『金正日先軍政治』−2 先軍政治の具現

2 強盛大国建設の先頭に立って


祖国の防衛も社会主義建設も軍が担当して

 北朝鮮は1994年以降数年にわたって、建国以来最大の試練とされる、物質生活分野での「苦難の行軍」を余儀なくされたが、1998年からはそれが最後の勝利に向けた社会主義強行軍へと移行し、さらにその翌年には、強盛大国建設の突破口を開く第2のチョンリマ大進軍が開始されたのであった。

 ところで、「苦難の行軍」と社会主義強行軍の時期に、チュチェの革命偉業を挫折させることなく、ひきつづき勝利に向けて前進させるためには、経済建設分野で主要攻略目標を正確に立て、これに全力を集中しなければならなかった。

 ここで第1の攻略対象とされたのは、農業部門とエネルギー分野であった。

 経済事情の悪化は食糧問題の解決を焦眉の急として浮上させ、また、操業不振にあえぐ諸企業を立て直して生産を活性化させるためには、産業の血管といえるエネルギー分野から先に盛り立てなければならなかったのである。

 将軍は、この主要目標の攻略に革命の主力、人民軍を投入した。「革命の主力」という位置づけは、最も困難な時期に革命の基本戦線を受け持って危機の克服にあたり、いかに膨大な任務もいささかの偏向もなしに立派に遂行することを軍隊に求める先軍政治の根本的原理を踏まえたものであった。

 将軍が1997年度の営農を人民軍の全的な支援によって進めるようはからったのは、その端的なあらわれである。

 抗日武装闘争時代の「苦難の行軍」で最大の隘路が食糧不足であったように、90年代の「苦難の行軍」でも、食糧不足が最大の難点であった。食糧不足を解消しないでは、国の全般的難局を打開することができなかったのである。

 西側諸国は、北朝鮮の食糧難に乗じて社会主義を崩壊させようとし、コメをカードにありとあらゆる卑劣な術策を弄した。

 帝国主義とのたたかいで社会主義の原則を守り、強硬高圧の姿勢を貫くうえに、たとえ、わずかであっても食糧問題でブレーキがかかるようなことがあってはならなかった。

 将軍は97年度の営農を人民軍に任せるにあたって、今年の営農を立派におこなうのは、人民の食糧事情の解消という単純な経済実務的問題でなく、敵の反共和国・反社会主義策動を粉砕し、人民大衆中心の我が社会主義を守りとおすための深刻な政治闘争である、本年度の我々の基本的な課題は、1にも2にも3にも農事を立派におこなうことだと強調した。

 将軍は機会あるごとに、軍の指揮メンバーに向かって、今年は全党、全軍、全人民が総動員し、なんとしても営農を立派におこなって、食糧不足を決定的に解消し、「苦難の行軍」を勝利のうちに締めくくらなければならない、人民軍は本年度の農村支援に積極的な姿勢をもって大々的に取り組もう、人民軍は農村支援を綿密に手配して、一人でも多く動員するよう努めるべきだ、今年は、人民軍指揮メンバーの党への忠実性と責任感の強さが、農村支援活動で集中的に表現されなければならない、と大きな信頼と期待を表明した。
 農村支援に向かった人民軍将兵はまず、農機具の修理や肥料の生産など、営農準備に万全を期した。田植えが始まると、昼夜兼行の戦闘をくりひろげて、これを適時にやり遂げ、引き続く草取りでも例年にない成績をおさめた。

 ところが、人民軍将兵の努力によって黄金の穂が波うちはじめた初秋のある日、一部海岸地帯が空前の暴風津波に襲われた。農地が海水に浸され、農作物は甚大な被害をこうむった。しかし、人民軍将兵は意気消沈することなく、大々的な救援・復旧活動をくりひろげた。かれらは、腰までつかる泥沼の中で石や土嚢をかつぎ込んで積み上げ、それが崩れると身体をもって海水の浸入を防ぐなど、日没後も手探りで作業を続けて堤防を復旧したのであった。

 農村支援で見せた人民軍将兵のたたかいぶりがいかに犠牲的なものであったかは、秋のとり入れを終えた農民が、「これは穀物でなく、軍人の血と汗であり、魂だ」と言ったことからもうかがい知ることができよう。

 田植えが本格化した5月のある日のこと、将軍は軍視察の途上、野良の速報板に張られてあった一枚の速報を手にした。田植え現場を見回った随員が、軍人の思想・精神状態に深い関心を寄せる将軍に見せようとして、はがしてきたものであった。

 そこには「我々がみな引き受けよう」という表題の下に、闊達な筆致で「祖国の防衛も社会主義建設も農業戦線も我々がみな引き受けて、『苦難の行軍』の栄誉ある勝者になろう!」と書かれ、その背景にハンマーと鎌と銃と剣が描かれてあった。

 農場で戦闘をくりひろげる人民軍将兵の精神力と息吹きが強く感じられるその速報に見入っていた将軍は、この一枚の速報からも人民軍将兵が農業を心をこめて支援していることがわかる、政治活動はこのようにすべきだ、人民軍は何事もみな立派にやっている、といってほほえんだ。

 人民軍が先頭に立ち、全国が力を合わせて田植えを完了した直後の1997年6月6日、全国の農業勤労者と支援者に感謝を送る最高司令官の電信命令が発せられた。

 将軍はここで、祖国の防衛も農業戦線もみな我々が引き受けようとの忠誠の一念をもって社会主義協同農場に駆けつけた人民軍将兵が、昼も夜も野良ですごし、苗やトウモロコシ栄養ポットの一株を植えても、黄金の穂が波打つ豊年の秋を描きみながら、農作業を戦闘的にくりひろげて革命軍隊の本分をまっとうしたとして、田植え戦闘の勝利に大きく寄与した全国の農業勤労者と人民軍将兵および農村支援者に感謝をあらわし、田植えを適時に終えた勝者の意気込みをいささかも崩すことなく、除草をはじめ営農工程別肥培管理を着実におこなって大豊年を迎えるよう指示した。人民軍将兵は、将軍の信頼と期待にこたえて、「最高司令官同志の命令を貫徹する前には野良を離れるな!」というスローガンを掲げ、穀物増産の突破口を開いていった。

 人民軍は農業戦線だけでなく、経済の全般的活性化をはかるうえでも、革命の主力としての役割を立派に果たした。

 経済の活性化には二通りの選択肢が考えられる。一つは自立的な方法であり、いま一つは外資導入に頼る方法である。

 自立の方法はすべてが不足している困難な状況のもとでは「苦難の行軍」の継続を、外資導入は帝国主義への屈従を意味した。

 「外資導入は亡国の道であり、自立だけが生きる道だ!」−これは90年代後半の錯綜した国際情勢のもとで、北朝鮮が掲げた経済活性化のスローガンであった。

 だが、自力に頼って経済の活性化をはかるのは、言うほど易しいことではない。

 ここでは石炭、電力、鉄道など主要基幹工業分野をまず立ち上がらせることが先決条件であるが、それにしてもすべてが不足している状況のもとで、困難は一通りや二通りでなかったのである。

 将軍は難関突破の重任を人民軍に託した。

 人民軍将兵は、あの困難な時期に、9.9節通り、4.25旅館などの大型建築工事を担当遂行し、大々的な国土管理事業でも先頭に立って働いた。

 このように、祖国の防衛も社会主義の建設もみな引き受けて実行するのが、革命の主力=朝鮮人民軍のたくましい姿である。

 北朝鮮は、「苦難の行軍」、強行軍の時期と同様、今後も人民軍を先立たせて強盛大国の建設を進めていくものと思われるが、この戦略は疑いなく成功し、革命の主力としての人民軍の地位はいよいよ強く固まっていくであろう。


革命的軍風が生み出したもの

 時代を知るには、その時代の文物を考察することが一つの原則とされている。

 90年代の後半、人民軍によって生み出された北朝鮮の物質的・文化的財宝には、当時の先軍政治の具体的な様相が反映されている。

 あの「苦難の行軍」の時代に各地の名勝を人民のリゾートとして壮大に開発し、職場を宮殿のように改装し、工場や住宅の建設でも設計・施工を最高の水準でおこなうということは、未来への確信なしにできることではない。

 人間は苦境に陥ったとき、それにどう対応するかによって大きく3つのタイプに分けることができる。その第1は苦しみに負けて志を放棄するタイプであって、人間として最低の部類に属し、第2には目前の困難にあくせくするばかりで、明日の生活を設計できないタイプで、これは中間の部類に属する。第3は苦難に遭遇しても、信念を失うことなく明るい未来を展望しながら楽天的に生きるタイプで、最高の部類に属する。

 人民軍があの苦難の時期に祖国の山河をより麗しく、住みよい人民の楽園に築き上げ、遠い孫子の代まで伝える貴重な物質的財富を数多く創造してきたことは前にも触れたが、これは、かれらが祖国と人民を心から愛し、革命が必ず勝利するという必勝の信念を抱いているからである。

 朝鮮の5大名山の一つ九月山は、古来「黄海金剛」とうたわれるほどの名勝であるが、それはどこまでも自然の姿そのままの美しさにすぎなかった。

 ところが金日成主席は、晩年に、九月山を人民の幸せが花咲く人民の山、人民のリゾートとして開発しよう、九月山は平壌から遠くない、だから平壌市民が週末を利用して西海閘門−九月山のコースを取って憩いのひとときをすごせるようになったらどんなに喜ぶことだろうか、いまはまだ登山路がないが、山を立派に整備して人民の遊園地に作り変えるべきだ、と言ったという。

 ところが、主席の急逝後、国が「苦難の行軍」を余儀なくされたため、九月山の開発は先に延ばされ、主席の遺訓も人びとの記憶からしだいに薄れていった。

 こうしたとき、金正日将軍は主席の遺訓を忘れることなく、九月山を人民のリゾートとして立派に開発することを決心し、人民軍部隊にその任務を与えた。

 こうして、あの「苦難の行軍」のなかで、人民軍将兵は「未来のために」というスローガンを高く掲げて、九月山の開発に取り組んだのであった。

 1996年10月のある日、将軍はまだ整理の終わっていない登山コースを取って、九月山の開発現場を視察した。途中、将軍は周辺の樹木を一本も切り倒さずに登山路を開いたのは立派なことだ、これは九月山を愛する我が人民軍将兵ならではの美しい行為だ、祖国の一木一草にも愛情を注ぐ軍人の手で登山路が建設されたことを考えると、九月山の景色がいちだんと美しく見える、私は党と領袖、祖国と人民に限りなく忠実な諸君を大きな誇りとしている、人民軍将兵こそ、世界にまたとない立派な軍人だ、と言ってかれらの功労をたたえた。

 1997年9月23日、再び九月山を訪れた将軍は、開発現場の視察中、ある滝の前で歩みを止め、擁壁に刻まれた小さな文字に目を止めた。そこには「未来のために、苦難の最後の年1997」と刻まれてあった。人民軍建設者が記念に記したものである。

 しばらくその文字に見入っていた将軍は、この2段瀑布に「未来のために、苦難の最後の年1997」と書かれてあるのを見ると、大いに力が湧く、「未来のために、苦難の最後の年」−この文字には明日のための今日を生きる兵士たちの真の人生観と革命的楽天主義が息づいている、明るい未来に向け革命的楽天主義と戦闘的気迫にみちて前進する我が兵士たちの前途を阻む力はこの世にない、と力をこめて言った。

 人民軍建設者は、100余キロの道路工事と274か所の構造物工事、30余キロの安全沿石工事、13万余立方メートルの擁壁築造工事、27の楼閣および俯瞰台建設工事、227の各種標識物および彫刻物設置工事、51か所の名所建設工事、遊園地地区内工事などと膨大な工事を短時日でやり終え、最高司令官の命令を立派に遂行したのであった。

 将軍は、祖国と人民への献身的奉仕精神を高く発揮し、百年の大計をもって九月山遊園地を建設した軍人建設者の功績を高く評価し、人民が九月山を心ゆくまで探勝できるよう施設を手落ちなくととのえること、登山コースをハイカーの体力増進に役立つよう設定すること、大勢の人がにぎわう山の環境を汚さないよう管理に力をいれて、九月山の美しさが損なわれないようにすること、それに九月山の貝葉寺や月精寺、九月山城址などの遺跡を大事に管理し、それをとおして社会主義的愛国主義教育を強化し、多様な形式と方法で九月山をはじめ全国の名山を広く紹介、宣伝することなど、リゾートの開発と管理運営について懇切な指導をおこなった。

 人民の九月山はいま、人民の幸せな社会主義生活をより美しくいろどつて名山中の名山としての威容を誇っている。

 「苦難の行軍」の時期にこのようにして建設された名勝には、九月山のほかにも咸鏡(ハムギョン)北道の七宝(チルボ)山、平安北道の竜門(リョンムン)大窟(鍾乳洞)、黄海北道の正方山などがある。

 人民軍の軍風が生み出したものにはまた、多くの中小発電所や養魚場、基礎食品工場などがある。

 1996年10月、人民軍の一区分隊を訪れた将軍は、部隊が建設した月飛山発電所を視察した。これは、国の経済事情の悪化で生じた電力不足を自力で打開するため、区分隊の軍人が決起して建設した水力発電所で、それによって各部隊の暖房、炊飯、浴場運営を全的に保障していたのであった。

 将軍は、かれらの革命的軍人精神と闘争気風を高く評価し、その手本を全国が見習うよう配慮した。

 「苦難の行軍」の時期、北朝鮮の電力事情は格別に苦しかった。ところが、人びとは電力を自力で解決しようとは思ってもみなかった。そのようなとき、人民軍部隊が中小発電所を建設し、自力で電力不足を解消したことを知り、これに力を得た全国の人民は自力更生の革命精神をもって中小発電所の建設に取り組みはじめた。

 何事であれ、決心さえすればできないことはなかった。かれらはわずかでも川に落差があるところでは、それを利用し、そうできないところでは水車式の発電所を建設した。発電所建設ブームは、やがて養魚場の建設ブームへと移っていった。

 1997年、ある人民軍区分隊を視察した将軍は、かれらが養魚池を作って、年中、鮮魚を軍人の食卓にのせていることを知って、いたく満足し、人民軍各部隊をはじめ、全国各地で養魚場を大々的に建設して養魚を発展させようと言った。

 養魚場は、普通の建物や発電所を建設する場合とは違って、付帯条件が多く、とりわけ養魚を科学的におこなわないと所期の効果をあげることができない。まず水源がなければならず、次にその水温に適した魚を飼わなければならない。流れる水を引き入れて段々式に養魚池を作る場合は、一般に上段と下段の池の水温が異なり、また同一の池でも上層と下層の水温が異なるため、それに見合った魚種を選ばなければならないという事情もある。ほかにも、優良な餌や種魚を確保すべき問題など考慮すべき問題は少なくない。

 将軍は、軍部隊をはじめ、全国各地に建設された養魚場をしばしば視察し、具体的な指導をおこなっている。

 北朝鮮の各地に建設された基礎食品工場や各種牧場も人民軍の軍風を手本として建設されている。

 1998年5月のある日、将軍は、軍人建設者が広梁(コワンリャン)湾の岸辺に新設した現代的な食塩精製工場を視察した。

 将軍は清潔な工場内で雪のように白い塩が大量に生産されている光景を見て、各種の栄養分を含み、味も申し分ない上質の塩を軍人たちに供給する食塩精製工場を立派に建設したとして、軍人建設者の労をねぎらい、ここで生産される塩を軍隊だけでなく、人民にも供給し、さらにすべての臨海道で食塩精製工場を建設するよう指示した。

 この時以来、北朝鮮では、多くの基礎食品工場が新設ないし拡充されるようになった。

 例えば、1999年10月28日、将軍が現地指導した「厳乙勇(オムウルヨン)支配人が経営する食品工場」をあげることができる。

 この工場は元来こじんまりした食品工場であったが、人民軍の革命的軍人精神と闘争気風にならつて、工場を従業員自身の力で拡充したのであった。

 除隊軍人を中心に、かれらは自力更生の革命精神をもって、ないものは作り出し、足りないものは探し出しながら、地面がかちかちに凍った酷寒のなかで根切りを掘り、コンクリート基礎工事をおこなうなどの建設を推し進めて、以前に数倍する生産能力の現代的工場を立ち上がらせたのであった。ここではいま、食生活に欠かせないしょうゆ、みそ、化学調味料などの基礎食品を大量に生産している。人民の食生活改善をはかって建てられた軍風の産物は、このほかにも、松岩明基(ソンアムミョンギ)ウシ牧場、現代的養鶏場、ダチョウ牧場、ナマズ養殖工場など枚挙にいとまがない。

 このように、北朝鮮にみなぎる革命的軍風は、「苦難の行軍」をたんなる難関克服にとどまらせることなく、試練と真っ向から対決して、明日の勝利に向けた攻撃型の行軍とならせ、ひきつづき楽園行きの行軍に移行するようにした原動力であった。




inserted by FC2 system