金正日総書記革命活動史

第2章 先軍革命指導の開始、チュチェの革命偉業継承のために

第3節 革命と建設に対する金日成主席の指導を補佐して

 金正日総書記は、大学で科学探究と思想・理論活動、社会・政治活動などハードな日程をこなす一方、金日成主席の現地指導にしばしば随行して、革命と建設にたいする主席の指導を精力的に補佐した。

 金正日総書記は、党の路線と政策を作成するための主席の活動を精力的に補佐した。

 当時、朝鮮では、社会主義革命が勝利して社会主義制度が樹立され、社会主義建設が全面的に推進されていた。こうした環境は、それに適した路線と政策の策定を切実に求めていた。

 金日成主席は、革命発展の要請を深く洞察し、新しい環境に適した路線と政策を打ち出すために精力的に活動した。

 総書記は、当該部門の実態をつぶさに把握し、それにもとづいて党の路線と政策を作成する主席の活動を補佐した。

 まず、歴史的な朝鮮労働党第4回大会の報告を作成する主席の執筆作業を積極的に助けた。第4回党大会を控えて、政治、経済、文化、軍事、国際関係など各分野の膨大な資料や文献を収集、整理し、主席が執筆した大会報告を清書して差し上げた。

 総書記は、さらに主席が進めていた地方の党及び経済活動家昌城連席会議の準備作業を積極的に補佐した。

 主席は1962年7月、山間地帯の経済発展と人民生活向上のモデルとして定めた昌城郡の経験を全国に一般化するため、現地で地方の党および経済活動家昌城連席会議を準備していた。

 総書記は、参会者たちの見学対象として予定されていた昌城郡と朔州郡へ行って地方産業工場と協同農場の実態を調べた。これにもとづき1962年8月5日、『地方経済を発展させるためのわが党の方針の正当性』と題する論文を執筆した。

 この論文で、朔州郡の経験は、郡が決心してねばり強く党の方針貫徹に取り組むならば、地方工業と農業をさらに発展させ、人民の生活を十分向上させることができることを示していると強調し、具体的な数字と実際の資料によってそれを立証した。この論文で分析した資料は、昌城連席会議を準備していた主席にとって大きな助けとなった。後日、主席はこのことを回想して、昌城連席会議を開くときモデルケースを作り、文書の準備をするなどで難問が多かったが、会議がわたしの意図どおり順調におこなわれたのは金正日同志がわたしの意図と考えをすっかり見抜いてあらかじめいろいろと助けてくれたからだと語っている。

 総書記は『わが国の社会主義農村問題に関するテーゼ』を執筆する主席の作業も積極的に補佐した。

 1964年1月、主席に同行して温泉郡邑協同農場第7作業班を見て回りながら、農村の実態を詳しく調べた。そして、主席が当地の協同農場の作業班長と交わす話を聞きながら、主席が最近執筆中の農村テーゼで提起する問題は、農村の現状と社会主義農業発展の合法則的要求を正確に反映させている切実な問題であることを改めて感じたとし、社会主義農村建設において現実的に提起される諸問題についての自身の見解を主席に話した。総書記の見解を聞いた主席は農村テーゼで、数年内に農業現物税を完全に廃止し、農村の住宅建設に限らずすべての基本建設を国家が受け持っておこなうことを当面の課題として提示した。

 金正日総書記は、党活動と重要な政治行事を指導する金日成主席を補佐して精力的に活動した。

 まず、党活動を改善、強化するための活動を指導する主席を補佐することに第一義的な関心を払った。

 1963年2月、黄海北道にたいする主席の現地指導に随行した際、党活動家たちに、党活動の中心は一にも二にも主席の教示を立派に貫徹することであるとし、その後、各道・市・郡党委員会を訪ねても、すべての党活動家は、常に主席の教えを深く研究し実行することに重点を置いて活動すべきであるとし、その具体的な方向と方途を示した。

 総書記は、党活動においてチョンサンリ精神、チョンサンリ方法を具現して、すべての活動を対人活動、政治活動へと転換させるよう導いた。

 1963年3月、南浦市党委員会を訪ねては、幹部がチョンサンリ方法の要求どおり現地へ行って労力配置、技術管理、設備管理を正しくおこなうよう助ける方法を教え、同年8月には信川郡へ出向き、里党の活動家が農場の実態を詳しく把握して農業に対する舵取りの役割を正しく果たすよう啓発した。そして、各級党組織が政治活動を先行させて党員と大衆を党政策の貫徹へと奮起させ、政治的方法、特に、模範による感化教育と解説対話の方法で人々を教育するよう導いた。

 総書記は、重要な政治行事を指導する主席を立派に補佐した。

 1963年8月、両江道にたいする主席の現地指導に随行しながら、主席を迎えて行う祖国解放18周年慶祝行事を最上の水準でおこなうための準備活動をみずから手配し指導した。主席を丁重に迎えることに基本を置いて幹部壇を配置するようにし、大衆示威隊伍の編成、行進の順序と方向などを検討して欠点を正し、提起されるすべての問題を主席を丁重に迎え、大衆に不便がないようにする原則で解決するようにした。そして、マスゲームの総ざらいも指導し、祝賀宴会の準備にも関心を払った。

 こうして、恵山市での慶祝行事は、地方でおこなわれる中央クラスの大きな行事として、高い政治・思想的水準で挙行された。

 金正日総書記は、国防力を強化するための金日成主席の指導を積極的に補佐した。

 金正日総書記は、次のように述べている。

 「国防力を強化しなければ、国と人民の安全を保障することも、経済建設を順調に進めることもできません。国防力を強化するのは、革命と建設の運命にかかわる死活の要求です」

 総書記は、主席とともに先軍革命指導の道を歩みながら、人民軍を不敗の革命武力に強化するための活動を精力的に指導した。

 1963年2月6日、総書記は主席に同行して最前線に位置する大徳山陣営を訪れ、朝鮮人民軍の指揮官たちに『人民軍を一当百の革命武力に強化しよう』という談話をおこなった。この談話で主席が打ち出した「一当百」というスローガンの本質的要求は、すべての軍人が防御においてのみでなく、攻撃においても一人で百人を相手どることができるように準備することだとし、人民軍を「一当百」の革命武力に強化するためには、軍人に対する政治・思想教育を強化して、彼らを軍事技術的に、肉体的にしっかり備えさせ、陣地を強固に築くことが重要であるとし、その方法を具体的に示した。

 さらに「一当百」の建軍方針を貫徹するため、人民軍各部隊にたいする主席の現地指導を補佐しながら、軍人を政治的、思想的に、軍事技術的にしっかり備えさせるようにした。

 1963年7月にはある航空区分隊を訪れ、飛行士の最も重要な任務は主席がいる平壌の空を守ることだと言った。そして、人民軍部隊を訪れるたびに、軍人の間で忠実性を培う教育と革命伝統教育を強化する一方、階級的教育と戦争に対する観点を正す教育を強化して、彼らに階級の敵に対する敵愾心と戦争に対処できる思想的覚悟をもたせるようにした。そして、軍人を軍事技術的に備えさせるため、あらゆる訓練を国の実情と現代戦の要求、チュチェ戦法にもとづいておこなうようにし、航空区分隊を訪れては革命的な思想と高度の技術をもって戦闘準備を完成すべきだとし、自分の飛行機に精通するのみでなく敵機についてもよく知ってこそ、その弱点をつかみ、戦術的優位によって敵を打ち破ることができると強調した。同時に、前線区分隊に出向いて、防御工事に力を入れるよう指導した。

 総書記は、全人民武装化と全国土要塞化を実現するための主席の指導を積極的に補佐した。

 1963年8月、黄海南道信川郡をはじめ、各道、市、郡にたいする主席の現地指導に同行して、全人民武装化の徹底した実現に努め、同年12月には黄海北道隣山郡を訪れ、全土を難攻不落の要塞にするための事業を強力に推し進めるようにした。

 金正日総書記は、社会主義経済建設と人民生活向上のための金日成主席の指導を補佐した。

 総書記は、主席が示した第1次7カ年計画の基本的課題の一つである人民経済の全面的技術改造の促進に大きな力を注いだ。1961年9月、主席に同行して黄海製鉄所(当時)を訪れ、すべての生産工程の機械化を推し進め、全面的オートメ化へ移行する準備を整えるようにした。そして1963年2月、南浦製錬所(当時)をはじめ、各工場、企業にたいする主席の現地指導に同行したときには、有害労働をなくし、骨の折れる労働を機械化、半オートメ化する対策を立てさせ、その後にも数多くの工場、企業を訪ねて幹部と勤労者を集団的技術革新運動へと奮い立たせた。

 1962年8月、信川郡セナル農業協同組合(当時)を訪ねては、農場の機械化状況を具体的に調べ、この農場が農業の機械化を実現するうえで先頭に立つよう導いた。また、寺洞区域梨峴里をはじめ、各農場に出向いては脱穀作業の機械化の水準をさらに高めるよう具体的な方向と方法を示し、斜面畑での作業まで機械化するよう幹部たちを啓発した。

 総書記は、人民生活を向上させるための主席の指導を積極的に補佐した。

 1962年7月、昌城郡、朔州郡に対する現地指導についで1963年8月、咸鏡南道と両江道にたいする主席の現地指導に同行しながら、徳城郡と豊山郡(今日の金亨権郡)をはじめ、多くの山間部の郡を訪ね、必要な対策を立てるよう幹部を導いた。

 さらには、人民生活を向上させるための商品供給事業の改善に深い関心を払い、中央と地方の商店を見て回りながら、良質の商品を多く確保して人民に供給するようにした。ことに1961年5月5日、中央第1百貨店(当時)を見て回り、幹部に『商業従事者は人民のための商業サービス活動を絶えず改善すべきである』という談話をおこない行い、1963年8月には豊山邑総合商店(当時)に立ち寄って、しょう油、みその生産供給状態とその味まで確かめ、それを主席に見ていただき、良質の商品を供給するための対策が立てられるようにした。

 金正日総書記は、社会主義文化建設にたいする金日成主席の指導を精力的に補佐した。

 総書記は、文学・芸術を党性が強く、労働者階級的で主体的な文学・芸術に発展させようとする主席の構想と意図を実現することに力を注いだ。

 1961年3月、国立演劇劇場に出向いて演劇創作状況を確かめ、社会主義建設で革命的大高揚を起こしている労働者の英雄的闘争を反映させた作品をより多く創作して公演する課題を示した。そして、1963年6月初には朝鮮劇映画撮影所を訪れ、主席に限りなく忠実な自主的人間をリアルに描いた映画を多く創作することを中心的課題として、映画制作に根本的な転換をもたらすよう強調した。

 総書記は、テレビ放送を創設するという主席の構想を実現するため精力的に活動した。

 放送設備の製作に当たるメンバーに、テレビ放送設備を自分の力で作るという自力更生の革命精神で難しいテレビ放送創設事業をなし遂げなければならないと鼓舞した。そして、この事業に大衆の力を極力動員するようにし、みずからテレビ放送設備製作メンバーの一員となって、技術文献や資料、資材など難渋している問題を一つ一つ解決し、深夜に郊外にまで出てテレビ放送の送受信試験を指揮した。

 こうして、テレビ放送を開始する準備が整い、1963年3月にテレビ放送の創設が宣言され、金日成主席に大きな喜びを与えることができた。

 スポーツを大衆化して国のスポーツ技術を発展させ、マスゲームを発展させることに深い関心を払った総書記は1961年7月5日、内閣直属体育指導委員会の責任幹部への談話『スポーツで主体性を確立し、マスゲームの創作に革命的転換をもたらすべきである』で、スポーツを発展させ、マスゲーム『労働党時代』をマスゲームの手本とするための課題を示した。

 金正日総書記は、革命と建設にたいする金日成主席の指導を補佐する過程で、主席の指導風格と指導芸術を全面的に深く体得し、人民の指導者として身につけるべき幅広い眼識と資質を備えていった。





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