金正日総書記革命活動史

第4章 全社会の金日成主義化を実現するために

第9節 祖国統一勢力を強化し、
在日朝鮮人運動を発展させるために

 1970年代の中ごろ、金正日総書記は、内外の情勢を科学的に分析したうえで、祖国の統一をめざす活動を賢明に指導した。

 このころ、アメリカ帝国主義と南朝鮮かいらい一味のいっそう露骨化する新たな戦争挑発策動と民族分断永久化策動のため、祖国統一の前途には重大な障害がもたらされていた。

 アメリカ帝国主義は、1975年にベトナム戦争で惨敗を喫して東南アジアから追い出されると、南朝鮮を自国の「前線防衛地域」と宣言して核兵器を大々的に搬入する一方、侵略兵力を大幅に増強し、作戦指揮体系を改編した。そして、1976年からは北侵を狙った核試験戦争であるチーム・スピリット合同軍事演習を開始し、毎年エスカレートさせる一方、同年8月には「板門店事件」を起こして情勢を極度に緊張させた。

 南朝鮮かいらい一味は、アメリカ帝国主義の筋書どおりに、ありもしない「南侵の脅威」を喧伝して北南の対決を鼓吹する一方、ようやく実現した北南の対話を破綻させた。のみならず、軍事境界線上の東西240 余キロの区間の南側地域に民族分断の象徴であるコンクリート障壁を築くという反民族的犯罪行為を働いた。

 そのため、朝鮮の北南関係は、7.4北南共同声明発表以前の状態に逆戻りし、朝鮮半島には、いつ何時戦争が起こるかわからない緊張した情勢が生じた。

 金正日総書記は、こうした情勢の要求を深く洞察し、祖国統一の主体的革命勢力を最大限に強化するために心血を注いだ。

 1975年2月16日の指示と、1975年5月2日の党中央委員会書記、部長、副部長協議会でおこなった演説『現情勢の要求に即して革命勢力を打ちかため、党活動をさらに改善強化するために』で、祖国統一の主体的勢力を強化するという課題を提示し、それを実現するためのたたかいを賢明に指導した。

 金正日総書記は、次のように述べている。

 「我々は、あくまでも我々の主体的勢力に依拠すべきであり、自力でアメリカ帝国主義を追い出して祖国を統一しなければなりません。そのためには、我々の主体的革命勢力を最大限に強化しなければなりません」

 北半部の革命勢力を強化するため、総書記は、まず政治勢力を打ちかためることに関心を払い、同時に軍事力と経済力を強化するために力を注いだ。

 南朝鮮でも祖国統一勢力が急速に成長した。

 南朝鮮人民は、「金日成主義研究会」をはじめ、多くの研究組織をつくり、研究討論会や実践討論会を活発におこなった。また、さまざまな形態の合法的団体と非合法的団体を組織した。南朝鮮人民は、1977年から進めてきた反ファッショ民主連合戦線の結成を支持する署名運動を発展させて階層別の新しい闘争組織をつくり、各階層の大衆を組織的に結束する活動を積極的に推進した。その結果、1978年7月に連合戦線形態の反ファッショ民主主義闘争組織である「民主主義国民連合」が結成された。この組織は、1979年3月に名称を「民主主義と民族統一のための国民連合」と改め、その規模を拡大した。

 総書記は、海外同胞を祖国統一のための一つの勢力として結束するようにした。海外に多くの代表団と芸術団を派遣し、海外同胞の間で祖国統一への熱望を呼び起こすとともに、祖国を訪問する海外同胞との活動に力を入れるようにした。

 こうして、北アメリカと西ヨーロッパ在住の海外同胞の間で統一熱気が高まり、祖国統一のための闘争組織を結成する活動が力強く繰り広げられた。

 アメリカと西ヨーロッパ、北ヨーロッパ在住の海外同胞は、祖国統一のための闘争団体を組織し、これに多くの海外同胞を加入させた。また、世界各国の海外同胞は1977年8月、東京で広範な海外同胞の統一的組織体である「民主民族統一海外韓国人連合」を結成した。総聯(在日本朝鮮人総聯合会)と海外同胞組織は、大衆集会やデモ、署名運動、講演会、声明発表など、さまざまな形式と方法で祖国統一を早めるための宣伝活動と大衆闘争を力強く繰り広げた。

 総書記は、祖国統一偉業にたいする国際連帯を強めるよう導いた。

 朝鮮労働党の自主的祖国統一方針の正当性と、アメリカ帝国主義と南朝鮮かいらい一味の反統一策動の本質を積極的に解説、宣伝するようにした。また、国連の舞台を通じてアメリカ帝国主義の民族分断策動を打ち砕き、祖国統一に有利な国際的環境をもたらすよう導くとともに、世界的規模で祖国統一偉業を支持する連帯運動をさらに拡大発展させるようにした。

 こうして、祖国統一の実現に有利な国際的環境がもたらされた。

 世界の多くの国と地域で朝鮮の自主的平和統一を支持する連帯組織が結成された。1977年6月に「朝鮮の自主的平和統一のための国際連絡委員会」が組織されたのをはじめ、70余カ国で「朝鮮人民との連帯委員会」「朝鮮統一支持委員会」などが組織されて活動をおこなった。1980年に連帯組織の数は250 余に達した。

 1977年2月と1978年11月には、ベルギーのブリュッセルと日本の東京で、朝鮮の自主的平和統一を支持する第1回、第2回世界大会が開かれた。これらの大会は、祖国の統一をめざす朝鮮人民のたたかいにたいする国際連帯運動をさらに強化する重要な契機となった。

 朝鮮の統一を支持する国際連帯運動は、世界的規模で急速に組織化されただけでなく、その規模がかつてなく拡大した。1979年4月21日から12月31日まで世界的規模で展開された「アメリカ軍の南朝鮮からの撤退を求める国際的な署名運動」には、128 カ国と31の国際機構および地域機構の無慮10億8000万人が参加した。

 総書記は、1977年1月、幅広い北南対話を実現するための主動的な提案をおこなうようにし、その実現のために精力を傾けた。

 1977年1月25日、共和国北半部の諸政党、社会団体は、連席会議を開き、南朝鮮の諸政党、社会団体と各階層の人民、海外同胞に北南政治協商会議を招集することを呼びかける手紙を採択した。北南政治協商会議招集方案は、内外の全幅の支持と歓迎を受けた。にもかかわらず、南朝鮮かいらい一味は、統一より「平和の定着」の方が緊急な問題であると強弁し、「訪問外交」「招請外交」を繰り広げてこれを妨害した。

 こうした状況下で、祖国統一民主主義戦線中央委員会は1979年1月23日の声明を通じて、全民族大会招集のための双務的および多務的予備会談を開くことを提案し、共和国政府は1979年1月31日の朝鮮中央通信社の声明を通じて、民族の和解と対話に有利な雰囲気をつくりだすための主動的な措置として、2月1日から北半部の全地域で相手方にたいする誹謗を一切中止することを内外に宣言した。そして、祖国統一民主主義戦線中央委員会は2月5日に再び声明を発表し、北と南の接触と対話を実現するための予備的協議機構である民族統一準備委員会を設けることを提案し、そのための北南連絡代表の接触を2月20日に板門店でもつことを提起した。

 しかし、南朝鮮かいらい一味は、北南連絡代表の接触を人為的な障害と大規模の軍事演習騒ぎによって破綻させた。

 総書記は、1979年に朴正熙逆徒が射殺された「10月事件」のため南朝鮮かいらい一味の支配体系が麻痺状態に陥った時にも、「合作、団結、統一によって民族の活路を開こう」と題する『労働新聞』の社説を発表して、全民族の団結した力で統一の扉を開くことを呼びかけるようにし、1980年1月には再び、北南間の多務的および双務的接触をもつことを呼びかける手紙を南朝鮮の各政党、社会団体の人士と当局の責任ある地位にある人物に送るようにした。そうして、北南双方の総理接触を実現するための実務代表の接触がもたれることになった。

 しかし、新たに登場した南朝鮮かいらい一味は、「以北との統一など考えてはならない」として、南朝鮮全域に「非常戒厳令」をしく一方、北南の総理接触のための実務代表の接触まで破綻させた。

 北南対話は実現しなかったが、対話の全過程は全民族の平和統一への熱望をさらに高めた。

 アメリカ帝国主義と南朝鮮かいらい一味の反統一策動に激怒した南朝鮮人民は、民主化闘争に立ち上がり、ついに1980年5月、光州で蜂起を起こした。光州人民蜂起には、労働者、農民、青年学生など30余万の各階層の人民が参加し、闘争は全羅南道の17の市、郡に拡大した。光州市を完全に掌握し、10日間も武器を取って勇敢に戦った光州人民蜂起は、民主主義を実現するためのアジア人民の近代闘争史に例を見ない最大規模の激烈な武装抗戦であった。

 金正日総書記は、在日朝鮮人運動を発展させるために精力を傾けた。

 1970年代の中ごろ、総聯には、祖国の現実に歩調を合わせて在日朝鮮人運動を新たな高い段階へと発展させるべき課題が提起されていた。1974年2月の総聯第10回全体大会は、総聯が金日成主義の旗を掲げて進むことを明示し、1977年9月の総聯第11回全体大会は総聯の金日成主義化を総聯事業の総体的綱領として宣言した。

 総書記は、総聯のすべての活動を同胞大衆の教育に集中するようにした。

 総聯は行政的組織ではなく大衆的政治団体であるとし、総聯は、対人活動、同胞大衆の教育に活動の重点を置いて思想教育の内容を深化させ、大衆教育の体系と方法を改善すべきだと述べた。

 総書記は、特に総聯の教育事業に深い関心を払い、新しい世代の教育に力を入れるよう導いた。総聯の民族教育発展のために教育援助費と奨学金を毎年定期的に送るようにし、教育の質を高め、物質的条件を整えるための対策を立てた。そうして、総聯のすべての学校に金日成主席の贈り物として大同江と朝鮮東海、西海の魚類の標本、白頭山の木々の標本、鉱物標本、動物の剥製など数多くの視覚教材が送られ、朝鮮大学校には朝鮮歴史博物館と自然博物館が設立された。これは、青少年の教育に大いに役立った。

 総書記は、総聯の活動家と同胞が社会主義祖国をしばしば訪問するようにした。

 総聯の活動家と同胞を重要な記念日や祝日に祖国に呼び寄せたり大きな会議に参加させ、定期的に祖国を訪問するようにさせた。そして、1979年8月からは、短期祖国訪問事業をおこなうよう対策を立てた。また、祖国訪問期間に海外同胞が、革命戦跡や革命史跡、大記念碑的建造物を参観し、主席の偉大さと社会主義祖国の貴重さを深く体得できるようあらゆる条件を整えた。

 金正日総書記の賢明な指導によって、在日朝鮮人運動は、金日成主義の旗のもとに新たな高い段階へと発展するようになった。





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