金正日総書記革命活動史

第4章 全社会の金日成主義化を実現するために

第8節 社会主義文化建設の各分野で
新たな高揚を起こすために

 金正日総書記は、全社会の金日成主義化の要求に即して社会主義文化建設の各分野で新たな高揚を起こすよう導いた。

 総書記は、教育科学事業を深化発展させるために精力を傾けた。

 金日成主席は1977年9月5日、党中央委員会第5期第14回総会で『社会主義教育に関するテーゼ』を発表した。総書記は、このテーゼを貫徹することを、全社会の金日成主義化の要求に即して社会主義教育を改善強化するための根本問題とみなした。

 総書記はまず、全党と全人民を教育テーゼの貫徹へと奮い立たせた。 1977年10月、活動家たちに、社会主義教育テーゼを読んで行政実務的対策を講じればすむと考えては絶対ならない、社会主義教育テーゼを実現するためには思想転換をしなければならないと述べた。思想転換を起こして全党と全人民を教育テーゼの貫徹へと奮い立たせるため、全国的に教育テーゼを支持し貫徹するための大衆大会と集会を盛大に催し、教育テーゼに関する集中的な教宣活動をおこなうようにした。

 特に、幹部の間で思想転換を起こすため、1977年10月から道・市・郡党拡大総会を開くようにした。そして、各級党組織が教育事業にたいする関心を高め、党としての指導を強化し、毎年9月5日を契機に教育テーゼの貫徹状況を総括することを制度化するようにした。また、教育部門の活動家を教育テーゼ貫徹の先頭に立たせるため、1978年9月の末から10月の初めにかけて1万5000余人規模の全国教育者大会を開き、この大会が教育者にとって教育テーゼ貫徹のための一大思想転換の契機となるようにした。

 総書記は、全社会の金日成主義化の要求に即応して教育の内容と方法を全面的に改善するよう導いた。

 1978年6月、人民学校(当時)と高等中学校(当時)の教案を検討して、その改善方向と方途を示し、普通教育部門の授業内容を更新するようにした。そして、新たな発展段階に入った朝鮮革命の要求と現代科学技術の発展趨勢に即して、高等教育部門の教科書の内容を全面的に改作し完成するための措置を講じた。また、開発授業法を具現し、理論教育と実践教育、教育と生産的労働を正しく結びつけるようにするとともに、それに必要な設備と条件を十分に整えるようにした。

 総書記は、教員の水準を高め、学生・生徒の間に革命的学習気風を確立することを教育テーゼ貫徹のキーポイントとみなし、これに大きな力を注いだ。

 各級学校の教員の政治・実務水準を一段と高めることを3大革命赤旗獲得運動の中心的課題の一つとみなして、これに力を入れ、教員の見聞を広めるために見学、参観を広くおこなうようにした。一方、1978年6月と8月に、教育部門では学習第一主義のスローガンを高くかかげ、学校では、学習本位、成績本位に進むべきであると指摘し、成績優秀な学生・生徒と学級、学校を押し立て、学習を基本として学生・生徒を評価するようにした。

 総書記は、国の科学技術を発展させるために精力を傾けた。

 1975年9月、各分野の科学者、技術者で「7.1科学者・技術者突撃隊」を編成して検徳鉱山の科学技術上の懸案を解決させ、ついで、各工場、企業に科学者・技術者突撃隊を派遣するようにした。こうした成果にもとづき、1978年2月17日には、各分野の専門知識をもつ科学者で「2月17日科学者突撃隊」(当時)を編成して人民経済各部門の重要対象に派遣する措置をとった。また、科学者と現場の技術者、技能工で「5.19技術革新突撃隊」を編成し、技術革新運動を大衆運動としていっそう力強く繰り広げるようにした。その後、この突撃隊が、科学技術革命の遂行において主席への忠誠心をより強く発揮することを期待して、突撃隊の名称を「4.15技術革新突撃隊」と改めた。

 こうした措置により、科学研究活動と集団的技術革新運動が密接に結びつき、科学技術の発展に一大飛躍がもたらされた。

 総書記は、科学技術の発展を正しく指導するための整然とした活動体系を確立した。

 政務院の委員会、部と工場、企業に科学技術を担当する機構・職制を新設し、その役割を強めるとともに、科学研究活動を党が担当して指導する体系を確立し、科学研究活動にたいする指導を党委員会の活動とするようにした。そして、科学者、技術者の陣容をしっかりとかため、彼らにより立派な科学研究条件をもたらすことにも大きな力を入れた。

 金正日総書記は、文学・芸術を全社会の金日成主義化の要求に即して、さらに深化発展させるために心血を注いだ。

 金正日総書記は、次のように述べている。

 「…文学・芸術部門の活動家は、金日成同志と党にたいする強い忠誠心をもち、革命的な文学・芸術作品をより多く創作することによって、全社会の金日成主義化に大いに寄与しなければなりません」

 1974年6月1日の党中央委員会および文化芸術部(当時)責任幹部協議会でおこなった演説で、全社会の金日成主義化の要求に即して文学・芸術部門の活動をさらに発展させるための課題と方途を示し、それを実現するための活動を精力的に指導した。

 総書記は、社会主義の現実が求める文学作品の創作で革新を起こすよう導いた。

 1974年12月6日の党宣伝活動家への談話で、全社会の金日成主義化偉業の遂行に入った現実が求める革命的な文学作品をより多く創作すべきであると指摘し、1978年1月には、小説文学部門に新たな変革をもたらすため、数年内に100編の長中編小説を創作するための措置を講じた。そして、作家が政治的見識と創作的技量を高め、現実体験を積み重ねるようにするとともに、小説と詩の創作で提起される思想的・芸術的問題を随時検討し、細心な指導を与えた。特に、1979年7月21日、革命小説の創作で提起される歴史的事実と芸術的虚構の問題について述べ、1980年1月8日には、朝鮮作家同盟第3回大会の参加者に『発展する現実の要求に即して作家の政治的見識と創作的技量を一段と高めよう』と題する書簡を送り、文学の使命と進むべき道を明示した。

 こうして、朝鮮文学史上重要な意義をもつ叢書『不滅の歴史』のなかの長編小説『苦難の行軍』『白頭山の麓』と、長編小説『春』『大地をうるおす』『平壌時間』をはじめ、多くの文学作品が創作され、勤労者を革命的世界観、領袖観が確立したチュチェ型の革命家に育て上げるのに大いに寄与した。

 総書記は、全盛期を迎えたチュチェの芸術をより高い段階に引き上げるために心血を注いだ。

 1975年5月6日、党中央委員会および文化芸術部門の活動家におこなった演説『我々のチュチェの芸術をさらに発展させるために』で、芸術をより高い段階へと発展させる方向と方途を示し、創作家と芸術家を絶え間ない創作的高揚へと奮い立たせた。

 総書記は、映画革命でおさめた成果を打ちかためながら映画の制作に革新をもたらすよう導いた。

 まず、革命映画を制作することに深い関心を払った。

 1975年に、劇映画に初めて主席が登場する革命映画『燃える炎』を制作することを提案した。そして、1975年12月と1977年4月に映画の制作を指導しながら、主席の革命的家庭を取り扱う映画で、格式化を避け、偉大な人間の生活を芸術的にリアルに描き、作品のスタイルに合わせて主席を描く問題など、革命映画制作の指針を与えた。そうして、『燃える炎』が革命映画として完成し、ついで『司令部を遠く離れて』『白頭山』が制作され、革命映画の開花期が開かれた。

 総書記は、革命映画とともに多様な現実を主題とした映画を制作することにも深い関心を払って具体的な指導を与え、劇映画『この地の果てまで』『無名の英雄』をはじめ、教育的意義が大きい多くの映画を制作するようにした。

 総書記は、演劇革命を起こすよう賢明に導いた。

 1972年11月7日、国立演劇団の作家、芸術家会議での結語『チュチェの時代にかなった新しい革命演劇を創作するために』で、演劇革命を起こして我々の時代にかなった新しい革命演劇を創作するという方針を提示した。そして、革命の時代に奉仕する新しい演劇をつくりだすためには、戯曲の創作からはじまって俳優のせりふや演技に至るまで革命を起こさなければならないと指摘した。また、観客が舞台での俳優の動作ではなく、生きた人間の動作が見られるように立体性を保障し、朝鮮式の新しい演劇形式を創造しなければならないと強調した。

 総書記は、主席が創作した『城隍堂』を舞台化することから演劇革命を起こすようにした。そして、1977年11月4日と1978年6月14日をはじめ、数度にわたって創作活動を指導し、創作家に原作の「種子」を把握させるとともに、創作の方向を示して、原作の思想的・芸術的特性を遜色なく再現できるよう導いた。こうして、1978年8月に『城隍堂』式革命演劇が完成した。

 総書記は、歌劇革命でおさめた成果を打ちかためながら歌劇芸術を絶えず発展させていくようにした。

 1974年9月4日から6日にかけておこなった文学・芸術部門の創作家への談話『歌劇芸術について』で、歌劇革命で収めた成果と経験を分析、総括し、それにもとづいてチュチェの歌劇理論を全面的に集大成した。そして、歌劇革命で守るべき原則を示し、歌劇台本、歌劇音楽、歌劇舞踊、歌劇舞台美術、歌劇舞台形象など、歌劇芸術を発展させるうえで提起されるすべての理論的・実践的問題を科学的に解明した。

 完璧なチュチェの歌劇理論を打ち出した総書記は、革命歌劇『明るい太陽のもとで』をはじめ、多くの歌劇作品を創作するよう導き、革命歌劇『血の海』の公演の高い思想的・芸術的水準を保つようにした。

 総書記は、音楽と舞踊、美術の創作活動も精力的に指導した。

 1975年5月に党中央委員会および文化芸術部門の活動家におこなった演説で、音楽と舞踊作品の創作に根本的転換をもたらし、チュチェの芸術をさらに発展させる方向と方途を示し、創作家と芸術家を新たな創作戦闘へと奮い立たせた。そして、舞台芸術部門で音楽舞踊総合公演を奨励し、その内容と形式を絶えず改善していくようにした。また、1978年6月には万寿台創作社を訪ね、主席の形象化と美術作品の創作に引き続き大きな力を入れるよう指示し、朝鮮画『白頭山の日の出』を大傑作につくりあげ、その模範を一般化させて、朝鮮画の創作、美術作品の創作に新たな転換をもたらすようにした。

 総書記は、出版・報道活動に革命的転換をもたらすために精力を傾けた。

 金正日総書記は、次のように述べている。

 「こんにち、わが党の出版物と通信、放送には、全社会の金日成主義化を促進し、社会主義大建設を力強く推し進めるべき重大な課題が提起されています。この重大かつ栄誉ある課題を立派に遂行するためには、新聞革命、報道革命、出版革命の炎をさらに燃え上がらせなければなりません」

 1974年5月7日の朝鮮記者同盟中央委員会第3期第5回全員会議拡大会議での結語『わが党の出版・報道手段は、全社会の金日成主義化に寄与する強力な思想的武器である』で、出版・報道部門で一大革命を起こすという方針を打ち出した。

 総書記は、出版・報道手段の基本使命と任務は、社会の全構成員を真の金日成主義者にし、社会を金日成主義の要求どおりに改造し、ひいては、世界革命の勝利を達成することに大いに寄与することであると指摘した。そして、出版・報道手段がその歴史的使命を果たすための根本原則と、新聞革命、報道革命、出版革命の炎をさらに燃え上がらせるための課題を具体的に提示した。

 総書記は、出版・報道活動において革命的転換をもたらす鍵を党機関紙の改善に見いだし、『労働新聞』における社説革命から新聞革命を起こし、それを手本にして出版・報道部門で革命の炎が燃え上がるようにした。

 また、報道革命の火の手をあげるため、通信報道分野では、報道の政治的水準を高めることに重点を置きながら通信報道を公式化し、情勢のニュースを迅速かつ正確に処理し、対外通信を強化するようにし、放送報道分野では、放送音楽を抜本的に改善することに重点を置き、放送編集活動全般と放送話術、テレビ放送の画面において革新を起こすよう導いた。こうして、出版・報道活動には革命的転換がもたらされ、出版・報道手段は金日成主義出版・報道手段としての真面目を備え、その戦闘的使命をより立派に果たすようになった。

 金正日総書記は、全社会の金日成主義化の要求に即して保健医療、スポーツを発展させ、社会主義的生産文化、生活文化を確立することに精力を傾けた。

 総書記は1974年4月、保健医療部門の責任幹部への談話で、チュチェの医学を基本にして人民保健医療事業を発展させるための課題を示し、その実現をめざすたたかいを精力的に指導した。

 党の予防医療方針を貫徹するため、衛生知識の宣伝と衛生防疫活動を改善強化し、種々の疾病と公害を未然に防止することに力を入れ、医師区域担当制をさらに強化するようにした。

 総書記は、医療サービスに革命的転換をもたらすことに深い関心を払った。

 医療従事者にたいする教育活動を強化し、彼らが革命的同志愛と人間への真心のこもった愛情をもって患者の治療に当たるようにするとともに、高麗治療法を広く受け入れるよう対策を立てた。

 総書記は、朝鮮の医科学技術を世界の発展趨勢に即応して急速に発展させることにも大きな力を注いだ。

 医学科学院をはじめ、科学研究機関をさらに強固に築き、それにたいする整然とした指導体系を確立するようにした。そして、数度にわたって、科学研究活動を強化し、外国との科学技術交流を活発におこなって先進医科学技術を大いに受け入れるべきであると指摘した。また、医学教育の質を一段と高め、医療従事者の間に学習気風を確立して水準を高めるようにした。

 総書記は、スポーツの発展に深い関心を払った。

 スポーツの大衆化方針を貫徹するため、スポーツにたいする社会的関心を高め、すべての勤労者をスポーツ活動に積極的に参加させるための措置を講じた。そして、1979年4月には「9〜10月人民体力検定月間」を新たに制定し、同年6月には「模範スポーツ郡創造運動」を提案し、大衆スポーツ活動をいっそう活発に繰り広げるようにした。また、全国青少年・学生種目別スポーツ競技大会を伝統化して学校のスポーツ活動を発展させるようにした。

 総書記は、大衆スポーツとともに専門スポーツと国防体育の発展に大きな力を入れた。

 思想戦、闘志戦、速度戦、技術戦の方針を提示し、朝鮮人の体質に合った主体的な戦術体系を確立し、訓練を強化して、すべての種目を世界的水準に引き上げるようにした。特に、サッカー、ボクシング、女子バレーボール、射撃、卓球などの種目を発展させるために精力的な指導をおこない、国際競技で優秀な成績をおさめるよう導いた。そして、スポーツを科学的に発展させるため、体育大学の教育活動を強化する一方、各道に体育専門学校を設けるようにした。また、スポーツ技術協会とスポーツ科学研究所の役割を強めてスポーツ科学技術を発展させ、スポーツ部門の物質的・技術的土台を近代化するようにした。

 総書記は、社会主義的生産文化と生活文化を確立することにも力を注いだ。

 1975年7月1日の咸鏡南道および検徳鉱山の幹部への談話で、工場、鉱山で労働者階級の生産文化と生活文化を創造し、それを都市と農村に普及させるという方針を提示した。

 1975年7月、検徳鉱山を訪ねた総書記は、検徳の労働者は、生産だけでなく、人々の思想を改造し技術を革新し、社会主義的生産文化と生活文化を確立するうえでも全国の模範となり先頭に立つべきだと述べた。そして、検徳鉱山に宣伝カーや吹奏楽器などの文化娯楽器具を送るとともに、鉱夫たちの仕事と生活に気を配り、すべての問題を解決した。こうして、検徳の労働者は、生産文化と生活文化を確立するうえで全国の先頭に立ち、全国各地の工場、企業、協同農場は検徳の模範を見習うようになった。

 総書記は1978年8月、工場、企業の党組織と3大革命グループ、勤労者団体組織が生産文化を確立するために力を傾けるようにした。

 総書記は、人々の社会文化生活を改善するようはからった。そのために、人々が服装をはじめ、身だしなみを整え、勤労者に文化的な生活を十分に保障し、社会秩序と公衆道徳をきちんと守るよう導いた。また、都市と農村をより美しく整備し、勤労者が古い生活習性をなくし、社会主義的生活様式を確立するようにした。

 金正日総書記の賢明な指導により、勤労者の全般的な文化・技術水準が高まり、全社会にチュチェの革命的文化がみなぎるようになった。





inserted by FC2 system