金正日総書記革命活動史

第7章 領袖永生の大業を立派に実現、
先軍政治をより高い段階で全面的に実現し、
「苦難の行軍」、強行軍を勝利に導くために

第6節 人民軍を先頭に立たせて
富強祖国建設の跳躍台をもたらすために

 金日成主席の逝去後、社会主義建設のための朝鮮人民の闘争の前途には、幾多の隘路と難関が横たわった。

 アメリカをはじめ帝国主義者は、朝鮮での「国家元首の空白状態」について云々しながら、愚かにも内部に何かしら「変化」の兆しを見つけ出そうと躍起になり、共和国にたいする政治的・外交的圧力と軍事的威嚇をさらに強化する一方、経済的封鎖をいっそう執拗に追求した。

 また、この時期、いくつもの国で社会主義が挫折し、社会主義市場がなくなったため、朝鮮は主要戦略物資と社会主義建設に必要な一部の原料と資材、設備を資本主義市場を通じて解決しなければならなくなった。帝国主義者の経済封鎖のなかで社会主義経済建設に必要な原料と資材、設備を資本主義市場に頼って解決するというのは、実に困難なことであった。そのうえ、数年来引き続いた厳しい天災のため、社会主義経済建設のための朝鮮人民のたたかいは、なおさら困難に直面せざるを得なかった。

 そのため、祖国が解放されて以来半世紀が過ぎた1990年代の中期から、経済建設と人民生活の分野では、言い知れぬ厳しい「苦難の行軍」、強行軍をせざるを得なくなった。

 このような厳しい試練の時期に、金正日総書記は、人民軍を先頭に立たせて富強祖国建設の強固な跳躍台をもたらすためのたたかいを賢明に導いた。

 金正日総書記は、当面の経済的難局を打開するたたかいに、全党、全軍、全人民を立ち上がらせた。

 まず、軍隊と人民を奮起させるための組織・政治活動に力を入れるようにした。民族史上最も悲痛な血涙の年であった1994年を送り、1995年の新年を迎えて全人民に、金日成同志の戦士、金日成同志の教え子らしく、わが国、わが祖国をより富強にするため、われらすべてが一心一体となって奮闘しよう、という親筆書簡を送った。この書簡を受けたすべての人民軍将兵と人民は、さらにかたく団結し、総書記の指導に従って前進する決意をかためた。

 総書記は、全人民が「苦難の行軍」の精神をもって生き、たたかうよう導いた。

 金正日総書記は、次のように述べている。

 「党は、現情勢と現実発展の要請に即して、幹部と党員、勤労者が『苦難の行軍』精神をもって生き、たたかおうというスローガンを打ち出しました」

 「苦難の行軍」精神は、金日成主席の指導のもと抗日革命闘争の最も厳しかった時期に、朝鮮革命の命脈を守り、革命の一大高揚をもたらした徹底した革命精神、百折不撓の革命精神である。

 総書記は、1996年1月14日、党中央委員会の責任幹部への談話『今日のための今日を生きるのでなく、明日のための今日を生きよう』と、10月14日、党中央委員会の責任幹部への談話『幹部は「苦難の行軍」精神をもって生き、働くべきである』などの談話で、すべての幹部と勤労者が「苦難の行軍」精神をもって生き、たたかうよう強調した。

 そして、「苦難の行軍」精神をもって生き、たたかうには、ただ困難に耐えるだけでなく、試練を乗り越えて力強く前進しなければならない、幹部は困難な時ほど、「苦難の行軍」精神をもって生き、たたかおうという党のスローガンどおりにいっそう奮発し、難しいことであっても手を尽くしてやり遂げるために奮闘しなければならないと述べた。

 総書記は、「苦難の行軍」の時期の要求に即して党活動をより戦闘的に、着実に進めて、大衆を新たな革命的高揚へと奮い立たせた。

 1996年12月7日の談話や1997年1月1日の談話などで、党活動家が大衆のなかに深く入り、メガホンを手にして火線宣伝、火線鼓舞式で政治活動をおこない、大衆を革命的高揚へと奮い立たせるよう強調した。そして、1997年1月には、全国党活動家会議の参加者に送った書簡『今年を社会主義経済建設において革命的転換の年にしよう』で、すべての党組織と党活動家が、党の思想と方針に従って党活動を覇気にみちて、革命的に、戦闘的に展開して、経済問題と人民生活の問題を解決するうえで転換をもたらすよう強調した。

 こうして、多くの工場、企業が困難な状況にあっても内部の潜在力を大いに探し出し、人民経済計画を超過遂行する成果を上げた。

 金正日総書記は、絶え間ない超強度の現地指導によって軍隊と人民を奮起させた。

 総書記は、小寒・大寒の寒さと三伏の極暑のなかでも、仮寝と握り飯に甘んじ、昼夜兼行の前線視察と現地指導を続けた。

 前線と後方の人民軍部隊への引き続く現地視察によって、人民軍の戦闘力を全面的に強化し、祖国の防衛線を鉄壁のごとく打ちかためることにより、人民に確たる勝利の信念を抱かせた。

 総書記は、都市と農村、工場と企業、発電所建設現場と耕地整理作業の現場など、人民経済各部門への現地指導を通して生産の活性化を促した。

 総書記の精力的な現地指導に励まされた軍隊と人民は、折り重なる難関と試練を堅忍不抜の意志をもって果敢に乗り越え、「苦難の行軍」を勝利のうちに締めくくる闘争にこぞって立ち上がった。

 金正日総書記は、人民軍の先駆的役割によって厳しい経済的難局を切り抜けるようにした。

 総書記は、主席の遺訓貫徹のための重要対象建設をすべて人民軍に任せ、それを所定の期日内に立派に完成させるようにした。

 1994年11月9日、朝鮮人民軍最高司令官命令第0051号「平壌市に清流橋(第2段階)と錦綾第2トンネルを建設すること」を下達し、党創立50周年を迎えて人民軍にこの建設を終えるようにした。それだけでなく、安辺青年発電所の建設、平壌―香山観光道路の建設、九月山を人民の文化休養地に整備する工事など、重要対象建設をすべて人民軍が担当して完工するようにした。

 総書記は、農業、電力、石炭、鉄道運輸などを国の経済全般を盛り立てる基本部門として定めた。

 農業部門に人民軍を派遣することを決心し、1997年3月18日、人民軍が農村支援を積極的に進める措置を講じ、その翌年にも人民軍が国の食糧問題の解決に大きく寄与するようにした。

 総書記は、多くの中小発電所の建設を人民軍に受け持たせる一方、1997年10月には北倉火力発電連合企業所と炭鉱、鉄道運輸部門に多数の除隊軍人を送った。そして、重要建設対象に軍人を派遣して建設を盛り立てるようにした。

 人民軍軍人は、「祖国防衛も社会主義建設も我々がみな受け持とう!」というスローガンをかかげて、社会主義祖国の防衛線を確固と守りながら、総書記が気を遣う重要対象に駆けつけ、経済建設の進撃路を先頭に立って切り開いた。彼らは、各建設現場で戦闘的な火線式政治活動と率先垂範によって、社会の幹部と勤労者に革命的軍人精神を示した。

 こうした過程で、数多くの工場、企業が、原状どおり復旧されて生産を正常化できる軌道に乗り、混乱した経済活動が一つ一つ立て直されるようになった。

 金正日総書記は、すべての部門で革命的軍人精神の具現である江界精神を発揮して、全般的な人民経済の活性化を促すようにした。

 総書記は、慈江道で「苦難の行軍」強行軍を勝利のうちに締めくくるモデルケースを創造した。

 自然・気候条件が不利で、かつて、道内の経済管理が計画的に進められず他より先に「苦難の行軍」を余儀なくされた慈江道を、自力更生して経済を活性化し、人民生活を安定させる模範をつくりだす地域に変えることを決心した総書記は、「苦難の行軍」の当初からこの道の活動に深い関心を向けた。

 総書記は、道内の経済状態と人民の生活をつぶさに確かめたうえで、1996年9月、道の責任幹部に、慈江道をモデルとして押し立てようという自身の意図を告げ、頑強に推し進めてみよと励ました。1997年には、数回にわたって道内の中小発電所の建設状況を確かめて、建設を大々的に推し進めるよう必要な対策を立てた。

 慈江道のすべての幹部と勤労者は、総書記の大きな信頼を胸にこぞって立ち上がり、「道は険しくとも笑顔で行こう!」というスローガンをかかげて、「苦難の行軍」精神、革命的軍人精神を発揮し、6カ月余の間にいろいろな形式の数十個の中小発電所を自力で新設もしくは整備・補強して、大量の発電能力をつくり出した。道では、自力で生産した電力で道内の地方産業工場を稼働させ、住宅の照明と暖房問題を解決し、中小発電所の建設と運営の新たな模範をつくり出した。そして誰もがみな、工場、企業や町と村、住宅を文化的、衛生的に整備した。

 総書記は、慈江道で達成された成果を確かめるため、1998年1月にこの道を訪れ、数日にわたって各部門の活動を現地で指導した。

 総書記は、革命的軍人精神を見習う闘争の過程で慈江道の人民が発揮した革命精神を「江界精神」と名づけ、それを全国が見習うようにした。

 慈江道の労働者と人民が生み出した江界精神は、党と人民が最も厳しい試練に見舞われているときに生み出された社会主義防衛精神であり、新たなチョンリマ(千里馬)大高揚の炎を燃え上がらせた闘争精神である。それは、金正日将軍がおられれば我々は必ず勝利するという必勝の革命精神であり、金正日将軍の意図と構想を水火も辞せずあくまで実現していく決死貫徹の精神、無から有を生み出す自力更生、刻苦奮闘の精神であり、困難であるほど笑顔でたたかっていく革命的楽天主義の精神である。

 総書記は、江界精神を全国に一般化させるようにした。

 1998年6月と10月に再び慈江道を訪れ、江界精神の創造者が強盛国家の建設で引き続き先頭に立っていくよう力づけ、中央機関の幹部と道・市・郡党の責任幹部、工場の党書記が慈江道内の工場を見学してその模範を見習うようにさせた。

 そして、新聞、放送などマス・メディアに、慈江道人民の自力更生の革命精神と活動態度、これまでの成果と経験を宣伝する記事を集中編集させた。同時に、慈江道人民の革命精神と活動態度、活動経験を一般化させる措置として、全国自力更生模範活動家大会をはじめ、全国的な規模の各種会議を催すようにした。特に、1998年3月9日、城津製鋼連合企業所の労働者が先頭に立って新たな大高揚ののろし、城鋼ののろしを上げるよう呼びかけた。

 城津製鋼連合企業所の労働者は、従業員決起集会を開き、総書記が火を点じた先軍時代の新たな革命的大高揚ののろし―城鋼ののろしを高く上げていま一度チョンリマ(千里馬)を駆る勢いで社会主義経済建設において革命的大高揚を起こすことを、全国の労働者と勤労者にアピールした。

 国中が、城鋼ののろしにこたえてこぞって立ち上がった。

 革命的軍人精神の具現である江界精神にもとづく城鋼ののろしが燃えさかるなかで、金属工業、機械工業など人民経済の基幹工業部門を活性化する土台が築かれ、両江道大紅丹郡でジャガイモ栽培革命が起こり、黄海南道延安郡と慈江道長江郡で2毛作、3毛作の立派な経験が生まれ、江原道で耕地整理と農業の総合的機械化が促進され、随所にヤギ牧場、家禽飼育牧場や養魚場が建設された。また、総書記が1996年8月11日、党中央委員会の責任幹部への談話『国土管理事業に新たな転換をもたらすために』で提示した課題を受けとめた全国の軍隊と人民は、国土管理事業にこぞって立ち上がり、国土の面目は一新されるようになった。

 金正日総書記の指導により、「苦難の行軍」の試練のなかでも、軍隊と人民は、ただ困難を耐え抜くことにとどまらず必勝の信念と堅忍不抜の意志を発揮して逆境にめげず頑強な闘争を展開して経済的難局を切り抜け、富強祖国建設の強固な跳躍台をものにした。





inserted by FC2 system