金正日総書記革命活動史

第1章 誕生と生い立ち、学生青少年を金日成主席の真の息子・娘として準備させるために
 
第1節 白頭山密営で誕生、偉大な革命家に成長

 

 金正日総書記は1942年2月16日、白頭山密営(両江道三池淵郡)で誕生した。

 白頭山密営は1930年代後半期から1940年代の前半期まで、抗日大戦の司令部が位置していた朝鮮革命の策源地であり、中心的指導拠点であった。

 金正日総書記が誕生した当時は、世界的規模で人民の反ファッショ解放戦争が激烈に展開され、朝鮮では祖国解放の大業が主動的に推進されていた歴史的な時期であった。

 抗日革命闘士たちは、抗日大戦のさなかにパルチザンの息子、白頭山の息子として誕生した金正日総書記を「白頭光明星」とたたえた。彼らは、白頭山密営の周辺と国内各地の樹木に「ああ朝鮮よ、同胞よ、白頭光明星の誕生を告げる」「白頭山に金日成将軍の継承人 白頭光明星誕生」「白頭光明星輝く朝鮮の未来燦爛たり 独立朝鮮の大幸運」「白頭山に差し昇った白頭太陽星2千万よ万邦に誇ろう」などの文字を記して、祖国の洋々たる未来に対する大きな期待を表示した。

 金正日総書記の家庭は、最も愛国的で革命的な闘士の家庭であった。

 父・金日成主席は、朝鮮人民が数千年の歴史において初めて迎え、高くいただいた偉大な領袖であり、社会主義朝鮮の始祖である。

 金日成主席は、不滅のチュチェ思想、先軍思想を創始してチュチェの時代を開き、人民大衆を自己の運命の主人、歴史の自主的な主体として押し立てた思想・理論の英才であった。主席は、先軍革命指導によって祖国解放の歴史的偉業をなし遂げ、民族の自主権を守り、アメリカ帝国主義の武力侵攻に抗する祖国解放戦争を勝利に導き、この地に人民大衆が主人となった社会主義制度を打ち立てた先軍革命の開拓者であり、創造と建設の英才であった。主席は、革命の道に立ったときから以民為天(人民を天のごとくみなす)を座右の銘とし、人民のために全生涯をささげた人民の慈父であった。

 金正淑女史は、金日成主席の先軍指導に従い、祖国の解放と人民の自由と幸せのための闘争に一生をささげた抗日の女性英雄であった。

 金正淑女史は抗日大戦の日々、困難な革命任務の遂行と数多くの戦闘で優れた指導手腕と無比の勇敢さ、犠牲的精神を発揮して、抗日女性英雄としての風格を余すところなく示した。特に解放後、新しい祖国建設と建軍偉業の実現において不滅の貢献をした。金正淑女史は、チュチェの革命偉業、先軍革命偉業継承の起源を開き、生涯を終える最期の瞬間まで、先軍革命偉業継承の基礎を強固に築いた革命の偉大な母であった。

 高祖父・金膺禹は、アメリカ帝国主義の侵略船「シャーマン」号を撃沈する戦いで偉勲を立て、「シナンドア」号を撃退する戦いの先頭に立って勇敢に戦った。曾祖父・金輔鉉と曾祖母・李宝益は、子・孫たちを革命の道に立たせ、彼らの革命闘争を積極的に助けながら不退転の革命精神をもって日本帝国主義に抗してたたかった熱烈な愛国者であった。

 祖父・金亨稷は、祖国の独立と人民の自由と解放のために一生をささげた不撓不屈の革命闘士であり、朝鮮の反日民族解放運動の卓越した指導者であり、民族主義運動から無産革命への方向転換をなし遂げた偉大な先駆者であった。祖母・康盤石は、祖国の解放と女性の社会的解放のためにすべてを尽くしてたたかった不撓不屈の革命闘士であり、朝鮮における女性運動の優れた指導者であった。

 従祖父・金亨権と叔父・金哲柱、外叔父・金基俊と金基松も早くから抗日革命闘争に身を投じ、祖国解放偉業に一命をささげた不撓不屈の革命闘士であった。

 代を継いで家系のすべての人が国の独立と人民の自由と解放のために熱烈にたたかった愛国的で革命的な家庭は、金正日総書記が早くから人民の指導者、民族の偉大な息子としての風格を備えて成長するうえで貴重な土壌となった。

 金正日総書記は、抗日大戦と新しい祖国の建設、祖国解放戦争の苦難に満ちた厳しい歴史的環境のなかで偉大な革命家に育った。

 金正日総書記は、幼少のときから人並み外れた優れた天稟を備えていた。

 総書記は物事に対する鋭い観察力と非凡な探求心、創造的な思考力を身につけていた。あらゆる物事を真剣に詳しく観察しながら、その事理を明かすために問題を奇抜に設定して最後まで掘り下げた。 そして、一桁の計算をするのも難しい年で、すでに物事の量的関係を単に算数的にだけでなく、新しい眼識で考察し、 自然現象と社会現象を一つの理に結びつけて分析、判断した。それで、人々は正日少年を天が賜った神童だと称するのだった。

 総書記は、太い胆力と剛毅な意志を身につけていた。幼少のころ白頭山の吹雪の中で育ちながら、白頭山の精気と気象、気質をそっくりそのまま受け継いだ。そうして、何か一つを考えても大胆に大きなスケールで構想し、いったん始めたことは自分の力でけりをつけるまでやり通す強靭な気性、そして、決心したことは最後までやり遂げる性格を身につけていた。

 総書記は熱い人間愛と大きな度量、気さくな品性を備えていた。

 人々とはいつもおおらかに応対し、友だちを心から愛し、彼らのためであればどんな大事なものでも惜しみなく差し出した。そして、人の悩みや苦しみをわがことのように思い、それを解決するために力を尽くした。

 総書記は、いつも生活を質素にした。幼稚園と小学校に通うとき、みなと同じように綿の靴下にゴム靴か運動靴を履き、服もみなと同じ服を着て、かばん代用の風呂敷包みを持って通った。

 総書記は、両親の革命的な教育と影響を受けて育った。

 父から祖父が座右の銘としていた「志遠」の高志と代々国と革命に身を投じてきた万景台の革命一家、抗日革命烈士、児童団員の話を聞き、幼心に貴い革命精神と階級意識を育んだ。同時に自然と社会、朝鮮革命と世界革命、古代から現代史に至る有名人、経済と軍事問題などに関する貴重な話を聞き、知識の幅を広げていった。

 総書記は、国と人民のために不眠不休の労苦を尽くす父の精力的な革命活動を目の当たりにしながら、大衆を巧みに導く卓越した指導力、人民に対する献身的奉仕精神、高邁な徳性をそのとおり学び取った。たびたび普通江改修工事場や田植え最中の農村へ行って働く母の手助けをしながら、勤労人民に対する愛情と献身的奉仕精神、労働にたいする勤勉さを培った。

 両親から受けた革命的な教育と影響は、正日少年の優れた品性をさらに気高いものにし、早くから偉大な革命家としての品格を完璧に備えていけるようにした。

 総書記は、現実にたいする体験を通じて人並み外れた資質と品性をいっそう立派に備えていった。

 抗日大戦の銃声を聞きながら生活の第一歩を踏み出し、抗日革命闘士たちのなかで育ちながら、幼いときから剛直で太っ腹な性格をもち、精神的に早熟であった。

 新しい祖国建設の時期、平壌学院や保安幹部訓練所、第1中央軍官学校など正規武力建設の指導に当たる両親と行をともにする過程で銃剣の貴さを深く体得し、先軍総帥としての品格と資質を備えていった。

 そして、各都市と農村を訪ねる過程で、新しい祖国の建設に立ち上がった人民の建国熱意とたたかいの姿、金日成将軍に従う彼らの燃え上がる忠誠心と底知れない力に大いに励まされ、国と人民のために自身のすべてをささげる覚悟をかためていった。

 特に戦火の厳しい日々、総書記は人々が数十年かかっても体得できない最も貴いものを体得した。

 総書記は祖国解放戦争の苦難の日々、町と村を焼け野原にしたアメリカ帝国主義にたいする敵愾心を燃え上がらせ、戦う朝鮮人民の英雄的気象を通して勝利する祖国の明日にたいする信念をかたくした。そして、将子山のソルメ谷で党創立5周年を記念して妹とともに2本のゴヨウマツを植え、少年たちに1本の木でも愛護する精神を植えつけ、祖国の山野をいっそう緑化する決意をかためた。また1952年6月、平安北道を現地指導する父に同行して、米軍機と戦う人民軍飛行士の勇敢な戦闘ぶりや戦時食糧増産に立ち上がった農民の姿を目の当たりにし、父から楽元の10名の党員の話を聞いたりして、必勝の信念をさらに強くした。

 1952年6月下旬から8月中旬まで最高司令部で過ごした総書記は、7月10日、父から授けられた拳銃を革命のバトンとして受け、銃を手にして革命を最後までなし遂げる誓いを新たにし、最高司令部の作戦台で卓抜な軍事戦法と用兵術、革命的楽観主義、真っ向から突進する意志と戦術を体得した。

 総書記は、戦争の重荷を一身に担って軍隊と人民を戦争の勝利へと導く金日成将軍の卓抜な洗練された指導力と強靭な意志、戦争の困難な状況下にあっても人民と人民軍兵士の生活に深い関心を払う高邁な姿を身近に目撃した。そして、敵の爆撃を誘導した反党反革命分子らの悪辣な策動によって最高司令部が危険にさらされたこともじかに体験した。

 こうしたことを目撃し体験した総書記は、祖国と人民の運命は、全的に金日成将軍にかかっており、金日成将軍がおられてこそ戦争の勝利と明日の繁栄があることを心底から感得し、金日成将軍を擁護し、より立派に忠義を尽くす決意をかためた。

 総書記は、自身のこうした信念と意志を込めて1952年8月につくった作品『祖国のふところ』で、お日さまのように明るい祖国のふところは将軍さまのふところだと歌い、1953年6月1日には、将軍さまが健やかであれば朝鮮人民は幸せであり、将軍さまをよく守ってこそ祖国と人民の運命が救われるという祝福の手紙を送っている。こうした信念と意志は、その後の金正日総書記のすべての活動の礎となった。

 総書記は、学習と組織生活を通じて革命家としての風格をいっそう立派に備えていった。

 厳しい祖国解放戦争の時期、戦う朝鮮の息子、娘らしく学習も生活も戦闘的にせよと言った金日成将軍の教えを体して、1年の間に2学年の課程を突破した。そして1952年11月、万景台革命学院4学年に編入した後、金日成将軍の著作と党の路線と政策を解説した図書、そして新聞、雑誌を熱心に読み、学校で教わるすべての科目に精通しただけでなく、自然と社会に対する多方面的な知識を習得するために鋭意努力した。

 総書記は、万景台革命学院に在学中であった1953年1月25日、「朝鮮のために学ぼう!」というスローガンを提唱し、学友の間で学習熱意を高めるようにした。そして、学友たちに働きかけて前線支援活動や演芸宣伝隊活動も活発に展開した。

 幼いころの両親の訓育と影響、二度の革命戦争と壮大な社会的変革に対する現実体験は、金正日総書記に偉大な革命家、先軍総帥としての風格を立派に備えさせていった。





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