金正淑女史革命活動史 主要年表
 
1937年7月、日本帝国主義の中国本土への武力侵攻開始の時、反日青年同盟と児童団責任者の会議での発言



 1917年12月24日 咸鏡北道会寧郡会寧邑の愛国的で革命的な家庭に生まれました。

 朝鮮民主主義人民共和国中央人民委員会(現、朝鮮民主主義人民共和国最高人民会議)は1991年7月10日、咸鏡北道会寧郡を「都市経営と住民行政をいっそう改善するため会寧市と改称する」との政令を発表しました。

 父君は金忠善先生、母は呉福徳先生。一家の3番目、二人目の女子です。

 1910年8月22日、日本帝国主義は「日韓合併条約」を強制的に締結。全朝鮮人に対する本格的な植民地武断統治に入りました。

 由緒深い会寧邑内の地名が日本式に(「明治町」「敷島町」「大和町」「若松町」「銀座通り」「北の新地」) 、強引に変更されたのは1910年です。一家を始め村民は、村の中心部から追い払われ鰲山徳の土城の外にひしめき合う生活を余儀なくされました。一家は1922年の春、白アンズの花咲く故郷を捨て間島へ移住を決め、流浪の未、落ち着いた所は間島省延吉県富岩洞の下ノ村です。

 1925年、日本帝国主義は、中国の反動軍閥と抗日連動弾圧のため「三矢協定」を調印しました。その年、父君は日帝により拷問死し、その二日後、地主に借金のカタとして姉をとられました。1929年には、正淑は恨み骨髄の地主へ奉公にでます。

 1931年春、「夜学」が村の長老・洪元植先生の自宅に開校しました。教師は、反帝青年同盟の姜民K先生。正淑と基松(弟)をはじめ少年少女中心に40人が集まりました。

 長兄の基俊は、既に姜民K先生とは同志でした。その兄は、八道溝の地下組織で日本の憲兵隊により虐殺されるました(1932年ごろ) 。

 正数は自由時間で、「祖国とは何ですか」「地主や資本家はなぜ働かなくとも、お金持ちなのですか」「朝鮮はなぜ日本に統治されているのですか」などの質問をしています。

 1931年9月こうして、正淑は基松とともに少年先鋒隊に入隊します。

 日本の「間島討伐隊」は、1932年の春ごろから安図、延吉、樺旬、和龍、琿春など、各県に続々と創設された抗日遊撃隊の根拠地を圧殺するため、「百殺一共」「三光政策」などの皆殺し作戦、焦土化作戦と並行して、遊撃根拠地を経済的に封鎖する作戦を強行しました。

 1932年7月、朝鮮共産主義青年同盟に加盟。──青年運動の組織については後述。

 1933年冬、日本軍は5千余の大兵力を動員して第2次“討伐”作戦を強行しました。長財村の遊撃根拠地の人々は、三道湾根拠地へ移動中に日本軍の急襲を受けます。姉・正淑の危機を見た基松はラッパを吹き鳴らし敵を寄せつけ正淑らを救出するが、基松は銃弾の集中砲火をあびて戦死します。この時、13歳でした。

 弟の屍の前に立ち、永遠の別れを告げる正教は冷静でした。

 「愛する基松よ、おまえの英雄的な戦いによって、長財村の同胞たちは敵の虎口を逃れることができました。ほんとうに立派です。それでこそ朝鮮民族の息子であり、金日成将軍の戦士です……。これでお前のヌナ(姉)は、ほんとうに一人ぼっちになってしまいました。しかしヌナはくじけません。同志たちと一緒に、必ず私たちの父母兄弟、また、おまえと同胞たちの恨みを晴らすつもりです。愛する基松よ、安らかに眠りなさい……」

 1935年9月、安図県車廠子根拠地で朝鮮人民革命軍に入隊。以降、炊事を担当します。

 1936年春、撫松県漫江村根拠地で金日成将軍の警護隊員兼司令部つきの炊事隊員を命じられ、任務につきます。1936年2月に開催された高湖頭会議は、全国的範囲でより広範な反日民族統一戦線を組織し、党創建の準備を押し進める一方、朝鮮人民革命軍が朝鮮北部の国境地帯へ進出するという、画期的な方針を決めました。将軍はみずから主力部隊を率い、白頭山南部へ進出する途中に漫江村根拠地へ寄ったときのことです。

 1936年年5月5日、金日成将軍は東崗会議において、常設的な反日民族統一戦線組織である「祖国光復会」の創立を内外に示しました。

 1937年1月、抗日武装闘争の試練のなかで共産党に入党します。

 抗日武装闘争の全期間、金日成主席の新衛戦士として活動します。

 1937年春から、祖国光復会と婦女会の組織結成のために日本軍の統治区域であった長白県桃泉里へ派遣されます。やがて、正淑の活動は日本軍警の国境警備の要塞である両江道シンガルパ郡シンガルパ一帯に広がますが、悪名高い「靖安寧」(「満州国軍」のなかでも最も残虐、凶暴な軍)に捕らえられました。

 情勢は、朝鮮人民の戦いが各地で勝利し、日本帝国主義は追い詰められる状況でした。1937年6月4日、普天堡戦闘で朝鮮革命人民軍が歴史的な勝利をおさめ、日本の植民地支配に痛撃を加えています。

 「軍」と警察の拷問のなかで死ぬ覚悟をしながらも「祖国解放の日は必ずやってくる。白頭山の将師星を仰いで勝利の日まで戦いましょう!」と村民に訴え、秋になり「証拠不十分」で釈放をかち取ります。10月、朝鮮革命人民軍の本隊に戻り、正淑の闘争は金日成将軍から高く評価されます。

 1942年2月16日、白頭山の西南、朝鮮国内の小白水谷根拠地で正淑は男児を出生。男児は、白頭山の密林を生まれ故郷とし、密林に吹きすさぶ吹雪と銃声、隊員たちが歌う“革命歌"を子守歌にしながらすくすくと育ちました。この子は、両親の一字づつをとり「正日」と名付けられました。

 1945年、解放なった祖国に凱旋。

 1945年8月15日、朝鮮の解放を勝利します。10月14日、平壊市、牡丹峰の広場で凱旋の金日成将軍を歓迎する平壌市民大会が開催されます。

 将軍は歴史的な演説をおこないました。

 「わが朝鮮民族が、新しい民主主義朝鮮を建設するために、力を合わせるときはきました。一部の党派や個人だけで、この偉大な使命を完遂することはできません。力のある人は力で、知識のある人は知識で金のある人は金で建設事業に貢献すべきであり、真に祖国を愛し、民族を愛し、民主主義を愛する全民族がかたく団結して、民主主義独立国家を建設しなければなりません」

 この演説は「朝鮮独立万歳!」の言葉で結ばれました。

 解放後、金日成主席の新しい祖国建設路線の実現を目指して奮闘します。

 19455年12月29日、金正淑女史は、最愛の息子を胸に抱き、ついに革命の首都・平壌へ到着します。

 白頭山密林に女子隊員たちのグループとともに別れを告げ、解放された祖国の地、雄基を経て清津に到着したのは、その年の晩秋のことでした。

 清津市内の女性の歓迎集会で正淑は、一行を代表して次のあいさつをしました。

 「私たちは、金日成将軍の指導のもとに、凶悪な日本帝国主義を打倒する困難な抗日武装闘争で勝利し、きょう解放の喜びのなかでみなさんとお会いすることができました。祖国は解放されましたが、朝鮮革命はまだ完遂していません。革命の前途には依然として複雑多難な革命課題が提起されています。みなさんが不世出の愛国者である金日成将軍の指導のもとに、新しい祖国の建設に力強く立ちあがることを願ってやみません」

 1948年9月9日、朝鮮民主主義人民共和国創建が全世界に宣布されます。

 1949年9月22日、逝去。享年32歳。

 金日成将軍は、悲しみを抑えながら語っています。

 「正淑は私に最も忠実な同志でした。遊撃闘争のころ、敵の“討伐”が激しくて灯をおこすこともできなかったとき、ぬれた洗擢物を自分の体温で乾かしてくれたことさえありました。彼女のすべての行動は、同志たちのためであって、自分のためのものは一つもありませんでした。解放はされたものの南北は統一されず情勢が複雑であるいま、どうして任務を離れることができましょうといって、(正淑の)別れ別れになった家族を探しにいくのも、のばしてきた革命的な同志でした。私は、たとえ一日でも、彼女が楽な生活をしていたならば心残りはありません。一生の間、ただ苦労させただけで、先立たれたことがほんとうに残念でなりません……」

 金正日総書記は、悲しみのなかでオモニの死を知らない妹の敬姫を父の仕事をじゃましまいと懸命でした。家の外に、母が一生懸命に作った花園に連れ出しました。

 花園には故郷の花、白アンズの木があります。正日は「オモ二が一番好きだった花だったから、これからは、二人で大事にしようね。水をやったり、虫をとったりして……」

 1976年年9月22日、つまり金正淑女史の命日のときです。金正日書記(当時)は、祖国統一問題で海外人士と会う約束のため墓参を果たせませんでした。書記は「……生前、あれほど祖国の統一を願っていた母のことですから、私がきょう、そのことで墓参りができなくとも、親不幸者だとおしかりになることはないでしょう」

 書記はつづけていった。

 「私が幼いとき、母はいつも工場などへ見学にいきましたが、そんなとき母は、女工たちと一緒に短い時間でも働きました。母は心のやさしい、人間をこよなく愛する人でした……」 。


 最後に、朝鮮の母・金正淑女史の生涯を集約します。

 不屈の革命闘士であり、抗日の女性英雄である金正淑女史は、1917年12月24日、朝鮮の北部にある咸鏡北道会寧郡会寧邑の愛国的で革命的な貧しい農家に誕生しました。
 日帝侵略者の弾圧に父母と弟を失った女史は、1930年代に入って少女の身で革命の道を踏み出しました。やがて共産主義青年員に成長した女史は、児童団活動と共青活動をエネルギッシュにすすめて未来の花である青少年を革命の後続部隊に育て、遊撃区をかため、武装闘争の大衆的基盤をきずく活動で、すぐれた功績をあげました。
 1935年春の金日成主席との対面は、女史の闘争と生活における一大転機となりました。
 金日成主席の指導のもとに革命家に成長した女史は、同年9月、朝鮮人民革命軍に入隊。以後、女史は、主席の身近で革命の司令部を死守し、主席を政治的、思想的に擁護するうえで立派な模範を示しました。
 勇敢な戦闘員、百発百中の名射手であった女史はまた、老練な政治工作員として、国境地帯の厳しい警戒網をついて国内に出向き、人民を抗日の戦いに奮起させました。
 朝鮮の解放後も女史は、主席の祖国建設路線にそって朝鮮労働党の強化と富強な自主独立国家の建設に専念しました。
 実に女史は、いかなる試練にもめげず不退転の革命家であり、熱い革命的同志愛と人民愛、おおらかな風格と謙虚で素朴な品性を身につけた高潔な共産主義者でした。女史はまた、抗日革命闘争のなかで金正日総書記を育て、朝鮮革命偉業の継承に心魂をかたむけた偉大な革命家でありました。
 女史は、1949年9月、32歳で尊い生涯を閉じた。たとえ、短い生涯であっても、その一生は朝鮮革命の勝利と祖国の繁栄のために、すべてをささげ不滅の業績をつんだ革命戦士の気高い一生でした。


        朝鮮革命の聖なる歴史に輝く青年組織の名称

 −1964年5月、朝鮮民主青年同盟第5回大会で民主青年同盟を朝鮮社会主義労働青年同盟に改称。
 −金正日総書記は1996年1月、創立50周年に際して行われた朝鮮社会主義労働青年同盟(社労青)の代表者会議で社労青組織を主席の尊名を冠した金日成社会主義青年同盟(青年同盟)に強化発展。


 朝鮮中央通信は、次の記事を配信しました。

 金日成社会主義青年同盟第9回大会を迎えている朝鮮の青年と人民は、不世出の偉人たちの指導に従って上昇一路をたどってきた朝鮮革命の聖なる歴史に輝く青年組織の名称を感慨深く振り返っている。

 早くも、青年を最も活力ある部隊、社会発展を促す威力ある力量とみなした金日成主席は、青年運動から革命活動を始めた。

 金日成主席が斬新な新世代の青年革命家で1927年8月28日、朝鮮共産主義青年同盟を結成したのは、真の革命的青年前衛組織の誕生を告げ、青年運動の発展と青年の運命に転換をもたらした歴史的出来事であった。

 不遇な植民地奴隷の悲しみを抱いて、進むべき道がわからなくてさまよっていた青年たちを生死をともにする革命同志として結束させ、抗日革命闘争の戦域に立たせた主席の指導のもとで、朝鮮青年運動の歴史的始原が開かれた。

 主席が解放直後の困難で複雑な情勢のなかで、大衆的青年組織である北朝鮮民主青年同盟を結成することによって、朝鮮青年は民主主義の旗のもとにかたく団結して新しい祖国の建設を立派に担っていくようになった。

 主席が共和国に社会主義制度が樹立された時代的条件と青年運動発展の要求に即して1964年5月、朝鮮民主青年同盟第5回大会で民主青年同盟を朝鮮社会主義労働青年同盟に改称するようにしたのは、青年同盟組織が思想教育団体としての任務を立派に遂行していくうえで歴史的契機となった。

 金正日総書記は、青年同盟に朝鮮労働党の政治的後続部隊、最高司令官の予備戦闘部隊、別動隊という高貴な称号も与え、青年同盟組織がチュチェの先軍偉業の遂行において自分の本分を全うするように導いた。

 1996年1月、創立50周年に際しておこなわれた朝鮮社会主義労働青年同盟(社労青)の代表者会議で社労青組織を主席の尊名を冠した金日成社会主義青年同盟(青年同盟)に強化発展させるという歴史的な決定を採択するようにした。

 金日成社会主義青年同盟の誕生は、青年組織を永遠に主席の青年組織に作り、主席が開拓したチュチェの革命偉業を代を継いで輝かしく継承して達成していくうえで大きな意義を持つ歴史的出来事であった。

 金正恩元帥がいるのでこんにち、金日成社会主義青年同盟はその発展の最盛期を迎えている。


 この記述は、長野県朝鮮女性と連帯する会第一次訪朝団(1991年6月4〜11日)の事前学習会における資料に青年運動に関する朝鮮の主張を追加したもの。(三根一 2018.5.14記す)

 <参考文献>
 ・『金日成主席革命活動史』
 ・『金正日総書記革命活動史』
 ・『永選の女性革命家』(朝鮮:平壌 外国文出版社)
 ・朝鮮中央通信 2016年08月27日






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