、何はばかることなく、共青員に極左的な反「民生団」闘争の危険性を説き、彼らの策動に警戒心を強めるよう強調した。そういう共青員のなかには、県共青幹部の全姫や県党通信処に勤めていた李貞仁もいた。正淑は、李貞仁とともに毎日のように監視の目を盗み、「民生団」容疑者として「監房」に閉じ込められている同志たちに食べ物や必要な薬品を差し入れた。そのかいあって、「監房」の同志たちは、飢え死にや病死の危険から救われた。彼らは、見つかれば間違いなく「民生団」として処刑される危険なことを誰がしているのか、最初は知らなかった。それがわかったのは、「討伐隊」が三道湾に押し入ってきた日のことであった。

 その日、正淑は李貞仁とともに、遊撃隊員の昼食の支度をしていた。昼食は、キノコを入れて炊いた粟のかゆであった。かゆが煮えたとき突然、「討伐隊」の銃声が聞こえてきた。遊撃隊員は急いで山に登り、敵は谷と尾根づたいに押し寄せてきた。状況を確かめた正淑は、すばやく草で巻輪を作り、熱いかゆの釜を頭にのせて山へ登った。李貞仁も小さな釜を持ち上げて正淑の後につづいた。

 これを目にした敵は、銃を乱射しながら追跡してきた。敵弾が耳もとをかすめて足もとに突き刺さった。釜からはもうもうと湯気が立ちのぼった。たまりかねた李貞仁は、いったん釜をおろして待避し、後で取りにこようと叫んだ。しかし正淑は、釜を頭にのせたまま振り返り、「貞仁さん、もう少し頑張りましょう。そうしたら同志たちを飢えさせなくてすむのよ」と言って、とうとう山頂まで登りつめた。

 数人の人が走り寄って釜をおろした。彼らは「監房」に閉じ込められていた「民生団」容疑者たちであった。「監房」の鍵を持っていた李相黙が逃げ出したので、彼らは戸を押し破り、遊撃隊が戦っている高地に登ってきたのであった。彼らは、敵に石を転げ落としながら遊撃隊員とともに勇敢に戦った。とうとう敵は撃退された。正淑は、鉢に移したかゆを遊撃隊員に一杯ずつついでまわった。かゆからは、まだ熱い湯気が立っていた。ところが、「監房」を破って出てきた人たちは、こそこそとその場から遠ざかるのだった。

 「みんなここに来て熱いかゆを召し上がってください。持ってきたおかゆを受けずにどうして避けるのですか」

 正淑のこの言葉に彼らは足を止めたが、誰か見てはいまいかとあたりを見回してこう言うのだった。

 「一杯のかゆのために、あなたたちまでも『民生団』にされたら、それだけ革命を損なうことになるので止めてください。……わたしたちは、あなたたちのその誠意を革命の糧にして、どんな苦痛にも耐えていきます」

 正淑は、みなさんは絶対に「民生団」であるはずはない、いまに将軍がこの重大な事態を正してくれるはずだ、だから信念をまげずにあくまで革命をつづけることを考えるべきだ、と言っておかゆの器を一人ひとりの手に持たせた。

 そのときになって初めて、彼らは毎日のように危険をおかして励ましの手を差し伸べてくれた人が、ほかならぬ正淑であることを知ったのである。

 おかゆの器を手にした彼らは驚いた。熱い釜のせいで、正淑の髪の毛は半分以上も焦げ縮れていたのである。

 正淑のこうした犠牲的な努力さえも、「民生団」容疑者を完全に救うことはできなかった。共青満州省委の巡視員という肩書きの排外主義者が能芝営にあらわれた1935年1月、遊撃隊の指揮官である金東求をはじめ数名が無残に殺されてしまったのである。彼らは、「朝鮮革命万歳!」を叫んで最期を遂げた。

 正淑は、無念にも濡れ衣を着せられ、命を失った革命同志を救うことができなかった悔しさに身もだえした。呪わしい排外主義者と分派・事大主義者の極端な反革命的罪業を阻止できないものか。

 正淑は、将軍が朝鮮革命を危機から救ってくれる日を指折り数えながら待った。

 当時、遊撃隊病院の軍医であった林春秋は、回想記にこう記している。

 「……金正淑同志は、いっそう切々たる声で……この革命の難局を打開して極左的な反『民生団』闘争を正してくれる方は、朝鮮革命の英明な指導者、金日成将軍しかいないのに、将軍は、いま、どこにおられるのでしょう、こんなにひどい事態をご存知なのだろうか、……と言って涙ぐむのであった。
 私も心の中で泣いた。
 偉大な金日成同志!
 寝ても覚めても心のなかで呼びつづけてきたその尊名は、実に、『民生団』の狂風に縮み上がって不安な日々を送っていた我々革命家にとって唯一の救いの星であり、よりどころであり、希望であり、勝利の象徴であった」

 北満州遠征から帰ってきた金日成将軍がついに、1935年2月の大荒崴会議で反「民生団」闘争の反革命的本質を明らかにし、その悪影響を払拭するための,闘争を進めているという知らせが三道湾能芝営に飛んできた。

 数日後、正淑の切々たる宿望がかなえられる日がきた。それまで日ごと思い描いてきた金日成将軍が3月のある日、三道湾能芝営を訪れたのである。

 将軍にまみえた瞬間、正淑は感激の涙にくれた。

 正淑は、将軍が能芝営で招集した県党書記処活動家の会議に参加した。

 春の日差しのように温かい微笑、排外主義者と分派・事大主義者に向けられるときの鋭い眼光、天に響きわたるような声、将軍を仰ぐ正淑の胸は高鳴った。

 会議で、三道湾遊撃区での反「民生団」闘争の極左的な誤りを具体的に質した将軍は、革命に甚大な損失を及ぼした排外主義者と分派・事大主義者の犯罪行為をあばき、以後の反「民生団」闘争において守るべき原則と方途を示した。将軍の教えは、人々のうっぷんを晴らし、彼らに信念と力を与えた。

 悲しいときも苦しいときも、将軍にまみえてその教えを請いたかった正淑は、その願いがかなえられて限りない幸福感にひたった。そして会議が終わると、その経緯を知りたがる人々に将軍の教えを伝えた。

 将軍が訪れた日から、三道湾をはじめ、県内の遊撃区の軍民は、再生の歓喜にわき立った。「民生団」の濡れ衣を着せられて閉じ込められていた人々は解放され、家族や親友と抱き合って喜んだ。

 将軍が能芝営を発った日の夜、正淑は同志たちにこう言うのだった。

「ほんとうに偉大な方です。……
 わたしは、いつどこにあっても、ひたすら金日成将軍のみを信じてたたかう決心です。一日生きても千年生きても、永遠に将軍の革命戦士らしく生き、勇敢にたたかいます!」

 

    車廠子で
 
 金正淑は1935年3月、安図県車廠子へ行った。

 日本軍の狂気じみた「囲攻作戦」に対処し、白頭山の原生林地帯へとつながる車廠子に新しい遊撃区が生まれたのは1934年であった。

 正淑は、老人や病弱者、子どもを連れ、いちばん最後に三道湾を発った。80キロ余りの道を歩いて車廠子に着いた3月20日ごろには、すでに人民革命政府機関や遊撃隊の兵舎、児童団学校、病院、兵器修理所、縫製所などが設けられていた。

 正淑は、連隊指揮部に居を定め、炊事隊の仕事をしながら遊撃区の共青組織の指導にあたることになった。

 当時、車廠子遊撃区の状況は困難をきわめていた。急に各地から千人以上の群衆が集まってきたうえに、敵の絶えまない「討伐」攻勢と「封鎖」策動によって根拠地は厳しい食糧難に見舞われていた。そのうえ、隊伍のなかに潜り込んでいた謀略分子と革命の裏切り者が車廠子の人たちを飢餓に追い込もうとやっきになっていた。

 部隊が遠征に出るとき遊撃区の人々のために少なからぬ資金を預けていったが、責任ある地位にいた排外主義者はそれを活用せず私欲を満たしていた。この排外主義者は、敵地の住民はもちろん、革命組織のメンバーまで「民生団」の連累者扱いにし、彼らとの連係を一切断ち切った。そのため根拠地には、一粒の穀物も入らなくなった。内外の敵の策動により、車廠子は餓死寸前の飢饉地帯になりつつあった。

 遊撃隊員が犠牲を払って手に入れてきた食糧は、必要に比べあまりにも少量であったため、家ごとにさじで分け与えるありさまであった。人々は、早春とはいえまだ解けない雪のなかから草の根を掘り、ドングリを拾い、木皮や枯れた山ブドウの芽などで飢えをしのいだ。塩もなく枯れた山ブドウの芽を煮て食べると、のどから血が出たりした。しかし、それさえも不足した。食糧問題を解決するか否かは、遊撃区の存亡にかかわる危急の問題であった。

 正淑は、根拠地にさし迫ったこの厳しい試練を乗り越えるための仕事に身を挺した。翌日から、共青組織の責任者と児童団の指導員を立ち上がらせて組織を立て直し、散り散りになっていた共青員と児童団員を組織に結束して、この試練を克服するため大衆の先頭に立たせた。

 正淑は、児童団の宿舎を設け、四方に散っていた児童団員に勉強させ、組織生活もできるようにしようと力を尽くした。

 正淑は、児童局長にこう言った。

 ──いま車廠子遊撃区がとても苦しい状態にあるのは確かです。だからといって、児童団活動に関する問題を誰かに解決してもらおうと待っているわけにはいかないではありませんか。……わたしたちは自力ですべての問題を解決していきながら、児童団員を革命の後続隊にたくましく育てるようにとの金日成将軍のお言葉を実行すべきです。

 また、県政府の幹部たちには、児童団の宿舎を設ける問題を提起しながら、犠牲になった同志たちの子どもは毎晩わらくずのなかにうずくまって寒さに震えながら親をしのんで泣いているではないか、わたしたちがあの子どもたちの親代わりになって面倒をみてやるべきではないか、と訴えた。

 正淑の努力により、飢饉の地、車廠子には、児童団員の本を読む声と歌声が響くようになり、それは車廠子の人々に革命の勝利と明日への明るい希望と信念を抱かせた。

 車廠子遊撃区に春が来た。山々の雪も谷間の氷も解けはじめ、若草が芽生えてきた。しかし、車廠子の人々は飢饉から逃れることはできなかった。春の種まきをしなければならないのに、人々は気力尽きて立ち上がれないほどだった。倒れた人を立ち上がらせようと走り回っていた共青員も、それ以上動く気力がなくなって座り込んでしまった。

 正淑は彼らに訴えた。

 「青年前衛のわたしたち共青員が立ち上がれなかったら、飢えて倒れた車廠子の人たちの運命はどうなるというのですか。立ち上がらなければなりません。わたしたちが立ち上がれば車廠子の革命大衆を奮い起こし、革命をおし進めることができるのです。共青員がへたばりこんでしまえば、根拠地の人たちはみんな飢え死にしてしまいます」

 正淑の呼びかけにこたえて共青員たちは播種隊を組織し、種まきにとりかかった。一方、正淑は家ごとに訪ね回り、草を食べながらでも種まきをしなければならない、そうしてこそ、遊撃根拠地を守り、敵を倒すことができる、みんな立ち上がって頑張ろう、と呼びかけた。

 根拠地の人々は歯を食いしばり、共青播種隊と一一緒に畑に出て種をまいた。ところが一夜が過ぎると、まきつけをした畑が全部掘り返されていた。遊撃区に潜入していた謀略分子の仕業であった。空き腹をかかえ遣うようにして種をまいた人たちは、あっけに取られて座り込んでしまった。

 この光景を見た正淑は言った。

 「今日の種まきは、文字どおり敵との厳しいたたかいです。車廠子でのこの種まきは、単に生きのびるためのものではなく、日本帝国主義侵略者を打ち破り、祖国の解放をなし遂げるか、さもなければ日本帝国主義に踏みにじられて永遠に植民地奴隷になるかという深刻なたたかいなのです」

 そして彼らに、将軍とともに解放された祖国に帰る日を思い浮かべよう、その時にはわたしたちが車廠子で苦労したことが昔話になるだろう、と言って、根拠地の人々を種まき作業に立ち上がらせた。

 人々は立つで歩く気力すらなくて、うねまを遣うようにして種をまいた。なかには、うねまに倒れてそのまま息を引きとる人もいた。やがて作物が芽生え、畑には麦、ジャガイモ、粟が青々と育った。しかし、それが実るまでにはまだ多くの時間を要した。飢饉は極点に達し、人々は蛙はもちろんその卵まで食べつくした。飢え死にする人が増えてきた。

 しかし、遊撃区の幹部職についていた排外主義者は、食糧問題の解決をはかろうとはせず、敵地との障壁をいっそう高くし、ありもしない「民生団」の探索に狂奔していた。彼らは、遊撃区の糧食課長を務めていた李成学が敵地へ行って食糧を求めてくると言ったからと、「民生団」扱いにして迫害した。

 正淑は、意気消沈して仕事に手をつけようとしない彼を訪ねて、絶対に排外主義者の脅しに屈してはならず、金日成将軍のみを信じて革命のために働かなければならないと力づけた。その言葉に励まされた糧食課長は、最後の一握りの穀物まで遊撃区の人たちに分けてやり、自分は草の根で飢えをしのいで働きつづけ、とうとう餓死してしまった。

 もう彼に「民生団」のレッテルを張りつけることができなくなった排外主義者は、今度は、餓死した彼を「民生団」が殺したと触れ回り、「民生団」を捜し出さねばならないと騒ぎ立てた。しまいには、自分たちの罪業があばきだされる危険にさらされると、それを知っている車廠子人民革命政府のメンバー2人を「民生団」と決めつけて殺害する蛮行まで働いた。

 遊撃区にたいする日本軍の封鎖と「討伐」攻勢は、日に日に強化されていた。実に、車廠子遊撃区は、内外の敵の策動により、想像を絶する飢饉地帯と化した。ネズミや蛇の1匹もいなくなり、草さえ残らなくなった。

 車廠子での苦難を体験した抗日革命闘士の白鶴林は、後日、次のように語っている。

 「抗日戦争期に車廠子の人たちが体験した惨状を知らずに、いかなる生活難についてもあえて口にしてはならない。車廠子の軍民が、封鎖のなかでどのように飢餓と寒さ、敵の『討伐』にうちかったかを知らずには、いかなる困難克服についてもあえて自慢してはならない!」

 当時、車廠子の人たちに、ほかに道がなかったわけではない。峠を一つか二つ越えれば、食べ物も着る物もある敵地があった。敵は、遊撃区を捨てて来れば楽な生活を保障すると宣伝していた。

 しかし、車廠子の人たちは、飢えで倒れながらも、排外主義者に謀られ迫害されながらも、試練の地、飢饉の地を離れなかった。倒れても遊撃区に倒れ、死んでも遊撃区で果てた。

 3年そこそこの短い年月ではあったが、車廠子の人たちは、金日成将軍によってもたらされた人民の新しい世界、日本帝国主義者と地主、資本家のいない自由の世界があまりにも貴かったため、遊撃区の空に翻る赤旗があまりにも貴く、その赤旗をひるがえして金日成将軍とともに解放された祖国に帰る勝利の日が必ず来るという信念があったため、倒れても、息絶えながらも遊撃区の土を抱きしめていたのである。

 正淑は、畑の麦が青々と育つと、その葉を手にして家ごとに訪ね回り、ご覧なさい、もう麦がこんなに育ったのですよ、と言って力を与え、表の穂が出ると、それを見せながら、もう少し辛抱すれば脱穀できるから頑張ろう、と励ました。そのたびに、倒れていた根拠地の人たちは力を奮い起こして立ち上がったのである。

 共青員も児童団員も、いつも確信に満ちている正淑を見て力づけられた。

 ある日の晩、人民革命軍の兵舎の前で児童団演芸隊の公演があった。そのとき、『総動員歌』をうたいながら踊っていた一番幼い少女が倒れた。飢餓は、少女の最後の気力まで奪ってしまったのである。歌声はやみ、団員たちはあわてた。観覧していた遊撃隊員と人々は総立ちになった。

 正淑が走り寄って少女を抱き起こした。すると、少女は、涙やうめき声は出さず、どす黒くなった唇をふるわせながらまたうたいはじめた。

  進め進めいざ戦いに
  勇気をふるい前へ進め
  ……

 遊撃隊員と人々は、涙を流しながら少女と一緒にうたった。歌声は夜空に響きわたり、車廠子の人々の胸に悲壮な決死の覚悟を植えつけた。

 正淑は、飢餓と疲労でほとんど目が見えなくなったとき、どうか床について休むようにと勧める同志たちに、「それでは、誰がご飯を炊き、維がたき木を拾い、誰が歩哨に立ち、誰が戦うというのですか」と言った。

 ある日、連隊本部では、食糧難の打開策を討議するための党、共青および朝鮮人民革命軍指揮官、人民革命政府の幹部会議が開かれた。多くの人は敵地の地下革命組織と連携して食糧を求めるべきだと提起したが、排外主義者たちはまたも、敵地の地下組織のメンバーはほとんどが「民生団」の連累者であるから、絶対に彼らと手を結んではならないと、あたまからはねつけた。

 もう彼らの詭弁に我慢しきれなくなった正淑は、席から立ち上がり、現状のもとでは敵地に行かずに食糧を解決する方法はない、敵地の地下組織と連携して食糧工作をしようというのに、敵地の地下組織のメンバーはほとんどが「民生団」の連累者だから彼らとは手を結べないと言うのは革命同志を信頼しない誤った態度であり、事実上、革命を放棄するのも同然だ、……わたしたちは敵地でたたかっている地下組織のメンバーを信頼して彼らと手を結び、食糧問題を解決すべきだ、と反論した。

 正淑の理路整然とした主張に多くの人が共感を示すと、排外主義者はそれ以上、反論することができなくなった。こうして、遊撃区から小部隊が敵地に派遣され、地下組織との連携のもとに少なからぬ食糧を手に入れることができた。

 そうなるほど、隊伍内の革命の裏切り者の策動はいっそう悪辣さを増した。

 金日成将軍がよこした派遣員たち(そのなかには趙東旭もいた)によって車廠子根拠地の事態が収拾されはじめ、趙東旭によって彼らの悪業があばきだされるようになると、排外主義者は彼を暗殺する悪だくみを企てた。

 以前から警戒心を高めて彼らの動静を注視していた正淑は、すばやく趙東旭を脱出させて危難を免れさせた。

 祖国が解放された後、金日成主席は、あのとき正淑がいなかったら趙東旭は生きては帰れなかっただろう、自分を犠牲にする覚悟ができていない人には革命同志を危機から救い出すことができない、と感慨深く述懐している。

 正淑は、大胆に敵地工作に身を投じた。

 ある日、正淑は、国内の革命組織と人民が朝鮮人民革命軍の国内進出と遊撃区との連係確保を待ち焦がれていることを耳にした。

 敵地工作をそれ以上先へ延ばすことはできないと思った正淑は、それを革命組織に強く提起した。

 組織では、正淑と私服姿で武器を携帯した4人の隊員で編成した政治工作班を国内に派遣した。

 正淑は行く先々で、朝鮮人民革命軍の戦果を伝えて人民に勝利の確信を抱かせ、組織との連係が絶えて苦慮していた人々に連絡ルートをつけてやった。そして、大量の遊撃隊支援物資も確保した。

 正淑が参加した政治工作班の活動について、当時のある出版物は次のように報じている。

 「去る4日未明、咸北富寧郡下に○○団員が侵入せしことは既報の如きことなれば、犯人の行方は未だ不明して、所管富寧では、石幕駅前に捜査本部を設けて活動しているところ……今回の事件は現地で詳細に調査したところ、その日未明に現れた彼らの行動は大胆不敵であり……人命に何らの加害なく金の指輪、衣類、布地、その他物品約百余円相当分を持ち去りながら少しも慌てることなく、また来る日(7、8日)を指示し立ち去った」

 この資料は、敵の耳目を石幕付近に集中させて政治工作班の安全かつ幅広い活動を保障するために正淑が展関した陽動作戦の一端を示すものである。

 正淑は、仲坪村の人たちが真心を込めて準備した支援物資を持って撤収する際に、7、8日ごろにまた来ると駐在所に知らせるようにしたのであった。こうして政治工作班は、敵が仲坪村で捜査陣を張って7、8日ごろまで待機して間に、他の地域で政治工作を進めて無事もどることができた。

 その年の夏、車廠子遊撃区には、将軍の指示により汪清で活動していた中隊が帰ってきた。そのなかには呉仲洽もいた。

 正淑は呉仲洽から、将軍が苦難にみちた第1次北満州遠征の道すがら作った『反日戦歌』を聞かせてもらった。

 その歌は、困難をきわめた北満州遠征の帰路、将軍が敵の追撃と包囲のなかで傷寒のためもうろうとする意識を取り戻し、最期を覚悟した隊員たちを奮い立たせるためにうたったものであった。

 正淑は、この歌を共青員たちに熱心に教えた。数日後には、車廠子のすべての人がこの歌をうたえるようになった。百度倒れれば百度立ち上がってでも日本帝国主義との決戦に奮い立とうというこの戦いの歌をうたいながら、車廠子の人たちは、最後の試練を乗り越えた。車廠子の畑に穀物が実った。試練を乗り越えた車廠子の人たちの顔に喜びの色が浮かんだ。

 車廠子での日々、正淑と一緒にいた金明花の回想談は、今日も朝鮮人民の胸を熱くしている。

 ある日の朝、おかゆで飢えをしのいだ遊撃隊員たちを「討伐隊」との戦いに送り出した正淑は、夕食もまたおかゆにしなければならないことに胸を痛めた。背のうをはたいてみると、少量の小麦粉が残っていた。それで別の夕食をこしらえようと思った正淑は、金明花と一緒に山に登って松の甘皮をむきとり、それをつぶし、小麦粉と混ぜてもちをつくった。もちが出来上がった時はもう夕暮れだった。このもちは、松の甘皮を煮こんだ薄いかゆで食いつないでいた車廠子ではまれに見るごちそうだった。帰隊して思いもよらぬごちそうにありついた遊撃隊員たちの喜びようはひとかたならぬものだった。

 正淑は、金明花と一緒に炊事場の戸口に立ち、おいしそうに食事をとる遊撃隊員たちを見つめた。日がな一日、座るひまもなく、もちをつくるために立ち働いた疲労も忘れたかのようであった。

 食事が終わりかけた時、正淑は炊事場に駆けこみ、自分の分として残しておいたもちを持ってきて隊員たちに配ろうとした。指揮官たちは受け取ろうとしなかったが、正淑は、これは余分に残しておいたものだと言って一つも残さず隊員たちに配った。金明花の分も同じように隊員たちに配られた。こうしてその晩、二人は手製のもちを味わうことなく寝床についた。

 青い月の光が差し込む窓を眺めながら、二人はなかなか寝つかれなかった。

 「正淑さん、おなかすいたでしょう?」

 正淑が静かに答えた。

 「みんなが喜ぶのを見て、おなかがすいたことを忘れてしまいました。食べなくてはおなかが一杯にならないというものではないようです。みんながあんなに喜んでくれるなら、わたしはいくらでも我慢できます」

 解放後のある日、金明花はその晩のことが思い出され、平壌のカルゲ市場で松の甘皮でつくったもちをどっさり買って正淑を訪ねた。正淑は、たいへん喜んで早速、豆腐汁をこしらえた。けれどもその日、正淑はもちを一つも口にすることができなかった。苦難と試練に満ちた車廠子根拠地での生活と、草の根さえなくて倒れた車廠子の人たち、そして、革命の勝利を見られず早世した戦友たちを思って胸がつまってしまったのである。




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