金正日総書記革命活動史

第6章 人民大衆中心の朝鮮式社会主義を固守するために

第5節 社会主義経済・文化建設を推進するために

 金正日総書記は、社会主義経済建設を強力に推進することを朝鮮式社会主義をさらに輝かせるための重要な課題として提示し、これに大きな力を傾けた。

 1990年代に至り、朝鮮の社会主義経済建設は大きな難関にぶつかった。

 社会主義市場の崩壊により社会主義諸国と結んでいた長期・短期貿易協定は、ほとんど履行されなくなり、それまでおこなわれていた経済協力も不振状態に陥り、それは朝鮮の社会主義経済建設に少なからず悪影響を及ぼした。一方、アメリカとその追随勢力は、多くの国における社会主義の崩壊を奇貨に朝鮮を孤立させ圧殺しようと政治・軍事圧力を加えるとともに、経済封鎖策動をいつにもまして強化した。

 こうした国際的環境と経済的難関に対処して、金日成主席は、1990年の新年の辞と同年1月の党中央委員会第6期第17回総会で、いかなる環境のもとでも自分の力で生きていけるように国の経済的自立性をさらに強める方向で経済構造を完備するための措置を講じ、社会主義建設で、いま一度新たな革命的大高揚を起こすよう呼びかけた。

 総書記は主席の意を体して、全党、全軍、全人民を党中央委員会第6期第17回総会の決定を貫徹するためのたたかいに立ち上がらせた。

 1990年1月、各級党組織が、主席の新年の辞と党中央委員会第6期第17回総会の決定を貫徹するための討議をおこなうようにした。また、あらゆる宣伝・鼓舞力量と手段を総動員して全国に新たな革命的大高揚の炎を燃え上がらせるための思想活動をおこなうようにした。

 総書記は、1990年代の新たな革命的大高揚を起こすために、全国的な人民経済部門別会議を意義深く開くようにした。

 1990年2月末には全国生産革新者大会を、3月には機械工業部門と金属工業部門の熱誠者会議を開催し、これを機に人民経済の各部門で「90年代の速度」創造運動を力強く繰り広げ、自力更生、刻苦奮闘の革命精神を発揮して社会主義建設のすべての部門で新たな高揚を起こすようにした。そして、同年4月には全国青年熱誠者大会を開催し、青年を90年代の社会主義大進軍に立ち上がらせた。

 総書記は、人民生活の向上を1990年代初めの社会主義経済建設の中心的課題として打ち出し、その実現のために心血を注いだ。

 1990年1月1日の党中央委員会および政務院の責任幹部への談話『党活動と社会主義建設に転換をもたらし、1990年代を輝かそう』で、人民生活を一段と向上させることを社会主義経済建設の中心的課題として提示した。

 金正日総書記は、次のように述べている。

 「こんにち、経済活動において力を入れるべき最も重要な問題は、人民生活を速やかに向上させることです」

 1990年代の経済建設構想にもとづき、総書記は、既存の自立的重工業の土台が効果を発揮できるようにすることに引き続き力を入れるとともに、軽工業と農業、住宅建設に主力を傾注するようにした。

 総書記は、軽工業を引き続き発展させるための対策を講じた。

 まず、重工業部門の工場、企業の建設を一部調整し、軽工業部門への投資を増やすようにした。そして、既存の工場、企業の生産を正常化し、新しい近代技術を積極的に取り入れて、人民生活に切実に必要な各種の製品をより多く生産するようにした。

 軽工業の発展に画期的な転換の契機をもたらすため、総書記は、1990年6月に全国軽工業大会を開催し、大会の参加者に『軽工業革命を立派に遂行するために』と題する書簡を送った。

 この書簡で総書記は、軽工業の発展に転換をもたらすためのたたかいの本質と意義を明らかにし、それを遂行するための基本課題と方途、党組織の任務など、軽工業発展に関する党の方針を貫徹するうえでの理論的・実践的問題を明示した。

 その後も、総書記は軽工業の発展に深い関心を払った。

 1992年4月4日、主席の誕生80周年に際して生産された軽工業製品を見た際の経済部門の責任幹部への談話『軽工業を発展させ、経済管理研究事業に力を注ぐために』で、軽工業部門がおさめた成果を高く評価し、食品加工業をはじめ、軽工業の発展に引き続き大きな力を入れるべきだと指摘した。特に、1992年5月、党中央委員会の指示書「全党、全国、全人民が総がかりで党の軽工業革命方針を貫徹するために」を下達し、軽工業部門に党の指導グループを派遣して軽工業の発展を促すようにした。

 総書記は、農業の発展に大きな力を入れた。

 総書記は、水の問題を解決することを農業部門の最も重要な課題の一つとして提起し、1990年代に入って、西海閘門――温泉第2段階水路工事、西海閘門――信川――康翎――甕津水路工事、南江――ミル原水路工事、礼成江――延白原水路工事をはじめ、膨大な労力と資材、資金を要する西海岸一帯の数百里に及ぶ水路工事を全党、全軍、全人民が総がかりで短期間に完了するようにした。そうして、穀倉地帯の田畑に水を十分に送る潅漑システムがさらに整った。

 1990年3月の末、総書記は江東郡烽火里に降雨式畑地潅漑のモデルをつくり、全国のすべての協同農場に一般化させるようにした。

 総書記は、農業の機械化、化学化の水準をさらに高め、地力を高めるための事業を大衆あげての運動として力強く繰り広げ、農業をチュチェ農法の要求どおりに科学的、技術的に営むことによって、不利な自然・気候条件を克服し、毎年多くの穀物を収穫できるようにした。

 総書記は、より多くの住宅を建設し、日ごとに高まる人民の要求に即して都市運営事業を改善するよう導いた。

 首都の住民の住宅問題を解決するため、主席の誕生80周年までに平壌市に5万世帯の住宅を建設するという課題を提示し、それに必要な設備や資材、労力を適時に提供し、全党、全国、全人民が平壌市の住宅建設を積極的に支援するようにした。こうして、主席の誕生80周年を迎えて一つの都市に匹敵する統一通りが建設され、首都の各地に住宅が建てられ新宅への引っ越しがおこなわれた。

 総書記は、平壌市だけでなく、すべての道が、それぞれの実情に応じて都市と農村に多くの住宅を建設して、増大する住宅の需要を充足させるようにした。

 都市運営事業を改善することに深い関心を払った総書記は1992年9月、全国都市運営部門活動家講習会を開催し、講習会の参加者に『発展する現実の要請に即して都市運営事業をさらに改善しよう』と題する書簡を送った。

 総書記は書簡で、社会主義社会における都市運営事業は、人民に自主的で創造的な生活を円滑に保障する奉仕事業であり、国の貴重な財貨をしっかりと保護、管理し、次の世代に譲り渡す有意義な事業であるとし、発展する現実の要請に即して都市運営事業をさらに改善するための課題と方途を具体的に示した。

 書簡で提示された課題を実行するため、総書記は、集団的な都市運営システムを確立する一方、都市運営部門従事者の陣容をかため、彼らの責任感と役割を強め、都市運営部門の技術者養成事業を強化し、都市運営事業にたいする監督、統制を強めるようにした。また、都市運営部門の勤労者を社会的に大いに押し立てるようにした。

 総書記は、革命的経済戦略を貫徹するためのたたかいを力強く繰り広げるよう導いた。

 金日成主席は、1993年12月の党中央委員会第6期第21回総会で、今後3年間を調整期とし、この期間に経済建設で農業第一主義、軽工業第一主義、貿易第一主義の方針を貫徹して人民生活を一段と向上させるという、革命的経済戦略を打ち出した。

 総書記は、1994年3月1日の党中央委員会の責任幹部への談話『党の革命的経済戦略を貫徹しよう』で、革命的経済戦略の本質と要求、その遂行方途を明示し、それを実現するための組織・政治活動を強力に展開するようにした。総書記は、各級党組織と幹部が大衆のなかに深く入って、党の革命的経済戦略とそれを打ち出した党の意図をわかりやすく解説し、それを貫徹するうえで絶対性、無条件性の革命的気風、自力更生、刻苦奮闘の革命精神を発揮させるための宣伝・鼓舞活動を繰り広げ、綿密な仕事の手配を裏打ちするようにした。

 こうして、調整期の初年である1994年に農業と軽工業、対外貿易部門で大きな成果をおさめ、人民経済の先行部門でも生産的高揚が起こった。

 総書記は、チュチェの社会主義経済管理理論を全一的に体系化し、それを立派に具現するようにした。

 1991年7月1日、創立45周年を迎える人民経済大学の教職員、学生に送った書簡『チュチェの社会主義経済管理理論で武装しよう』で、社会主義経済管理の基本原理と原則、社会主義経済管理システムの本質的特徴と優越性、その具現方途、社会主義経済管理の基本方法を全一的に体系化し、科学的に解明した。

 総書記は、チュチェの経済管理理論を経済管理実践に立派に具現させることに深い関心を払った。

 経済幹部をチュチェの経済管理理論で武装させることに第一の関心を払い、経済管理の中堅幹部を育成する人民経済大学の教育活動をさらに強化する一方、チュチェの社会主義経済管理システムを擁護、貫徹するための研究と宣伝活動を強化し、チュチェの経済管理理論に反するあらゆる要素を徹底的に克服するようにした。

 また、1990年9月に全国財政・銀行部門活動家大会を、1993年9月には全国資材供給部門活動家大会と全国価格部門活動家大会を開催し、チュチェの経済管理理論を具現する過程で得た貴重な成果と経験を一般化させるようにした。

 金正日総書記は、社会主義文化建設を促進するために心血を注いだ。

 総書記は、科学技術をさらに発展させるための事業に大きな力を入れた。

 金正日総書記は、次のように述べている。

 「科学技術を発展させることが、現段階においては、社会主義偉業を固守し、人民大衆中心の朝鮮式社会主義をさらに輝かせるうえで切実な問題となっています」

 1991年10月、総書記は全国科学者大会を開催し、大会の参加者に『科学技術の発展に新たな転換をもたらそう』と題する書簡を送った。

 総書記は書簡で、国の科学技術を近い将来に世界の先進レベルにまで引き上げようというのが党の確固たる決心であるとし、科学技術を発展させるための展望目標と当面の課題、その遂行方途を明示した。

 国の科学技術を発展させるため、総書記は、1991年から新しい科学技術発展3カ年計画を遂行するために奮闘するようにし、この期間に重要な科学技術部門を新たな高い段階に発展させ、最新の科学技術による人民経済の近代化を極力推進することを中心的課題としてとらえていくようにした。そして、科学研究部門にたいする国家の投資を増やし、研究条件をよく整え、科学研究活動にたいする党の指導を強化するための措置を講じるとともに、科学研究活動に大きな功労のあった科学者を押し立て、彼らを社会的に尊敬し優待する気風を確立することによって、科学者、技術者が、国の科学技術を発展させるうえで自己の責任と役割を果たすようにした。

 総書記は、チュチェの文学・芸術を発展させることに引き続き大きな力を入れるよう導いた。

 総書記は、文学・芸術革命とその成果を強化発展させる過程で得た成果と経験にもとづき、チュチェの文芸理論を全面的に深化発展させた。1990年代初めの1、2年の間にも、『舞踊芸術論』(1990・11・30)『音楽芸術論』(1991・7・17)『美術論』(1991・10・16)、『チュチェの文学論』(1992・1・20)を発表し、チュチェの文芸理論を映画と歌劇、演劇だけでなく、舞踊や建築芸術、音楽、美術、文学など、文学・芸術のすべての分野を包括する完璧な文芸理論にした。

 総書記は、文学・芸術作品の創作で新たな革新を起こすよう導いた。

 1991年5月23日、歌謡『平壌が一番だ』をもってシリーズ劇映画をつくるよう指示し、その制作を精力的に指導して、わずか1年の間に『民族と運命』(第1部〜第7部)をつくりあげるようにした。そして、制作を開始して1年になる1992年5月23日、文学・芸術部門の幹部および創作家、芸術家への談話『シリーズ劇映画「民族と運命」の創作成果を踏まえて、文学・芸術建設に新たな転換をもたらそう』を発表した。

 この談話で総書記は、シリーズ劇映画『民族と運命』がおさめた思想的・芸術的成果とその大きな認識的・教育的意義を高く評価し、その成果を踏まえて映画の続編を引き続き高い水準で創作し、映画芸術、文学、舞台芸術、美術など文学・芸術のすべての分野に新たな転換をもたらすという課題を提示した。

 こうして、映画芸術部門では、1990年代前半にシリーズ劇映画『民族と運命』(第1部〜第30部)が朝鮮映画の顔として創作され、劇映画『若い参謀長』『母は狩人だった』『ありがたい乙女』など現実を主題とした作品が数多く創作された。

 総書記は、音楽芸術の主体的な発展にも深い関心を払った。

 1990年2月25日の音楽芸術部門の責任幹部への談話『人民に愛唱される革命的な音楽作品を創作しよう』、1990年6月21日のポチョンボ・エレクトロニック・アンサンブルの芸術家の独唱会に参加した幹部、創作家への談話『ポチョンボ・エレクトロニック・アンサンブルの芸術家の芸術的技量を見習うことについて』、1993年11月13日の党中央委員会の責任幹部への談話『民族音楽を現代的美感に合わせて発展させるために』をはじめ、多くの機会に、音楽芸術を主体的に発展させるための課題と方途を明示し、それを実現させるために精力を傾けた。

 そうして、1990年代前半に歌謡『平壌が一番だ』をはじめ、多くの時代の名曲が創作、普及され、民謡をはじめとする民族音楽遺産が大々的に発掘、普及された。また、革命の各年代に創作され、人民の間で広く歌われた時代の名曲を現代的美感に合わせて新たに編曲して種々の音楽形式にし、それを普及させる活動が活発に繰り広げられることにより、民族音楽を発展させるうえで大きな成果がもたらされた。

 総書記の指導により、1990年代前半に文学・芸術は、映画と音楽芸術だけでなく、文学、舞踊、美術、サーカス芸術、建築芸術などすべての分野にわたって新たな発展を遂げ、それは、日ごとに高まる人民の文化的需要を充足し、朝鮮の社会主義の思想的・文化的陣地を堅固にするうえで大きな役割を果たした。

 総書記は、民族文化遺産を正しく継承し発展させることにも大きな力を注いだ。

 勤労者を朝鮮民族第一主義の精神で武装させるうえで民族文化遺産の正しい継承、発展がもつ意義を深く洞察した総書記は、朝鮮民族の悠久の歴史を示す遺跡・遺物を大切にし、それをきちんと保存、管理し、民族の誇りに満ちた歴史と英知に富む伝統を輝かせるよう導いた。

 1993年にも数度にわたって、朝鮮民族の始祖王である檀君についての研究を深化させるよう強調し、檀君が神話中の人物ではなく、実在した歴史的人物であることが実証され、主席が檀君陵の改修を指示した後は、その指示を実行するための事業全般を掌握し、陣頭指揮を取った。そうして、檀君陵は民族の始祖王の陵にふさわしく改修され、甚だしく歪曲、抹殺されていた民族の悠久の歴史を取り戻し、輝かしい文化と愛国の伝統を代を継いで輝かせていくことができるようになった。

 総書記は、人民保健医療事業を改善することにも深い関心を払った。

 1992年7月22日の保健医療部門の責任幹部への談話『人民保健医療事業の改善で提起される若干の問題』で、朝鮮の社会主義保健医療制度の優越性をさらに強く発揮させることに主眼を置いて人民保健医療事業を発展させ、予防医療活動に新たな転換をもたらさなければならないと述べ、それを実現させるために力を注いだ。

 まず、党の予防医療方針を貫徹するため、衛生防疫活動を大衆的運動として繰り広げるとともに、女性と子どもの健康管理に深い関心を払い、さまざまな病気にかからないように予防医療対策に万全を期するようにした。そして、歯科医療部門を発展させ、癌性疾患の予防医療に大きな力を注ぐとともに、全国各地にある鉱泉や温泉、鉱泥土などの天然手段を医療に活用する対策を立て、人民がそれをいつでも利用できるようにした。

 また、医科学技術を速やかに発展させるため、世界の医学発展趨勢をよく知り、先進技術を取り入れて一般化させ、保健医療部門が専門科を速やかに発展させるようにした。

 こうして、国の経済状況が困難であったにもかかわらず、人民保健医療事業は人民の健康増進に大きく寄与した。





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