金正日総書記革命活動史

第6章 人民大衆中心の朝鮮式社会主義を固守するために

第7節 祖国統一運動を全民族的運動として
拡大発展させるために

 1990年代の前半、金正日総書記は、祖国統一運動を全民族的運動として拡大発展させ、祖国統一の画期的局面を開くために心血を注いだ。

 金正日総書記は、内外の同胞が民族の和解と団結をなし遂げるよう導いた。

 金正日総書記は、次のように述べている。

 「祖国統一のためのたたかいにおいてわが党が堅持している一貫した立場は、他国に依存するのでなく、朝鮮民族自身が責任をもち、民族の力を合わせて祖国の統一を実現するというものです」

 総書記は、金日成主席の民族大団結の思想を具現し、民族の和解と団結の雰囲気をつくりだすために力を傾けた。

 まず、スポーツ分野で北と南の協力、交流を図るようにした。1990年9月、中国で開かれた第11回アジア競技大会では、北と南の共同応援が実現し、これを機に民族の統一への熱気はかつてなく高まった。

 こうした環境のもとで、総書記は、平壌とソウルで北と南の統一サッカー競技をおこなうようにした。そうして、同年10月、全民族の大きな関心のなか、北南統一サッカー競技が平壌とソウルで成功裏におこなわれた。

 統一サッカー競技の際の双方の合意により、板門店では、第41回世界卓球選手権大会と第6回世界ユースサッカー選手権大会に北と南が単一チームとして出場することに関する北南スポーツ会談が再び開かれた。

 会談を控えて総書記は活動家たちに、なんとしても単一チームをつくって民族の団結した力を全世界に示威し、民族の統一への熱気を一段と盛り上げるべきだと述べた。

 こうして、民族分断以来初めて北南単一チームである「コリア」チームが構成され、1991年4月24日から5月6日にかけて日本の千葉で開催された第41回世界卓球選手権大会と、同年6月にポルトガルのリスボンで開催された第6回世界ユースサッカー選手権大会に出場して、民族の統一の意志を全世界に示威し、内外同胞の統一への熱望をさらに盛り上げた。

 総書記は、芸術分野においても北と南、海外の同胞の協力と交流を深めるようにした。

 そのために、「汎民族統一音楽会」を盛大に催し、北と南、海外の芸術家の間で民族の和解と団結の雰囲気をよりいっそう盛り上げるようにした。

 北と南、海外の同胞の音楽会を催す問題が提起された時、総書記は、芸術家が集まって歌を歌うだけでは統一を実現するという民族の念願に合致しないとして、その名称を「汎民族統一音楽会」とするようにと述べた。

 そうして、「汎民族統一音楽会」は、1990年10月18日から23日にかけて平壌で平壌音楽団とソウル伝統音楽演奏団、それにアメリカ、カナダ、ドイツ、旧ソ連、中国、日本などからの15の海外同胞音楽家代表団の参加のもとに盛大におこなわれた。

 これは、北と南、海外のすべての芸術家と同胞の間で不信と誤解、対決意識を解消し、民族の和解と団結の雰囲気をつくり出すうえで重要な契機となった。

 総書記は、汎民族統一音楽会についで「90送年統一伝統音楽会」を催すことにし、民謡と民族楽器を基本として演目を編成し、それに応じて民族声楽と民族器楽を専門にする芸術家で音楽団を構成するようにした。

 そうして、「90送年統一伝統音楽会」は、1990年12月9日から12日にかけてソウルで、北と南の全人民の大きな期待と関心のもとに開催された。

 1990年代の最初の1、2年の間に活発におこなわれたスポーツと芸術分野における協力と交流は、全民族の統一への熱望をさらに強めるとともに、数十年間存在していた北南間の不信と対決意識を解消し、和解と団結の雰囲気を盛り上げるうえで重要な役割を果たした。

 総書記は、全民族的な統一運動を組織化、体系化することに大きな力を注いだ。

 1990年代に入って、より幅広い統一協商を実現して祖国の統一を一日も早くなし遂げようという北と南、海外の同胞の志向はかつてなく高まり、こうした現実は、統一のための対話と協商をさらに強化し、祖国統一のための全民族的運動を組織化、体系化することを切実に求めていた。

 総書記は、内外同胞の間で日ごとに強化されている祖国統一運動を組織化する活動に深い関心を払った。

 1990年8月15日、板門店では、解放後45年にして初めて北と南、海外の統一運動団体と各階層の代表の参加のもとに「祖国の平和と統一のための汎民族大会」が盛大に開催され、同じ時刻に同じ案件をもってソウルでも汎民族大会が開かれた。

 大会では、祖国の自主的平和統一のための連帯共同闘争を強化し、統一愛国勢力連合の拡大をめざして積極的にたたかうという趣旨の決議文が採択された。これは事実上、祖国統一のための全民族的連合戦線が結成されたも同然であった。

 第1回汎民族大会後、総書記は、常設の汎民族統一戦線組織を結成するためのたたかいをさらに強化するよう導いた。そうして、1990年11月、ベルリンで、北と南、海外の3者実務会談が開かれ、全民族的な統一愛国勢力の連合組織として「祖国統一汎民族連合」(汎民連)が結成された。また、1992年8月15日には、板門店で「祖国統一汎民族青年学生連合」(汎青学連)が結成された。

 総書記は、汎民連と汎青学連をかため、その役割を絶えず強めて祖国統一運動を整然と体系化するよう導いた。

 汎民連北側本部は、その組織体系を短期間に完備し、海外本部も各地域本部組織を拡大強化し、数多くの海外同胞を組織的に結束した。汎民連南側本部結成準備委員会も組織結成のためのたたかいを積極的に推し進めた。

 汎民連はまた、その綱領と規約について合意を見、1993年12月にその発効を宣言した。

 汎青学連も北と南、海外に整然とした組織体系を整えていった。

 こうして、汎民族的な統一運動組織である汎民連と汎青学連の組織がしっかりとかためられ、その積極的な活動によって、毎年汎民族大会をはじめ、統一行事が全民族の大きな関心のもとに催されることになった。

 この過程で、北と南、海外の3者連帯、連合がさらに強まり、民族の和解と団結の雰囲気は日ごとに高まった。

 総書記は、北南高位級会談が民族の和解と団結の新たな転機となるよう導いた。

 1990年代に入って、かつてなく高まった全民族の統一への熱望を無視できなくなった南朝鮮当局が朝鮮との統一対話に応じることにより、1990年9月から北と南の総理を団長とする高位級会談が開始され、1991年12月の第5回北南高位級会談で「北南間の和解と不可侵及び協力・交流に関する合意書」が採択され、ついで「朝鮮半島の非核化に関する共同宣言」について合意が成立した。

 金正日総書記は、全民族大団結10大綱領の旗印のもとに、祖国統一の画期的局面を開くために心血を注いだ。

 1990年代に入って、アメリカ帝国主義と南朝鮮かいらいは、情勢を極度に緊張させ、共和国孤立・圧殺策動をさらに強化した。1993年の春には、かつてなかった緊張した政治・軍事情勢が生じた。このように情勢が緊張していたにもかかわらず、金日成主席は同年4月に開かれた最高人民会議第9期第5回会議で、全民族の一致した統一の意志を反映して作成した『祖国統一のための全民族大団結10大綱領』を発表した。

 総書記は、全民族大団結10大綱領の宣伝を集中的におこなうようにした。

 党機関紙、放送をはじめ、あらゆる通信・報道手段と出版物が、全民族大団結10大綱領の内容と正当性、それにたいする各階層の内外の同胞と世界各国の政界をはじめ、各界の反響資料を集中的に紹介、宣伝した。また、全民族大団結10大綱領を支持する大衆大会や大衆集会のニュース、各政党・社会団体の声明や談話の内容を集中編集した。こうして、内外の全朝鮮民族が全民族大団結10大綱領を心に受け止め、それを実現するためのたたかいに立ち上がった。

 総聯(在日本朝鮮人総聯合会)の活動家と在日同胞は、同年6月から8月にかけて日本各地で10大綱領支持30万名署名運動を繰り広げ、32万4000余名の署名を集めた。そして、同胞青年学生は1200キロ大行進をおこなった。また、総聯傘下の多くの同胞が、民団系や組織に加入していない同胞、帰化した同胞、南朝鮮往来者のなかに深く入り、主席と総書記の崇高な民族大団結の思想と民族愛について広く解説、宣伝した。

 こうして、北と南、海外のすべての同胞が、主席の提示した全民族大団結10大綱領を民族の唯一の統一大綱として受け入れ、世界の多くの国の党および国家首班と各界の人士が支持と連帯の声をよりいっそう高めるようになった。

 総書記は、全民族大団結10大綱領の旗印のもとに内外同胞の民族的団結を実現するために精力を傾けた。

 1993年10月12日から23日にかけて東京と大阪で、民族分断48年にして初めて、北と南、海外の同胞美術家の統一美術展が全同胞の大きな関心のもとに開かれた。

 統一美術展に参加した同胞美術家たちは10月16日、東京で、自主、平和統一、民族大団結の原則にもとづいて国の統一を成就し、思想と理念、体制の違いを超えて和解と団結をめざして共同で努力するという趣旨の共同声明を発表した。

 この時期、日本で開かれた「第4回祖国の平和統一と宣教に関するキリスト教徒東京会議」「第4回アジアの平和と女性の役割に関する国際討論会」をはじめ、多くの統一祝典および国際会議でも全民族大団結10大綱領を支持する声が沸き上がった。

 総書記は、全民族大団結10大綱領の旗印のもとに祖国統一の画期的局面を開くことになる北南最高位級会談を成功させるために心血を注いだ。

 民族の統一熱気が高まっていた1990年代中ごろの有利な情勢は、祖国の統一を早めるためのより積極的な措置を講じることを切実に求めていた。そうして、1993年10月から北南最高位級特使交換のための実務代表団の接触が始まり、翌年の6月28日には板門店で最高位級会談のための双方の副総理級予備接触がおこなわれた。予備接触では、7月25日から27日にかけて平壌で北南最高位級会談を開くという合意書が採択された。

 総書記は、北南最高位級会談が祖国統一の画期的局面を開く決定的な契機となるようにするため、会談の準備に心血を注いだ。会談を成功させるため、総書記は会談に関する多くの文書に残らず目を通して完成させた。

 主席は、生涯を終える数時間前にも会談に関する文書を検討して「金日成 1994・7・7」としたため、総書記と会談に関する重要な問題について討議した。

 しかし、北南最高位級会談を間近に控えて金日成主席の急逝という民族最大の痛恨事に見舞われたため、それは実現を見なかった。

 5000年の朝鮮民族史上最大の痛恨事に見舞われ、1990年代の北南最高位級会談は実現しなかったが、そのために金日成主席と金正日総書記が注いだ心血、その道で残した業績は、歴史の地──板門店に建てられた主席の統一親筆碑とともに子々孫々に伝えられるであろう。





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