金正日総書記革命活動史

第7章 領袖永生の大業を立派に実現、
先軍政治をより高い段階で全面的に実現し、
「苦難の行軍」、強行軍を勝利に導くために

第5節 帝国主義者の孤立・圧殺策動を粉砕するために

 金正日総書記は、帝国主義者の対共和国孤立・圧殺策動を粉砕し、朝鮮式社会主義を守るためのたたかいを賢明に指導した。

 金正日総書記は、次のように述べている。

 「わたしは金日成同志の遺志を体し、人民軍を掌握して先軍政治を敷き、最も厳しかった『苦難の行軍』と強行軍の時期に、帝国主義者の対共和国圧殺策動を粉砕して我々の社会主義制度を守り抜き、国と民族の運命を守護しました」

 1990年代の中期に入り、共和国を孤立・圧殺しようとするアメリカをはじめ、帝国主義反動勢力の策動はその極に達した。

 金正日総書記は、祖国の神聖な空と地、海で強行される敵の無謀な武力挑発策動に仮借ない懲罰を加えるようにした。1994年11月19日、人民軍指揮メンバーに、敵は表面では「平和」と「協力」について喧伝しているが、彼らの本心はいささかも変わっていない、人民軍では、アメリカ帝国主義者と日本軍国主義者、南朝鮮反動勢力にたいして革命的警戒心を高め、軍人にたいする思想教育をさらに強めて、敵の策動から社会主義を最後まで守りとおさなければならないと述べた。

 その後にも人民武力部の責任幹部たちに、対話の幕裏で推進している敵の戦争挑発策動を示す諸々の軍事・政治情勢資料を送り、前線の指揮官たちに電話をかけて状況を確かめ、全軍が革命的警戒心を高めて祖国の空と地、海の前哨の防備をかためるようにした。

 1994年12月17日、人民軍は、前線東部の軍事境界線を越境して共和国の領空に不法侵入した米軍ヘリコプターを一撃のもとに撃墜した。その日、総書記は、人民軍指揮メンバーたちに、人民軍が今回アメリカ帝国主義侵略者に我々の気概をしかと示した、これは、いかなる敵も我々の領土と領空、領海を侵すならば絶対に許さないという宣言が決して空言ではないことを実際の行動によって示したものであり、朝米会談の幕裏で共和国にたいする新たな戦争挑発策動を強行しているアメリカ帝国主義侵略者にたいする断固たる懲罰であると言明した。

 アメリカは1994年12月28日、大統領の特使を平壌へ送り、彼らの不法侵入行為を公式に謝罪し、今後このような事件の再発を防ぐ措置を取ることを公式に保証する「了解覚書」に署名した。

 総書記は1995年9月13日、351高地一帯の某前哨を訪ね、祖国解放戦争の時期に351高地の戦闘員たちは金日成主席の命令を奉じ、最後の血の1滴までささげて戦った、英雄戦士たちが血をもって守り通した祖国の1木1草、領土の0.001ミリも敵があえて侵犯できないようにしなければならないと強調した。

 1997年7月中旬、前線中部の軍事境界線で正常な巡察勤務に当たっていた人民軍前哨の軍人たちに向けて敵が不意に射撃を加える武力挑発を起こした時、前哨の軍人たちは即時反撃を加えて瞬く間に敵の憲兵軍営を木っ端微塵にし、多数の敵兵を殺傷した。

 金正日総書記は、アメリカ帝国主義の軍事演習と戦争挑発策動をことごとく粉砕した。

 1996年初に入り、アメリカと南朝鮮当局は、情勢を極度に激化させた。敵は正月に、米海軍の主力核潜水艦を引き入れて連合対潜水艦訓練をおこない、ついで2月にも大規模合同軍事演習を行い、3月28日からは「護国96」陸・海・空軍合同戦争演習を強行した。時を同じくして、米国防長官はいわゆる「年次防衛報告書」で、「アメリカの死活的利益を危うく」する脅威を抑止するにとどまらず、「戦って勝利しなければならない」と暴言を吐き、南朝鮮の反動勢力もこれに調子を合わせて、南北関係の問題は「軍事力による解決のみが可能である」とほざいた。ひいては、天災による朝鮮の経済的難関を戦争挑発の絶好の機会とみなして情勢を戦争瀬戸際に追い込んだ。

 こうした時期の1996年3月末、総書記は人民武力部第1副部長の談話を発表させた。

 3月29日のこの談話では、火には火をもって、こん棒にはこん棒をもって治めるのがわが軍隊の気質だとし、人民軍は南朝鮮反動勢力があえて祖国の寸土、一木一草でも侵すならば、強力な自衛的措置をとって粉砕するであろうと宣言した。結局、朝鮮の経済的難関を奇貨に新たな戦争を引き起こそうとしていた敵の企みは腰くだけに終わってしまった。

 しかしアメリカは、1998年に入ると、朝鮮の人工衛星打ち上げを弾道ミサイル発射だと強弁し、「地下核施設疑惑」を喧伝しながら、共和国を侵略するための戦争挑発策動に再び熱を上げた。敵は、去る朝鮮戦争で喫した惨敗を「復讐」するという、いわゆる第2の朝鮮侵略戦争計画である「作戦計画5027」の内容を第3国の出版物に公開し、それを発動して共和国にたいする封じ込め作戦に入った。

 1998年11月22日、総書記は朝鮮人民軍指揮メンバーに、アメリカ当局があえて「作戦計画5027」を公開している本音を知らせ、「作戦計画5027」の侵略的性格を暴露する声明を発表させた。

 こうして、1998年12月2日、朝鮮人民軍総参謀部スポークスマンの声明「わが革命武力はアメリカ帝国主義侵略軍の挑発に仮借なきせん滅的打撃でこたえるであろう」が発表された。

 声明は、アメリカ帝国主義が作成し本格的な実行段階に入った「作戦計画5027」の具体的な内容とその侵略的性格をあばき、アメリカ帝国主義が「対話」と「協商」の仮面を脱ぎ捨て、情勢を戦争瀬戸際に導いている今日の重大な状況に対処して、わが革命武力は、アメリカ帝国主義侵略軍の挑発に仮借なきせん滅的打撃でこたえるであろうということを宣言した。声明は発表されるや否や世界を震撼させ、アメリカはそれにたいし一言の釈明もできなかった。

 金正日総書記は、朝米基本合意文が採択された後、その履行にかかわる対米外交戦を賢明に導いた。

 朝米基本合意文では、朝鮮が黒鉛減速炉とその関連施設の凍結と解体、非核化意志の表明、核拡散防止条約(NPT)への復帰を保証する代償として、アメリカは2003年までに総200万キロワット発電能力の軽水炉発電所の提供と、毎年50万トンの重油納入、貿易および投資障壁の緩和と連絡事務所の設置、国交樹立などを公約した。

 朝米基本合意文の採択により、アメリカは朝鮮の自主権を尊重し、彼らに負わされた国家的および国際的義務を免れることができなくなった。しかしアメリカは、朝米基本合意文の履行を放棄するためあらゆる術策を弄した。

 総書記は主動的に核活動凍結措置をとるようにし、1994年10月30日、政務院決定で核施設にたいする凍結措置を早速公表するようにした。

 朝鮮民主主義人民共和国政務院は、同年11月初から5メガワット試験原子炉の稼働を中止し、それにたいする国際原子力機関(IAEA)の監視を許容し、5万および20万キロワット発電能力の黒鉛減速炉の建設を中止するなど、核エネルギー施設を即時凍結する措置を講じたことを公表した。

 外交部(当時)スポークスマンは11月1日、朝鮮が主動的に核活動の凍結措置を講じたことを内外に公表し、その後再び、条約上の要求を上回る核活動の全面的凍結をおこなったということ、そして、国連とIAEAが朝米基本合意文を支持賛同して相応の履行措置をとることによって、この合意文は朝米双方の範囲を超えた一つの国際公約になったということを明らかにした。同時に、5メガワット試験原子炉の燃料棒保管に関する協商など、各分野の専門家協議を行うことを提案した。

 共和国の連続的で主動的な措置は、米国政府をして朝米基本合意文の履行に応ぜざるを得なくした。クリントン政府は、朝米基本合意文に従って初年度分の重油15万トンのうち、まず5万トンを1995年1月までに納入した。

 総書記は、朝米基本合意文の核心をなす軽水炉提供に関する公約を実現させるための対米外交戦を引き続き推進させた。

 軽水炉の提供を実現させるための対米外交戦において最も鋭い問題として取り上げられたのは、アメリカの責任を明確にすることであった。アメリカは、1995年3月、アメリカと南朝鮮、日本が参加する国際連合体「朝鮮半島エネルギー開発機構」(KEDO)を設け、手先を押し立てて自分の責任を逃れようとした。南朝鮮かいらいは、この機会に、軽水炉の「生殺与奪の権」を握ろうという心算で、愚かにもありもしない「韓国型」軽水炉について云々し、軽水炉の提供において自分たちが「代表」の役を演じようとした。

 1995年5月19日から6月12日にかけて、マレーシアで朝米政治会談が開かれた。

 会談では、アメリカが朝米基本合意文にもとづき、軽水炉提供実現の全過程に全的な責任を負うことが再確認され、アメリカ主導のKEDOは軽水炉発電所の建設資金と設備を提供するだけで、朝鮮民主主義人民共和国の相手はアメリカであり、したがって、総決算もアメリカとだけおこなうということを明白にした朝米共同コミュニケが採択、発表された。

 日本の某新聞はこの会談の状況を評しながら、「クリントン政府は北朝鮮の要求を文句なしで受け入れた。平壌は戦争をせずに勝利した」と報じ、アメリカの某新聞も「アメリカと南朝鮮は、北朝鮮という小さい国が引きずり回して圧力を加えてもこらえるしかないようだ」と報じた。

 共同コミュニケの発表後、アメリカはKEDOを発動して1995年12月15日に軽水炉提供に関する協定文に調印し、1997年8月には、軽水炉対象建設のための着工式が朝鮮の琴湖地区の現地でおこなわれた。そしてアメリカは、軽水炉対象建設を終えて鍵を渡す前まで自分たちが実行することになっている代替燃料提供公約に従って重油も引き続き納入した。

 金正日総書記は、朝鮮にたいするアメリカの不当な経済制裁措置を撤回させるたたかいを賢明に導いた。アメリカ帝国主義は朝米基本合意文に署名する際、3カ月以内に通信サービスと金融決済にたいする制限措置の解消を含めて貿易と投資の障壁を緩和し、漸次双方の政治及び経済関係を正常化することを公約した。しかし、軽水炉をだしにして時間を引き延ばしながら、経済制裁緩和に関する公約条項をどれ一つとして誠実に履行しなかった。経済制裁緩和措置の履行を回避しようと策動したアメリカは、特に、人工衛星「光明星―1」号の打ち上げを「弾道ミサイル試験発射」だと騒ぎ立て、制裁解除問題を上程することさえ反対した。

 共和国政府は、数回にわたる実務接触と会談において、アメリカが朝鮮にたいする制裁を解除するよう対米外交戦を強力に推し進めた。こうして、1998年9月17日、朝鮮にたいする経済制裁を一部解除すると発表しておきながら、あれこれと口実を設けて時間を延ばしていたアメリカは、2000年6月19日にそれを実行する措置をとった。

 50年もの間、朝鮮を「敵国」と決めつけて経済制裁を加えてきたアメリカは、一般商品の貿易と農業、鉱業など経済分野への投資と、商業用船舶および飛行機の利用、一部の金融取引を許した。





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