金正淑女史の100周年に際して−偉大な革命家、偉大な母


抗日の女性英雄金正淑女史を回想して
 

 革命の銃剣を握り締めて

 チュチェ24(1935)年9月18日、抗日の女性英雄金正淑女史は車廠子遊撃区で朝鮮人民革命軍に入隊した。

 朝鮮人民革命軍の入隊、これは10代の少女の身で波乱にみちた革命の道に立ち、歴史に空前絶後の女性革命家としての英雄的叙事詩を記した女史の革命生涯において最も光栄に満ちたページでつづられた意義深い出来事であった。この時より、朝鮮人民の間で数多くの伝説となって伝えられる「抗日の女性英雄」「白頭山の女将軍」としてその革命的生涯の新しい道が始まった。

 車廠子の空にひるがえる赤旗の前で女史は、亡くなられた同志たちの血潮と念願、全民族の願いが込もった革命の武器、階級の銃を授与された。

 祖国の解放も、革命の勝利も、父母兄弟の復讐も、もっぱら銃剣によってのみ実現されるということは、女史が実際の経験によって体得した持論であった。

 女史は、銃を握り締めて決意をかためた。

 「革命が勝利する日までにこの銃を手から離しません。金日成将軍をいただいて、この銃を担いで祖国へ凱旋します。」


 とりでとなり、盾となって

 抗日の女性英雄金正淑女史は確固たる領袖決死擁護の精神をもって数々の危険な難局に一身がそのまま盾となり肉弾となって金日成主席の安泰を命を賭して守った。

 チュチェ29(1940)年3月25日のある日のことである。

 金日成主席は、大馬鹿溝から追跡してくる敵を従えて茂山地区への進出は困難だとし、この日、紅旗河の谷間で敵軍を容赦なく掃滅した。同日、忍び込んだ敵は「常勝部隊」「討伐の王者」と自称する極悪非道な前田部隊であった。

 そのような敵であったので、戦いは最初から激烈をきわめた。

 敵兵を伏兵圏内に誘い込み痛快なせん滅戦を展開していたとき、そこから抜け出した数人の敵兵が司令部の位置している東側の高地に向かって這い上がってきた。

 敵を発見した女史は、一人の敵兵をも司令部に近寄らせてはならない、一発の敵弾をも将軍がおられる司令部の方へ発砲させてはならないという一念から敵を自分の方に誘引しながらひた走った。

 そして、司令部からかなり離れた地点に達すると、敵兵に命中射撃を浴びせて撃ち殺した。

 司令部の稜線から響いてくる銃声に驚いて隊員たちが手に汗を握って駆けつけたときにはもうあたりがひっそりとしていた。女史は彼らに向かって「安心しなさい、司令官同志はご無事です」と言った。女史が背負っていた金だらいには、弾痕が2カ所もついていた。

 隊員たちは金だらいの弾痕からその時の危機一髪の瞬間を想像してみたが、女史はそんなことよりも司令官同志が無事であったことに安堵の胸をなでおろしていたのである。(この金だらいはいま、朝鮮革命博物館に所蔵されている。)


 革命頌歌の首唱者として

 永生不滅の革命頌歌『金日成将軍の歌』が創作された時のことである。

 抗日の女性英雄金正淑女史は幹部たちに会って、まだ将軍様が歌の普及を承認しなかったため、自分の考えにはまず、平壌学院で学生たちの間に『金日成将軍の歌』を普及するのがよさそうであるとし、確信に満ちた口調でこう語った。

 「『金日成将軍の歌』は、まず平壌学院から普及し次第に全国に普及させなければなりません。『金日成将軍の歌』は将軍様が建て指導する将軍様の学院である平壌学院から先に響き渡らなければなりません」

 まさに、ここには新しい祖国建設の頼もしい担い手として育つ平壌学院の学生たちが金日成主席を仰ぎ変わらぬ道をあくまで歩みつづけるようにと願う白頭山女将軍の高貴な意志がこもっていた。


 銃をもって人間の福を守るよう

 チュチェ35(1946)年3月のある日のことである。

 金日成主席の建国路線を先頭に立って支え、教徒たちを建国事業へと導いていた影響力のある一牧師の家に反動分子らが手榴弾を投げつけた。

 このため、牧師夫婦はひどい怪我を負い、息子と娘が亡くなったのである。これを聞いた抗日の女性英雄金正淑女史は金日成主席に随行して牧師の家を訪ねた。

 女史は彼らを慰めながら、主席が贈る拳銃を遠慮する牧師に「将軍様が贈る拳銃を受け取りなさい、常に拳銃を身近に置いて大事にしなければなりません。銃をもって襲いかかる敵とは銃をもって立ち向かうべきです!」と言った。女史の言葉に励まされて拳銃を受け取った牧師は、「金女史のお言葉は至極当たり前のことです。私は一生、聖書のかわりにこの銃を友人とするつもりです」と答えた。

 女史は、「そのとおりです。この銃で人間の福を守らなければなりません」と言って牧師の両手をとった。


 遺児の母

 亡くなられた同志を忘れれば革命を忘れるものである。この崇高な革命的倫理観をもって一生涯、同志のために炎のように生き、亡くなられた同志たちの息子や娘のために自分のすべてをささげた方が抗日の女性英雄金正淑女史であった。

 チュチェ36(1947)年8月のある日、遺児を探し出して引き連れてきたという報告を受けた金正淑女史は、金日成主席に随行して間里の学院臨時校舎を訪ねた。遺児を常に忘れず、抗日武装闘争時期に亡くなった戦友たちの前で涙を流しながら彼らの名前と年齢、住所、家族の名前を手帳に書き入れた女史であった。解放後にも、その手帳に毛羽が立つほど繰り返して見ながら戦友の遺児を探そうとして常に心を砕いていた。

 日本帝国主義によって父母兄弟を全部亡くした女史であったが、亡くなられた同志たちの前で義理を立てるのを革命家の良心と義務とみなし、自分の血肉を探す前に亡くなられた同志たちの遺児を探すことに全精力を傾けた。

 女史は、革命家遺児たちを探すようにという主席の任務を受けて各地に出向く幹部たちに会うたびに、遺児を1度や2度探して帰ってはならない、1カ月や、2カ月かかってもいいから必ず探すべきであると重ねて言いつけた。女史から折り入って頼まれた林春秋同志が全東満州をしらみつぶしに調べて遺児たちを探し出した。その遺児たちが、いましがた学院に到着したのである。

 主席に随行して学院に入った女史は、運動場で遊んでいる院児たちを呼んだ。

 院児たちは喜び勇んで、「将軍様!」「お母さん!」と声を上げて主席と女史の懐に抱かれた。女史は、涙にむせぶ彼らに「さあ、泣くなよ、このうれしい日に、これから君たちは孤児ではない。将軍様が君たちを見守っている。金日成将軍様は君たちの父親である。私も君たちの母親になろうとしている」と述べた。

 実に、院児にとって女史は離れられない実母であった。ボロをまとった遺児たちにいち早く学院の制服を着用させ、靴と帽子も新しくつくってやるべきだとし、また膝が抜けた一少年のズボンを見ては私がきれいに縫い上げるから脱いでよ、と切々と言った。そして、肌着を着ていない彼がちゅうちょしているのを見て、そのまま着たままで縫おうとし、1縫い2縫いと縫い込んだ。

 実に、院児の胸に深く刻み付けられたのは、この世の千万の母のあらゆる愛情を合わせたものよりも崇高な姿であった。

 革命の炎の中で先に逝った戦友にたいする変わらない同志愛と崇高な徳義心、その後世にたいする深い人情味をもって烈士たちの遺志を代を継いで継承するよう温かく見守り、導いてくれる優しい愛、ほかならぬこれが女史の残したこのうえなく慈愛深い母の愛であった。

 その愛が滋養分となって、院児たちは朝鮮革命の中核根幹として成長することができた。


 実現されなかった記者たちの欲望

 解放直後「セギル新聞」(当時)には次のような記事が載せられた。

 「…祖国解放の大志を抱いて満州の広野を舞台として猛活躍をおこない、日本軍閥の肝を冷やし、世界的にその勇猛を轟かした金日成将軍は実に朝鮮が生んだ革命家である。…
 金日成将軍は今、平壌に健在で活躍している。…」

 この記事が載せられるようになった故は次のとおりである。

 新しい祖国建設の熱意で燃えていたチュチェ34(1945)年11月のある日、セギル新聞社の記者たちには白頭山の女将軍として名を馳せていた抗日の女性英雄金正淑女史に会える機会が出来た。

 喜んで迎えてくれる金正淑女史に会うや否や、記者たちは女性の身で満州の広野を縮めて日帝の百万大軍に勝ち抜いた話を聞きたくて訪ねたと申し上げた。

 明るい笑顔で彼らを温かく見回っていた女史は、自分については別に話すことがない、金日成将軍が強盗の日帝を打ち倒した話はいくらでもあるとして、抗日武装闘争を勝利へと導いてきた主席の卓越した戦略と戦法について語った。

 いつの間にか時間もだいぶ過ぎた。記者たちは女史の闘争内容について聞きたいと再び申し上げた。彼らは女史にいつ革命の道に出たか、いつ朝鮮人民革命軍に入隊したか、どのような戦闘に参加したか、と続けざまに質問した。

 女史は彼らの要求を断り、新聞には当然金日成将軍についての記事を載せなければならないとし、戦士たちの話は指導者の歴史のなかにある、だから将軍について書かなければならない、と語った。女史は別れを惜しむ彼らの手をとり、今後の新聞に将軍の路線と方針をよく解説して大衆を新しい祖国建設に積極的に奮い立つようにすることを頼んだ。

 記者たちは、新聞に金正淑女史の功績を大きく紹介しようとした欲望を実現することができなかった。記者会見の内容が載せられた新聞は、咸鏡北道ばかりでなく平壌と全国の各地に配布され、人民のあいだで大きな反響を呼んだ。

 このように金正淑女史は、金日成同志の祖国解放偉業に忠実に従い、白頭の密林を縮めて名を馳せていた抗日戦の日々のように解放後にもいつも親衛戦士の姿で主席の建国偉業を補佐し、自分のすべてをささげた。


 初めて掲げた主席の肖像画

 チュチェ34(1945)年12月30日、抗日の女性英雄金正淑同志が、平壌学院(当時)院長を務めていたある幹部に会った時のことである。

 この日、女史は彼に金日成同志の偉大性について話しながら、学院に金日成同志の肖像画を掲げるのがよいと語った。続いて女史は、学院に金日成同志の肖像画を掲げると学院の雰囲気を一新することができ、生徒がいつも金日成同志の偉大な姿を仰ぎながら主席に忠実である新しい朝鮮の幹部として育つだろうと熱く述べた。女史は、金日成同志をたたえる朝鮮人民の心をこめて「わが民族の英明な指導者金日成将軍万歳!」というスローガンを掲げるのがよいと述べ、主席の肖像画と主席をたたえるスローガンを学院の正門と会議室、事務室、兵舎にも掲げることを強調した。

 金正淑女史のその日の話は、我々の銃剣は必ず領袖決死防衛の銃剣にならなければならないという崇高な思想のこもった尊い教えであった。

 このように金正淑女史の細心な関心のもとで朝鮮では金日成同志の肖像画と主席をたたえるスローガンをかかげる事業が始まるようになった。


 熱烈な愛国者として育て上げるために

 抗日の女性英雄金正淑女史が、中央保安幹部学校(当時)を訪ねたチュチェ37(1948)年初のある日のことである。幹部に案内されながら学校の各所を見て回っていた女史は、学校の廊下の一カ所にふと歩みを止めた。そこには、外国の名将の肖像画と風景を描いた絵画が展示されていた。

 しばらく、写真と絵画から目を離せずにいた女史は教職員たちに、わが国にも愛国名将や景色のよい地方も多いが、なぜ外国の写真と絵画だけが張られているのかと尋ねた。そして、国の柱として育ちゆく学生が事大主義に毒されないように教育するのが非常に重要である、だから絵画一つを展示しても朝鮮の気概を反映したわが国のもの、英知と勇猛で誇り多い朝鮮人民の英雄的な闘争ぶりを描いた絵画を示さなければならない、そうしてこそ、学生たちを金日成将軍と朝鮮革命に忠実な担い手として育て上げることができるといった。

 この日、女史の貴重な教えを受けて教職員たちは、すべての学生を祖国への限りない愛を抱いた熱烈な愛国者として育成する燃えるような決意をかためた。






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