『金正淑伝』
 
1 受難のなかでの成長


  幼少期

 金正淑はチュチェ6(1917)年12月24日、咸鏡北道会寧郡会寧面鰲山洞(現在の会寧市東明洞)の貧しい農家に、金春山と呉氏の次女として生まれた。

 地主の苛酷な搾取と虐待に耐えかねて各地を転々としていたこの一家が会寧に移り住んだのは、祖父の代の1895年ごろであった。一家はここでも小作人として細々と暮らした。さらに、祖父の死後、一家の柱だった父が独立運動に身を投じて家を空けることが多かったため、暮らしはいっそう苦しくなり、借財はふくらむばかりだった。

 正淑が生まれるころには、借金が返済できず地主に小作地を取り上げられたうえに粗末なわらぶきの家まで取り壊され、鰲山徳の他人の家に間借りしなければならなくなった。ひと冬を過ごした後、父は間借りしている家にもう一部屋建て増しした。正淑はこの家で呱々の声を上げたのである。

 当時、朝鮮を占領した日本帝国主義は、暴虐な「武断統治」を実施し、無事の人民をむやみやたらに撃ち、殺し、焼き殺し、生き埋めにするという蛮行を働いた。朝鮮民族は甚大な災難と苦痛にさいなまれ、全土は巨大な監獄と化した。亡国を痛嘆する人民の声が巷にあふれ、山河は同胞の血に染められた。朝鮮人民は、日本帝国主義の銃剣に立ち向かって敢然と立ち上がった。

 この民族受難の時期、正淑一家も日本帝国主義侵略者に抗して勇敢にたたかった。

 祖父は、早くから封建支配層に抗する農民蜂起に参加した愛国者であったが、志ならず1908年に他界した。

 父は、早くから豆満江を渡って反日独立運動を起こした愛国者であったが、1929年に異郷でその生涯を閉じた。

 母は、夫の愛国闘争を助けながら、子女を愛国者、革命闘士に育てたが、1932年7月に日本侵略軍の「討伐」の犠牲となった。

 兄の金基俊は、有能な地下工作員で、金日成将軍の主体的な革命路線の貫徹に身を投じたが、1934年に敵の手にかかって殺害された。

 弟の金基松もやはり将軍に忠実な児童団員で、祖国解放のために命を投げだした幼い革命闘士である。

 こうした愛国的で革命的な家庭が、正淑をして早くから偉大な革命家に成長させたのである。

 正淑は、幼年期の初めを会寧で過ごした。会寧は、昔から住みよい美しい土地として知られていた。しかし、正淑には、思う存分に遊び、楽しんだ幼年時代というものはなかった。最初に手にしたのは、母の汗がしみこんだホミ(草取り鎌)であり、最初に習ったのはままごとではなく、草取りや山菜摘み、落ち穂拾いであった。

 母は貧しい暮らしのなかにあっても、人間は義理がたくまじめに生きねばならないと常々、わが子に説いていた。

 正淑は幼いころから、自分のことより父母、兄弟のこと、隣人のことを先に考えるのがつねだった。

 ある日、野良仕事に出た母の手助けにと水汲みをしたとき、つい道端の石につまずき、陶製の器を割ってしまった。その陶器は、母が嫁いできたときに持参したものだった。思いあぐねた末、正淑は数日後、村の近くにある土器店(焼き物屋)を訪ねた。そこでは、土窯から土器を取り出す日には入手が足りないために村の女手を臨時に雇い、手間賃代わりに土器をくれるからだった。けれども、正淑は幼過ぎて仕事をさせてもらえなかった。

 がっかりして踵を返そうとした正淑に、むずかる乳飲み子をおぶったまま仕事に追われる婦人の姿が目にとまった。正淑は、すぐさま乳飲み子を抱き取り、仕事が終わるまで子守をしてあげた。仕事が終わると、土器店の主人は女手たちに土器をいくつか分け与えた。その母親は正淑のところに来てわが子を抱き取ると、「おかげで助かったわ。本当にいい子ね」とねぎらい、手間賃としてもらった土器の一つを正淑の手に持たせた。正淑はびっくりしてそれを辞退した。母親は「どこの子?  気立てがやさしいこと」と何度も繰り返し、無理やり土器を正淑に持たせて立ち去った。

 会寧の生家に行くと、いまでもかまどのそばに置かれているその小さな土器を目にすることができる。

 正淑の一家は、借財に押しつぶされて小作地まで取り上げられてしまった。そのうえ、独立運動に奔走する父の手がかりをつかもうと頻繁に官憲が家に押し入っては乱暴を働いた。

 これ以上故郷で暮らせなくなった一家は1922年の春、豆満江を渡って中国へ行くことになった。望羊渡船場で小舟に身をゆだねた正淑は、遠ざかる故郷の山河を涙のうちに見やった。

 後日、金正淑は、そのときのことを次のように述懐している。

 「わたしは会寧を離れても、一度たりとも故郷を忘れたことはありません。将軍のおともをして山中で戦っていたころ、うれしいときも悲しいときも、故郷の会寧を思い出したものです。行軍や戦闘のときなどは少しはましですが、密林の宿営でひときわ明るい月を眺めると、故郷の草木や石の一つ一つが目の前に鮮やかに浮かんできました」

 豆満江を渡った一家が最初に住みついたのは、中国東北地方の延吉県北溝というところであった。うち捨てられていた仮小屋に住居を定めて小作を始めた。家族総出で農作に精を出したが、暮らしは会寧のころと変わらなかった。だが、一家は貧しいながらもいつもむつまじく暮らした。村人は、勤勉で気立てのよい「会寧の家」をうらやましがり、尊敬した。

 正淑は、日中は母と兄の野良仕事を手伝い、夜は姉と一緒に灯火の下で麻糸をよったり麻布を織ったりした。

 ある日の夕方、朝早く山へ行って摘んだ山菜のかごを抱えて山をおりてきた正淑は、とある仮小屋の前で赤子の泣き声を耳にした。か弱い泣き声に引かれて仮小屋に入ってみると、病人らしき年若い婦人が横たわり、赤子は乳の出ない母親の胸をまさぐっていた。正淑は泣く子をおぶって寝かしつけると、摘んできた山菜でかゆを炊いて病人に与え、残りの山菜をきれいに選り分けて翌朝の食事の支度まですませてから、空のかごを下げて家にもどった。

 この話は村中に広まり、村人の誰もが「会寧の家の次女」は大人にもまさる義理のある子だとほめたたえた。

 正淑が10歳になった春、姉の金貴人女が借金のかたとして地主の下女になるという不幸に見舞われた。その日、姉はよよと泣き崩れた。正淑は、母とともに地主の前に立ちはだかって姉をかばい、強く抵抗した。すると、地主は乱暴に母を蹴りつけた。ちょうど、家に帰ってきた兄の基俊はこの光景を見て憤激し、地主を殴り倒した。今度は地主の息子らが駆けつけて、基俊をこん棒でしたたか打ちすえた。兄は足に大怪我を負って倒れ、姉は結局、地主に引き連れられて行った。

 この日の恨みは、正淑の胸に一生消しがたい痛手として刻みつけられた。

 地主はこれに飽き足らず、正淑一家にとって唯一の生計の手段であった小作地を取り上げ、警官をそそのかして父に監視をつけ、時を選ばず捜索騒ぎを起こした。

 こうして、それ以上北溝で暮らせなくなった一家は、1928年の春、八道溝から2キロ離れた山村の西山里へ移らざるをえなくなった。

 それ以来、一家の暮らしは、ますます苦しくなった。父は病床に臥したままで、兄は不自由な体になってまっとうな仕事ができず、兄嫁まで産後の肥立ちが悪く床についていた。

 正淑は、さまざまな不幸と悲しみをもたらす搾取社会の矛盾にいち早く目覚め、日本帝国主義と階級の敵にたいする憎悪の念を抱くようになった。さらに、恨み多いこの世を去るときに遺した父の遺言は、幼い正淑に反日愛国の志、祖国解放の志を深く植えつけることになった。

 「わしは、死んでも朝鮮に骨を埋めたかった、朝鮮の土になりたかった。その願いはかなえられそうもない。お前はどこへ行っても故郷を忘れず、朝鮮を忘れてはならん。そして、朝鮮のためにたたかうのだ」

 父の死後、一家は1929年6月に延吉県符岩洞下村に移り住んだ。この地で地主、李春八の土地を小作することになった。

 下村に移り住んでからは、一家の支えとなっていた母までが病床についたため、大家族の家事一切が正淑の肩に担わされた。屈強な壮丁ですら生計を立てがたいこの世で、一家の重荷をか弱い肩に担って奔走する幼い正淑の姿を目にするたびに、村人たちは心を痛め、いじらしさを覚えるのだった。

 けれども、正淑は、そうした苦労をしながらも悲観しなかった。勤勉さと深い愛情、明るい笑顔で家族を力づけ、家計の切り盛りに努めた。

 当時、下村には小さな私立学校があった。この学校には、符岩洞やその周辺の村から5、60名の貧しい家の子どもたちが通っていた。正淑は、家庭の事情で自分は駄目でも、弟の基松だけは是非とももう一度学校に入れてやりたいと思っていた。この願いがかなえられた日、正淑はむしろ当の弟よりもっと喜んだ。着古しの服ではあったが、それをきれいに洗って手直しし、勉強道具を風呂敷に包んで持たせてあげた。

 正淑も学びたかった。その熱望が強まるほど、いくらあくせく働いても暮らしはよくならず、学びたくてもそれがかなえられない世の中を恨まざるにはいられなかった。

 正淑の向学の念は、1930年の夏にかなえられることになった。金日成将軍の意を体して各都市や農村に派遣された政治工作員の手で各地に夜学が設けられたのである。彼らは、夜学と同時に革命組織をつくり、大衆を目覚めさせ、革命の大衆的基盤を築く活動を精力的に繰り広げた。その成果として符岩洞にも夜学が設けられたのだが、その教員に私立学校の教師であった郭燦永が赴任してきた。彼は、すでに金日成将軍が派遣した青年共産主義者によって結成された革命組織の一員として、反日愛国啓蒙活動にたずさわっていた。

 正淑は夜学開講の日、真っ先に駆けつけた。後日、そのときの喜びについて、正淑は抗日遊撃隊の戦友たちにこう語っている。

 「夜学ができて読み書きを教えてくれると聞いて、どんなにありがたいと思ったことか、……わたしはこの世に生まれて、あれほどありがたいと思ったのは、あのときが初めてでした。わたしはうれしさのあまり黒板にすがりついて泣いてしまいました」

 夜学生を前にして、郭燦永は拳を高く振りかざし、熱弁を吐いた。

 ……知識は力、無知は破滅だ。だから学ばなければならない。知識ある者には教える義務があり、無学の者には学ぶ権利がある。……一生懸命に学ぼう!

 その夜、家に帰った正淑は寝つくことができなかった。このせちがらい世の中に、貧しい人のために尽くしてくれるありがたい人たちがいるということに、激しく胸をゆさぶられたからである。

 抗日革命闘士の林春秋は、そのころの金正淑についてこう述懐している。

 「当時の金正淑同志は、年のわりにはかなり大人びていた。礼儀正しく聡明で、人一倍向学心に燃えていた。村に夜学が設けられた日、彼女は誰よりも先に駆けつけたし、一日として欠席することがなかった」

 夜学では、主に国語と算数を習い、そのほかに講話の時間があった。学生たちは、この時間をいちばん好んだ。数多い話の中でも、彼らをもっとも感動させたのは、金日成将軍にまつわる伝説のような話であった。

 「朝鮮の夜空に明星があらわれ、天地を明るく照らしている」「明星のように天地を明るく照らし出す方が、山を狭しと駆けめぐり、日本の侵略軍を一刀のもとになぎ倒す武術を修めている。その方が軍を率いて立てば、朝鮮は独立する」

 本当にそんな偉人がいるなら、その偉人の兵士となって日本帝国主義と地主、資本家を打ち倒すたたかいに加わることができるなら!……

 これは、正淑が夢にまで描いた切なる願いであった。

 正淑は、並々ならぬ情熱をもって勉強に打ち込んだ。そして、夜学に通うのをためらう友人には、女性も読み書きを習えばこの社会の不条理がわかり、立ち後れた封建思想をなくすことができるのだと説いた。

 革命組織では村の民俗遊戯や冠婚葬祭なども大衆啓蒙の機会として利用した。特に、符岩洞の婦女子のあいだで以前からおこなわれてきたテノリ(村人が、穀物を持ち寄って会食しながら談笑、歌舞などを楽しむ集い)を、女性に明日への希望と革命的熱意を鼓吹する集いに変えていた。

 ところが、それを目の上のこぶのように思っていた地主の悪だくみで、正淑の一家はまたも思いもよらぬ不幸に見舞われることになった。

 その年の秋、符岩洞ではテノリの準備が進められていた。取り入れの前で、どの家も食糧事情は苦しかったが、正淑の家庭では、なおのこと、祖母の葬儀をすませたばかりで持ち寄り分の穀物がなかった。こうした事情を知った弟の基松は、とっさに鎌を手にして畑に出た。そして、よく実った小作畑のコーリャンを何本か刈り取ってきて、姉の持ち寄り分を用意してやった。

 ところがテノリが終わった数日後、これを知った地主は息子まで連れて正淑の家に押しかけてきた。そして、刈り分もきめていない小作畑から許しも得ずにコーリャンを刈り取ったと「どろぼう」呼ばわりし、すぐさま法に訴えると脅した。「どろぼう」と言われて我慢できなくなった正淑は、「自分の手でつくったコーリャンを刈り取ってきたのにどうして『どろぼう』だというのですか」と抗弁した。

 地主は、「土地を貸した主人」の恩義もわきまえないのかと怒鳴りちらし、いますぐ借金を返済できなければ、このひと冬、家族の誰かが自分の家にきて挽き臼を挽けと迫った。そして、これに応じなければ直ちに法に訴えて家を取り壊し、小作地を取り上げ、基松を柴刈り下男にすると息まいた。

 正淑は歯がみして悔しがり、地主が立ち去ると母の懐に抱きついてむせび泣いた。

 こうして仕方なく、正淑は幼い身で地主の家の挽き臼を挽く苛酷な労働を強いられる破目になった。正淑は自分のことよりも、愛する母や兄嫁に奴隷の首かせをかけさせることはできなかったし、ましてや幼い弟を地主の下男にすることもできなかったのである。

 挽き臼小屋は、地主の家の庭の片隅にあった。挽き臼の回る音が少しでも止まると、地主は部屋から飛び出してきで怒鳴りちらした。

 そうこうするうちに、正淑の13回目の誕生日がめぐってきた。その日、母と基松は、盛り切りの飯を風呂敷に包んで挽き臼小屋を訪ねてきた。誕生日だというのに、挽き臼の長柄から手を離せない娘を見た母は、見るに耐えず風呂敷をほどくと、基松と一緒に長柄をつかんだ。すると、正淑は、母と弟の手を振り払ってこう言うのだった。

 「お母さん、やめて。なんでお母さんまでこんなことをしなければならないのですか。お母さんや基松がこの家の米を一斗余計に挽いてやるからといって、うちやわたしの境遇が変わるとでも思うのですか。ただ心が痛むだけです……」

 こうして、母と弟を家に帰した正淑は、また挽き臼の長柄を握るのだった。正淑の胸には、こんな世の中をそのままにしていては、貧困と恥辱、侮蔑を振り払うことはできない、この世の不義とはあくまでたたかわなければならない、という闘志がむらむらとわき起こるのであった。


  たたかいの第一歩

 1931年にいたり、満州を席巻しようとする日本帝国主義の野望はますます露骨化し、満州全土はきなくさい雰囲気に覆われていた。

 一方、日本帝国主義のファッショ的暴圧統治に抗して立ち上がった朝鮮人民の反日闘争は、集団的な暴力的性格をおびて激しく展開されはじめた。

 卡倫会議で抗日武装闘争路線をうちだした金日成将軍は、こうした情勢下で武装闘争の準備を急ぐため、活動舞台を豆満江沿岸に移し、より広範な大衆を革命隊伍に結束する活動を進めた。

 革命の熱風は、符岩洞にも吹きつけた。金日成将軍が派遣した政治工作員によって、この村にも、反帝同盟、農民協会、革命互済会、婦女会などの革命組織が結成され、それらの組織に大衆を結集させる活動が活発に繰り広げられた。

 このころすでに、金基俊は、反帝同盟の中核メンバーとして活動していた。家族はそういうことを知らずにいたが、正淑は兄が何かしら重要な使命をおびて夜毎出歩いていることに気づいていた。正淑は、それはまさに国を救うたたかいの道に違いないと考え、自分もきっとその道に立とうと心に決めるのであった。

 共青組織は、正淑を実地闘争を通じて革命組織の一員に育てるよう夜学の先生に委任した。

 正淑は、朝鮮革命を指導しているのは金日成と呼ばれる人物であることを先生に教えられ、全民族の悲願がこめられたその名を何度も口ずさむのだった。

 いったいどんな方だろうか、その方は、きっと朝鮮民族に奪われた祖国を取り戻してくださるだろう、そして、搾取も抑圧もない新しい世の中をもたらしてくださるに違いない、朝鮮を踏みにじっている日本帝国主義を打倒し、逆さになったこの世の中を立て直してくださるはずだ、その方に従って一生たたかおう!

 このときすでに、正淑の心にはこうした信頼感と信念が根づきはじめていた。

 1931年の春であった。ある日、正淑は革命組織から初の任務を受けるため、胸をときめかせながら指定された南山のふもとへと向かった。現地に着くと、薄暗い林の中かも夜学の先生があらわれ、その後ろに兄の基俊の姿が見えた。正淑の胸は兄への尊敬の念と誇り、そして、兄が立ったその道に自分も一緒に立つことになったのだという喜びにときめいた。

 その夜、正淑は、村の住居や村人のたまり場にビラをまく任務を受けて村へもどった。

 翌朝、符岩洞は大騒ぎになった。家の庭先や道端のあちこちにビラがまかれ、地主の家の門にはひときわ大きな檄文が張りつけられていたのである。初の任務を問題なく遂行した正淑は、その後、ビラの散布、レポなどの重要な任務をたびたび遂行した。そして、ときには山菜を売り歩く山里の少女に、または学校へ行く生徒に、ときには弟を伴って親戚の家へ遊びに行く子どもに早変わりして敵の警戒の目をくぐり、任務を立派に遂行した。その大胆さと利発さに組織のメンバーは目を見張った。

 革命の真理を体得し、革命家としての意志と英知を培った正淑は、1931年9月12日、金日成将軍によってつくられた青少年の半軍事組織である少年先鋒隊に入隊した。これは、正淑にとって新しい人生の出発であり、金日成将軍に忠誠を尽くす闘争隊伍の一員となる意義深い第一歩であった。

 それから数日後の9月18日、「満州事変」が勃発した。

 中国の東北地方、瀋陽北大営西部の柳条溝で、日本満鉄会社所有の鉄道線路を爆破し、それを口実に満州への武力侵攻を開始した日本帝国主義は、「後方の安全」を期するという美名のもとに、朝鮮人民にたいする反動攻勢を全面的に強化した。彼らは特に、新しい革命勢力が急速に台頭している東満州をはじめ、朝鮮入居住地域での弾圧蛮行をいっそう悪辣に強行した。

 これに対処して金日成将軍は9月下旬、敦化での党および共青指導中核メンバーの会議をはじめ一連の会議で、武装闘争の準備を本格化する課題を示し、革命勢力を戦闘的に鍛練、育成し、拡大する活動を指導した。

 将軍の派遣した政治工作員の指導のもとに、符岩洞の革命組織でも、「満州事変」を引き起こした日本帝国主義の侵略的本質を暴露し、大衆を反日闘争に立ち上がらせる村民集会を開いた。集会の場となった学校の運動場は、松明とたき火であかあかと照らし出された。

 集会ではまず、革命組織の委任を受けた青年たちの演説があり、次に少年先鋒隊員の正淑が演壇に立った。会場は、がぜんざわめいた。こんな大がかりな集会で女性が、それも14歳の少女が演説するということは予想外だったからである。

 だが、正淑の演説は、たちまち群衆の心をとらえた。

 「お父さん、お母さん、お兄さん、お姉さん! わたしたちの祖国を占領した日本帝国主義者は、つい最近『満州事変』を起こして大々的な武装侵攻を開始しました。……どうして、わたしたちの年老いた父母が、祖国を懐かしみ、恨みを抱いたままこの荒涼たる異国で野たれ死にしなければならないのでしょうか。どうして、わたしたち若者が血の涙を流し、苦労ばかりして生気を失わなくてはならないのでしょうか。これは何のため、誰のためでしょうか。わたしたちの国を奪った日本帝国主義と悪魔のような地主たちのためです。日本帝国主義と悪質地主は、わたしたちの不倶戴天の敵です。この敵を打ち倒さなければ、誰も安らかに暮らすことはできないのです。みんなが力を合わせて、日本帝国主義とのたたかいに立ち上がりましょう」

 この演説に胸をゆさぶられた群衆は、拳を振り上げ、日本帝国主義と悪質地主を打倒しようと呼応した。そして、松明をかざし、革命歌をうたいながら蔵財村までデモ行進をした。

 この闘争によって、正淑は、八道溝一帯の住民のあいだに広く知られるようになった。

 この年の秋、将軍の指導のもとに東満州全域では、日本帝国主義と悪質地主にたいする大衆的な暴力闘争、秋収闘争(取り入れ期の闘争)が繰り広げられた。

 この闘争をひかえて符岩洞の革命組織では、闘争委員会を設け、宣伝隊、行動隊、走狗掃討隊、呼号隊などを編成した。正淑は、宣伝隊に属して活動することになった。

 ある農家の粟の取り入れの互助作業があった日、正淑も村の女性と一緒に野良に出て取り入れを手伝った。正淑は、仕事の合間に10束の粟を一か所に立てかけると、そのうちの3束を抱き上げ、「この3束が李地主の分で、あとの7束はわたしたち小作人の分です。これがわたしたちの主張する3・7制です」と説明した。3・7制、4・6制という言葉はよく聞かされていたが、現物を目にするのは初めてだった。これを見て納得した村の女性たちは、ぜひとも3・7制を実現させたい気持ちに駆られた。

 「ですから、わたしたちは必ず勝たなければなりません。そのためには力を合わせなくてはならないのです。地主がいくら騒いでも、わたしたちがかたく団結すれば恐れることはないし、その力にかなうものはこの世にありません。団結すれば勝てます。団結してたたかいましょう!」

 正淑のアピールは、村の女性たちの闘志を燃え立たせた。

 正淑は、夜となく昼となく中村、上村、蔵財村、東谷などを巡り歩いて宣伝活動をつづけた。こうして、符岩洞の男性はもちろん、女性、老人、子どもたちまでも秋収闘争に立ち上がった。

 正淑は、少年先鋒隊と児童団員を率いて行動隊の任務も遂行した。

 符岩洞の村民は、スローガンを叫び、歌声高く地主・李春八の家に押しかけたが、李春八は3・7制など絶対に容認できないとつっぱねた。そのさまがあまりにも殺気立っていたので、村民の一部は動揺した。これを見てとった正淑は、悪質地主・李春人の搾取のむごさとその罪状を村民の前で暴露した。これは、村民の怒りを爆発させる起爆剤となった。村民は、こん棒や農具を振り上げて怒号した。地主はとうとう屈伏せざるをえなくなった。こうして符岩洞の小作人たちは、収穫量の7割を割り前として取り戻すことができた。

 秋収闘争と春慌闘争の勝利に東満州全域がわき立っているとき、いま一つ劇的なニュースが伝わってきた。1932年4月25日、金日成将軍が安図で反日人民遊撃隊を組織したというニュースだった。

 これは、正淑の胸を激しくゆさぶった。父が存命中の数年前、女子は軍隊に入れないのかと尋ねたことのある正淑だった。そのとき父は、「国を愛し敵を憎む気持ちに男女の別があるものか。女だからといって独立のために戦う軍隊に入れないわけはない」と答えた。

 東満州の各県に誕生した抗日遊撃隊と高揚した人民の革命的気勢に恐れをなした日本帝国主義者は、反日革命勢力を萌芽のうちに圧殺しようと狂奔した。彼らは、朝鮮人百人のうち少なくとも一人は共産党員か共青員だから、容赦なく殺してしまえと公言し、間島全域を血の海、火の海に変えた。

 間島大虐殺の蛮行は、正淑の胸にいやしがたい痛手を負わせた。この年の7月15日の朝、正淑は山に登って児童図の会合を指導していた。ところが突如、村の方から犬のほえる声が聞こえてくるや、つづけてけたたましい銃声が響いてきた。日本の「討伐隊」が押し寄せてきたのだった。村はまたたく間に火炎に包まれ、銃声とともに救いを求める叫び声、馬のいななきが天地をゆるがした。

 「討伐」による符岩洞の被害は甚大だった。村人は、無惨に殺害された。正淑が山から駆け下りてきたときには、兄嫁はすでに絶命し、母はひどい火傷を負って倒れていた。やっと気を取り戻した母は、娘の手を取ってこう言うのだった。

 「正淑……義姉は、焼け死にしながらも……お前の名を呼んでいたよ。……甥っ子を捨てないで育ててくれと……それをお前に伝えようと……」母は最後の力をふりしぼって言葉をついだ。「この目で……あの悪魔のような日本人めらが滅びるさまをきっと見てやろうと思ったのに……仇を討っておくれ……」母はこう言い残して、息絶えた。母と兄嫁の死は、幼い正淑にとって耐えがたい打撃であった。

 後日、金正淑は、革命戦友の一人にそのときの心境を次のように述懐している。

 「母に死なれたとき、わたしはあまりのことに涙も出ませんでした。 厳しい世の中で乳飲み子の甥を育てることを考えると、天が崩れ地が沈むような気持ちで先は真っ暗でした。泣いても身もだえても抜け出せないそんな絶望のなかから、わたしを立ち上がらせたのは、革命への自覚でした。金日成将軍が導く革命の道で最後までたたかわなければならないという自覚があったからこそ、わたしはあの大きな不幸にも絶望せず、強く立ち上がることができたのです」

 正淑は、母の墓の前で泣きじゃくる弟を抱きしめて奮然と立ち上がった。屈することなき闘争と容赦なき誅伐のみが、犠牲になった父母兄弟の恨みを晴らす唯一の道だった。

 正淑はそれから10日後の7月25日、金日成将軍の指導する朝鮮共産主義青年同盟に加盟した。

 その日、正淑は、共青組織の前で厳かに誓った。

 「わたしは栄えある共産主義青年同盟に加盟しながら、同盟の一員となった名誉と誇りを胸深く刻みつけ、革命の勝利のために身も心もすべてささげてたたかいます。
 わたしは、共青員らしく組織の規律を厳守し、組織の決定と指示を誠実に実行し、共青を革命的で戦闘的な組織にするために貢献します。……
 わたしは闘争と生活で大衆の模範となり、つねに先頭に立って彼らを導いていく朝鮮革命の真の前衛になることをかたく誓います」                   





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