『金正日先軍政治』−1 先軍政治論

1 金正日政治方式の登場


 先軍政治がチュチェの政治とされるのは、自主的な生活を願う人民大衆の志向が反映されたチュチェ思想を基礎とし、それをもって貫かれているからである。

 先軍政治は社会主義と人民大衆の尊厳を守り、国力を最大限に強化している北朝鮮の現実から、その正しさが立証されている。

 東欧の社会主義諸国を崩壊に導いた大きな原因の一つとして軍の思想的弱体化があげられているが、このことは、社会主義偉業の遂行で軍事問題がいかに重要な地位を占めているかをはっきりと示している。

 社会主義は、資本主義とのたたかいを通して生まれるものであり、また反動派の反革命的攻勢にさらされながら社会主義を建設しなければならないのであるから、軍事力の優先は避けられない。

 マルクスとエンゲルスも社会主義制度をうち立てるためには革命的暴力を準備しなければならないとして、それがほかならぬ労働者、農民をはじめ、勤労大衆からなる軍隊だと指摘しており、その後も労働者階級の革命理論は、プロレタリアートは帝国主義など反動勢力が敗退し滅亡するまで決して武器を置くべきでないとして、労働者階級の軍隊の必要性とその任務の重要性を強調してきた。

 ところで、先軍政治方式は、金日成主席の軍重視思想を金正日将軍が、こんにちの状況に即して具現したものである。

 先軍政治方式は、ポスト冷戦−デタント時代への移行とともに地球上におきた進歩派と反動派の間の勢力関係の変化にたいする分析にもとづいて金正日将軍がうちだした政治方式である。

 先軍政治方式の出現は、社会主義朝鮮への帝国主義勢力の挑戦と切り離して考えることはできない。

 1994年7月以降、世界の耳目は北朝鮮、とりわけ金正日将軍に向けられてきた。

 国運を開き、社会主義偉業を継承・完成するうえで、いつにもまして強力な政治的指導力が求められていたときに、社会主義朝鮮の創業者金日成主席が急逝し、国の命運は全的に金正日将軍に託されることになったからである。

 社会主義政治史においても権力の継承過程は避けられないものであり、北朝鮮の場合も、すでに30数年前から党と国家、革命の全般を指導してきた金正日将軍が主席の跡を継いだのは当然なことであったが、かつてない試練の時期に国と民族の運命を開く重大な歴史的課題を単身で担当遂行しなければならなくなったのである。

 世界は東欧社会主義の崩壊後、北朝鮮がアメリカを先頭とする帝国主義連合勢力と単独で対抗しなければならないいま、将軍がどう危機に対処していくだろうかと、注視した。南朝鮮やアメリカなど西側諸国では、北朝鮮が難局の打開を路線・政策の変更に求めざるを得なくなるであろうと、公然と期待されていた。

 冷戦の終結によって世界制覇戦略の野望をたくましくしたアメリカにとって、北朝鮮の動きは、特に関心の的にならざるを得なかった。

 かれらは、以前から朝鮮半島を世界制覇戦略の重要な橋頭堡と目していた。ここが日本と海を隔てて隣り合い、中国、ロシアのような大国とも国境を接していることから、アメリカは太平洋を渡って大陸に進出する拾好の踏み台であるとして、大戦後、半世紀を越えるいまも南朝鮮に居座っているのである。しかし、南朝鮮はあくまでも半島の南半分であり、大陸とはじかに接していないため、日本と同様一つの「島国」に過ぎなかった。

 とりわけ、90年代初めのソ連崩壊後ロシアと手を取り、中国とは70年代から修交関係にあるアメリカとしては、南朝鮮より北朝鮮に足をつけている方が戦略目標の達成にはるかに有利である。そこで、かれらは90年代の有利な情勢に乗じて、社会主義の原則をいささかも曲げることなく赤旗をひるがえして進む北朝鮮を政治的に孤立させ、さらには経済封鎖と軍事的圧力を強化して内部崩壊を促そうと企てた。

 西側世界で騒がれた北朝鮮の「政策変更」「路線変更」説は、苦境にあえぐ北朝鮮がいずれチュチェ社会主義の赤旗を降ろすであろうという判断のもとに流布されたものである。実際、北朝鮮の事態はゆゆしいものがあった。

 ところが、金正日将軍の対応は、その予想を全面的に裏切るものであった。

 「私に、いかなる変化も期待するな」「社会主義は守れば勝利し、すてれば死を招く」という政治的見解の表示は、いかに情勢が悪化してもチュチェの社会主義を決して放棄することなく、最後まで完成させてゆくであろうという鉄の信念と意志の表明であった。

 それでは、金正日将軍がなにを頼みとし、誰に期待をかけて、こんにちだけでなく遠い未来においても社会主義をゆるぎなく守るであろうと、堂々と宣言しえたのであろうか。

 それは、将軍のもとに数十年間にわたって鍛え上げられた軍事力があるからである。

 世界は、金日成主席の没後における最初の軍視察、つまり1995年1月1日早朝におこなわれた朝鮮人民軍部隊にたいする金正日将軍の現地指導を通して、その一端をうかがい知ることができた。この日の軍視察は、軍を信頼し、軍に依拠して苦難を乗り越え、未来を開いていこうとする将軍の政治的決意が歴々と見てとれる歴史的な歩みであった。

 将軍が、銃をもって我々の社会主義を守り、チュチェの革命偉業を完成するのは、我が党の不変の信念であり、意志である、と述べたのは、そうした政治的決意のあらわれである。

 将軍はまた、自分は主席の急逝後、「万景台(マンギョンデ)の別れ道」についていろいろと考えた、日本帝国主義を打倒して祖国に凱旋した金日成主席は、祖父母が待ちこがれる郷里の万景台を目前にしながらもここを通りすぎて降仙(カンソン)製鋼所の労働者から先に会った、祖国の解放直後、我々には党も国家も正規の軍もなかったが、いまはそうでない、あのとき、新しい国づくりで唯一の頼みはひとり労働者階級であった、ところが現在の我々の事情は当時と異なる、帝国主義者と反動派の執拗な孤立・圧殺策動を断固として粉砕し、革命の獲得物を守っていくためには、人民軍を決定的に強化しなければならない、と深い意味をこめて語った。

 休みなく続く軍視察とそこから生まれた革命的軍人精神、それを生命力として前進するチュチェの社会主義、このような政治過程を指して将軍は、「私の指導は先軍指導であり、政治方式は先軍政治」であると宣言した。

 先軍政治方式の出現は、90年代半ばの世界情勢と切り離しては考えられない。

 90年代初め、東欧社会主義諸国が崩壊すると、帝国主義・支配主義勢力は得たり賢しと我がもの顔に振る舞いはじめた。冷戦の終結とともに、アメリカは「パックス・アメリカーナ(米国一極支配下の世界平和)」戦略を高唱し、ほかの帝国主義諸国も気勢を上げはじめた。こうして、社会主義は息の根を止められるのであろうか、進歩と正義、平和への人類の志向と念願は夢として終わるのだろうかという危惧が人びとの頭を支配しはじめた。

 このようなとき、反動勢力の横暴を制圧する力をはぐくんだのが金正日将軍である。

 軍重視を国事の最高原則とし、軍を無敵の強軍に鍛え上げ、それに依拠して帝国主義・支配主義勢力の覇権主義的侵略企図を阻止し、社会主義を力強く前進させようとするのが金正日将軍の卓越した政治知略である。

 百数十年に及ぶ社会主義の政治史は、社会主義の本性にかなう政治方式の模索過程であったと言える。

 金日成主席はチュチェ革命偉業の開拓初期に、まず朝鮮人民革命軍を組織し、その強化、発展を通じて祖国の解放を達成し、解放後も建国に先立って人民革命軍を正規軍に発展させたのであった。

 金正日将軍は、主席の革命闘争史は、軍をまず組織し、それに依拠して革命と建設を勝利へと導いてきた先軍革命指導の歴史であったとし、主席の革命闘争史を先軍革命指導史と規定した。

 先軍政治は、主席のこの先軍革命指導史の伝統を継承し、発展させたものである。

 金日成主席とともに、つとに60年代から建軍事業を指導してきた将軍は、90年代の複雑な情勢のもとで、主席の先軍革命指導の伝統を正確にうけ継ぐことがチュチェの社会主義を守り、完成する唯一の道だとしてこの道を選んだのである。

 将軍の先軍政治方式は、国家政治体制によって裏づけられている。1998年9月、最高人民会議第10期第1回会議は、憲法を改正して、国家機構体制における国防委員会ならびに委員長の地位と権限を格上げし、軍重視の国家政治体制を打ちたてた。

 従来、国防委員会は最高人民会議と同常設会議、中央人民委員会の下位にあったが、改正憲法のもとでは、最高人民会議につぐ地位を占め、その法的地位と構成、任務、権限において最高人民会議常任委員会、内閣、地方主権機関、司法・検察機関の上位に立つことになった。

 国防委員会委員長は、国家の政治、軍事、経済の全般を統率、指揮し、社会主義国家体制と人民の運命を守り、国防の強化と全般的国力振興を指導する国家の最高職責であり、祖国の栄誉と民族の尊厳を象徴し、代表する重職である。

 この新しい国家機構体制は国家機構そのものを軍事化したものではなく、同体制内で軍事を優先視し、軍事分野の地位と役割を最大限に高めることを目的にその機能を定めたものである。

 金正日将軍の先軍政治方式は、このように、軍重視の政治体制によって法的・制度的裏付けを得ることにより、その強固さと力は不動のものとなった。





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