『金正日先軍政治』−2 先軍政治の具現

1 無敵必勝の強軍を育成


思想の強軍、領袖擁護の軍

 先軍政治とも関連して朝鮮人民軍は世界の注目を集めている。南朝鮮のマス・メディアは、90年代半ば、事故で海上を漂流中、南に抑留された数名の人民軍兵士が見せた不屈の気概に感嘆し、「北の人民軍は、政治的、思想的な面で一等級の軍人気質の所有者」だと評した。

 かれらは、南側当局の転向勧誘や威嚇、誘惑にいささかも屈せず、金正日頌歌『あなたがいないと祖国もない』を歌い「父母の膝元を離れては生きてゆけるが、金正日将軍のもとを離れては生きてゆけない」という毅然とした姿勢を崩さなかった。かれらは訊問中、「金正日将軍の名を尊称つきで呼ばないならなにも答えない」ときめつけ、所属と姓名を「敬愛する金正日将軍の戦士○○○」と言い切った。高級洋服を見せて帰順を勧めると、「最高司令官同志からいただいた軍服を着、主席の肖像バッジを胸につける」と頑強に抗議して主張を通した。南朝鮮に残るなら自家用車に金の腕時計、豪華住宅をやろうという懐柔には、「我々将軍の戦士には、将軍のそばを離れたいかなる生活もありえない」と一蹴した。拷問や欺瞞に失言するようなことがあってはと、舌を噛み切ろうとして、夜中に意識不明に陥った兵士もあった。

 こうした強い精神力の前に、南朝鮮当局は、強権をもってしても、また、思想・理念の対決でも人民軍兵士を屈服させることができず、かれらの気概を人民軍にだけ見られる精神的気質だとして舌を巻いたのであった。これは、朝鮮人民軍こそ世界のいかなる軍隊も及びのつかない思想の強兵であることをまざまざと見せつける出来事であった。

 軍の風貌は、全的にその指導力とかかわっている。

 軍の指導と言うとき、それは武装力を構成する人間と装備を念頭においている。ここで両者のどちらを基本として見るかによって、軍建設の路線・政策が根本的に異なったものとして立案され、軍事力強化のあり方や軍の風貌が決まるのである。

 戦争の勝敗が力の自乗法則によって決まるとする数の優位論や、原爆出現後の核兵器万能論をはじめとする技術優位論=兵器中心論はいずれも、武装力のレベルによって勝敗が決まるとする軍事原理にもとづいたもので、ここでは銃を取る人間の思想・精神力が軽視されている。兵器中心論では、軍人はたんにその多寡のみが問題とされる人的資源として扱われる。

 従来の政治方式はこうした観点から、軍建設の総体的方向を兵器の増強に求め、軍人を動かすのに主としてカネの力に頼っている。カネと占領地の略奪で軍人を誘惑し、戦場にかりたてるのが、かれらの常套的な用兵術である。だから、そのような国の軍人は戦いが不利になると、簡単に手を上げたり、逃走したりするのである。戦場で命を惜しむそのような軍人の集団は、いくら最新兵器で武装していても真の強兵にはなれない。しかし、朝鮮人民軍はなによりも軍人の精神力を重視し、思想による強兵策を軍建設の根本原則としている。

 金正日将軍は、敵との対決は軍事力の対決であると同時に、思想の対決である、私は、軍建設と軍事活動でも思想論を主張する、軍事的打撃力には限界があるが思想には限界がなく、その威力は原爆よりも大きい、軍事力における基本は、人びとの思想意識である、と強調している。

 これは、軍人は自主的な思想意識を持つ尊厳ある存在であり、軍人の思想、意識によって、軍事力も戦争の運命も決まるという思想論のあらわれである。

 軍の威力や戦争の運命が、数的ないし技術的優劣によってでなく、思想の力によって決まるということは、歴史によって実証されている。このことは、ソ連や東欧諸国で社会主義の挫折に先立って軍が思想的に瓦解していたということからも確認されている。

 ソ連の元国防相ヤゾフは、自著でソ連崩壊の要因を軍建設の視点からとらえて、こう指摘している。

 「物質の面でソ連は経済大国・軍事大国でありながらも、あっけなく崩壊してしまった。300余万の大軍と、世界一流の最新装備を誇っていたソ連軍は、戦時でもない平時に、党と社会主義を守れなかったし、みずからの存在も維持できなかった。なぜか? それは西側とのイデオロギー闘争で敗北し、武装隊伍が思想的に瓦解していたからである」

 それでは、思想的強兵策を軍建設の根本原理とし、建軍後一貫して軍人の思想教育を先行させてきた人民軍が、1990年代後半の複雑な情勢のもとで前面に押し出した思想的強兵策とはどのようなものであろうか。

 金正日将軍は1995年の新年に際して、革命軍隊の威力は本質において思想の威力であり、したがって、人民軍を無敵必勝の鉄の戦闘隊伍に強化発展させるためには、軍人の思想教育にいっそう大きな力をいれなければならない、党の軍指導体系をしっかり固め、全軍を最高司令官の革命思想で一色化し、すべての軍人を革命の第一線で党と領袖を決死擁護する銃爆弾に鍛え上げるのが、人民軍における思想活動の基本的方向であり、目標である、と指摘している。革命軍隊が思想をとらえれば勝利し、手放せば滅亡するというのが、将軍の思想である。

 ここで言う思想とは、社会主義思想=領袖の思想のことである。

 先軍政治では、外国の軍隊に見られる非思想化=非政治化の動きとは逆に、人民軍の指導思想=チュチェ思想の純潔を守り、ブルジョア的思想毒素や反動的思想潮流の浸透を許さず、全軍チュチェ思想化のスローガンのもと、すべての軍人をチュチェ思想を信念とする思想の強者、信念の強者に鍛え上げるよう思想教育に重点をおき、他方では、軍内党組織の機能と役割を高め、人民軍が朝鮮労働党旗を高くひるがえして党軍としての真価を強く発揮するようはからっている。ここでは、党委員会の集団的指導のもとに、軍指揮官の統一的指揮体系が貫かれるよう部隊指揮管理原則を徹底化し、党の唯一的指導のもとに全軍が一糸乱れずに動く鉄の規律と党風を踏まえた軍風の確立、軍・政の正しい結合の問題など、党指導体系を確立するうえで持ち上がる問題を積極的に解決していった。社会主義偉業は、本質上領袖の思想と指導によって進められる偉業である。このことを熟知している帝国主義者は、反社会主義闘争の矛先をなによりも領袖の思想と指導の去勢・抹殺に向けている。

 冷戦終結後のこんにちにおいても、そうした事情に変わりはなく、帝国主義の反社会主義・反共和国策動の矛先は依然として革命の首脳部に向けられている。このことから、社会主義を守護するためには、なによりも領袖を擁護しなければならないという結論が引き出されるのであり、とりわけ、これは革命軍隊の本格的な核心的課題とならざるをえない。朝鮮人民軍は1932年に誕生して以来、一貫して革命の首脳部擁護の旗印を高く掲げて戦ってきたし、いまも「偉大な金正日同志を首班とする革命の首脳部を死守しよう!」というスローガンを掲げ、「呉仲洽(オジュンフプ)第7連隊称号獲得運動」を展開している。これは、金正日将軍さえ健在であれば、帝国主義のいかなる孤立圧殺策動も粉砕し、必ず勝利するという確信のあらわれである。

 金正日将軍は、人民軍の領袖擁護のスローガンについて、次のように述べている。

 「このたび、人民軍が『偉大な金正日同志を首班とする革命の首脳部を死守しよう!』というスローガンをうち出しましたが、このスローガンには、党と永遠に運命をともにしようとする人民軍軍人の崇高な思想・精神世界がそのまま反映されています。私は、このスローガンを見て大いに励まされ、朝鮮革命勝利の確信をいちだんと強く固めました」

 将軍は、主席と党の指導によって育成された人民軍ならではこのように立派なスローガンを掲げることができない、人民軍は白頭の密林で最初の銃声を上げて以来、これまでの長い期間、常に領袖と運命をともにし、革命が試練にさらされるたびに革命的かつ戦闘的なスローガンを高く掲げて、党と領袖を決然と擁護してきた、歴史の厳しい嵐をついて、勝利に勝利を重ねてきた朝鮮革命の誇らしい年代記には、党と領袖を決死防衛した人民軍の忠誠心が熱くこもっている、と指摘した。

 呉仲洽第7連隊が、抗日武装闘争の最大の試練とされる「苦難の行軍」をはじめ、常に戦いの先頭に立って金日成将軍のパルチザン司令部を擁護し、朝鮮革命の運命を立派に守ったことはよく知られていることである。呉仲洽第7連隊のこの領袖決死擁護精神は、領袖への絶対的な崇拝心にもとづく高潔な革命精神であり、司令部の安全のためなら、敵陣にもためらいなく躍り込む肉弾精神であり、敵弾を身をもって遮る城塞精神、防弾精神である。

 「呉仲洽第7連隊称号獲得運動」は全軍チュチェ思想化の要請に即して、人民軍を革命の首脳部決死擁護精神=銃爆弾精神にあふれる最高司令官の親衛隊、決死隊に鍛えあげる集団的革新運動である。

 1997年9月のある日、金正日将軍は、呉仲洽第7連隊称号獲得の判定を受けている区分隊を訪れた。

 兵営のここかしこに力にあふれるスローガンが張りだされ、旗が勢いよく風になびいていた。

 静寂な谷間に養魚池が連なり、緑に囲まれた兵営の雰囲気は、将軍を満足させた。そのような外観ばかりでなく、部隊はあらゆる面で全軍の手本となる一当百の精鋭部隊であった。

 特に、将軍が高い評価を与えたのは、軍人の思想・精神状態であった。

 金日成主席の現地指導を受けたこの部隊は、現地指導図録パネルをとりつけた現地指導学習室を設けて、軍人の思想教育に力をいれていた。思想教育の効果は、部隊の芸術サークル公演に立派に反映されていた。

 主席の現地指導精神で貫かれた公演は、形式が斬新で、全演目が領袖決死擁護で貫かれ、部隊の特色も立派に生かされていた。

 演目は、合唱『お会いしたい将軍』『われらの将軍が一番だ』、独唱と傍唱『私が守る祖国』、太鼓と斉唱『正日峰の雷鳴』と続き、詩と歌『われらは誓う』『革命の首脳部決死擁護せん』でクライマックスに達した。

 将軍は、軍人たちが公演で、一身をそのまま肉弾と化して革命の首脳部を決死擁護し、最高司令官に従って、チュチェの革命偉業を完成せずにはおかないという不屈の信念と意志、楽観に満ちた軍務生活を立派に見せてくれたとたたえ、私はこんにち、部隊を楽しい気持ちで視察した、部隊の全軍人が政治的、思想的に、軍事技術的にしっかり準備されており、指揮官の指揮能力も非常にすぐれている、私は、部隊が「呉仲洽第7連隊称号獲得運動」を通じて、党と領袖に限りなく忠実な一当百の戦闘部隊に立派に成長したことを喜ばしく思う、諸君の成果を高く評価する、と言った。

 そのあと、随行した軍指揮幹部に向かって、これなら判定官が合格のはんこを押してもよくはなかろうかと言って豪快に笑った。

 こんにち、「呉仲洽第7連隊称号獲得運動」は、人民軍を領袖決死擁護精神にあふれた最高司令官の戦闘部隊に鍛え上げる大衆的運動として活発にくりひろげられており、そのなかで朝鮮人民軍は思想の強軍としての風貌をいかんなく誇示している。

 金正日将軍は、李寿福(リスボク)、吉英祚(キルヨンジョ)を英雄の典型として押し立て、かれらの気高い精神を全人民軍将兵が見ならうようはからっている。

 典型を創造し、それを一般化するという方法で革命と建設を前進させるのは、金正日将軍の指導方法である。

 李寿福、吉英祚の両英雄は、革命の首脳部を守って一命をささげた忠臣である。

 李寿福英雄は朝鮮戦争当時、1211高地の戦いで敵トーチカの銃眼を身をもって塞ぎ、部隊の進撃路を開いた、弱冠18歳の肉弾英雄であった。

 将軍は軍視察の際、人民軍将兵が李寿福英雄の精神に見ならおうと努めていることを知り、人民軍の全将兵がこんにちの李寿福になるよう指導したのであった。

 一方、「90年代の李寿福」と言われている吉英祚英雄は、操縦していた飛行機が不慮の事故で火を吹いたとき、ここで飛行機が墜落すれば革命の首脳部に危害が及ぶと判断して、機首を海の方へ向け、愛機と運命をともにした30歳の自爆英雄である。

 人民軍の視察途上、李寿福、吉英祚両英雄の精神を全軍が見ならうようはからった将軍の意に沿って、李寿福英雄の有名な自作詩がいままた全軍、全国で広く愛唱されるようになった。また、吉英祚飛行士の英雄的行為をテーマにした劇映画が制作、上映され、亡夫の部隊に入隊していた未亡人は、将軍の接見を受けた。

 思想を基本としてとらえる軍指導によって、人民軍兵士は死を恐れぬ勇敢な兵士に育っており、先軍政治によって、こんにち、人民軍はアメリカ軍部や南朝鮮の高官も認めているように、「自爆精神という最も恐ろしい兵器を持つ世界最強の軍隊」としてその威風を誇示している。


無敵必勝の強軍

 最近、アメリカと南朝鮮のマス・メディアは、朝鮮人民軍にはアメリカ軍を制圧する力があり、これまで朝鮮半島でバルカン戦争や湾岸戦争のような戦争が起こらなかったのは、アメリカが人民軍の力を恐れていたからだとする資料や論評を競って掲載している。

 もし、アメリカ軍が人民軍との対戦で被害を最小限度に食い止める力がないとすれば、人民軍の存在は米軍の戦争挑発を抑止する強大な力として作用していると見てよいであろう。

 ところで、人民軍のそのような軍事力は経済的にゆとりのある状況のなかではなく、最悪の状況のもとで培われたのであり、それを可能にしたのが先軍革命指導である。

 朝鮮人民が再び帝国主義の植民地的奴隷に転落するのを防ぐため、社会主義を守り、チュチェ革命偉業を完成させるべく、困苦欠乏に耐えながら軍需産業に格別の力を注ぎ、強大な軍事力を養ったからこそ、朝鮮人民軍はアメリカの横暴を抑えることができたのである。

 金正日将軍は、軍事技術的準備が立ち遅れていては敵に勝つことができない、政治的、思想的にしっかり準備できた革命軍隊が、そのうえで軍事技術的にも十分に準備できていれば、無敵の軍隊になれるとして、軍需産業を優先させる原則で、人民軍の軍事技術的強化をはかっている。

 軍隊とは戦争を目的とする集団であり、戦う以上必ず勝たなければ存在意義がない。いかにすぐれた精神力と道徳的品格の持ち主であっても、戦う能力や体力が弱ければ、軍人の本分を果たせるものではない。いわんや、ハイテク兵器をもっておこなわれる現代の戦いでは、兵士がそれらを自由に使いこなし、鋭い状況判断力と臨機応変の作戦能力、屈強な体力を兼備していなければならない。

 兵器と軍人のどちらを優先させるべきかと言うと、それはもちろん軍人の能力である、軍人は軍事力構成の根本的要素であり、革命戦争の主体だとするのが、金正日将軍の軍隊観である。

 将軍はそうした観点から、戦争では兵器も重要であるが、それを扱う主人はあくまでも軍人である、軍の威力と戦争の勝敗は兵器ではなく人間によって決定される、軍人が革命思想でしっかり武装し、軍事技術的に十分に準備されていれば、そのような軍隊は必勝不敗である、とする軍人中心のユニークな軍事思想をうち出し、軍の指導では常に、兵器よりも軍人を重視し、かれらの思想的覚醒を促して、いっさいの軍事問題を解くことを重要な原則としている。こうして、人民軍兵士はいかなる状況のもとでも、またいかなる敵軍と戦っても一撃のもとにこれを撃破する、力と知略の持ち主に、どのようなハイテク兵器も立派に扱える万能の兵士に、一人が百人、千人を相手どつて戦っても負けない 「一当百」の精悍な軍人に育っている。

 1996年3月のある日、将軍は、最前線にあって「一当百」のスローガンを生んだと言われる大徳(テドク)山の区分隊を訪れた。

 「一当百」と大きく刻まれた岩壁の前で立ち止まり、それに見入っていた将軍は、1963年2月6日、降り積もる雪を踏んで大徳山陣地を訪れた主席が、人民軍に「一当百」の革命的スローガンを示し、人民軍の強化発展にとって歴史的な意義を持つ綱領的な教示をおこなったとして、当日のことを感慨深く回想した。

 区分隊の指揮官が将軍に、このスローガンが最初に出されたとき、軍内の反党反革命分子は、度がすぎる、外国人に笑われる、一当百、一当百と騒ぐと、有事に際して友邦の援助が期待できなくなる、などと言って、スローガンをなくしてしまおうとしたが、区分隊の将兵は誰かに指図されたわけでもないのに、ノミで岩壁に「一当百」と大きく刻んで、これを兵力強化の旗印とし、必勝の信念を固めてきたと報告した。

 将軍は、よくやったと褒め、人民軍は「一当百」の革命的スローガンにこもる主席の深い意図を体して軍人の教育に力をいれ、全将兵を一当百の精兵に鍛えようと強調した。

 将軍が「一当百」のふるさと大徳山陣地を視察したのは、「一当百」のスローガンを軍事力強化の旗印として、人民軍全将兵を無敵必勝の強者に鍛え上げようという意図からであった。

 不屈の革命精神と巧みな戦術、百発百中の射撃術、それにがっしりした体躯を持ち、自分の兵器はいうまでもなく、分隊、小隊、重隊の兵器、ひいては敵の兵器をも自由に使いこなし、艦船の甲板兵は砲や機関銃、無電まで受け持つ能力を身につけ、砲の装弾兵は照準や砲長の任務も立派に勤めることができるよう準備できているのが人民軍将兵である。

 1994年秋のある日のこと。

 米国防省情報局長クラッパーが非武装地帯を視察中、パイロットの失策からか、ヘリが非武装地帯中央の休戦ラインに近づいた。南側の兵士(アメリカ兵か南朝鮮兵かは未詳)は、ヘリが逃亡しているものと思って射撃を加えたが、一発も命中しなかった。

 このとき、北の人民軍が休戦ラインを越えたヘリに射撃を加えた。銃弾は一発で命中したが、幸いにエンジンと給油タンクが無事だったので墜落することはなかった。九死に一生を得てワシントンに帰ったクラッパーは、北朝鮮とは戦うべきでないと主張したという。

 この出来事があってから、アメリカ側は非武装地帯付近におけるヘリの飛行を禁ずる一時的な措置を取った。偶発的な衝突から北朝鮮と戦う羽目に陥っては困ると思ったのであろう。

 他方、金正日将軍は人民軍装備の現代化に格別な力をいれ、いかなる近代戦にも対処しうるようはからっている。現在、強力なハイテク兵器の開発に努めているアメリカに対抗して、それに負けない強力な打撃手段を持とうとする国があらわれるのは極めて当然なことである。だからといって、分断された小国の北朝鮮が核空母やステルスのようなハイテク兵器を大々的に作っているアメリカと同じ規模でもって軍備競争をすることは考えられない。西側の軍事戦略家は、巨額の費用をかけて空母やイージス艦を作っているアメリカにたいし、ただの一発でそれらを撃沈しうる比較的安価なミサイルをもって戦うのが北朝鮮の戦略だと分析している。

 ミサイル攻撃には無防備だと言える平野地帯の大都市をたたけば、強大な破壊力をもってアメリカの軍事力・国力のピラミッドをたちどころに崩し去るだろうというのである。これは十分にありうることである。NATO軍司令官クラークが、ユーゴとの戦争で空や海から1か月以上もミサイル攻撃を加えたが、コソボ・セルビア軍の無力化を果たせなかった、セルビア軍はまだまだ強力だ、と告白したように、現代戦で空軍や海軍は無視できない存在ではあるが、そうしたハイテク兵器が戦争の勝敗を決めるのではない。

 ともあれ、世界的に軍事科学技術が急速な発達を遂げ、新型兵器が続出している状況にてらして、北朝鮮が軍備の現代化戦略をもって人民軍の強化をはかっていることは確かである。

 金正日将軍は、北が「苦難の行軍」と強行軍を余儀なくされた苦しい状況のもとでも、最新兵器による人民軍の武装に深い関心を払い、軍視察の際にも、指揮官たちに兵器の世界的発達状況や新兵器の性能について詳しい説明をおこなっている。

 こうした先軍革命指導を得て、いま人民軍の装備は高いレベルにあると評されている。

 アメリカや日本の研究家は、人民軍の空軍は、アメリカ軍の最新鋭戦闘機と空中戦を交えてもひけをとらず、敵の主要拠点や軍集団を一挙に壊滅しうる現代的軍用機を保有していると分析している。

 海軍も領海を立派に守るすぐれた艦船と兵器を備えた大艦隊に急成長し、戦車や砲兵力も高いレベルに達しているという。

 北朝鮮の軍部がおこなった声明や談話でも強調されているように、北朝鮮は敵が地球上のどこにあろうとも一撃のもとにせん滅しうる強力な打撃手段を備えており、実際に砲と戦車の機動力は以前に比べて数十、数百倍に高まっている。例えば、砲の自走化能力は、それが進んだ国も目を見張るほど高いレベルにある。

 装備の現代化と相まって、人民軍の作戦能力は非常に高い水準に達している。

 先軍指導による作戦能力の高さは、1994年の空軍飛行隊総出動訓練の状況を見ればよくわかるであろう。

 ある日、最高司令官金正日将軍は、空軍指揮部に飛行隊の総出動訓練命令を発した。

 訓練の開始は、数時間後に予定された。その短い時間に一国の軍用機を総出動させるのは、世界のどの国でも例のないことであった。空軍の長い伝統を誇る発達した国でも、自国の全軍用機を一斉に出動させた例はない。最高司令官の命令に驚きながらも、指揮官たちは直ちに訓練開始の準備に着手した。ところが、北朝鮮の空が急に黒雲に覆われはじめ、天気予報ではみぞれが降る地方もあると伝えられた。しかし、そうした悪条件のもとでも、全国各地の飛行場からは、さまざまな機種の飛行機が一斉に飛び立ち、飛行任務を立派に果たして基地に帰った。将軍は、訓練の成果に満足の意をあらわした。

 北朝鮮のこの飛行隊出動訓練に先立って、空の優勢をもって北朝鮮を威嚇しようとはかったある敵対国が、自国軍用機の半ばをもって出動訓練をおこなおうとしたことがあったが、指揮体系の分散性に加えて空模様が悪化し、訓練を放棄するという出来事があった。

 金正日将軍は、その国の失敗をあざ笑うかのように、人民軍空軍に飛行隊総出動訓練命令をくだして見事にに成功させたのである。

 先軍革命指導によって、人民軍の陣地も国の実情と現代戦の要請に即して完璧に築かれている。

 殺傷・破壊力の甚大な兵器が大量動員される現代戦で、いかなる打撃にもびくともしない堅固な陣地を構築することは、軍の軍事技術的威力を強化するうえで重要な意義をもつ。湾岸戦争のとき、多国籍軍が延べ数千数万の航空機とミサイルをもってイラクの防備施設を攻撃したが、地下構造物のすべてを破壊するまでにはいたらなかった。イラクの防備施設物は砂地を掘って作ったコンクリート構造物であるが、北朝鮮の坑道要塞は、原爆をもってしても破壊できない堅固なものである。

 世界の軍事評論家は、北の軍事力を研究すればするほど、その威力の大きさを思い知らされるとして、肯定的に評価している。古代マケドニア軍の偉容や現代グルカ兵の勇敢さを好んで引き合いに出す西側のマス・メディアも、「世界で最も強力な軍隊、敵が最も恐れる軍隊は朝鮮人民軍だ」と特筆大書しているのは、いわれのないことでない。

 金正日将軍は、軍需産業の強化にも深い関心を払っている。

 軍需産業は自衛的軍事力の基礎であり、軍事力を強力に裏うちする必須の前提である。軍需産業に力をいれず、他国に頼る軍隊はいつかは必ず滅びるのが歴史の教えるところである。

 将軍はある日、国がこの難局に際し、目前の苦しみに負けて軍需産業に力をいれなくなれば、社会主義を守ることができないと強調し、ケーキやドロップは作れなくても生きていけるが、兵器と弾薬を作れないと生きていけないと語った。

 将軍は、現代戦は弾丸とオイルの戦争だとして、軍需品工場をしばしば現地指導し、隘路を一つひとつ解決していった。

 このような先軍指導によって、北の軍需産業は日進月歩し、決心さえすれば、どのような兵器も作れる高いレベルに達した。

 それで、1999年3月、アメリカ軍が主導するNATOの空爆で廃墟と化した国ユーゴの一高官が、北の軍事関係者にこう語ったという。

 「我々は今度の戦争をとおして、自衛的国防力を強化すべき必要を切実に感じた。周囲の国ぐにがNATOに加勢し、あれほど頼みとしていたロシアの支援も得られなかったのがくやしくてならなかった。問題は、一にも二にも、みずからの軍事力を強化することにある。これだけが生きる道だ。我々は、困難を極めた状況のもとでも自衛的国防力の強化に大きな力をいれている金正日将軍の政治がいかに先見の明ある政治であるかをはっきりと知った」


軍視察

 金正日将軍は90年代後半の5年間に430余の人民軍各部隊と区分隊を視察しているが、その道のりは4万8000余キロにのぼると伝えられている。

 世界は、将軍のこのエネルギッシュな軍視察を、先軍政治方式の具体化だとして注目している。将軍の軍視察はなによりも、アメリカとの正面対決として受け取られている。

 金日成主席が急逝した1994年以来、北朝鮮は帝国主義勢力の包囲に対抗し、「苦難の行軍」と強行軍をもって社会主義をゆるぎなく守りぬいた。この時期の将軍の軍視察は、人民軍の強化によってアメリカの軍事的圧力を退け、社会主義を擁護する意図のもとに進められたと考えられる。

 将軍は、現在進めている人民軍の現地指導が社会主義の擁護という重大問題とかかわっているとし、この重大問題解決のカギは軍にある、と指摘している。このように金正日将軍の軍視察は、将軍が人民軍の陣頭に立って反帝闘争を進めていることのあらわれであり、そうした意味で、将軍が占めている位置は、社会主義を守り、チュチェ偉業を前進させる革命の最高司令部だと言える。

 将軍はこの最高司令部を最前線に置き、千里を見透かす慧眼と必勝の信念、無類の胆力をもって、優勢を誇る敵との対決で常に勝利してきた。

 他方、将軍の軍視察は人民軍の指導にとどまらず、国の革命と建設全般を指導するためのものでもある。

 なによりも、人民軍の視察に力をいれ、それをとおして社会主義偉業全般を偏向なく導いていくのが、将軍の革命指導の根本的特徴である。

 北朝鮮の人民は、将軍の軍視察を自分たちの部門への現地指導でもあるとして受けとめ、軍視察をとおしてなされた将軍の一つひとつの教えを胸に刻んで、その実行に取り組んでいる。

 このように、将軍の軍視察は、人民軍の枠を越えた社会主義建設全般への指導であり、北朝鮮に特有な伝統的「人民行き列車」に乗った「人民行き」の道のりである。

 将軍の視察がおこなわれたところでは、将兵の士気がたぐいなく高まり、鉄壁の防御陣が構築されている。

 1211高地、351高地、五聖(オソン)山、大徳山など陸海空軍の各区分隊、それに軍事学校や軍事対象地も訪れて、作戦能力その他の実態を具体的に確かめ、隘路の解決対策を教えるなど将軍の的確な指導こそ、人民軍の政治的・軍事的威力を最大限に高める要因である。将軍は、人民軍将兵がいるところなら、どこへでも出かけていく。

 1998年のある日、将軍が敵軍と向かい合った第一線高地のある陣地を訪れたときのことである。

 車が高地の麓に到着したのは早暁四時であった。ここから陣地までの山道は険しかった。車は、降りしきるみぞれにぬかるんだ急坂を登っては滑り、また登っては滑った。それが5度、6度とくり返されたとき、将軍が下車して、随員たちに車を押そうと言った。随員が、こんな悪天候ではとても登れそうにないから、晴れた日を選んで出直してはと勧めたが、兵士がいるところには必ず行くべきだ、天気のよしあしを気にしていたら、いつかれらに会えるのだ、と言って、ズボンが泥にまみれることなど一向気にかけず、真っ先に車を押して陣地に到着したという。

 将軍は、第一線部隊を訪れると、敵陣を眺めながら地形地物や部隊の配置状態、敵状などを具体的に確かめ、状況報告も聞いて、作戦地図を指しながら敵情に備えた戦略戦術的方策を教え、軍人の訓練を見、部隊の戦闘力を高める重要任務も与える。

 たえざる現地指導によって、将軍は最前線に延びた防御線の地形地物やその他の状況をたなごころを指すように把握している。

 1998年5月のある日、第一線を視察中の将軍は険阻なカチ峰のある陣地に立ち寄った。部隊長は将軍に前線の状況を説明しなければと思いながらも、一面濃霧に包まれている早暁のことで、そうすることができなかった。

 一行が高地に立ったとき、霧がいくぶん晴れて、雲の合間に峰々がおぼろに姿をあらわしはじめた。ほっとした部隊長が地形地物の説明をはじめると、将軍は、地図を見れば説明を聞かなくてもわかると言って、広げられた地図にしばらく見入った。そのあと、目に映る峰々の名を一つ一つ挙げていくのだった。

 「向こうに見えるのは先祖(ソンジョ)岩で、その前に見えるのが351高地と月飛(ウォルビ)山だね」

 霧の中におぼろに浮かぶ峰はもとより、全然見えない地形地物まで的確に言いあてる将軍の指摘に、一同はただ舌を巻くばかりだった。かれらは、将軍が以前当地を何度か非公式に視察したのでは、と思いさえした。

 かれらのそんな気持ちを察したのか、将軍は、私はめがねをかけているのでよく見えるのだ、諸君もめがねをかけたらはっきり見えるだろう、と言って豪快に笑った。

 将軍は、軍視察で軍人の思想教育に格別大きな関心を向けている。

 1996年11月24日、板門店(パンムンジョム)代表部を訪れた将軍は、第一線の将兵は、国を奪われ主権をもてなかったせいで、亡国の民の悲惨な生活を強いられた父母の涙ぐましい過去を二度とくり返すまいという高度の階級的自覚をもって、祖国の関門をゆるぎなく守っている、とかれらをたたえ、全将兵が搾取と抑圧に苦しんだ祖父母や父母の血のにじむ過去を片時も忘れることなく、人民大衆中心の我が社会主義を最後まで守って戦うよう、しっかり準備させることが大切だと強調した。

 数年前、日本の一出版物に、朝鮮地図のまわりに猛獣が群がって吠えたける漫画が掲載されたことがある。北朝鮮の圧殺をもくろんで、アメリカを先頭とする帝国主義連合勢力がいまや攻撃態勢に移ったことを風刺したものであった。

 アメリカのタカ派は、1994年10月の朝米基本合意文の採択に抗議して、「米朝基本合意文の採択は過度の譲歩、アメリカの威信の失墜」「米朝基本合意文の発表によって問題が解決されるわけではない」「休戦ラインの北側には人民軍兵力の70〜80パーセントが集中展開している。これは『南進の脅威』が存続していることを意味している」「アメリカは、いつでも北朝鮮に武力を使用する覚悟ができている」などと騒ぎ立て、パトリオット・ミサイルなどの新鋭兵器を南朝鮮に大々的に持ち込み、「チーム・スピリット」を上回る合同軍事演習「イーグル」や戦争演習「花郎(ファラン)」をくりひろげて、情勢を激化させた。朝米基本合意文の採択によって情勢が緩和されたかに見えたのが、またしても1993年の緊張が再現されたとして、世界は憂慮した。

 このようなとき、金正日将軍は、野戦服にひさしの短い毛皮帽という素朴な身なりで前線視察の途についた。

 西側のマス・メディアはこれに直ちに反応した。

 金正日将軍の帽子はただの帽子ではない、それはトラのような猛獣狩りにかぶる狩猟帽だ、将軍が狩猟帽姿で最前線にあらわれたのは、北朝鮮をのみこもうと吠えたける帝国主義の猛獣を退治するためだ、北朝鮮では『将軍は名射手、われらは命中弾』という歌が広く歌われているが、その意味は深い。


先軍政治のラッパ手−朝鮮人民軍功勲合唱団

 歌は人間の生活と切っても切れない関係にある。軍隊も同様で、軍歌のない軍隊というものはどの国にも存在しない。

 人びとの心を音楽をもって動かし、苦しみも試練も歌声をもって克服していくよう導く金正日将軍の指導を得て、北朝鮮では音楽が革命の武器として特別な地位を占めるようになった。

 将軍は、必勝の信念と革命的楽天主義をもって軍人を精神的に武装させるうえで、文学・芸術、とりわけ音楽が重要な作用をするとして、我々には朝鮮式哲学・朝鮮式音楽哲学がある、音楽は人びとに生の喜びと革命的情熱を抱かせ、かれらを闘争と偉勲へと呼び起こす革命と建設の有力な武器である、たたかいのなかに歌声があり、歌声の高いところに革命の勝利がある、と強調している。

 将軍は、このような音楽政治を貫くうえで、朝鮮人民軍功勲合唱団を先頭奏者の位置に立たせたのであった。

 将軍は、革命の先頭にはつねにらつば手が立っている、三池淵(サムジョン)大記念碑の群像の先頭に抗日戦のラッパ手をクローズ・アップして立たせたのもそのためだ、いま自分がおこなっている先軍革命指導のラッパ手は、ほかならぬ功勲合唱団だ、と意味深く語った。

 軍隊におけるラッパ手は、指揮官の命令・指示を伝え、一定のメロディーをもって隊伍を動かし、集団力を発揮させるなどの重要な使命を担っている。

 朝鮮人民軍功勲合唱団が先軍政治のラッパ手だと言うとき、その政治的意味も同じ文脈でとらえるべきであろう。

 功勲合唱団が先軍政治のラッパ手だということは、合唱団が最高司令官のラッパ手だという意味である。

 朝鮮人民軍功勲合唱団の前身は、1947年に組織された朝鮮人民軍協奏団の音楽舞踊総合公演における男声合唱隊で、早くから金正日将軍のねんごろな指導のもとに貫禄ある芸術集団に成長していた。

 将軍は、1990年代の中ごろ、男声合唱をもって1時間以上単独公演し、しかも他の形式の種目を加えなくても、そのすべての芸術的形象を表現しうる音楽芸術の独特な1ジャンルとしての男声合唱団を組むことを決心した。軍の性格にふさわしい、覇気にあふれる男声合唱団こそ先軍政治の立派なラッパ手になれると見たのであった。

 将軍は、男声合唱の特性を明らかにし、軍人は銃剣を愛し、軍功へのあこがれが強いから、男声合唱のような、集団力にあふれ、感情・情緒的体験を強烈に発散する音楽をもっとも好むとして、功勲合唱団を世界最高の合唱団に押し立てることを決心し、その方途を具体的に教えた。

 将軍は、有能な歌手や奏者を補充して合唱団の拡大をはかる一方、それに見合った管弦楽の主体的な再編によって伴奏を完成しなければならないとして、その対策を講じた。他方、合唱団の指揮メンバーともたびたび会って、合唱は声量だけで力を示威する芸術ではなく、文字どおりのアンサンブル、ハーモニーの芸術だ、声楽家のボリュームがいくら豊かであっても、管弦楽の伴奏が声楽と調和しなかったり、アリアがコーラスや伴奏にそぐわなかったり、また舞台の背景と照明が音楽を造形的に際立たせることができなかったりすれば、合唱はその力を十二分に発揮することができない、また、功勲合唱団は編曲においても、革命軍隊の勇猛と英知、英雄的気象をよく生かし、指揮は人民軍の規律性と組織性が立派に具現されるようにすべきであり、演奏形式においても軍人の革命的気質と戦闘精神がみちあふれるようにしなければならない、と懇切に教えた。

 こうした将軍のねんごろな指導によって、功勲合唱団は最初の舞台から早くも、百編の革命歌もとおしで歌えるほどの大合唱団として登場したのであった。

 将軍は、功勲合唱団の力強い歌声で軍人と人民大衆を精神的に武装させ、それによって、全軍、全社会に必勝の意志と闘争意欲がみなぎるよう導いた。

 将軍は、功勲合唱団がチュチェ思想でしっかり武装し、その一つ一つの歌声に先軍政治の思想・意図が十分にこもるよう、細心な指導をおこなった。

 将軍は、合唱団が金日成主席の永生をはかる党の偉業(ここにチュチェ革命偉業完成の根本的な裏付けがある)への献身性を胸に秘めて、時代と革命が切実に求める領袖決死擁護思想と赤旗思想、「苦難の行軍」精神にあふれる歌をうたうよう、合唱曲をみずから選曲し、また時代精神が横溢する200余編の歌曲を短時日で完成するよう導いた。

 このように、金正日将軍の思想・意図をもってみずからを武装した功勲合唱団は、核兵器をも思想・芸術の力で一挙に制圧しうる有力な隊伍に育った。

 将軍は、功勲合唱団の最初の単独舞台である、1995年12月24日の最高司令官推戴4周年慶祝公演以来、かれらの公演をしばしば観覧している。

 1997年2月15日、平壌の4.25文化会館では、金正日将軍の誕生を祝う朝鮮人民軍功勲合唱団の公演会が催された。

 最初の歌は『金正日将軍の歌』であった。

1 白頭につらなる うるわしい祖国
  将軍あおいで 歓呼にどよめく
  太陽の偉業を継ぐ 人民の指導者
  マンセ マンセ 金正日将軍

2 大地の花々 その愛つたえ
  青き海原 その功うたう
  チュチェの園きずく 幸せの創造者
  マンセ マンセ 金正日将軍

3 鉄の意志で 社会主義まもり
  われらの祖国を 世にとどろかす
  自主の旗かざす 正義の守護者
  マンセ マンセ 金正日将軍

 功勲合唱団により作詞、作曲された領袖賛歌『金正日将軍の歌』がもつ意義は、祖国の解放直後に生み出された『金日成将軍の歌』のそれに匹敵する。

 『金正日将軍の歌』は、人民軍将兵の革命軍歌として力強く響き渡って、全人民が合唱する一心団結の大コーラス曲となり、社会主義の擁護とチュチェ偉業完成の旗印になった。朝鮮人民軍功勲合唱団は、将軍の思想・意図を奉じて、90年代の『赤旗歌』とされる『高く立て赤旗』を形象し、金日成主席の急逝で血涙にむせび、深い悲しみにとざされていた全軍、全人民を力づけて主席の永生偉業遂行へと呼び起こした。

白頭の聖なる 赤旗に
主席の生が 映えている
高く立て赤旗 誓いに燃えよ
将軍を守り ひるがえそう

歴史の峻嶺 踏み越えて
勝利のみ旗に 刻みきた
高く立て赤旗 信念の旗を
将軍に従い ひるがえそう

 金正日将軍は、功勲合唱団によってはじめて歌われたこの歌のなかで「白頭の聖なる赤旗に主席の生が映えている」と「勝利のみ旗に刻みきた」という歌詞が一番気にいるとし、歌謡『高く立て赤旗』は90年代の『赤旗歌』だと高く評価した。

 軍人と人民は、この歌をうたいながら主席と永別した悲しみから立ち直り、「苦難の行軍」と強行軍を勝ち抜いたのであった。

 1996年の建軍節に際して訪れた前線西部大連合部隊指揮部と、翌年の戦勝節を迎えて訪れた第一線の人民軍部隊など、功勲合唱団を先立たせて将軍が訪れた人民軍区分隊や第一線の各高地では、功勲合唱団の力強い歌声が高らかに響き渡った。

 アメリカが北朝鮮を威嚇し、いままさに戦争を起こそうとしていたある年のこと、人民軍将兵は最高司令官金正日将軍の戦闘命令のくだるのを待って、万端の動員態勢を整えていた。そうしたある日、将軍は人民軍の指揮メンバーに向かって、すばらしいものを人民軍各部隊に贈ることにしたと言った。時が時だけに、かれらは将軍が強力な新型兵器を前線に配備するのではと考えた。

 ところが、将軍が贈ると言ったのは、意外にも、歌謡『千万が銃砲弾になろう』の楽譜だった。楽譜を手にした指揮メンバーは、すばらしいものを贈ると言った将軍の意図の深さにいまさらのように感嘆した。かれらは、凶悪な敵との対決で勝利する秘訣がすぐれた武器や兵力数にでなく、人民軍将兵の思想・精神力を強く呼び起こす歌声にあるとし、歌声をもって敵軍の制圧をはかる最高司令官の崇高な志を胸に深く刻んだ。

 金正日将軍は功勲合唱団を先立たせて軍視察を続け、革命的気概にあふれる勇ましくも荘厳な軍歌をもって先軍政治を立派に指導している。


軍民一致

 朝鮮人民軍は、古今東西のどの軍隊も果たせなかった思想・精神力および実践活動における最も強固な軍民一致を実現し、無敵強兵の地歩をいちだんと固めた。

 金正日将軍は、革命的軍人精神にもとづく軍と人民の思想および闘争気風の一致こそ軍民一致思想の本質であり、国家社会の基盤である、と指摘している。

 北朝鮮における軍民一致は、先軍政治の推進力であり、帝国主義連合勢力との対決で勝利し、チュチェ偉業を完成させるための有力な武器である。

 こんにちの軍民一致は従来北朝鮮で強調された軍民一致をうけ継いだものであるが、そこには性格上一定の相違がある。

 こんにちにおける軍民一致は、軍が人民を助け、人民が軍を擁護するたんなる相互補完的な団結の域を越えて、革命の主力=柱である人民軍の高度の内面世界と闘争気風を人民が学び取り、軍と人民が思想的にも、闘争精神と気風、方法のうえでも完全に一致する高度の団結である。

 金正日将軍は、社会主義と人民の命運が尽きるか否かの岐路に立たされた90年代の複雑至難な状況のなかで、人民軍将兵が発揮した思想・精神力と革命的闘争気風を革命的軍人精神として高く評し、それを軍民一致の精神的および実践的基礎となるようはからった。祖国が最大の試練にさらされていた時期に、将軍が人民軍に寄せたこの信頼は、軍人の精神力を百倍、千倍に高めた。

 1996年9月に第一段階工事を完了した安辺(アンピョン)青年発電所は、軍人のそのような精神力の精華であった。

 安辺青年発電所の建設は、江原道一帯の電力不足を解消するために進められたものであるが、西側観測筋の推算で総工費40億ドル強と目された西海開門のそれに倍する、世界屈指の大自然改造工事であった。しかもそれは、「苦難の行軍」という厳しい状況のもとで進めなければならなかったのである。

 金正日将軍は、この至難の課題を人民軍が担当して遂行するよう命じた。

 軍人建設者はすべてが不足していた90年代のあの苦しい状況のもとでも、工事全期間にわたる将軍の深い信頼と配慮に励まされて果敢な戦闘を展開し、不可能を可能に変えながらついに工事を完成したのであった。

 金正日将軍は第一段階工事の完工を目前にした6月10日、建設現場を訪れて、天井岩から水がしたたり落ちる大型水路まで視察し、軍人建設者の英雄的なたたかいぶりについての報告を聞いた。

 それから数か月たった9月中旬、再び現地を訪れた将軍は、安辺青年発電所は党の要求とあらば山をも移し、海をも埋める革命的軍人精神の貴い結実だ、軍人建設者が発揮した大衆的英雄主義と気高い犠牲精神、祖国と人民の前に積んだ偉勲を祖国は永遠に忘れないであろう、人民軍将兵が発揮した革命的軍人精神はいかなる状況のもとでも、党から授かった戦闘的課題を立派に遂行する絶対性、無条件性の精神であり、いかに困難な任務も自力でやり遂げる自力更生、刻苦奮闘の精神であり、党と革命、祖国と人民のためなら生命をもなげうってたたかう自己犠牲精神、英雄的闘争精神であるとたたえた。

 こうした決死貫徹の闘争気風と領袖擁護精神、革命的軍人気質は、たちまち全軍にゆきわたって朝鮮人民軍の革命的軍人精神=革命的軍風として定着し、それが社会にも波及して、全人民を「苦難の行軍」、社会主義強行軍へと、さらには強盛大国建設の突破口を開く第二のチョンリマ大進軍へと奮い起こす原動力となったのである。

 金正日将軍は、抗日革命闘争時代に抗日遊撃隊と人民の間で開化した「擁軍愛民」の革命伝統を、発展する革命の要請に即して新たな段階に引き上げ、軍民の血縁的結びつきをいつにもまして強く固めるようはからった。

 人民軍によって生み出された革命的軍人精神が全国に浸透していくなかで、軍隊は人民に尽くし、人民は軍隊を擁護するなど軍民間の情誼は日を追って厚くなっていった。

 農場で失くした牛を見つけ、何里もの道を引いて行って持ち主に返した一軍人の美談、思いがけない火災で一家が焼け出され、途方に暮れていた住民を真っ先に助けて、以前にもまして立派な住居を建ててやり、大小の所帯道具までそろえて贈ったある部隊の美挙など、心温まる話は尽きない。

 金正日将軍は、1996年12月のある日、黄海(ファンヘ)北道銀波(ウンパ)郡養洞(ヤンドン)里の農民から一通の手紙を受け取った。

 「(略)
 将軍

 私達が2〜3か月分の食糧を割き、それを軍糧米として納めたからといって生活に困るようなことはありません。食糧を節約し、麦を前作し、野菜もたくさん植えて不足分を補えば、おなかを空かさなくても十分に持ちこたえ、来年の農事を営むことができます。祖国解放直後に金済元(キムジェウォン)農民が、偉大な主席を仰いで愛国米を献納したように、いまは私たちが偉大な将軍を仰いで、より多くの軍糧米を納めようと思います(略)」

 銃後の自分たちは腹を空かしても構わないが、祖国の守りを固める軍人にひもじい思いをさせてはならないという、この涙ぐましくも美しい軍支援気風は、軍隊のためならなにを惜しもうという全国人民の真心のあらわれである。

 将軍は軍の指揮メンバーに、この手紙の内容をもって軍人を教育するよう指示し、諸君も読んで感じたろうが、この一通の手紙にも我々の社会主義を守り、党と永遠に運命をともにしようとする朝鮮人民の鉄石の信念と意志が立派に反映されている、私は手紙を読んで大いに力づけられた、手紙の内容を全国の農場員に伝えたところ、反響がすばらしかった、農業勤労者はいま、養洞協同農場第7作業班員の手本にならつて、軍糧米をとどこおりなく納め、営農準備も立派におこなおうと誓い合い、われもわれもと軍の支援に奮い立っている、この手紙は人民を教育するうえで極めて大きな意義がある、と語った。将軍は、このような軍民関係をよりよく発展させるうえで、軍が舵を取り、主導的役割を果たすようはからった。

 軍民一致の威力は、最も厳しい試練の時期に全人民の団結した力で帝国主義の侵略策動を粉砕して社会主義を守り、「苦難の行軍」と社会主義強行軍を勝ち技き、強盛大国建設の突破口を開くたたかいで遺憾なく発揮された。




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